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メッセージ - 創世記カテゴリのエントリ

礼拝説教メッセージ音声:短く不幸せだった百三十年(創世記47:1-12):右クリックで保存

『パロはヨセフの兄弟たちに言った、「あなたがたの職業は何か」。彼らはパロに言った、「しもべらは羊を飼う者です。われわれも、われわれの先祖もそうです」。』(創世記47:3)
兄弟達はヨセフ忠告どおり、自分達が羊飼いである事を正直に伝えた。
羊飼いはエジプト人の忌み嫌う職業であるため、これでイスラエルはエジプト人から隔離されて生活する事となり、その後430年間、イスラエルの民族的・宗教的純潔が保たれた。

『そこでヨセフは父ヤコブを導いてパロの前に立たせた。ヤコブはパロを祝福(barak)した。』(創世記47:7)
ここの祝福(barak)という言葉は、神がアダムやノア、アブラハムに「生めよ、増えよ、地に満ちよ」と祝福した時にも用いられた言葉である。(創世記1:22,28、9:1、12:2-3)

時の世界のスーパーパワーであるエジプトの王パロと、カナンに寄留中の70人の遊牧民の長ヤコブ。
パロの方が圧倒的に権威が上であるかのように見えるが、小なる者が、大なる者から祝福をいただくのである。(ヘブル7:7)
つまり、外見上はパロの方が上に見えても、真理の上ではヤコブのほうがパロより圧倒的に上であり、事実、永遠の書物である聖書には、ヤコブは遥かに栄誉ある者として記されている。

主イエスに服従する者は、全能の神から権威を与えられる。
神から権威を付与された権威者は、ポンテオ・ピラトの前のイエスのように、外見的には大した権威を帯びているようには見えないものであるが、主イエスに従う者は、汚れた霊を追い出すけんい、あらゆる病気やわずらいをいやす権威を与えられ(マタイ10:1)、へびやさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けられ(ルカ10:19)、後には、諸国の民を支配する権威を授けられる。(黙示録2:26)

『パロはヤコブに言った、「あなたの年はいくつか」。ヤコブはパロに言った、「わたしの旅路のとしつきは、百三十年です。わたしのよわいの日はわずかで、ふしあわせで、わたしの先祖たちのよわいの日と旅路の日には及びません」。』(創世記47:8-9)
百三十年という年月は、決してわずかとは言えないが、ヤコブは自分の生きてきた年月はふしあわせに満ち、先祖たちには顔見せできないような日々を送ってきた事を告白した。

彼の父たち、アブラハムやイサクは、自分の思いや願いを、神の御前に手放す人だったのに、ヤコブはその逆で、自分の思い願いを頑として掴んで離さない人だった。
つかみ取ってなんぼという価値観は世の価値観で、それは一見栄えるかのように見えて実は災多く、尻すぼみな生き方である。

彼は生涯のはじめから兄のかかとを掴み、騙し、父イサクをも騙して祝福をつかみとったが、そこには居られなくなってしまった。
彼は伯父ラバンの元で20年搾取され、土地を購入した地で娘は犯され、息子達はその地の男を皆殺して略奪してしまい、また、溺愛したヨセフは兄達によって殺されそうになってエジプトへ売られ、長らく悲嘆の内に過ごす事となった。
彼がようやく自分を主の御前に手放したのは、ベニヤミンをも失おうとしていた時であった。

ヤコブのように、かたくなであればあるほど、打ち砕かれ方はひどいものとなり、手放さない手が固ければ固いほど、打たれる度合いは痛く、長くなってしまう。
ヤコブは白髪頭になるまで、頑なにつかむ生き方を改めなかったが、私達はそこまでなる必要は無い。
自分の願うものを掴む手は、主に速やかに手放し、全ての重荷は主の御前に全て下ろし、人生の早い段階から楽に生きるコツをつかむ皆さんでありますように!
イエス様の名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:栄光にあふれた再会(創世記46:28-34):右クリックで保存

『ヨセフは車を整えて、父イスラエルを迎えるためにゴセンに上り、父に会い、そのくびを抱き、くびをかかえて久しく泣いた。』(創世記46:29)
ヤコブが最後にヨセフを見たのは、22年以上前、シェケムで羊を飼っている兄達の様子を知るために、ヨセフをおつかいに送り出したのが最後で、その時以来の再会である。

その時出ていったヨセフの姿は、父が贈った長服を着ていた。
しかしその長服は血まみれになって返って来て、それ以来、ヨセフは死んだものと思っていた。
それが今、20数年ぶりに会ったヨセフは、高級外車で迎えに来て、亜麻布の宰相服を身につけ、金の首飾りをかけており、パロの指輪をはめていた。

かつて、大切なわが子に、と身につけさせてやった長服やアクセサリーよりも、はるかに優れたものを彼は身に帯びており、かつて、ただ大切にしてかわいがっていたい、と思っていたヨセフだったのに、今や自分が、ただ彼に助けられ、養われる側となっていた。

ヤコブは、かつてヨセフが見た夢、あの太陽と月と十一の星がヨセフを伏し拝んでいる様子を、思い起こした事だろう。
その時、その夢はヤコブの心を害したが、ヨセフは決して好き好んで、その夢をみたのでもないし、好き好んでエジプトの主となったわけでも、夢の通りに兄弟達や父母を養う者となったわけでもなかった。
ただ神が一方的に、イスラエル一族を救うため、予めヨセフを選び、その夢を見させ、予めエジプトへ送っていたのだ。

