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メッセージ - 講解説教(旧約)カテゴリのエントリ

イザヤ書講解説教メッセージ

クシュに対する宣告 - 神に伺い出る異邦人への憐れみ(イザヤ18章)
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【概要】

本日の説教は、イザヤ書18章の預言を中心に、異邦の国々に対する神の愛と裁き、そして混沌の時代にあっても主に信頼し歩む大切さを示しています。神はどんな状況下にあっても、心から祈る者に変わらぬ恵みと救いを与えてくださいます。

【聖書箇所】

・イザヤ18:2-7

・(また、九州やエチオピアへの預言の背景を示す文脈として)イザヤ20章の預言の一部も参照

【慰めの言葉】

主は、灼熱の太陽の下に現れる濃い雲のように、激しい日々の中でも心に涼やかな慰めと安心を与えてくださいます。

【励ましの言葉】

どれほど混乱した世の中であっても、神は常に私たちの傍におられ、信仰を持って祈り続けるならば、その恵みと導きが必ず実を結ぶと励まされています。

【戒めの言葉】

世俗の喧騒や祭りの騒ぎに流されることなく、常に神の声に耳を傾け、自らの心を清めることが求められています。もし神から離れてしまえば、かつてイスラエルや周囲の国々に見られたように、厳しい懲罰が訪れる恐れがあります。

【勧めの言葉】

家庭や教会での礼拝、祈り、賛美を通して、常に神の御顔に触れ、その恵みを受け入れる生活を大切にし、互いに助け合うことが強く勧められています。

【悔い改めの促しの言葉】

もし私たちの心が誤った道に迷い、神から疎遠になっていると感じるならば、深く悔い改め、真摯な心で主の元へ立ち返るよう促されています。

【***詳細***】

本日の御言葉は、まずイザヤ書18章2節から7節の預言の朗読から始まりました。この箇所では、遠い異邦の国―その国は古代において大国として恐れられ、背が高く肌の滑らかな民が住む国―に対して、迅速な使者がパピルスの船に乗り、神の命令を伝える様子が描かれています。ここでの言葉は、ただ単に遠い昔の歴史的事象を記述するのではなく、現代における私たちへの重要な示唆として伝えられているのです。

この異邦の国、後にエチオピアとして呼ばれる国は、その国力の強さと多くの川が流れる肥沃な土地として知られていました。しかしその一方で、周囲を取り巻く強大な国々、特にアッシリアの脅威に晒される中で、神は自らの御計画に従って、この国に特別な役割と祝福を備えられたと預言されています。預言者は、この国の民へ、迅速な使者を送り、神のお告げと共に、彼らが悔い改めと内省、そして徹底した信仰の歩みを進めるよう促しています。

また、預言の中には、激しい太陽が照りつける中で突然現れる濃い雲の比喩が登場します。この比喩は、暑い日に現れる日陰と梅雨のような恵みの雨を想起させ、極めて過酷な環境下でも神がその民に慰めと潤いを与えてくださるという希望を示しています。つまり、どんなに不安定な時代や環境であっても、主は私たちの上に常に御顔を輝かせ、必要とされる恵みを注いで下さるという確固たる保証なのです。

さらに、聖書の中では、エチオピアとユダヤ人以外の民との交わりが強調されています。新約聖書においては、エチオピアの宦官がイエス・キリストの御名に預かり、洗礼を受けた出来事が記されており、これは異邦人に対しても神の御恵みが満ち溢れていることの表れです。エチオピアという遠い国が、古代より神の御心に従い、その歴史の中で祝福を受けたことは、私たちにとっても大きな励ましです。国境や人種、文化の違いを超えて、神の愛と救いは普遍的に与えられているという真理がここにあります。

一方で、預言は厳しい戒めも伴っています。たとえば、かつてイスラエルやその周辺の国々が、神への不従順と誇りによって災いを招いた歴史を思い起こさせます。もし私たちが、家庭や教会での祈りを疎かにし、世俗の誘惑に流されるならば、神の厳しい裁きや懲罰が下される可能性があるのです。これは決して罰としてではなく、真に神との正しい関係を保つための必要な戒めとして示されています。私たちは、日常のあらゆる瞬間において、神の御言葉を心に刻み、互いに励まし合いながら歩むことが求められているのです。

現代においても、世界は依然として戦争や政治的不安、異常気象など多くの試練にさらされています。こうした混乱の中で、私たちは一層、主に信頼し、その御顔を仰ぎ見る必要があります。たとえ外の世界が騒然としていても、家庭や教会という聖なる共同体の中では、神の御恵みと平安が豊かに流れ出しています。私たちが真摯な祈りと賛美に励むならば、どんな苦難も乗り越えることができると、聖書は私たちに教えてくれています。

また、エチオピアやセバの女王が遠い南から知恵を求め、またエチオピアの宦官が信仰によって新たな命を得た出来事は、神が歴史の中でいかに広く恵みを注いできたかを示す象徴です。これにより、私たちも自分自身の立場や背景に関係なく、主の計画に従って歩むことができるという希望を抱かされます。神は常に「悔い改めに立ち返る者」に対して、恵みと祝福を惜しみなく与えてくださるお方であり、それは今を生きる私たちにとっても変わることのない真理です。

そして、説教の終盤に差し掛かるにつれ、私たちは主の祈り―「天にまします我らの父よ…」―の深遠な意味に思いをはせるように促されます。この祈りは、単なる形式的な言葉ではなく、私たち一人ひとりが神との親密な交わりを実感し、絶えず心を新たにするための道しるべとなるものです。祈りを通して、日々の生活の中に神の御顔の光を迎え入れるとき、私たちは確固たる信仰によってその混乱や恐れを打ち破る力を得るのです。

また、教会における礼拝や家庭での小さな祈りの時間が、私たちの心だけでなく、共同体全体に神の恩寵を呼び起こすことを強調されています。互いに励まし合い、助け合うことの大切さは、単に個々の信仰の力を高めるだけでなく、全体としての霊的な強さへと結びついていきます。神が常に私たちに向けられるその慈愛の光を絶やさずに、困難や試練の中でも前向きに歩むことこそ、真に祝福された生き方であると説かれているのです。

最後に、私たちはこの説教から、混沌とする現代の中でも神の御言葉に従い、悔い改めと祈りを通して心を清め、主の御顔に近づくことの重要性を再認識することが求められていると理解します。たとえ外の世界がいかに荒れ狂っていても、神は眠ることなく、常に私たち一人ひとりの上に御顔を照らし、その愛と恵みを注いでくださいます。私たちが真摯な態度で主に仕え、互いに励ましながら日々を送るならば、その祝福は決して尽きることはありません。どうか、私たちがこの御言葉に導かれ、確かな信仰を持って歩む日々を重ねることができますように。

【結論】

結局のところ、私たちは混乱と不安に満ちた時代の中でも、神の御言葉に従い、心から悔い改め、祈りと信頼をもって主の恵みを受けることが最も大切です。エチオピアへの預言とその歴史的証しは、国境や時代を超えて神の愛が広がっていることを示しています。常に主の御顔に近づき、その恵みの中で歩む決意を新たにし、平和と希望を抱いて生きていきましょう。

なすべき正しい事を知っているなら(2サムエル記14:1-17)
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ダビデは、彼の長男アムノンが妹のタマルを犯した事について、特に何もせず2年放置したため、タマルの兄アブシャロムがアムノンを復讐で殺してしまう事件となってしまった。
それから3年が経ち、ダビデはアブシャロムの事を「気にかけて」はいたものの、実質的には、放置状態であった。
将軍ヨアブは、この状態は良くないと、一計を案じ、テコア出身のある賢い女を喪に服しているかのように装わせ、王の元に行って「これこれの事を語りなさい」と言付けさせた。

