メッセージ - 主日礼拝カテゴリのエントリ
主日礼拝
宇宙で最も尊い奇跡に居合わせた博士たちの性質(マタイ2:1-12)
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週報/メッセージ(説教)概要
アドベント(降誕節)第三週に入った。福音書記者マタイは、イエス様こそ救い主メシヤ(油注がれた方)である事を証明するために、まず系図を引用し、さらに、イエス様がお生まれになった時に起きた事は、全て、預言の成就だったという事を、多くの箇所を引用して証明している(マタイ1:22,2:5,15,18,23)。
イエス様がお生まれになった時、東方から博士たちが来訪し、エルサレムに来て言った。『ユダヤ人の王としてお生れになった方は、どこにおられますか。私達は東の方でその星を見たので、その方を拝みにきました。』(2節) この博士達は、王のような高い地位だったと言われており、以下の預言の成就と言える。
『起きよ、光を放て…主の栄光があなたの上に昇ったから。見よ、暗きは地を覆い、闇は諸々の民を覆う。しかし、あなたの上には主が輝き、その栄光があなたの上に現われる。国々はあなたの光の内に歩み、王達はあなたの輝きに照らされて歩む。目を上げて、辺りを見よ。彼らはみな集まって、あなたの元に来る…これらシェバから来るものは皆、金と乳香を携えて来て、主の奇しいみわざを宣べ伝える。』(イザヤ60:1-6)
メシヤを示す星が現れた時、博士達は日常の色々な業務を脇に置いて、具体的な行き先も知らないまま、高価な献げ物を携えて故郷を出た。強盗に遭うかもしれないし、ナビゲーションも無い。ただ星の光だけが頼りである。迷子になってメシヤに会えなかったり、途中で死んでしまう危険もある。それでもなぜ来たのか。
博士達は、私達は「拝みに(プロスクネーオ)」来た、と言った。プロスクネーオは「プロス(前に)」+「クオン(犬)」で、犬が喜んで主人の手をしきりに舐める様子から、ひれ伏す、拝む、礼拝する、の意味となった。
ツロ・フェニキヤの女は、「小犬(クナリオン)も、その主人の食卓から落ちるパンくずは頂きます」とイエス様に食い下がったため、癒やしをいただいた。異邦人といえど、小犬のように、主を慕い求め礼拝する人に、主は奇跡を現して下さる。なんとしても主を仰ぎ見たい、という思いをもって、捧げものを準備し、遠くであろうが、どこへ行くのか分からなかろうが、礼拝へと向かう礼拝者を、決してむなしくさせないお方である。
しかし世の中には、メシヤの光を歓迎しない者達もいた。『ヘロデ王はこの事を聞いて不安を感じた。エルサレムの人々もみな、同様であった。』(3節) 光を憎み、恐れ、闇を愛する人の本質は、「悪」である(ヨハネ3:19-21)。ヘロデ王は、王座を脅かす恐れがあるなら、妻であろうと子であろうと、処刑するような者で、その王宮は、彼に取り入って利益を得ようとする者達であふれた魔物の住処のような場所だった。そんな彼らには、預言されていた王など、来てもらっては困るのだ。だからヘロデは、博士達に「自分も行って拝むから、詳しく調査して欲しい」と言いつつ、密かに殺そうとした。しかし主は全て見ておられ、彼にそれが叶わないと分かると、彼はベツレヘム周辺の2歳以下の幼児を皆殺しにするという、大それた事をするのだ。
王宮を出た博士達の頼りは、再び星だけになってしまった。しかしなんと、星が彼らを先導し、幼子のいる所の上に留まったのだ!彼らは、はなはだしく大きな喜びを喜んだ(10-11節直訳)。まさに宇宙規模の喜びである。神が、ご自身を慕い求めて礼拝する人に用意しておられるわざは、人知を遥かに超えている。
万物を支配しておられる神の御子が、密かに、片田舎の馬小屋に赤ちゃんとして降りて来られ、しかも、飼い葉桶に宿られた。これこそ宇宙で最も尊い奇跡である。「家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた」(11節)
このささやかな礼拝は、永遠の記録として残された。彼らはアブラハムのように、行き先も知らず、ただ星の光だけを頼りに出て来た結果、主は、星を動かしてまで導き、赤ちゃんイエス様と出会わせて下さった。
そのかたわら、下心をもって博士たちを利用したヘロデ王は、全ての企みを暴露され、博士たちにも幼子にもスルーされ、怒った挙げ句、その地方の赤ちゃんを全員殺す暴挙に出たが、そのすぐ後に、死んだ。
今、この時代も、闇が覆っており、諸国の民は、闇の中にいる。しかしそんな時代でも、天を見上げ、イエス・キリストの光に導かれて行く礼拝者を、主は、宇宙規模の奇跡と、大きな喜びを用意しておられる。
この時代、私達は、恥じることなく、天を見上げ、主の光に導かれて行こう。どんなに闇が深くとも、主の光は必ず輝き出て、どんなに偽りで塗り込まれようとも、必ず真理が勝利する(ヨハネ1:5)。起きて光を放ち、栄光の歴史を紡いでいく皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!
