メッセージ - 講解説教(旧約)カテゴリのエントリ
礼拝説教メッセージ音声:第二サムエル記概要(2サムエル記1:1):右クリックで保存
『サウルが死んだ後、ダビデはアマレクびとを撃って帰り、ふつかの間チクラグにとどまっていた』(2サムエル記1:1)
第二サムエル記は、サウルの死と、ダビデの勝利で始まる。
第一サムエル記の終盤、サウルも、ダビデも、それぞれ危機的状況にあったが、サウルは乗り越えられず死に、ダビデは信仰によって乗り越えて大逆転した。
サウルは結局、主に求め続けるという事を、最後までしなかった。
彼は人生最大の危機に面した時、久しぶりに主に伺おうとて、夢やウリム、預言者に御心を求めたが主の応えは無く、それでさっさと口寄せへと導きを求めてしまった。
結局、彼の長い”信仰生活”はずっと外見的なままで、彼の心は主から離れていた事が明確にされたのだ。
ダビデも、妻子や財産全てを失い、あわや部下に殺されてしまう、という危機にあったが、彼は信仰を奮い立たせて主に伺い、主の導きに従って追いかけ、全てを取り戻しただけでなく、それ以上を分捕って、このチクラグという所で喜びを噛み締めつつ、お世話になった人達に贈り物を届けた所だった。
第二サムエル記は、このサウル王の悲惨な死とダビデの戦勝の盛りの場面で始まる。
第二サムエル記は、ダビデ王の治世の記録である。
ダビデは第一サムエル記でも登場していたが、そこではあくまでサウル王の下での活躍であった。
この第二サムエル記は、そのサウルの死で初まり、ダビデがますます盛んになり、サウル家がますます没落して行く様が、一章から四章で記されている。
ダビデ自身からは何も仕掛けていないのに、周りの状況があれよあれよと動いて、彼は結局、ほぼ自動的に全イスラエルの王となって行く。
五章以降は、ダビデの王国がさらに確立されて行く様が記されている。
彼はイスラエルの首都をダビデの町・エルサレムと定め、そこに主の契約の箱を運び入れ、そして主から、ダビデの家は永遠に続くという約束をいただく事になる。
事実、彼の王国の永遠は今も続いている。
私達クリスチャンは全て、彼の王国の支配、すなわち、ダビデの子・キリストの王国の支配下にある。
八章は、周辺諸国を平定したダビデ治世の最盛期が記されているが、九章以降、ダビデの失敗も、残らず記録されている。
ダビデは全てがうまく行って最高潮の時、気が緩み、戦争に出ている部下の妻を見初め、身ごもらせ、その夫を戦争の激戦区へ送って殺させる事で、主の御心を損ねてしまった。
この時以降、彼の子供達は次々と血なまぐさい事件を起こして行く。
それが九章以降、二十章までずっと続く。
ダビデといえ、色々の罪や失敗を犯す。
特に、子育ての面で失敗し、気が緩んだ時に間違いを犯す傾向があった。
しかし彼が滅ぼされる事なく、永遠の王権が奪われたなかったのは、彼は事あるごとに主に立ち返り、主に求め、罪を指摘された時は、間髪をいれず悔い改めたからだった。
ダビデとサウルの違いは、日頃主に依り頼むか頼まないか、罪が指摘された時に悔い改めるか悔い改めないか、である。
そのシンプルな違いで、明暗が分かれるのだ。
なお、二十一章から最後の二十四章まではダビデ治世の付録的な記事が記されている。
二十三章にダビデの最後のメッセージが記されているが、二十四章にはダビデのもう一つの失敗・人口調査の過ちが記されていて、必ずしも年代順に記されているわけではない。
第一サムエル記では、神の国における「王」となるための、優良な「帝王学」を学ぶ事が出来た。
この第二サムエル記では、いかに誤りなく「王」としての立ち位置をキープし続けるべきかを学ぶ事が出来る。
私達はキリストにあって、王族の祭司とされた。
主イエスにあって王とされた者として在るべきたしなみを、また、成功と失敗の法則を、そして、万一失敗してしまった場合、いかに信仰者として立ち返るべきかを、この書から学んでいきたい。
イザヤ書講解説教メッセージ音声(音声のみ)
エッサイの根株から新芽が生え(イザヤ11:1-16)(韓国語通訳有한국어예배):右クリックで保存
【概要】
エッサイの根株から生えた新芽であるイエス・キリストを通じて、主の霊が全世界に満ちる時代が来ることを預言するイザヤ書11章の解説。
【聖書箇所】
イザヤ書11章
【慰めの言葉】
主の霊が満ちる時、敵対関係が解消され、平和が訪れる。
【励ましの言葉】
主を恐れ敬う霊に満たされるなら、どんな困難も乗り越えられる。
【戒めの言葉】
高ぶりや獣のような性質は主によって切り倒される。
【勧めの言葉】
主を知る知識と主を恐れる霊に満たされるよう努めるべき。
【悔い改めの促しの言葉】
自らの罪を認識し、古い自分を切り捨てて主に立ち返るべき。
【***詳細***】
今日、私たちが恵みを頂く御言葉は、イザヤ書11章です。まず、1節と2節を読みます。
「エッサイの根株から新芽が生え、その根から若枝が出て実を結ぶ。その上に、主の霊がとどまる。」(イザヤ11:1-2)
この箇所は、クリスマスの時期によく引用される言葉ですが、ここでは深い意味が込められています。イスラエルの歴史を振り返ると、アッシリア、バビロン、メドペルシア、ギリシャ、ローマと、様々な帝国によって低くされ、切り倒されてきました。しかし、その根株から新しい芽として、イエス・キリストが生まれてきたのです。
この若枝の上に、主の霊が留まります。2節後半から3節には、その霊の性質が記されています。
「知恵と悟りの霊、深慮と勇気の霊、主を知る知識と主を恐れる霊である。この方は主を恐れることを喜び」(イザヤ11:2-3)
特に注目したいのは、「主を知る知識と主を恐れる霊」です。この世の知恵ある者たちは、人間の脳が機能しなくなれば人は死ぬと考えます。しかし、死を知る真の知識は主から与えられるものです。また、死を恐れる霊を持つことで、人は悪を避け、倫理にかなった生き方をするようになります。
この方が統治される世界がどのようなものかを、3節から5節で描写しています。
「その目に見えるところによって裁かず、その耳に聞こえるところによって判断せず、正義をもって寄るべのない者を裁き、公正をもって国の貧しい者のために判決を下し、口のむちで国を打ち、唇の息で悪者を殺す。正義はその腰の帯となり、真実はその胴の帯となる。」(イザヤ11:3-5)
この方の裁きは、外見や噂によるものではなく、真に正しいものです。そして、その統治の基盤となるのが、主を恐れることなのです。
6節から9節では、この主の霊が満ちる世界の姿が描かれています。
「狼は子羊と共に宿り、ひょうは子山羊と共に伏す。子牛、若獅子、肥えた家畜が共にいて、小さい子供がこれを追っていく。雌牛と熊とは共に草をはみ、その子らは共に伏す。獅子も牛のようにわらを食う。乳飲み子はコブラの穴の上で戯れ、乳離れした子はまむしの子に手を伸べる。わたしの聖なる山のどこにおいても、これらは害を加えず、そこなわない。」(イザヤ11:6-9)
これは、創造の始めの状態、罪が入る前の世界の姿を思わせます。獣たちは肉食ではなく、草食でした。主の霊が満ちるところでは、殺したい、傷つけたいという本能さえも抑えられ、平和な状態が実現するのです。
私たちの中にも、ライオンのような、クマのような性質があります。怒りがこみ上げてきたり、相手を傷つけたくなったりする衝動です。しかし、死を知る知識と死を恐れる霊が満たされるところでは、そういった性質さえも抑えられるのです。
10節から13節では、エッサイの根、すなわちイエス・キリストが国々の旗印となり、散らされた民が集められる様子が描かれています。
「その日、エッサイの根は、国々の民の旗として立ち、国々は彼を求め、彼のいこうところは栄光に輝く。」(イザヤ11:10)
これは、イエス・キリストを信じる者たちが世界中から集められることを預言しています。実際に、現代では多くの人々がイエスを信じています。また、イスラエルの民も1900年ぶりに自分たちの国を回復しました。
