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メッセージ - 講解説教(旧約)カテゴリのエントリ

イザヤ書講解説教メッセージ音声(音声のみ)
暗黒を照らすひとりのみどりご(イザヤ9:1-7)(韓国語通訳有한국어예배):右クリックで保存

【概要】

イザヤ書9章1-7節を基に、闇から光へ、苦しみから喜びへと導かれる救いについてのメッセージ。

【聖書箇所】

イザヤ書9:1-7

【慰めの言葉】

苦しみのあったところに闇がなくなり、光栄を受けるようになる。

【励ましの言葉】

神は沈黙の後も必ず語りかけ、光を与えてくださる。

【戒めの言葉】

罪を悔い改めず、立ち返らないと、長く苦しむことになる。

【勧めの言葉】

イエス・キリストという一人の男の子に頼り、その主権と平和のうちに生きよう。

【悔い改めの促しの言葉】

罪に染まった生活から速やかに立ち返り、光の中を歩もう。

【***詳細***】

今日、私たちが恵みをいただく御言葉は、イザヤ書9章1-7節です。ここでは、闇と苦しみの中にいた人々に光が照らされ、喜びが与えられるという希望に満ちたメッセージが語られています。

まず1節を見てみましょう。「しかし、苦しみのあったところに、闇がなくなる。先には、ゼブルンの地とナフタリの地は、恥ずかしめを受けたが、後には、海沿いの道、ヨルダン川の向こう、異邦人のガリラヤは、光栄を受けた。

ここで言及されているゼブルンとナフタリの地は、イスラエルの北部に位置し、異教の影響を最も受けやすい地域でした。彼らは最初に罪に染まり、また最初に敵の攻撃を受けるような場所だったのです。しかし、神は彼らに光を与えると約束されました。

これは私たちにとって大きな慰めとなります。たとえ私たちが罪に染まり、世の影響を強く受けていたとしても、神は私たちを見捨てず、光を与えてくださるのです。

2-3節では、「闇の中を歩んでいた民が、大きな光を見た。死の陰の地に住んでいた者たちの上に、光が照らした。あなたはその国民を増やし、その喜びを増し加えられました。」と続きます。

ここで注目すべきは、光が照らされた後の変化です。人々は増え、喜びが増し加えられたのです。これは、神の光が私たちの人生に入ってくると、それまでの苦しみや闇が一掃されるだけでなく、積極的な祝福と喜びがもたらされることを示しています。

4-5節では、「彼らの重くのしかかったくびきと、肩の杖と、彼らを虐げる者の杖を、あなたはミディアンの日のようにお破りになりました。戦場でとどろく靴、血にまみれた着物はみな、焼かれて火の燃料となります。」とあります。

ここでは、神の光がもたらす解放と勝利が描かれています。私たちを縛っていた罪のくびきが打ち砕かれ、私たちを虐げていた敵が打ち負かされるのです。そして、戦いの道具や血に染まった衣服が燃やされるという描写は、神がもたらす平和を象徴しています。

そして6-7節で、この救いと光をもたらす方について語られます。「ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。

ここで預言されている「ひとりのみどりご」こそ、イエス・キリストです。イエスは、単なる人間ではなく、神の主権を持ち、不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君と呼ばれるお方なのです。

イエス・キリストの支配は増し加わり、その平和には限りがありません。彼は正義と公平によって国を治め、それは永遠に続くのです。

このメッセージから、私たちは二つの道を選ぶことができます。一つは、ゼブルンやナフタリの地のように、主に立ち返らず、自分の好むことをし続け、結果として奪われ、搾取され、奴隷化されていく道です。もう一つは、イエス・キリストを受け入れ、光の中を歩み、イエスの主権のうちに生きていく道です。

私たちは、イエス・キリストという一人の男の子により頼み、いつでもこの不思議な助言者に救いを求め、力を得るべきです。イエスの支配を永遠に受け入れ、幸いと祝福と栄えのうちに過ごしていくことができるのです。

【結論】

今日のメッセージを通して、私たちは神の驚くべき恵みと救いの計画を見ました。たとえ私たちが深い闇の中にいたとしても、神は光をもたらすことができるのです。その光は、イエス・キリストを通してもたらされます。私たちは、このイエス・キリストに頼り、その主権のもとに生きることで、真の平和と喜びを見出すことができます。今日から、私たちの人生の主権をイエス・キリストに委ね、その光の中を歩む決意をしましょう。

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イザヤ8章ではイスラエルの王アハズのかたくなさによって、主が何度も立ち返りなさいと言っているのに、それでも全く立ち返らない「かたくなさ」を見た。
アハズは預言者イザヤによってしずかにして信頼しなさい、と言われていたのに、アッシリアの王に勝手に頼って、しかも、偶像の設計図まで取り寄せる余計な「走り回り」をしていた。
そんな中で、主はイザヤをはじめ主を畏れ敬う民に対して言われた事は、かたくなな世の者に見習うな、という事であり、おしえとあかしに尋ねなければならない、と勧めた。
主に対し徹底的にかたくなを貫き通し、あくまで主に聞かない、徹底して、御言葉を軽んじる、者に対し、備えられている事は、法則的に、8章の最後の通りである。
イザヤ8:21 彼らはしえたげられ、飢えて国の中を経あるく。その飢えるとき怒りを放ち、自分たちの王、自分たちの神をのろい、かつその顔を天に向ける。
8:22 また地を見ると、見よ、悩みと暗きと、苦しみのやみとがあり、彼らは暗黒に追いやられる。

神が人を罰する、という場合、必ず、次の順番である。それは、
人が神を無視して自分勝手なことをする → 神が人を罰する
という順番がある。だから私達は、罪が私達を打って、神に打たれる、という事を十分注意して、そうならないように未然に防がなくてはならない。

主に従わない人を、苦しい目に合わせる。主はあらかじめ、預言者イザヤを通して立ち返るように促したが、立ち返らない。それなら苦難が重くされる。それでも立ち返らないなら、さらに苦難が重くされる。しかし、主はいつまでも人を打っておられるお方ではない。

 9:1 しかし、苦しみにあった地にも、やみがなくなる。さきにはゼブルンの地、ナフタリの地にはずかしめを与えられたが、後には海に至る道、ヨルダンの向こうの地、異邦人のガリラヤに光栄を与えられる。

ゼブルンの地とナフタリの地、イスラエルの北であり、真っ先に異邦人と和合し、染まってしまった地である。
同時に、罪ゆえの災いも真っ先に受けてしまう地でもある。
世と和合し、罪と和合し、聖なるおもむきを失ってしまったイスラエルに対し、罪のゆえのとばっちり、悲しみ、闇、それを主は、無くしてくださる。

ゼブルンとナフタリ、主の宮からはなれていた。
主の御言葉から、遠くはなれていたら、真っ先に異邦の教え、異邦の拝むもの、異邦の価値観にすぐに感染して、染まってしまう。だから、宮から離れる事ないように気をつけるべき。

 9:2 暗やみの中に歩んでいた民は大いなる光を見た。暗黒の地に住んでいた人々の上に光が照った。

この箇所はマタイでも引用されている。イエス様がガリラヤで宣教を始めた時に。
闇が最も深い時に、光があらわれる。
アッシリア、バビロン、メディア、ペルシア、ギリシヤ、ローマ.
光が登ったのは、ローマの時、だから、罪にどっぷり浸かりきっているなら、何世代に渡っても光は上らない。
力ある者が来ては踏みにじられ、してきた。
私達には既にイエス様が来られ、何か起きた時、イエス様に助けを求めるなら、速やかにイエス様が助けに来てくださるが、しかし、立ち返らない、という事であれば、(主は確かにあわれんではくださるが)、しかし、その助けは、蹂躙され奪われ下敷きにされた、さらにその、ずっとずっと後に、である。だから、私達の側が悔い改めて立ち返るほうが、よほど立ち直りの近道である。

イエス様が現れる時、全ての闇は光へ、全ての死は、いのちへと飲み込まれていく。
イエス様が来られる前までは、本当に暗闇だった。人は絶望し、マラキから預言が絶えて400年、ずっと空白の期間を過ごし、人々がメシヤを求める声、その呼び声をかける人々の上に、大きな光が照った。

 9:3 あなたが国民を増し、その喜びを大きくされたので、彼らは刈入れ時に喜ぶように、獲物を分かつ時に楽しむように、あなたの前に喜んだ。

死を待ち望む以外にないような人々n上に、光を照らしてくださる。
主が与えてくださった豊かな実り、主が育てて下さったもの、、、主が光を照らしてくださると、いのちが育って、多くの実りがもたらされる。
このような祝福お受けた人は、やることなす事、全て健やかに祝福されてしまう。あまりに利益が、あまりに収穫が多くされ、あたかも、戦争して勝ってぶんどりができるかのようになる。
この「ぶんどり」、戦争で勝利した側がする事であるが、この箇所の「敵」は悪魔サタンである。
つまり、悪魔サタンにとらわれていた人達、悪魔サタンが不当に占拠していた数多の良いもの、それを、私達が分捕ったという喜び楽しみ。主が与えてくださる実りと、主が勝ち取らせてくださるこのぶんどりに、私達は喜び楽しむのである。

 9:4 これはあなたが彼らの負っているくびきと、その肩のつえと、しえたげる者のむちとを、ミデアンの日になされたように折られたからだ。
 9:5 すべて戦場で、歩兵のはいたくつと、血にまみれた衣とは、火の燃えくさとなって焼かれる。