主日礼拝
重要な子供を主から任される男女の性質(マタイ1:18-25)
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週報/メッセージ(説教)概要
アドベント(降誕節)の第二週に入った。福音書のはじめの、イエス・キリストに至る系図に、神がその民に介入して働かれた歴史が刻まれていた事を、前回見た。時代時代の信仰者が、主と寄り添って生きようとする人生の狭間に、主が働かれたドラマがあり、それが歴史に縫い込まれ、継ぎ足され、そしてその綾織物の絵は、いよいよはっきり主イエス様を浮かび上がらせて行く。主が来られた時代は、ダビデの血筋の王が絶えて14代、ヨセフの代の時だった。イエス・キリストの育ての親となったヨセフとマリヤは、どうしてその役割が任され、どういうドラマがあったのか。今日、重要な子供を主から任される人の性質を学びたい。
マリヤは無名で取るに足りない、一介の処女だったが、主が彼女に、主イエス様を産む母という、この上もなく重要な役割を任されたのには、理由があった。彼女が主から召し出された時、彼女は、しっかりした信仰者のヨセフと結婚の約束をし、貧しくても幸せな信仰の家庭を築いて行こうと準備している最中だった。
そんなある日、突然、天使が彼女に現れ、突拍子もない事を告げられる。あなたはこれから身籠って、男の子を産む。その子にはダビデの王位が与えられ、その国は、永遠に終わる事は無い、と(ルカ1:26-38)。
私達も、主から御言葉をいただいた時、試される。それまでの生き方や、握りしめて来た価値観、人生設計を捨てて、主が示された、人知をはるかに超えた主のご計画へと従うか、従わないか。アブラハム以来、信仰者は皆そうだった。マリヤには、ある日突然、御使いが現れ、その決断を迫られたが、彼女は立派に応答した。「神にとって不可能な事は何一つ無い…。」「どうぞお言葉どおり、この身に成りますように…。」
彼女には、主の言葉や主がなされた事を思い巡らし、そしてそれが、主の御心である、と分かったなら、迷わす、すぐに行動する性質だった。彼女はその後、夫ヨセフから突然「主からのお告げがあった。今すぐエジプトに逃げよう。」と言われた時、迷わずそれに従い、夜の内に出て行った程、従順だった。(2:13)
それ程の高貴な決断をする程の女性だったから、主は、彼女を選ばれたのだ。ヨセフはどうだったか。
ヨセフがマリヤと婚約期間中だった時、自分には覚えが無いのに、婚約者の胎に命が宿っていて、どんどん成長して行く。身籠ったからには別の男性とそれなりの性交渉があった、と普通思う。素晴らしい信仰の女性だと思っていたのに、しかも、自分という婚約者がいるのに。男性として最も怒り、苦しみ悩む所だ。
律法では、婚約中の女性が、婚約者以外の男性と合意して性交渉するなら、二人とも石打ちに処せられる(申命記22:23‐27)。しかしヨセフは、そのように、事を公にして、憐れみのないさばきをするのではなく、ひそかな離縁を決断した。それでも彼は、思い悩んでいた。そんな時、御使いが彼にも現れて、言われた。
「ダビデの子ヨセフよ、心配しないでマリヤを妻として迎えるがよい。」(マタイ1:20) その胎に宿った子は、不貞によってではなく、聖霊によるものである、と…。処女が身籠るという「ありえない」しるしは、預言者イザヤによって告げられていた。また御使いは、その子は主の民を罪から救ってくださる方である、と言った。
ヨセフは、テフィリンされた男性だったので、知っていた。メシヤであられる御方は「ダビデの子孫」として処女から生まれ、その子は、御民の罪の問題を解決し、インマヌエル(神は共にいます方)と呼ばれる事を。
