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礼拝説教メッセージ音声:必ず成就する主の約束(ヨシュア記21:43-45):右クリックで保存
『このように、主が、イスラエルに与えると、その先祖たちに誓われた地を、ことごとく与えられたので、彼らはそれを獲て、そこに住んだ。主は彼らの先祖たちに誓われたように、四方に安息を賜わったので、すべての敵のうち、ひとりも彼らに手向かう者はなかった。主が敵をことごとく彼らの手に渡されたからである。主がイスラエルの家に約束されたすべての良いことは、一つとしてたがわず、みな実現した。』(ヨシュア記21:43-45)
今回の箇所をもって、500年ほど前より主が約束しておられた事、彼らの先祖・アブラハム、イサク、ヤコブに対して「この地を与える」と約束されていた事が、成就した。
主は、個人や家族、その子孫に、あるいは、国や人類全体に与える約束があるが、聖書は、人類全体に与えられた”契約”であり、それも「旧契約聖書」と「新契約聖書」から成る。
そして、この聖書に記されている内容から、逃れる人は、誰もいない。
アブラハムやヨシュアのように、与えられた契約を信じて、そのとおり実行するなら、約束されている「良いこと」は必ずその人や家族、子孫、国に、必ず実現するが、主の約束を信じず、その言葉を軽んじるなら、聖書に記されている「呪い」が、その人や家族、子孫、国に、必ず実現する。
『天が地よりも高いように、わが道は、あなたがたの道よりも高く、わが思いは、あなたがたの思いよりも高い。天から雨が降り、雪が落ちてまた帰らず、地を潤して物を生えさせ、芽を出させて、種まく者に種を与え、食べる者にかてを与える。このように、わが口から出る言葉も、むなしくわたしに帰らない。わたしの喜ぶところのことをなし、わたしが命じ送った事を果す。』(イザヤ55:9-11)
『主は彼らの先祖たちに誓われたように、四方に安息を賜わったので、すべての敵のうち、ひとりも彼らに手向かう者はなかった。主が敵をことごとく彼らの手に渡されたからである。』(ヨシュア記21:44)
主は、土地を与えて下さったばかりでなく安息を、そして、敵を、彼らの手に渡して下さったと記されている。
しかし、イスラエル十二部族は、必ずしも、この領地内の全ての敵を打ち滅ぼした訳ではなかった。例えば、ヨセフ族は谷間に住むカナン人が鉄の戦車を持っている事を理由に攻め入っていないし、またベニヤミン族も、難攻不落に見えるエルサレムの要害を、手つかずのままにしてしまっている。
主は、鉄の戦車の装備を持つ敵も、難攻不落の要害も、全て彼らの手に渡している事には変わりはない。
つまり、真理の上では、主は既にそこの敵を彼らの手に渡しており、それを信じて攻め入るなら、信じた事が実体化して、彼らの手に実際に渡るのである。
ヨシュアも「カナンびとは鉄の戦車があって、強くはあるが、あなたはそれを追い払うことができます」と言っている(ヨシュア記17:18)。
しかし彼らは、主の約束を信じるよりも、鉄の戦車の強そうな様や、要害の堅固そうな様のほうを信じてしまい、主に言われた事を実行しないまま、放置してしまっているのだ。
それが後になって、彼らの罠となってしまう。
『それだから、神の安息にはいるべき約束が、まだ存続しているにかかわらず、万一にも、はいりそこなう者が、あなたがたの中から出ることがないように、注意しようではないか。というのは、彼らと同じく、わたしたちにも福音が伝えられているのである。しかし、その聞いた御言は、彼らには無益であった。それが、聞いた者たちに、信仰によって結びつけられなかったからである。ところが、わたしたち信じている者は、安息にはいることができる。』(ヘブル4:1-3)
安息に入れる者と、入れない者とが、厳然として”いる”事が記されている。
御言葉の約束が与えられていて、それを信じて進み行くなら、その信仰の実体を手に入れて安息するが、しかし、せっかく御言葉が与えられているのに、恐れて進み行かないなら、手に入れる事は出来ないまま滅んでしまう。
『そこで、その安息にはいる機会が、人々になお残されているのであり、しかも、初めに福音を伝えられた人々は、不従順のゆえに、はいることをしなかったのであるから、神は、あらためて、ある日を「きょう」として定め、長く時がたってから、先に引用したとおり、/「きょう、み声を聞いたなら、/あなたがたの心を、かたくなにしてはいけない」/とダビデをとおして言われたのである。もしヨシュアが彼らを休ませていたとすれば、神はあとになって、ほかの日のことについて語られたはずはない。』(ヘブル4:6-8)
ヨシュアは、確かにイスラエルの民を約束の地・カナンに導き入れたが、そこは真の安息の地ではない。
私達にも用意されている真の安息があり、そこは、御言葉を自らの信仰へと混ぜ込み、自分のわざをやめる人のみが入れる領域である。
『こういうわけで、安息日の休みが、神の民のためにまだ残されているのである。なぜなら、神の安息にはいった者は、神がみわざをやめて休まれたように、自分もわざを休んだからである。したがって、わたしたちは、この安息にはいるように努力しようではないか。そうでないと、同じような不従順の悪例にならって、落ちて行く者が出るかもしれない。』(ヘブル4:9-11)
礼拝説教メッセージ音声:レビ族が受けるべき土地の割り当て(ヨシュア記21:1-9):右クリックで保存
『時にレビの族長たちは、祭司エレアザル、ヌンの子ヨシュアおよびイスラエルの部族の族長たちのもとにきて、カナンの地のシロで彼らに言った、「主はかつて、われわれに住むべき町々を与えることと、それに属する放牧地を、家畜のために与えることを、モーセによって命じられました」。それでイスラエルの人々は、主の命にしたがって、自分たちの嗣業のうちから、次の町々と、その放牧地とを、レビびとに与えた。』(ヨシュア記21:1-3)
イスラエル十二部族への相続地の割り当てが終わり、のがれの町も制定された後、主の宮で奉仕する部族・レビ族が住むべき町や放牧地の配分が行われた。