まことの光なるイエス様が、太陽としてのぼり、死の陰の地に住んでいた彼らの重荷、また、彼らを打っていた鞭や杖、それらは、ミデヤンの日になされたように、粉々に砕かれる。
御言葉に背く事には、ひたいの汗と労苦があり、罪の刑罰、すなわち鞭とつえが、必ずともなう。

 9:5 すべて戦場で、歩兵のはいたくつと、血にまみれた衣とは、火の燃えくさとなって焼かれる。
罪の飲み食いや取引をする内に、人の血を流したり、返り値をあびたり、あるいは、自分が、より強い者から血を流されたりする。そうした血に汚れたふくやくつ、義の太陽なるキリストが昇る時、火のえじきとなり、もやは罪穢れは焼かれて清められる。
自分も相手も傷を与え、傷つけ合い、罪を犯しあい、血を流したり流させたり、、、神の目から見れば私達の姿は、みんな、血を流しているように見える。その様を、「すべて戦場で、歩兵のはいたくつと、血にまみれた衣」、それを、わらのように燃やす。わらに火がつけられると、たちまち一瞬にして燃えて灰になるように。

主はどのようにして、死の影の地に住んでいた人達に、光を照らしてくださるのか。。。
それは、ひとりのみどりごによって、である。

 9:6 ひとりのみどりごがわれわれのために生れた、ひとりの男の子がわれわれに与えられた。まつりごとはその肩にあり、その名は、「霊妙なる議士、大能の神、とこしえの父、平和の君」ととなえられる。

このイエス様が来て、1-5節の全てを解消する!
全世界を覆っていた、ながらく覆っていた分厚い、しつこい闇、死、その中へと投じられたひとつの光。
その光によって救われる「光」とは、ひとりのみどりご。
主イエス様は、ひとりのみどりごとして私達のために生まれて下さった。
主の御名を呼ぶ個人にも生まれ、主の御名を呼ぶ集団に生まれ、また、主の御名を呼ぶ国にも生まれてくださる。
どういう方か。

 9:6 ひとりのみどりごがわれわれのために生れた、ひとりの男の子がわれわれに与えられた。まつりごとはその肩にあり、その名は、「霊妙なる議士、大能の神、とこしえの父、平和の君」ととなえられる。
Isa 9:6 For unto us a child is born, unto us a son is given: and the government shall be upon his shoulder: and his name shall be called Wonderful, Counsellor, The mighty God, The everlasting Father, The Prince of Peace.

主権は、英語でガバメント、すなわち政府。つまりイエス様の肩に政府が置かれる。
日本の政府は国会議事堂や内閣府に置かれているが、神の国の支配権は、イエス様の肩に置かれている。
国に申請する時は、いつも役所に行ってしなくてはならないが、神の国においてはそんな面倒は無い。イエス様の御名によっていつでもどんな時でも、まどろむ事なく、眠ることのないイエス様に申し上げる事ができる。
全ての権威、点においても地においても、イエス様の肩にあるから、どこかに行ってやる事もない。したい事を、したい時間に、移動する事なく、全部できてしまう。
なぜなら、大祭司の肩には、イスラエルの名を負って記念としている。大祭司は、イスラエル十二部族の名を肩に負いつつ主の御前に出て執り成しのつとめを為すのだ。(出エジプト記28:9-12)

「霊妙なる議士、大能の神、とこしえの父、平和の君」 英語では、「Wonderful, Counsellor, The mighty God, The everlasting Father, The Prince of Peace.」
主は、どんな悩み、問題、しつこい解決不能な事さえ、解決へと導いてくださる Wonderful, Counsellorであり、力ある神。仕事で忙しくてなかなか助言を求められなくても、私達の主イエス様は、いつでも、求めて、いつでも助言を求める事ができる。この、神の国のガバメントは、月曜から金曜の9時から17時まで、などという限定は無いし、なになにの書類を整えなければ受理しません、も無い。いつでも、永遠の父の求め、不思議な助言が与えられ、力ある神の力が行使され、平和の君、そのあらゆる善き事を、いつでも、求める事ができるのだ。

イエス様はまた、平和の君、プリンス・オブ・ピースである。あらゆる不和、あらゆる争いごと、それはイエス様の元に行けば、平和へとつくりかえられる。

 9:7 そのまつりごとと平和とは、増し加わって限りなく、ダビデの位に座して、その国を治め、今より後、とこしえに公平と正義とをもって/これを立て、これを保たれる。万軍の主の熱心がこれをなされるのである。
Isa 9:7  Of the increase of his government and peace there shall be no end, upon the throne of David, and upon his kingdom, to order it, and to establish it with judgment and with justice from henceforth even for ever. The zeal of the LORD of hosts will perform this.

これを行うのは、私達の努力ではなく、主の熱心が、この事を行ってくださる。
イエス様の主権、ガバメントは、どんどん増し加わって、そしてそれは、平和であり、限りなく、ダビデの王座につき、その王国を、とこしえまで。エバーラスティング。終わりが無い。それが、闇の中に住んでいる人達の上に照り渡る光。それが、彼の威光であり、力であり、ご性質である。

私達には、2つの道がある。
ゼブルンやナフタリ、のように、ずっと立ち返らないで、自分の好むことをやり続けて、ひたすら、ほかの強い人から奪われ、搾取され、奴隷化され、ずっと続けるか。その一つの道を選ぶか。
それとも。もう一つの道、イエス様を受け入れて、イエス様の主権の内に歩んでいくか。
イエス様すなわち、ひとりのみどりごに依り頼んで、いつでも不思議な助言を得て、力を得て、支配を得て、幸いへと祝福へと栄の内にとこしえまで生きる皆さんでありますように。

礼拝説教メッセージ音声:素晴らしい夫の元へと導かれる女性の性質(1サムエル記25:36-44):右クリックで保存

『こうしてアビガイルはナバルのもとにきたが、見よ、彼はその家で、王の酒宴のような酒宴を開いていた。ナバルは心に楽しみ、ひじょうに酔っていたので、アビガイルは明くる朝まで事の大小を問わず何をも彼に告げなかった。』(1サムエル記25:36)


ナバルは、アビガイルが彼の愚かさを身代わりに引き受け、ダビデに執り成していたその時、王のような宴会をしていた。
彼は、与えられてた富や素晴らしい人材、赦され続けて来た赦しを、極度のぜいたくで浪費していた。
人は、どんなに富んでいても、神の前で富まなくてはどうしようもない。

ぜいたくを極めたソロモンは言っている。
『人は食い飲みし、その労苦によって得たもので心を楽しませるより良い事はない。これもまた神の手から出ることを、わたしは見た。だれが神を離れて、食い、かつ楽しむことのできる者があろう。神は、その心にかなう人に、知恵と知識と喜びとをくださる。しかし罪びとには仕事を与えて集めることと、積むことをさせられる。これは神の心にかなう者にそれを賜わるためである。これもまた空であって、風を捕えるようである。』(伝道者2:24-26)
ソロモン王は、統治の前半は与えられた知恵と富を神と人とのために用いたが、後半は主を忘れ、自分の欲望を満足させる事に、富と権力を用いた。

神の国の事柄が見えなくなった彼は、世における最高の良い楽しみは「飲み食い」にしか見い出せない、全てがむなしい、という価値観になってしまった。
彼は26節で言っている。罪人が一生懸命働いて富を積み立てても、それは実は御心に適った人に渡すために蓄えているものだ、と。
ナバルに、まさに、それが実現してしまう。

『朝になってナバルの酔いがさめたとき、その妻が彼にこれらの事を告げると、彼の心はそのうちに死んで、彼は石のようになった。十日ばかりして主がナバルを撃たれたので彼は死んだ。』(1サムエル記25:37-38)
ナバルはそれまで、普段から行状が悪いのを直さず、ほしいままに突き進んでは、周囲にとばっちりを負わせ、悲しませ続ける事が、今まで許されていたが、主はその「周囲」の悲しみ・叫びをも、聞いておられる。
主からの憐れみ・赦しの時を、浪費し尽くしてしまう時、突然の滅びが訪れるのだ。(詩篇73編)

人から、神から、同じ事を注意され続けても、いつまでも許されると思って突き進んでいてはならない。
やがて、その刈り取りをする事になるからだ。
ナバルにとって、ダビデの使者が遣わされた時が、最後のチャンスだったが、彼は普段どおり愚かな対応をしてしまい、結局、主に打たれることとなってしまった。

『ダビデはナバルが死んだと聞いて言った、「主はほむべきかな。主はわたしがナバルの手から受けた侮辱に報いて、しもべが悪をおこなわないようにされた。主はナバルの悪行をそのこうべに報いられたのだ」。』(1サムエル記25:39)
ダビデはこの経験を通して、確信した。主は、悪を行う者に必ず報いて下さるという事を。
そして、自分の手で悪者に仕返しをする事は、悪の道であり、何の益ももたらさない事を。
善を行ない続ける事が、もしかしたらとても無駄であるかのように、自信が揺らいでいたが、それはやはり正しかった、その道を進んで良いのだ、その先には大きな報いがあるのだと、自信を取り戻した。
それで彼は、確信をもって詩篇37編を記したのだろう。
『主の前にもだし、耐え忍びて主を待ち望め。おのが道を歩んで栄える者のゆえに、悪いはかりごとを遂げる人のゆえに、心を悩ますな。怒りをやめ、憤りを捨てよ。心を悩ますな、これはただ悪を行うに至るのみだ。悪を行う者は断ち滅ぼされ、主を待ち望む者は国を継ぐからである。悪しき者はただしばらくで、うせ去る。あなたは彼の所をつぶさに尋ねても彼はいない。しかし柔和な者は国を継ぎ、豊かな繁栄をたのしむことができる。』(詩篇37:7-11)

