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礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
若さも青春もむなしい(伝道者の書11:7-10):右クリックで保存
【概要】
この説教では、伝道者の書11章7節から10節と第二ペテロの書を通して、人生の儚さと虚しさ、そして真の救いの光であるイエス・キリストの御言葉の大切さについて説きます。
【聖書箇所】
・伝道者の書 11章7-10節
「光は快い。太陽を見ることは目のために良い。人は長く生きて楽しむが良い。しかし、闇の日も数多くあることを忘れてはならない。すべて起こることは皆むなしい。若い男よ、若いうちに楽しめ、若い日にあなたの心を喜ばせよ。あなたの心の赴くまま、あなたの目の望むままに歩め。しかし、これらすべてのことにおいて、あなたは神の裁きを受けることを知っておけ…」
・第二ペテロの書 3章10-14節
「しかし、主の日は盗人のようにやってくる。その日には、天は大きな響きを立てて消え失せ、天の晩鐘は焼け崩れ、地とその中の悪い行いは焼き尽くされる…」
【慰めの言葉】
どんなにこの世の栄華や快楽が一時的であっても、神の絶え間ない恵みと忍耐が私たちと共にあり、どんな試練も主の愛の中で癒されるという慰めがあります。
【励ましの言葉】
暗闇の日々が訪れても、私たちは必ず「世の光」であるイエス・キリストに立ち返り、その御言葉に従うことで、力と希望を新たにすることができます。
【戒めの言葉】
ソロモンが若い頃は神を敬い知恵も授かったのに、やがて世の虚栄に流され、最終的にむなしい人生に陥ったことを思い起こしましょう。私たちは、富や名声、享楽などに溺れることなく、常に神の御前に心を向けるべきです。
【勧めの言葉】
毎日の生活の中で、聖書の御言葉を灯火のように胸に抱き、その光で自らの内なる闇を照らし出すよう努めましょう。御言葉に忠実に従い、互いに励まし合いながら歩むことが、私たちに永遠の命への確かな道を示します。
【悔い改めの促しの言葉】
もし、過去に自己中心的な欲望や虚栄に走り、神から離れてしまったと感じるならば、今こそ心を入れ替え、真摯に悔い改め、再び主の御導きを求める時です。過去の過ちを認め、神の恵みに立ち返ることで、新たな希望と祝福が授けられることを信じましょう。
【***詳細***】
本日の御言葉は、伝道者の書11章7節から10節にある「光は快い。太陽を見ることは目のために良い」という箇所に始まります。ソロモンは、若き日々の享楽を肯定しつつも、人生には必ず闇の日が訪れるという現実をも強調しています。私たちは、日常の中で感じる一瞬の喜びや享楽に溺れることなく、常に「すべての行いは神の裁きを受ける」という厳粛な警告を胸に留めなければなりません。いかに美しい日差しも、一方では影となり、やがては消え去るように、この世の栄華もまた一時的でむなしいものに過ぎないのです。
しかし、第二ペテロの書3章10節からは、すべての造られたものがいつかは焼き尽くされ、新しい天と新しい地へと移り変わるという希望の約束が示されています。「主の日は盗人のようにやってくる」という言葉は、私たちの予測を超える神の計画と、その日が現実のものであることを迫真の面持ちで伝えているのです。天が大きな響きを立てて消え、天の晩鐘が焼け崩れるといった描写は、いかにこの現世の物事が儚く滅びゆくかを示しています。それと同時に、私たちがどんなに世俗的な成功や快楽を追い求めても、永遠に続くものではなく、むなしい結果に終わるという戒めが込められています。
ここで私たちが見失ってはならないのは、たとえこの世のすべてがむなしいものであっても、神の御心にのっとって歩むならば、必ずや永遠の命と救いが与えられるという真実です。イエス・キリストこそが「世の光」であり、その光が私たちの暗い心を照らし、真実の知恵と力を授けるのです。イエスが、自ら「私が世の光である」と宣言されたとき、彼は単に物理的な光を示しているのではなく、霊的な闇に閉ざされた心に希望と救いをもたらす絶対の真実を語っておられました。盲目であった者がイエスの御手によって見えるようになったように、私たちもまた、内にある霊的な盲目を打ち破り、真実の光に導かれることが求められているのです。
ソロモンは若い頃、神を心から敬い、知恵と栄光に恵まれました。しかし、時の流れとともにその心は世の虚栄に引きずられ、偶像崇拝や不義な快楽の道に走ってしまいました。その結果、彼が追い求めた富や権力、名声、それに華やかな生活は、晩年にはむなしいものへと変わってしまったのです。これは、私たちが日々選択の岐路に立たされたとき、どれほど一時の快楽に惑わされる危険があるかを示す重い戒めです。同時に、神はそのような過ちを悔い改める者に対して、忍耐と寛大な救いの手を差し伸べてくださることもまた、聖書は教えています。
さらに、第二ペテロは「主の忍耐は救いである」と語り、どんな迫害や試練の中にあっても、神が与える忍耐こそが私たちに真の救いと力を与えると強調しています。迫害に耐え、困難な状況の中であっても、私たち一人一人が神の御言葉を信じ、正しい歩みを続けるならば、神はその忍耐力と知恵をもって私たちを支え、あらゆる苦難を乗り越える力を与えてくださるのです。私たちは自らの力では到底及ばない大いなる試練に直面するかもしれませんが、主の恵みの中にあれば、真実の光が常に道を照らしてくださいます。
また、御言葉は私たちに、光としてのイエスを掲げ、その光で悪しきものすべてを打ち砕くようにと呼びかけています。たとえ敵がどれほど多く、力強くとも、正しい信仰と真実の言葉があれば、悪は必ず自ら滅んでいくのです。イエス・キリストの御名の下に、互いに励まし合い、御言葉を絶えず伝えることによって、私たちは闇に飲み込まれることなく、永遠の救いへと歩むことができるのです。
このように、伝道者の書と第二ペテロの書が教えるのは、世の栄華や快楽は一時的であり、最終的にはむなしいものであるという厳しい現実と、それに対抗する真実の光、すなわちイエス・キリストが与える永遠の希望です。私たちは日々、神の御言葉を心に刻み、過ぎ去るこの世のものに心を奪われず、常に永遠の命へと向かう歩みを続けなければなりません。悔い改めと戒めを忘れず、互いに励まし合いながら、主の忍耐と恵みを受けて、この短い地上生活の中で確かな光を輝かせる者となるよう努めましょう。
【結論】
この世の享楽や栄華に酔いしれることなく、私たちは常に「世の光」であるイエス・キリストの御言葉に導かれて歩むべきです。日々の生活の中で悔い改め、戒めに耳を傾けながら、神の恵みと忍耐にすがり、永遠の命への確かな道を進んでいくことを、心より願います。アーメン。
おくびょう者、恩知らずな者、信じない者の受ける分(士師記8:10-17)
- カテゴリ :
- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(旧約) » 士師記
