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メッセージ - 講解説教(旧約)カテゴリのエントリ

礼拝説教メッセージ音声:ハンナの賛歌(1サムエル記2:1-10):右クリックで保存

今回の箇所は、ハンナの喜びに溢れた祈りが記されており、その内容は、イエスの母マリヤの賛歌に、非常によく似ている。

天地宇宙を造られた、永遠なる主が、こんなにも小さな、貧しい、取るに足らない自分に関わって下さって、とても大きな事を為して下さった。
その事を、マリヤもハンナも大いに喜んでいる。
当然その喜びは、私達キリスト者の喜びでもある。

ハンナは、主は全部知っておられた、あの時の言葉にならない呻きの祈りも、長い間ペニンナに心悩まされていた事も、あの時この時の私の心理状態や状況も、全部知っておられたのだ、と驚いている。(3節)
それはキリスト者なら皆味わうはずの共通の驚きと喜びであり、有名な「おどろくばかりの(アメージンググレース)」の賛美も、そのようにして生まれた。

『ハンナは祈って言った、/「わたしの心は主によって喜び、/わたしの力は主によって強められた、/わたしの口は敵をあざ笑う、/あなたの救によってわたしは楽しむからである。』(1サムエル記2:1)
ハンナは、最もいとしいであろう幼子を、神の家に預けたその直後の時期に、なぜ、こんなにも喜んでいられるのか。
それは、主が彼女を全部知っておられた事、主ご自身が直接的に関わって下さった事が、嬉しくて嬉しくて仕方なかったのだろう。
そして、その子が全能なる主の元で養われる事が、彼にとって何より幸せであると、わかっていたからだろう。
事実、サムエルの名は、聖書の一巻の名前にもなる程、重要な人物となった。
それはまさしく、彼女の信仰による行いの故である。

『主のように聖なるものはない、/あなたのほかには、だれもない、/われわれの神のような岩はない。』(1サムエル記2:2)
主を「岩」とする表現は申命記にも少し出てきたが、岩なる主は、キリストを意味している。(1コリント10:4)
「岩」であられる主は、信じる人には頼もしい救いの拠り所だが、信じない人には、妨げの岩、つまづきの岩である。(1ペテロ2:8)

『あなたがたは重ねて高慢に語ってはならない、/たかぶりの言葉を口にすることをやめよ。主はすべてを知る神であって、/もろもろのおこないは主によって量られる。勇士の弓は折れ、/弱き者は力を帯びる。飽き足りた者は食のために雇われ、/飢えたものは、もはや飢えることがない。うまずめは七人の子を産み、/多くの子をもつ女は孤独となる。』(1サムエル記2:3-5)
自分の力や富、持ちものの故に高慢になっている者は、必ず衰える。そして、主に信頼を置く者こそ、永遠に幸いを得る。
彼女はその事を歌っており、これはマリヤも同じ賛歌を歌っている。
『主はみ腕をもって力をふるい、心の思いのおごり高ぶる者を追い散らし、権力ある者を王座から引きおろし、卑しい者を引き上げ、飢えている者を良いもので飽かせ、富んでいる者を空腹のまま帰らせなさいます。』(ルカ1:51-53)
全てのものは主から出たものであり、その主を重んじるか、軽んじるかによって、人の永遠は決まってしまうのだ。

『主は殺し、また生かし、/陰府にくだし、また上げられる。主は貧しくし、また富ませ、/低くし、また高くされる。貧しい者を、ちりのなかから立ちあがらせ、/乏しい者を、あくたのなかから引き上げて、/王侯と共にすわらせ、/栄誉の位を継がせられる。地の柱は主のものであって、/その柱の上に、世界をすえられたからである。』(1サムエル記2:6-8)
これはまさしくメシヤなるキリストを現している。
彼は殺され、また生かされた。陰府に降り、三日目に上げられ、天に昇られた。
主はひと度、貧しくなられ、低くされ、そして圧倒的に高くされ、富む者となった。
これはまさに、十字架につけられた神の子キリストの有り様であり、そして私達キリスト者も、キリストと同じく、世にあっては低い身分のように見えても、天においては高い身分であり、悲しんでいるかのように見えても、大いに喜んでおり、死んだも同然のような者であっても、永遠に生きるものとされ、何も持たないかのように見えても、全てを持っている。(2コリント6:1-10)