『ダビデはアビガイルを妻にめとろうと、人をつかわして彼女に申し込んだ。ダビデのしもべたちはカルメルにいるアビガイルの所にきて、彼女に言った、「ダビデはあなたを妻にめとろうと、われわれをあなたの所へつかわしたのです」。』(1サムエル記25:39)

ダビデは、アビガイルとたった一度しか会っていなかったのに、夫ナバルが死んだと聞いて、早速結婚を申し込んだ。
たった一度のあの会話で、彼女が素晴らしい信仰者である事を悟ったのだ。
彼女は、主の御名と柔和な言葉によってダビデの荒んでいた心を慰め、弱っている信仰を奮い立たせ、罪を犯す事から、彼を守ってくれた。
彼女を伴侶として共に歩むなら、信仰にあって共に助け合い、罪や悪に走りそうな時、助けてくれてくれるだろう、と踏んだのだ。

愚かで行状の悪い夫が死に、はるかに優れた男・ダビデにプロポーズされたアビガイルは、どうしたか。
『アビガイルは立ち、地にひれ伏し拝して言った、「はしためは、わが君のしもべたちの足を洗うつかえめです」。アビガイルは急いで立ち、ろばに乗って、五人の侍女たちを連れ、ダビデの使者たちに従って行き、ダビデの妻となった。』(1サムエル記25:41-42)
彼女は、素晴らしい男性から告白されたとたん、傲慢がそそり立つような女性ではなく、彼女が真っ先に起こしたリアクションは、地にひれ伏し拝する事、真っ先に言った言葉は「はしためは、わが君のしもべたちの足を洗うつかえめです」だった。

妻が夫に仕える。それは、結婚生活において主の御前に正しい事であり(エペソ5:22-24)、そのようにする家庭には、権威の正しい秩序が形成され、健全な家庭となる。
ダビデの先の妻・アヒノアムの子・アムノンも、後の妻・マアカの子・アブシャロムも、共に問題を起こしたが、アビガイルの子・キルアブについては、特に問題を起こした事は記されていない。
サウルの娘・ミカルは、自分の価値観を押し付ける目でダビデを見下ろし、それに則さない夫に嫌味を言う性質だったためだろうか、生涯、子が無かった。

アビガイルは、ナバルという愚かな夫の妻だった時から、既に、いつも主の御名を呼び、主にあって正しく仕えていた。
だからこそ彼女は、ダビデとばったり会った時、主エホバの御名を七度も用いて彼をなだめる事が出来たのであり、いざ、彼女がダビデに迎えられた時、「はしためは、わが君のしもべたちの足を洗うつかえめ」になるつもりだと告白したのだ。
『妻たる者よ。夫に仕えなさい。そうすれば、たとい御言に従わない夫であっても、あなたがたのうやうやしく清い行いを見て、その妻の無言の行いによって、救に入れられるようになるであろう。あなたがたは、髪を編み、金の飾りをつけ、服装をととのえるような外面の飾りではなく、かくれた内なる人、柔和で、しとやかな霊という朽ちることのない飾りを、身につけるべきである。これこそ、神のみまえに、きわめて尊いものである。』(1ペテロ3:1-4)

アビガイルは既に「成熟した妻」として整えられていた。
だから主は、彼女をさらに優れた夫・ダビデの元へと、しかも、イスラエルの王となる「途上」の、ダビデにとって重要な時期に、妻として送られたのだ。
私達も、普段、愚かなナバルに仕えるような日々を通らされているかもしれない。
しかし、アビガイルのように、主にあって忠実にその時期を過ごし、学ぶべき事をしっかり学び、誠実を養い、御前に不要な性質を取り除くなら、主はちょうど良い時期に引き上げて下さるのだ。

礼拝説教メッセージ音声:アビガイルの信仰と執り成し(1サムエル記25:25-35):右クリックで保存

アビガイルのダビデに執り成した内容から分かる事は、彼女は、卓越した信仰の持ち主だ、という事である。

なぜなら、24節から31節の彼女の言葉には、「主(エホバ)」の御名が七もあり、また彼女は、ダビデがこれから主によって王とされ、その後ダビデが受ける祝福をかなり正確に言い当てるからだ。

『わが君よ、どうぞ、このよこしまな人ナバルのことを気にかけないでください。あの人はその名のとおりです。名はナバルで、愚かな者です。あなたのはしためであるわたしは、わが君なるあなたがつかわされた若者たちを見なかったのです。』(1サムエル記25:25)
彼女は決して、自分の夫・ナバルの悪口を言って、ダビデの機嫌を取ろう、としているのではない。
夫婦は一体であり、彼女は、夫がした事は「自分がした」事として、執り成しているのだ。
事実、彼女は「このとがをわたしだけに負わせてください。」と言い(24節)、「どうぞ”はしためのとが”を許してください。」(28節)と願っている。

「わが君よ、どうぞ、このよこしまな人ナバル(であり自分)のことを気にかけないでください。」
自分達の側が犯した罪咎を、どうぞ気にかけないで下さい・・・随分都合の良い要求のように見えるが、ダビデ自身も、同じような「都合のいい」事を主に求めている。
『主よ、あなたのあわれみと、いつくしみとを/思い出してください。これはいにしえから絶えることがなかったのです。わたしの若き時の罪と、とがとを/思い出さないでください。主よ、あなたの恵みのゆえに、あなたのいつくしみにしたがって、わたしを思い出してください。』(詩篇25:6-7)
私達も、まことのダビデである主イエス様に、「主よ、わたしの罪咎を思い出さないでください」「あなたの恵み、あなたのいつくしみに従って、わたしを思い出してください。」と、実に都合の良い祈りが出来る事は、本当に幸いである。

『それゆえ今、わが君よ、主は生きておられます。またあなたは生きておられます。主は、あなたがきて血を流し、また手ずから、あだを報いるのをとどめられました。どうぞ今、あなたの敵、およびわが君に害を加えようとする者は、ナバルのごとくになりますように。』(1サムエル記25:26)
彼女は聡明である。
ダビデが自分から人の血を流す事を「主(エホバ)は」「既にとどめた」、と、言葉において既成事実化しており、同時に、ナバルに災いが降る事、そして、ダビデの敵もナバルのようになると、「既に成った」事としている。
主にあって信仰深く歩もうと、常に気をつけているダビデとしては、この言葉は、飲まざるをえないだろう。

『どうぞ、はしためのとがを許してください。主は必ずわが君のために確かな家を造られるでしょう。わが君が主のいくさを戦い、またこの世に生きながらえられる間、あなたのうちに悪いことが見いだされないからです。』(1サムエル記25:28)
驚くことに彼女は、預言者ナタンに先んじて、「主は必ずわが君のために確かな家を造られる」と、ダビデの将来を正しく予見している。(2サムエル記7章)
彼女がこの事を言ったのは、決して「おだて」でなく、根拠がある。それは、ダビデが「主のいくさを戦」っている事だ。

ダビデがゴリヤテやペリシテ人と戦い、ケイラを救ったのも、「主の戦い」には違いないが、彼は、霊においても「主の戦い」を戦っている。
彼が油注がれた王・サウルを、いつでも殺してしまえる「誘惑」と戦ったのも、「主の戦い」であり、その、常人ではとても勝利できないような誘惑に、彼は勝利した。

私達も常時、ダビデのように、信仰において「主の戦い」を戦っている。
罪や穢れ、悪と戦う時、また、私達の内に込み上げてくる怒りや恐れ、不安に対し「主にあって」戦う時、それは主の戦いである。
『怒りをおそくする者は勇士にまさり、自分の心を治める者は城を攻め取る者にまさる。』(箴言16:32)

ダビデはサウルに対する恐れと戦い、部下達を養わなくてはならない不安と戦い、逃亡生活中であってもケイラを救うために戦い、ナバルの羊飼いに良くしてやるという「信仰の戦い」もして来た。
そして今回、恩を仇で返したナバルへの「怒り」という、ダビデの内なる敵に負けそうになったが、主は助け手としてアビガイルを送り、助けて下さった。

『たとい人が立ってあなたを追い、あなたの命を求めても、わが君の命は、生きている者の束にたばねられて、あなたの神、主のもとに守られるでしょう。しかし主はあなたの敵の命を、石投げの中から投げるように、投げ捨てられるでしょう。』(1サムエル記25:29)
彼女のこの言葉は、どれほどダビデにとって慰めとなっただろう。
彼はこの時、一国の王から追われている身だ。
いかに主から油を注がれた、と言っても、現実は、右も左も見えず将来も全く見えない。
第三者が見れば、いつ命を落とされるか、いつのたれ死んでしまうか分からない状況である。
主を信頼してずっと善を行って来たはずなのに、恩を仇で返され、怒り、落胆し、剣で報いようとして向かう途中、という、荒み切った心のダビデに、この言葉は、どれほど慰めとなったただろう。