- 執筆 :
- pastor 2014-10-11 1:04
礼拝説教メッセージ音声:おくびょう者、恩知らずな者、信じない者の受ける分(士師記8:10-17):右クリックで保存
『さてゼバとザルムンナは軍勢おおよそ一万五千人を率いて、カルコルにいた。これは皆、東方の民の全軍のうち生き残ったもので、戦死した者は、つるぎを帯びているものが十二万人あった。ギデオンはノバとヨグベハの東の隊商の道を上って、敵軍の油断しているところを撃った。ゼバとザルムンナは逃げたが、ギデオンは追撃して、ミデアンのふたりの王ゼバとザルムンナを捕え、その軍勢をことごとく撃ち敗った。』(士師記8:10-12)
敵であるミデヤン人達十三万五千のうち、十分の九は既に討ち取られ、生き残った二人の王と、その手勢一万五千を、ギデオン達三百人が追撃した。
彼らには、「主が敵を渡してくださった」という確信があった。
それでギデオン達は疲れてはいても、また、仲間からの心ない仕打ちを受けても、なお信仰を奮い立たせ、そうして見事、二人の王を生け捕りにし、ゆうゆうと引き上げた。
主の戦いを戦っているギデオン達に食料を与えず、むしろ蔑みを返したスコテやペヌエルの人々は、まさか勝利するとは、思ってもいなかっただろう。
『こうしてヨアシの子ギデオンはヘレスの坂をとおって戦いから帰り、スコテの若者ひとりを捕えて、尋ねたところ、彼はスコテのつかさたち及び長老たち七十七人の名をギデオンのために書きしるした。ギデオンはスコテの人々のところへ行って言った、「あなたがたがかつて『ゼバとザルムンナはすでにあなたの手のうちにあるのか。われわれはどうしてあなたの疲れた人々にパンを与えねばならないのか』と言って、わたしをののしったそのゼバとザルムンナを見なさい」。
そして彼は、その町の長老たちを捕え、野のいばらと、おどろとを取り、それをもってスコテの人々を懲らし、またペヌエルのやぐらを打ちこわして町の人々を殺した。』(士師記8:13-17)
ギデオンは彼らにあらかじめ言っていた通りの事を、スコテやペヌエルの住人に実行した。
これを、やりすぎではないか、と思うかもしれない。
しかしスコテやペヌエルの住人は、ヨルダン川の西側でイスラエルの皆が力をあわせてミデヤン人と戦っているのに一切戦わず、逃げて行くミデヤン人達に、みすみす自分達の領土を通過させ、東側へと逃げて行く事を黙認し、かつ、休まないで追撃しているギデオン達を、さげすんだわけである。
それを、主の民イスラエルへの反逆と言わずして、何と言うだろう。
ミデヤン人のような横暴で脅し奪う者に対してはヘラヘラしてただされるがまま、その反面、自分達に良くしてくれる親や兄弟姉妹に対しては、やたら威張り散らして蔑むような、恩知らずやおくびょう者、信じない者が受ける分は、火と硫黄の燃えている池である。(黙示録21:8)
イエス様も、このような者達に対して言われた。
『のろわれた者どもよ、わたしを離れて、悪魔とその使たちとのために用意されている永遠の火にはいってしまえ。あなたがたは、わたしが空腹のときに食べさせず、かわいていたときに飲ませず、旅人であったときに宿を貸さず、裸であったときに着せず、また病気のときや、獄にいたときに、わたしを尋ねてくれなかったからである。』
そのとき、彼らもまた答えて言うであろう、『主よ、いつ、あなたが空腹であり、かわいておられ、旅人であり、裸であり、病気であり、獄におられたのを見て、わたしたちはお世話をしませんでしたか』。そのとき、彼は答えて言うであろう、『あなたがたによく言っておく。これらの最も小さい者のひとりにしなかったのは、すなわち、わたしにしなかったのである。』 』(マタイ25:41-47)
主はやがて来られる。
そして、それぞれに相応しい報いを与えられるのだ。
『まちがってはいけない、神は侮られるようなかたではない。人は自分のまいたものを、刈り取ることになる。すなわち、自分の肉にまく者は、肉から滅びを刈り取り、霊にまく者は、霊から永遠のいのちを刈り取るであろう。わたしたちは、善を行うことに、うみ疲れてはならない。たゆまないでいると、時が来れば刈り取るようになる。だから、機会のあるごとに、だれに対しても、とくに信仰の仲間に対して、善を行おうではないか。』(ガラテヤ6:7-10)
礼拝説教メッセージ音声:働き人の意気をくじく者達(士師記8:1-9):右クリックで保存
ギデオンは、近辺のミデヤン人の残党は他の部族に任せ、自分達は、逃げのびたミデアンの王・ゼバとザルムンナを追撃するために、ヨルダン川を渡り、東方へ急行した。
その時、ミデヤン人の首長オレブとゼエブを撃ち殺したエフライム人達が、ギデオンの所に来た。
『エフライムの人々はギデオンに向かい「あなたが、ミデアンびとと戦うために行かれたとき、われわれを呼ばれなかったが、どうしてそういうことをされたのですか」と言って激しく彼を責めた。』(士師記8:1)
ギデオン達は、敵を追撃している最中なのだが、エフライム族がわざわざヨルダン川を渡って、ギデオン達に面会を求めて来たのは、戦いに共に参加する為ではなく、「 なぜ自分達を先に呼ばなかったのか」と、どうでも良い事で激しくクレームするためだった。
そもそも、ギデオン達が角笛を吹いて戦いに召集したのは、主の霊に促されての事で(6:33-35)、戦いの呼びかけも、人選も、全て主に導かれての事だった。
そして、今回の戦いで主から選ばれたのは、三万二千人中、わずか三百人と、非常にシビアな選別だった。
だからこのような、誰を呼ぶ・呼ばない、という点で喧々諤々するために、わざわざ遠くまで足労するような性質の者達には、元から主の呼びかけが無かったのだろうし、たとえ呼ばれていたとしても、真っ先に人選から切り落とされ、ぶつぶつ不平を漏らして戦いの妨害さえしていた可能性が大いにある。
純粋に主のために働いている人の所に、名誉欲にかられた者が来て、どうでも良い事で難癖つけて疲れさせてしまうような事は、現代の教会でも大いにありうる事である。
そのような者達に、ギデオンは、実にうまく対応した。
『ギデオンは彼らに言った、「今わたしのした事は、あなたがたのした事と比べものになりましょうか。エフライムの拾い集めた取り残りのぶどうはアビエゼルの収穫したぶどうにもまさるではありませんか。神はミデアンの君オレブとゼエブをあなたがたの手にわたされました。わたしのなし得た事は、あなたがたのした事と比べものになりましょうか」。ギデオンがこの言葉を述べると、彼らの憤りは解けた。』(士師記8:2-3)
兄弟姉妹同士で争いごとをして、その間に敵を取り逃がしてしまうような、主の栄光にならない事を、ギデオンは選択しなかった。
主の働き人とは本来、主の栄光のために働くのであって、決して自分の満足や名誉のために働くのではない。確かに、ギデオンにも一言言いたい事はあっただろう。しかし、それを「主の故に」飲み込み、平和の内に速やかにこの問題を乗り越えて、すぐに、敵を追いかける任務へと戻った。