全世界の御民の罪を除く、インマヌエルなる子を産む、という重要な事にマリヤは用いられ、そして自分も、その子とマリヤとの保護者として、用いられるのだ、と、彼は知った。あまりに大きな役割である。そして、これからの人生は、今まで思い描いていたものではなくなる。ヨセフは決断した。主に命じられた通りに、マリヤを妻として迎え入れ、そしてその特別な子が生まれるまで、マリヤを知る(性交渉を持つ)事は無かった。
私達はそれぞれ、自分で考えられる範囲、想像できる範囲で人生を設計し、ささやかな幸せを期待する。
しかし、主が私達・信仰者のためにご計画している事は、私達の心に浮かんだ事の無いもの、突拍子もない程の栄光と尊厳に富んだ事ものである。主がアブラハムに現れた時も、ダビデに現れた時も、そうだった。
ヨセフとマリヤは、このように、自分の善悪判断や計画、あらゆる心配を全部、主の前に降ろし、ただ主の御言葉に従う性質だったからこそ、救い主キリストの育ての親という、唯一の栄誉を勝ち取ったのだ。
これこそ、多くを任され、そして尊い命を主から任される性質である。彼らのように、イエス・キリストの家系の中でも抜きん出た性質を持ち、多くの素晴らしい尊い子供達を、栄光の次世代を、任される皆さんでありますように!栄光の歴史を紡いでいく皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!
主日礼拝
イエス・キリストの系図に入る性質と、除外される性質(マタイ1:1-17)
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週報/メッセージ(説教)概要
全ての人を救う神の御子、救い主イエス・キリストのご降誕を待ち望むアドベント(降誕節)が始まった。
キリストの福音が記されている新約聖書で、真っ先に書かれた内容は、キリストに至るまでの系図であった。
系図に記されている多くの人々の名。これはまさに、神が私達・人の救いに関わって下さった、歴史である。
神はまず、アブラハムに歩み寄られた。彼が75歳になった時、神は「あなたは国を出て、親族に別れ、父の家を離れ、わたしが示す地に行きなさい。」と声をかけ、アブラハムはそれに従った。(創世記12章)
人が神に呼び出され、自分の生来で生きる事を離れ、神に導かれて行く。これが神の贖い歴史の始まり、救い主イエス・キリストへ通じる栄光の系図の始まりで、その性質をイサク、ヤコブ、ユダが受け継いで行く。
このマタイの系図の特徴的な点は、本来なら入るはずもない女達も、系図に加えられている所である。
ユダが異邦の女と結婚してアブラハム以来の信仰の家系を絶やしそうになった時、タマル(3節)は遊女の格好までしてユダとの間に子をもうけたが、子を残す営みを侮った異邦の女の子供達は家系から絶えた。
「サルモンはラハブによるボアズの父」(5節a) ラハブは本来、滅ぼされるべきカナンの遊女だったが、罪にまみれた都の中から、神の民にあこがれ、主は彼女のあこがれを天から見ておられ、イスラエルの二人の斥候を彼女の家へ遣わした。その時、ラハブは彼らに「あなた方の神、主は上の天にも、下の地にも、神でいらせられる」(ヨシュア2:11)と告白した。それで彼女は、罪深い都が滅ぼされる時、一緒に滅ぼされる所を免れ、救われ、ユダの子孫サルモンと結婚して、栄光の家系へと入った。そうしてボアズが生まれた。
「ボアズはルツによるオベデの父」(5節b) ルツも、本来イスラエルに加えられてはならないモアブの女だったが、彼女の義理の・母ナオミから、イスラエルの神を教えられ、この神にあこがれ、「あなたの民は私の民、あなたの神は私の神です。」と告白し、神の民の中に入って来た(ルツ記1章)。ルツがナオミのために落ち穂を拾いに行く時、神は彼女をボアズの畑へと導き、そうしてルツとボアズは出会って、結婚した。
こうしてオベデが生まれ、エッサイが生まれ、そしてダビデ王が生まれた。まことに主は、全人類一人一人の思いを読んでおられ、その心が主と一つになっている人に、御力を現して下さるのだ。(2歴代誌16:9)