『テコアの女は王のもとに行き、地に伏して拝し、「王よ、お助けください」と言った。王は女に言った、「どうしたのか」。女は言った、「まことにわたしは寡婦でありまして、夫は死にました。つかえめにはふたりの子どもがあり、ふたりは野で争いましたが、だれも彼らを引き分ける者がなかったので、ひとりはついに他の者を撃って殺しました。
すると全家族がつかえめに逆らい立って、『兄弟を撃ち殺した者を引き渡すがよい。われわれは彼が殺したその兄弟の命のために彼を殺そう』と言い、彼らは世継をも殺そうとしました。こうして彼らは残っているわたしの炭火を消して、わたしの夫の名をも、跡継をも、地のおもてにとどめないようにしようとしています」。』(2サムエル記14:4-7)

彼女が訴えた状況は、ダビデがその時陥っている状況にとても似ている。
ダビデの子も、一方が一方を殺し、生き残っている方が、ないがしろにされている状態だ。
元々、アブシャロムに殺されたアムノンは、律法では絶たれるべき罪を犯したのに、一切咎めなく2年も放置されたままだった。そこをアブシャロムが復讐したのだが、彼は事実上、逃亡先に追放されたままの状態だ。
ダビデはそんなアブシャロムに、何の処断も下さないまま、今度は三年も放置したままの状態である。

『王は女に言った、「家に帰りなさい。わたしはあなたのことについて命令を下します」。テコアの女は王に言った、「わが主、王よ、わたしとわたしの父の家にその罪を帰してください。どうぞ王と王の位には罪がありませんように」。』(2サムエル記14:8-9)
ダビデ王は、彼女が「こうして下さい」と具体的な訴えを言う前から、その訴え内容を察知し、家に帰りなさいと言った。
彼自身に身に覚えがあるから、彼女が訴えたい内容は分かっていたのだろう。

『王は言った、「もしあなたに何か言う者があれば、わたしの所に連れてきなさい。そうすれば、その人は重ねてあなたに触れることはないでしょう」。女は言った、「どうぞ王が、あなたの神、主をおぼえて、血の報復をする者に重ねて滅ぼすことをさせず、わたしの子の殺されることのないようにしてください」。王は言った、「主は生きておられる。あなたの子の髪の毛一筋も地に落ちることはないでしょう」。』(2サムエル記14:10-11)
ダビデ王は、兄弟を殺した彼女の息子は保護され、死ぬことはない、と約束した。
ダビデがその処断を下した時、彼女は唐突に言う。

『女は言った、「どうぞ、つかえめにひと言、わが主、王に言わせてください」。ダビデは言った、「言いなさい」。女は言った、「あなたは、それならばどうして、神の民に向かってこのような事を図られたのですか。王は今この事を言われたことによって自分を罪ある者とされています。それは王が追放された者を帰らせられないからです。』(2サムエル記14:12-13)
彼女が「王は自分を罪あるものとしている」と言った道理は、すなわち、王は彼女に「兄弟を殺した息子は保護され死ぬ事はない」と処断したのに、王自身、それを守っておらず、「王が追放された者を帰らせられない」事だ。
すなわち王は、兄弟を殺した息子アブシャロムを放置したままにしているのに、他人にそのような処断を下すのは、矛盾している、と。

『人が、なすべき善を知りながら行わなければ、それは彼にとって罪である。』(ヤコブ4:17)
もしも、なすべき正しい事を放置したままにするなら、する程、よけいに物事を混乱させてしまう。
放置された側には、どんどん良くない感情が蓄積されて行き、さらには別の大きな罪を犯させてしまうきっかけを作ってしまう事にもなりかねない。

『わたしがこの事を王、わが主に言おうとして来たのは、わたしが民を恐れたからです。つかえめは、こう思ったのです、『王に申し上げよう。王は、はしための願いのようにしてくださるかもしれない。王は聞いてくださる。わたしとわたしの子を共に滅ぼして神の嗣業から離れさせようとする人の手から、はしためを救い出してくださるのだから』。
つかえめはまた、こう思ったのです、『王、わが主の言葉はわたしを安心させるであろう』と。それは王、わが主は神の使のように善と悪を聞きわけられるからです。どうぞあなたの神、主があなたと共におられますように」。』(2サムエル記14:15-17)

彼女はやはり知恵深い。
王よ、あなたはこれこれの悪いことを行っています、という裁く言葉で終わるのではなく、王は聞いて下さる方、王は滅んでいこうとする人を救って下さる方、王は民草を安心させて下さる方、王は神の使いのように善と悪を聞き分けられる方だから、自分は進み出て言う決心がついた、と、ダビデ王がどういう人格の持ち主であるかを突いて来て、そして最後を祝福の言葉で終えている。
私達も、目上の人に提言をする時は、このように相手がどういう良き性質を持っているかを突いて、祝福の言葉で終える知恵を身に着けたい。
そして私達が主に申し上げる時も、主がどのようなお方であるかを突く時、主はその祈りを聞いて下さる事が多い。(創世記18:25、32:9、2歴代誌20:6-9)

今回、ヨアブはこの知恵深い女を通して、ダビデが放置したままにしている事を先に進ませるよう促した。
『あなたの手に善をなす力があるならば、これをなすべき人になすことを/さし控えてはならない。あなたが物を持っている時、その隣り人に向かい、「去って、また来なさい。あす、それをあげよう」と言ってはならない。』(箴言3:27-28)
私達も、もし、為すべき正しい事を知りながら、また、その力が与えられておりながら、それを未だにしていないとするなら、今すぐ実行すべきである。

放置という対処 - いつ爆発するか分からない時限爆弾(2サムエル記13:28-39)
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ダビデ王子の兄妹間で起きてしまった姦淫事件について、親であるダビデも、加害者のアムノンも、果たされるべき責任は果たされず、指導や懲らしめも無いまま、また、被害者のタマルに対する正当な補償も手付かずのまま、二年の歳月が経った。
ダビデもアムノンも、特に何もしないままに時が過ぎ、事件の重大さは月日を追うごとに段々薄れて行ったようであるが、タマルの兄アブシャロムは、その間、沈黙を守りつつも、復讐心を心に育んでいた。
そして時が熟したと見られる時、彼は遂に行動を起こす。

『そこでアブサロムは若者たちに命じて言った、「アムノンが酒を飲んで、心楽しくなった時を見すまし、わたしがあなたがたに、『アムノンを撃て』と言う時、彼を殺しなさい。恐れることはない。わたしが命じるのではないか。雄々しくしなさい。勇ましくしなさい」。アブサロムの若者たちはアブサロムの命じたようにアムノンにおこなったので、王の子たちは皆立って、おのおのその騾馬に乗って逃げた。』(2サムエル記13:28-29)
アムノンは、自分が強姦した相手の兄・アブシャロムが主催する宴席で、酔って、上機嫌になった。
自分が陵辱した相手の兄の前で、酔って上機嫌になれるようなアムノンの神経を見ると、やはり彼は、「自分がした事」への後ろめたさは、持ちあわせていなかったのだろう。
そこを彼は刺され、殺された。
こうして、預言者ナタンを通して主が警告した通り、ダビデの家に、剣の災いと、姦淫の恥がつきまとうようになってしまった。
それは、ダビデ自身が犯した姦淫と血の罪の結果である。

『しかしダビデの兄弟シメアの子ヨナダブは言った、「わが主よ、王の子たちである若者たちがみな殺されたと、お考えになってはなりません。アムノンだけが死んだのです。これは彼がアブサロムの妹タマルをはずかしめた日から、アブサロムの命によって定められていたことなのです。それゆえ、わが主、王よ、王の子たちが皆死んだと思って、この事を心にとめられてはなりません。アムノンだけが死んだのです」。』(2サムエル記13:32-33)
このヨナタブは、アムノンに、タマルと二人きりになれる方法を入れ知恵をした、あのずる賢い男である。
つまり、彼がこれら一連の事を起こした張本人とも言える。
彼は「アムノンの友人」であると言いつつも、そのアムノンが殺されてしまった事について、動揺なく報告できる神経の持ち主であり、また、彼自身の言葉からは、自分もこの事を引き起こした事の一端を担っているというような悔悟の念が、微塵も感じられない。
『鉄は鉄をもって研磨する。人はその友によって研磨される。』(箴言27:17)
アムノンは実に、自分の身を滅ぼす「悪い友」を持ってしまったようである。