私達も、信仰が成長し切れていない弱い兄弟姉妹に対しては、霊的おとなとして、柔和な心で接するべきである。
『兄弟たちよ。もしもある人が罪過に陥っていることがわかったなら、霊の人であるあなたがたは、柔和な心をもって、その人を正しなさい。それと同時に、もしか自分自身も誘惑に陥ることがありはしないかと、反省しなさい。互に重荷を負い合いなさい。そうすれば、あなたがたはキリストの律法を全うするであろう。』(ガラテヤ6:1)
このように平和の内に 乗り越えたギデオンだったが、追撃を続けて行く内に、さらに意気をくじかれる経験をする。
『ギデオンは自分に従っていた三百人と共にヨルダンに行ってこれを渡り、疲れながらもなお追撃したが、彼はスコテの人々に言った、「どうぞわたしに従っている民にパンを与えてください。彼らが疲れているのに、わたしはミデアンの王ゼバとザルムンナを追撃しているのですから」。スコテのつかさたちは言った、「ゼバとザルムンナは、すでにあなたの手のうちにあるのですか。われわれはどうしてあなたの軍勢にパンを与えねばならないのですか」。』(士師記8:4-)
ギデオンは決して難しい注文をしているわけではなかった。
イスラエルのため、主のために命を賭して共に戦ってくれ、というのではなく、ただ、疲れているこの三百人にパンを分けてほしい、というものだったが、彼らは助けようとは一切せずに、けちな蔑みの言葉しか返さなかった。
このように、兄弟姉妹が主のため、兄弟姉妹のために戦っているというのに、指一本たりとも、びた一文たりとも助けようとしないキリスト者も、残念ながら、いる。
『ギデオンは言った、「それならば主がわたしの手にゼバとザルムンナをわたされるとき、わたしは野のいばらと、おどろをもって、あなたがたの肉を打つであろう」。そしてギデオンはそこからペヌエルに上り、同じことをペヌエルの人々に述べると、彼らもスコテの人々が答えたように答えたので、ペヌエルの人々に言った、「わたしが安らかに帰ってきたとき、このやぐらを打ちこわすであろう」。』(士師記8:7-9)
さすがのギデオンも、このような者に対しては、怒りを燃やした。
スコテも、ペヌエルも、ヨルダン川の東側の町であり、デボラとバラクが戦いに呼びかけた時も、彼らは戦いに参加せずに、ただ思案して、どうでもいい事にうつつを抜かしていた。(詳細: http://voice.of.christ.yokohama/modules/d3blog/details.php?bid=2093 )
イスラエルのため、主のために戦いをしているのに、それに参加せず、指一本たりとも助けようとしないどころか、蔑みを与えるような者は、主を蔑む者であり、そのような者達へは、それ相応の報いが待っている。
私達は、そのような者ではなく、ギデオンと三百人勇士のように、主の働きを忠実に行う者でありたい。
礼拝説教メッセージ音声:主の剣、ギデオンの剣(士師記7:16-25):右クリックで保存
『そして彼は三百人を三組に分け、手に手にラッパと、からつぼとを取らせ、つぼの中にたいまつをともさせ、彼らに言った、「わたしを見て、わたしのするようにしなさい。わたしが敵陣のはずれに達したとき、あなたがたもわたしのするようにしなさい。わたしと共におる者がみなラッパを吹くと、あなたがたもまたすべての陣営の四方でラッパを吹き、『主のためだ、ギデオンのためだ』と言いなさい」。』(士師記7:16-18)
ギデオンと三百人の勇士たちは、剣などの武具を一切持たず、ラッパ(ショファー:角笛、コルネット)と、からつぼと、たいまつだけを携えて、戦いに臨んだ。
彼らは、ともしびを空つぼの中に隠し、光が外に漏れないようにして、敵陣近くまで潜入し、ギデオンの合図を待った。
『こうしてギデオンと、彼と共にいた百人の者が、中更の初めに敵陣のはずれに行ってみると、ちょうど番兵を交代した時であったので、彼らはラッパを吹き、手に携えていたつぼを打ち砕いた。すなわち三組の者がラッパを吹き、つぼを打ち砕き、左の手にはたいまつをとり、右の手にはラッパを持ってそれを吹き、「主のためのつるぎ、ギデオンのためのつるぎ」と叫んだ。』(士師記7:19-20)
ちょうど見張りが交代し、異常なしという引き継ぎを受けたばかりの所で、敵は油断していた。
そこに近くまで侵入していたギデオン達が「主のためのつるぎ、ギデオンのためのつるぎ」と叫び声を上げ、空つぼを割り、ラッパを吹き鳴らした。
敵が見上げてみると、今まで何も見えなかった所に、無数のたいまつの火が灯され、あちらこちらからつぼの割れる音や、叫び声、ラッパの音がモレの谷にこだまし、響き渡った
敵は激しく混乱し、同士討ちが起こった。主がそのようにされたからである。
この素晴らしい計略は、ギデオン自身が編み出したものではない。
彼が主の御言葉に従順した時、聖霊によって示されたものある。
主の御旨を成し遂げたいと願う働き人には、主が聖霊を送って下さり、なすべき知恵や、語るべき言葉を与えて下さる。それは、福音を伝える伝道者も、講壇で御言葉を語る説教者も、賛美をリードする人も同じである。主イエスに全てを委ねるのであれば、聖霊がその人を導き、人の知恵や力を遥かに超えた働きが為されるのだ。
ギデオンはまず、ともし火を空つぼに入れるよう指示した。
それと同じように、私達も、まことの光であられるキリストを、土の器である私達の内に住まわせて歩むべきである。
そして、主の促しがあった時には、私達の「固定概念」や「自我」という「空つぼ」は割ってしまい、内に秘めていた光なるキリストを解き放ち、御言葉のともしびを高々と掲げるべきである。
それをせず、私達という空つぼを生かしておき、御言葉のともし火を閉じ込めたままにして置くなら、ただ熱せられて辛くなるだけである。(エレミヤ20:9、マタイ5:15-16)
私達という「空つぼ」を割り、光なるキリストを高く掲げるなら、暗闇の勢力は粉々に砕かれ、逃げ惑い、自滅して行くのだ。
私達は土の器である。そして私達キリスト者は、その内に、キリストという無限の宝を秘めている。
『わたしたちは自分自身を宣べ伝えるのではなく、主なるキリスト・イエスを宣べ伝える。わたしたち自身は、ただイエスのために働くあなたがたの僕にすぎない。「やみの中から光が照りいでよ」と仰せになった神は、キリストの顔に輝く神の栄光の知識を明らかにするために、わたしたちの心を照して下さったのである。しかしわたしたちは、この宝を土の器の中に持っている。その測り知れない力は神のものであって、わたしたちから出たものでないことが、あらわれるためである。』(2コリント4:5-7)
ギデオン達は、武器を一切使わず、空つぼを割る事、ともし火を掲げる事、「主の剣、ギデオンの剣」という叫びと、ラッパを鳴り響かせる事によって、勝利のきっかけをもたらした。
私達の勝利の仕方も、同じである。