「ヨラムはウジヤの父」(8節)と記されているが、第2歴代誌22-25章を見ると、ヨラムとウジヤの間には、アハズヤ、ヨアシュ、アマツヤの3人の王がいたはずだが、彼らはこの系図から、除外されている。
アハズヤは、主に逆らう母の助言に従って主を捨て、殺された。ヨアシュは、祭司エホヤダの助言通り生きていた時は大いに栄えたが、祭司が死んだ後、主に従わない者の助言に従って主を捨て、謀反にあって殺された。アマツヤは、初めは主に聞き従って祝福されたが、傲慢になって偶像礼拝するようになり、預言者にも逆らい、謀反にあって殺された。これらは、栄光の系図から、名前を除外されてしまう性質である。
「ヨシヤはバビロンへ移されたころ、エコニヤとその兄弟たちとの父となった。」(11節) 実際にはヨシヤとエコニヤの間や後にも王がいるのに、彼らも系図から除外されてしまっている。いずれも除外されて然るべき性質だったからだ。系図に載っている王達も、途中から傲慢になって主を怒らせたり、あるいは、初めから終わりまで主に逆らって、主を怒らせた王の世代が、ずっと続いたので、ついに、バビロン捕囚となった。
バビロン捕囚以降、イスラエルの王座につく者は、今に至るまで、一人もいない。しかし主の恵みは、ずっと注がれ続けていた。旧約聖書最後のマラキ以降、預言者は途絶えて四百年、民は神を求め、救いを求める祈りが積まれ、それが天に達した時、ついに神は、ダビデの子孫からイエス・キリストをおこされた。
『アブラハムからダビデまでの代は合わせて十四代、ダビデからバビロンへ移されるまでは十四代、そして、バビロンへ移されてからキリストまでは十四代である』(17節) 十四は、ヘブライ語のゲマトリアではダビデの数字で、ダビデの名の意味は、「愛された」である。すなわち主は、アブラハムからダビデの時代も、また主に反逆し続けた歴代の王たちの時代も、バビロン捕囚の暗黒の時代も、主の民をずっと「愛され」続けたのであり、その究極の愛の形として、イエス・キリストを、赤ちゃんとして、この世にプレゼントされたのだ。
イエス・キリストの系図。この系図にいたはずの名が除外されてしまっていたり、本来系図に入るはずもなかった名が記されていたり…。これは、私達へのメッセージである。自分の生来に生きる事を止め、主にあこがれ、神の言葉に導かれて生きるなら、私達もその系図に加わる事ができる。しかし神を軽んじて生きるなら、除外されてしまう。イエス・キリストの家系に入り、栄光の歴史を紡いでいく皆さんでありますように!
主日礼拝
主の完全なる時間空間の支配権(エズラ1:1-8)
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週報/メッセージ(説教)概要
前々回はイザヤ45章から恵みを頂いたが、本日はさらに色々な箇所から、主の驚くべき御業を見たい。
BC539年、クロスは労せずバビロンを制圧して手に入れたが、その事は200年も前から、イザヤを通して正確に預言されていた。クロスが軍隊を率いてバビロンに来た時、当時のバビロンの王・ベルシャツァルは、バビロンの強大な城壁や、鉄のかんぬきがかかった青銅の扉、また、大きな船さえ行き来できる巨大な堀に、また、ふんだんに蓄えられた食料に安住し、クロスを甘く見ていた。実際クロスも、これを見て、「これほど巨大で、これほど高い防壁に囲まれた都市を強襲して陥落させる事など誰にできよう」と、弱気になった(キュロスの教育7章7節)。 ところが、バビロンはたった一晩で、クロスによって陥落させられる。
