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ゴキブリを恐れて部屋に入れない人のようになった神の民(士師記1:22-36)
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- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(旧約) » 士師記
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- pastor 2014-9-4 22:21
礼拝説教メッセージ音声:ゴキブリを恐れて部屋に入れない人のようになった神の民(士師記1:22-36):右クリックで保存
今回の箇所では、イスラエル各部族が「追い出さなかった」カナンの地がリストアップされている。
マナセ族は、ベテシャンとタアナク、ドル、イブレアム、メギドの住民を、追い出さなかった。
そのためカナン人は、引き続きマナセの領土内に住んだ。(27節)
別にマナセ族が格段に弱かったからでもないし、これらの住人が格段に強かったからでもない。
むしろイスラエルは、カナン人を強制労働に服させる程強くなった事が記されている。
ただ、彼らは滅ぼし尽くすべきカナン人を、いつでも滅ぼせる状態であったというのに、妥協してしまい、それをしなかっただけなのだ。
滅ぼし尽くすべきものを、いつまでも放置したまま置いておくと、それらはやがて罠となってしまう。
それは現代を生きる私達も同じであり、聖書や聖霊から「為すべき事」「為さぬべき事」は示されていても、妥協してしまうならば、それらはやがて罠となり、災いを招く元となってしまうものだ。
『またエフライムはゲゼルに住んでいたカナンびとを追い出さなかったので、カナンびとはゲゼルにおいて彼らのうちに住んでいた。ゼブルンはキテロンの住民およびナハラルの住民を追い出さなかったので、カナンびとは彼らのうちに住んで強制労働に服した。』(士師記1:29-30)
エフライム族やゼブルン族も、カナン人を追い出し尽くさずにおり、主から与えられた自分の領地に、あたかも、ドーナツの穴が開いたような形でカナン人が居座り続ける事を、許してしまっていた。
アセル族やナフタリ族に関しては、もっと情けない事になっている。
彼らは「カナン人の中に住んでいた。」と表現されており(士師記1:31-33)、つまり、カナン人のほうが栄えて住んでいる中、アセル族やナフタリ族のほうが「ドーナツの穴」のように肩身狭く住んでいたのだ。
神の民と、邪悪な者達との間であるべき関係が、逆転してしまっているのだ。
さらに、ダン族は、もっと情けない状況になっている。
『アモリびとはダンの人々を山地に追い込んで平地に下ることを許さなかった。アモリびとは引き続いてハルヘレス、アヤロン、シャラビムに住んでいたが、ヨセフの一族の手が強くなったので、彼らは強制労働に服した。アモリびとの境はアクラビムの坂からセラを経て上の方に及んだ。』(士師記1:34-36)
なんと、神の民である彼らのほうが圧迫され、主から与えられている領土から、締め出されてしまっているのである。
本来、神の民であるイスラエルは、どうであったのか。主はどのような約束を、彼らにして下さったのか。
『主が、大きくて強い国々を、あなたがたの前から追い払ったので、今日まで、だれもあなたがたの前に立ちはだかることのできる者はいなかった。あなたがたのひとりだけで千人を追うことができる。あなたがたの神、主ご自身が、あなたがたに約束したとおり、あなたがたのために戦われるからである。』(ヨシュア記23:9-10)
ダン族は、主を信じて進み行けば、必ず勝てるはずなのに、恐れをなして戦わず、逆に圧迫されてしまっていたのだ。
それはちょうど、ゴキブリ嫌いの女性が、部屋の中にゴキブリがいるのを見つけると、もうそれだけで部屋には入れず、ゴキブリは部屋でくつろいで、部屋の主人のほうは外に締め出さたまま、休みを得ない状況になっているかのようだ。
ゴキブリには、女性を部屋から閉め出す筋力もなければ、権威もなく、むしろ、女性のほうがゴキブリを簡単に潰せるはずのに、女性のほうが部屋から閉め出されてしまう。
このような現象は、彼女の内にゴキブリに対する過度の恐れや「偽り」の思い込みがあるのが原因であり、恐れて立ち向かわないままでいるなら、部屋はゴキブリに占拠されっぱなし、自分は外に締め出されっぱなしのままである。
これは、キリスト者と悪霊やサタンとの間にも、よくありがちな事である。
キリスト者は、キリストにあって勝利した側であり、悪霊やサタンは、敗者の側にある。
権威的には、キリスト者が「上」であり、悪霊やサタンが「下」である。
それなのに、なぜ多くのキリスト者は、悪霊やサタンに良いように束縛され、締め出されてしまっているのか。
それは、ゴキブリと女性との関係のように、偽りの恐れを吹き込まされており、恐れに囚われてしまっているからである。
ゴキブリに女性を閉め出す力は無いように、悪霊やサタンには、私達を閉め出す力は無い。
しかし奴らは、キリスト者に偽りを信じ込ませる事によって、キリスト者をあやつる事が出来るのだ。
しかし、キリスト者が御言葉の真理にしっかりと立ち、信仰をもってそれを宣言する時、奴らは、光に照らされたゴキブリのごとく、すごすごと闇に逃げ去るしか無いのだ。
「真理はあなた方を自由にする」と御言葉に記されている通り、私達は真理を知れば知るほど、自由になって行く。
悪霊やサタンは、それを最も嫌がる。
だから、色々な世の情報や享楽、イデオロギー、神学などで真理をくらまし、キリスト者から自由を奪っているのだ。
それ故、私達キリスト者の中にも、ダン族のように、勝利者の側にいるはずなのに敗北していたり、良きものを相続しているはずなのにそれが奪われたままであったり、広い土地を大いに闊歩できる立場であるはずなのに、狭い所でびくびくと暮らしている人が、実に多い。
私達・神の民は、世と妥協すればする程、不自由さが増していってしまう。
私達は御言葉の真理を大胆に宣言し、サタンから来る偽りを蹴散らし、カレブやオテニエルのように、主にある勝利を信じて進み行き、多くの安息の地を勝ち取り、堂々とそこに住まう者でありたい。
信仰が落ちていく世代の中で、ひときわ輝く信仰の人達(士師記1:8-21)