この事は、かつて、主がモーセに命じた事だった。
『イスラエルの人々に命じて、その獲た嗣業のうちから、レビびとに住むべき町々を与えさせなさい。また、あなたがたは、その町々の周囲の放牧地をレビびとに与えなければならない。その町々は彼らの住む所、その放牧地は彼らの家畜と群れ、およびすべての獣のためである。・・・
あなたがたがレビびとに与える町々は六つで、のがれの町とし、人を殺した者がのがれる所としなければならない。なおこのほかに四十二の町を与えなければならない。すなわちあなたがたがレビびとに与える町は合わせて四十八で、これをその放牧地と共に与えなければならない。あなたがたがイスラエルの人々の所有のうちからレビびとに町々を与えるには、大きい部族からは多く取り、小さい部族からは少なく取り、おのおの受ける嗣業にしたがって、その町々をレビびとに与えなければならない。』(民数記35:2-8)
イスラエル人は、主に十分の一を捧げる事が命じられているが、神の働き人であるレビ人は、イスラエル人が捧げる捧げ物によって養われる特権も与えられている。
レビ人が住む場所も同様で、その場所は、それぞれの部族が提供しなくてはならず、大きい部族も、小さい部族も、必ず捧げるべき事を、主は命じており、それは、富める者も貧しき者も、必ず罪のためのいけにえを捧げなくてはならないのと、同じである。
また、前回学んだ「のがれの町」は、全てレビ族の町である。
誤って人を殺してしまった殺人者たちは、時が来るまで、主の働き人であるレビ人の町で住みこみ、レビ人と共に住み、食べ、生活するのだ。
私達も、誤って罪を犯している事が示されたなら、主の宮に駆け込み、主の働き人達と行動を共にして、霊的な養いを受けるべきである。
イスラエル十二部族の中からは、レビ族に町を提供しない部族は、一つも無かった。
という事は、レビ族は、イスラエル全領土へとまんべんなく散っている、という事である。
それは、主の働き人は、世界においても日本においても、まんべんなく散って、それぞれの場所で御言葉の務めをなし、主の奉仕に勤しむ事が望ましいのと同様である。
レビ人や祭司は、100%、一般の主の会衆が主に捧げる捧げ物によって生活が成り立っている。
だから、民が主に捧げる事、レビ人達を養う事がコンスタントに続けられているなら、レビ人や祭司たちは主の奉仕に専念でき、神と民との関係が健全に保たれる。
しかし、民が捧げる事を止めてしまうと、レビ人達は主の宮を手放して自分達の農地に逃げるしかなくなり、神の宮はおろそかにされ、民全体が祝福を受けられなくなってしまう。(ネヘミヤ記13:10)
それは、現代を生きる私達も同じである。
捧げる人には、幸いと祝福が増し加わり、捧げない人は、わずかな刈り取りしか出来ない事は、昔も今も変わりないのだ。
礼拝説教メッセージ音声:イエス様という「のがれの町」(ヨシュア記20:1-9):右クリックで保存
前章で既にイスラエル十二部族への相続地の配分は全て終わったが、まだ補足的な事で、為すべき事が残っている。
『主はヨシュアに言われた、「イスラエルの人々に言いなさい、『先にわたしがモーセによって言っておいた、のがれの町を選び定め、あやまって、知らずに人を殺した者を、そこへのがれさせなさい。これはあなたがたが、あだを討つ者をさけて、のがれる場所となるでしょう。』(ヨシュア記20:1-3)
モーセが生きていた時に、主が何度か命じておられた「のがれの町」を、実際に制定しなさい、と、主は言われた。
「のがれの町」とは、誤って人を殺してしまった殺人者が、復讐者の手から守られるための町である。
人殺しが起きた場合は、被害者の近親者がその殺人者を殺しても良い事になっていたが(民数記35:19-21)、故意にではなく人を殺めてしまう場合もある。
例えば、敵意や悪意もなく人を突いてしまったり、気がつかないで人を死なせるほどの石を人の上に落としてしまったり(民数記35:22-23)、あるいは、木を切るために斧を振り上げたところ、その頭が抜け、それが隣人に当たってその人が死んでしまう場合(申命記19:5)、など。
そういった場合の救済措置として、その人は「のがれの町」に逃れる事が出来るよう、主が定められたのだ。
『その人は、これらの町の一つにのがれて行って、町の門の入口に立ち、その町の長老たちに、そのわけを述べなければならない。そうすれば、彼らはその人を町に受け入れて、場所を与え、共に住ませるであろう。たとい、あだを討つ者が追ってきても、人を殺したその者を、その手に渡してはならない。彼はあやまって隣人を殺したのであって、もとからそれを憎んでいたのではないからである。』(ヨシュア記20:4-5)
この町にのがれる事が出来るのは、誤って人を殺した場合のみである。わざと殺したのであるなら、その町で保護はできない。
だから、この町に逃れてくる人は、まずその町の長老達にそのわけを述べ、正当に保護されるべきかの判断を受けなくてはならず、よしと認められるなら、その町に保護され、住む事が出来る。
『しかし、もし人を殺した者が、その逃げて行ったのがれの町の境を出た場合、血の復讐をする者は、のがれの町の境の外で、これに出会い、血の復讐をする者が、その人を殺した者を殺しても、彼には血を流した罪はない。』(民数記35:26-27)
『その人は、会衆の前に立って、さばきを受けるまで、あるいはその時の大祭司が死ぬまで、その町に住まなければならない。そして後、彼は自分の町、自分の家に帰って行って、逃げ出してきたその町に住むことができる』」。』(ヨシュア記20:6)
その人は、その時の大祭司が死ぬ時まで、そこにいなくてはならないが、大祭司が死んだ後は、罪を咎められない者として自由の身となり、自分の町に帰れる。
のがれの町は既にヨルダン川の東側に3つ制定されていたが、今回、ヨルダン川西側にガリラヤのケデシ、エフライムの山地にあるシケム、およびユダの山地にあるキリアテ・アルバすなわちヘブロンが、のがれの町として選び分かたれた。