すなわち、私達という土の器を割り、内におられるキリストの光を放たたせ、御言葉のともし火、すなわち、主の剣を高々と掲げ、そして主への賛美を響かせる事によって、勝利するのだ。
礼拝説教メッセージ音声:敵陣をひっくり返す一かたまりの大麦のパン(士師記7:9-15):右クリックで保存
『その夜、主はギデオンに言われた、「立てよ、下っていって敵陣に攻め入れ。わたしはそれをあなたの手にわたす。』(士師記7:9)
三百人の精鋭に絞られたギデオン達に、いよいよ主から攻撃命令が下った。
しかし、彼にとって初めての戦闘であり、しかも相手は、十三万五千。それに対して三百人で立ち向かうという、前代未聞の戦いには、当然、恐れがあっただろう。
そこで主は、ギデオンを安心させるため、「もし恐れるならば」というオプションプランも用意された。
『もしあなたが下って行くことを恐れるならば、あなたのしもべプラと共に敵陣に下っていって、彼らの言うところを聞け。そうすればあなたの手が強くなって、敵陣に攻め下ることができるであろう」。ギデオンがしもべプラと共に下って、敵陣にある兵隊たちの前哨地点に行ってみると、ミデアンびと、アマレクびとおよびすべての東方の民はいなごのように数多く谷に沿って伏していた。そのらくだは海べの砂のように多くて数えきれなかった。』(士師記7:9-12)
主は、もし恐れるなら、プラという人物と一緒に敵陣へ下って行って、彼らの内で取り交わされている会話を聞くように命じられた。
この”視察”は、敵状を探るものではなく、主が為して下さった真理を見に行かせるための”霊的視察”である。
いなごの大軍のような敵の多さや海辺の砂のような数のらくだなどの”うわべ”を見る敵情視察なら、もはや絶望しか無い。
しかし、主が既に為して下さった”真実”を知るなら、その真理はその人を自由にする。
『ギデオンがそこへ行ったとき、ある人がその仲間に夢を語っていた。その人は言った、「わたしは夢を見た。大麦のパン一つがミデアンの陣中にころがってきて、天幕に達し、それを打ち倒し、くつがえしたので、天幕は倒れ伏した」。仲間は答えて言った、「それはイスラエルの人、ヨアシの子ギデオンのつるぎにちがいない。神はミデアンとすべての軍勢を彼の手にわたされるのだ」。』(士師記7:13-14)
主は、ギデオン自身に夢を見させる事によってではなく、敵が見た夢と、敵が解釈したその内容によってギデオンを力づける。
私達はなにかと、他人がどう評価したかによって力づけられる事も、多いものである。
敵が見たのは、実に面白い夢である。どうして大麦のパンがころがって来ると、天幕が倒れ、陣営が覆るのか。
また、敵は、大麦のパンはギデオンの剣に違いない、と言ったが、ギデオン達とその軍は、この夜、刀剣類は一切持たずに勝利する。
一体、ギデオンの剣なる大麦のパンとは、何だろう。
主が戦って下さるにあたって重要なものは、剣や槍などの装備や、人の力ではなく「ことば」であり、それも、真理に立った御言葉を宣言する事が、勝利の鍵である。
『ダビデはペリシテびとに言った、「おまえはつるぎと、やりと、投げやりを持って、わたしに向かってくるが、わたしは万軍の主の名、すなわち、おまえがいどんだ、イスラエルの軍の神の名によって、おまえに立ち向かう。・・・またこの全会衆も、主は救を施すのに、つるぎとやりを用いられないことを知るであろう。この戦いは主の戦いであって、主がわれわれの手におまえたちを渡されるからである」。』(1サムエル17:45-47)
生ける神の陣をなぶったゴリヤテは、武器と肉体の大きさと偶像の神々の名によって向かって来たが、ダビデは、イスラエルの神、万軍の主の御名によって立ち向かった。
彼は真理の「ことば」を宣言する事によって、力対力の戦いから、真理対不真実の戦いへと転換し、そして見事勝利した。
真理の御言葉は、神に信頼する者にとっては、いのちを養うパンであるが、神の敵に対して、悪魔に対して、そしてあらゆる不真実に対しては、滅びの剣なのだ。
イエス様が、少年が捧げた5つの大麦のパンと2匹の魚によって、大勢の人々を養ったように(ヨハネ6:9-13)、御言葉のパンはたとえわずかであっても、また捧げる人がいかに小さくても、主イエスを信頼し慕い求めて来る大勢の人を満腹させ、弟子たち全員をも満ちたらせる。
そして、御言葉は、暗闇の支配や権威、天上にいる諸々の悪霊を薙ぎ払い、刺し貫く「剣」である。(エペソ6:11-17)
ミデヤン人の陣営に転がってきた大麦のパンは、真理の御言葉であり、ギデオン達にとっては勝利の真理、敵にとっては敗北の真理なのだ。
『ギデオンは夢の物語とその解き明かしとを聞いたので、礼拝し、イスラエルの陣営に帰り、そして言った、「立てよ、主はミデアンの軍勢をあなたがたの手にわたされる」。』(士師記7:15)
この時以降、ギデオンはもはや恐れることも、主にしるしを求める事もなくなり、本当に「大勇士」として相応しく行動をするようになる。
主の御言葉がその人の内に入り、真理を理解すると、その人は本当に自由になり(ヨハネ8:32)、もはや外見や、目の前の「現実」に捕らわれなくなる。
主が真理を教えて下さり、人がそれを信じて行動する時、十三万五千の敵はわずか三百人の神の民に滅ぼされ、屈強な巨人戦士ゴリヤテは紅顔の少年に倒され、五つの大麦のパンと二匹の魚によって、何千人もの人を満腹させ養うのだ。
礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
運は制御する事が可能である(伝道者の書11:1-6):右クリックで保存
【概要】
本日の御言葉は、伝道者の書11章1節から6節の知恵と、私たちが日々歩む信仰生活における投資と備えについての御教えです。神様の導きに応じ、御言葉に従って歩むことの大切さをお伝えいたします。
【聖書箇所】
・伝道者の書 11章1節〜6節
・申命記 11章8節〜
・(最後に)主の祈り
【慰めの言葉】
どんなに私たちが不安や試練に直面しても、主は私たち一人ひとりの歩みを見守り、恵みと祝福を賜ってくださいます。
【励ましの言葉】
一見無駄に見える努力や投資も、信仰をもって続けるならば、やがて豊かな実りとなって現れると、神はお約束くださいました。
【戒めの言葉】
人間の知恵に頼り、偶然やリスク分散だけに心を奪われるならば、神様の御業を見失う危険があります。神の導きを無視することは、霊的な大罪に他なりません。
【勧めの言葉】
毎日の生活の中で、御言葉の種を惜しみなく蒔き、日々の小さな努力を通して神様の御恵みにあずかるよう努めましょう。家族や隣人に対しても、愛と信仰の証として御言葉を伝え、励まし合いましょう。
【悔い改めの促しの言葉】
もし、これまで神様の御言葉に耳を傾けず、自分勝手な判断で歩んできた者は、今一度心を改め、神様の愛と導きに立ち返るよう、謙虚な心で悔い改める時です。
【***詳細***】