『そして主があなたについて語られたすべての良いことをわが君に行い、あなたをイスラエルのつかさに任じられる時、あなたが、ゆえなく血を流し、またわが君がみずからあだを報いたと言うことで、それがあなたのつまずきとなり、またわが君の心の責めとなることのないようにしてください。主がわが君を良くせられる時、このはしためを思いだしてください」。』(1サムエル記25:30-31)
アビガイルは、将来、あなたは必ず王になるから、今、主が約束されているそのキャリアに汚点を残す事が無いようにして下さい、そして、王となった暁には、わたしを思い出して下さい、と願った。
彼女は、まだ見ていない事を、信仰によって、見ていた。
目の前のダビデは、一介の逃亡者である。しかしダビデは主の戦いを今戦っており、彼はやがてイスラエルの王となるべき器である事を。

イエス様と共に十字架につけられた強盗も、その信仰を持っていた。
彼の目の前にいたイエス様は、十字架につけられ、人々から罵られ、あと数時間もすれば、死んでしまうような死刑囚であったのに、彼はイエス様の中に、生死を超越した永遠の王の性質を見たのだ。
だから彼は「イエスよ、あなたが御国の権威をもっておいでになる時には、わたしを思い出してください」と願ったのだ。(ルカ23:42)

事実、彼はその日、イエス様と共にパラダイスに行って、永遠に共に生きるようになった。
アビガイルも、ナバルが死んだ後、ダビデに結婚を申し込まれ、後には王妃となり、ダビデと共に王宮で暮らす事となった。
目に見える所によらず、信仰によって永遠の王・キリストを見、彼に「わたしを思い出して下さい」と申し出るなら、私達もパラダイスへ行き、キリストの花嫁となり、永遠の御住まいで共に生きるのだ。

アビガイルが、この素晴らしい執り成しを終えると、ダビデは真っ先に、主を誉めたたえた。
『ダビデはアビガイルに言った、「きょう、あなたをつかわして、わたしを迎えさせられたイスラエルの神、主はほむべきかな。あなたの知恵はほむべきかな。またあなたはほむべきかな。あなたは、きょう、わたしがきて血を流し、手ずからあだを報いることをとどめられたのです。』(1サムエル記25:32-33)
この言葉の中に、バラーフ(祝福、膝をつく)という言葉が、三度使われている。
ダビデは、主にひざをつき、アビガイルの知恵に、そしてアビガイル自身を祝福した。

『わたしがあなたを害することをとどめられたイスラエルの神、主はまことに生きておられる。もしあなたが急いでわたしに会いにこなかったならば、あすの朝までには、ナバルのところに、ひとりの男も残らなかったでしょう」。』(1サムエル記25:34)
ダビデの優れた所は、ひとたび彼自身が誓った事でも、それが主に対して罪を犯すような内容であったと気づいたら、すぐさまそれを取り降ろした所だ。
身勝手な誓いを連発し、最功労者であり息子のヨナタンさえ殺そうとしたサウルとは、大違いである。

『ダビデはアビガイルが携えてきた物をその手から受けて、彼女に言った、「あなたは無事にのぼって、家に帰りなさい。わたしはあなたの声を聞きいれ、あなたの願いを許します」。』(1サムエル記25:35)
ダビデはアビガイルに、無事に(シャロームの内に)帰りなさいと、平安の内に帰した。
信仰の友・ヨナタンとも会えず、荒んでいたダビデにとって、この素晴らしい信仰の女性・アビガイルとの邂逅は、大きな慰めとなっただろう。
信仰者は、素晴らしい信仰者と新しく出会う時、慰めを受け、そこから新たないのちの繋がりが生まれて来るのだ。

礼拝説教メッセージ音声:ナバル家を代表して執り成すアビガイル(1サムエル記25:14-24):右クリックで保存

ナバルとダビデの使者とのやりとりを見ていた若者がいた。

彼はナバルの無礼な対応を見て、明らかに、これから自分たちに災いが降りかかる事を知った。
それで彼はナバルの妻・アビガイルに相談する。

『ダビデが荒野から使者をつかわして、主人にあいさつをしたのに、主人はその使者たちをののしられました。しかし、あの人々はわれわれに大へんよくしてくれて、われわれは少しも害を受けず、またわれわれが野にいた時、彼らと共にいた間は、何ひとつ失ったことはありませんでした。われわれが羊を飼って彼らと共にいる間、彼らは夜も昼もわれわれのかきとなってくれました。』(1サムエル記25:14-16)
この、ナバルに仕えている若者も、ダビデの事を認めている。
ダビデ達は、サウルに追われていて大変であるにもかかわらず、自分達に良くしてくれ、自分達を守ってくれていた事を。

『それで、あなたは今それを知って、自分のすることを考えてください。主人とその一家に災が起きるからです。しかも主人はよこしまな人で、話しかけることもできません」。』(1サムエル記25:17)
この、名も無き若者のほうが、ナバルよりも賢い。
自分達の主人ナバルが、誰に一体何をしたか。そのため、どんな事がこれから起ころうとしているのかを、悟っている。

社長がどうしようもなく愚かなのに、その会社が良い業績を上げているとするなら、愚かな社長をフォローしている有能な部下たちがいるのだろう、と、推測できる。
同じように、ナバルは今までずっとこんな愚行をして改めていないのに、事業が立ちまわっているのであるなら、ナバルが愚行を犯す都度、有能な彼の周りがフォローしてくれていたのだろう、と、推測できる。
しかし、物事には限度がある。
今回、ナバルがしてしまった事については、ナバルのしもべ達には何のフォローもしようがないし、また、ナバルに何を言っても聞かない事は、既に分かっていた。
だから彼は、ナバルの妻・アビガイルに申し出たのだ。

『その時、アビガイルは急いでパン二百、ぶどう酒の皮袋二つ、調理した羊五頭、いり麦五セア、ほしぶどう百ふさ、ほしいちじくのかたまり二百を取って、ろばにのせ、若者たちに言った、「わたしのさきに進みなさい。わたしはあなたがたのうしろに、ついて行きます」。しかし彼女は夫ナバルには告げなかった。アビガイルが、ろばに乗って山陰を下ってきた時、ダビデと従者たちは彼女の方に向かって降りてきたので、彼女はその人々に出会った。』(1サムエル記25:18-20)
彼女の、ダビデをなだめるための行動は、素早かった。
贈り物として彼女が用意したものは、ダビデ達六百人に対しては、少ないかのように見える。
きっと、ナバルには内緒で準備したために、用意できるものは限られてはいても、精一杯整えたのだろう。

『さて、ダビデはさきにこう言った、「わたしはこの人が荒野で持っている物をみな守って、その人に属する物を何ひとつなくならないようにしたが、それは全くむだであった。彼はわたしのした親切に悪をもって報いた。もしわたしがあすの朝まで、ナバルに属するすべての者のうち、ひとりの男でも残しておくならば、神が幾重にもダビデを罰してくださるように」。』(1サムエル記25:21-22)
ナバルのダビデに対する無礼な対応を、怒る気持ちは、分からないでもない。
しかし、ナバルだけでなく彼に属する全ての人達を殺すのは、明らかにやり過ぎである。
それは「ダビデは」してはならない事である。

普通の人なら普通にして許されるような事でも、主に油注がれた者、すなわち、主から特別に任職された者には、許されない事もあるのだ。
多くの人の命を預かるパイロットは、飛行機を操縦している間、決して酒を飲まないのと同じように、多くの人々の魂を預かる主から任職された器の人は、怒りに酔って人々を殺すような事は、してはならない。
主は、主が用意された特別な器を訓練する。
そして、罪を犯させないように守り、助ける人を遣わしてくださる。

『アビガイルはダビデを見て、急いで、ろばを降り、ダビデの前で地にひれ伏し、その足もとに伏して言った、「わが君よ、このとがをわたしだけに負わせてください。しかしどうぞ、はしために、あなたの耳に語ることを許し、はしための言葉をお聞きください。』(1サムエル記25:23-22)
アビガイルのダビデに対する執り成しが始まる。
彼女がそれをしたのは、彼女の主人・ナバルのためであり、またナバルに仕える大勢の人々のためだった。

彼女はこの事を知らなかったし、また、もし彼女が最初に応対していたとするなら、絶対ナバルのような対応は取らなかった。
それでも彼女は「このとがをわたしだけに負わせてください。」と言った。
ダニエルも、彼自身は罪を犯していなかったのに、『”われわれは”罪を犯し、悪をおこない、よこしまなふるまいをなし、そむいて、あなたの戒めと、おきてを離れました。』と言ってイスラエルを執り成した。(ダニエル9:5)
イエス様も、罪無きお方であったのに、全人類に代わって罪とされ、身代わりとなって、十字架上で刑罰を受けて下さった。

アビガイルが、自分の属しているナバル家を救うために、ダビデをなだめる行動を起こしたように、私達も、私達が属している国、団体、会社のトップ達のために、主に執り成し、祈るべきである。
私達の国は、まことのダビデであるキリストに、数々の無礼を働いているため、そのままでは災いが来る事は、目に見えている。
日本では少数のキリスト者である私達が、主をなだめるために祈る祈りは、たかが知れているかもしれない。それでも、主をなだめ祈るべきだ。