これらの町々は、イスラエル全領土のどこからも、その内のどれか一つに行きやすい距離として制定されている。
また、この権利は、イスラエル人のみならず、寄留する外国人にもあずかる事ができる。(ヨシュア記20:9)
この権利は、意図せずして人を殺めてしまった人への保護措置であるが、私達は、世の中を生きていく上で、色々な場面において、意図せず人を傷つけたり、あるいは心の中で殺人を犯したり、心の中で姦淫を犯したり、罪を犯してしまうものである。
なぜなら、人は生まれながらにして、その肢体の内には、罪のとげが刺さっているからだ。
しかし、主イエス様は、そんな私達が「のがれの町」に逃げこんで保護を受けられるように、十字架上で「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」と叫んで、父なる神様に執り成して下さった。(ルカ23:34)
人は元々、何をしているのか、自分で分からないものだ。
造り主である主に対して、どんなに無礼を働いて来たか、どんなに殺人に等しい罪々を、主に対して犯して来たか。
それをイエス様は、御父に執り成して下さったために、私達はイエス様を信じる信仰によって、罪の裁きからのがれる権利が与えられたのだ。
大祭司が死ぬ時、のがれの町にかくまわれていた人は、罪の責めを負う事の無い自由の身となるが、イエス様はまことの大祭司として、死んで下さった。
だから、イエス様を信じる人、イエス様の十字架の元に隠れ処を求めて来ている人は、誰でも、御前で犯して来た罪については無罪放免、自由の身とされたのだ。
この「のがれの町」にあずかる権利は、イスラエル人のみならず、寄留する外国人にもあずかる事ができるものであったように、イエス様という「のがれの町」には、どの国の人であってもその権利にあずかる事が出来るのだ。
しかし、のがれの町から一歩出てしまうなら、復讐者が追いついてしまうならどうしようもないように、イエス様という救いの囲いからは出てしまうなら、滅びが追いついてしまっても、どうにもならない。
また、ひと度十字架の血潮によって清められ、イエス様というのがれの町でかくまわれたのに、それを軽んじ、汚れたものとするなら、もはや救いの道は残されていない。
『もしわたしたちが、真理の知識を受けたのちにもなお、ことさらに罪を犯しつづけるなら、罪のためのいけにえは、もはやあり得ない。ただ、さばきと、逆らう者たちを焼きつくす激しい火とを、恐れつつ待つことだけがある。モーセの律法を無視する者が、あわれみを受けることなしに、二、三の人の証言に基いて死刑に処せられるとすれば、神の子を踏みつけ、自分がきよめられた契約の血を汚れたものとし、さらに恵みの御霊を侮る者は、どんなにか重い刑罰に価することであろう。』(ヘブル10:26-29)
終わりの日まで、しっかりイエス様という「のがれの町」の中に留まり、あらゆる面から守られ、安全に匿われ、罪と死からは自由の身となり、サタンは一切手出し出来ない者として保たれる皆さんでありますように!イエス様の名前によって祝福します!
礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
知恵は顔を輝かせる(伝道者の書8:1-8):右クリックで保存
【概要】
知恵の大切さと、神の命令に従うことの重要性について語られたメッセージ。
【聖書箇所】
伝道者の書8:1-8
イザヤ書28:14-19
【勧めの言葉】
神の知恵を求め、それに従って生きることで、人生と永遠をうまく渡り合えます。
【戒めの言葉】
死や悪と同盟を結ぶのではなく、イエス・キリストという礎石に寄り頼むべきです。
【***詳細***】
今日、恵みをいただく御言葉は伝道者の書8章1節から8節までです。
「誰が知恵ある者にふさわしいだろう。誰が事物の意義を知り得よう。人の知恵はその人の顔を輝かし、その顔の硬さを和らげる。」(伝道者の書8:1)
知恵を身につけること、それこそが、この人生を、また永遠をうまく渡り合っていくためのコツです。知恵を得ることは、まず、主を恐れること、主の命令を守り行うことから始まります。そうする者には何も恐れることも、また慌てることもありません。
「人は言う。王の命令を守れ。神の制約があるから、王の前から慌てて退出するな。悪事に加担するな。王は自分の望むまま何でもするから。王の言葉には権威がある。誰が彼に『あなたは何をするのですか』と言えようか。」(伝道者の書8:2-4)
ここでソロモンは王について語っていますが、私たちが王と仰ぐべきはイエス様です。イエス・キリストこそ私たちの王です。ですから、ここをキリストに読み替えて読むならば、本当にふさわしい言葉が私たちに与えられます。
「命令を守る者は災いを知らない。知恵ある者の心は時と裁きを知っている。」(伝道者の書8:5)
王なる主イエス様の命令、すなわち御言葉を守る人は災いを知りません。そして知恵が増し加わります。御言葉に親しむうちに知恵が増し加わっていき、知恵ある人の心は時と裁きを知るようになります。
「すべての営みには時と裁きがある。人に降りかかる災いが多いからだ。何が起こるかを知っている者はいない。いつ起こるかを誰も告げることはできない。」(伝道者の書8:6-7)
確かに何が起こるか、いつ起こるか、それはわかりません。しかし、知恵ある人は、いつ何が起きても怖くありません。なぜなら知恵に従って行動しているから、災いをもたらすような行動を初めから避けているからです。
「風を支配し、風を止めることのできる人はいない。死の日も支配することはできない。この戦いから放免される者はいない。悪は悪の所有者を救い得ない。」(伝道者の書8:8)
人間はいつも毎日が死と対抗する戦いを戦っています。日々食べたり飲んだり働いたりすること、それは死なないためです。しかし、この戦いから免れる人は誰もいません。やがて人は死にます。
ここで、イザヤ書28章14-19節を見てみましょう。