『主と争うものは粉々に砕かれるであろう、/主は彼らにむかって天から雷をとどろかし、/地のはてまでもさばき、/王に力を与え、/油そそがれた者の力を強くされるであろう。』(1サムエル記2:10)
ここに「油注がれた者(ヘブライ語:マシヤハ)」と記されているが、それはメシヤなるキリストが力を受け、神の敵を永遠に滅ぼす事を預言している。
一介の、貧しい、一女性が、メシヤを預言した。
私達信仰者も、メシヤなるキリストを表現する者である。
ただ主にだけ寄り頼む者に、主はインマヌエル(共におられる主)として現れ、プライベートに密接に関わってくださり、そしてメシヤなるキリストの有り様を、細かく示して下さるのだ。

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
正しい夫婦関係の回復(雅歌6章):右クリックで保存

礼拝説教メッセージ音声:神は聞かれた(1サムエル記1:19-28):右クリックで保存

『彼らは朝早く起きて、主の前に礼拝し、そして、ラマにある家に帰って行った。エルカナは妻ハンナを知り、主が彼女を顧みられたので、彼女はみごもり、その時が巡ってきて、男の子を産み、「わたしがこの子を主に求めたからだ」といって、その名をサムエルと名づけた。』(1サムエル記1:19-20)

サムエルの名は「シェムー(聞かれる)エル(神)」、まさしく「神は聞かれた」のだ。
彼女が誓願したその一年後には、もう男の子を出産していたので、彼女の祈りは、あの祈りをした直後に成就していた、という事である。

『エルカナその人とその家族とはみな上っていって、年ごとの犠牲と、誓いの供え物とをささげた。しかしハンナは上って行かず、夫に言った、「わたしはこの子が乳離れしてから、主の前に連れていって、いつまでも、そこにおらせましょう」。夫エルカナは彼女に言った、「あなたが良いと思うようにして、この子の乳離れするまで待ちなさい。ただどうか主がその言われたことを実現してくださるように」。』(1サムエル1:21-22)
彼女は元々、「男の子が与えられたら、主に捧げる」という誓願をしていたのだが、この時点、その子はまだ乳離れしておらず、主の宮に捧げられる状態には至っていなかったため、彼が乳離れして主に捧げる事が出来るようになるまでは、行かずにおきましょう、という事だろう。

夫のいる女性が誓いをする場合、夫の承認が必要であるため(民数記30章)、彼女は夫エルカナに自分の誓いを夫に言ったのだが、夫は「どうか主がその言われたことを実現してくださるように」と言って快諾した。
彼も、良き信仰の人だった。
自分の気に入る・気に入らないによって妻の誓いを支配するではなく、「主の御心が成るように」という、主への従順と信仰が彼の言動に現れている。

『乳離れした時、三歳の雄牛一頭、麦粉一エパ、ぶどう酒のはいった皮袋一つを取り、その子を連れて、シロにある主の宮に行った。その子はなお幼かった。そして彼らはその牛を殺し、子供をエリのもとへ連れて行った。
ハンナは言った、「わが君よ、あなたは生きておられます。わたしは、かつてここに立って、あなたの前で、主に祈った女です。この子を与えてくださいと、わたしは祈りましたが、主はわたしの求めた願いを聞きとどけられました。それゆえ、わたしもこの子を主にささげます。この子は一生のあいだ主にささげたものです」。そして彼らはそこで主を礼拝した。』(1サムエル記1:24-28)

彼女は自分が誓願した通りに、その子を捧げに行った。
アブラハムといい、ハンナといい、そしてイエス・キリストの父なる神といい、親が、ひとり子を自分の懐から手放す事は、どれ程の事だろう。
しかし、ハンナの言葉や続く賛歌からは、悲壮感の類は一切、感じられない。

主が聞かれた、主はこれから与えて下さる、そして、その子は主のものとされ、主の守りと養いの内に栄え、主のわざを成していく、という確信が、彼女に与えられたのだろう。
彼女は本当に、信仰の人である。
子を与えて下さいという、声にもならない呻きの祈りをした時も「主が聞き入れて下さった」という平安と確信が与えられた。
そしてこの時も、この子は主に捧げられたものとして聖別され、祝福され、そして自分はこれから、さらに子を産んで行き、ますます栄誉が増し加わって行く、という確信までも与えられたのだ。

キリスト者の、そのような信仰の確信と喜びは、人生に一度や二度の特殊体験ではない。
祈る度に、信仰によって御言葉を受け止める度に、すなわち、日々自分を下ろし、自分の十字架を負って、主について行く度ごとに、日常的に起こるものである。

礼拝説教メッセージ音声:人知れぬ呻きの祈りによって生み出されたサムエル(1サムエル記1:9-18):右クリックで保存

『シロで彼らが飲み食いしたのち、ハンナは立ちあがった。その時、祭司エリは主の神殿の柱のかたわらの座にすわっていた。ハンナは心に深く悲しみ、主に祈って、はげしく泣いた。』(1サムエル記1:9-10)