『時に、”イスラエル”はヨセフに言った、「あなたがなお生きていて、わたしはあなたの顔を見たので今は死んでもよい」。』(創世記46:30)
彼は、地上の祝福を掴み取ろうとする「ヤコブ」の生き方はもはや未練が無くなり、神のご計画が成就した事に満足を見出し、ただ神に支配されるがままの生き方をする「イスラエル」となった。

かつて「ヤコブ」は、世的な祝福を掴んで離さない生き方だったが、それら掴んできたものはやがて無理やり彼の手から引き剥がされて行った。
ラケルが剥がされ、ヨセフが剥がされ、そしてベニヤミンも、という所まで来た。
その時、「子を失わなければならないのなら、失ってもよい」(創世記43:14)と告白し、全てを全能の神の御手に委ねた。
するとヤコブは、ベニヤミンだけでなく、ヨセフをも取り返し、それも、思ってもみなかった程遥かに優れた形になって、彼の元に帰ってきたのだ。

自分で握りしめていたものを、主の御前に手放し、明け渡し、委ねる。そうして、主の元から再び返してもらう。
それが十字架と復活の経験である。
神は、その人が主の元へ手放したもの、主の故に失ったものを復活させ、以前よりも遥かに優れた形で、栄光のいのちを伴った形で、返して下さるのだ。
それはアブラハム、イサク、ヤコブが経験した事であり、私達も経験すべき事なのだ。

ヨセフは父や兄達に助言する。
『もしパロがあなたがたを召して、『あなたがたの職業は何か』と言われたら、『しもべらは幼い時から、ずっと家畜の牧者です。われわれも、われわれの先祖もそうです』と言いなさい。そうすればあなたがたはゴセンの地に住むことができましょう。羊飼はすべて、エジプトびとの忌む者だからです」。』(創世記46:33-34)

なぜわざわざ、エジプト人に嫌われる事を言うようにと、助言したのだろうか。
それは、ヨセフはエジプト人の有様を良く知っており、エジプト人とイスラエルの家が互いに和合し、血が混ざり、宗教が混ざらぬように、と思ったからであろう。
実際そのお陰で、430年後にイスラエル民族がエジプトを脱出する時、エジプト人とユダヤ人ははっきりと区別されており、民族的・宗教的純潔がずっと保たれていた。

兄達も「この国に寄留しようとしてきました」とパロに言い(47:4)、自分達はエジプトに永住するつもりは無い、ただ神が定めた時まで寄留するだけのつもりだと表明した。
私達も、世に対しては寄留者であるとの意識を持つべきである。

『しかし、あなたがたは、選ばれた種族、祭司の国、聖なる国民、神につける民である。それによって、暗やみから驚くべきみ光に招き入れて下さったかたのみわざを、あなたがたが語り伝えるためである。あなたがたは、以前は神の民でなかったが、いまは神の民であり、以前は、あわれみを受けたことのない者であったが、いまは、あわれみを受けた者となっている。
愛する者たちよ。あなたがたに勧める。あなたがたは、この世の旅人であり寄留者であるから、たましいに戦いをいどむ肉の欲を避けなさい。
異邦人の中にあって、りっぱな行いをしなさい。そうすれば、彼らは、あなたがたを悪人呼ばわりしていても、あなたがたのりっぱなわざを見て、かえって、おとずれの日に神をあがめるようになろう。』(1ペテロ2:9-12)

礼拝説教メッセージ音声:はじめの七十人(創世記46:1-27):右クリックで保存

イスラエルの子孫が住むべき地はカナンだと神は指定されていたが、ヨセフが言うには、あと5年はききんが続く為、家族も家財道具も全てエジプトに移って住むように、という事だった。
果たして神が約束された土地を、ききんだからと言って離れて良いのだろうか、という迷いが、イスラエルにあったのかもしれない。
しかし神は現れ、その心配を払拭してくれた。

『この時、神は夜の幻のうちにイスラエルに語って言われた、「ヤコブよ、ヤコブよ」。彼は言った、「ここにいます」。神は言われた、「わたしは神、あなたの父の神である。エジプトに下るのを恐れてはならない。わたしはあそこであなたを大いなる国民にする。』(創世記46:2-3)
神は、ヤコブ一家がエジプトにくだるのは御心だと、はっきりと教えてくれた。

「わたしはあなたと一緒にエジプトに下り、また必ずあなたを導き上るであろう。ヨセフが手ずからあなたの目を閉じるであろう」。(4節)
このことは、ヤコブはエジプトでヨセフの手の中で死に、死んだ後、約束の地へと戻る事を意味する。

神は、死んだ者の神ではなく、生きた者の神である。
アブラハムもイサクもヤコブも、今は肉体のいのちは死んでいるが、やがて私達信仰者は彼らと共によみがえらされ、共に天の食卓に与かるのだ。

今日の箇所を見ると、イスラエルの70人の子達全ての名前が登場するが、実に色々な場所で、色々な母親から生まれているのがわかる。
しかし、人が誰から、どの場所で生まれて、どの場所で死ぬのか、というのは、永遠の観点から見れば何も重要ではない。
むしろ、どなたにあって生き、どなたにあって死ぬのかが重要である。

アブラハムもイスラエルの12人の子達もメソポタミアで生まれたし、出エジプトの民60万人はエジプトで生まれたし、カナンを征服した世代は、荒野で生まれた。
むしろ、士師記の時代にカナンで生まれた世代が、神に不従順であった。
重要なのは、どなたにあって生き、どなたにあって死ぬのか、である。