『彼が語ることを終った時、王の子たちはきて声をあげて泣いた。王もその家来たちも皆、非常にはげしく泣いた。』(2サムエル記13:36)
ダビデ王も、王子たちも、家来たちも、心から悲しんだ事だろう。こんな罪の応酬が、王家の中で起きてしまったのだ。
第三者から見れば、アムノンのような、妹を力づくで犯すような者は、死んで然るべしと思えるかもしれないが、しかしダビデは、彼ら全員の父である。どれ程、心刺されただろう。
また、私達の父なる神様は、私達・主にある兄弟姉妹同士でいがみあい、殺し合い、はずかしめ合うとするなら、どれ程心痛められるだろう。

『しかしアブサロムはのがれて、ゲシュルの王アミホデの子タルマイのもとに行った。ダビデは日々その子のために悲しんだ。アブサロムはのがれてゲシュルに行き、三年の間そこにいた。王は心に、アブサロムに会うことを、せつに望んだ。アムノンは死んでしまい、ダビデが彼のことはあきらめていたからである。』(2サムエル記13:37-38)
アブシャロムは長男を殺した後、母の故郷ゲシュルに逃れた。ゲシュルの王タルマイはアブシャロムにとって祖父である。
ダビデはアブシャロムを心にかけており、あれから3年も過ぎた後、ダビデはアムノンの事についても慰めを得たため、彼はアブシャロムに会う事を、切に望んでいた。

アブシャロムは、ダビデにとって、大事な長男アムノンを殺した、張本人である。
しかし、アムノンはアブシャロムに殺されても仕方ない事をしたのであるし、アブシャロムの殺意を汲み取りもせず放置し放ったらかしのままにしたのは、親であるダビデである。
だから、お互い会いたいとしても、いざ会った時、自分をどういう立ち位置に置いて接して良いのか、どう話を切り出せば良いのか、互いに分からなかったのではなかろうか。
それで3年という期間、互いに何も切り出せないままの「放置の状態」だったのではないだろうか。

もしダビデがアブシャロムを呼び寄せて、長男を殺した事について懲らすとするなら、それなら、なぜアムノンは懲らさずにいて、今更アブシャロムだけ懲らすのか、と言われると、何も言えないだろう。
ダビデは、「懲らすべき事を何もせず放置したまま」という、非常にまずい対応をした故に、それによって首根っこ掴まれ、子たちにもはや何も出来ず、そのダビデの「何も出来なさ」が、今度はアブシャロムをも滅びへと導いてしまう。

面倒くさい事をすぐに対処せず、「放置」したままにする。それは楽かもしれない。
しかし放置されればされる程、その期間に沸々と育ってしまう良からぬものがあり、やがてそれが爆発するなら、取り返しの付かない悲惨な事になってしまう事が多々あるという事も、忘れてはならない。

私達も、このダビデ王家のいびつな親子関係から、学ぶべきである。
親子同士、あるいは家族同士、普段からしっかり心を通じ合わしておくべきであり、もし何かを犯したなら、すぐに懲らすべきは懲らし、責任を取らせるべきはしっかり取らせるのだ。
そうでないと、状況はどんどんいびつに、不健全になって行ってしまい、ついには取り返しの付かない事になってしまうから。

人の心は、愚かさに繋がれている。
御言葉という杖によって、それが断ち切られる。
私達は普段から御言葉によって養われ、互いに教え戒めあいつつ、愚かさを除き去り、そうして信仰の継承をしっかりして行く者でありたい。

イザヤ書講解説教メッセージ
ダマスコに対する宣告 - 神の民と交わる異邦人への憐れみ(イザヤ17章)
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【概要】

本日の説教は、イザヤ書17章をもとに、ダマスコに対する神の宣告と、罪に陥った民への厳しい警告、そして悔い改めと神の憐れみの望みについて語られています。

【聖書箇所】

・イザヤ17:1‐11(ダマスコに対する宣告、イスラエルとの関わり、そして残された憐れみについて)

【慰めの言葉】

主は、厳しい裁きの中にも、ご自分につながり信頼する人々にわずかでも憐れみのしるしを残される方です。

【戒めの言葉】

私たちは、偶像やこの世の価値観に流されると、神の民としての誇りを失い、滅びの危機にさらされるという真実を、決して忘れてはなりません。

【悔い改めの促しの言葉】

自らの罪と弱さを認め、神の前に心から悔い改めることが、救いと再生への唯一の道であることを、改めて訴えています。

【勧めの言葉】

日々の生活において、真の信仰と献身をもって神に立ち返り、世俗的な誘惑に屈しない堅固な意志を持って生きるよう努めるべきです。

【***詳細***】

本日の説教は、まず冒頭で「イザヤ書17章」を読み上げながら、ダマスコに対する宣告の御言葉に触れています。冒頭の一節では、ダマスコが「取り去られ、町で滅び、廃墟となる」と預言され、これは単に古代のシリア地方の一都市が破壊されるという歴史的出来事だけではなく、私たちの罪深い状態、すなわち神に背いた結果としての霊的な廃墟状態を象徴していると語られました。説教者は、自分たちが犯してきた罪や、神と人との関係を乱すあらゆる行為を、全面的に投げ捨て、清められた存在となるよう、神に整え直していただくことを願う祈りを捧げます。

次に、説教はダマスコというシリア地方の中心都市が、かつてアラムという国の中で果たしていた重要な役割や、北イスラエル王国との活発な交流に触れます。当時、ダマスコは文化と交流の中心地として輝いていましたが、同時にその繁栄の影で不誠実な信仰や、偶像に頼る生活が横行していたと指摘されます。すなわち、イスラエルとの交流の中で、真実の神を信じる姿勢が薄れ、他国の価値観や神々に頼ろうとする態度が見られたため、神の怒りが下される結果となったのです。説教者は、これを現代のクリスチャンに対する警告としてとらえ、世の中の享楽や誤った価値観に流されると、結局は神から受けるべき憐れみさえも遠ざかってしまう現実を告げています。

また、イザヤ書の中で語られる裁きの中には、ただ断罪だけでなく、厳しいながらもごくわずかに神の憐れみが残されるという希望のメッセージが含まれています。例えば、預言の一部では「二節以降」や「三節」において、ダマスコやエフライム(北イスラエル王国)の運命が厳しく宣告される一方で、神がわずかな残りの民に対し、栄光と救いをもたらすという描写がなされます。これは、たとえ罪深い状態にあっても、真に主に立ち返る者は神の恵みを受け入れることができるという希望でもあります。残されたわずかな実が、木の最も高い場所にあるために人には取ることができないように、神はご自身に忠実な人々を決して見捨てません。

さらに、説教の中盤では、イスラエルの民が偶像崇拝へと走り、本当に与えられた「ブドウの種」を神から受け取るのではなく、他国のものに頼ってしまったという事実が挙げられます。その結果、彼らは自分たちが育てた見かけの実(偽りの祝福)を、神の厳しい裁きによって刈り取られてしまうことが語られます。現代の私たちにおいても、社会の中で作り上げられる価値観や、自分たちが自ら築き上げた偶像に依拠する生活は、いずれ神の前で厳しく問われることとなります。説教者は、こうした危険性を具体的な例えを用いて力強く伝え、私たち一人一人に対し、本来あるべき神との正しい関係を取り戻すため、悔い改める決断を促しています。