エルカナの一家が主の神殿で食事をした中で、ハンナだけは食べようともしなかったが、皆の食事が終わった時、彼女は一人、主の御前に出て激しく泣いた。
彼女は、礼拝中も食事中も心に苦しみがあったのだが、それは一切出さず、皆の飲食がひと通り終わった後、一人、御前にそれを持っていったのだ。

教会や交わりにおいて、兄弟姉妹に嫌味を言って、その言われた人が、礼拝や交わりが苦々しくなってしまうような事は、あってはならない事である。
苦々しくなってしまった人が、その思いを他の兄弟姉妹にぶつけてしまうなら、礼拝や愛餐の聖なる集いが汚されてしまうが、ハンナはそれをしなかった。
彼女のように、憂いや憤りを人にではなく、主へと持っていくならば、主がその問題を請け負って下さり、解決は主の仕事となる。

『そして誓いを立てて言った、「万軍の主よ、まことに、はしための悩みをかえりみ、わたしを覚え、はしためを忘れずに、はしために男の子を賜わりますなら、わたしはその子を一生のあいだ主にささげ、かみそりをその頭にあてません」。』(1サムエル記1:11)
彼女は今まで、幾度も、男の子が与えられるように祈って来ただろう。
しかし、この時の彼女の祈りは、特別だった。
もし、その子が与えられるなら、その子を神様に捧げます、という誓願をしたのだ。
主に捧げられた子、その子は神のものとされ、神の事を為し、神の御心を行い、そして彼が主にあって為す事は、人間の力や知恵、限界を遥かに超えたものである。

『彼女が主の前で長く祈っていたので、エリは彼女の口に目をとめた。ハンナは心のうちで物を言っていたので、くちびるが動くだけで、声は聞えなかった。それゆえエリは、酔っているのだと思って、彼女に言った、「いつまで酔っているのか。酔いをさましなさい」。』(1サムエル記1:12-14)
彼女は悩みと憂いに満ちていたため、眉間に皺が寄り、目を赤く腫らし、苦しみに震えつつ、唇だけが動いていたのだろう。
祭司は「酔っ払っている」と勘違いしたが、主はご存知だった。彼女の心の願いを、そして、彼女が声に出さずして誓った内容も。
そして、彼女が人知れず誓った内容を、彼女は果たす気でいる、という事も。

主は私達を探り、知っておられる。
座るのも立つのも、どこに行こうとしているのかも知っておられ、私達の思いを遠くから読み取られる。
言葉が私達の舌にのぼる前に、主はそれを、ことごとく知っておられる。(詩篇139編)

『しかしハンナは答えた、「いいえ、わが主よ。わたしは不幸な女です。ぶどう酒も濃い酒も飲んだのではありません。ただ主の前に心を注ぎ出していたのです。はしためを、悪い女と思わないでください。積る憂いと悩みのゆえに、わたしは今まで物を言っていたのです」。そこでエリは答えた、「安心して行きなさい。どうかイスラエルの神があなたの求める願いを聞きとどけられるように」。彼女は言った、「どうぞ、はしためにも、あなたの前に恵みを得させてください」。
こうして、その女は去って食事し、その顔は、もはや悲しげではなくなった。』(1サムエル記1:15-18)
祭司エリは、あまり良い祭司ではなかったが、そんな祭司であっても、彼女は彼の言葉を信仰によって受け止めた。
その瞬間から、彼女は変わった。
状況は変わっていない。しかし心は、あたかも目の前の問題は無くなったかのような、平安に満たされたのだ。

私達キリスト者にも、そのような「信仰の瞬間」がある。
悪い状況は、変わっていない。しかし、その悪い状況など、あたかも無くなったかのように、平安に満たされる、という瞬間が。
キリスト者の特権であるその「信仰の瞬間」は、心から主に祈った時や、信仰によって御言葉を受け止めた時に、起こる。

御言葉に記されている真理を、信仰によってその人の霊の中へと引き出す時、主が約束して下さった事は、もう成就した、という確信が沸き起こる。
その時、現実の状況とは全く関係なく、心は平安で満たされ、やがては現実世界のほうが、その人が信じた通りに成って行くのだ。
それはちょうど、預金通帳に記されている数字を、当たり前のように信じて疑わず、それを持って銀行へ行ってしかるべき手続きをするなら、現実に現金が手元へ引き出されるのと同じである。