『ヤコブと共にエジプトへ行ったすべての者、すなわち彼の身から出た者はヤコブの子らの妻をのぞいて、合わせて六十六人であった。エジプトでヨセフに生れた子がふたりあった。エジプトへ行ったヤコブの家の者は合わせて七十人であった。』(創世記46:26)

この時代、エジプトに入ったイスラエルの子孫達は、わずか70人だったが、430年後にエジプトから出る時は、成人男子だけでも60万にまで増えていた。
『ひとりの死んだと同様な人から、天の星のように、海べの数えがたい砂のように、おびただしい人が生れてきたのである。』(ヘブル11:12)
そのように、イスラエル民族が異国エジプトの地へ移されて増え広がる事は、アブラハムの代から、そのように定められていたのだ。(創世記15:13-15)

主は確かに、死んだも同然の者を生かし、わずかだった者を増え広がらせ、貧しい者を富む者とし、呪いの子を祝福の子へと造り替えて下さる。
しかし、神の目が注がれた民にとって、祝福とのろいは表裏一体であり、どちらに傾くかは、主の御声に聞き従うかどうかにかかっている。

イスラエルは確かに大勝利し、多くの土地を勝ち取ったが、しかし、後の時代の不従順によって、滅亡の危機も幾度も訪れた。
『あなたがたは天の星のように多かったが、あなたの神、主の声に聞き従わなかったから、残る者が少なくなるであろう。』(申命記28:62)
この言葉は、バビロン捕囚の時や、AD73年のユダヤ戦争において、また、近年では第二次世界大戦のホロコーストにおいて、成就した。
主の御声に聞き従う事こそ、祝福の前提条件であり、聞き従わない事は、呪いの前提条件となる。

御言葉にしっかりと服従し、大いに増え広がり、富む者となり、祝福された者となる皆さんでありますように!
イエス様の名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:備えられている途方も無い祝福(創世記45:16-28):右クリックで保存

ヨセフの兄弟たちが来た、という知らせは、パロと家臣たちを喜ばせ、パロは喜んでヨセフの兄や父のために便宜を図ってやった。
『わたしはあなたがたに、エジプトの地の良い物を与えます。あなたがたは、この国の最も良いものを食べるでしょう』。』(創世記45:18)

神がヨセフをエジプトへ送った意図は、苦労したヨセフを幸せに報いる、というよりも、大いなる救いをもってイスラエル一家を助け、イスラエルの子孫をその地に増やすためであった。(7節)
すなわち、ききんの時でもイスラエル全家には食事と住む所を整え、それも、パロが「家財に心を引かれてはなりません。エジプト全国の良い物は、あなたがたのものだから」と言う程のVIP待遇で彼らを特別扱いされた。

そのためにこそヨセフは、先にエジプトへ遣わされていたのだ。
キリストの次の言葉の通りである。
「あなたがたは、心を騒がせないがよい。神を信じ、またわたしを信じなさい。わたしの父の家には、すまいがたくさんある。もしなかったならば、わたしはそう言っておいたであろう。あなたがたのために、場所を用意しに行くのだから。そして、行って、場所の用意ができたならば、またきて、あなたがたをわたしのところに迎えよう。わたしのおる所にあなたがたもおらせるためである。」(ヨハネ14:1-3)

『まためいめいに晴着を与えたが、ベニヤミンには銀三百シケルと晴着五着とを与えた。』(創世記45:22)
かつてヨセフは、袖付きの長服を兄達に剥ぎ取られたが、ヨセフはそんな兄達に、晴れ着を着せてやった。
キリストも十字架上でくじで引かれ、服を全てを剥ぎ取られたが、彼が栄光の御姿で現れる時、新しい白い衣を私達に着せて下さるのだ。

『こうしてヨセフは兄弟たちを送り去らせ、彼らに言った、「途中で争ってはなりません」。』(創世記45:24)
兄達はヨセフと再会して後ずっと、自分達がかつてヨセフにした事を後悔し、父親が死んだ後もずっと彼を恐れ、心苦しい思いを長らくする事となる。
ヨセフとしては、兄がした事は神が忘れさせて下さったが、兄達はずっと良心の呵責に責められる事になったのだ。
私達も兄弟姉妹にした悪い事は、長い間良心の呵責に悩まされる事となり、また、天の御国に入った時、キリストにひどいことをした分が多ければ多いほど、主の御前に立つ時の恥ずかしさも、増し加わってしまうのである。

『彼らはエジプトから上ってカナンの地に入り、父ヤコブのもとへ行って、彼に言った、「ヨセフはなお生きていてエジプト全国のつかさです」。ヤコブは気が遠くなった。彼らの言うことが信じられなかったからである。そこで彼らはヨセフが語った言葉を残らず彼に告げた。父ヤコブはヨセフが自分を乗せるために送った車を見て元気づいた。そしてイスラエルは言った、「満足だ。わが子ヨセフがまだ生きている。わたしは死ぬ前に行って彼を見よう」。』(創世記45:25)

ヨセフを失っていたヤコブは、老い先短い未来に何の喜びも見いだせず、悲しみの内によみに下るとばかり思っていた。
何の望みも持てず失意に沈んで久しかった、そんな父に、喜びの知らせが、それも、途方も無いほど栄光の喜びがおとずれた。
主は、希望の持てない者に、見たことも聞いたこともないような祝福を備えて下さるお方だ。
『まさしく、聖書に書いてあるとおりです。「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮かんだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。」』(1コリント2:9)