「それゆえ、あざける者たち、エルサレムにいて、この民を物笑いの種にする者たちよ。主の言葉を聞け。あなたがたはこう言ったからだ。『私たちは死と契約を結び、よみと同盟を結んでいる。たとえにわか水が溢れ押し寄せて来ても、それは私たちには届かない。私たちはまやかしを避けどころとし、偽りに身を隠してきたのだから。』」(イザヤ書28:14-15)
これらの人々は、まやかしを避けどころとし、偽りに身を隠しています。彼らは死と同盟を結び、よみと契約を結んでいると言います。しかし、主はこう言われます。
「見よ。わたしはシオンに一つの石を礎として据える。これは試みを経た石、堅く据えられた礎の貴い隅石。信じる者は、慌てることがない。」(イザヤ書28:16)
主は、シオンに一つの礎石を据えられました。イエス・キリストという礎石です。この礎石により頼む人、これを信じる人は慌てることがありません。
「あなたがたの死との契約は解消され、よみとの同盟は成り立たない。にわか水が押し寄せて来ると、あなたがたはそれに踏みにじられる。」(イザヤ書28:18)
まやかしを避けどころとしている者は、にわか水が溢れて押し寄せてくると、それによって踏みにじられます。偽りやまやかしに身を隠してきた者は、やがてにわか水が溢れ、それに押し寄せられ、踏みにじられるのです。
【結論】
私たちは死やよみ、まやかしといったものと同盟を結ぶのではなく、イエス・キリストという礎石に寄り頼むべきです。知恵あるものとなり、知恵にふさわしく歩むならば、私たちの顔は輝き、表情は柔らかくなります。どんな状況にあっても、イエス・キリストという知恵に満たされ、御言葉という知恵によって養われ輝かされる者となりましょう。
アシェル、ナフタリ、ダン、そしてヨシュアに割り当てられた相続地(ヨシュア記19:24-51)
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- pastor 2014-8-8 19:42
礼拝説教メッセージ音声:アシェル、ナフタリ、ダン、そしてヨシュアに割り当てられた相続地(ヨシュア記19:24-51):右クリックで保存
五番目に相続地を”くじ”によって受けたのは、アシェル族であった。
『第五に、アセルの子孫の部族のために、その家族にしたがって、くじを引いた。・・・それから、その境はラマに曲り、堅固な町ツロに至る。』(ヨシュア記19:24-29)
このアシェル族について、ヤコブは次のように預言している。
『アセルはその食物がゆたかで、/王の美味をいだすであろう。』(創世記49:20)
彼らの食物は豊かで、王の美味を生み出す、これはどういう事だろう。
彼らの相続地の中には、海沿いに堅固な町”ツロ”があり(29節)、この町は、海洋貿易によって多くの富がもたらされる所で、「食物は豊かで、王の美味を生み出す」にふさわしい所であった。
しかし、ダビデの時代には、その地はフェニキヤ人の国となってしまっている。ダビデはこのツロの王ヒラムと同盟を結び、ソロモンの時代には、神殿建設のために必要な材木を取り寄せるよう要請した。(1列王記5章)
アシェル族は、ツロを一旦占領したのに奪還されてしまったのか、あるいは、最初から占領できていなかったのか、とにかく、ツロは本来アシェルが占領して、彼らが神の神殿のために必要な資材を提供すべき地であったはずのに、その役回りを、異邦の王ヒラムに取って代わられてしまったようである。
せっかく良き地が与えられたのに、除き去るべき敵を徹底して除き去らずに、かえってその場所が奪われてしまい、栄誉ある仕事の役回りも、他に奪われてしまって残念である。
『第六に、ナフタリの子孫のために、その家族にしたがって、くじを引いた。』(ヨシュア記19:32)
ヤコブはナフタリについて、次のように預言している。『ナフタリは放たれた雌じか、/彼は美しい子じかを生むであろう。』(創世記49:21)
この「子じか」には、「歌」や「ことば」の意味もあり、「彼は美しい歌(ことば)を生む」とも訳せる。
ナフタリの地、それは、イエス様が住まわれた所であり、宣教を開始した所でもある。(マタイ4:12-17)
ヤコブはナフタリを、美しい歌、美しい言葉を生み出す地として祝福し、モーセも、恵みと祝福に満ちた地として祝福した。
それは彼らは、メシヤのおとずれを、ナフタリに見ていたからなのかもしれない。
『第七に、ダンの子孫の部族のために、その家族にしたがって、くじを引いた。その嗣業の領域には、ゾラ、エシタオル、イルシメシ、・・・メヤルコン、ラッコン、およびヨッパと相対する地域があった。』(ヨシュア記19:40-46)
ダン族の相続地は、エフライムとユダの相続地の間、海沿いに得たが、聖書地図をよく見てみると、ダンの相続地は、海沿いのその場所と、北側とに2箇所ある事に気づく。
彼らは、くじで割り当てを受けた部族にしては珍しく、北方へと攻め入って、領地を獲得したからだ。
『ダンの子孫の領域は、彼らのために小さかったので、ダンの子孫は、上って行き、レセムを攻めてそれを取り、つるぎにかけて撃ち滅ぼし、それを獲てそこに住み、先祖ダンの名にしたがって、レセムをダンと名づけた。これがダンの子孫の部族の、その家族にしたがって獲た嗣業であって、その町々と、それに属する村々とである。』(ヨシュア記19:47-48)
士師記をみると、ダン族は、さらに積極的に他に攻め行っていっているが、後には、ならず者が暴力に任せて他を奪うような、邪悪な性質となってしまった。(士師記18章)
ヤコブが預言した通りである。
『ダンはおのれの民をさばくであろう、/イスラエルのほかの部族のように。ダンは道のかたわらのへび、/道のほとりのまむし。馬のかかとをかんで、/乗る者をうしろに落すであろう。』(創世記49:16-17)
『こうして国の各地域を嗣業として分け与えることを終ったとき、イスラエルの人々は、自分たちのうちに、一つの嗣業を、ヌンの子ヨシュアに与えた。すなわち、主の命に従って、彼が求めた町を与えたが、それはエフライムの山地にあるテムナテ・セラであって、彼はその町を建てなおして、そこに住んだ。』(ヨシュア記19:49-50)