さらに、13節では内部の対立も解消されることが預言されています。
「エフライムのねたみは去り、ユダに敵する者は断ち切られる。エフライムはユダをねたまず、ユダもエフライムを敵としない。」(イザヤ11:13)
これは、北イスラエル王国と南ユダ王国の対立が解消されることを示しています。
14節以降では、イスラエルを苦しめてきた国々に対する裁きが描かれています。イスラエルが主を恐れる霊に満たされるとき、状況は逆転し、かつての敵対国々を従わせることになるのです。
最後に、16節では出エジプトの出来事が再び起こることが預言されています。
「その残される民のために、アッシリアからの大路が備えられる。イスラエルがエジプトの国から上って来た日に、イスラエルのために備えられたように。」(イザヤ11:16)
かつて主が海を分け、イスラエルの民をエジプトから救い出したように、再び主は道を備えられるのです。これは、私たちが主を恐れ敬うならば、今も同じように主が働かれることを示しています。
【結論】
イザヤ書11章は、エッサイの根株から生えた新芽であるイエス・キリストを通じて、主の霊が全世界に満ちる時代が来ることを預言しています。私たちは、主を知る知識と主を恐れる霊に満たされることを求め、自らの内にある獣のような性質を主に委ねて切り倒してもらう必要があります。そうすることで、私たちも主の平和な統治の中に生きることができるのです。主の霊が満ちる世界の実現を待ち望みつつ、今日から私たちも変えられていく決意をしましょう。
礼拝説教メッセージ音声:帝王学書の最終章(1サムエル記31:1-13):右クリックで保存
第一サムエル記の最終章は、御声に逆らい続けたサウル王の悲惨な最後で終わる。
最後の夜、サウルは口寄せ女に頼ったが、「明日は死ぬ」という絶望的な示し以外には何物も得られなかった。
そして来たるその日、サウルは何の助けも無いまま、到底勝ち目の無い戦場へと、部下や息子達を率いて進み出ざるを得なかった。
『さてペリシテびとはイスラエルと戦った。イスラエルの人々はペリシテびとの前から逃げ、多くの者は傷ついてギルボア山にたおれた。ペリシテびとはサウルとその子らに攻め寄り、そしてペリシテびとはサウルの子ヨナタン、アビナダブ、およびマルキシュアを殺した。』(1サムエル記31:1-2)
あの素晴らしい信仰者・ヨナタンも、この時殺されてしまった。
2サムエル記1章でダビデが歌っている「弓の歌」では、「ヨナタンの弓は最後まで退かなかった」と記されているので、彼はきっと、父であり油注がれた王であるサウルを守るため、最後まで弓を絞りつつ立派に死んで行ったのだろう。
また、いつもサウルと共にいた精鋭の兵達も、皆倒れた。
サウルがダビデを追う時も、サウルが口寄せに聞きに行こうとした時も、サウルを諌めずに一緒にダビデを追い回し、尋ねられるままに口寄せの所へと導いて行った、あの部下達である。
無情な事であるが、ヨナタンのような素晴らしい信仰者も、権威者におもって何も言えないイエスマンも、共に、主に従わない家族や主君に最後まで従うとするなら、その者が受けるべき災いを等しく受けてしまうのだ。
『そこでサウルはその武器を執る者に言った、「つるぎを抜き、それをもってわたしを刺せ。さもないと、これらの無割礼の者どもがきて、わたしを刺し、わたしをなぶり殺しにするであろう」。しかしその武器を執る者は、ひじょうに恐れて、それに応じなかったので、サウルは、つるぎを執って、その上に伏した。武器を執る者はサウルが死んだのを見て、自分もまたつるぎの上に伏して、彼と共に死んだ。』(1サムエル記31:4-5)
サウルの最後は、矢傷を受けて敵が迫っているのに、介錯をしてもらえず、やむなく、自ら自害するというものだった。
なお、第二サムエル記1章には、サウルは最後の最後、まだ息があるのにひどいけいれんが起こったため、そばにいたアマレクの若者にとどめを刺してもらった、というアマレク人の証言がある。
自刃してもなお死にきれず、最後にアマレク人に止めを刺されたのか、それとも、アマレク人は褒美欲しさに「自分がとどめを刺した」とうそぶいたのか、定かではないが、いずれにせよ、アマレク人がサウルの死に関わったのは確かである。
サウルの死後、彼の王冠と腕輪はアマレク人に盗まれ、ダビデへと渡されてしまった。(2サムエル記1:10)
サウルは、聖絶せよと言われたアマレクを聖絶せずにいて、そのアマレクによって王冠が奪われ、そえれはダビデへと手渡される。
実に象徴的だ。
そして、サウルが恐れていた通り、彼の遺体は無割礼の者どもに、好き放題にされてしまった。
サウルの遺体がペリシテ人によって首を胴体から切り離され、彼の鎧は偶像の宮に安置され、彼とその子達の遺体はベテシャンの城壁にくぎづけに晒されてしまった。(1サムエル記31:8-10)
彼の最後が、このように悲惨なものになってしまったのは、彼は普段から主からの「方向修正せよ」というサインを、ことごとく無視し続けたからだ。
彼は預言者を退け、祭司を虐殺し、油注がれたダビデをも殺そうと執拗に追いかけ、ついには預言者にも祭司からも、油注がれた者からもそっぽ向かれ、そして最後には、主が忌み嫌われる口寄せに頼るという、信仰とは程遠い歩みをして、それを止めなかった。
結局彼は、長い信仰生活の間、「主により頼む」という信仰を育まず、ついには、与えられていた長い憐れみの期間を使い尽くしてしまい、リミットが来て、このような悲惨な最後になってしまったのだ。
ある人は思うかもしれない。サウルをこのような悲惨な死に方をさせた主は、非道い、と。
しかし私達は、サウルの放埒な歩みを長い間忍耐し、方向修正の指示を何度もし、チャンスを何度も与えて下さった主の憐れみと忍耐を思うべきであり、そしてサウルの悲惨な最後から教訓を得て、彼のような頑なさと不信仰を、速やかに捨てるべきである。
『ヤベシ・ギレアデの住民たちは、ペリシテびとがサウルにした事を聞いて、勇士たちはみな立ち、夜もすがら行って、サウルのからだと、その子たちのからだをベテシャンの城壁から取りおろし、ヤベシにきて、これをそこで焼き、その骨を取って、ヤベシのぎょりゅうの木の下の葬り、七日の間、断食した。』(1サムエル記31:11-13)
このヤベシ・ギレアデは、サウルが王になった当初、サウルに救ってもらった町である。(1サムエル記11章)
サウルは、最初の信仰の行い故に、そのささやかな報いを受ける事ができた。
そして、ここで第一サムエル記は終了している。
第一サムエル記は、イスラエル最後の士師でありキングメーカーであるサムエルの誕生に始まり、イスラエル最初の王・サウルが立てられたものの、彼の不信仰ゆえに主の御心は彼から離れ、ダビデへと移り、そして、不信仰を続けたサウルの悲惨な死で終わった。
サウルとダビデ、この二人の「王」の対照的な生き様が、際立ったコントラストをもって記されていたが、この書は、ダビデのような信仰者を目指して生きたいという願いを持ちながら信仰をもって読むなら、優れた「帝王学」の書となる。
帝王学とは、将来王となる人が受ける特別教育であり、私達は、ダビデの信仰と寛容、困難に対する忍耐と気高い対応から、そして、彼の諸々の失敗と信仰による立て直しの経験から、神の国において優れた”王”となるための優れた帝王学を、大いに学ぶ事が出来る。
私達はこの書から、二通りの道を見た。
優れた王となって行くダビデの道と、御声に従わずに身勝手な自分の道を貫こうとしたサウルの道を。
そしてこの書の終わりは、身勝手な道を選んだ王の、悲惨な結末で締めくくられていた。
私達はここから戒めを受け、失敗の道を歩まず、ダビデのように優れた「王」となるべき教育を得ようと務めるべきだ。
キリストにあって、神の国の素晴らしい「王」として、人生を、周囲を正しく治めて行く皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!