礼拝説教メッセージ音声:「神が」(創世記45:1-15):右クリックで保存

『そこでヨセフはそばに立っているすべての人の前で、自分を制しきれなくなったので、「人は皆ここから出てください」と呼ばわった。それゆえヨセフが兄弟たちに自分のことを明かした時、ひとりも彼のそばに立っている者はなかった。ヨセフは声をあげて泣いた。エジプトびとはこれを聞き、パロの家もこれを聞いた。』(創世記45:1-2)
ヨセフは、兄達やユダの高貴な趣を身につけた様を見、そして、彼らが父や弟を思いやる愛に満ちた弁明を聞き、もはや我慢ができなくなり、別の部屋にいるエジプト人達にも聞こえるほど大声で泣いた。
そして、いよいよ自分を打ち明けた。
「わたしはヨセフです。父はまだ生きながらえていますか」(3節)

ヨセフの人生をドラマとして見るならば、クライマックスに相当する場面である。
不当な扱いを受け、苦労に苦労を重ね、最底辺に落とされ、最高権力者へと上げられ、かつて彼を虐げていた兄と、大逆転の立場で再会するという数奇な運命。
ドラマ好きな人が好みそうなサクセスストーリーであり、ヨセフのようになりたいと漠然と憧れるキリスト者も多いが、もし、ヨセフのようになりたいのなら、彼が試練を受けていた時機、すなわち、兄に憎まれていた時期や、奴隷の時期、監獄にいたそれぞれの時期に、どなたを主とし、何を口で告白し、どなたを基準に行動したのか、という事に目を留め、それに見習って行動すべきである。

映画やドラマの中にも「神」はよく登場するが、その中で神が演じる役割は、人を面白おかしい運命へと導いたり、あるいは良い人をドラマチックな形で幸せに導き、あるいは悪い人をドラマチックに災いを下らせる、「一役者」のように描かれている。
しかし、あいにく神は、私達の人生をいろどる役者でも、願い事を叶える為の手段でもないし、私達の人生を面白おかしくドラマチックに演出する義理も、神には無い。

神は、全てを支配しておられる全能者、私達の主であり、主従関係において私達は従、神は主である。
そして神は、ひとり子の命を捨てるまでの愛をもって私達を愛し、私達を自由意志のある「子」として扱われ、たとい、私達の罪によって、せっかくの御業を台無しにしてしまっても、全てを益とし、最善へと導いて下さる、憐れみ深いお方なのだ。

『しかしわたしをここに売ったのを嘆くことも、悔むこともいりません。”神は”命を救うために、あなたがたよりさきにわたしをつかわされたのです。”神は”、あなたがたのすえを地に残すため、また大いなる救をもってあなたがたの命を助けるために、わたしをあなたがたよりさきにつかわされたのです。』(創世記45:5-7)

結局、全てを導いたのは、”神”である。
ヨセフは、表向き兄の手に陥り、奴隷としてひっ立てられて行った形だったが、実は、そこかしこに神の配剤があったのである。
神は、イスラエルの家全体を救うために、ヨセフを先にエジプトへ遣わし、その一連の役割を果たさせるためにヨセフを宰相へと任じた。
それに対しヨセフは、「父や兄を養う」という、神から与えられた使命を果たす為、宰相としての日々の職務を、忠実に全うしたのだ。

人は、お金持ちになったり権力者になったりする事を目標とし、それが達成したとたん神を忘れ、あるいは神をポイ捨てするような所があるが、私達を権力者にも囚人にも導く事のできるお方をこそ恐れ、愛の故にいのちを差し出して下さったお方をこそ、大切にすべきであり、与えらた祝福は、神が愛しておられる兄弟姉妹を養うために用いるべきである。

ポンテオ・ピラトがイエス様に「わたしには、あなたを許す権威があり、また十字架につける権威がある」と言った時、「あなたは、上から賜わるのでなければ、わたしに対してなんの権威もない。」と答えられた。(ヨハネ19:11)
その時、イエス様は誰よりも弱々しく、ピラトが誰よりも強いかのように見えたが、イエス様を低くされたのも、ピラトを高くされたのも、神であり、全ての権威は、上から与えられるものである。

「神のみ名は永遠より永遠に至るまでほむべきかな、知恵と権能とは神のものである。神は時と季節とを変じ、王を廃し、王を立て、知者に知恵を与え、賢者に知識を授けられる。」(ダニエル2:21)
私達はただ、この全能の神にひれ伏し従うのみであり、いのちを差し出す程に私達を愛されたイエスを愛するのみである。

礼拝説教メッセージ音声:宇宙で最も気高く尊い性質(創世記44:18-34):右クリックで保存

兄達は、もし自分達の持ち物の中から杯が見つかったらその者は殺してもかまわない、と約束していたが、いざ、ベニヤミンの袋からそれが見つかってみると、自分達の言った言葉が自分達に刺さる事となった。
イスラエルの民も、律法を「守ります」と約束したけれども守れず、その身に災いを招いてしまったが、イエス様は、そんな罪深い私達の身代わりとなり、神の御前に立って弁護して下さる。
ユダもまた、イエス様のように、ベニヤミンの身代わりとなってヨセフの前に立ち弁護した。

『わが主はしもべらに尋ねて、『父があるか、また弟があるか』と言われたので、われわれはわが主に言いました、『われわれには老齢の父があり、また年寄り子の弟があります。その兄は死んで、同じ母の子で残っているのは、ただこれだけですから父はこれを愛しています』。』(創世記44:19-20)