こうして、時代の指導者・サムエルは、一人の不妊の女の、言葉にならない人知れぬ祈り、しかも、祭司さえ「酔っぱらい」と勘違いするような、呻きの祈りによって、生み出される。
私達も、主に捧げる心を持ち、信仰によって祈るなら、時の指導者さえ生み出す事が可能なのである。

礼拝説教メッセージ音声:ハンナとペニンナ(1サムエル記1:1-8):右クリックで保存

歴代誌によると、サムエルの父エルカナは、ケハテ族のレビ人であり、コラの子孫である。(1歴代誌6:33-43)

「エフライムびと」とは記されているが、それはエフライムの血筋の子孫という事ではなく、エフライムの地域に住む人という事である。(ルツ1:2 1サムエル17:12)
ちなみに、サムエルの孫にあたるヘマンは、詩篇88編の作者であり、神の宮で賛美する代表的な者の一人となった。

『エフライムの山地のラマタイム・ゾピムに、エルカナという名の人があった。エフライムびとで、エロハムの子であった。エロハムはエリウの子、エリウはトフの子、トフはツフの子である。エルカナには、ふたりの妻があって、ひとりの名はハンナといい、ひとりの名はペニンナといった。ペニンナには子どもがあったが、ハンナには子どもがなかった。』(1サムエル記1:1-2)

エルカナの二人の妻のうち、不妊の女・ハンナの名の意味は「自発的に与えられる賜物」、子があるほうのペニンナの名の意味は「真珠」である。
真珠は、貝に傷をつける事で徐々に醸成されていく尊い宝石であるが、ペニンナ自身が真珠を生み出すのではなく、ペニンナがハンナを傷つける事によって、ハンナを通して、サムエルという尊い真珠が生み出されていく事になる。

『この人は年ごとに、その町からシロに上っていって、万軍の主を拝し、主に犠牲をささげるのを常とした。・・・エルカナは、犠牲をささげる日、妻ペニンナとそのむすこ娘にはみな、その分け前を与えた。エルカナはハンナを愛していたが、彼女には、ただ一つの分け前を与えるだけであった。主がその胎を閉ざされたからである。また彼女を憎んでいる他の妻は、ひどく彼女を悩まして、主がその胎を閉ざされたことを恨ませようとした。』(1サムエル記1:3-6)
この時代は、士師記の荒んだ時代ではあったものの、ルツ記のように神を恐れ敬う民は確かにおり、エルカナの一家もそれに含まれていた。
彼らが捧げた犠牲は、神と人と祭司が共に食す「和解のいけにえ」と思われるが、この礼拝の日は、ハンナにとって心痛い日だった。

ペニンナには息子たちや娘たちがいたため、彼女自身の分と、さらに息子娘達の分も犠牲が与えられた。
それに対しハンナは、捧げる犠牲は自身ひとり分しか与えられず、そして”主がハンナの胎を閉じていた”事をもって、ペニンナはハンナをいじめていたのだ。

一人の夫に二人の妻がおり、一方が他方から憎まれる。
どことなく、創世記に出てくるヤコブの妻たち、ラケルとレアに似ているが、そのケースと逆なの点は、いじめる側のほうが子沢山で、いじめられる側には、子がいない、という点である。
また、ハンナはペニンナに何かで仕返しをする事も、言い返したりする事なく、そして、夫にぶちまける事もしなかったようである。
『ハンナが主の宮に上るごとに、ペニンナは彼女を悩ましたので、ハンナは泣いて食べることもしなかった。夫エルカナは彼女に言った、「ハンナよ、なぜ泣くのか。なぜ食べないのか。どうして心に悲しむのか。わたしはあなたにとって十人の子どもよりもまさっているではないか」。』(1サムエル記1:7)

ハンナは、夫から慰めの言葉をもらうのだが、それは何の功も奏さない。
彼女はただ、やられったなしで、それを仕返ししたり、夫にぶちまける事もせず、ただ自分の中で押さえ、泣き、食事も取らずにいた。
そうして彼女は、この事を主に持っていく事になる。

礼拝を”ねた”に、誰かを悩ませたり、また、「主が与えてくださらない」点を突いて悩ませるのは、良くない事である。
私達も、礼拝という場、クリスチャンの集いという場から、そういった類の悩みやいじめを受ける事があるが、それでも主に向かうのであるなら、主が顧みて下さり、幸いを得させてくださる。
事実、ハンナは真剣に主に求めるようになって、ついには、彼女はペニンナよりも幸いを得る事となって行く。