ダビデが愛され祝福された理由と、その彼の性質(1サムエル記30:21-31)
- カテゴリ :
- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(旧約) » 1サムエル記
- 執筆 :
- pastor 2015-7-2 17:28
礼拝説教メッセージ音声:ダビデが愛され祝福された理由と、その彼の性質(1サムエル記30:21-31):右クリックで保存
『そしてダビデが、あの疲れてダビデについて行くことができずに、ベソル川のほとりにとどまっていた二百人の者のところへきた時、彼らは出てきてダビデを迎え、またダビデと共にいる民を迎えた。ダビデは民に近づいてその安否を問うた。』(1サムエル記30:21)
ダビデ達が疲れを押して、命がけて戦いに出て行った時、彼らは疲れて、荷物の所に留まっていた。
そんな彼らの所に戻った時、心穏やかにいられないのが普通かもしれない。
しかしダビデは、自ら彼らに近づいて行き、安否を問うた。
ダビデの子孫・イエス様も、弱く疲れ果て主の戦いを戦えない人を、決して責める事なく、自ら近づいて来て、安否を問うて下さる。
『そのときダビデと共に行った人々のうちで、悪く、かつよこしまな者どもはみな言った、「彼らはわれわれと共に行かなかったのだから、われわれはその人々にわれわれの取りもどしたぶんどり物を分け与えることはできない。ただおのおのにその妻子を与えて、連れて行かせましょう」。』(1サムエル記30:22)
ダビデの集団の中には、「悪く、かつよこしまな者ども」もいたが、教会の中にも、信仰が未熟ゆえ、あるいは弱さゆえに、兄弟姉妹を悪く言う人達がいるかもしれない。
私達は彼らに同意したり、染まったりするのではなく、以下でダビデがしているように神の国の基準を示さなくてはならない。
『しかしダビデは言った、「兄弟たちよ、主はわれわれを守って、攻めてきた軍隊をわれわれの手に渡された。その主が賜わったものを、あなたがたはそのようにしてはならない。』(1サムエル記30:23)
ダビデは明言している。
この勝利は、「主が」与えて下さった、と。
実際、その通りだ。主は、どこに行けば分からないダビデ達の前に、エジプトの若者を備えて道案内をさせ、ちょうど良いタイミングの時に到着させ、あり得ない程の大軍に大勝利し、多くの分捕りが出来たのは、明らかにダビデ達の力や器量のゆえではなく、主のお陰だったのではないか。
『あなたは心のうちに『自分の力と自分の手の働きで、わたしはこの富を得た』と言ってはならない。あなたはあなたの神、主を覚えなければならない。主はあなたの先祖たちに誓われた契約を今日のように行うために、あなたに富を得る力を与えられるからである。』(申命記8:17-18)
『気をつけなさい。私が、きょう、あなたに命じる主の命令と、主の定めと、主のおきてとを守らず、あなたの神、主を忘れることがないように。あなたが食べて満ち足り、りっぱな家を建てて住み、あなたの牛や羊の群れがふえ、金銀が増し、あなたの所有物がみな増し加わり、あなたの心が高ぶり、あなたの神、主を忘れる、そういうことがないように。』(申命記8:11-14)
私達は、大成功したり、願っていたものが与えられた時こそ、つとめて気をつけるべきだ。
望んでいたものが与えられたとたんに、主を忘れ、主に祈り親密に交わる事を止めてしまう、というような事が、無いように。
もし今、何か必要を覚えて祈り求めているとするなら、その必要が備えられた時、いかに主に感謝し、その後、いかに主とともに歩む事を続けて行くべきか、その心備えをしっかりしておくべきだ。
『だれがこの事について、あなたがたに聞き従いますか。戦いに下って行った者の分け前と、荷物のかたわらにとどまっていた者の分け前を同様にしなければならない。彼らはひとしく分け前を受けるべきである」。この日以来、ダビデはこれをイスラエルの定めとし、おきてとして今日に及んでいる。』(1サムエル記30:24-25)
ダビデは、まだイスラエルの王ではなかった時から、この事を後々にも守るべき定めとして定めた。
勝利は主のものであり、天地に満ちているものは全て主のものである。主が与えて下さる勝利と全ての良き賜物は、兄弟姉妹でともに分け合う事が、神の民の標準である。
ダビデはその点、非常にクリアであったため、神と人とから愛されたのである。
ダビデはさらに、分捕りものを多くの町々の人々に贈った。
『ダビデはチクラグにきて、そのぶんどり物の一部をユダの長老である友人たちにおくって言った、「これは主の敵から取ったぶんどり物のうちからあなたがたにおくる贈り物である」。そのおくり先は、ベテルにいる人々、ネゲブのラモテにいる人々、ヤッテルにいる人々、・・・ヘブロンにいる人々、およびダビデとその従者たちが、さまよい歩いたすべての所にいる人々であった。』(1サムエル記30:26-31)
これら町々は、ダビデがサウルから逃げ、さまよい歩いていた時、お世話になった人々であり、またネゲブは、アマレクの略奪隊の被害にあった町々だ。
分捕られた彼らのものを返し、そして、お世話になった所にお礼する事を忘れない。その性質だったからから、ダビデは祝福されたのだ。
『神は喜んで施す人を愛して下さるのである。神はあなたがたにあらゆる恵みを豊かに与え、あなたがたを常にすべてのことに満ち足らせ、すべての良いわざに富ませる力のあるかたなのである。「彼は貧しい人たちに散らして与えた。その義は永遠に続くであろう」/と書いてあるとおりである。
種まく人に種と食べるためのパンとを備えて下さるかたは、あなたがたにも種を備え、それをふやし、そしてあなたがたの義の実を増して下さるのである。こうして、あなたがたはすべてのことに豊かになって、惜しみなく施し、その施しはわたしたちの手によって行われ、神に感謝するに至るのである。なぜなら、この援助の働きは、聖徒たちの欠乏を補うだけではなく、神に対する多くの感謝によってますます豊かになるからである。』(2コリント9:6-12)
ダビデのように、信仰によって大胆に勝利し、多くを分捕り、多くを兄弟姉妹達に分け与え、良きものを継がせて行く皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!