『そこで、まず第一に勧める。すべての人のために、王たちと上に立っているすべての人々のために、願いと、祈と、とりなしと、感謝とをささげなさい。それはわたしたちが、安らかで静かな一生を、真に信心深くまた謹厳に過ごすためである。』(1テモテ2:1-2)
私達は、取り成し祈る事によって、敬虔に、また、威厳をもって、平安で静かな一生を過ごす事が出来るが、もしそれをしないなら、私達が属している国や集団、会社などが犯してきた罪や愚かさの報いを、一緒に受けてしまう。
そうならないためにも、私達は破れ口に立ち、執り成し祈るべきなのだ。
『これは、わたしたちの救主である神のみまえに良いことであり、また、みこころにかなうことである。神は、すべての人が救われて、真理を悟るに至ることを望んでおられる。』(1テモテ2:3-4)

イザヤ書講解説教メッセージ音声(音声のみ)
頑なに主を頼みとしない者が受ける分(イザヤ8章)(韓国語通訳有한국어예배):右クリックで保存

【概要】

イザヤ書8章を中心に、神への信頼と人間の不信仰について語られたメッセージ。

【聖書箇所】

イザヤ書8章2-4節、5-10節、11-16節、17-22節

【励ましの言葉】

主を聖なる方とし、恐れおののく者には、主が聖所となり守りとなってくださる。

【戒めの言葉】

人々が恐れるものを恐れず、主のみを恐れよ。占い師や霊媒に頼らず、神の教えと証しに尋ねよ。

【***詳細***】

今日のメッセージは、イザヤ書8章を中心に、神への信頼と人間の不信仰について語られています。

まず、2-4節で、イザヤは息子の名前を「マヘル・シャラル・ハシュ・バズ」(分捕りは早く、略奪は速やかに)と名付けるよう命じられます。これは、ダマスコとサマリアが滅ぼされることを預言するものでした。

「それは、この子がまだお父さん、お母さんと呼ぶことも知らないうちに、ダマスコの財宝とサマリアの分取り物がアシリアの王の前に持ち去られるからである。」(イザヤ8:4)

この預言は、アハズ王が恐れていたアラムとイスラエルの王が速やかにアッシリアによって滅ぼされることを示しています。神は、まだ生まれていない子供の名前を用いて預言することで、アハズ王に神への信頼を促そうとしました。

しかし、5-10節では、ユダの民が神を信頼せず、アッシリアに頼ろうとしたことが批判されます。

「この民が緩やかに流れるシロアの水をないがしろにして、レツィンとレマリアの子を喜んでいる。」(イザヤ8:6)

神は、彼らが頼ろうとしたアッシリアが逆にユダを滅ぼすことを預言します。これは、人間の力に頼ることの愚かさを示しています。

11-16節では、イザヤは神から特別な警告を受けます。

「この民が謀反と呼ぶことを、あなたがたは謀反と呼んではならない。彼らの恐れるものを恐れてはならない。おののいてはならない。」(イザヤ8:12)

ここで神は、イザヤに人々の恐れや陰謀に巻き込まれないよう警告しています。代わりに、万軍の主を聖なる方とし、主のみを恐れるよう命じています。これは、困難な時代にあっても、神のみに信頼を置くべきことを教えています。

17-22節では、イザヤの決意と、不信仰な者たちへの警告が語られます。

「私は主を待つ。ヤコブの家から御顔を隠しておられる方を。私はこの方に望みをかける。」(イザヤ8:17)

イザヤは、たとえ神が御顔を隠しておられるように見えても、主を待ち望む決意を表明しています。一方で、占い師や霊媒に頼る者たちは、真の光を見出せないと警告しています。

「もし、この言葉に従って語らなければ、その人には夜明けがない。」(イザヤ8:20)

このメッセージ全体を通して、神は私たちに次のことを教えておられます:

  1. 人間の力や知恵ではなく、神に信頼を置くこと。

  2. 世の中の恐れや陰謀に惑わされず、神のみを恐れること。

  3. たとえ困難な時代であっても、神の言葉に従い、主を待ち望むこと。

  4. 占いや霊媒など、神以外のものに頼らないこと。

これらの教えは、現代を生きる私たちにも大きな示唆を与えています。世界が混沌とし、不安が広がる時代にあっても、私たちは神の言葉に立ち返り、主に信頼を置くべきです。

「教えと証しとに尋ねよ。もし、彼らがこの言葉に従って語らなければ、その人たちには夜明けがない。」(イザヤ8:20)

この御言葉に従って生きる時、たとえ周りが暗闇に包まれていても、私たちの内には光が輝き続けるのです。

【結論】

困難な時代にあっても、人間の知恵や力ではなく、神のみに信頼を置き、御言葉に従って生きることが重要である。そうすることで、私たちは世の光として輝き、神の守りの中に留まることができる。

礼拝説教メッセージ音声:サウルには忍耐できてもナバルには忍耐できなかったダビデ(1サムエル記25:1-13):右クリックで保存

殺意をもって追って来たサウルに、憐れみによって見事勝利したダビデだったが、今回、ダビデは俗的な一般人のように戻ってしまう一面を見る。


『マオンに、ひとりの人があって、カルメルにその所有があり、ひじょうに裕福で、羊三千頭、やぎ一千頭を持っていた。彼はカルメルで羊の毛を切っていた。その人の名はナバルといい、妻の名はアビガイルといった。アビガイルは賢くて美しかったが、その夫は剛情で、粗暴であった。彼はカレブびとであった。』(1サムエル記25:2-3)
ナバルの名の意味は「愚か」、また「カレブ」は「犬」の意味があり、七十人訳聖書は「彼は犬のような男であった」と訳されている。

ナバルはカルメルの事業家で裕福となり、優秀な人材にも恵まれているのに、頑迷で、行状の悪さを改めず、身内の人々からも「よこしまな者(17,25節)」と呼ばれていた。
その素行の悪さにもかかわらず、彼が今まで守られて来たのは、ひとえに、彼の周りの優秀な人達が、彼の素行の悪さカバーしていたためだろう。
このナバルに、ダビデはかつて、良くしてやった事があった。

『ダビデは荒野にいて、ナバルがその羊の毛を切っていることを聞いたので、十人の若者をつかわし、その若者たちに言った、「カルメルに上って行ってナバルの所へ行き、わたしの名をもって彼にあいさつし、彼にこう言いなさい、『どうぞあなたに平安があるように。あなたの家に平安があるように。またあなたのすべての持ち物に平安があるように。』(1サムエル記25:4-6)
ダビデは「平安(シャローム)」という祝福の挨拶を三度も送っている。
ダビデは、彼がどのような人物であるか知っていたであろう。
そのような者に対しては、威圧的にならず、へりくだって平和の挨拶をする方が良いと、今までの経験で身に付けたのかもしれない。

イエス様は弟子達に言われた。
『その家にはいったなら、平安を祈ってあげなさい。もし平安を受けるにふさわしい家であれば、あなたがたの祈る平安はその家に来るであろう。もしふさわしくなければ、その平安はあなたがたに帰って来るであろう。』(マタイ10:12-13)
結論を言うと、ダビデがナバルに発した「シャローム」は、ナバルにはとどまらず、ダビデに帰って来る事になる。

『わたしはあなたが羊の毛を切っておられることを聞きました。あなたの羊飼たちはわれわれと一緒にいたのですが、われわれは彼らを少しも害しませんでした。また彼らはカルメルにいる間に、何ひとつ失ったことはありません。あなたの若者たちに聞いてみられるならば、わかります。それゆえ、わたしの若者たちに、あなたの好意を示してください。われわれは祝の日にきたのです。どうぞ、あなたの手もとにあるものを、贈り物として、しもべどもとあなたの子ダビデにください』」。』(1サムエル記25:7-8)
この事から、ダビデ達がサウルから逃げていた時、彼らは山賊のように、無作為に人のものを奪って食を得ていたのではなく、正当な事をして、正当な報酬を得ていた事が分かる。
ダビデたちがナバルの羊飼い達に、そのように良い事をした事は、後にナバル達の羊飼い達も証言しているし、その事はナバルの耳にも届いていたはずだ。
そんな実績のある彼らが、羊の毛の刈り取り祝いの贈り物として食料を求めるのは、正当な事であるし、ダビデも至極丁重に申し出ている。
しかしナバルは、ダビデ達の「丁重」に対し、「粗野」で返して来た。

『ダビデの若者たちは行って、ダビデの名をもって、これらの言葉をナバルに語り、そして待っていた。ナバルはダビデの若者たちに答えて言った、「ダビデとはだれか。エッサイの子とはだれか。』(1サムエル記25:9-10)
ペリシテの王でさえ「サウルは千を打ち、ダビデは万を打った」という歌を知っている。ましてイスラエルの民である彼が、ダビデの活躍を知らないはずが無い。
彼はダビデの名声を聞いていながらにして、取るに足らない者として、見下したのだろう。

『このごろは、主人を捨てて逃げるしもべが多い。』(1サムエル記25:10)
確かに、ナバルのこんな性格なら、彼の周りから逃げだす奴隷は多いだろうが、一体なぜ、彼は唐突にそんな事を言い出したのか。
もしかすると彼は、ダビデを、サウルという主人から逃げだした、卑劣な逃亡奴隷と見做したのかもしれない。
なにが「ダビデは万を打った」だ、結局は主君を裏切ってみじめに逃げて食料を求めている逃亡奴隷ではないか、というように。
近視眼で、自分が上に立って威張り散らしたい者は、他人の名声を聞いても、些細な所をつまんで貶め、大した事ない奴、と、自他に言い聞かせるものなのだ。