驚く事に、その時の様子も、また彼が取った戦術も、200年前に、正確に預言されていた。『わたしは、わがしもべの言葉を遂げさせ、わが使の計りごとを成らせ…、また淵については『乾け、わたしはあなたの諸々の川を干す』と言い、またクロスについては、『彼はわが牧者、わが目的をことごとくなし遂げる』と言い…。』(イザヤ44:26-28) 実際にクロスが取った戦術は、堀へ流れ込む川々の流れを変え、干上がらせ、乾いた川底を通って城内に侵入する、というものだった。だがそれは、危険な賭けだった。川底を通っている所を見つかって、上から矢を射掛けられては、ひとたまりもない。ところがその晩、見張り達は、眠っていた。
その事も正確に預言されていた。 『わたしはその君達と知者達、長達、司達、および勇士たちを酔わせる。彼らは長い眠りにいり、目をさますことはない。万軍の主と呼ばれる王がこれを言わせる。』(エレミヤ51:57)
つまりその晩、バビロンの兵士は、敵が侵入して来たのに、上から下まで酔いつぶれて眠っていたのだ。
その日、ベルシャツァル王は、盛大な宴会を開き、不遜にも、イスラエル神殿の聖なる器をあえて使って酒を飲み、城門は開いたまま、王達は腰紐を解いて裸同然で、まさにイザヤ45:1に書かれた状態だった。
その晩、ベルシャツァルの前に突如指が現れ、文字を書いた。唯一ダニエルがその文字を解き明かした。
その文字は『メネ、メネ、テケル、ウ・パルシン』、意味は「神はあなたの治世を数えた。数えた。終わらせた。はかりで量ったが、目方は足りなかった。あなたの国は分割され、メディヤとペルシヤへ与えられる」である。
ダニエルはこの解き明かしをした事で、第三の権力者に任じられた。その直後、クロスが攻め入り、ベルシャツァルは殺された(ダニエル5章)。クロスは、バビロンから抵抗らしい抵抗も受けず、ほぼ無血でバビロンを制圧したが、エレミヤはこれを見ていたかのように預言していた。『バビロンの勇士達は戦いをやめて、その城にこもり、力はうせて、女のようになる。その家は焼け、その貫の木は砕かれる。』(エレミヤ51:30 )
クロスは、このバビロンという強大な城塞都市を、あまりにたやすく制圧し、町々も財宝も人々も、その繁栄も、戦争で破壊される事なく、きれいな状態で、そっくりそのまま自分のものとなった事に、驚いただろう。
さらに、ダニエルから聞かされた預言の言葉に、さらに驚愕しただろう。なんと200年も前に、自分の名も、取った戦法も、バビロンの様子も、全部、預言されていた通りだったのだから。そこでクロスは、勅令を出す。
『ペルシャ王クロスはこのように言う、天の神、主は地上の国々をことごとくわたしに下さって、主の宮をユダにあるエルサレムに建てることをわたしに命じられた。あなたがたの内、その民である者は皆その神の助けを得て、ユダにあるエルサレムに上って行き、イスラエルの神、主の宮を復興せよ。』(エズラ1:2-3)
今回言いたい事は、私達の神は全能で、そのタイミングは完璧であり、人の悪がどんなに増大し、主を冒涜するような王がいかに栄えているとしても、主は、その者の日数を数えており、その者が「目方が足りない」と判定された時、その者は取り去られる。彼が蓄えた富も、栄光も、建てた町々も、主があらかじめ定められた人、すなわち、主の御旨を成そうと意欲がある人へと、そっくりそのまま渡すために、その人の前のでこぼこ道を平らにし、青銅の扉を砕き、鉄のかんぬきをへし折っておられるのだ。私達は、世界の基の置かれる前から、キリストにあって選ばれており、御前できよく、傷の無い者として、あらかじめ定められている(エペソ1:3-5)。今、私達は、主の御旨を成そうと、意欲的であるべきだ。主はそういう人に、多くを任される。
主から多くの富や権威が与えられたとたん、それを我が物として欲しいままに用いてはならない。今、私達は、主から用いられる事に、心備えすべきだ。もし、労せずに主から栄光や富が与えられたなら、クロス王がしたように、破壊された礼拝を復興するため、散らされた神の民を呼び集め、御言葉教育を再建するために、それらを用いて、援助していく皆さんとなりますように!イエス様のお名前によって祝福します!