今日、私は「あなたのパンを水の上に投げよう。ずっと後の日になって、あなたはそれを見出そう」という伝道者の書11章1節の御言葉を、心に深く刻みながら説いております。この一節は、一見無駄と思える投資や努力が、遠い未来に予想もしなかった豊かな実りとなって返ってくるという、神の御知恵を示しているのです。神様は、私たちに「あなたの受ける分を7人か8人に分けておけ。地上でどんな災いが起こるか、あなたは知らないのだから」と語り、リスクを分散させる知恵を授けられました。私たちの日常生活において、子育てやビジネス、あるいは御言葉の宣言という霊的投資も、投げ捨てるのではなく、ひたむきに続けるべき行為であると改めて教えられます。
神様の御計画は、時として私たちの理解を超え、偶然や不確かな未来の中に秘められているかのように思えます。しかし、**「あなたは一切を行われる神の御業を知らない」**という御言葉が示す通り、すべてのことは神様の御手の内にあるのです。朝のうちに種を蒔き、夕方にも手を離してはならないという教えは、私たちに怠ることなく日々の労苦を惜しまず、信仰と努力をもって前に進むようにとの励ましです。たとえ、どんなに私たちが計画し、リスク分散に努めても、結局は「神様の御業」が導かれる結果に従うのです。
また、申命記11章8節以降に記された御言葉にもあるように、神様の命令に従えば、与えられた地において絶えず恵みが降り注ぎ、豊かな実りが得られると約束されました。エジプトの過酷な土地とは異なり、天の雨で潤された土地は、神様がお心を留め、絶えず御顔をかたむけてくださる場所なのです。私たちもまた、どんなに厳しい時代にあっても、神様にすべてを委ね、御言葉に従って歩むならば、必ずや「先の雨」と「後の雨」を受け、心にも、物質にも、霊的にも実りある人生を歩むことができるのだと確信しております。
私たち信仰者は、世の中の成功哲学に流されることなく、主の御言葉という礎に立ち、歩むべき道を選ぶべきです。失敗や予期しない災いが襲ってくることもあるでしょう。しかし、世界の知恵ではなく、神様の知恵と約束に信頼するならば、どんな嵐の中にも平安と希望があると信じております。実際、御言葉の一節「あなたの門が固く守られるように、あなたは日々その備えをせよ」という励ましは、私たちが一人ひとり、風雨に抗して前進するための確固たる指針となるはずです。
また、主の祈りにおいて、私たちは「我らの父よ、御国を来たらせたまえ」などと願うように、神様への信頼と依存を新たにしなさいと命じられています。この祈りの中にこそ、私たちの生きるべき姿勢、つまりどんなに道が厳しくも、御言葉に従い、神の御声に耳を傾け、日々の小さな努力と愛の行いを惜しまない決意が込められているのです。私たちは、自分自身の知恵ではどうにもならぬ未来に対し、ただ主の慈しみと恵みに全てを委ねるべきであり、その証として、家庭や教会、地域社会においても積極的に御言葉を実践し、互いに励まし合って歩む責務を負っております。
この説教を通して、私たち一人一人に伝えたいのは、投資の対象が何であれ、神様の御言葉の種こそが、最も尊く、最も確かな実りをもたらすという真実です。たとえ、日々の生活の中で「パンを水の上に投げる」ように感じられる努力があったとしても、そのすべては後の日に大いなる祝福として回収されるのです。子育ての中で、霊的な乳を与え続けること、また自らの信仰を堅く守り通すこと、これらはすべて、神様が後に大きな利子となって実を結ばせるための大切な行いです。
私たちは、経済的なリスクを分散し、世の知恵に基づいた計画を立てることも大切ですが、何よりも重要なのは、心から神様に従い、御言葉を信頼することです。多くの方が、世の中の流行や成功哲学に惑わされながらも、現実の厳しい試練に遭遇する中で、神様の御恵みから遠ざかってしまうことを私自身も痛感しております。しかし、逆に神様の御声に従い、信仰の道を歩むならば、決して時の流れや環境に左右されることなく、確固たる信頼と盼望を持って未来に向かうことができると、聖書は力強く語りかけております。
このように、伝道者の書に記された知恵と、申命記の約束、そして私たちが共に唱える主の祈りは、私たちの人生における羅針盤であり、決して見失ってはならない光の道しるべです。どうか、今日ここに宣言された御言葉の一語一句を、皆さんの心の中に大切に留め、明日への希望と励ましとして生かしていただきたく、心より願っております。すべては、私たちを愛し、導いてくださる主イエス・キリストのおかげです。
【結論】
私たちの一見無駄に思える努力も、神様の御計画の中では必ずや大いなる実りとして帰ってきます。日々、御言葉の種を惜しまず蒔き、互いに励まし合い、主の御声に従って歩む者こそが、真の幸いと祝福を受けるのです。どうか皆さん、一人ひとりが神様の愛と恵みに満たされ、永遠に歩むべき光の道を進んでいかれますよう、主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。
礼拝説教メッセージ音声:ギデオンの300人勇士の選別(士師記7:1-8):右クリックで保存
『さてエルバアルと呼ばれるギデオンおよび彼と共にいたすべての民は朝早く起き、ハロデの泉のほとりに陣を取った。ミデアンびとの陣は彼らの北の方にあり、モレの丘に沿って谷の中にあった。』(士師記7:1)
いよいよ、双方の陣営は、互いに5キロメートル程の距離に迫った。
ギデオン率いるイスラエルの軍は、三万二千人。対する敵の連合軍は、十三万五千人。敵は四倍ほどの兵力である。
数の上では実に不利であり、一人でも多くの人手が欲しいと思う所だが、主は、その逆である事を言われる。
『主はギデオンに言われた、「あなたと共におる民はあまりに多い。ゆえにわたしは彼らの手にミデアンびとをわたさない。おそらくイスラエルはわたしに向かってみずから誇り、『わたしは自身の手で自分を救ったのだ』と言うであろう。』(士師記7:2)
主はご存知だったのだ。
もしこのままの状況で勝ったなら、人は「自分達の力で勝った、自分達はすごい」と言って、傲慢になってしまう事を。
もし勝利しても、神様に感謝と栄光を帰さない傲慢さが残っているなら、「わたしは彼らの手にミデアンびとをわたさない」と言われたように、主はもっと力を削ぎ、ただ主に求める以外に無い状況へ置かれる。
皆さんが今、何かの戦いに面しているとして、もし勝利が与えられたなら、真っ先に、主に栄光と感謝を帰する「自信」はあるだろうか。
主から幸いを受けた時、願っていたことが成就した時こそ、重要である。
念願の事が叶った時、祝杯を上げるのに忙しくて主を忘れ、そのまま主に戻らないとするなら、もっと悪い事になってしまう。事実、士師記の荒んだ時代はそうしてはじまった。
だから、主から幸いを得た暁には主に感謝し、主にしっかり繋がって生きるのだという確固とした信念をもっておくべきである。
『それゆえ、民の耳に触れ示して、『だれでも恐れおののく者は帰れ』と言いなさい」。こうしてギデオンは彼らを試みたので、民のうち帰った者は二万二千人あり、残った者は一万人であった。』(士師記7:3)