その後、説教は国々の民や大水の轟のような勢いを例に出して、神の裁きの速さと確実さについても語られます。たとえ、どれほど巨大な勢力であっても、神がお叱りになると、それは風の前のもみ殻のように散ってしまいます。実際に、アッシリアという大国がイスラエルを囲むほどの軍勢を率いても、神の一声によってその威勢は一朝にして崩壊したという歴史的事実が示されています。これは、今を生きる我々に対し、世の権勢や自らの力に頼ることの無意味さを強調するものです。

そして、説教の終盤では、教会に属する私たちが、神の御前にふさわしい働き人として清められるべきだという決意が表明されます。私たちは、世俗の価値観に染まってはならず、神の御心に従う真実の信仰者として、日々の生活の中で自らの行いを省みるよう促されます。自分自身で築いた祭壇や作り上げた神々、さらには他国の成功や文化に傾倒することは、結局は神から離れる道であると戒められています。説教者は、今この瞬間に自分の心を神に開き、悔い改め、真の信仰に立ち返る決断をするよう、会衆一人一人に手を差し伸べています。

最後に、説教は実際の祈りの時間へと移行し、イエス・キリストの御名によって、私たちの愚かさを嘆き、悔い改めと更新を求める祈りが捧げられます。私たちは、神の御前にあって自らの弱さを認め、再び確かな信仰の歩みを始めるための内面的な変革を熱心に願わなければなりません。主の祈りをもって、日々の糧と罪の赦し、そして試練に負けない強い信仰を求めるその祈りは、現代のクリスチャンにとっても非常に大切なものであると強調されています。

 

このように、イザヤ書17章の御言葉を通して、我々は神からの厳しい警告とともに、悔い改めるならば必ず与えられる憐れみと救いの希望を学びます。世の権勢やその他のものに心を奪われるのではなく、たった一人一人が自らの内面を見つめ、神の御前に清く立つ決意を新たにするよう求められているのです。私たちがもし、一度でも立ち止まり、自分の行いと信仰を正しく省みるならば、神は必ずその心を清め、御前にふさわしい使徒として整えてくださいます。

【結論】

イザヤ書17章の御言葉は、ダマスコと北イスラエルの運命を預言するとともに、私たちに真の信仰と悔い改めの決断を迫っています。たとえ過ちや偶像に流れる時があっても、神は真心で立ち返る者に憐れみと救いの望みをお与えになります。私たち一人一人が自らの罪を認め、神の御前に清く立つ決意を新たにし、世の誘惑に惑わされることなく、真実の神の国を築く働き人として生きるよう、祈りと決意を新たにしましょう。

子を懲らさない事は、子を滅びへと導く事(2サムエル記13:20-27)
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『兄アブサロムは彼女に言った、「兄アムノンがあなたと一緒にいたのか。しかし妹よ、今は黙っていなさい。彼はあなたの兄です。この事を心にとめなくてよろしい」。こうしてタマルは兄アブサロムの家に寂しく住んでいた。ダビデ王はこれらの事をことごとく聞いて、ひじょうに怒った。』(2サムエル記13:20-21)

このわずかな節から、ダビデ王が長男アムノンを普段、どのように扱って来たかが、大体想像できる。

ダビデ王は、この一連の事件を「聞いてひじょうに怒った」事は書いてあっても、その事でアムノンを懲らしたり、責任を取らせたりした記述は無い。
今回の被害者・タマルは、兄アブシャロムの家でわびしく住んでいた、という事は、ダビデは、アムノンが取るべき責任を取らせず、そのままにしていた、という事だ。
つまりアムノンは、普段から、衝動的・突発的に何かをしてしまった時も、大目に見られ、その事の責任を取らされて来なかったと想像できる。
だからあの事をたくらみ、「今回もなんとかなる」「律法にはああ書かれてあるけれど、自分はこれをしても、罰は及ばない」などと思って、事を起こしたのだろう。

確かにダビデも、律法に照らすなら、死ぬべき罪を幾つか犯している。
しかし、ダビデが赦され、生きながらえているのは、少なくとも彼は自分の罪を認め、悔い改め、そして自分が被害を与えたバテ・シェバに対しては、しっかり責任を取ったからだ。
それなのにアムノンは、お咎めなしのまま放置されてしまっている。
とするなら、それはアムノンを滅びへと至らせてしまう事だ。
『むちを加えない者はその子を憎むのである、子を愛する者は、つとめてこれを懲らしめる。』(箴言13:24)
『子を懲らすことを、さし控えてはならない、むちで彼を打っても死ぬことはない。もし、むちで彼を打つならば、その命を陰府から救うことができる。』(箴言23:13-14)
『「わたしの子よ、/主の訓練を軽んじてはいけない。主に責められるとき、弱り果ててはならない。主は愛する者を訓練し、/受けいれるすべての子を、/むち打たれるのである」。あなたがたは訓練として耐え忍びなさい。神はあなたがたを、子として取り扱っておられるのである。いったい、父に訓練されない子があるだろうか。だれでも受ける訓練が、あなたがたに与えられないとすれば、それこそ、あなたがたは私生子であって、ほんとうの子ではない。』(ヘブル12:5-7)

聖書は、子を懲らしたりむちを加える事によって、子から愚かさを削ぎ落とし、悪から救い出すようにと色々な箇所で示している。
しかし現代日本では、懲らしめはタブー視されている。
そのようにして育てられた子は、アムノンのように、激しく思うと歯止めが効かなかったり、何か事を犯しても、それを自分が責任を取る事をすっかり抜かしてしまうようになってしまうものだ。
ダビデは、アムノンを懲らしめたり、責任を負わせたりする事をしなかった。それが為に、彼を滅びと至らしめてしまう。

ダビデは、アムノンと同じような事をした過去を持っているため、うしろめたさがあったのかもしれない。それで強く言えなかったのかもしれないが、相手が自分と同じ罪を犯したなら、なおさら、経験した者としていっそう強く言うべきだった。
ダビデは、姦淫の罪を指摘された時、詩篇51編でこう告白している。
『あなたの救の喜びをわたしに返し、自由の霊をもって、わたしをささえてください。そうすればわたしは、とがを犯した者に/あなたの道を教え、罪びとはあなたに帰ってくるでしょう。』(詩篇51:12-13)
彼は、もし自分を赦して下さるなら、「とがを犯した者に/あなたの道を教え」ましょう、と、この時約束している。
しかし彼はそれをしなかった。
こうして、何も取り扱われないまま、月日が過ぎていく。

『アブサロムはアムノンに良いことも悪いことも語ることをしなかった。それはアムノンがアブサロムの妹タマルをはずかしめたので、アブサロムが彼を憎んでいたからである。』(2サムエル記13:22)
タマルの兄・アブシャロムは、表向き、何もないかのように装っていたが、心はそうでななかった。
ダビデは特に何もしないまま、アムノンは平然としたまま、そして、アブシャロムは殺意の心を熟成しながら、2年の月日が過ぎて行き、そしてある日、事件が起きてしまう。

一度に強姦加害者の親、強姦被害者の親となってしまったダビデ(2サムエル記13:7-19)
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アムノンは、彼が恋い焦がれる妹のタマルと、二人きりの状況をつくり出すため、仮病を装い、妹に看護してもらいたいと、父ダビデに要望した。