全イスラエルへの相続地の割り当ては、こうして終了した。
しかしその最後に、ヨシュアへの相続が与えられている。
テムナテ・セラの名前の意味は、有り余るほどの部分、という意味である。主ご自身が、彼に報いて、有り余る程に与えて下さったのだ。
ヨシュアが求めたのは「山地」であるが、信仰の偉人たちは、どうやら山地が好きなようだ。
カレブも「あの山地を下さい」と願ってヘブロンを得たし、そのヘブロンは、アブラハムが甥のロトと分かれた後に定住した地である。
ロトはアブラハムと別れた後、低地の潤った所、ソドムという不品行で栄えた都へと住居を移してしまい、そのうち、アブラハムと共に歩んだ時に得た財は全て失って、後には身一つで命からがら山地へと逃げる事になってしまった。
私達も、この終わりの時代には、ソドムのような邪悪さによって潤った低地に住むのではなく、むしろ、信仰者が住む山地に住居を構えるものでありたい。
シメオン、ゼブルン、イッサカル族に割り当てられた相続地(ヨシュア記19:1-23)
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- 執筆 :
- pastor 2014-8-8 2:55
礼拝説教メッセージ音声:シメオン、ゼブルン、イッサカル族に割り当てられた相続地(ヨシュア記19:1-23):右クリックで保存
相続地を二番目に”くじ”によって受けたのは、シメオン族であった。
『シメオンの子孫の嗣業は、ユダの子孫の領域のうちにあった。これはユダの子孫の分が大きかったので、シメオンの子孫が、その嗣業を彼らの嗣業の中に獲たからである。』(ヨシュア記19:9)
彼らはユダ族の領地のまっただ中に相続地を受けており、聖書地図を見ると、ユダ族の領地の中に、あたかもドーナツの”輪”の部分のような形で立地している。
これは、イスラエル十二部族の父・ヤコブが、次のように預言した通りである。
『シメオンとレビとは兄弟。彼らのつるぎは暴虐の武器。わが魂よ、彼らの会議に臨むな。わが栄えよ、彼らのつどいに連なるな。彼らは怒りに任せて人を殺し、/ほしいままに雄牛の足の筋を切った。彼らの怒りは、激しいゆえにのろわれ、/彼らの憤りは、はなはだしいゆえにのろわれる。わたしは彼らをヤコブのうちに分け、イスラエルのうちに散らそう。』(創世記49:5-7)
シメオンとレビは、シェケムの男に妹ディナが汚された事の復讐のために”割礼”という主の聖なる契約を利用して、シェケムの男たちを欺き、彼らが割礼を受けて弱っている時に、男達を皆殺しにし、女子供や家畜を分捕るという蛮行を行った。(創世記34章)
それ故ヤコブは、彼らのその激しい怒りを呪い、その言葉の通りにシメオン族はユダ族の中へと”散らされる”形となってしまった。
シメオン族の次に割り当てを受けたのは、ゼブルン族であった。
『第三にゼブルンの子孫のために、その家族にしたがって、くじを引いた。その嗣業の領域はサリデに及び・・・、そしてカッタテ、ナハラル、シムロン、イダラ、ベツレヘムなど十二の町々と、それに属する村々があった。これがゼブルンの子孫の、その家族にしたがって獲た嗣業であって、その町々と、それに属する村々とである。』(ヨシュア記19:10-16)
ヤコブの彼らに対する預言を見ると、「ゼブルンは海べに住み、/舟の泊まる港となって、/その境はシドンに及ぶであろう。」(創世記49:13) となっているが、しかし彼らが実際に得た領地は、海沿いではないし、また、シドンからもかけ離れている。
そして、未だにゼブルン族が海沿いの地を勝ち取ったという歴史は、存在しない。
このような、預言の”未成就”は、どうして起こるのか。
それは、預言を受けた本人が、主から与えられた「こうすれば、こうなる」という条件を無視し続けたり、あるいは、祝福に見合わない行動をし続けたりする時、そのようになってしまう。
例えば、主はヤロブアムに対して、ダビデのように長く続く堅固な王家を建てる約束を与えられたが、それは実現せず、結局、彼の二代目の時に、一族郎党皆殺しにされてしまった。
なぜなら、彼はせっかく主から祝福の約束が与えられたというのに、それに見合わない事を行い続け、主を怒らせ続けたからだ。
彼は、金の子牛像を礼拝対象にさせたり、勝手に考案した月日を礼拝の日として定たりと、主の忌み嫌われる事をし続けて止めず、預言者からしるしを伴う警告が与えられても、なお悔い改める事をしなかったのだ。
主は元々、アブラハムに、エジプトからユーフラテス川に至るまでの広大な地を与えると約束されたが、実際のイスラエルは、それら全てを勝ち取っていく行動を、しなかった。
ゼブルン族も、海沿いの地、シドンを攻めて行く事を、ついぞしなかったため、結局、彼らにはヤコブの祝福は実現しなかったのだ。
『第四にイッサカル、すなわちイッサカルの子孫のために、その家族にしたがって、くじを引いた・・・。その境はタボル、シャハヂマ、ベテシメシに達し、その境はヨルダンに至って尽きる。十六の町々と、それに属する村々があった。』(ヨシュア記19:17-22)
イッサカルは、ヤコブから以下の預言をもらっている。
『イッサカルはたくましいろば、/彼は羊のおりの間に伏している。』(創世記49:14)
彼はその預言の通り、マナセ族の二つの領地という”羊のおり”の、ちょうど間に相続地を得ている。
イッサカルは五男であるのに、そのはるか下の弟、十一男であるヨセフの子・マナセの相続地の間に住まわせてもらっている形となっている。
また、シメオンは次男であるのに、これまた四男の弟であるユダが勝ち得た多くの中から、余り物をもらった形となった。
ゼブルン族も、本来的には海沿いの領地を勝ち得るはずが、それをせずじまいになってしまった。
現代を生きるキリスト者も、何もせずに、ただ手をこまねいているような人は、かろうじて、他の積極的な聖徒の傘下で養われるしかない。
与えられている賜物、与えられている力は積極的に活用し、地上において多くのタラントを稼ぎ、永遠の天においては、さらに多くを任される皆さんでありますように!