礼拝説教メッセージ音声:サムエル記概要(1サムエル記1:1-2):右クリックで保存

本日より講解説教は第一サムエル記に入る。

このサムエル記は、それまでイスラエルの国全体を統治する者がいなかった士師の時代から、王によって統治される時代への重要な転換点が記されている歴史書である。
サムエル記は元々、列王記と共に一つの歴史書だったものが、分割されたものであり、ギリシャ語聖書の70人訳聖書では、第一・第二サムエル記を「王国の第1・2」と、列王記は「王国の第3・4」とされている。

この書の名前は、その登場人物・サムエルから取られている。
サムエルの名前の意味は「名は神」であるが、この名前を分解すると「シェムー + エル」で、シェムーは「聞く(シャマー)」の受動態分詞、エルは「神」の意味である。
すなわち、「神に聞かれた」「神に尋ねられる」という意味になる。
「神は聞かれる。」
これはサムエル記にとって重要なキーワードであるばかりでなく、聖書全体でも、そして、私達の日常においても、そうである。

聖書の書名は、人物の名から取られる事は多いが、サムエルという人物は、1-8章の所にしか登場しない。
9−15章はサウル王が、そしてサムエル記の大部分、16章以降から2サムエル記の終わりまでは、ダビデ王が主役となる。
だから「サムエル記」と言うより「ダビデ記」と題したほうが良いのでは、と思うかもしれない。
しかし、そのダビデに油を注いで王として任職したのも、また、初代の王サウルに油を注いで任職したのも、サムエルである。
彼は士師としては最後であり、イスラエル全体を導く預言者の最初であり、そして、王たちを任職する祭司として、とても重要な役割りを担った。

そのサムエルを生んだのは、一人の不妊の女・ハンナであるが、サムエルの誕生は、彼女の、言葉にならないような、人に聞かれないような、密かな祈りから始まった。
社会的に立場の弱い、寡婦や不妊の女の祈りによって、イスラエルの歴史を動かす重要な家系や人物が生み出される点は、ルツ記も共通している。
そして聖書は、そのような「逆転劇」に満ちている。
実際、バプテスマのヨハネの母エリサベツも、イエスの母マリヤも、イスラエル民族の父アブラハムも、子が生まれるはずが無い者が、神の大いなる力によって産み、その後の霊的歴史を大きく動かしている。

『「子を産まなかったうまずめよ、歌え。産みの苦しみをしなかった者よ、声を放って歌いよばわれ。夫のない者の子は、とついだ者の子よりも多い」と主は言われる。「あなたの天幕の場所を広くし、あなたのすまいの幕を張りひろげ、惜しむことなく、あなたの綱を長くし、あなたの杭を強固にせよ。あなたは右に左にひろがり、あなたの子孫はもろもろの国を獲、荒れすたれた町々をも住民で満たすからだ。
恐れてはならない。あなたは恥じることがない。あわてふためいてはならない。あなたは、はずかしめられることがない。あなたは若い時の恥を忘れ、寡婦であった時のはずかしめを、再び思い出すことがない。あなたを造られた者はあなたの夫であって、その名は万軍の主。あなたを「あがなわれる者(ゴエル)」は、イスラエルの聖者であって、全地の神ととなえられる。』(イザヤ54:1-5)
この「あがなわれる者(ゴエル)」は、ルツ記においてはボアズであり、そして私達・全人類にとっては、万軍の主である。

ルツ記も、サムエル記も、主に信頼する不妊の女や、夫のいない女の祈りから始まり、彼女達が生み出す子がその後の歴史を大きく動かしている。
彼らは主しか頼りどころがないため、主はよく彼らの祈りを聞かれるのだ。
イスラエルの王達は、そのような女達、主に寄り頼む男達の祈りによって、生み出されてきた。

サムエル(神は聞かれる)記。
この書から、主はどのように人々の祈りを聞かれ、主に寄り頼む者にはどのような幸いが待っているのか、また、その主をないがしろにするなら、どんな災いが待っているのか、この書から見て行きたい。

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
あなたの愛する方はどんなお方ですか?(雅歌5:9-16):右クリックで保存

礼拝説教メッセージ音声:永遠に続く王族への嫁入り(ルツ記4:14-22):右クリックで保存

いよいよ今回でルツ記も最後である。

ナオミは最初、満ち足りて出て行ったが、神の国で信仰によって忍耐するべき所から逃げて、世にパンを求めて行った者たちは皆、死に絶え、ナオミは全て失って、そして神の国へと戻った。その時の彼女は、自分を「ナオミ(心地よい)」とは呼ばず、「マラ(苦い)」と呼んで下さい、と皆に言った。
しかし今や、彼女は皆に祝福され、決して色褪せる事の無い真の「ナオミ」へと造り変えられた。
パンやお金、夫や息子などで満ち足りるという「心地良さ(ナオミ)」は、いつマラになってもおかしくはない。
しかし、全能の主を信じる信仰によって、「マラ」は決して色褪せない「ナオミ」へと造り変えられるのだ。