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- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(旧約) » 士師記
- 執筆 :
- pastor 2014-9-3 23:46
礼拝説教メッセージ音声:信仰が落ちていく世代の中で、ひときわ輝く信仰の人達(士師記1:8-21):右クリックで保存
イスラエル12部族には、取るべき地を獲得するという、為すべきつとめがあるのに、それを為さないまま放置し、段々妥協と堕落へとゆっくり落ちていく有り様が士師記には記されているが、そのような中において、ユダ族のカレブの行動は、ひときわ輝いていた。
今回のこの箇所は、ヨシュア記15章と重複する内容だが、士師記の記者は、そんな時代の中でひときわ輝いていたカレブ達の信仰を強調するために、彼らの話を再び挿入したのであろう。
カレブは、信仰によって進み行き、積極的に勝ち取るくスピリットを、他の者達にも奮い立たせている。
『カレブは言った、「キリアテ・セペルを撃って、これを取る者には、わたしの娘アクサを妻として与えるであろう」。カレブの弟ケナズの子オテニエルがそれを取ったので、カレブは娘アクサを妻として彼に与えた。』(士師記1:12-13)
このオテニエルは、単にその地を勝ち取って、カレブの娘を得たばかりではない。
彼は、カレブの娘アクサを通しても、カレブにもっと求めている。
『アクサは行くとき彼女の父に畑を求めることを夫にすすめられたので、アクサがろばから降りると、カレブは彼女に言った、「あなたは何を望むのか」。アクサは彼に言った、「わたしに贈り物をください。あなたはわたしをネゲブの地へやられるのですから、泉をもください」。それでカレブは上の泉と下の泉とを彼女に与えた。』(士師記1:14-15)
オテニエルが彼女を通して求めたのは「畑(KJV: a field、一つの畑)」であったが、彼女は一つの畑どころか、パレスチナ地方ではとても貴重な「泉(KJV: springs of water:数々の泉)」を父カレブに求め、そうして見事、上の泉と下の泉とを得たのだ。
私達も、主の御言葉に留まり、キリストにつながっているなら、御言葉が約束している祝福を、どんどん求めて良いのである。
『あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたにとどまっているならば、なんでも望むものを求めるがよい。そうすれば、与えられるであろう。』(ヨハネ15:7)
『バプテスマのヨハネの時から今に至るまで、天国は激しく襲われている。そして激しく襲う者たちがそれを奪い取っている。』(マタイ11:12)
天の御国の良きものは、彼ら族のように、激しく襲って奪い取ろうとする者にこそ、多く与えられるのだ。
『求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば、見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。すべて求める者は得、捜す者は見いだし、門をたたく者はあけてもらえるからである。・・・このように、あなたがたは悪い者であっても、自分の子供には、良い贈り物をすることを知っているとすれば、天にいますあなたがたの父はなおさら、求めてくる者に良いものを下さらないことがあろうか。』(マタイ7:7-11)
オテニエルは、そのような精神だったからこそ、後に士師の第一号となる栄誉を得ている。
そして彼の活躍の背後には、妻アクサの存在も大きかった事だろう。
『主がユダと共におられたので、ユダはついに山地を手に入れたが、平地に住んでいた民は鉄の戦車をもっていたので、これを追い出すことができなかった。人々はモーセがかつて言ったように、ヘブロンをカレブに与えたので、カレブはその所からアナクの三人の子を追い出した。ベニヤミンの人々はエルサレムに住んでいたエブスびとを追い出さなかったので、エブスびとは今日までベニヤミンの人々と共にエルサレムに住んでいる。』(士師記1:19)
カレブ達は積極的な信仰によってヘブロンに住んでいた巨人たちを追い出したのにひきかえ、他の者達は、平地に住んでいたカナン人の鉄の戦車に恐れをなして、そこを追い出すことをしなかった。
主は、強大と見える敵と相対するに際しては、どうするように言われていたか。
『あなたが敵と戦うために出る時、馬と戦車と、あなたよりも大ぜいの軍隊を見ても、彼らを恐れてはならない。あなたをエジプトの国から導きのぼられたあなたの神、主が共におられるからである。あなたがたが戦いに臨むとき、祭司は進み出て民に告げて、彼らに言わなければならない、
『イスラエルよ聞け。あなたがたは、きょう、敵と戦おうとしている。気おくれしてはならない。恐れてはならない。あわててはならない。彼らに驚いてはならない。あなたがたの神、主が共に行かれ、あなたがたのために敵と戦って、あなたがたを救われるからである』。』(申命記20:1-4)
主は、敵の馬や戦車や、大勢の軍隊を見ても、恐れてはならない、と言われた。
なぜなら、戦って下さるのは主であり、その人自身の力で戦うのではないからだ。
その人自身の力は、何に費やすべきか。敵と戦うために費やしても無駄である。そうではなく、主に対する従順にこそ力を注ぐべきなのだ。
そうするなら、主が約束しておられる通り、主ご自身が戦い、勝利して下さるのだ。
実際カレブは、85歳であったのに、そうしてアナクの巨人たちに打ち勝ち、ヘブロンという良き地を得た。
現代も含め、いつの時代も光と闇とが交差しているが、恐れをなして退く者は、闇に飲み込まれてしまい、悔いのみが残る。
しかし、カレブ達のように、信じて進み行くなら、闇は必ず光によって飲み込まれ、死は必ずいのちで飲み込まれ、呪いは必ず祝福に飲み込まれていく。
なぜなら、私達の主イエス様は、光であられ、いのちの君であられ、祝福の主であられるからだ。
礼拝説教メッセージ音声:崩れ始める主にある秩序(士師記1:1-7):右クリックで保存
本日より士師記の講解説教に入る。
士師記はヨシュアの死から始まり、それ以降のおよそ400年、イスラエルが遍歴した道が記されている。
この時代は、モーセやヨシュアのような、イスラエル全体を霊的に正しく治める指導者はおらず、イスラエルの人々はおのおの、自分の目に正しいと見える事を行っていた。
それで、イスラエルの歴史の中でも、かなり無秩序な、荒んだ時代となってしまった。