そして二人きりになった時、彼は、神の国において「あってはならない事」をする。

『タマルが彼に食べさせようとして近くに持って行った時、彼はタマルを捕えて彼女に言った、「妹よ、来て、わたしと寝なさい」。タマルは言った、「いいえ、兄上よ、わたしをはずかしめてはなりません。このようなことはイスラエルでは行われません。この愚かなことをしてはなりません。わたしの恥をわたしはどこへ持って行くことができましょう。あなたはイスラエルの愚か者のひとりとなるでしょう。それゆえ、どうぞ王に話してください。王がわたしをあなたに与えないことはないでしょう」。』(2サムエル記13:11-13)
彼らは、律法を知っていた。
イスラエルの中では、兄妹同士の間は、結婚するどころか、肉体関係を持つなど、もっての外である事が書かれてある。(レビ記18章)
だからタマルは「このようなことはイスラエルでは行われません。この愚かなことをしてはなりません。」と叫んだのだ。
タマルは、王に話しましょう、王がなんとかしてくださる、と話したが、アムノンは聞かなかった。
彼もまた、これはイスラエルの中では叶わない事だと感じていたのだろう、だからこそ彼は策を弄し、人払いをして、強引に事を遂げようとしたのだ。

『アムノンは彼女の言うことを聞こうともせず、タマルよりも強かったので、タマルをはずかしめてこれと共に寝た。』(2サムエル記13:14)

アムノンは力づくで事を為してしまった。
彼の父・ダビデも、同じように、王権というパワーを用いて、交わってはならない人妻と、事を為した過去がある。
交わってはならない女性に激しい欲情を抱き、力づくで、強引に、その欲求を捌けさせる。
皮肉にも、父ダビデがした罪をそのまま息子が為し、そして、ダビデの娘は強姦の被害者となった。
子供は親の背中を見て育つ。
良い事も悪い事も、親がした事を、子は見習ってするものだ。

『それからアムノンは、ひじょうに深くタマルを憎むようになった。彼女を憎む憎しみは、彼女を恋した恋よりも大きかった。アムノンは彼女に言った、「立って、行きなさい」。』(2サムエル記13:15)
結局これが、彼がずっと抱いていた「恋心」の正体である。
それは「これが欲しい」「あれが欲しい」「何をしてでも手に入れたい」といった、ただの「激しい情欲」だったのだ。
『欺き取ったパンはおいしい、しかし後にはその口は砂利で満たされる。』(箴言20:17)
禁断の木の実をこっそり食べる時、それは甘美な味かどうかは分からないが、一つはっきりしている事は、それは口にした途端「じゃり」に変わり、神経に触るような苦々しい思いに満たされ、取り返しがつかなくなるものである。

『タマルはアムノンに言った、「いいえ、兄上よ、わたしを返すことは、あなたがさきにわたしになさった事よりも大きい悪です」。しかしアムノンは彼女の言うことを聞こうともせず、彼に仕えている若者を呼んで言った、「この女をわたしの所から外におくり出し、そのあとに戸を閉ざすがよい」。』(2サムエル記13:16)
アムノンは、ただ一度きり、ほんの数分で終わる「欲情の発散」を遂げるため、彼女の一生を台無しにし、そして事を為し終えたら、彼女を捨て去った。
それもまた当然、神の国においては、重大な違反である。

聖書において、肉体関係を結んで良いのは、唯一、結婚相手に対してのみであり、そして結婚とは、相手の伴侶に対し、自分を”唯一の異性”としてコミットする事である。
すなわち、女性は相手の男性に唯一専属的な「女性」となり、男性は相手の女性に唯一専属的な「男性」となり、相手以外に「性」は開放しないのだ。
この聖書の価値観は、以下に定められている律法からにじみ出ている。

『男が、人と婚約した女に野で会い、その女を捕えてこれを犯したならば、その男だけを殺さなければならない。その女には何もしてはならない。女には死にあたる罪がない。人がその隣人に立ちむかって、それを殺したと同じ事件だからである。これは男が野で女に会ったので、人と婚約したその女が叫んだけれども、救う者がなかったのである。』(申命記22:25-27)
このような強姦事件の場合は、「人がその隣人に立ちむかって、それを殺したと同じ事件」に相当すると言われている。
つまり、男が力づくで女性を犯す行為は、その女性を殺したも同然の行為であり、その女性の貞潔や人格、将来を殺すばかりでなく、その女性がコミットした相手の心をも、ぐちゃぐちゃに踏みにじる行為なのだ。

そしてまた、婚約前の状態で肉体関係を持ったとするなら、死刑ではなく、一生涯、相手に対しコミットする責任が生じる。
『まだ人と婚約しない処女である女に、男が会い、これを捕えて犯し、ふたりが見つけられたならば、女を犯した男は女の父に銀五十シケルを与えて、女を自分の妻としなければならない。彼はその女をはずかしめたゆえに、一生その女を出すことはできない。』(申命記22:28-29)

アムノンはようするに、律法に照らすなら、死刑に当たる罪を幾つも犯したわけである。
それを自分は王の長男だという事で、何事も特に罰されないまま、のうのうと暮らしている。
しかし、義が行われる神の国においては、そのまま何事も無く過ごせるという事は無い。

『この時、タマルは長そでの着物を着ていた。昔、王の姫たちの処女である者はこのような着物を着たからである。アムノンのしもべは彼女を外に出して、そのあとに戸を閉ざした。タマルは灰を頭にかぶり、着ていた長そでの着物を裂き、手を頭にのせて、叫びながら去って行った。』(2サムエル記13:18-19)
当時のイスラエルで「長そでの着物」は、日本の「振袖」のように、未婚の処女が着るものである。
彼女はその袖を裂き、泣き叫びながら出て行った。
もはや彼女は、アムノンの一方的な陵辱の故に、処女ではなくなってしまい、一生、ひっそり暮らしていかなくてはならないと絶望したからだ。

こうしてダビデは、強姦被害者の親、強姦加害者の親、近親相姦が起きた家の親、という、実に恥ずかしい立場になってしまった。
ダビデ王の家の中で、このような忌ま忌ましい罪が行われてしまう・・・。いかに栄光の王族の家といえども、肉欲に燃料投下し罪を放置しておくなら、その真っ只中でも忌ま忌ましい事が行われるものだ。
だから私達は、日々霊的に目を覚まして、誰も罪に陥ることが無いよう、聖徒の交わりにおいて互いに励まし合い戒め合う必要があるのだ。
『あなたがたの中に、罪の惑わしに陥って、心をかたくなにする者がないように、「きょう」といううちに、日々、互に励まし合いなさい。』(ヘブル3:13)

遂げてはならない欲情が沸き起こる時(2サムエル記13:1-6)
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ダビデは、家の中から災いが湧き起こる事を、主から警告されていた。(12:11)
なぜなら「姦淫」という罪はいのちへの冒涜であり、家系や子孫などの「いのち」から反撃を受けるものだからだ。

『さてダビデの子アブサロムには名をタマルという美しい妹があったが、その後ダビデの子アムノンはこれを恋した。』(2サムエル記13:1)
アムノンも、アブシャロムも、ダビデがヘブロンで王だった時に生まれた子達である。
アムノンはダビデに最初に生まれた「長男」であるため、王位継承の筆頭者ではあったが、彼は良い信仰の持ち主ではなかった。

彼は異母の妹であるタマルに恋をした。
近親者との結婚は、神の民の中では「あってはならない」事である。(レビ記18章)
してはならない事、叶わない事であるなら、その欲求が沸き起こった初期の段階で、思いと意思、感情をコントロールしておけば、何でもなかったが、彼はそれをコントロールせず、情の流されるままに思い巡らし、それを募らせてしまった。

してはならない事への欲情が沸き起こった時、その事を思い巡らす事は、その欲情に対し燃料を投下する事であり、ますます燃え上がって、やがて手がつけられなくなってしまう。
若者が、叶えてはならぬ欲情に焦がれてしまう時、それを消火するために、シンプルかつ強力な方法がある。
それは、御言葉を暗記する事によって、である。
『若い人はどうしておのが道を/清く保つことができるでしょうか。み言葉にしたがって、それを守るよりほかにありません。』(詩篇119:9)