この時ユダが「あわれんで下さい」「ベニヤミンを赦して下さい」と、同じ言葉で何百回も拝み倒そうとするなら、相手をうんざりさせるだけで何も得られなかっただろう。
ユダはまず、相手を「わが主」、自分達を「しもべ」という主従関係のスタンスを、始終崩さなかった。
そして「わが主は○○と申しました」と、ヨセフが言った言葉を用いて話を展開して行った。

交渉の場面においては、同じ言葉で拝み倒すのは、あまり賢い方法ではない。むしろ、相手が言った言葉を盾に取ると、非常に効果的である。
私達も主に祈る時、同じ言葉で拝み倒すような異邦人がするような方法ではなく、まず、主を主とし、自分は主のしもべとして、主従関係をはっきりさせ、その上で、主の御言葉を盾に取って祈る事が、効果的である。

『われわれはわが主に言いました。『その子供は父を離れることができません。もし父を離れたら父は死ぬでしょう』。しかし、あなたはしもべらに言われました、『末の弟が一緒に下ってこなければ、おまえたちは再びわたしの顔を見ることはできない』。それであなたのしもべである父のもとに上って、わが主の言葉を彼に告げました。』(創世記44:22-24)
ユダは次に、年老いた父がどれほどその子供・ベニヤミンを愛していたか、もしその子に何かあったら、父は死んでしまうほどだと訴えた。

『しもべは父にこの子供の身を請け合って『もしわたしがこの子をあなたのもとに連れ帰らなかったら、わたしは父に対して永久に罪を負いましょう』と言ったのです。』(同32節)
この宰相は自分達と同じ神を恐れる者であるから、愛する父を思って交わした約束という理に適った良きものを、ぞんざいにするような事はするまい、と思ったのだろう。
自分達は確かに宰相との約束はしたが、その前に、自分は父と約束をしており、自分はその子の「保証人」という立場になっている。
だから次の言葉は、有効なのである。

「どうか、しもべをこの子供の代りに、わが主の奴隷としてとどまらせ、この子供を兄弟たちと一緒に上り行かせてください」(33節)

罪を犯していない者が身代わりとなって罪の責を負う「犠牲愛」。
これこそメシヤなるイエス・キリストの性質、宇宙で最も気高く尊い性質である。

かつては、父の見ていない所で気の向くままに悪戯をし、それをヨセフに告げ口されて怒りを燃やし、ヨセフを売り飛ばそうとさえした兄達だったが、今や、彼らは父の見ていない所でも父を心底愛し、ベニヤミンを徹底して弁護する程、大切にしている。
20数年前とは全く逆の性質へ、俗悪な性質だったのが気高く尊い性質へと、変わっていたのだ!
それは、神が介入し、神の訓練の内にこの20数年を送っていたからである。

『すでにすえられている土台以外のものをすえることは、だれにもできない。そして、この土台はイエス・キリストである。この土台の上に、だれかが金、銀、宝石、木、草、または、わらを用いて建てるならば、それぞれの仕事は、はっきりとわかってくる。すなわち、かの日は火の中に現れて、それを明らかにし、またその火は、それぞれの仕事がどんなものであるかを、ためすであろう。
もしある人の建てた仕事がそのまま残れば、その人は報酬を受けるが、その仕事が焼けてしまえば、損失を被るであろう。しかし彼自身は、火の中をくぐってきた者のようにではあるが、救われるであろう。』(1コリント3:11-15)

彼らはこの20数年の間、父祖アブラハム以来据えられた神の約束の土台の上に、金や銀、宝石など尊いもので、自らを建て上げていたのである。
それだから、試練の火によって、黄金のように高貴で気高いユダの性質が、あらわにされたのである。

私達も、陶器師なる主の御手の内に身を任せるなら、俗悪な器から、尊い事に用いられる器へと、日々、造り変えられて行くのである。

礼拝説教メッセージ音声:高貴な人格者の弁明(創世記44:1-17):右クリックで保存

ヨセフの、兄達に対する試験はまだ終っていなかった。
『さてヨセフは家づかさに命じて言った、「この人々の袋に、運べるだけ多くの食糧を満たし、めいめいの銀を袋の口に入れておきなさい。またわたしの杯、銀の杯をあの年下の者の袋の口に、穀物の代金と共に入れておきなさい」。家づかさはヨセフの言葉のとおりにした。』(創世記44:1-2)

兄達はかつて、父親の寵愛を受けたヨセフを妬み、殺意を抱き、売り飛ばそうとしたが、その20年後の今、かつての自分と同じような境遇である末の弟・ベニヤミンに対してそのような仕打ちをしないか、簡単に見捨ててしまったり、父親を悲しませるような薄情さは無いかを知るため、ベニヤミンを家族の元から奪うという形で、試そうとした。

家づかさ達がヨセフに命じられた通りに行った時、兄達は答えた。
「わが主は、どうしてそのようなことを言われるのですか。しもべらは決してそのようなことはいたしません。袋の口で見つけた銀でさえ、カナンの地からあなたの所に持ち帰ったほどです。どうして、われわれは御主人の家から銀や金を盗みましょう。しもべらのうちのだれの所でそれが見つかっても、その者は死に、またわれわれはわが主の奴隷となりましょう」。(創世記44:7-9)