イスラエルの人々が主から離れ、偶像礼拝を行い、その結果、律法に記されていた通りの災いが降り、それに懲りたイスラエルは主に助けを求め、それで主は「士師」と呼ばれる指導者(ヘブライ語でshaw-fat、判断する人、治める人の意味。「裁き司(さばきつかさ)」という訳が原意に近い。)をおこしてイスラエルを救い、そうして平和が戻り、生活も安定すると、再びイスラエルは堕落して災いが降り、、、という、繰り返しの歴史である。
1章から3章までの所に、そのような時代に入るまでの成り立ちが記されており、そして士師記のメインともなる士師たちの活躍が、3章から16章までの所に記されており、そして17章以降にはイスラエル諸部族をめぐる事件が記されているのだが、その事件の内容を見ると、当時のイスラエルがいかに荒んだ霊的状況であったかが伺える。
士師記は、ヨシュアの死から始まったが、偉大な指導者が死んだ途端、人々はめいめい好き勝手な事をし出して、混乱の時代へと突入するというのは、人類歴史では何度も見てきた事である。
日頃から人間の指導者に極度に頼ってしまうなら、ある日突然その人がいなくなってしまうと、混乱を来たしてしまうのは、当然である。
だから、私達が日々頼りとすべきは、決して死ぬこともなく、指示を誤る事も無い、完全なる指導者イエス様であり、私達が日々指針とすべきは、決して変わる事の無い真理の御言葉である。
『ヨシュアが死んだ後、イスラエルの人々は主に問うて言った、「わたしたちのうち、だれが先に攻め上って、カナンびとと戦いましょうか」。主は言われた、「ユダが上るべきである。わたしはこの国を彼の手にわたした」。ユダはその兄弟シメオンに言った、「わたしと一緒に、わたしに割り当てられた領地へ上って行って、カナンびとと戦ってください。そうすればわたしもあなたと一緒に、あなたに割り当てられた領地へ行きましょう」。そこでシメオンは彼と一緒に行った。』(士師記1:1-3)
ヨシュアが死んだ直後は、それほど混乱は無いものの、イスラエルの秩序が崩れ始める兆候が、早速現れている。
物事を行う前に、主に伺いを立てるのは良い事である。
しかし、ユダは主から指名されたというのに、彼らは、指名されてもいないシメオン族を戦いに加えている。
戦いとは、命がけのものであり、そこに二つの部族が関与してしまうなら、戦いの方法や分捕りの配分、捕虜の扱いなど、色々な事について諍いが発生しやすくなり、色々な人の意見を折衝していく内に、どんどん主の御胸から離れて行ってしまいがちである。
この「御言葉への混ぜ物」は、最初はほんの些細な事かもしれない。
主も、彼らが少しでも命令を超えたから、即座に罰したわけでもなかったが、このような「ちょっとした事」は、さらに多くの「ちょっとした不従順」をばらまき、それが積もるなら、「大きな反逆」へと成長してしまうものである。
ユダとシメオンの連合軍は、確かに大勝利した。
しかし、王アドニベゼクをしばらく生かしておいた。
『アドニベゼクは逃げたが、彼らはそのあとを追って彼を捕え、その手足の親指を切り放った。アドニベゼクは言った、「かつて七十人の王たちが手足の親指を切られて、わたしの食卓の下で、くずを拾ったことがあったが、神はわたしがしたように、わたしに報いられたのだ」。人々は彼をエルサレムへ連れて行ったが、彼はそこで死んだ。』(士師記1:6-7)
主は、生け捕りにした王を、現地の風習に従ってなぶりものにせよ、とは言っていない。
むしろ主の命令は、カナンの住人は全て聖絶せよ、というものである。(申命記20:16-18)
それなのに彼らは、王をしばし生かしておき、しかも、生け捕りにした王の手足の親指を切り取るという、その地方で行われていた残酷な風習を取り入れている。
もしかしたら、ユダ族やシメオン族の、その場のノリや勢いでした事かもしれない。しかし、少しずつ、主の御言葉に混ぜ物をする事も、カナンの風習も、少しずつ入り込んで来てしまっている。
士師記を一言で言い表す御言葉は、『そのころイスラエルには王がなかったので、人々はおのおの自分たちの目に正しいと思うことを行った。』(士師記17:6、21:25) である。
世の人がそれを見る時、一体その事のどこが良くないのか、と思うかもしれない。世の人は普通に、おのおの自分たちの目に正しいと思うことを行っているからだ。
しかし神の民は、御言葉を退けて自分の目に正しいと思う事を行うのは、あらゆる災いの元であり、それは、アダムとエバの時代以来、変わっていない。
私達・神の民は、自分の目に正しいと見える事に歩むのではなく、御言葉に従って歩む者達なのだ。
結婚できない人や貧しい人はただ虚しいだけなのか(伝道者の書9:9-12)
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- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(旧約) » 伝道者の書
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- pastor 2014-8-30 11:31
礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
結婚できない人や貧しい人はただ虚しいだけなのか(伝道者の書9:9-12):右クリックで保存
【概要】
伝道者の書9章9-12節を基に、人生の意味と神の愛について語る説教。
【聖書箇所】
伝道者の書9章9-12節
【励ましの言葉】
主を愛し、主の戒めを守る人は、神に愛され、豊かな人生を送ることができます。
【戒めの言葉】
この世の価値観や自分の力に頼るのではなく、神の国とその義を第一に求めましょう。
【***詳細***】
今日の箇所は伝道者の書9章9節から12節です。水曜日の昼礼拝では伝道者の書を1章から順に学んでいます。
「日の下であなたに与えられたむなしい一生の間に、あなたの愛する妻と生活を楽しむがよい。それが生きている間に日の下であなたがする労苦による。あなたの受ける分であるあなたの手元にあるなすべきことは、皆、自分の力でしなさい。あなたが行こうとしている黄泉には、働きも企ても知識も知恵もないからだ。」(伝道者の書9:9-10)
伝道者の書は聖書の中でも特異な書物です。「むなしい」という言葉が最も多く使われており、旧約聖書全体で「むなしい」という言葉が使われる回数よりも、この伝道者の書だけで使われる回数の方が多いのです。なぜ聖書の一部である伝道者の書にこれほど「むなしい」という言葉があるのでしょうか。それは、著者であるソロモンが神から離れ、人間の知恵を追求した結果だと考えられます。