礼拝説教メッセージ音声:失ったもの以上を取り戻す転機(1サムエル記30:9-20):右クリックで保存
ダビデは主にあって奮い立ち、主に伺い、主から示された言葉どおり追撃を開始した。
一度はダビデを石打ちにして殺そうとした部下達だったが、主によって奮い立ったダビデの信仰に、彼らも触発されたのだろう。
彼らはダビデを石打ちにするのではなく、彼の指示に従った。
私達も、失ったものを惜しみ、奪われた事を悲しんで泣いているだけなら、さらに周りから石を投げられるような事になるものだ。世は、信じたとおりになるものだから。
そのような時こそ私達もダビデのように奮い立って「エポデを持って来なさい」と指示し、主の御前に進み出るべきだ。
その時、その人は威厳をまとい、周りの人も、状況も、動きだすのだから。
『そこでダビデは、一緒にいた六百人の者と共に出立してベソル川へ行ったが、あとに残る者はそこにとどまった。すなわちダビデは四百人と共に追撃をつづけたが、疲れてベソル川を渡れない者二百人はとどまった。』(1サムエル記30:9-10)
彼らはこの時、体力も気力も消耗し切っていたのだろう。この状況での進撃は、かなり厳しかったようである。
それでも600人中、400人は川を渡り、進撃を続けた。
具体的に何をすれば良いのか、どこへ行けば良いのか、分からない中でも、主の「進め」という言葉だけが確かに響いている時、私達の為すべき分はただ一つ、進み続ける事である。
その私達に与えられた「分」を果たすなら、主は助けを送り、次に為すべき事を示されるからだ。
『彼らは野で、ひとりのエジプトびとを見て、それをダビデのもとに引いてきて、パンを食べさせ、水を飲ませた。また彼らはほしいちじくのかたまり一つと、ほしぶどう二ふさを彼に与えた。彼は食べて元気を回復した。彼は三日三夜、パンを食べず、水を飲んでいなかったからである。』(1サムエル記30:11-12)
主が送られた助け人、それは、一介の、行き倒れのエジプト人であった。
一見すると何の役にも立たないような、行き倒れ。
そんな小さな者さえ、ないがしろにせず助けてやる人に、主は、隠されていた「助け」を現して下さる。
『ダビデは彼に言った、「あなたはだれのものか。どこからきたのか」。彼は言った、「わたしはエジプトの若者で、アマレクびとの奴隷です。三日前にわたしが病気になったので、主人はわたしを捨てて行きました。わたしどもは、ケレテびとのネゲブと、ユダに属する地と、カレブのネゲブを襲い、また火でチクラグを焼きはらいました」。
ダビデは彼に言った、「あなたはその軍隊のところへわたしを導き下ってくれるか」。彼は言った、「あなたはわたしを殺さないこと、またわたしを主人の手に渡さないことを、神をさしてわたしに誓ってください。そうすればあなたをその軍隊のところへ導き下りましょう」。』(1サムエル記30:13-15)
この、一介の行き倒れが、ダビデ達、および彼らの妻子達を救いだす、重要なキーパーソンへと”大化け”した。
私達も、日々のちいさな物事、特に、美徳と呼ばれるものを、軽んじるべきではない。(ピリピ4:8)
主は、幻や奇跡といった「非日常」にしか現れないと思ったら大間違いである。むしろ主は日常の内に、盗人のように、思いがけず現れるものだ。(ヘブル13:2)
私達の信仰の父・アブラハムも、世の美徳と呼ばれる事を忠実に行ったから、知らない間に主をもてなし、主からの養いを豊かに受けた。
『彼はダビデを導き下ったが、見よ、彼らはペリシテびとの地とユダの地から奪い取ったさまざまの多くのぶんどり物のゆえに、食い飲み、かつ踊りながら、地のおもてにあまねく散りひろがっていた。』(1サムエル記30:16)
ダビデ達は、丁度良い時間に、丁度良いタイミングで、略奪した者達の所に到着した。
彼らはすっかり油断し、散開してあちこちで飲み食いし、酔っ払い、行動力も判断力も鈍っているような、攻めこまれたらひとたまりもないような状況だった。
主は実に、時間も空間も支配しておられる方だ。
『ダビデは夕ぐれから翌日の夕方まで、彼らを撃ったので、らくだに乗って逃げた四百人の若者たちのほかには、ひとりものがれた者はなかった。こうしてダビデはアマレクびとが奪い取ったものをみな取りもどした。またダビデはそのふたりの妻を救い出した。そして彼らに属するものは、小さいものも大きいものも、むすこも娘もぶんどり物も、アマレクびとが奪い去った物は何をも失わないで、ダビデがみな取りもどした。』(1サムエル記30:17-19)
彼らは四百人で攻め入り、一昼夜激しく打って、らくだに乗ってようやく逃げたミデヤン人も、四百人だった。
ダビデ達はどれ程、大勢のアマレクを撃った事だろう。そして、その分捕りはどれ程多かった事だろう。
いかに疲れている状態でも、主の故に進み出て行く時、主は力を与え、疲れを吹き飛ばさせ、主の大いなる御業を見させて下さるのだ。
ヨシュアの時代、太陽と月が一日同じ位置に留まって、天がヨシュア達を助けた時も、彼らは、休まずの行軍と戦いで疲れていたはずだった。
しかし主が力を与え、大いなる奇跡を起こし、彼らの疲れを吹き飛ばしてくださった。
私達も時に疲れ、「なんでこんな人のために、休まずに働かなくてはならないのか」と思える時も、あるかもしれない。
しかし、今働いている事が御国の働きであり、着実に御霊の実を結び続けているのであるなら、たゆまずそれを続けるべきだ。
それを乗り越えた時こそ、主は偉大な事をされるからだ。
『ダビデはまたすべての羊と牛を取った。人々はこれらの家畜を彼の前に追って行きながら、「これはダビデのぶんどり物だ」と言った。』(1サムエル記30:20)
ダビデは、つい先日までは妻子も財産も奪われ、何もない、すっからかんの状態だったのに、それが一転して、一気に大物持ちになった。
ダビデ達がサウルを避けてペリシテに来たのも、妻子や家財が奪われたのも、ダビデの不信仰や弱さの故だったかもしれない。
しかし、そんな自業自得的な災いの中にあっても、主に立ち返り、信仰によって進み出るなら、主はそれさえ益として造り変えられる。