兄達のこの言葉からは、自分達の中には銀の杯を奪う者など100%いない、という確信と、彼等の平素のモラルの高さが、伺える。
ところが、末の弟ベニヤミンの袋からその杯が見つかってしまい、兄達は絶望の極地に突き落とされた。

『ヨセフは彼らに言った、「あなたがたのこのしわざは何事ですか。わたしのような人は、必ず占い当てることを知らないのですか」。』(創世記44:15)
普段から「神」を主語にし、何事も主から示されていたヨセフが占いをしていたはずは無く、単に、自分は何事も見通す者だと兄達に恐れを抱かせるために言ったのであろう。

『ユダは言った、「われわれはわが主に何を言い、何を述べ得ましょう。どうしてわれわれは身の潔白をあらわし得ましょう。神がしもべらの罪をあばかれました。われわれと、杯を持っていた者とは共にわが主の奴隷となりましょう」。』(創世記44:16)
兄弟たちの代表格は、どうやらユダとなっている。
彼の言葉からは、言い訳したり、相手を逆に攻撃したりする意図は一切見られず、兄弟達ともども奴隷となりましょう、と申し出ているが、それは9節で約束した事とは、若干違う。

彼らは9節で、杯が見つかった者は死ぬ、という事を約束していたが、ユダは、ベニヤミンの保証人を父に買っていた為、せめて彼のいのちを守るため、杯を持っていた者と共に自分たちも全員奴隷となろう、と申し出たのである。
またユダは、自分達は20数年前、ヨセフを陥れ奴隷に売ろうとした事を思い、「神がしもべらの罪をあばかれました。」と、神の御前に告白し、自分達がヨセフにしようとしていた事と同じ苦しみに身を投じようとした。
表面的にはエジプトの宰相から災いが与えられているように見えるが、神がこれらの災いを与えられたのだ、と思ったのである。

『ヨセフは言った、「わたしは決してそのようなことはしない。杯を持っている者だけがわたしの奴隷とならなければならない。ほかの者は安全に父のもとへ上って行きなさい」。』(創世記44:17)
ヨセフの応えは、厳しさの中にも憐れみが見える。
杯が見つかった者は約束した通り殺せ、と言うのではなく、その者だけが奴隷となれば良い、という裁定を受け、ユダはさらに真実に満ち溢れた弁明をすることになる。

ユダは、このような災いに遭った時も自暴自棄になったり罵ったりする事なく、へりくだって相手を怒らせず、柔和な対応をもって平和へと導けるまでに成長していた。
かつてヨセフを売る提案をしたり、タマルを焼き殺そうとしたりした、あのユダは、なんという変化を遂げた事だろう。
かつて怒りに任せてシェケムの男子を皆殺し、略奪し、血を分けた弟を殺そうとさえした、あの邪悪だった兄達は、なんと変わった事だろう。
それはみな、主が御手の内で練り清められたからである。
私達も、主にあって整えられるならば、ユダのように、邪悪な者から高貴な人格を持った者へと、造り替えられて行くのである。

礼拝説教メッセージ音声:仮面の食宴(創世記43:16-34):右クリックで保存

『ヨセフはベニヤミンが彼らと共にいるのを見て、家づかさに言った、「この人々を家に連れて行き、獣をほふって、したくするように。この人々は昼、わたしと一緒に食事をします」。』(創世記43:16)

ヨセフには、彼らを捕らえて陥れるつもりは一切無かったのだが、彼らは宰相の家に連れて来られた事に恐れを抱き、あの、自分達に戻されていた銀の事で、自分達は捕らえられてしまうのではないか、と恐れた。
そこで、彼らは予防策として、宰相の家の管理者に、正直に今までのいきさつを事を話した。
すなわち、以前食料を買いに来た時に、支払ったはずの銀がなぜか戻されていた事、その事は自分達には全く身に覚えは無く、誰がそれをしたのか分からない事を。
それに対し、このエジプト人の管理人からは意外な応えが帰ってきた。

『彼は言った、「安心しなさい。恐れてはいけません。その宝はあなたがたの神、あなたがたの父の神が、あなたがたの袋に入れてあなたがたに賜わったのです。あなたがたの銀はわたしが受け取りました」。』(創世記43:23)
なんと、このエジプト人のしもべは、自分達が恐怖のあまり忘れかけていた「神(エローヒム)」を言葉に出し、しかも、彼らの「父の神」がそれをしてくれた、と言ってくれたのだ。

自分達がおそれ、自分達の父もおそれている「神」を、なんとこのしもべは知っており、しかも、支払うべきものを正直に支払う、という「義の対応」をしたら、彼らもしっかり義で返してくれた事から、どうやらこの宰相の家では、上から下まで「神」についての教育がしっかり行き届いているようだ。
兄達は、この家が神を恐れる家であり、また、捕らえられていたシメオンも無事に返された事に、彼らはどれほど安堵した事だろう。

「さてヨセフが家に帰ってきたので、彼らはその家に携えてきた贈り物をヨセフにささげ、地に伏して、彼を拝した。」(創世記43:26)
ヨセフが帰ってきて、真っ先に尋ねたのは、父の安否だった。
そして、同じ母の子であるベニヤミンを20数年ぶりに見た時、「わが子よ、どうか神があなたを恵まれるように。」と、感涙が込み上がり、奥の部屋に行って、そこで泣いた。