『どうしてわたしのパンと水、またわたしの羊の毛を切る人々のためにほふった肉をとって、どこからきたのかわからない人々に与えることができようか」。』(1サムエル記25:11)
結局のところ、彼は、自分の持ち物を、少したりとも誰かにやりたくなかったのだろう。

『ダビデの若者たちは、そこを去り、帰ってきて、彼にこのすべての事を告げた。そこでダビデは従者たちに言った、「おのおの、つるぎを帯びなさい」。彼らはおのおのつるぎを帯び、ダビデもまたつるぎを帯びた。そしておおよそ四百人がダビデに従って上っていき、二百人は荷物のところにとどまった。』(1サムエル記25:12)
ダビデは普通人のように怒り、罵倒した無礼者に対して、剣で報いようと、部下たちに戦いの用意をさせた。
前回、あんな見事に、柔和な性質をサウルに対してあらわしたダビデだったが、この、つまらない粗野な者の一言で、ただの普通の人に戻ってしまっている。
善を仇で返されたばかりでなく、罵倒までされたのである。怒るのはもっともだが、ナバルだけでなく、罪も無い一族郎党までも、怒りに任せて皆殺しに行くとするなら、まるで、サウルと一緒ではないか。

ダビデは、主が油を注がれた上の権威に対しての従順は、この上なく素晴らしかった。
しかし、下位の、粗野な、面識のない者の、あさってな大風呂敷と、無礼な罵倒に対しては、忍耐と憐れみを示す事は全く頭によぎらず、あたかも下等な犬畜生を殺しに行くかのように、剣を皆に持たせ、出て行った。

粗野な無礼者に、剣で報いる。
それは、この時代は普通に行われていたかもしれないが、ダビデの場合、彼はこれから神の国・イスラエルの王となっていく者である。
神の国の王としての器のものが、それでは、神の国が困るのだ。
私達も、神の国の、王のような祭司である(1ペテロ2:9)。それでいては、困るのだ。

主は、そのダビデの「弱さ」を扱ったのではなかろうか。
そんなダビデを、その性質から救うため、そして王として整えるために、主は一人の助け手、アビガイルという女性を彼に送り、罪を犯させないよう守られる。

私達の中にも、この時のダビデのような性質が、あるのではなかろうか。
貴人に対しては、忍耐もするし、柔和にもなるけれど、見知らぬ粗暴な者から、いきなり無礼極まるあしらいをされたら、人とも思わず犬畜生のように虐殺してやりたい、というような性質が。
あるいは私達に、ナバルのような性質もあるのではなかろうか。
まことのダビデであるイエス様が、人生のあの時この時に盾となり、城壁となって守って下さり、事業を成功させて裕福にもさせて下さったのに、そんなイエス様をないがしろにし、恩を仇で帰したりするような。

私達は、それをこそ主に扱って頂くべきである。
そして、そんな弱い私達にも、アビガイルのような、罪を犯させないよう執り成してくれる助け手を送ってくれるよう、祈るべきである。

礼拝説教メッセージ音声:悪者の口は血を求め、正しい人の口は人を救う(1サムエル記24:8-22):右クリックで保存

無防備のサウルに手をかける事なく、そのまま行かせたダビデは、サウルについていった。

『ダビデもまた、そのあとから立ち、ほら穴を出て、サウルのうしろから呼ばわって、「わが君、王よ」と言った。サウルがうしろをふり向いた時、ダビデは地にひれ伏して拝した。』(1サムエル記24:8)
ダビデのサウルとの対話は、サウルから罵倒されつつ槍を投げつけられて、逃げて以来であろう。
それ以来、ダビデは長い間サウルから命を狙われ続けてきたが、そんなサウルへの最初の言葉は、「わが君、王よ」であり、王への尊敬と礼節を込めたものであった。

ダビデはサウルに、「どうしてあなたはわたしを狙うのですか」とは言わず、『どうして、あなたは「ダビデがあなたを害しようとしている」という「人々の言葉」を聞かれるのですか。』と言った。(1サムエル記24:9)
つまりダビデは、サウルの心にある「ダビデは自分を害そうとしている」という思いは、サウル自身から出たものではなく、サウルではない別者の言葉である事、そしてサウルは、その”偽り”を信じこまされており、自分は全くサウルを責める気は無いと表明している。

実際ダビデの言う通り、サウルは、サウル由来でない別者の言葉を信じ込んでおり、それに従ってダビデを害そうとしているのだ。
サウル由来でない別者の言葉・・・それは、サタンの言葉である。
サタンは偽りの父であり、人の心に偽りを吹きこませ、「サウル、ダビデはお前の王座を狙っているぞ」「今ダビデを殺しておかないと、一族もろとも殺されてしまうぞ」などと、サウルの心に語りかけていたのだ。
常に何かに狙われているような感じがする人、誰も彼も信じられないような、根拠なき恐れに脅えている人は、大体、暗闇から語りかけられる「別者」の言葉を頭に吹き込まれ、それに従って行動してしまうのだ。

ダビデはサウルを責めず、サウルの内に聞こえてくる偽りの声こそ真の敵であり、サウル自身を本来的な真理に気付かせ、立ち返らせようとしたのだ。
なんという配慮であろうか。
まさにキリストの十字架上の執り成し「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」を思い出す。

『わが父よ、ごらんなさい。あなたの上着のすそは、わたしの手にあります。わたしがあなたの上着のすそを切り、しかも、あなたを殺さなかったことによって、あなたは、わたしの手に悪も、とがもないことを見て知られるでしょう。あなたはわたしの命を取ろうと、ねらっておられますが、わたしはあなたに対して罪をおかしたことはないのです。』(1サムエル記24:11)
サウルの上着のすそは刃物で切り取っても、サウルの命には刃を向けなかった。
その行いによって、ダビデは、サウルのいのちを狙うつもりなぞ一切無い事を示した。
さらにダビデは、サウルに、彼自身のおるべき立ち位置を思い起こさせている。

『イスラエルの王は、だれを追って出てこられたのですか。あなたは、だれを追っておられるのですか。死んだ犬を追っておられるのです。一匹の蚤を追っておられるのです。』(1サムエル記24:14)
ダビデはサウルを「イスラエルの王」と呼んだ。
イスラエルの「王」であるなら、もっと他にするべき事はあるでしょう、こんな無害な「死んだ犬」のような者を追う事に、時間とエネルギーを使うよりは、困っている人のためにさばきをしてやるとか、実際の敵であるペリシテ人への防護を強化するなど。

悪霊に憑かれている人を、健全に立ち返らせるためには、「主イエスの名によって悪霊よ出て行け」と声を張り上げるよも、もっと効果的な方法がある。
それは、本人に真理を思い起こさせ、真理における自分の立ち位置に気付かせ、それを口で告白させる事だ。
ダビデはサウルに、彼は「神の国・イスラエルの王」である事を思い起こさせた。私達も、主イエスを信じる信仰によって、神の子であり、王族の祭司であり、聖なる国民であるという真理の立ち位置に立つ時、卑屈だった心、汚れた思い、罪の悩みは霧散するのである。

『ダビデがこれらの言葉をサウルに語り終ったとき、サウルは言った、「わが子ダビデよ、これは、あなたの声であるか」。そしてサウルは声をあげて泣いた。』(1サムエル記24:16)
ダビデの言葉によって、サウルは「人の心」を取り戻した。
『悪しき者の言葉は、人の血を流そうとうかがう、正しい人の口は人を救う。』(箴言12:6)
『正しいくちびるは王に喜ばれる、彼は正しい事を言う者を愛する。王の怒りは死の使者である、知恵ある人はこれをなだめる。』(箴言16:13)

『サウルはまたダビデに言った、「あなたはわたしよりも正しい。わたしがあなたに悪を報いたのに、あなたはわたしに善を報いる。きょう、あなたはいかに良くわたしをあつかったかを明らかにしました。すなわち主がわたしをあなたの手にわたされたのに、あなたはわたしを殺さなかったのです。人は敵に会ったとき、敵を無事に去らせるでしょうか。あなたが、きょう、わたしにした事のゆえに、どうぞ主があなたに良い報いを与えられるように。』(1サムエル記24:17-19)
ダビデはまことに、イエス様のご性質を表している。
人はイエス様に対して悪をはかり、ののしり、十字架につけたのに、イエス様はののしられてもののしり返さず、悪で返す事なく、赦し、執り成し、十字架の死に至るまでも従順を貫き通し、全てのさばきを全能者に委ねられた。

『今わたしは、あなたがかならず王となることを知りました。またイスラエルの王国が、あなたの手によって堅く立つことを知りました。それゆえ、あなたはわたしのあとに、わたしの子孫を断たず、またわたしの父の家から、わたしの名を滅ぼし去らないと、いま主をさして、わたしに誓ってください」。』(1サムエル記24:20-21)
サウルは、今まで心の中で何となく思っていた事が、確信となった。
すなわち、ダビデこそ王の器であり、やがてダビデこそイスラエルの王座につき、イスラエルを正当に建て上げていくという事を。
サウルはその事を「確信」したために、ダビデが王となった際に、自分の子孫を断つ事はしないでほしい、と願ったのだ。