主はなんと恵み深いお方だろう。
私達も主にあって奮い立ち、サタンに奪われたもは、きっちりと取り戻すべきである。
追うべきでしょうか。追いつけるでしょうか。(1サムエル記30:1-8)
- カテゴリ :
- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(旧約) » 1サムエル記
- 執筆 :
- pastor 2015-6-29 23:50
礼拝説教メッセージ音声:追うべきでしょうか。追いつけるでしょうか。(1サムエル記30:1-8):右クリックで保存
ダビデはサウルから逃れるために、世的な解決方法に頼り、神の国イスラエルから離れ、ペリシテという、神から離れた”世”での生き方、すなわち、騙し合い、奪い合い、殺し合いの日々を送っていたが、ある日突然、そのして来た事の刈り取りをする事になってしまう。
『さてダビデとその従者たちが三日目にチクラグにきた時、アマレクびとはすでにネゲブとチクラグを襲っていた。彼らはチクラグを撃ち、火をはなってこれを焼き、その中にいた女たちおよびすべての者を捕虜にし、小さい者をも大きい者をも、ひとりも殺さずに、引いて、その道に行った。ダビデと従者たちはその町にきて、町が火で焼かれ、その妻とむすこ娘らは捕虜となったのを見た。』(1サムエル記30:1-3)
ダビデ達は、出かけているわずか三日の間、アマレクの略奪隊が来て、他人から奪いながら積み立てて来た財産も、そして大切な家族も、全て奪われてしまった。
ある日家に戻ってみたら、家は焼かれて灰になっており、妻子も、それまで築き上げて来た財産も、なくなっているとしたら、どうだろう。
ダビデ達はまさにそのような状況だった。
『ダビデおよび彼と共にいた民は声をあげて泣き、ついに泣く力もなくなった。ダビデのふたりの妻すなわちエズレルの女アヒノアムと、カルメルびとナバルの妻であったアビガイルも捕虜になった。』(1サムエル記30:4-5)
後の出来事を読むと、ダビデはこの後、全てを見事に取り返す事が分かるのだが、少なくともこの時点、ダビデは、妻子も財産も全て失い、すっからかんになっていたのだ。
人は、弱肉強食の世の中で生き残るために奔走する時、「よかれ」と思って色々な手立てを講じる。
よかれと思ってこの会社に入った、よかれと思って何処どこに移住した、よかれと思ってこの株式を購入し、この証券を買った、等、自分の人生や将来に「よかれ」と思って、色々な策を講じるが、神から離れてキリストを抜きにした「はかりごと」は、全て、不完全である。
人は、一日先の未来さえ分からない存在であり、自分の立てた「はかりごと」がいつ破綻してしまうのかも分からないが、いざ破綻した時、人は深く悲しみ、悲しみは怒りへと変わり、そして、その怒りの発散先を求める。
『その時、ダビデはひじょうに悩んだ。それは民がみなおのおのそのむすこ娘のために心を痛めたため、ダビデを石で撃とうと言ったからである。』(1サムエル記30:6a)
ダビデの部下達は、怒りの矛先をダビデへと向けた。ダビデは自分達をミスリードした、死んでお詫びしろ、と。
ダビデはそれまで、昼夜襲い来る危険や心配のプレッシャーに耐えながら部下達を守り養って来たのに、いざ事が起きた時、部下たちは全部ダビデが悪いと、石を投げようとする。
彼はどれ程、悩んだことだろう。
家や会社をリードする立場にある人は、そのような悩みはつきものであるが、この時のダビデのように、自分の迂闊な判断で自分の配下全体を絶望の極地へと導いてしまった場合、どうすれば良いだろう。
『しかしダビデはその神、主によって自分を力づけた。』(1サムエル記30:6b)
そう、これが私達も取るべき行動である。
ダビデはこんな時だからこそ、主を思い出し、主によって自分を力づけた。
自分の不信仰ゆえに、愚かさゆえに、犯した罪のゆえに、大事なものを失う事があるが、そんな時こそ、主に向かうのであるなら、その時点が”V字回復”の起点となるのだ。
『ダビデはアヒメレクの子、祭司アビヤタルに、「エポデをわたしのところに持ってきなさい」と言ったので、アビヤタルは、エポデをダビデのところに持ってきた。』(1サムエル記30:7)
ダビデの口から出る久しぶりの言葉である。
エポデは、主の御心を伺う道具であり、それを持って来させたが、私達にとっての、主の御心を伺う道具は、何だろうか。
私達が御心を伺う道具、それは聖書であり、伺う手段は、祈りである。
それを事あるごとに用い、主に伺うべきだ。
『ダビデは主に伺いをたてて言った、「わたしはこの軍隊のあとを追うべきですか。わたしはそれに追いつくことができましょうか」。主は彼に言われた、「追いなさい。あなたは必ず追いついて、確かに救い出すことができるであろう」。』(1サムエル記30:8)
ダビデは、非常に控えめに、勇気を振り絞って、主に問いかけをした。
主はそれに対し、「追え。必ず追いつくことができる。必ず救い出すことができる。」と、明確に、しかも、ダビデが問うた以上の答えを示して下さった。
久しく主を忘れ、身勝手にふるまい、それで窮地に陥った時、ようやく主を思い出し、主に問いかける祈りに、主は答えて下さる。
主はなんと恵み深いお方であろうか。
私達は、サタンという「アマレク」に、何を奪われて来ただろうか。
どんな「ペリシテの地」で、消耗して来たであろうか。
私達の人生の中で、家族、友人、金銀、時間、若さなど、かけがえのないものがサタンに奪われ、また自分の愚かさ故に消耗して来たかもしれない。
ダビデは、主にあって奮い立ち、主に問うた。
「この略奪隊を追跡すべきでしょうか。追いつけるでしょうか。」
私達も、追うべきである!
どうしてキリストにあって聖とされたものが、サタンに、いいようにされて良いだろう。
このダビデの告白を、私達も告白し、信仰によって奮い立ち、奪われて来たものを主にあって追いかけ、大胆に奪い返す皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!