どうやらヨセフは、兄達が憎くて意地悪をしたのではなく、本当は兄達と早く平和な交わりをしたい、けれども、兄達の本性や家の様子がまだ明らかになっていないため、敢えて、荒々しい態度を取って試していた、と思われる。
私達も、主から諸々の試練をいただくことがあるが、主は好きこのんで私達を苦しい目に遭わせたり荒々しく対応したりするのではない。
むしろ子として扱って下さるからこそ、敢えて厳しい所を通らされる事もあるのだ。

『そこでヨセフはヨセフ、彼らは彼ら、陪食のエジプトびとはエジプトびと、と別々に席に着いた。エジプトびとはヘブルびとと共に食事することができなかった。それはエジプトびとの忌むところであったからである。』(創世記43:32)
エジプトには牛や羊の神々がおり、それらは特別な動物として庶民は食さなかったが、ヘブル人は平気で飼ったり食したりしてしまうため、エジプト人がヘブル人と食事を共にする事は、忌み嫌われる事だったようである。

『またヨセフの前から、めいめいの分が運ばれたが、ベニヤミンの分は他のいずれの者の分よりも五倍多かった。こうして彼らは飲み、ヨセフと共に楽しんだ。』(創世記43:34)
最初は恐怖に満ちていた兄弟達だったが、最後にはリラックスして共に楽しむ事ができた。

ヨセフとしても、本当は兄達ともっと平和で打ち解けた食卓を望んでいた事だろう。しかし彼はまだ自分の身を明かせず、真の家族の食卓に入れなかった。
まだ兄達の心の内が明らかにされておらず、「試しの期間」が終わっていないからである。

私達も、地上の歩みは、天の食卓にあずかる前の、試験期間である。
まだキリストとの真の食卓には預かれないが、主は、私達が無事この地上での歩むべき道のりを全うし、天の食卓に加わるに相応しく整えられるのを待っておられる。
日々、キリストにあって成長し、働き人として、子として、一日も早く整えられる皆さんでありますように!
イエス様の名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:イエスの手に委ねよ(創世記43:1-15):右クリックで保存

愛する末息子・ベニヤミンをエジプトへ送り出すのを渋っていたヤコブだが、食料も尽き、とうとう決断しなくてはならない時が来てしまった。
そこで進み出たのは、ユダだった。
『ユダは父イスラエルに言った、「あの子をわたしと一緒にやってくだされば、われわれは立って行きましょう。そしてわれわれもあなたも、われわれの子供らも生きながらえ、死を免れましょう。わたしが彼の身を請け合います。わたしの手から彼を求めなさい。もしわたしが彼をあなたのもとに連れ帰って、あなたの前に置かなかったら、わたしはあなたに対して永久に罪を負いましょう。』(創世記43:8-9)

前章では、ルベンが、あの子を連れ戻す事に失敗したら私の二人の子を殺してください、と言って、ベニヤミンを自分に託すように促したが、ヤコブは断った。
対してユダは、自分があの子の保証人になるので、ベニヤミンを託して下さい、と申し出た。

例えば、わたしに事業を任せて下さい、と願い出る二人がいるとして、「もし失敗したら、私は自分の子を殺す所存です」と言う人と、「もし失敗したら、私が一生働いてでも損失を補填します」と言う人と、どちらに任せたいだろうか。
ユダは、後者のような立場を取ったのだ。
保証人を引き受けるとは、もしその人が何か間違いを犯しても、自分が身代わりとなって償いをします、と言うようなものである。
ヤコブはユダの言葉を信頼し、ベニヤミンを彼に委ねる事にした。

ユダは、キリストの先祖であり、キリストの型でもある。
彼は父に対して末息子の保証人となり、弟の身代わりを引き受けたが、私達にもまた、キリストが保証人となって、私達の身代わりを引き受けてくださっておられる。

この時、父は「ヤコブ」という呼び名ではなく「イスラエル」という呼び名を用いられている。
彼は大体の場面において、人間的な行動を取る時はヤコブ(前章)、信仰によって行動する時はイスラエルと呼ばれている。
彼はこの土壇場の時、わずかばかりの信仰を奮い立たせたのだ。

『どうか全能の神がその人の前であなたがたをあわれみ、もうひとりの兄弟とベニヤミンとを、返させてくださるように。もしわたしが子を失わなければならないのなら、失ってもよい」。』(創世記43:14)
イスラエルの口から「全能の神」という言葉を聞いたのは、久しぶりである。
そして彼は、その人(エジプトの宰相)を全能の神が憐れみの内に支配して下さるようにと祈り、また、兄弟達の全行程が守られるよう、祝福を祈った。
やはり家長イスラエルは、こうでなくてはならない。
もっとも、初めからそうしていれば、ユダの言っている通り、もっと早くに解決していたのであるが。

ある女性が、小学校の遠足で、次の事を体験した。
山の中で、吊り橋を渡らなければならなくなったのだが、彼女は怖くて渡れず、彼女の組の生徒が全て渡り終えても、彼女は渡れないままだった。
次の組、そのまた次の組と、生徒たちはどんどん渡って行くのに、彼女だけは、相変わらず渡れない。
そして最後の組みも渡り追え、いよいよこちら側には自分と校長先生のみ、あちら側には自分以外の全部が待っている、という状況になってしまった。
校長先生は「さあ、もう渡らなくてはならないよ。」と言うのだが、彼女は怖くて震えている。
「ほら、手を取ってあげるから、私だけを見て、手をつないで一緒に行こう」と言い、彼女はついに意を決して、恐る恐る、校長先生に手を引かれて一緒に一歩一歩歩み、ついに無事に渡り終える事が出来たという。