ソロモンは人類史上最も知恵があり、IQの高い人物でした。しかし、神から離れて知恵や力を追求した結果、すべてが「むなしい」という結論に至ったのです。これは世の中の哲学や仏教の思想とも似ています。すべてのものは無常で、移り変わり、同じところに行き着くという考え方です。
しかし、キリストにある者の人生は全く異なります。聖書の他の箇所は希望に満ち、愛に満ち、喜びに満ちています。信仰者が目指すべきは、ソロモンのようなむなしさではなく、神の国です。
「日の下であなたに与えられたむなしい一生の間に、あなたの愛する妻と生活を楽しむがよい。」(伝道者の書9:9)
ソロモンは人生の楽しみを妻との生活に見出していますが、実際には700人の妃と300人の側室、合計1000人もの妻を持っていました。その結果、彼は「女は死よりも苦々しい」と告白しています(伝道者の書7:26)。これは神から離れた生き方の結果です。
私たちクリスチャンは、エペソ人への手紙に記されている夫婦関係の模範を目指すべきです。「妻たちよ。主に従うように、自分の夫に従いなさい。」(エペソ5:22)「夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自分を献げられたように、あなたがたも、自分の妻を愛しなさい。」(エペソ5:25)
「あなたの手元にあるなすべきことは、皆、自分の力でしなさい。」(伝道者の書9:10)
ソロモンは自分の力で物事を成し遂げることを勧めていますが、信仰者である私たちは違います。自分の力ではなく、イエス・キリストの知恵と力に頼るべきです。ある姉妹は、この箇所を次のように読み替えました。「あなたの手元にあるなすべきことは、イエス様の知恵と力でしなさい。あなたが行こうとしているところは、死も涙も痛みも傷も何一つない神の国の中にあるからです。」
私たちがなすべきことは、自分の力ではなく、イエス様に委ねることです。イエス様が羊飼いとなって私たちを導いてくださいます。たとえ死の陰の谷を歩むようなことがあっても、私たちには恐れる必要はありません。
「私は再び日の下を見たが、競争は足の速い人のものではなく、戦いは勇者のものではなく、またパンは賢い人のものではなく、富は悟りのある人のものではなく、愛顧は知識のある人のものでもないことがわかった。」(伝道者の書9:11)
ソロモンはすべてのことを時と機会のせいにしていますが、信仰者である私たちは違います。戦いは主のものであり、パンは主から与えられ、富も主のものです。すべてはイエス・キリストのものなのです。
私たちは神の国とその義をまず第一に求めるべきです。「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」(マタイ6:33)
主に愛される人とは、イエス・キリストを愛し、その戒めを守る人です。「わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛する人です。わたしを愛する人は、わたしの父に愛され、わたしもその人を愛し、わたし自身を彼に現します。」(ヨハネ14:21)
【結論】
私たちは、ソロモンのような罠に陥ることなく、世の価値観ではなく神の価値観に従って生きるべきです。すべての不条理を御言葉によって塗り替え、幸いと命へと人生を変えられていく者となりましょう。神の国とその義を第一に求め、イエス・キリストに愛され、導かれる人生を歩んでいきましょう。
移り行く世代、そして、決して移り変わりの無いお方(ヨシュア記24:29-33)
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- 執筆 :
- pastor 2014-8-30 10:34
礼拝説教メッセージ音声:移り行く世代、そして、決して移り変わりの無いお方(ヨシュア記24:29-33):右クリックで保存
『これらの事の後、主のしもべ、ヌンの子ヨシュアは百十歳で死んだ、人々は彼をその嗣業の地のうちのテムナテ・セラに葬った。テムナテ・セラは、エフライムの山地で、ガアシ山の北にある。イスラエルはヨシュアの世にある日の間、また主がイスラエルのために行われたもろもろのことを知っていて、ヨシュアのあとに生き残った長老たちが世にある日の間、つねに主に仕えた。』(ヨシュア記24:29-31)
偉大な指導者、ヨシュアも、いよいよ死んだ。
彼が生きていた間、また、彼と共に戦った長老の世代が生きていた間、イスラエルが主から離れず主に使えていたのは、ひとえに、ヨシュアが主に従順する事を徹底して指導していた事が大きいだろう。
偉大な指導者ヨシュアは死んだが、私達にとっての指導者・まことのイエシュアは、決して死ぬ事の無いお方・イエス様であり、どんな指導者よりも優れたお方である。
『イスラエルの人々が、エジプトから携え上ったヨセフの骨は、むかしヤコブが銀百枚で、シケムの父ハモルの子らから買い取ったシケムのうちの地所の一部に葬られた。これはヨセフの子孫の嗣業となった。』(ヨシュア記24:32)
このヨシュア記では、古く昔から定められていた、色々な約束の成就があった。
彼らの父祖、アブラハム、イサク、ヤクブに対する約束、すなわち、このカナンの地を与えるという、何百年も昔に主が約束された事の成就があり、ヨセフが子孫に約束させた事の成就があり、そして、この世代のイスラエルに定めて下さった敵に対する勝利と、この地を受け継ぐという約束も、ことごとく成就した。
イエス様もまた、世の始まる前から定められていた遠大なご計画を、私達に対して成就させて下さる。
すなわち私達は、天地の造られる前からキリストにあって選ばれ、御前できよく傷なき者となるために、神の子としての身分をいただけるという、途方も無く素晴らしいご計画を、今、キリストにあって私達に対し成就して下さるのだ。(エペソ1:3-5)
それを私達が引き出すためには、御言葉を信じ、その信仰に裏打ちされた行動を取る事が必要である。
ヨシュアの時代のイスラエルが、ヨシュアを通して与えられた御言葉を信じ、それに忠実に行動した結果、勝利と祝福を得たのと、全く同じである。
『アロンの子エレアザルも死んだ。人々は彼を、その子ピネハスに与えられた町で、エフライムの山地にあるギベアに葬った。』(ヨシュア記24:33)
大祭司エルアザルは、ヨシュア記の中ではあまり登場しなかったが、彼もまた、怒涛の時代を駆け抜けた立役者の一人だった。