実際、謂れのない強烈な情欲や、自己嫌悪感、深い悲しみなど、あらゆる負の思いが来た時、試てみると良い。
箴言のどこかを2,3節も暗記(あるいは暗記する努力)をするなら、その僅かな時間で、そのような思いは消えて無くなる事を体験するだろう。
実際、天声教会の80%以上の聖徒たちはテフィリンを実践し、それによって頭脳が活性化し、どうしようもない傷や性質が改善され、人格も品性も整えられている事を、日々実感している。
(御言葉教育「テフィリン」の効用について: http://voice.of.christ.yokohama/modules/d3blog/details.php?bid=2463&cid=3  http://voice.of.christ.yokohama/modules/d3blog/details.php?bid=2493&cid=3

『アムノンは妹タマルのために悩んでついにわずらった。それはタマルが処女であって、アムノンは彼女に何事もすることができないと思ったからである。』(2サムエル記13:2)
アムノンが悩んでわずらった理由は、彼女は「処女であって、何事もすることができない」点だった。
つまりアムノンの望みは、処女である彼女に、何事かをしたい、けれども、御言葉を恐れ敬う周囲の環境ゆえに、自分にはそれができない、そのようなジレンマを抱えていたのだ。
アムノンにとって、自分の肉欲のほうが御言葉よりも主人であり、御言葉は彼にとって「足かせ」以外の何者でもなかった。
自分の思いや意思、感情を御言葉の前に平服させるのが神の民のたしなみであるが、彼はそのたしなみを持っていなかった。

肉と御霊、どちらを主人とし、どちらに仕えるか。それによって、いのちを刈り取るか、それとも死を刈り取るかが決まってしまう。
『自分の肉にまく者は、肉から滅びを刈り取り、霊にまく者は、霊から永遠のいのちを刈り取るであろう。』(ガラテヤ6:8)

『ところがアムノンにはひとりの友だちがあった。名をヨナダブといい、ダビデの兄弟シメアの子である。ヨナダブはひじょうに賢い人であった。彼はアムノンに言った、「王子よ、あなたは、どうして朝ごとに、そんなにやせ衰えるのですか。わたしに話さないのですか」。アムノンは彼に言った、「わたしは兄弟アブサロムの妹タマルを恋しているのです」。』(2サムエル記13:3-4)
心の思い悩みを何でも打ち明けられる友人を、人は「貴重」「何よりの宝」と言うかもしれない。
しかし、友人関係の平和さを重視するあまり、聞き心地は良くても、御言葉には反するアドバイスをするとするなら、それがかえって滅びの元となってしまう。
『あからさまに戒めるのは、ひそかに愛するのにまさる。愛する者が傷つけるのは、まことからであり、あだの口づけするのは偽りからである。』(箴言27:5-6)
事実、この友人の「全く御言葉に基づかない助言」が、アムノンを滅ぼしてしまう事になる。

『ヨナダブは彼に言った、「あなたは病と偽り、寝床に横たわって、あなたの父がきてあなたを見るとき彼に言いなさい、『どうぞ、わたしの妹タマルをこさせ、わたしの所に食物を運ばせてください。そして彼女がわたしの目の前で食物をととのえ、彼女の手からわたしが食べることのできるようにさせてください』」。』(2サムエル記13:5)
賢い彼がした助言は、単なる「彼女とふたりきりになれる妙案」だった。
彼は、アムノンの劣情を遂げさせようとしてこの提案をしたのかどうかは分からないが、ある女性に対して情欲を持った男を、その女性と二人きりにさせるのは、決して良い助言ではない。

神の国に属する人が、結婚してはならないような相手を欲しがり、妙案と力づくでものにしてしまうのは、滅びの元である。
ノアの洪水は、神の子達が、人の娘たちのいかにも美しいのを見て、その中から好きな者を選んで妻とした事が発端だった。
それによって生まれた者達が、力づくの原理で地上に悪を増大させ、心に計る事がみな悪に傾くようになってしまったため、人の寿命は引き下げられ、ひいては、大洪水が引き起こさ、その世代の者達は滅びてしまった。(創世記6章)
ダビデも、結婚してはならない女性に欲情をいだき、権力で「もの」にしたが、彼はそれを悔い改めた事によって、死は免れた。
しかし、その罪の刈り取りは、子孫の中にはびこってしまう事になる。

遂げてはならない欲情への対処方法は、ただ、御言葉を摂り入れる事によってである。
私達は努めてそれを実行し、自分の家系に、罪や呪いの入り込む余地が無いようにしたい。

バテ・シェバを慰めるダビデ(2サムエル記12:24-31)
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ダビデは姦淫の罪を犯した故に、これからその報いを受けて行かなくてはならないが、主に罪を指摘された以降のダビデは、正面からそれと向き合っていく。
『ダビデは妻バテシバを慰め、彼女の所にはいって、彼女と共に寝たので、彼女は男の子を産んだ。』(2サムエル記12:24)

ダビデはバテ・シェバを通して苦い経験をしたが、それで彼女を捨て去ったり疎んじたりする事はなく、しっかり彼女を慰めた。
何しろ彼女は、ただ一方的に、ダビデの罪故に災難に引き込まれたのだから。
彼女は、体を洗っている所を勝手にダビデ王に見られ、勝手に情欲を抱かれ、一方的に呼び出され、姦淫の相手とされ、夫ウリヤは謀殺され、ただ一方的に王の妻とされた。
そして生まれて来た子は、王の罪の故に死んでしまった。
そんな目に遭わせた彼女を疎んじるなど、御前においてとんでもない事だ。
ダビデは彼女を、根気よく慰める責任がある。

『ダビデはその名をソロモンと名づけた。主はこれを愛された。そして預言者ナタンをつかわし、命じてその名をエデデア(「主に愛された」の意味)と呼ばせられた。』(2サムエル記12:25)
世界的に有名な、あの知恵に満ちた王・ソロモン王は、このようにして生まれた。

ところでソロモンは、かの事件の後、すぐに生まれたわけではない。
彼は4男であり、彼が生まれるに至るまで、色々な紆余曲折があったようである。
『エルサレムで生れたものは次のとおりである。すなわちシメア、ショバブ、ナタン、ソロモン。この四人はアンミエルの娘バテシュアから生れた。』(1歴代誌3:5)
ダビデとバテ・シェバとの間に生まれた最初の子・シメアは、ダビデの罪ゆえに主に打たれて死んでしまった。
シメアの名の意味は「聞く、うわさ」であり、彼が生まれた時、ダビデの姦淫やウリヤ謀殺について、色々なうわさ話が聞かれていたのかもしれない。
次男ショバブの名は「堕落する、反逆的な、手に負えない」という意味である。
バテ・シェバの、その時のダビデに対する態度がそうだったかもしれないし、あるいは、子は母の胎にいる時、母の状況や精神状態に影響を受けやすいものであるが、そのため子が反逆的で手に負えなくなってしまったのかもしれない。
また、3男ナタンの名は「与えられる、置かれる」という意味である。
ダビデとバテ・シェバとの間に、段々落ち着きが与えられて行ったのだろう。
そして4男、ソロモンは「平和」という意味である。
ようやく平和な心で子が生まれた事を喜び祝い、平和の子となったのかもしれない。

『さてヨアブはアンモンの人々のラバを攻めて王の町を取った。ヨアブは使者をダビデにつかわして言った、「わたしはラバを攻めて水の町を取りました。あなたは今、残りの民を集め、この町に向かって陣をしき、これを取りなさい。わたしがこの町を取って、人がわたしの名をもって、これを呼ぶようにならないためです」。そこでダビデは民をことごとく集めてラバへ行き、攻めてこれを取った。』(2サムエル記12:26-29)
元々、アンモン人との戦いが発生した時から、ダビデの怠慢がはじまり、そうして一連の事件が起きたのであるが、その間、ヨアブの活躍によって、戦いは大体の収束をつけてきた。
そしてダビデは、ヨアブの促しによって、戦いの指揮をとる立場へと戻り、勝利し、こうしてアンモンは平定された。