今、皆さんの中にも、彼女のような状況の方は、いるだろうか。
ヤコブはいよいよ決断しなくてはならなくなった時、大事な子をユダの手に委ねて、信仰のあちら側へと渡る決心をした。
結果的にユダは、ベニヤミンもシメオンも無事取り戻しただけでなく、死んだと思っていたヨセフも、しかも、王族の接待と膨大な食料や宝も伴って、連れ戻した。

私達も、自分が手放したくなかった事の全てを主の御手に委ねるなら、さらに優れた形で取り戻すのである。
ヤコブにとってかけがえのないものは、末息子ベニヤミンだったが、あなたにとってのベニヤミンは何だろうか。子供だろうか。お金だろうか。何かの願い事だろうか。
それが何であろうとも、主イエスの御手に委ね任せるなら、主は、以前より遥かに優れた復活の形で、あなたの手へと取り戻して下さるのである。

礼拝説教メッセージ音声:早く楽になるためには、手放せ(創世記42:29-38):右クリックで保存

ヤコブの子達は父の元に帰り、エジプトでの事をありのまま話し、そして皆は恐れた。
『父ヤコブは彼らに言った、「あなたがたはわたしに子を失わせた。ヨセフはいなくなり、シメオンもいなくなった。今度はベニヤミンをも取り去る。これらはみなわたしの身にふりかかって来るのだ。(KJVでは、all these things are against me.)」』(創世記42:36)

ヤコブはこの時、自分が大切に握りしめているものが、どんどん指の間からこぼれ落ちて行き、最後の大切な末子・べニヤミンさえ喪失してしまうのではないかという恐れに満たされ、あたかも全ての物事が、自分に敵対しているかのように見えた。

『ルベンは父に言った、「もしわたしが彼をあなたのもとに連れて帰らなかったら、わたしのふたりの子を殺してください。ただ彼をわたしの手にまかせてください。わたしはきっと、あなたのもとに彼を連れて帰ります」。』(創世記42:37)
ルベンは、自分の二人の子供のいのちにかける事で、覚悟を表明したかったのだろう。
しかし「もし失敗したら」という話では、逆に心配を募らせるであるし、万一、ベニヤミンを失ってしまった時に、ルベンの子二人を殺した所で、ヤコブには何の慰めもメリットも無い。

ヤコブはルベンの言葉を拒否して言った。
「わたしの子はあなたがたと共に下って行ってはならない。彼の兄は死に、ただひとり彼が残っているのだから。もしあなたがたの行く道で彼が災に会えば、あなたがたは、しらがのわたしを悲しんで陰府に下らせるであろう」。

ヤコブは昔の生き方に、すなわち、自分の好きなもの欲しいものをつかんで離さない生き方に、再び戻ってしまった。
かつては、最愛の妻も子供も皆自分の元から去らせ、一人、主の御前に出て主ご自身と格闘し、イスラエルという新しい名と祝福を勝ち取った。
それなのに、神を掴もうとする生き方から離れ、世のものをつかもうとする生き方に逆戻りしてしまった。

神の方法は、いつでも死と復活である。
自分を十字架の死へと明け渡し、神から息吹かれる新しいいのちを着せられる「復活」を通して、人は新しく造り替えられ、罪は聖められ、いのちの祝福が与えられるのだ。
なぜ死と復活を経なくてはならないか?
それは、人は生まれながら邪悪で、一旦破棄せねばならないものだからだ。(ローマ3:10-18)

ヤコブは、ベニヤミンを愛していると言うが、それは他人を不幸に陥れる不健全な愛である。
そもそもの家族分離劇の原因は、ヤコブのその偏愛癖からではなかったか。
生まれながらの人間が、良かれと思って為す事は、大抵、どこかしらに歪みがあり、その歪みから誰かの不幸が生まれ、自分の不幸が生まれ、後悔が生まれていくのだ。

自分の願う事の一切を神に委ねて明け渡したアブラハムやイサクには、祝福と備えは、すぐに来た。
アブラハムは最愛の子イサクを捧げなさいと神に言われた時、神が死人の中から人をよみがえらせる力がある、と信じていたため、一日の躊躇もなくイサクを捧げに行き、三日の行程の後、すぐにイサクを取り戻した。
イサクもまた、異邦人に井戸を奪われようとした時、争ったり自分を主張したりする事無く、すぐに手放した所、すぐに別の井戸が主から与えられる、という事が、二度三度あった。

それに引き換え、ヤコブは、かなり長い間、自分の願う事を掴んで離さず、苦しみの期間をいたずらに長く過ごしてしまった。
ヤコブは「握りしめて離さない」という生来の手癖が出てしまい、彼が偏愛していたラケルは奪われ、偏愛していたヨセフも奪われ、今偏愛しているベニヤミンも奪われようとしている。

彼は後に告白している。
『ヤコブはパロに答えた。「私のたどった年月は百三十年です。私の齢の年月はわずかで、ふしあわせで、私の先祖のたどった齢の年月には及びません。」』(創世記47:9)
掴んで離さない人生は、わずかで、ふしあわせで、先祖のたどった年月には及ばない。

私達も、楽になりたいなら、主の前で掴んで離さないものは、すぐに主の前に手放すべきである。
願いも、重荷も、大切にしているものも。
神に愛された人であるなら、神はその人から何もかも強制的に剥ぎ取ってしまった後、今度は、祝福を強制的にゆすり入れて下さるのだ。

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