『そのとき、女たちはナオミに言った、「主はほむべきかな、主はあなたを見捨てずに、きょう、あなたにひとりの近親をお授けになりました。どうぞ、その子の名がイスラエルのうちに高く揚げられますように。彼はあなたのいのちを新たにし、あなたの老年を養う者となるでしょう。あなたを愛するあなたの嫁、七人のむすこにもまさる彼女が彼を産んだのですから」。』(ルツ記4:14-15)
女達はナオミに、ルツは「七人の息子にも勝る」と称した。
信仰によって生み出した霊的な息子・娘は、肉による子が何人いるにも勝るのである。

『そこでナオミはその子をとり、ふところに置いて、養い育てた。近所の女たちは「ナオミに男の子が生れた」と言って、彼に名をつけ、その名をオベデと呼んだ。彼はダビデの父であるエッサイの父となった。』(ルツ記4:16-17)
申命記25章6節によるなら、この子の名は、子を残さずして死んだ男の名を絶やさないために「マフロン」となる所だが、女たちはなぜか、その子を「オベデ」と呼んだ。
ルツの亡夫「マフロン」の名には、「大きな欠点」「病弱」という意味があり(ちなみにオルパの夫キルヨンは「浪費する」「消え失せる」の意味)、「オベデ」の名には「仕える」「僕」という意味がある。
女たちは、「彼はあなたのいのちを新たにし、あなたの老年を養う者となるでしょう。」という事で、「僕」と呼んだのかもしれないが、それらの名は、実に象徴的である。

世の人は、罪という病の故に、欠点があったり、弱かったりして、人を養う責任を果たす事はできない。
しかし、信仰によって生み出した「信仰による子」は、「しもべ」となって、その責任を完全に果たす事が出来る。すなわち、ルツの子オベデは、ナオミの老後を養う者となり、その子孫から「主のしもべダビデ」が生まれ、そしてさらに、その28代後には、生ける神のしもべ・キリストがお生まれになった。
このキリストこそ、罪の借金を全て肩代わりし、私達の人生の責任を完全に負ってくださるのである。

『さてペレヅの子孫は次のとおりである。ペレヅからヘヅロンが生れ、ヘヅロンからラムが生れ、ラムからアミナダブが生れ、アミナダブからナションが生れ、ナションからサルモンが生れ、サルモンからボアズが生れ、ボアズからオベデが生れ、オベデからエッサイが生れ、エッサイからダビデが生れた。』(ルツ記4:18-22)
こうして、一介の貧しい未亡人ナオミとルツは、彼女達の「祝福の言葉」と「信仰」と「誠実」によって、聖書の中で最も重要な家系であるダビデの家系、すなわち、イエス・キリストの家系へと組み入れられた。
ここに記されている家系には、もはやエリメレクも、マフヨンもキルヨンも、一切記されていない。
法律の登記上は、その名が記されていたのかもしれないが、永遠の書物には、そのような肉に属する名はなく、天に属する新しい名が記されるのだ。

『もろもろの国はあなたの義を見、もろもろの王は皆あなたの栄えを見る。そして、あなたは主の口が定められる/新しい名をもってとなえられる。また、あなたは主の手にある麗しい冠となり、あなたの神の手にある王の冠となる。
あなたはもはや「捨てられた者」と言われず、あなたの地はもはや「荒れた者」と言われず、あなたは「わが喜びは彼女にある」ととなえられ、あなたの地は「配偶ある者」ととなえられる。主はあなたを喜ばれ、あなたの地は配偶を得るからである。若い者が処女をめとるように/あなたの子らはあなたをめとり、花婿が花嫁を喜ぶように/あなたの神はあなたを喜ばれる。』(イザヤ62:2-5)

ルツ記は、死と悲しみの内に始まったが、いのちの喜びに終わる。
途絶えてしまいそうだった家は、永遠に続く王族の家系へと組み入れられた。
福音とは、そういうものである。
以前の古い生き方は過ぎ去り、以前の不完全な夫から、完全な夫・イエスキリストへと組み入れられ、彼に養われ、全てが新しく完全にされ、もはや死も、貧しさも、不足も、病も、悲しみも、憂いも、涙も、完全に拭い去られるのだ。