『そこでダビデはサウルに、そのように誓った。そしてサウルは家に帰り、ダビデとその従者たちは要害にのぼって行った。』(1サムエル記24:22)
こうしてダビデはサウルと和解したのだが、サウルと一緒に宮殿へ帰ることは、しなかった。
昨日まで主の嫌われる事に埋没していた人が、悔い改めの言葉を発し、和解したからと言って、両手放しに彼を信頼して身を委ねるのは、早計である。
その前に、彼が日々悔い改めにふさわしい実を結ばようと努力し、その「実」を積み立てるかどうかを、見極める必要があり、彼がしっかり主にあって自制できるようになるまで、しっかり見届けるべきだ。
次章以降のサウルを見ると、残念ながら彼は、悔い改めに相応しい実を結ばせず、以前の悪い状態へと戻ってしまう事になる。

いずれにせよ、サウルに一時的に人の心が戻ったのは、ダビデの愛の行動ゆえである。
私達もダビデのように、与えられた権威に対して、愛と真実をもって接し、多くの人を悪から立ち直らせる皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:無防備なサウルに手をかけなかったダビデ(1サムエル記24:1-7):右クリックで保存

前回、サウルはあと一歩の所までダビデに追い迫ったが、ペリシテのために追う事を中断せざるを得なくなり、そうしてダビデは一命をとりとめた。

しかしペリシテ人の件が一段落つくと、サウルはまたもダビデを追いはじめた。

『サウルがペリシテびとを追うことをやめて帰ってきたとき、人々は彼に告げて言った、「ダビデはエンゲデの野にいます」。そこでサウルは、全イスラエルから選んだ三千の人を率い、ダビデとその従者たちとを捜すため、「やぎの岩」の前へ出かけた。』(1サムエル記24:1)
サウルの元にいる兵は、精鋭3000、対するダビデと一緒にいる兵は、雑多なはみ出し者たち600人。
明らかにダビデ達が不利であり、ダビデの危機である。

それでダビデ達は、サウル達を避け、洞穴の一つに隠れ入っていた。
エンゲディという場所は、死海湖岸の洞窟が多い地帯で、死海文書が発見されたクムラン洞窟もある。
ダビデは、洞窟で隠れていた時の心境を、詩篇57編と詩篇142編とに記している。

『聖歌隊の指揮者によって、「滅ぼすな」というしらべにあわせてうたわせたダビデのミクタムの歌。これはダビデが洞にはいってサウルの手をのがれたときによんだもの
神よ、わたしをあわれんでください。わたしをあわれんでください。わたしの魂はあなたに寄り頼みます。滅びのあらしの過ぎ去るまでは/あなたの翼の陰をわたしの避け所とします。わたしはいと高き神に呼ばわります。わたしのためにすべての事をなしとげられる神に/呼ばわります。』(詩篇57:1-2)
洞窟の中で隠れていたダビデは、決して積極的な心境ではなく、恐れおののいていおり、主の御翼の影に宿りたい一心を、主に吐露していた。
主はそんなダビデに、唐突に、立場逆転のチャンスを与えられた。

『途中、羊のおりの所にきたが、そこに、ほら穴があり、サウルは足をおおうために、その中にはいった。その時、ダビデとその従者たちは、ほら穴の奥にいた。』(1サムエル記24:3)
口語訳では「足をおおう」と直訳しているが、それが「用を足す」「安楽する」「落ち着く」などの意味がある。
いずれにしても彼は、洞窟内で一人、非常に無防備な状態となり、ダビデ達がいとも簡単に命を取れる状況となったのだ。

主がサウルを自分の手に渡して下さった・・・ダビデも思ったであろうし、部下たちもそう思い、すすめた。
『ダビデの従者たちは彼に言った、「主があなたに告げて、『わたしはあなたの敵をあなたの手に渡す。あなたは自分の良いと思うことを彼にすることができる』と言われた日がきたのです」。そこでダビデは立って、ひそかに、サウルの上着のすそを切った。しかし後になって、ダビデはサウルの上着のすそを切ったことに、心の責めを感じた。』(1サムエル記24:4-5)

無防備なサウルを前に、ダビデの心には、嵐があった。
主は確かに、彼を自分の手に渡してくれた。しかし、サウルに手をかけようとすると、どうしてもできなかった。
ダビデは、無防備状態のサウルのすそを、ひそかに切ったのだが、その事で、ダビデは心の責めを感じた。
部下たちは、一体何をやっているのだ、と、じれったく思っただろう。

『ダビデは従者たちに言った、「主が油を注がれたわが君に、わたしがこの事をするのを主は禁じられる。彼は主が油を注がれた者であるから、彼に敵して、わたしの手をのべるのは良くない」。ダビデはこれらの言葉をもって従者たちを差し止め、サウルを撃つことを許さなかった。サウルは立って、ほら穴を去り、道を進んだ。』(1サムエル記24:6-7)
ダビデは決して、部下たちを前に、善人ぶってそうしたのではない。
さっさとサウルを殺して、部下たち共々、逃げ隠れの生活から脱却しようと思えば簡単にできる状況なのに、サウルをみすみす逃がすなど、デメリット以外に思い浮かばない。
それは、主を知らず、生まれつきの行動原理で歩んでいる人には、決して理解できない行動だ。

ダビデは心底、サウルを殺すなど、出来なかったのだ。「主が油を注がれた」「わが君」に、手をかけるなど。
ダビデはサウルを愛していた、というよりも、「サウルに油を注がれた主」を愛していた。だからサウルは、ダビデにとって、主が任命された「上司」であり、主に油注がれた聖なる者である。
いかに、狂ったような素行をしているサウルと言えど、そんなサウルに刃を向けるというのは、主に対して刃を向けるような心境だったのだろう。
だから彼は、すそを切っただけでも、心の責めを感じたのだ。

ダビデは今後、主に油注がれたサウルを、わざとのがした事によって、サウルから命を奪われてしまうのだろうか。
いや、ダビデは主のゆえにこの事をした以上、主が、ダビデの命が奪われる事を許さない。
主を主を重んじる者は、主から重んじられるのだ。
私達も、主が立てて下さった権威に従い、どんなに小さな事でも、主に対してするように、心からするべきである。
そうするなら、主はちょうど良い時に引き上げて下さるからだ。

『だれに対しても悪をもって悪に報いず、すべての人に対して善を図りなさい。あなたがたは、できる限りすべての人と平和に過ごしなさい。愛する者たちよ。自分で復讐をしないで、むしろ、神の怒りに任せなさい。なぜなら、「主が言われる。復讐はわたしのすることである。わたし自身が報復する」と書いてあるからである。
むしろ、「もしあなたの敵が飢えるなら、彼に食わせ、かわくなら、彼に飲ませなさい。そうすることによって、あなたは彼の頭に燃えさかる炭火を積むことになるのである」。悪に負けてはいけない。かえって、善をもって悪に勝ちなさい。』(ローマ12:17-21)

礼拝説教メッセージ音声:見知らぬ者にも売られたダビデと、彼を守られる主(1サムエル記23:19-29):右クリックで保存

主はダビデを、あらゆる災いから守り、彼が心萎えた時にはヨナタンを遣わして慰めてくださった。

しかし、彼に敵する者もまたいた。
『その時ジフびとはギベアにいるサウルのもとに上って行き、そして言った、「ダビデは、荒野の南にあるハキラの丘の上のホレシの要害に隠れて、われわれと共にいるではありませんか。それゆえ王よ、あなたが下って行こうという望みのとおり、いま下ってきてください。われわれは彼を王の手に渡します」。』(1サムエル記23:19-20)

ダビデはジフ人を元々知らないし、ジフ人もダビデに何か恨みがあったわけでもなかっただろう。
それなのにダビデを密告したのは、彼らはダビデを差し出す事によって、時の権力者・サウルに気に入られ、地位なり富なりを得たかったのだろう。
ダビデはこの時の心境と祈りを、詩篇54編に記している。
『聖歌隊の指揮者によって琴をもってうたわせたダビデのマスキールの歌。これはジフびとがサウルにきて、「ダビデはわれらのうちに隠れている」と言った時によんだもの
神よ、み名によってわたしを救い、み力によってわたしをさばいてください。神よ、わたしの祈をきき、わが口の言葉に耳を傾けてください。「高ぶる者(ズーア:見知らぬ者、異邦人)」がわたしに逆らって起り、あらぶる者がわたしのいのちを求めています。彼らは神をおのが前に置くことをしません。』(詩篇54:1-3)

ジフ人たちは、ダビデを利用してサウルから地位なり富なりを引き出そうとした事に対し、ダビデは、どこから助けを引き出そうとしたか。
『見よ、神はわが助けぬし、主はわがいのちを守られるかたです。神はわたしのあだに災をもって報いられるでしょう。あなたのまことをもって彼らを滅ぼしてください。わたしは喜んであなたにいけにえをささげます。主よ、わたしはみ名に感謝します。これはよい事だからです。あなたはすべての悩みからわたしを救い、わたしの目に敵の敗北を見させられたからです。』(詩篇54:4-7)
私達もダビデのように、見知らぬ者の「ネタ」にされ、不利な状況へと追いやられてしまう事があるかもしれない。
そのような時、私達もダビデのように、主に祈り求めるべきである。
自分を陥れようとした者達は、主の手に明け渡し、自分自身は、主に喜びと感謝のいけにえを捧げるのだ。