ダビデとソロモンの蓄えをたった5年で散財してしまった、御言葉教育を受けずに育ったノン・テフィリン世代(出エジプト記13:8-9)
- カテゴリ :
- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 主日礼拝
- 執筆 :
- pastor 2020-11-1 15:50
主日礼拝
ダビデとソロモンの蓄えをたった5年で散財してしまった、御言葉教育を受けずに育ったノン・テフィリン世代(出エジプト記13:8-9)
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ユダヤ人が最も大切にしている四つのテフィリン本文の内、全部に共通した内容は、「御言葉を手につけてしるしとし、目の間に置いて記念としなさい」、「子供によく教え込みなさい」の二つである。御言葉を子供によく教え込み、暗唱させる事が、どんなに大切であるか。今回、ソロモンとその子から戒めを受けたい。
初期のソロモン王は、富においても名声においても世界的な”成功者”だった。彼が主と共に歩み、主の命令を守り続けている限り、どんどん栄えて行った。しかし彼は、多くの異邦の女と結婚し、彼女達の声に従って、異教の神殿を次々と建て、預言者からの二回にわたる警告も無視して、それ以降、彼からは祝福がどんどん離れ、晩年の彼は、どんなに贅沢をしても、「全てが虚しい」と言うようになってしまった。だから私達も、連合する相手、生活や仕事を共にする相手には、よくよく気をつけるべきで、飲まれてはならない。
ソロモンの後に王権を引き継いだのが、彼とアモン人の女ナアマとの間に生まれた子・レハブアムだった。
彼が王となって最初に民からの相談を受けた時、彼は、長老からの助言を退け、『私の小指は父の腰よりも太い。父はあなた方に重いくびきを負わせたが、私はさらに、あなた方のくびきを重くしよう。父はむちであなた方を懲らしたが、私はさそりをもってあなた方を懲らそう。』 という、若者達の愚かな助言を採用した。
彼は王座から荒々しく威張り散らした瞬間、さぞや、スカッとしただろう。しかし、その「一瞬の爽快感」の代償は、計り知れず大きかった。この、たった一つの暴言が、代々築き上げて来た信頼を壊し、家庭を壊し、国家を壊し、そしてこの言動の故に、イスラエルの10部族は彼を見限って、南北王朝分断の長い歴史が始まってしまった。その影響で、今も失われた10部族がどこにいるのか分からない。たった一つの言動が、取り返しのつかない喪失になってしまう事はあるが、御言葉を蓄えている人は、それをうまく回避する。
一体なぜ、こんな器の者が、イスラエルの王になってしまったのか。ソロモンに何百といた子達には、彼よりまともな者は、いなかったのだろうか。ソロモンは、告白している。彼が労苦して得た財産を、後世のために残さなくてはならないのは「虚しい」、と(伝道者の書2:18-19)。普通、自分が築き上げた財産は、喜んで子に受け継がせるのだが、ソロモンが「虚しい」と言ったのは、おそらく、ソロモンにいた何百もの子供達の内、財産を相続してやるに値する子が、一人もいなかったのだ。彼は多くの事業に手を広げ、千人もの妻や妾の多くは、異邦の女だったので、とても子供に霊的な御言葉教育をするどころではなかったのだろう。
レハブアムの場合、ダビデ・ソロモンが築き上げた莫大な富と信頼を、なんと、5年でだめにしてしまった。
『エジプトの王シシャクはエルサレムに攻めのぼって、主の宮の宝物と、王の家の宝物とを奪い去った。すなわちそれらをことごとく奪い去り、またソロモンの造った金の盾をも奪い去った。』(2歴代誌12:9)
こうしてソロモンが貿易や事業して蓄えた金銀は、たった5年で、あっさりエジプトに奪い去られてしまった。
結局主の民は、兵器や力を蓄える事でなく、主の言葉に従う事が堅固な防備となるのだ(詩篇127:1-2)。
ダビデからわずか3代で、こんなにも落ちぶれてしまうのか、と、驚くかもしれないが、そういうものである!
親の信仰がどんなに優れていても、子供への御言葉伝授を怠るなら、子は、この世の流儀に飲まれ、主を恐れる事を知らず、真理の道にかなわぬ事を続け、あっという間に親の蓄えを散財し、落ちぶれてしまう。
親として、子供にしてやれる最高の事とは、何だろう。お金を蓄える事だろうか。塾や習い事で能力を伸ばしてやる事だろうか?もし、子供が神を恐れず、わきまえがないなら、親がせっかく築き上げた諸々は、全て無駄になってしまう。結局、親が子供にしてやれる最高の事は、御言葉伝授に他ならない。
だから今こそ、信仰継承を2500年も成功し続けて来た、ユダヤ人流の、御言葉暗唱教育に立ち返るべきなのだ。この教育で、ユダヤ人が最も大切にした事は、昼も夜も御言葉を口ずさみ、子供に御言葉を伝授する事だった。主の命令は、子供に御言葉を暗唱させ、脳に心に刻み込む事であり、それによってのみ、信仰継承は成功する。ユダヤでは、モーセ五書を13歳で暗唱した子をバル・ミツバー(御言葉の息子)と呼び、成人として認めるが、そういう子は親を離れても、環境が変わっても、決して信仰が離れる事は無い。
今、天声とエクレシアは、共にテフィリン学校や幼稚園を建てるために、祈り、実際に働きかけている。
この時代、この日本に、御言葉の子供たちを起こし、立て上げ、増やして行くために、権威においても経済においても大いに祝福されていく皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!