主は、戦うべき人々を、選別される。その上で、恐れおののく者は真っ先に切り捨てられて行く。
信仰の戦いにおいて、最も邪魔するものは、この、気後れしている者、恐れている者、おくびょう者である。
事実、イスラエルが荒野で40年も回り道をしてしまった原因は、わずか十名の斥候の「恐れ」が発端だった。(民数記13-14章)
このようにして、イスラエルの手勢は一万になってしまった。
彼我の人数比は、一対十三。数ではもはや圧倒的不利であるが、主は、さらに人数を絞られる。
『主はまたギデオンに言われた、「民はまだ多い。彼らを導いて水ぎわに下りなさい。わたしはそこで、あなたのために彼らを試みよう。わたしがあなたに告げて『この人はあなたと共に行くべきだ』と言う者は、あなたと共に行くべきである。またわたしがあなたに告げて『この人はあなたと共に行ってはならない』と言う者は、だれも行ってはならない」。』(士師記7:4)
信仰の戦いにおいては、主が「共に行くべきだ」という人と「共に行ってはならない」という人とに分かれる。
それは、どのような基準で選別されるか。
『そこでギデオンが民を導いて水ぎわに下ると、主は彼に言われた、「すべて犬のなめるように舌をもって水をなめる者はそれを別にしておきなさい。またすべてひざを折り、かがんで水を飲む者もそうしなさい」。そして手を口にあてて水をなめた者の数は三百人であった。残りの民はみなひざを折り、かがんで水を飲んだ。主はギデオンに言われた、「わたしは水をなめた三百人の者をもって、あなたがたを救い、ミデアンびとをあなたの手にわたそう。残りの民はおのおのその家に帰らせなさい」。』(士師記7:5-7)
手で水をすくってなめるだけの人は選別されたが、膝をつき、かがんで水を飲んだ人は、選別から外された。
既に、敵がもうすぐそこに迫っているような状況で、膝をついて水をがぶ飲みする者は、臨戦態勢が整っていない、という事だ。
例えば、チームで宣教旅行に行った際、せっかく見知らぬ地に来たのだから、ご当地の有名処でグルメを飲み食いしたいと思っている人は、チームから外され、そうしたものには目をくれず、むしろ当地の人々の救いのために祈ったり、御言葉で心備えしたりする人が、選別に残るようなものである。
霊的な戦いにおいては、人数は関係無い。むしろ、その軍団の霊的純粋さが重要だ。それは、教会の働き人についても、ミニストリーのチームについても、同じである。
『そこで彼はかの三百人を留めおき、残りのイスラエルびとの手から、つぼとラッパを取り、民をおのおのその天幕に帰らせた。時にミデアンびとの陣は下の谷の中にあった。』(士師記7:8)
選別に合格したのは、わずか三百人だった。
三百人が、十三万五千に戦いを仕掛ける。もはや、お話にならない。
これで勝つとしたなら、もはや人間のわざではなく、100%主のわざだとしか言いようが無い。
こうして、主の戦いの条件が整えられた。
主が御業を働かせられる条件が整うまでに、人は、多くのものを主に明け渡し、手放して行かなくてはならない。
人が自分の方法を、あるいは自分の何かを、自分のものとして握り締めている限り、主は「あなたの力はまだ多すぎる」と言われ、どんどん手放す事を要求される。
私達は、主に促されるままに手放して行くたびに、心細さを感じるかもしれないが、しかし、手放せば手放して行く程、主の圧倒的な力が働く素地が整えられていくのだ。それが、十字架の死と復活の原理である。
十字架、それは、全てを明け渡し手放す究極形態で、人には絶望に見えるが、十字架の上で全てを明け渡す時、神様から復活の圧倒的ないのちのパワーが湧き起こり、人間の力では決してあり得ないような神様の力が働く事のできる素地が整うのだ。
臆病であっても御胸を為す人は、勇士となって行く(士師記6:33-40)
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- 執筆 :
- pastor 2014-10-2 23:39
礼拝説教メッセージ音声:臆病であっても御胸を為す人は、勇士となって行く(士師記6:33-40):右クリックで保存
神の民の敵は連合し、大軍をなして攻めて来た。その数は、およそ十三万五千人。
その時、主の霊がギデオンに臨み、彼がラッパを吹き鳴らすと、彼の家の者・アビエゼル人が集まり、さらに母体の部族であるマナセ族が、続いて、イスラエル北方に領地を得ているアシェル、ゼブルン、ナフタリの部族の中からも、次々とギデオンの元に集まった。(士師記6:33-35)
おびただしい数の敵を前に、ギデオンは、およそ三万三千人の集団を率いる長として、立った。
彼はついこの間まで、敵を恐れる故に、酒槽の中で隠れて麦を打っていたような者、あたかも、不良たちを避けてトイレの個室に隠れて弁当を食べていたような状況だった。
それが今、多くの人々が彼に命を預け、戦おうとしている。
今まで、家の中で最も小さき者として過ごして来た彼にとっては、かつて無いような経験である。
主の霊に導かれて、人々を召集したものの、ふと我に返った時、彼には恐れが来たのであろう。
それは無理もない事である。
『ギデオンは神に言った、「あなたがかつて言われたように、わたしの手によってイスラエルを救おうとされるならば、わたしは羊の毛一頭分を打ち場に置きますから、露がその羊の毛の上にだけあって、地がすべてかわいているようにしてください。これによってわたしは、あなたがかつて言われたように、わたしの手によってイスラエルをお救いになることを知るでしょう」。すなわちそのようになった。彼が翌朝早く起きて、羊の毛をかき寄せ、その毛から露を絞ると、鉢に満ちるほどの水が出た。
ギデオンは神に言った、「わたしをお怒りにならないように願います。わたしにもう一度だけ言わせてください。どうぞ、もう一度だけ羊の毛をもってためさせてください。どうぞ、羊の毛だけをかわかして、地にはことごとく露があるようにしてください」。神はその夜、そうされた。すなわち羊の毛だけかわいて、地にはすべて露があった。』(士師記6:36-40)
ギデオンは主に二度しるしを求めたが、このしるしの中に、キリストが隠れている。
キリストは、世の罪を取り除くまことの小羊として世に降りて来られた。
最初のしるしでは、羊の毛だけに露が降り、それ以外の全地は乾いていたが、同じように、かつては世において唯一キリストにのみ、父のひとり子としての栄光があり、めぐみとまことが彼には充満していた。(ヨハネ1:14)
第二のしるしでは羊の毛だけが乾き、それ以外の全地は潤っていたが、同じように、キリストは十字架上で「わたしは渇く」と言われた。
彼は富んでおられたのに、貧しくなられ、祝福されていたのに呪われ、いのちの君であられたのに十字架上で死なれた。
それは、キリストが貧しくなる事によって、彼を信じる人々が彼の代わりに富む者とされるため、また、彼が全人類の呪いを彼が一手に引き受け、全て彼を信じる者が祝福を受けるため、そして、死ぬべき私達の死を、彼が全て身代わりに背負って、死に、彼の身代わりの死によって、私達が永遠に生きるようになるためである。