イザヤ書講解説教メッセージ音声(音声のみ)
やり過ぎたアッシリヤに対する災いの預言(イザヤ10章):右クリックで保存
【概要】
アッシリアの高慢と神の裁き、そしてイスラエルの救いについてのメッセージ
【聖書箇所】
イザヤ書10章1-34節
イザヤ書37章36-38節
【戒めの言葉】
高ぶりは滅びをもたらす。主に与えられた力や祝福を、自分のものとして誇ってはならない。
【励ましの言葉】
いかに敵が強大に見えても、主を礼拝し助けを求める者を、主は速やかに救ってくださる。
【***詳細***】
今日、恵みをいただく御言葉は、イザヤ書の10章です。まず1-2節を読みます。
「ああ、不義の掟を制定する者、災いを引き起こす判決を書いている者たち。彼らは、寄る辺のない者の正しい訴えを却下し、私の民のうちの悩む者の権利をかすめ、やもめを自分の獲物にし、みなしごたちをかすめ奪っている。」
イザヤは、イスラエルに対して、主に立ち返らないその頑なな心の上には災いが下るということを予言してきました。この1-2節だけを読んでも、不義の掟を制定するもの、災いを起こす判決を書いている者たち、というイスラエルの状況が分かります。古今東西、権力者がこの過ちを幾度も犯してきました。
当時の世界において、男性は力の象徴でした。畑仕事など主な生活が守られている一方、女性は家に閉じ込められているような状況でした。そこで、夫や父を失った女性や孤児は、社会のシステムがよく分からず、訴えることもできない弱い立場にありました。神が特別な法律を立てて、孤児とやもめを養いなさいと言っていたのに、逆に彼らのわずかな持ち物をかすめ取って、自分たちの富を増やそうとする悪い風潮がイスラエルにはびこっていました。
3節では、そのような者たちに対して刑罰の日が定められていると警告しています。
「刑罰の日、遠くから来る嵐の時に、あなたがたはどうするのか。誰に助けを求めて逃げ、どこに自分の栄光を残すのか。ただ、囚われ人の足元に膝をつき、殺された者たちのそばに倒れるだけだ。それでも、主の怒りはおさまらず、なおも御手は伸ばされている。」
イザヤが予言した通り、後にイスラエルの指導者たちはアッシリアによって罰せられました。アッシリアは刑罰の道具として用いられたのです。
しかし、アッシリアも非常に高慢になりました。5-7節にその様子が記されています:
「ああ、アッシリア、わたしの怒りの杖。彼らの手にある鞭は、わたしの憤り。わたしはこれを、神を敬わない国民に送り、わたしの激しい怒りの民を襲えと命じ、物をぶんどらせ、獲物を奪わせ、街路の泥のようにこれを踏みにじらせる。しかし彼自身はそうとは思わず、彼の心もそうは考えない。彼の心にあるのは滅ぼすこと、多くの国々を断ち滅ぼすことだ。」
主がアッシリアを怒りの杖として用いたにもかかわらず、アッシリアはそうは思わず、ただ滅ぼすことだけを考えていました。アッシリアの高慢は主にまで及び、10節では自らをエルサレムの神よりも高いものだと誇っています。
そのような高慢に対して、主は12節以降で裁きを宣言します:
「主は、シオンの山、エルサレムで、ご自分のすべての業を成し遂げられるとき、アッシリアの王の高慢な心と、その誇り高ぶる目を罰する。」
15節では、主はアッシリアの愚かさを次のように例えています:
「斧は、それを使って切る人に向かって高ぶることができようか。のこぎりは、それを引く人に向かっておごることができようか。それは棒が、それを振り上げる人を動かし、杖が木でない人を持ち上げるようなものではないか。」
このように、主に対して高慢になることの愚かさが示されています。
24-27節では、シオンに住む民に対する励ましの言葉があります:
「それゆえ、万軍の神、主はこう仰せられる。シオンに住むわたしの民よ、アッシリアを恐れるな。彼らが杖であなたを打ち、エジプトがしたように棒をあなたに振り上げても。ほんのしばらくすれば、わたしの憤りは終わり、わたしの怒りは彼らを滅ぼしてしまう。...その日になると、彼の重荷はあなたの肩から、彼の軛はあなたの首から取り除かれる。」
そして、イザヤ書37章36-38節では、実際にアッシリアが滅ぼされた様子が記されています:
「主の使いが出て行き、アッシリアの陣営で18万5千人を討ち殺した。人々が朝早く起きて見ると、なんと、そこには彼らの死体があった。アッシリアの王セナケリブは立ち去り、帰ってニネベに住んだ。彼がその神ニスロクの神殿で礼拝していたとき、その子のアドラメレクとサルエツェルは剣で彼を殺し、アララテの地に逃げた。その子エサルハドンが代わって王となった。」
この出来事は、ヒゼキヤ王の時代に実際に起こりました。イスラエルを取り囚んでいた18万5千人の軍隊が、たった一夜にして、主の使いによって滅ぼされたのです。
【結論】
この御言葉から、私たちは以下のことを学ぶことができます:
-
高ぶりは滅びをもたらします。主に与えられた力や祝福を、自分のものとして誇ってはいけません。
-
いかに敵が強大に見えても、主を礼拝し助けを求める者を、主は速やかに救ってくださいます。
-
困難な状況にあっても、ヒゼキヤ王やヨシャパテ王のように、主に信頼し、賛美をもって進み出るべきです。
-
主は今も同じように働いておられます。私たちの個人的な戦いにおいても、主に信頼し、主の御業を期待すべきです。
-
主を呼び求め、主に信頼して崇める者、主に礼拝をする者には、同じ恵みと勝利が与えられます。
私たちは、日々の生活の中で様々な困難や敵に直面するかもしれません。しかし、そのような時こそ、主を呼び求め、主に信頼し、賛美をもって進み出るべきです。主は私たちの戦いを戦ってくださり、勝利をもたらしてくださるのです。
礼拝説教メッセージ音声:偽りへの暴走を止めて下さる主(1サムエル記29:1-11):右クリックで保存
『さてペリシテびとは、その軍勢をことごとくアペクに集めた。イスラエルびとはエズレルにある泉のかたわらに陣を取った。ペリシテびとの君たちは、あるいは百人、あるいは千人を率いて進み、ダビデとその従者たちはアキシと共に、しんがりになって進んだ。』(1サムエル記29:1-2)
ダビデは、本心に偽ってペリシテの王に取り入り、ついには引っ込みがつかなくなって、神の民イスラエルと戦うために行軍している所だった。
自分の命を狙うサウルを、二度も見逃してやった、あのダビデ。
サウルに追われている中でも、神の民・イスラエルの町をペリシテから救ってやった、あのダビデである。
今までアキシュに、表面上、イスラエルを襲っていたかのように見せかけてはいても、イスラエル人の血は一度も流さなかった、あのダビデが、この度、イスラエルに敵対し、サウルの軍に対して刃を向けなくてはならなくなってしまった。
彼の心に、どれ程の嵐が吹き荒れていただろう。
しかし主は、ダビデに、イスラエルの血を流さなくて済むように計らってくださる。
『その時、ペリシテびとの君たちは言った、「これらのヘブルびとはここで何をしているのか」。・・・「この人を帰らせて、あなたが彼を置いたもとの所へ行かせなさい。われわれと一緒に彼を戦いに下らせてはならない。戦いの時、彼がわれわれの敵となるかも知れないからである。この者は何をもってその主君とやわらぐことができようか。ここにいる人々の首をもってするほかはあるまい。』(1サムエル記29:3-4)
ダビデは、アキシュの元では、本心を偽った行動を突き進むほかに無かったが、主は、ペリシテの領主たちを用い、暴走していたダビデを留めて下さった。
アキシュも、ペリシテの領主達から一斉に反対されてしまっては、従わざるを得ない。
『ダビデはアキシに言った、「しかしわたしが何をしたというのですか。わたしがあなたに仕えはじめた日からこの日までに、あなたはしもべの身に何を見られたので、わたしは行って、わたしの主君である王の敵と戦うことができないのですか」。
アキシはダビデに答えた、「わたしは見て、あなたが神の使のようにりっぱな人であることを知っている。しかし、ペリシテびとの君たちは、『われわれと一緒に彼を戦いに上らせてはならない』と言っている。それで、あなたは、一緒にきたあなたの主君のしもべたちと共に朝早く起きなさい。そして朝早く起き、夜が明けてから去りなさい」。こうしてダビデとその従者たちとは共にペリシテびとの地へ帰ろうと、朝早く起きて出立したが、ペリシテびとはエズレルへ上って行った。』(1サムエル記29:8-11)
このようにダビデは、イスラエル人の血を流さずに済んだ。