このように外敵は平定されたものの、次章以降、ダビデは外敵ではなく身内から、すなわち、子と子の間の問題で、苦々しい経験をしていく事となる。
姦淫は、産んで増えて行く「いのち」に対する冒涜であり、姦淫をする人は、生まれてくる子や身内の「いのち」から災いを返されてしまうものだ。

ダビデ王のバテ・シェバとの馴れ初めは、最悪に類するものだが、主は、人のそのような「最悪」を「最善」へと造り替える事ができるお方であり、彼らの間に生まれた子を用いて、主は、全人類救済のご計画を遂行していく。
罪を犯した男女の、いのちが呪われてしまった歩み。それはエデンの園以降、全人類に重くのしかかるものであるが、ダビデがバテ・シェバを根気よく慰め続けたように、人がいのちを大切にし営んで行く所なら、主はそこから救いのご計画を遂行されて行くのだ。

イザヤ書講解説教メッセージ
助言と憐れみを退け滅んでしまうモアブ(イザヤ書16:1-14)
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【概要】

この説教は、イザヤ書16章を通して、かつて高慢と反逆によって滅びたモアブの歴史と、今日の私たちへの悔い改めの警告・励ましを描いています。神の御言葉に素直に耳を傾け、誇り高ぶる心を捨てることの大切さを伝えています。

【聖書箇所】

・イザヤ16:1-14

【励ましの言葉】

神は悔い改める者を慈しみ、正しい道へと導いてくださいます。私たちや大切な人々が、神の恵みにすがり、取りなしの祈りの中で癒しと救いを受けるよう励まされます。

【戒めの言葉】

高慢や自己満足、古い悪しき慣習に固執することは、滅びの道です。かつてモアブが、その血筋ゆえに特別な憐れみを注がれながらも、反逆と不義を続けた結果、神の裁きを免れなかったことを忘れてはなりません。

【悔い改めの促しの言葉】

自分の罪と向き合い、誇り高ぶる態度や不当な行いを捨て、真摯に悔い改めることが救いへの道です。古い悪習慣から心を解放し、主に立ち返る決意を新たにしましょう。

【***詳細***】

本日の御言葉として、イザヤ書16章が私たちの前にあります。冒頭で読み上げられた一節と二節には、「子羊をこの国の支配者に送れ。セラから荒野を経て、シオンの娘の山に、モアブの娘たちはアルノンの渡し場で逃げ惑う。取り投げ出された巣のようになる、アメン」という御言葉が記されており、これにより、神がこの地に対してどのような計画を持たれているかが示されます。説教者はまず、愛する主に対し、今日も必要な御言葉と、その命の源となる御言葉に従う心を与えてくださるよう、深い祈りを捧げました。心の重さや、信徒それぞれの至らなさを認め、神の清めの働きを求める姿勢が強調されます。

次に、前回のイザヤ書15章からこの16章への展開として、モアブに対する神の宣告と助言の意味が語られます。モアブは歴史的には、アブラハムの甥ロトの子孫ということで、近縁者でありながらも、神から与えられた憐れみを受ける存在であったはずです。しかし、モアブの民は、次第に高慢になり、自らの栄光や力を誇示するようになりました。説教者は、かつてのモアブの様子や、かの地で守られたはずの恵みが、自己満足的な自慢話や誇りによって台無しになっていった実例を語り、その結果としてモアブが滅び、歴史の中から姿を消した事実に警告を投げかけています。

具体的には、イザヤ書16章の中で、まず「子羊をこの国の支配者に送れ」という命令が改めて示され、シオンの娘の山に神殿が建てられ、その上で正しい礼拝や献げ物が行われることこそが、神の救いの道であると説かれています。しかし、モアブはその道を拒み、反逆の道を選んだのです。さらに、説教の中盤では、モアブがかつてイスラエルに対して、羊や羊毛を貢ぎ物として納めるという義務を果たしていたにもかかわらず、アハブ王の死後、貢納をやめ、己の力に頼ろうとした結果、神の怒りを買い、厳しい裁きが下されたという歴史的背景が述べられます。この歴史的事例から、どんなに恵みを受ける立場にあっても、心が高ぶり、神の導きから離れるならば、たちまちその恩恵は失われ、滅びに至るという厳しい現実が示されます。

また、説教者は続く三節から五節にかけて、ユダに対しても同様の助言を与えていると解釈し、「昼の坂にもあなたの影を寄せ、散らされたものをかくまい、逃れてくる者の隠れ家となるように」という言葉を通じ、集団としての支え合いと正義の追求が求められていると説いています。これは、単にモアブだけでなく、現在の信者一人ひとりにも当てはまる教訓であり、誇りや自らの栄光に溺れることなく、互いに助け合い、神の正義を実現することの大切さを教えてくれます。

説教の後半部では、モアブの民が高慢ゆえに真実を見失い、悪しき慣行―特に子供を生け贄として捧げるといった、神に背く行為―に固執した結果、絶望的な結末を迎えたことが強く語られます。ここで、説教者は子供という弱い存在を侮ってはならないという戒めと、信仰における正しい行いの模範を示すべきであるとの呼びかけを行います。つまり、かつてモアブが誇り高ぶっていた時には、その誇りが神の警告と苦しみとして現れたのです。もし私たちが、現代においても同様に高慢になり、自己の欲望や古い習慣に固執するならば、やがてその結果は厳しい裁きとして返ってくるであろうと説かれています。

また、説教者は自らの経験や歴史的背景を交えながら、取りなしの祈りの力についても深く言及します。アブラハムが、モアブのために取りなしの祈りを捧げたように、現代の私たちも日々の中で自分や周囲の人々のために祈り続けるべきだと強調します。神は、取りなしの祈りを受け入れ、心から悔い改める者に対しては、必ずその恵みを注いでくださると信じるからです。決して自己中心的な誇り高ぶりに走らず、神への謙虚な信頼を新たにすることこそが、救いと栄光への道であると説かれています。

このように、イザヤ書16章は、古代モアブの歴史を背景にして、今日の私たち一人ひとりに「高慢は滅びの先導である」という厳しい現実と向き合わせる御言葉となっています。説教者は、これを聞く信徒たちに対して、自らの内面を省み、過去の悪しき慣習や誇りに満ちた行いから脱却するよう、熱心に呼びかけます。そして、自分自身が悔い改め、謙虚に主の導きを仰ぐことが、家族や友人、そして教会全体の祝福につながると強く説いています。

さらに説教は、主の祈りを捧げる場面で締めくくられ、イエス・キリストの御名によって、信徒一人ひとりが内面の高慢を捨て、真摯な悔い改めと信仰に基づく神との交わりを実現するように祈られます。熱心な祈りと言葉の連続は、聞く者に深い感動と共に、その心に重くのしかかる神の真実を感じさせるものとなっています。ここで示されるのは、ただ単に旧い慣習や誇りを否定するだけでなく、逆に神の慈悲と恵みの中に生きるためのあるべき姿勢―謙虚さ、誠実さ、そして互いに助け合う心―であることです。

説教者は、当初の御言葉の引用から始まり、モアブの歴史、そしてユダに対する助言、さらには子供を捧げるといった悲しい事例を並べることで、双方の教訓を浮かび上がらせます。全体を通して伝えられるメッセージは、神が私たちに対して常に救いの道を用意されているものの、そこに至るためには自らの高慢や悪しき習慣を断ち切り、心からの悔い改めを行わねばならないという、厳かでありながらも温もりのある呼びかけであります。