イエス様の名前によって祝福します!
礼拝説教メッセージ音声:ベニヤミン族に割り当てられた領地(ヨシュア記18:11-28):右クリックで保存
ヨシュア記18章の後半以降、残り7部族への相続地の割り当てが記されている。
その中で、真っ先にくじが割り当てられたのは、ベニヤミン族であった。
『まずベニヤミンの子孫の部族のために、その家族にしたがって、くじを引いた。そしてそのくじによって獲た領地は、ユダの子孫と、ヨセフの子孫との間にあった。』(ヨシュア記18:11)
モーセは死ぬ時、ベニヤミン族を次のように祝福している。
「主に愛される者、/彼は安らかに主のそばにおり、/主は終日、彼を守り、/その肩の間にすまいを営まれるであろう」(申命記33:12)
モーセが「その肩の間にすまいを営まれる」と預言した通り、彼らはユダ族とヨセフ族という”両肩”の間に相続地を得た。
彼らへの相続地は、あまり広い地域ではないが、後のイスラエルにとっての要所がいくつかある。
『またギベオン、ラマ、ベエロテ、ミヅパ、ケピラ、モザ、レケム、イルピエル、タララ、ゼラ、エレフ、エブスすなわちエルサレム、ギベア、キリアテ・ヤリム。すなわち十四の町々と、それに属する村々。これがベニヤミンの子孫の、その家族にしたがって獲た嗣業である。』(ヨシュア記18:25)
ギベオンやラマは、ベニヤミンの母・ラケルが死んだ所とされ、その付近に彼女の墓があったと考えられており、エレミヤは、その地方が後にバビロンによって滅ばされる事を「嘆き悲しみ、いたく泣く声がラマで聞える。ラケルがその子らのために嘆くのである。」(エレミヤ31:15)と預言している。
ラケルは、ベニヤミンを産む時、とても難産で苦しんだため、その子を「ベン・オニ(私の苦しみの子)」と名づけたが、父ヤコブは「ベニヤミン(右手の子)」と名づけた。(創世記35:16-20)
ベニヤミンは、生まれたと同時に母が死んだので、母との思い出が無かったであろうが、彼の子孫は、その母が死んだ場所、墓のある場所が、主から相続地として与えられたわけである。
また、ミツパという場所は、後に、イスラエルが戦いや集会の時に集う場所として、よく用いられた。(士師記10:17、20:1、1サムエル記7:5)
そしてなんと、エルサレムも、ベニヤミンの相続地の中に含まれている。
エルサレムはダビデの町として、代々ユダ族の王が住んで来たため、ユダ族にくじが当てられたと思われがちだが、元々は、ベニヤミン族にくじが当てられた土地である。
なぜそこはユダ族が住む所となったのか。
ベニヤミン族はいつまでもエルサレムに住むエブス人を追い出さずにいた。
また、ベニヤミン人サウル王の時代になってもそこは手付かずのままであったため、結局、その後のダビデ王が、そこに住んでいるエブス人を追い払ったために、結局ダビデの町となったのだ。(2サムエル5:5-9)
そして、後にはこのエルサレムに神殿が建設され、ベニヤミン族は、神殿に礼拝しに行くのに近いというメリットが与えられた。
また、ソロモンの後の時代にイスラエルが北と南に分割された後も、ベニヤミン族はユダ族の側についたため、「主に愛される者、/彼は安らかに主のそばにおり、/主は終日、彼を守り」というモーセの預言が成就したのだ。
ベニヤミン族は、ヤコブの祝福によって、大きな力が与えられているのに(創世記49:27)、積極的に攻めて行かず、結局この狭い地域しか与えられなかった。
また、エルサレムという素晴らしい地が与えられているのに、そこも長らく攻め落とさずにいたため、ユダ族のダビデによって、先取りされてしまった。
私達は、主から与えられた力をもって、積極的に祝福を勝ち取っていくものでありたい。
礼拝説教メッセージ音声:いつまで行かないのか(ヨシュア記18:1-10):右クリックで保存
『イスラエルの人々の全会衆は、その地を征服したので、シロに集まり、そこに会見の幕屋を立てた。』(ヨシュア記18:1)
シロという場所は、イスラエル全領土のほぼ真ん中、エフライムの相続地の中に位置し、ここに会見の天幕が設置されて以降、ダビデの時代までそこは人々がいけにえを捧げに来る礼拝の場所となった。
ヨシュアはそこで、イスラエル全体を呼び寄せ全体会議を開いた。
『その時、イスラエルの人々のうちに、まだ嗣業を分かち取らない部族が、七つ残っていたので、ヨシュアはイスラエルの人々に言った、「あなたがたは、先祖の神、主が、あなたがたに与えられた地を取りに行くのを、いつまで怠っているのですか。』(ヨシュア記18:2-3)
カナンの相続地は、順番待ちして得る類のものではなく、積極的に進み行く人が、早い順に獲得するものである。
事実、ルベンやガド、マナセの半部族は、早期に求めたために早く得たし、また、ユダ族やヨセフ族は、積極的に攻め行ったために、広く良い地を得た。
これら五部族が、先に占拠してしまったから、もう残りは無かった、というものでもない。
なにしろ、主がアブラハムに約束された土地は、「エジプトの川から、かの大川ユフラテまで。」(創世記15:18)という、広大な地である。
だから、もしこれら七部族が、ユダ族達のように積極的に攻め行っていたなら、聖書の巻末等にあるイスラエル十二部族の相続地図は、もっともっと広いものとなっていただろう。