しかし主は、本心に偽って突っ走ってしまうダビデを、元の健全な状態へと戻すために、少々の荒治療をされる。
私達も、自分の弱さ、足りなさ、知恵の無さ故に、愚かな道を突っ走り、引っ込みがつかなくなって、兄弟姉妹や自分自身を傷つけてしまう事がある。
怒り、妬み、憤りに支配され、「もう出て行く」などと言って飛び出し、荒んだ生活へとどんどん沈み込んで行き、ある時点で後悔しても、既に勢いがつきすぎて戻れなくなってしまっているような事が、私達にもある。
そんな時、「こんな暴走してしまう、どうしようもない私を助けて下さい」と主に助けを求めるなら、主は思わぬ所から助けを遣わし、止めさせてくださる。
但し、その時、痛みもなく丁重に治して下さる、とは限らない。
ダビデの場合は、荒治療であった。しかしそれもまた、主の憐れみである。
私達は、自分の愚かさ故に暴走している事に気づいた時、まだ軌道修正が簡単にできる内に主に向かい、軌道修正すべきだ。
礼拝説教メッセージ音声:限りない闇と絶望の前夜(1サムエル記28:11-25):右クリックで保存
『女は言った、「あなたのためにだれを呼び起しましょうか」。サウルは言った、「サムエルを呼び起してください」。』(1サムエル記28:11)
サウルは、敵に見つかるかもしれない危険を犯して20キロも旅してまで、死んだサムエルに事を伺いたかった。
サウルは、サムエルが生きている間は何も伺わず、訪問もせず、死んでからはじめて伺いたいという気が起こった。
このような人が多いから、古今東西・世界各地で口寄せ商売が成り立っているのだ。
闇に伺いを立てに行く人に、跳ね返って来るものは、やはり、闇である。
『人々があなたがたにむかって「さえずるように、ささやくように語る巫子および魔術者に求めよ」という時、民は自分たちの神に求むべきではないか。生ける者のために死んだ者に求めるであろうか。ただ教とあかしとに求めよ。まことに彼らはこの言葉によって語るが、そこには夜明けがない。彼らはしえたげられ、飢えて国の中を経あるく。その飢えるとき怒りを放ち、自分たちの王、自分たちの神をのろい、かつその顔を天に向ける。また地を見ると、見よ、悩みと暗きと、苦しみのやみとがあり、彼らは暗黒に追いやられる。 』(イザヤ8:19-22)
女は、自分が呼び出した霊を見た時、「どうしてあなたはわたしを欺かれたのですか。あなたはサウルです。」と叫んだが、サウルは「恐れることはない。あなたには何が見えるのですか」と言った。
『女はサウルに言った、「”神のようなかた(エローヒム、KJV:gods)”が地からのぼられるのが見えます」。サウルは彼女に言った、「その人はどんな様子をしていますか」。彼女は言った、「ひとりの老人がのぼってこられます。その人は上着をまとっておられます」。サウルはその人がサムエルであるのを「知り(ヤーダー:知覚し、判断し。KJV:perceived)」、地にひれ伏して拝した。』(1サムエル記28:13b-14)
サウルは、その「方」の成り立ちを、女から聞いて、それをサムエルであると「判断」した。
さて、ここに出てきたサムエルが、果たして本物かどうかという議論はあるが、これはサムエルではなく別の霊だと私は考えている。
イエス様がラザロと金持ちの話をされた時、憐れみのわざをしなかった金持ちは死んで後、黄泉(ハデス)に降ったのに対し、ラザロはアブラハムと共に「上」のほうにいた事を言っておられた。(ルカ16:23)
それに対し、この霊は「地からのぼって」来たと言っている。
サムエルは当然、アブラハムの側、「上」にいるはずなので、地の下から登ってくる霊は、違うものではなかろうか。
また、この霊はサウルに「あすは、あなたもあなたの子らもわたしと一緒になる(KJV: with me)であろう」(19節)と言っているが、主に従ったサムエルと、主に従わなかったサウルが、果たして共に同じ所に行くだろうか。
金持ちとラザロの間には、大きな淵が横たわっていて、誰も行き来出来ない、と記されている。(ルカ16:26)
だから死んだ人は、生きている人の世界と、行き来出来ないはずである。
つまり、死んだ人の霊と会った、と言っている人は、実は、死んだ人本人の霊と会ったではなく、その人に扮した「悪霊」と会っているのであり、死後の世界について、天国と地獄について、永遠の救いとさばきについての真実を掻き乱そうとするサタンから遣わされた霊であり、その霊と交わるなら、汚されてしまうのだ。
『あなたがたは口寄せ、または占い師のもとにおもむいてはならない。彼らに問うて、汚されてはならない。わたしはあなたがたの神、主である。』(レビ19:31)
『サムエルはサウルに言った、「なぜ、わたしを呼び起して、わたしを煩わすのか」。サウルは言った、「わたしは、ひじょうに悩んでいます。ペリシテびとがわたしに向かっていくさを起し、神はわたしを離れて、預言者によっても、夢によっても、もはやわたしに答えられないのです。それで、わたしのすべきことを知るために、あなたを呼びました」。』(1サムエル記28:15)
サウルは、主と心一つになろうとする意図はさらさら無く、自分の導きをしてくれる相手なら、神であろうと、死人であろうと、誰でもよかった。
だから、さっさとそちらに向いてしまったのだ。
私達が神を呼んだのに、何も答えられない、という事があるとするなら、その時は自分を省みるべきである。
自分の中に、主との間に妨げとなっている罪は無いか、まだ悔い改めておらず、取り扱っていない罪がなかったか、と。
『見よ、主の手が短くて、救い得ないのではない。その耳が鈍くて聞き得ないのでもない。ただ、あなたがたの不義があなたがたと、あなたがたの神との間を隔てたのだ。またあなたがたの罪が主の顔をおおったために、お聞きにならないのだ。』(イザヤ59:1-2)
もし私達に、不義が、罪が示されたなら、ダビデのように、主に正直に告白して取り扱っていただくべきだ。(詩篇51編)
サウルの場合、自分の罪は一切告白せず、何か悔い改めるべき事が自分の側にあるのではと探る事もせず、さっさと主の忌み嫌われる死人伺いに走ってしまった。
『サムエルは言った、「主があなたを離れて、あなたの敵となられたのに、どうしてあなたはわたしに問うのですか。・・・主はまたイスラエルをも、あなたと共に、ペリシテびとの手に渡されるであろう。あすは、あなたもあなたの子らもわたしと一緒になるであろう。また主はイスラエルの軍勢をもペリシテびとの手に渡される」。』(1サムエル記28:16-19)
あす、地の底から登ってきた霊と、一緒になる・・・何か、底知れぬ闇、救いようがない絶望を感じる。
いのちの君であられる主以外の者に伺いを立てるなら、それは死へと通じる道だ。もしいのちを得たいなら、いのちの君である主に伺うべきだ。
『そのときサウルは、ただちに、地に伸び、倒れ、サムエルの言葉のために、ひじょうに恐れ、またその力はうせてしまった。その一日一夜、食物をとっていなかったからである。』(1サムエル記28:20)
サウルはもはや、食欲も、行動意欲も、生気も無くなってしまった。
主を軽んじ続けるなら、いのちを失ってしまうのだ。
『女はサウルのもとにきて、彼のおののいているのを見て言った、「あなたのつかえめは、あなたの声に聞き従い、わたしの命をかけて、あなたの言われた言葉に従いました。それゆえ今あなたも、つかえめの声に聞き従い、一口のパンをあなたの前にそなえさせてください。あなたはそれをめしあがって力をつけ、道を行ってください」。』(1サムエル記28:21-22)
この霊媒女は、サウルに憐れみをかけた。
滅び行く者は、滅び行く者同士で気が合い、同情し合うものである。
『その女は家に肥えた子牛があったので、急いでそれをほふり、また麦粉をとり、こねて、種入れぬパンを焼き、サウルとそのしもべたちの前に持ってきたので、彼らは食べた。そして彼らは立ち上がって、その夜のうちに去った。』(1サムエル記28:24-25)
そしてこの女が、最後に憐れみとしてサウルに差し出したものは、ほふられた肥えた子牛と、種入れぬパンだった。
何か、主への礼拝の捧げ物を思い起こさせる。
サウルはこの最後の晩餐を、どのような思いで食べただろうか。
それは分からないが、サウルは日頃から主を退け、自分の心の赴く事を求めていた。だから、いざという時、彼は主を見いだせなかった。
いつでも主を呼び求め、いつでも主の光の内に導かれ、主の導きの内に守られ歩む皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!