また、説教中で語られる歴史的背景や、神がモアブに与えた取りなしの祈りへの応答などのエピソードは、現代の信徒にとっても、自分たち自身の生活や人間関係を省みる大切な機会となります。どんなに小さな誇りや自己正当化の積み重ねであっても、それがやがて大きな誤りや滅びの原因となることを、歴史ははっきりと物語っています。だからこそ、今日ここで、皆さん自身が心の内をさらけ出し、神の御前にへりくだって悔い改めることこそが、未来への希望であり、神の恵みを享受するための唯一の道なのです。

説教の終盤において、説教者は「イエスを助けてください」と何度も口にし、皆で主の祈りを捧げるように促します。そこで強調されるのは、自己中心的な高慢や、自己満足に浸る生活から抜け出し、神の愛と導きを求める真摯な態度です。信徒各々がその悔い改めの祈りに心を開き、神と共に歩む決意を新たにするならば、かつて生け贄にあげられた子供たちの悲劇や、モアブの過ちを繰り返すことは決してない、という確信が語られます。

この御言葉は、単に古代の歴史を伝えるためだけでなく、現代に生きる私たちへの戒めであり、力強いメッセージです。私たちは、日々の生活の中で、ふとした瞬間に自己の中に高慢の芽が育っていないかを問い直す必要があります。そして、互いに支え合い、正しい道を歩むために、悔い改めと謙虚な心を持ち続けるよう、神の言葉に従い続ける決意を固めなければなりません。かつてモアブが高慢ゆえに失われたように、私たちもまた、己の誇りに溺れるならば、いつかその報いを受けるかもしれません。しかし、真摯な悔い改めと神への従順があれば、神の慈しみは必ず私たちに注がれるのです。

最終的に、説教者は、皆がこの御言葉を胸に刻み、自己の罪深さを認め、悔い改めに向かうことで、神の護りと恵みの中に生きることができると力強く説きました。私たちがその声に耳を傾け、内面の高慢や自己満足を捨て、神の前にへりくだるならば、神は必ず待ってくださる。その御恵みによって、私たちは命を得、真実な喜びと平安の中で歩むことができるでしょう。

【結論】

高慢や古い悪習慣を捨て、真摯に悔い改めることで、神は私たち一人ひとりに恵みと導きを注いでくださいます。モアブの悲劇から学び、私たちは主に従い謙虚な心で生きる決意を新たにし、互いに力を合わせて神の正義と愛を実現する道を歩みましょう。

罪のない人が死ぬ代わりに、罪人が生かされる(2サムエル記12:15-23)
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ダビデは自分の罪を主に認めたゆえ、主は彼の罪を見過ごしにして下さったため、彼は主に打たれて死ぬ事や聖霊が取り上げられたりする事からは免れたが、彼の犯した罪の報いは、彼自身が刈り取る事になる。
『さて主は、ウリヤの妻がダビデに産んだ子を撃たれたので、病気になった。ダビデはその子のために神に嘆願した。すなわちダビデは断食して、へやにはいり終夜地に伏した。ダビデの家の長老たちは、彼のかたわらに立って彼を地から起そうとしたが、彼は起きようとはせず、また彼らと一緒に食事をしなかった。』(2サムエル記12:15-17)

主がダビデに言われた通り、その子に、死の兆候が現れる。
生まれたばかりの自分の子が、死の苦しみに遭っている様を見るのはとても辛い事であるが、ダビデはそれ以上に辛い事情がある。
本来、死の苦しみを受けるべきは、罪を犯した「自分」のはずなのに、その自分はぴんぴんしていて、その代わりに何もしていない自分の子が死の苦しみを味わっているのだ。
ダビデの辛さは、どれ程だっただろう。
彼は、自分が犯した罪の大きさを思い知り、苦しんだだろう。
それで彼は、必死に主のあわれみにすがり求めたのだが、結局祈りは聞かれず、その子は七日後、死んでしまった。

『罪の支払う報酬は死である。』(ローマ6:23前半)
姦淫の罪の報いは死であり(申命記22:24)、また、目には目、歯には歯、という事は、ダビデが無実の人を剣で殺したからには、剣によって撃たれるのが正当だ。
主の敵・サタンが大いにあなどり、ダビデを訴えるとするなら、残念ながら、サタンの訴えは理にかなってしまっている。
かと言って、主がこのダビデの罪をそのまま過ごしにするなら、主の「義」が立たなくなってしまう。
一体どうして、ダビデは生かされるのだろうか。
それは、罪なき命の、身代わりの死によって、である。

私達もそうだ。
本来、私達が犯した罪の刑罰を受け、死ななくてはならない罪人のはずである。
しかし、その私達が罪赦され生かされるとするなら、それは、神の一方的な贈り物の故だ。
その「贈り物」とは、すなわち、罪なきお方・生ける神の御子イエス・キリストである。
彼の身代わりの死によって、私達は生かされた。
そういう訳で、以下のように書かれてある。
『罪の支払う報酬は死である。しかし神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスにおける永遠のいのちである。』(ローマ6:23)

『七日目にその子は死んだ。ダビデの家来たちはその子が死んだことをダビデに告げるのを恐れた。それは彼らが、「見よ、子のなお生きている間に、われわれが彼に語ったのに彼はその言葉を聞きいれなかった。どうして彼にその子の死んだことを告げることができようか。彼は自らを害するかも知れない」と思ったからである。しかしダビデは、家来たちが互にささやき合うのを見て、その子の死んだのを悟り、家来たちに言った、「子は死んだのか」。彼らは言った、「死なれました」。』(2サムエル記12:18-19)
家来たちは、思っただろう。
7日も断食して祈り続ける程、熱情的に懇願していたのに、それが叶わずに、子が死んでしまった。彼はその熱情を一体どこに持っていくだろう?
悲しみのあまり後を追っおうとするだろうか。それとも「神様ひどい」とばかりに自暴自棄になるだろうか。色々思い巡らしたかもしれない。
しかしダビデは、彼らの想像を超えた行動を取った。

『そこで、ダビデは地から起き上がり、身を洗い、油をぬり、その着物を替えて、主の家にはいって拝した。そののち自分の家に行き、求めて自分のために食物を備えさせて食べた。』(2サムエル記12:20)
彼は、それまでの熱情的な祈りと断食を一切止めた。
そして真っ先にした事は、身をきれいにし、主の家に入って、礼拝した事だった。

もし、子が死んだと悟ったとたん、何日ぶりかで身体を洗えるとか、何日ぶりかで食べられるといった事に、真っ先に飛びついたとしたら、彼は本当は冷酷で、子を愛していたのではなく、ただのパフォーマンスで断食や祈りをしていたに過ぎない。
また、もしダビデが「こんな事をした主はひどい」と言って主を恨んでいたなら、彼は身を清めて礼拝するなど、しなかっただろう。
しかしそうではない。
彼は真っ先に、主の前に出て、礼拝したのだ。

彼は、自分のした悪と、それに対して主がなさった事を100%受け入れ、同意したからこそ、主の御前に身を清め、礼拝を捧げ、もはや自分の願いや執着は捨て去ったのだ。
これこそ、神の民が取るべき主への従順である。

イエス様も、ゲツセマネの園で、「この杯(十字架)を過ぎ去らせて下さい」と血の汗を流す程、必死に祈った。
しかし、御父の御旨はイエス様が十字架に架かられる事だと示された時、イエス様はそれを100%受け入れ、堂々と十字架へと歩んで行った。
私達もダビデやイエス様にならい、主の御心が示されたなら、それがどんな道であれ、従順して歩むべきなのだ。

イエス様は私達の身代わりになって死んで下さった。そして、よみがえって下さった。
それ故、私達もダビデのように、主のなさる事に同意し、全て自分の願いや執着を主の前に捨て、身を清めて礼拝し、正しく食事をとり、イエス様に生かされた命を感謝しつつ、正当に生て行くべきなのだ。

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