彼が世の罪を取り除くまことの小羊としてほふられた時、彼の内にあった全ての知恵と力と栄光と富と、いのちの属するあらゆる良きものは、全ての人々へと解き放たれ、潤されたのだ。
ギデオンは何度もしるしを求め、主もまた、彼が安心するまで、何度もしるしを行った。
主は、見ないで信ずる者はさいわいである、と言われたが(ヨハネ20:29)、信仰によって歩みだしたばかりの人が、全く未経験の領域へと歩みだそうとする時、あるいは、今自分が乗っているこのレールは、果たして御心に沿っている道なのだろうかと、疑問が沸き起こる時、大いに、主に求め、聞くべきである。
主に聞きもしないで、勝手にゴールを変えてしまったり、あるいは、自分は相応しくないからと途中で降りてしまうのは、自分自身に滅びを招いてしまう事だ。
ヨナは主からの召命があったのに、逆方向へと向かってしまった故に、彼が乗った船全体に災いが及び、彼自身は、魚に飲み込まれてしまった。
また、モーセに連れられて出エジプトした民は、主に示された事を守らず、途中でエジプトを懐かしんで逆方向へ戻ろうとしたため、荒野で滅んでしまった。
ギデオンは確かに何度もしるしを求めたが、しるしが与えられておきながら御旨に背いた事は、一度も無かった。
どんなに怖くても、彼はちゃんと御旨を実行した。
そのような素養があったからこそ、主は彼を召しだされたのかもしれない。
私達も、いかに恐れても、臆病であっても、いかに落胆しても、それでもなお主の御胸を守り行って行くなら、どんどん勇士へとつくり変えられて行くのである。
小さな信仰の行いを偉大な事へ転換して下さる主(士師記6:25-32)
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- pastor 2014-10-1 23:21
礼拝説教メッセージ音声:小さな信仰の行いを偉大な事へ転換して下さる主(士師記6:25-32):右クリックで保存
主は臆病なギデオンを、徐々に勇士へと造り変えて下さるが、そのために主は、彼に最初のチャレンジを与えられた。
それは、父の家にある偶像の祭壇を打ち壊し、主への礼拝を回復させる事だった。
『その夜、主はギデオンに言われた、「あなたの父の雄牛と七歳の第二の雄牛とを取り、あなたの父のもっているバアルの祭壇を打ちこわし、そのかたわらにあるアシラ像を切り倒し、あなたの神、主のために、このとりでの頂に、石を並べて祭壇を築き、第二の雄牛を取り、あなたが切り倒したアシラの木をもって燔祭をささげなさい」。』(士師記6:25-26)
私達も、破綻してしまった人生を回復させるために、まずしなくてはならない事は、神でないものに頼る事を止め、私達の中の、神抜きでやりくりして来たそのパターンを打ち壊し、向き直って、神である主を礼拝する生活を取り戻す所からである。
『ギデオンはしもべ十人を連れて、主が言われたとおりにおこなった。ただし彼は父の家族のもの、および町の人々を恐れたので、昼それを行うことができず、夜それを行った。』(士師記6:27)
彼は、この主から与えられた最初のチャレンジに、恐れがあった。
しかし、いかに恐れながらでも、人目をはばかって夜に行ったにしても、彼が主の御言葉を実践した事には、変わりはなかった。
主は、このような、恐れながらのやっとの従順をも、喜んで受け取って下さる。
ギデオンの氏族はマナセのうちで最も弱い分団で、彼自身も、父の家では最も小さい者である、と、彼は告白したが、主は、その最も小さな者の、ほんの小さな信仰の行いを受け取り、それを用いて、とても大きな事を動かして下さる。
実際ダビデも、元々は父の家で最も小さな者で、兄弟の数にすら数えられていなかったが、そんな小さな彼の信仰を主は受け取られ、どんな大人も立ち向かえなかった巨人ゴリアテを、見事彼が討ち取ったものだ。
『町の人々が朝早く起きて見ると、バアルの祭壇は打ちこわされ、そのかたわらのアシラ像は切り倒され、新たに築いた祭壇の上に、第二の雄牛がささげられてあった。そこで彼らは互に「これはだれのしわざか」と言って問い尋ねたすえ、「これはヨアシの子ギデオンのしわざだ」と言った。町の人々はヨアシに言った、「あなたのむすこを引き出して殺しなさい。彼はバアルの祭壇を打ちこわしそのかたわらにあったアシラ像を切り倒したのです」。』(士師記6:28-30)
町の人々の反応から、当時のイスラエルの信仰が、いかに失墜していたかがわかる。
人々は、まことの神である主を捨て、平然とバアルやアシラを崇拝しており、その像が壊されたという事でギデオンを殺せ、というのだ。
ギデオンが恐れながらこの事を行ったのも、無理は無い。
しかし、彼一人のこの行動が、彼の周りに変化をもたらし、まずは彼の父から、その変化が現れた。
父ヨアシュは、自分の偶像が壊されたのであるから、人々がギデオンを責める以前に、真っ先にギデオンを処罰するはずの所だが、それをせず、かえって養護している。
「あなた達はバアルのために熱心に(tereevoon) 弁護するのか?本当に彼(バアル)を守る(tosheeoon) のか?もし彼が神であるなら、彼自身に、自分の祭壇が壊された事について争わせるがよかろう。」(士師記6:31 TSKより)
この言葉は、とても断固たるものである。
ギデオンの父は、気づいたのだ。自分が今までより頼んできたこの偶像には、自分の息子の、それも、最も臆病な息子にさえ簡単に切り倒されてしまう程、力が無く、その偶像の木材が、まことの主へのいけにえを燃やす燃料にされても、何も出来なかった事を。
『そこでその日、「自分の祭壇が打ちこわされたのだから、バアルみずからその人と言い争うべきです」と言ったので、ギデオンはエルバアルと呼ばれた。』(士師記6:32)
こうしてギデオンはその出来事の内容が通り名となり、その名が広められる所では、バアルなどの偶像には力なし、と広がっただろう。
私達も、まことの神以外に頼りにしている何か、すなわち、全くもって力の無い偶像を取り除け、それは、主を礼拝するための燃料とし、主に捧げるべきである。
全て、人々を偶像礼拝へと導いたサタンや悪霊ども、偽預言者たちは、やがて、永遠に燃やされる火の燃料とされる。(黙示録20:10)
私達もギデオンのように、最初は恐れながらでも良い。
信仰は、からし種ほどのわずかなものであっても、主の御言葉を従順し行うなら、主はそのわずかな信仰を用いて、山のような障壁を、海の中へと動かす元として下さるのだ。
『もし、からし種一粒ほどの信仰があるなら、この山にむかって『ここからあそこに移れ』と言えば、移るであろう。このように、あなたがたにできない事は、何もないであろう。』(マタイ17:20)
未来の私達をご覧になって今の私達をケアして下さる主(士師記6:17-24)