しかしこの七部族は、ヨシュアが老年になったこの時まで、ずっと手をこまねいて、獲得しに行かなかった。
だからヨシュアは「主が、あなたがたに与えられた地を取りに行くのを、いつまで怠っているのか」と叱責したのだ。
キリスト者の中にも、天の御国の働きのために、積極的に自ら動いて働く聖徒もおれば、自分の手は動かさず、ただ他の兄弟姉妹が働いて得た恩恵に乗っかるのみの人もいる。
しかし自分の手を動かさない者は、着実に貧しくなって行き、努めて働く人は、確かな報いを主から得られる。(箴言10:4)
『なぜなら、わたしたちは皆、キリストのさばきの座の前にあらわれ、善であれ悪であれ、”自分の行ったことに応じて”、それぞれ報いを受けねばならないからである。』(2コリント5:10)
私達は、少しでもラクしようと考えたり、いかに手を動かさないかを思案したりするような、”けち”な考えではなく、むしろ、ユダ族やマナセ族のように積極的に多くを勝ち取り、得たものは気前よく他の聖徒達に引き継がせ、さらに積極的に勝ち得て行くものでありたい。
『人にへつらおうとして目先だけの勤めをするのでなく、キリストの僕として心から神の御旨を行い、人にではなく主に仕えるように、快く仕えなさい。 あなたがたが知っているとおり、だれでも良いことを行えば、僕であれ、自由人であれ、それに相当する報いを、それぞれ主から受けるであろう。 』(エペソ6:6-8)
『見よ、わたしはすぐに来る。報いを携えてきて、それぞれのしわざに応じて報いよう。 』(黙示録22:12)
言い訳をして戦いに行かない一部のヨセフ族達(ヨシュア記17:14-18)
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- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(旧約) » ヨシュア記
- 執筆 :
- pastor 2014-8-2 19:27
礼拝説教メッセージ音声:言い訳をして戦いに行かない一部のヨセフ族達(ヨシュア記17:14-18):右クリックで保存
『ヨセフの子孫はヨシュアに言った、「主が今まで、わたしを祝福されたので、わたしは数の多い民となったのに、あなたはなぜ、わたしの嗣業として、ただ一つのくじ、一つの分だけを、くださったのですか」。』(ヨシュア記17:14)
ヨセフ族、すなわちエフライム・マナセ族には、既に広大な土地が与えられており、その領地の広い境界線も、既に定められている。
それなのに、ヨセフ族の”ある人達”は、ヨシュアの所に来て、くじは”ただ一つ”しかもらえなかったと、不服を申し立てている。
御心にかなった事や、御約束の成就を「求める」事は、大いに推奨されるものではあるが、今回の彼らの要求は、それとは異なるものである。
なぜなら、彼らには既に広大な良き地が約束として与えられ、あとは、彼らがそれを手に入れるための行動を起こすだけなのに、彼らはそれをせず、約束として与えられたものにケチをつけているからだ。
『ヨシュアは彼らに言った、「もしあなたが数の多い民ならば、林に上っていって、そこで、ペリジびとやレパイムびとの地を自分で切り開くがよい。エフライムの山地が、あなたがたには狭いのだから」。ヨセフの子孫は答えた、「山地はわたしどもに十分ではありません。かつまた平地におるカナンびとは、ベテシャンとその村々におるものも、エズレルの谷におるものも、みな鉄の戦車を持っています」。』(ヨシュア記17:15-16)
彼らが自分の口で告白した通り、主に祝福され、多く増え、また多くの力も与えられているのだから、その力を用いて、まだ敵がのいる相続地を切り開いて行きなさい、と、ヨシュアは言っているのだが、彼らは、いえ、相手は鉄の戦車を持っているから、できません、と言うのだ。
『ヨシュアはまたヨセフの家、すなわちエフライムとマナセに言った、「あなたは数の多い民で、大きな力をもっています。それでただ一つのくじでは足りません。山地をもあなたのものとしなければなりません。それは林ではあるが、切り開いて、向こうの端まで、自分のものとしなければなりません。カナンびとは鉄の戦車があって、強くはあるが、あなたはそれを追い払うことができます」。』(ヨシュア記17:17-18)
現代のキリスト者の中にも、このヨセフ族の”ある人達”のように、「主が与えた」という御言葉の約束を頂いておきながら、そして、あとは行ってそれを勝ち得るだけでありながら、色々な言い訳ばかりをして、それをせず、かえって文句を言ったり、別のものを求めたりする”霊的怠け者”の信仰者がいる。
『なまけ者は、「道にししがいる、ちまたにししがいる」という。・・・なまけ者は手を皿に入れても、それを口に持ってゆくことをいとう。』(箴言26:13)
私達の内には、生まれながらの肉なる性質や、過去の傷、抱えている病といった、滅ぼすべき”ペリジびと”や”レパイムびと”、鉄の戦車を持った”カナン人”がいる。
しかしそれらは、私達の内におられる、まことのイエシュアであるイエス様と共に「滅ぼし可能」なのだ。