ナオミやルツのように、信仰によって以前のものを過ぎ去らせ、完全な夫・キリストの元に養われ、永遠の王族の家系に組み込まれ、全てが新しく造り変えられる皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:買い戻されたルツとエリメレクの家(ルツ記4:9-13):右クリックで保存

『ボアズは長老たちとすべての民に言った、「あなたがたは、きょう、わたしがエリメレクのすべての物およびキリオンとマロンのすべての物をナオミの手から買いとった事の証人です。またわたしはマロンの妻であったモアブの女ルツをも買って、わたしの妻としました。これはあの死んだ者の名を起してその嗣業を伝え、死んだ者の名がその一族から、またその郷里の門から断絶しないようにするためです。きょうあなたがたは、その証人です」。』(ルツ記4:9-10)

こうしてボアズは、神と人との前に正当な手続きをし、エリメレクの家のもの全てを贖い、ルツを正式に妻としてめとった。

ボアズよりも近い買い戻しの権利のある人は、自分の相続を失ってしまう危険性があったため、辞退したが、ボアズは自分の相続や財を失うような危険は顧みずに行った。
私達の主であり、買い戻しの権利のある方、家を絶やさぬ責任のある方イエスも、神の子としての相続権を全て投げ出し、私達・信じる者を贖い、花嫁として引き入れて下さった。
ボアズが、死んだ者の名を絶やさないために、ルツを引き入れてくれたように、イエス様も、罪の中に身を持ち崩して死んでしまったような私達を、買い戻し、花嫁として引き入れて下さった。
神は、大事なひとり子を投げ打ってでも助けられた程に、世を愛された。
その主の愛と贖いは、なんと尊く、なんと深いだろうか。

『すると門にいたすべての民と長老たちは言った、「わたしたちは証人です。どうぞ、主があなたの家にはいる女を、イスラエルの家をたてたラケルとレアのふたりのようにされますよう。どうぞ、あなたがエフラタで富を得、ベツレヘムで名を揚げられますように。どうぞ、主がこの若い女によってあなたに賜わる子供により、あなたの家が、かのタマルがユダに産んだペレヅの家のようになりますように」。』(ルツ記4:11-12)
ボアズは、人々から祝福の内に送り出された。
普通の人なら躊躇するような贖いのわざを行うために、公の門前で、為すべき手順をしっかり踏んで行ったからだ。

人々は、ルツに対しては「イスラエルの家をたてたラケルとレアのふたりのように」という祝福を、ボアズに対しては「エフラタで富を得、ベツレヘムで名を揚げ」るようにという祝福をし、そして、新しくスタートするボアズとルツの家庭には、「タマルがユダに産んだペレヅの家のように」という祝福を与えた。
このように、祝福の内に人々に送り出されたこの一家は、その祝福された通りに力を増し、栄え、そして後には王族の家系へと、なって行く。
自分の事を顧みず、御言葉に従い、愛と憐れみわざを惜しまず行うなら、神と人とに愛され、さらに祝福されて行くのだ。

ボアズよりも近かった、かの親類は、確かに自分の畑を失うようなリスクも無く、財産も損なわずに、その後を生きたかもしれない。
しかし彼は、ボアズに与えられたような祝福を逃したばかりでなく、永遠の書物にはついに名が記されないままであったが、ボアズのほうは、自分の相続地を失う事も無く、むしろ永遠の書物に名が記され、新約聖書でも1章から、ルツと共にその名が記される栄誉にあずかった。
世のものを得ようとするなら、それを失い、主の御言葉に従うゆえに、世のものを失うなら、永遠の内に、それを得るのだ。
『自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを見いだすであろう。 たとい人が全世界をもうけても、自分の命を損したら、なんの得になろうか。また、人はどんな代価を払って、その命を買いもどすことができようか。 』(マタイ16:25-26)

『こうしてボアズはルツをめとって妻とし、彼女のところにはいった。主は彼女をみごもらせられたので、彼女はひとりの男の子を産んだ。』(ルツ記4:13)
主は、神の民に真実を尽くし御翼の陰に避けどころを求めて来たルツに報い、そんなルツを保護し購ったボアズに、報いて下さった。
主は全て、神の民に真実を尽くし、主を避け処に求めて来る人や、そんな彼らを保護する人に、報いられないわけが無いのだ。