大祭司アロンの三男であった彼は、その兄達は、聖所において不敬を犯したために主の火によって焼き滅ぼされたのを見ている。
また、コラがモーセに反逆した時、それに追従した二百五十人は、主の火によって焼き滅ぼされたが、エルアザルは主の命令を受け、まだ煙くすぶる二百五十もの焼死体の手から、二百五十の火皿を回収し、それを延べ板として、祭壇の着せ金を造った。(民数記16:38)
このような、強烈な経験をして来た彼は、きっと、大祭司の家系の子々孫々に、きびしく教育したに違いない。
主の前に出る時は、決して分を超えたり、思い上がったりしてはならない、と。
実際、エルアザルの子ピネハスは、素晴らしい信仰の行いをした。(民数記25章)
偉大な指導者ヨシュアも、大祭司エルアザルも死んだ。
人には寿命があり、そして、世代は交代していく。
しかしまことの指導者であり、まことの大祭司であるイエス様は、もはや決して死ぬ事はなく、眠る事もまどろむ事もなく、常に私達と共におられ、常に父なる神様の御前で私達のために執り成し、間違った指導は決してする事も無いお方。
まことに主の主、王の王、まことの大祭司であられる。
偉大な信仰の指導者がいなくなった途端に、信仰から落ちてしまうのは、ありがちな事であり、実際イスラエルは、この直後、信仰から落ちてしまう。
私達がそうならないためには、私達個人個人が、直接、まことのイエシュアであるイエス様を主とし、イエス様と直接関わり、直接導きを受け、聞き従う事である。
パウロも言っている。
『わたしの愛する者たちよ。そういうわけだから、あなたがたがいつも従順であったように、わたしが一緒にいる時だけでなく、いない今は、いっそう従順でいて、恐れおののいて自分の救の達成に努めなさい。
あなたがたのうちに働きかけて、その願いを起させ、かつ実現に至らせるのは神であって、それは神のよしとされるところだからである。すべてのことを、つぶやかず疑わないでしなさい。それは、あなたがたが責められるところのない純真な者となり、曲った邪悪な時代のただ中にあって、傷のない神の子となるためである。あなたがたは、いのちの言葉を堅く持って、彼らの間で星のようにこの世に輝いている。』(ピリピ2:12-15)
人間はやがて死ぬし、間違った指導もする。
だからこそ私達は、まことの大祭司であり、まことの指導者であるイエス様につながる事こそ、何より大事なのだ。
私達は生ける限り、ヨシュア記の世代のように、主に服従し、多くを勝ち取り、分捕り、幸いな一生を送る者でありたい。
礼拝説教メッセージ音声:ヨシュアの最後のメッセージ(ヨシュア記24:1-28):右クリックで保存
『ヨシュアは、イスラエルのすべての部族をシケムに集め、イスラエルの長老、かしら、さばきびと、つかさたちを召し寄せて、共に神の前に進み出た。』(ヨシュア記24:1)
いよいよヨシュア記の最終章である。
ヨシュアは死を前にして民を御前に集め、最後のメッセージをした。
ヨシュアが民を呼び集めたシェケムという場所は、イスラエルの父祖達にとって、特別な地である。
アブラハムが主の召命を受けて、故郷を出てカナンに入った時、主が「あなたの子孫にこの地を与える」と言って最初に現れた場所であり、アブラハムはそこに祭壇を立てた。
また、アブラハムの孫ヤコブが、ベテルへと出立する際に、自分達の中から外国の神々を捨てた場所でもある。
2節から13節までは、主がヨシュアを通して語られたメッセージであり、アブラハムの父・テラの代から、何百年という単位でイスラエルが主と共に歩んで来た歴史である。
主は、一人の人アブラハムから、イスラエルという民族を起こしたが、元々、アブラハムの父の家は偶像崇拝をしている家であった。
主は、その偶像礼拝の家からアブラハムを導き出し、彼を祝福して子孫を増やし、敵から救い出し、敵に対しては災害を与え、勝利させ、その地を占領させ、あらゆる面で守り、多くの良きものを与えて下さった事を、ここで思い起こさせている。
そして、このメッセージで特徴的な事は、主がイスラエルの歴史を語る上で、民が主に不従順し反逆した点については、一切触れていない事であり、モーセの最後のメッセージとは対照的である。
このメッセージからは、主はいかにイスラエルに良くして下さったか、いかに主が素晴らしいお方であるのかがよく分かるが、しかしヨシュアは言う。
『いま、あなたがたは主を恐れ、まことと、まごころと、真実とをもって、主に仕え、あなたがたの先祖が、川の向こう、およびエジプトで仕えた他の神々を除き去って、主に仕えなさい。』(ヨシュア記24:14)
ヨシュア記を読んでいると、主を捨て去って外国の神々に向かう、などとは、とんでもない事と思えてくる。
なにしろ、アカンの失敗の時も、またルベン族やガド族達が祭壇を造った時も、イスラエルは非常に断固とした態度で臨んだからだ。
それなのに、ヨシュアはここで、「他の神々を除き去って、主に仕えなさい。」と言っているという事は、もしかしたら、イスラエルの心は慢心して、次第に偶像礼拝へと傾きつつあった事を、ヨシュアは察知していたのかもしれない。
『もしあなたがたが主に仕えることを、こころよしとしないのならば、あなたがたの先祖が、川の向こうで仕えた神々でも、または、いまあなたがたの住む地のアモリびとの神々でも、あなたがたの仕える者を、きょう、選びなさい。ただし、わたしとわたしの家とは共に主に仕えます。』(ヨシュア記24:15)
ここはヨシュアの、とても有名な宣言である。
ヨシュアは明確に、我が家と我は、主に仕える、と告白した。
それに対し、民は答えて言った。
「主を捨てて、他の神々に仕えるなど、われわれは決していたしません。われわれの神、主がみずからわれわれと、われわれの先祖とを、エジプトの地、奴隷の家から導き上り、またわれわれの目の前で、あの大いなるしるしを行い、われわれの行くすべての道で守り、われわれが通ったすべての国民の中でわれわれを守られたからです。主はまた、この地に住んでいたアモリびとなど、すべての民を、われわれの前から追い払われました。それゆえ、われわれも主に仕えます。主はわれわれの神だからです。」(ヨシュア記24:16-18)
それでもなお、ヨシュアは重ねて問いただす。
『「あなたがたは主に仕えることはできないであろう。主は聖なる神であり、ねたむ神であって、あなたがたの罪、あなたがたのとがを、ゆるされないからである。もしあなたがたが主を捨てて、異なる神々に仕えるならば、あなたがたにさいわいを下されたのちにも、ひるがえってあなたがたに災をくだし、あなたがたを滅ぼしつくされるであろう」。