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- pastor 2014-9-29 19:39
礼拝説教メッセージ音声:未来の私達をご覧になって今の私達をケアして下さる主(士師記6:17-24):右クリックで保存
ギデオンは主に弱気な受け答えを繰り返したが、彼は今度は、しるしを見せて下さい、と求めた。
『ギデオンはまた主に言った、「わたしがもしあなたの前に恵みを得ていますならば、どうぞ、わたしと語るのがあなたであるというしるしを見せてください。どうぞ、わたしが供え物を携えてあなたのもとにもどってきて、あなたの前に供えるまで、ここを去らないでください」。主は言われた、「わたしはあなたがもどって来るまで待ちましょう」。』(士師記6:17-18)
私達がこの時の彼を見るに、本当に臆病で弱々しく、また、疑い深い信仰であるのを見て、本当に士師として大丈夫だろうか、と、思うかもしれない。
しかし主は、そんな彼を叱る事なく、飽きる事なく、弱い彼の信仰に応じて、一つ一つの要望に答えて下さった。
なぜなら主は、彼がそんな風に臆病に成長してしまった生い立ちをご存知であり、そして、彼がこれから主にあって造り替えられて行く後の、大胆な勇士としての未来をもご存知だから、主は、忍耐深く現在の彼をケアし、その成長を見守っておられるのだ。
それは私達についても、同様である。
永遠であり全能なる主は、私達が生まれてから現在に至るまでの成り立ちを全てご存知であり、また、主の栄光の器として造り替えられて行く将来の私達をも、ご覧になっておられるのだ。
『そこでギデオンは自分の家に行って、やぎの子を整え、一エパの粉で種入れぬパンをつくり、肉をかごに入れ、あつものをつぼに盛り、テレビンの木の下におる彼のもとに持ってきて、それを供えた。神の使は彼に言った、「肉と種入れぬパンをとって、この岩の上に置き、それにあつものを注ぎなさい」。彼はそのようにした。すると主の使が手にもっていたつえの先を出して、肉と種入れぬパンに触れると、岩から火が燃えあがって、肉と種入れぬパンとを焼きつくした。そして主の使は去って見えなくなった。』(士師記6:19-21)
彼は、彼なりの主への供え物を整えて、主の指示通りに行った所、主は火によってその捧げ物を受け入れられ、そうしてご自身が主である事を示された。
主は要望通り、しるしによってご自身を示されたというのに、彼はなお叫んだ。
『ギデオンはその人が主の使であったことをさとって言った、「ああ主なる神よ、どうなることでしょう。わたしは顔をあわせて主の使を見たのですから」。』(士師記6:22)
自分が何気なく主に訴えて望んだ事が、実際に実現してみると、まさかこんな事になるとは思っていなかった、えらい事になった、これからどうしよう、と、ショックを受けてしまう人もいる。
特に、弱い信仰の人はそうで、自分で何を願っているかも、またそれが実現したらどうなるかも、分かっていないのだ。
しかし、そんなギデオンにも、主は、励まして下さる。
『主は彼に言われた、「安心せよ、恐れるな。あなたは死ぬことはない」。そこでギデオンは主のために祭壇をそこに築いて、それを「主は平安」と名づけた。これは今日までアビエゼルびとのオフラにある。』(士師記6:23-24)
本当に主は恵みと憐れみに富まれたお方である。
ギデオンはこの一連のやりとりを通して、主は平安の主であり、自分を面倒みて下さると定めたからには、主はとことんまで平和に導いて下さる事を学び、少しだけ前進した。
イエス様も、弟子たちに対してそうだった。
イエス様が十字架から復活された日の弟子たちの状況は、ギデオンが主に呼び出された時と似ている。
『その日、すなわち、一週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人をおそれて、自分たちのおる所の戸をみなしめていると、イエスがはいってきて、彼らの中に立ち、「安かれ」と言われた。そう言って、手とわきとを、彼らにお見せになった。弟子たちは主を見て喜んだ。』(ヨハネ20:19-20)
ギデオンは、ミデヤン人を恐れ隠れていた所に主が現れたが、弟子たちも、ユダヤ人を恐れて戸を閉めていた時、主が現れて「平安あれ」と声をかけてくださった。
主はギデオンに「あなたの捧げ物は受け入れた」というしるしを見せて下さったように、主イエス様も、十字架上で打たれた手と脇腹を私達に見せて下さり、あなたの罪の刑罰は、もうわたしが負った、あなたはもう神に受け入れられている、というしるしを見せて下さる。
主がギデオンを、イスラエルを救う者として遣わしたように、主イエス様も、私達を平和の使者として世に遣わして下さる。
『イエスはまた彼らに言われた、「安かれ。父がわたしをおつかわしになったように、わたしもまたあなたがたをつかわす」。そう言って、彼らに息を吹きかけて仰せになった、「聖霊を受けよ。あなたがたがゆるす罪は、だれの罪でもゆるされ、あなたがたがゆるさずにおく罪は、そのまま残るであろう」。』(ヨハネ20:21-23)
主は私達を遣わすにあたり、必要な権能を教会に与えて下さった。その権能は、ハデスの門さえ打ち勝てない権能である。(マタイ16:15-19)
『十二弟子のひとりで、デドモと呼ばれているトマスは、イエスがこられたとき、彼らと一緒にいなかった。ほかの弟子たちが、彼に「わたしたちは主にお目にかかった」と言うと、トマスは彼らに言った、「わたしは、その手に釘あとを見、わたしの指をその釘あとにさし入れ、また、わたしの手をそのわきにさし入れてみなければ、決して信じない」。』(ヨハネ20:24-25)
トマスも、ギデオンのように見なければ信じない信仰の持ち主だった。
ただしトマスの場合はギデオンと違い、3年半ほど主のそばで行動を共にし、弟子としての働きをしていたというのに、まだ、見なければ信じない頑固な信仰者だった。
主は、そんな彼をも扱って下さる。
『八日ののち、イエスの弟子たちはまた家の内におり、トマスも一緒にいた。戸はみな閉ざされていたが、イエスがはいってこられ、中に立って「安かれ」と言われた。それからトマスに言われた、「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手をのばしてわたしのわきにさし入れてみなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい」。トマスはイエスに答えて言った、「わが主よ、わが神よ」。イエスは彼に言われた、「あなたはわたしを見たので信じたのか。見ないで信ずる者は、さいわいである」。』(ヨハネ20:26-29)
このようにして、トマスもようやく、見ないで信じる者へと造り替えられて行った。
主は、一人一人に必要な養いを、それぞれにカスタムメイドで与えて下さるのだ。
主に養われ、主の似姿へとますます造り替えられ、有用な働き人として大胆に遣わされていく皆さんでありますように。
イエス様のお名前によって祝福します!