『サウルは言った、「あなたがたはわたしに同情を寄せてくれたのです。どうぞ主(エホバ)があなたがたを祝福されるように。』(1サムエル記23:21)
主エホバの祭司を虐殺させたサウルは、そのあさましい者達を、主エホバの名によって祝福している。
「あなたがたはわたしに同情を寄せてくれた」という理由で。

サウルは前章では、みんなが自分に謀反を企んでいて、誰も自分の事を思ってくれない、と、被害妄想極まる事を言っていたが、もはや、サウルを心底好き好んで関わり、心から彼に同情してくれる人は、いなくなっていたのだろう。
彼の周りに集まって来るのは、彼にへつらって、地位を得ようとするような浅ましい人達だけしか、集まって来なくなってしまっていたのだろう。

『あなたがたは行って、なお確かめてください。彼のよく行く所とだれがそこで彼を見たかを見きわめてください。人の語るところによると、彼はひじょうに悪賢いそうだ。それで、あなたがたは彼が隠れる隠れ場所をみな見きわめ、確かな知らせをもってわたしの所に帰ってきなさい。その時わたしはあなたがたと共に行きます。もし彼がこの地にいるならば、わたしはユダの氏族をあまねく尋ねて彼を捜しだします」。』(1サムエル記23:22-23)
サウルはダビデを「ひじょうに悪賢い」と言った。
おそらく、ダビデがなかなかサウルの思い通りに行動してくれないから、そう言ったのであろうが、ダビデは悪賢さによってサウルから逃れていたのではなく、主が、ことごとくダビデを助けて下さったからであり、そしてサウルのやる事なす事がうまく行かないのは、彼が御心に反する事ばかり行っているため、主に敵対されているからだ。

『そしてサウルとその従者たちはきて彼を捜した。人々がこれをダビデに告げたので、ダビデはマオンの荒野にある岩の所へ下って行った。サウルはこれを聞いて、マオンの荒野にきてダビデを追った。』(1サムエル記23:25)
サウルは今や、ダビデを助ける者であるなら、たとえ祭司であっても、その一族を虐殺するような者である。
ダビデを助ける事には、いのちの危険が伴うのに、それでも、ダビデにサウルが来た事を知らせてくれる「人々」がいた。

サウルは圧倒的権威を持ち、金銀も持っていたのに、彼の元には心から慕って来る人はいなくなり、ただ、サウルに気に入られて権威や金銀を得ようとする人しか来ない。
他方、ダビデには権威も金銀も無いのに、またダビデに味方するなら危険しか無いというのに、彼を慕い、彼を助ける人達が、自然と集まって来た。
主を恐れる人は、主に助けられ、また良き人々からも助けられる。
しかし、主を軽んじる者からは良き人々は逃げていき、その者を利用しようとたくらむ人々だけが集まって来る。
そして、その者がいかに主を恐れる人を憎み、いのちを狙おうとも、主は思い通りにはさせないのだ。

ダビデはイエス様のご性質をよく表している。
イエス様も、世の権威を求め世を愛する者達からは、疎まれ、売られ、あざけられた。
しかし、彼を慕い求める者は、世のものでない御国の幸いを得るのだ。

『サウルは山のこちら側を行き、ダビデとその従者たちとは山のむこう側を行った。そしてダビデは急いでサウルからのがれようとした。サウルとその従者たちが、ダビデとその従者たちを囲んで捕えようとしたからである。』(1サムエル記23:26)
ダビデとサウルは、山ひとつしか隔てが無い程までに、肉薄した。
ダビデ、危機一髪であるが、またもや彼は助かる。

『その時、サウルの所に、ひとりの使者がきて言った、「ペリシテびとが国を侵しています。急いできてください」。そこでサウルはダビデを追うことをやめて帰り、行ってペリシテびとに当った。それで人々は、その所を「のがれの岩」と名づけた。ダビデはそこから上ってエンゲデの要害にいた。』(1サムエル記23:27-29)
ダビデは、実に良いタイミングで救われた。

この「のがれの岩」となって下さったのは、主である。
主はタイミングよくペリシテ人を送って下さり、ダビデが助かるように使者を送って下さったのだ。

主は、全能なるお方である。
そこまでベストのタイミングでダビデを助けられた主は、すぐにでもダビデに平和を与え、王座につかせる事は簡単に出来るが、主があえてそうされないのは、この時期、ダビデを特別に王としての「高等教育」を受けさせておられるからだ。
主は、その愛する者には、このような高等な教育を与えて下さり、守り、敵の前で宴を設けてくださるのだ。

『あなたがたは、終りの時に啓示さるべき救にあずかるために、信仰により神の御力に守られているのである。そのことを思って、今しばらくのあいだは、さまざまな試錬で悩まねばならないかも知れないが、あなたがたは大いに喜んでいる。こうして、あなたがたの信仰はためされて、火で精錬されても朽ちる外はない金よりもはるかに尊いことが明らかにされ、イエス・キリストの現れるとき、さんびと栄光とほまれとに変るであろう。
あなたがたは、イエス・キリストを見たことはないが、彼を愛している。現在、見てはいけないけれども、信じて、言葉につくせない、輝きにみちた喜びにあふれている。それは、信仰の結果なるたましいの救を得ているからである。』(1ペテロ1:5-9)

イザヤ書講解説教メッセージ音声(音声のみ)
主に期待しない・求めないアハズ王(イザヤ7章):右クリックで保存

【概要】

イザヤ書7章を基に、アハズ王の不信仰と、神の憐れみ、そしてインマヌエルの預言について説かれたメッセージです。

【聖書箇所】

イザヤ書7:1-25

第二列王記16:5-16

【戒めの言葉】

主を信頼せず、世の力に頼ることの愚かさを戒めています。

【励ましの言葉】

主に信頼して歩む者には、主が安らかな眠りを与えてくださいます。

【***詳細***】

今日のメッセージは、イザヤ書7章1節から25節を中心に展開されます。この箇所は、ユダの王アハズの時代に起こった出来事を描いています。

まず、1-2節を見てみましょう。

「アラムの王レツィンとイスラエルの王レマルヤの子ペカがエルサレムに攻め上ったが、これを攻め取ることはできなかった。ダビデの家に、『アラムがエフライムと同盟を結んだ』という知らせが入ると、王の心も民の心も、林の木々が風に揺らぐように動揺した。」

この状況下で、神はイザヤを通してアハズに語りかけます。3-9節で、神はアハズに恐れないよう命じ、敵対する二つの国は「くすぶる燃えさし」に過ぎないと言います。そして、「もし、あなたがたが信じないなら、長く続くことはできない」(9節)と警告します。

さらに神は、アハズに印を求めるよう促します。「あなたの神、主に、しるしを求めなさい。深い所のものでも、高い所のものでも求めなさい」(11節)。しかし、アハズは偽善的な態度で拒否します。「私は求めません。主を試みません」(12節)。

この拒否に対し、イザヤは有名な預言を宣言します。「見よ。おとめが身ごもっている。そして男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ」(14節)。この預言は、はるか後の時代に、処女マリアを通して生まれるイエス・キリストを指し示しています。

イザヤは続けて、アッシリアの侵攻と、それに伴う荒廃を予言します(17-25節)。これらの預言は、アハズの不信仰にもかかわらず、神が依然としてユダの民に語りかけ、未来を示していることを表しています。

しかし、アハズは神の警告を無視し、アッシリアの王に助けを求めます。第二列王記16章では、アハズがアッシリアの王に贈り物を送り、「私はあなたのしもべ、あなたの子です」(7節)と言ったことが記されています。さらに、アハズはダマスコで見た異教の祭壇の模型を作らせ、エルサレムの神殿に設置しました。

このアハズの行動は、神への不信仰と、世俗の力への依存を如実に示しています。彼は神の約束を信じるのではなく、自らの知恵と世の力に頼ることを選びました。

私たちもしばしば、アハズのような態度をとることがあります。困難に直面したとき、神の約束を信じるのではなく、世の知恵や力に頼ろうとします。しかし、聖書は私たちに、「主に信頼して歩む者には、主は安らかな眠りを与えてくださる」と教えています。

詩篇127篇1-2節は次のように語ります。

主が家を建てるのでなければ、建てる者の働きはむなしい。主が町を守るのでなければ、守る者の見張りはむなしい。あなたがたが早く起き、おそくまで座り、労苦の糧を食べることは、むなしいことだ。主は、愛する者には、眠っている間に必要を満たしてくださる。

私たちは、世の設計図ではなく、神の設計図に従って生きるよう召されています。神の言葉には、私たちの人生のための完全な設計図が含まれています。例えば、「心のきよい者は幸いです。その人は神を見るからです」(マタイ5:8)という御言葉があります。これは、心の清さを追求することで、神との親密な関係を経験できるという設計図です。

【結論】

今日のメッセージから、私たちは次のことを学びます:

  1. 困難な時こそ、神に信頼することの重要性

  2. 世の知恵や力ではなく、神の約束に頼ることの必要性

  3. 神の言葉に含まれる人生の設計図を見出し、それに従うことの大切さ

私たち一人一人が、アハズの失敗から学び、どんな状況でも主に信頼し、主の道に歩む者となりますように。アーメン。

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