民はヨシュアに言った、「いいえ、われわれは主に仕えます」。
そこでヨシュアは民に言った、「あなたがたは主を選んで、主に仕えると言った。あなたがたみずからその証人である」。彼らは言った、「われわれは証人です」。』(ヨシュア記24:19-22)
こうしてヨシュアは、民の口から三度、自分達は主に従う、という意向を引き出させ、そして確かにこの世代は主に従い通した。
私達も、兄弟姉妹を見た時に、信仰が弱りかけたり、誘惑に陥りかけている事に気づいたなら、本人の口から信仰告白を引き出させ、罪に陥る事から守らせる、という事も必要である。
人は、弱いものである。
ペテロも、イエス様がポンテオ・ピラトの元へ引き出される日の晩、自分は死んでもあなたについて行きます、と、イエス様に宣言しておきながら、その夜が明けない内に、三度もイエス様を知らないと人前で宣言してしまった。
ある瞬間は感情が燃えていたとしても、いざとなると、肉は弱いのだ。
イエス様は、そのような失敗をしたペテロに現れ、「あなたはわたしを愛するか」と三度、問いかけられ、フォローされた。
私達も、イエス様のように、またヨシュアのように、霊的に弱っている兄弟姉妹を、フォローするべきである。
主は、傷んだ葦を折る事をせず、くすぶる灯心を消す事のしないお方であり、私達もそれに習うべきなのだ。
『ヨシュアはまた言った、「それならば、あなたがたのうちにある、異なる神々を除き去り、イスラエルの神、主に、心を傾けなさい」。民はヨシュアに言った、「われわれの神、主に、われわれは仕え、その声に聞きしたがいます」。』(ヨシュア記24:23)
ヨシュアは重ねて言った。異なる神々を除き去りなさい、と。
もしかしたら、異なる神々への思いが、彼らの中に入り込んでいたのかもしれないが、少なくともこの世代は、ヨシュアのフォローによって守られた。
『こうしてヨシュアは、その日、民と契約をむすび、シケムにおいて、定めと、おきてを、彼らのために設けた。ヨシュアはこれらの言葉を神の律法の書にしるし、大きな石を取って、その所で、主の聖所にあるかしの木の下にそれを立て、ヨシュアは、すべての民に言った、「見よ、この石はわれわれのあかしとなるであろう。主がわれわれに語られたすべての言葉を、聞いたからである。それゆえ、あなたがたが自分の神を捨てることのないために、この石が、あなたがたのあかしとなるであろう」。
こうしてヨシュアは民を、おのおのその嗣業の地に帰し去らせた。』(ヨシュア記24:25-28)
このようにして、ヨシュアは最後のメッセージを終えた。
その最後は、偶像礼拝に気をつけるようにという事と、他の神々に行くのではなくただ主にのみ仕えなさいという事を、彼らの口で告白させ、そして証拠を残す事だった。
こうして、この世代は守られた。
私達も、兄弟姉妹に大事な事を伝えたい時は、本人の口から信仰告白を引き出す事が有効である。
その口の告白によって、彼らは守られるからだ。
礼拝説教メッセージ音声:数えてみよ、主の真実を(ヨシュア記23:12-16):右クリックで保存
主が共におられ、主ご自身が敵と戦って下さるならば、必ず勝利し、一人が千人を追い立てる事さえ可能である、と、ヨシュアは言った。
そしてその逆、もし、主が共におられないのなら、すなわち、人が主に忌み嫌われるような事をするなら、主は必ず災いを下す事も、宣言した。
味方であるはずの主は、一体どうしたら、敵対してしまうのか。ヨシュアは、以下のように言っている。
『あなたがたがもしひるがえって、これらの国民の、生き残って、あなたがたの中にとどまる者どもと親しくなり、これと婚姻し、ゆききするならば、あなたがたは、しかと知らなければならない。あなたがたの神、主は、もはや、これらの国民をあなたがたの前から、追い払うことをされないであろう。』(ヨシュア記23:12-13)
すなわち、交わってはならない邪悪な先住民と交わり、結婚し、滅ぼすべき者と混合してしまうなら、主はもはや共にはおられない。
今まで勝利をもたらして下さった主は、もはや、その人に勝利を与える事は無く、敵対してしまう。
ヨシュア記では、いまだ生き残っている滅ぼすべきカナン人を「あなたがたの中にとどまる者」と言っているが、現代を生きる私達の中にも、”滅ぼしてしまわなくてはならない者”が、私達の肉の中に、多少なりともうずめいている。
それは、旧来の不品行の性質や、罪深い性質など、神の民に相応しからぬ性質全般である。
私達は、主イエス様にあって救われた後、主と共に歩んで行く内に、どんどん開放され、自由となって行った領域がどんどん増え広がって行ったはずである。
イエス様と共に歩みつづけるキリスト者は、旧来の罪の性質はどんどん討ち滅ぼされていき、生来の生き方では、不可能と思えたような事が可能となり、今まで経験しなかったような事をどんどん経験し、心の中の自由な領域は、どんどん広がって行くものである。
まことのイエシュアであるイエス様と共に歩むなら、もっともっと、その領域は広がって行くが、滅ぼすべき旧来の性質を放置し続け、あるいは、それらと再び和合し、罪の性質と再び混合してしまうなら、どんどん心の束縛が増していき、ついには罪深い性質に飲み込まれてしまい、やがては滅ぼされてしまう。
『彼らは、かえって、あなたがたのわなとなり、網となり、あなたがたのわきに、むちとなり、あなたがたの目に、とげとなって、あなたがたはついに、あなたがたの神、主が賜わったこの良い地から、滅びうせるであろう。』(ヨシュア記23:13)
ヨシュアの時代は、まだ、「彼らの中にとどまる者達」を攻め滅ぼす事を保留しているだけで、婚姻したり交わったりしてはいなかった。
それで、かろうじて信仰をもって戦い出るなら、必ず勝利していた。
しかし、いつまでも為すべき事を保留し続け、それを長くし、どんどん先延ばしにして行くならば、それらはやがて罠となってしまうのだ。
『見よ、今日、わたしは世の人のみな行く道を行こうとする。あなたがたがみな、心のうちにまた、肝に銘じて知っているように、あなたがたの神、主が、あなたがたについて約束されたもろもろの良いことで、一つも欠けたものはなかった。みなあなたがたに臨んで、一つも欠けたものはなかった。』(ヨシュア記23:14)
ヨシュアは、死を間近にして、大切な事を伝えた。
主は、約束された良い事の中で、何一つ成就しなかった事は無かった。