礼拝説教メッセージ音声:買い戻しの手続きを正当に行うボアズ(ルツ記4:1-8):右クリックで保存

ボアズはルツの願いを叶える手続きをするために、町の門の所へ行った。

当時、町の門の所は、重要な取引や裁判などが行われる場所である。
『ボアズは町の門のところへ上っていって、そこにすわった。すると、さきにボアズが言った親戚の人が通り過ぎようとしたので、ボアズはその人に言った、「友よ、こちらへきて、ここにおすわりください」。彼はきてすわった。ボアズはまた町の長老十人を招いて言った、「ここにおすわりください」。』(ルツ記4:1-2)
日本語の聖書では「友よ、こちらへきて、ここにおすわりください」と訳されているが、原文は、「そこの君、こちらに来て、そこに座りなさい」というように、目上の人が目下の人に指示するような感じである。
だから、ボアズはその親戚より目上で、しかも彼は町の長老10人を呼んで座らせる程の有力者だったようだ。

『彼らがすわった時、ボアズは親戚の人に言った、「モアブの地から帰ってきたナオミは、われわれの親族エリメレクの地所を売ろうとしています。それでわたしはその事をあなたに知らせて、ここに座っている人々と、民の長老たちの前で、それを買いなさいと、あなたに言おうと思いました。もし、あなたが、それを贖おうと思われるならば、贖って下さい。しかし、あなたがそれを贖わないならば、わたしにそう言って知らせてください。それを贖う人は、あなたの他にはなく、わたしはあなたの次ですから」。』(ルツ記4:2-4)
ボアズは人々の前で、堂々と手順を踏んだ。
有力者たる人のたしなみは、正当な手順を踏みつつ、人々の前で堂々と物事を行う人である。

物事には、手順がある。集団で物事を行う手順、契約を結ぶ手順、男女関係における手順など。
そうした手順を、正当に踏んで行うなら、誰にも非難されるところは無く、人々から祝福を受けつつ人生を送るのだが、為すべき手順を面倒くさがったり、ないがしろにするような人は、いつまでも人から認められなかったり、重要な事が任せられなかったりする。

『彼は言った、「わたしがあがないましょう」。そこでボアズは言った、「あなたがナオミの手からその地所を買う時には、死んだ者の妻であったモアブの女ルツをも買って、死んだ者の名を起してその嗣業を伝えなければなりません」。その親戚の人は言った、「それでは、わたしにはあがなうことができません。そんなことをすれば自分の嗣業をそこないます。あなたがわたしに代って、自分であがなってください。わたしはあがなうことができませんから」。』(ルツ記4:4-6)
その人は、ルツをも買い戻さなくてはならない、と聞いた途端、及び腰になった。なぜなら、「そんなことをすれば自分の嗣業(相続地)をそこないます」から。

買戻しの話とは、買戻す側にとっては、デメリットしか無いような話である。
なぜなら、落ちぶれてしまった親類(エリメレクやナオミ、ルツ)の畑を買い戻す時、ヨベルの年までの年数に従ったレートで買い戻すのだが、その畑は自分のものとはならない。
そして、死んでしまった人の妻をめとって、その最初に生まれた男子に、死んでしまった親類の名を継がせて、そしてその畑はその子のものとなり、自分のものとはならない。
だから、もし男子が一人しか生まれないなら、自分の相続地をそこなう事になりかねないのだ。

『むかしイスラエルでは、物をあがなう事と、権利の譲渡について、万事を決定する時のならわしはこうであった。すなわち、その人は、自分のくつを脱いで、相手の人に渡した。これがイスラエルでの証明の方法であった。そこで親戚の人がボアズにむかい「あなたが自分であがないなさい」と言って、そのくつを脱いだ』(7-8節)
くつを脱いで相手に渡す。それは実に象徴的な行為である。
主は、アブラハムやヨシュアに「あなたの足の裏で踏む所は、ことごとく与えた」と言ったが、靴を脱いで相手に渡す事は、その土地を踏み歩く権利を、相手に渡した事であり、当時のイスラエルにおいては、買戻しの権利を譲渡する事の正式な証明方法である。
だから、妻とすべき女性をめとる事を嫌がって「くつを脱がされた者の家」(申命記25:10)と烙印を押される事は、イスラエルの土地を踏み歩く権利を脱がされた者として、かなりの恥辱となるのだ。

人が頼ろうとする「世のもの」、すなわち、世の富や会社組織、家族や親類、そして最愛の伴侶さえ、その人の身を完全に保証するは、出来ない。
そのものに、富が無かったり、能力が無かったり、あるいは、その人を無責任にも手放してしまったり、裏切ったり、そして、亡くなってしまったりする可能性が、いつもつきまとうからだ。
しかし、まことのボアズである主イエス様は、そのような事が決して無い。

この御方の御衣の内に匿われ、決して途絶えることのない助けを手に入れる皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!

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