サウルからことごとく逃げて行った「主の守りと導き」(1サムエル記28:3-10)
- カテゴリ :
- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(旧約) » 1サムエル記
- 執筆 :
- pastor 2015-6-15 16:54
礼拝説教メッセージ音声:サウルからことごとく逃げて行った「主の守りと導き」(1サムエル記28:3-10):右クリックで保存
『さてサムエルはすでに死んで、イスラエルのすべての人は彼のために悲しみ、その町ラマに葬った。また先にサウルは口寄せや占い師をその地から追放した。』(1サムエル28:3)
主は、サムエルが生きている間、ペリシテを防いでおられた。(1サムエル記7:13)
ペリシテはちょくちょく攻め寄せて来る事はあっても、サウルがそれを退ける事が出来たのは、サウルの力でも信仰でもなく、サムエルが年ごとに各所を巡回し霊的指導を続けたからであり(7:16-17)、ダビデが信仰をもって戦ったからだ。
しかし、そのサムエルが死に、ダビデもサウルから逃げてイスラエルを離れた今、イスラエルを守る者は、サウルしかいなくなった。
そのとたんに、ペリシテが攻めて来た。
『ペリシテびとが集まってきてシュネムに陣を取ったので、サウルはイスラエルのすべての人を集めて、ギルボアに陣を取った。サウルはペリシテびとの軍勢を見て恐れ、その心はいたくおののいた。』(1サムエル記28:4-5)
サウルは、ようやく気づいたかもしれない。
今までいかにサムエルやダビデに守られて来たのかを。
しかしサウルは、彼らに、何をして来ただろう。
サウルは、サムエルからの主の言葉を軽んじて欲しいままに振るまい、自分の気に入らないなら、サムエルさえも殺しかねない者となったため(1サムエル記16:2)、サムエルは二度とサウルに会おうとしなくなった。(1サムエル記15:35)
ダビデに対しては、サウル家の王位を脅かす者として追い回し、殺そうとしたため、ダビデも彼から逃げて国外逃亡した。
サウルは、自分に王としての分が無いと分かった時、ダビデこそ王となるべき者だと悟った時、自分から王座を降りて、新しく油注がれたダビデにゆずるべきだったのだ。
そうしたなら、もっと平和な余生を送って、安らかに人生を全うしたであろう。
しかし彼は、自分が座していてはならなぬ王座にしがみついたが故、とても悲惨な死に方をする。
『そこでサウルは主に伺いをたてたが、主は夢によっても、ウリムによっても、預言者によっても彼に答えられなかった。』(1サムエル記28:6)
ウリムとは、祭司が御心を伺うためにエポデの中に納められている祭具だが、彼はエポデを着た祭司たちを、どうしただろうか。
『王はドエグに言った。「おまえが近寄って祭司たちに撃ちかかれ。」そこでエドム人ドエグが近寄って、祭司たちに撃ちかかった。その日、彼は八十五人を殺した。それぞれ亜麻布のエポデを着ていた人であった。』(1サムエル記22:18)
またサウルは、預言者をどうしただろう。
実行こそしなかったが、彼は預言者サムエルさえ殺そうとする勢いだった。
それ故、祭司も、預言者も、油注がれた者・ダビデも、ことごとくサウルを拒否し、サウルの周りから逃げられてしまったのだ。
自分が王でありたいが故に、預言者を退け、祭司を除き、油注がれた王を殺そうとする。
そのような者が行く先は、サウルと同じである。
キリストこそ、真の大祭司であり、まことの預言者であり、油注がれた王だ。
この御方を退け、自分が王座に座り続けようとするなら、やがては、自分がしがみつこうとした「王座」が、自分を滅ぼすものとなってしまうのだ。
だから私達は、さっさと自分が「王」である事を降り、自分に関する全ての支配権はダビデの子孫・イエスキリストへとゆずるべきなのだ。
『サウルはしもべたちに言った、「わたしのために、口寄せの女を捜し出しなさい。わたしは行ってその女に尋ねよう」。しもべたちは彼に言った、「見よ、エンドルにひとりの口寄せがいます」。』(1サムエル記28:7)
主に御心を求めても、何も返ってこないのを見て取ったサウルは、いとも簡単に、主が忌み嫌われる「口寄せ」はいないかと部下に尋ねた。
もしこの時、サウルが、かつてイスラエルの民がミツパでしたように、心を主に注いで断食し、「私たちは主に対して罪を犯しました。」(1サムエル記7:6)と悔い改め、主に求めていたらどうだっただろうか。
主は助けて下さった、と私は思う。なぜなら主は、どんなに邪悪な者達(アハブ王、ニネベの住人、十字架上の強盗など)であれ、悔い改めたら赦し、災いを思い直されたからだ。
しかし結局、サウルの心には主は無かったのだ。彼はいとも簡単に、主に忌み嫌われる者に尋ねようとし、部下たちも「王様、主に忌み嫌われる事はやめてください」とは言わず、すぐに「エンドルにいます」とサウルに教えた。
結局、サウルを戒めずに、イエスマンで通して来た彼らが滅ぶとしても、サウルとの共同責任なのである。
『サウルは姿を変えてほかの着物をまとい、ふたりの従者を伴って行き、夜の間に、その女の所にきた。そしてサウルは言った、「わたしのために口寄せの術を行って、わたしがあなたに告げる人を呼び起してください」。』(1サムエル記28:8)
口寄せの女がいるエンドルは、サウル達が陣営を張っているギルボアから20キロほど北にあるが、ペリシテが陣営を張っているシュネムは、エンドルの南西わずか5キロほどの所にある。
彼は夜、変装し、敵に見つかりそうな危険を犯しても、口寄せを求めて20キロの旅をしたのだ。
その労を主に捧げる心があったなら、彼はどんなに変わっていただろう。
『女は彼に言った、「あなたはサウルがしたことをごぞんじでしょう。彼は口寄せや占い師をその国から断ち滅ぼしました。どうしてあなたは、わたしの命にわなをかけて、わたしを死なせようとするのですか」。サウルは主(エホバ)をさして彼女に誓って言った、「主(エホバ)は生きておられる。この事のためにあなたが罰を受けることはないでしょう」。』(1サムエル記28:9-10)
サウルは、主の忌み嫌われる口寄せに対し、主エホバの名によって、彼女の安全を誓った。
彼は完全に、主の御名を軽んじ、主の御名を誤った用い方をしている。彼がこのように、主を軽んじる者だったからこそ、滅びへの街道がまっしぐらだったのだ。
平素は自分の心の赴くままに生きて、死ぬ直前にイエス様の名を呼び求めれば、世の中も好きに生きれて、死んだら天国に行けるのではないか、と思う人がいるが、果たしていざという時、主を呼び求める心を、保ちつづけていられるだろうか。
人はいざという時こそ、普段から頼っているものに心を向け、普段から頼っていないものをすぐに捨てるものである。
だから私達は、普段から、真に油注がれた王であり、まことの預言者、真の大祭司である主キリストを頼りとし、その守りの内を歩んでいくべきだ。