その事を、あなた方はしかと経験した、それをあなた方は、しっかりと覚えておきなさい、と。
『しかし、あなたがたの神、主があなたがたについて約束された、もろもろの良いことが、あなたがたに臨んだように、主はまた、もろもろの悪いことをあなたがたに下して、あなたがたの神、主が賜わったこの良い地から、ついに、あなたがたを滅ぼし断たれるであろう。もし、あなたがたの神、主が命じられたその契約を犯し、行って他の神々に仕え、それを拝むならば、主はあなたがたにむかって怒りを発し、あなたがたは、主が賜わった良い地から、すみやかに滅びうせるであろう」。』(ヨシュア記23:15-16)
主は、約束しておられた良き事を、必ず成就させた。それと同じように、もし主をないがしろにするなら、災いもまた必ず成就してしまう、という事も覚えておきなさい、と、ヨシュアは注意した。
主が為して下さった良き事の数々を数えなさい、覚えておきなさい、というメッセージはよく語られるが、同時に、その逆が起きる事も、忘れてはならない。
すなわち、主をないがしろにした事によって、ひどい目や、災いに遭った事どもも、私達はよく覚えておくべきなのだ。
礼拝説教メッセージ音声:現実を真実で飲み込め(ヨシュア記23:1-11):右クリックで保存
主がイスラエル全部族に相続地を与えられてから、既に多くの日が経ち、ヨシュアも老人になった。
しかしヨシュアには、心配事が残っていた。
イスラエルの民には相続地が定められて久しいのだが、彼らは、その領地内に生き残っている先住民を滅ぼし尽くす事をせず、そのまま放置している所が、まだまだ多いからだ。
そこでヨシュアは長老や民の長達を呼び寄せて、言った。
『見よ、わたしはヨルダンから、日の入る方、大海までの、このもろもろの残っている国々と、すでにわたしが滅ぼし去ったすべての国々を、くじをもって、あなたがたに分け与え、あなたがたの各部族の嗣業とさせた。あなたがたの前から、その国民を打ち払い、あなたがたの目の前から追い払われるのは、あなたがたの神、主である。そしてあなたがたの神、主が約束されたように、あなたがたは彼らの地を獲るであろう。』(ヨシュア記23:4-5)
ヨシュアは確かに、くじによって、この地を彼らに与えた事を神と人との前で宣言したが、現実的には、その中の一部では、相変わらず、住んでいてはならない先住民が住んでいる状態である。
「真実」の上では、その地は既に彼らの所有となっている。なのに「現実」では、そこには相変わらず、罪深く手強い者達が、占拠している。
このように、「真実」と、「現実」とが敵対している時、「真実」を信じて、「現実」に戦いを挑むなら、必ず真実が現実を飲み込む事になっている。
しかし、現実に飲み込まれて真実をいつまでも実行しないなら、それまた、その人の信じた通りになってしまう。
これは、現代を生きる私達にも、同じである。
主に言われた通りに信じて実践するならば、真理の面において既に得たものが、現実の面へと引き出されて行くのだ。
ちょうど、通帳に記されている残高の数字を信じて疑わず、銀行に行き、現金を下ろす手続きをして、ハンコを押す、という「信仰の行動」に出る事によって、現実のお金が手元に渡るのと同じである。
御言葉に記されている真実を信じ、そこに記されている通りに行動するなら、望んでいる事柄が実体となって、自分の手元に引き下ろされるのだ。(ヘブル11:1)
私達の人生も、ヨシュア記の当時と同じパラドックスに陥ってはいないだろうか。
御言葉の真理の上では、既にそこは自分の手に渡されている。
なのに、恐れや無気力などによって、信仰の行動をしておらず、そこに住み着いている邪悪な者達を、相変わらず、のさばらせたままにしてはいないだろうか。
主が共におられ、主と共に行動に出るなら、必ず勝ち取る事ができる。
ただし、主が味方して下さるためには、以下の事が必要である。
『それゆえ、あなたがたは堅く立って、モーセの律法の書にしるされていることを、ことごとく守って行わなければならない。それを離れて右にも左にも曲ってはならない。あなたがたのうちに残っている、これらの国民と交じってはならない。彼らの神々の名を唱えてはならない。それをさして誓ってはならない。またそれに仕え、それを拝んではならない。』(ヨシュア記23:6-7)
まずは、御言葉に堅く立って守り行い、そこから離れない事。
そして、神の国のものではない者達と交じり合わない事である。それは思想においても、価値観においても、そうである。
彼らの価値観や、彼らが「神」としているものを取り入れてしまうなら、主から敵対されてしまうからだ。
そして、何よりもまず、主を第一として愛する事である。
『ただ、今日までしてきたように、あなたがたの神、主につき従わなければならない。・・・それゆえ、あなたがたは深く慎んで、あなたがたの神、主を愛さなければならない。』(ヨシュア記23:8-11)
これらは、十戒の第一戎と第二戎とにも通じる、霊的な最優先事項である。
『主が大いなる強き国民を、あなたがたの前から追い払われた。あなたがたには今日まで、立ち向かうことのできる者は、ひとりもなかった。あなたがたのひとりは、千人を追い払うことができるであろう。あなたがたの神、主が約束されたように、みずからあなたがたのために戦われるからである。』(ヨシュア記23:9)
今までのヨシュア記での戦闘では、信仰における失敗をした場合を除き、彼らの前に立ち向かった敵は一人もなく、ことごとく勝利して来た。
そればかりでなく、一人の人が千人を追い払うことが出来る、というのだ。
信仰の少数精鋭は、不信仰な大人数にはるかに勝るのだ。(レビ記26:8、士師記3:31, 7:19-22、15:15、1サムエル14章、2サムエル23:8)
私達の人生は、勝ち取っていない領域が沢山あり、生涯をかけて、それらを勝ち取って行くようなものである。
勝利の上で大事な事は、主が共におられるという事であり、主が共におられる状態でいるには、心を尽くして主を愛し、主にの御言葉を守り行う事である。
礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
生きている間に喜んで楽しめという考え方(伝道者の書9:1-8):右クリックで保存
【概要】
伝道者の書9章1節から8節を通して、人生の結末とキリストにある希望について説教します。
【聖書箇所】
伝道者の書9章1-8節
【慰めの言葉】
「すべて生きているものに連なっているものには希望がある。生きている犬は死んだ獅子に勝るからである。」