それなのに、「自分の病は鉄のようだ」とか、「自分のトラウマは戦車級だ」とか言い訳して、他人には「自分に合わせてくれ」と要求ばかりしている人は、いつまでも改善されない。そればかりか、やがてはそれらに飲み込まれてしまうのだ。
事実、士師記1章を見ると、ヨセフ族はヨシュアから言われていた通りに敵を滅ぼさなかったため、その者達は後々、力をつけてしまい、苦々しい事になってしまった。
パウロは言っている。
『こういうわけで、あなたに注意したい。わたしの按手によって内にいただいた神の賜物を、再び燃えたたせなさい。というのは、神がわたしたちに下さったのは、臆する霊ではなく、力と愛と慎みとの霊なのである。』(2テモテ1:6-7)
ヨシュアも、ヨセフ族に言った。あなたには既に大きな力が主から与えられている、それをもって、鉄の戦車を制圧せよ、と。
そして主イエスは、私たちに言っている。
『これらのことをあなたがたに話したのは、わたしにあって平安を得るためである。あなたがたは、この世ではなやみがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている」。』(ヨハネ16:33)
『全世界に出て行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えよ。信じてバプテスマを受ける者は救われる。しかし、不信仰の者は罪に定められる。信じる者には、このようなしるしが伴う。すなわち、彼らはわたしの名で悪霊を追い出し、新しい言葉を語り、へびをつかむであろう。また、毒を飲んでも、決して害を受けない。病人に手をおけば、いやされる。』(マルコ16:15-18)
『わが義人は、信仰によって生きる。もし信仰を捨てるなら、/わたしのたましいはこれを喜ばない」。しかしわたしたちは、信仰を捨てて滅びる者ではなく、信仰に立って、いのちを得る者である。』(ヘブル10:38-39)
私達に与えられた聖霊は、臆病の霊ではなく、力と愛と慎みとの霊である。
それを奮い立たせ、私達の内に元から住んでいる滅ぼすべきもの、すなわち、病や過去のトラウマなどの”鉄の戦車”を、信仰によって戦いを仕掛け、追い払い、勝利し、私達の内には、ますます広大な安息の地を得て行く皆さんでありますように!
イエス様の名前によって祝福します!
礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
女が死よりも苦々しいと言う人の特徴(伝道者の書7:26-29):右クリックで保存
【概要】
伝道者の書7章26-29節を基に、ソロモンの女性観と人間の理屈について説く。
【聖書箇所】
伝道者の書7:26-29、箴言31:1-3、31:28-31、第二コリント10:4-6
【戒めの言葉】
人間の理屈に頼らず、神の知恵を求めるべき。
【勧めの言葉】
夫婦は互いに一人の伴侶を大切にし、神を恐れる関係を築くべき。
【***詳細***】
今日の箇所は伝道者の書7章26節から29節です。ソロモンは「私は女が死よりも苦々しいことに気がついた。女は罠であり、その心は網、その手はかせである」と述べています。
ソロモンがこのように女性を見たのは、彼自身の経験に基づいています。ソロモンは700人の妻と300人の側女、合計1000人もの女性を持ちました。エジプトやモアブの女性など、様々な国の女性を政策や欲望のために集めました。その結果、神の国を思うよりも偶像礼拝に走る女性たちに囲まれることになったのです。
ソロモンは「神に喜ばれるものは女から逃れるが、罪を犯すものは女に捕らえられる」と言っています。結局、ソロモン自身も罪に捕らえられ、晩年には偶像の宮を建て、子供を生贄に捧げるような邪教の神殿さえイスラエルに建ててしまいました。
ソロモンは知恵を与えられましたが、さらに知恵を求めて人間の悪行や愚かさを学ぼうとしました。しかし、人間は弱く、染まりやすいものです。ソロモンも女性を極めようとして、かえって罪に染まってしまったのです。
私たちは力を異性に費やすべきではありません。箴言31章では、レムエルの母が「あなたの力を女に費やすな」と忠告しています。代わりに、夫婦は互いに一人の伴侶を大切にし、尊重し合うべきです。
エペソ書では、夫は妻を命がけで愛し、妻は夫に従うよう教えています。これが理想的な夫婦像です。一人の夫と一人の妻が互いを支え合い、敬い、守り合うことで、幸せな家庭が築かれるのです。
ソロモンは「神は人を正しいものに作られたが、人は多くの理屈を探し求めた」と述べています。人間は神の言葉に対して理屈をつけ、罪を増やしてしまいました。エデンの園でも、アダムとエバは神の戒めに理屈をつけて罪を犯しました。
私たちは理屈や謀りごとを捕らえて、キリストに従わせるべきです。第二コリント10章に「私たちは様々の理論と、神の知識に逆らって立つあらゆる高ぶりを打ち砕き、すべての思いをとりこにしてキリストに従わせ」とあります。
人間を見ることをやめ、異性を見つめることもやめましょう。代わりに、唯一の完全な男であるイエス・キリストに目を向けるのです。キリストを見つめることで、私たちもキリストの姿に少しずつ変えられていくのです。
【結論】
神の言葉に従い、理屈ではなく信仰によって生きる。夫婦は互いに愛し合い、キリストを見つめて歩む。