【励ましの言葉】
「キリストにある私たちは、永遠に受ける分があるこの恵みと望みを感謝いたします。」
【戒めの言葉】
「どうせ明日は死ぬのだからと言っている。そこで万軍の主は私の耳を開かれた。この罪はお前たちが死ぬまで決して許されない。」
【勧めの言葉】
「いつもあなたは白い着物を着、頭には油を絶やしてはならない。」
【悔い改めの促しの言葉】
「この地上の歩みは、永遠を決定づけるための査定期間と言っていいでしょう。」
【***詳細***】
今日の御言葉は、伝道者の書9章1節から8節です。この箇所では、人生の結末がすべての人に同じように訪れることが述べられています。正しい人も悪者も、善人も清い人も、すべての人に同じ結末が訪れます。しかし、キリストにある私たちは、永遠に受ける分があることを感謝します。黙示録20章11節からの白い御座の裁きにおいて、私たちはキリストにあって成したことの報いを受けます。
生きている者は自分が死ぬことを知っていますが、死んだ者は何も知りません。彼らにはもはや何の報いもなく、彼らの呼び名も忘れられます。しかし、キリストにある者は、永遠に受ける部分があり、信仰の試練は火を通して精錬されてもなお朽ちてゆく金よりも貴いのです。
イエス・キリストを信じる者は、命の書に名が記されており、第二の死は何の害もありません。私たちはこの地上で、キリストにあって白い衣を着て、精霊の油を絶やさずに歩むべきです。黙示録の1章17節でイエス様は言われました。「私は生きているものである。私は死んだがみよ、いつまでも生きている。」
伝道者の書の言葉は、キリストなしに生きている人たちに非常によく当てはまりますが、キリストにあって生きる人は、永遠の希望を持っています。私たちは、キリストという生きるお方につながっていることで、希望があります。生きている犬は死んだ獅子に勝るという言葉は、キリストにつながる私たちに当てはまります。
【結論】
キリストにある私たちは、永遠の希望を持ち、地上での歩みを通してその希望を確かなものとすることができます。私たちは、キリストにあって白い衣を着て、精霊の油を絶やさずに歩み、永遠の報いを受けることを目指しましょう。
礼拝説教メッセージ音声:誤解を与えてしまった時には(ヨシュア記22:21-34):右クリックで保存
ルベン族、ガド族、マナセの半部族は、自分達が祭壇を築いた事が「主への反逆である」という誤解を、他の部族に与えてしまった事を知って、答えた。
『力ある者、神、主(エホバ)。力ある者、神、主(エホバ)。主は知ろしめす。イスラエルもまた知らなければならない。もしそれがそむくことであり、あるいは主(エホバ)に罪を犯すことであるならば、きょう、われわれをゆるさないでください。われわれが祭壇を築いたことが、もし主に従うことをやめるためであり、またその上に、燔祭、素祭をささげるためであり、あるいはまたその上に、酬恩祭の犠牲をささげるためであったならば、主みずから、その罪 を問いただしてください。』(ヨシュア記22:21-23)
彼らが真っ先にした事は、エホバなる主を、自分と相手との間に据えた事だった。
私達も、兄弟姉妹に誤解させてしまった時、ことに、誤解によって相手の感情を害させてしまったり、不愉快な思いをさせてしまったりした時には、先ず先に、主を彼我の間に据える事が、最優先させるべき事である。
そうする事で、相手が自分を誤解している事について、自分が動揺したり怒ったりする事を防げるし、また、相手が主を恐れる兄弟姉妹であるなら、ある程、全てをご存知であられる主にさばきを委ねる事は、正当な事だと、双方が確認できるからである。
主は、その人の真実も不信実もご存知であり、真実に対しては豊かに報い、不信実に対しても、正当にさばいて下さる。
ダビデも、自分が不当に責め立てられている時、全てのさばきを主に委ねた。
『わが神、主よ、もしわたしがこの事を行ったならば、もしわたしの手によこしまな事があるならば、もしわたしの友に悪をもって報いたことがあり、ゆえなく、敵のものを略奪したことがあるならば、敵にわたしを追い捕えさせ、わたしの命を地に踏みにじらせ、わたしの魂をちりにゆだねさせてください。』(詩篇7:3-5)
続いて彼らは、問題となっているこの祭壇をなぜ造ったのか、その理由を説明した。
すなわち、後の時代になった時、彼らの領土がヨルダン川の向こう側にある、という事で、ヨルダン川のこちら側に相続地を得ている人達に「主を礼拝する分はあなた方には無い」と言われてしまう事を心配したために、この祭壇を「しるし」として造り、自分達にも主を礼拝する分があるのだ、という事を、後の時代になっても思い起こさせるためだ、というわけである。
『のちの日に、われわれ、またわれわれの子孫が、もしそのようなことを言われるならば、その時、われわれは言おう、「われわれの先祖が造った主の祭壇の型をごらんなさい。これは燔祭のためではなく、また犠牲のためでもなく、あなたがたと、われわれとの間の証拠である」。主にそむき、ひるがえって今日、主に従うことをやめて、われわれの神、主の幕屋の前にある祭壇のほかに、燔祭、素祭、または犠牲をささげるための祭壇を築くようなことは、決していたしません。」』(ヨシュア記22:28-29)
この事を聞いた祭司ピネハスや、他の部族の長達は、彼らの言葉を良しとした。
『祭司エレアザルの子ピネハスは、ルベンの子孫、ガドの子孫、およびマナセの子孫に言った、「今日、われわれは、主がわれわれのうちにいますことを知った。あなたがたが、主にむかって、このとがを犯さなかったからである。あなたがたは今、イスラエルの人々を、主の手から救い出したのです」。』(ヨシュア記22:31)
この度、誤解を与えてしまった側も、誤解してしまった側も、全員、主が自分達と共におられるという事を知った。
主は、敵に勝利させて下さる神であるだけではなく、兄弟姉妹の間に平和を与えて下さる神でもあるのだ。
『イスラエルの人々はそれを良しとした。そしてイスラエルの人々は神をほめたたえ、ルベンの子孫、およびガドの子孫の住んでいる国を滅ぼすために攻め上ろうとは、もはや言わなかった。ルベンの子孫とガドの子孫は、その祭壇を「あかし」と名づけて言った、「これは、われわれの間にあって、主が神にいますというあかしをするものである」。』(ヨシュア記22:33-34)
私達も誤解してしまう時、あるいは、誤解を与えてしまう時、主をその間に立て、主に正しく裁いていただき、平和を保つ者でありたい。