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主から多くを任せられるために備えをせよ(イザヤ45:1-8)
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週報/メッセージ(説教)概要
御言葉は、全て、「その通りになる」と信じて掴む人が、その御言葉の実体を得ている。天の御国は、バプテスマのヨハネが、イエス様こそ救い主だと示して以降、祝福を激しく奪い取ろうとする人によって奪われている。今、私達もイエス様に激しく求め、御言葉の祝福を、日本一勝ち取る者でありますように!
今日の箇所は、天声では、祈り会ごとに宣言しているが、ここはどういう箇所だろうか。
1節を見ると、これはクロス王に対して語られた言葉だと分かるが、私達・御言葉を信じて宣言する者にもその実体が与えられる。「油そそがれた者」のヘブライ語はマーシーアハ、メシアの事で、イエス様こそ真にメシアであり、そして今、私達イエス様を信じる者も聖霊が与えられ、それぞれが「油注がれた者」である。
また、この箇所が私たちのものであるという根拠は、「わたしは主(アニ・ヤーウェ)」という「主の印鑑」である。契約を交わす時、双方が自分の名のサインや印鑑を押して「これは確かです」と示すように、「アニ・ヤーウェ」は、神様がご自身本人をあらわす印鑑(サイン)のように用いておられる事を、コーエンで学んだ。
主の印が押された所に、「わたしも!」と自分の名を入れるなら、その御言葉の効力が「わたし」に対して発揮されるようになる。パウロも、働く牛の口にくつこをしてはならない、という動物規定を、これは牛のためだけでなく、むろん私達のため!と宣言したように、私達も、御言葉の約束を「それ、私の!」と言うべきだ。
早速、__の部分に自分の名前を入れて、宣言してみよう。『わたしは__の前に行って、諸々の山を平らにし、青銅の扉をこわし、鉄の貫の木を断ち切り、__に、暗い所にある財宝と、密かな所に隠した宝物とを与えて、わたしは主、__の名を呼んだイスラエルの神である事を__に知らせよう。』(2-3節)
世の仕事も、家庭も、諸々の山のでこぼこ道を進んで行かなくてはならないのが、世の常だが、御約束を信じる神の民は、主があらかじめ平らにして下さった道を進んでいくのだ。世の側が、現実や状況が、どんなに青銅の扉、鉄のかんぬきで固く閉ざしていても、主が先に行って、それらをへし折っていて下さるのだ。
世の中には、主が隠し秘めておられる宝が存在する。それは、世の人には誰も見つけられないが、神の栄光をあらわそうという気持ちがみなぎっている人が得るように、主は取っていて下さっている。その宝をその人が得る理由は、3節後半に書いてある通り、主がアニ・ヤーウェである事を、世に知らせるためだ。
ただ、やみくもに「下さい、下さい」では、だめである。隠された宝を得たなら、それを全て主に明け渡す覚悟は、できているだろうか??主の側は、これらの宝を、求める神の民にあげたくて、あげたくて、いつでも準備万端なのに、残念ながら、あげるに値するだけの「整えられた人」が、あまりにも、いないのだ。
その宝を受けた途端、アニ・ヤーウェのために用いる事を忘れ、この宝はわたくしのものです、誰にも渡しません、と、良くない事をしでかす輩が、あまりに多いので、与えられるケースが実に少ないのだ。
準備するべきである!この与えられた宝は、わたしのものでなく、アニ・ヤーウェに栄光を捧げるために用いるものです、と、今の内から、はっきりシュミレーションしておくべきだ。「わたしはあなたに肩書を与える」(4節)とある理由も、「ヤコブのため、イスラエルのため」と書いてある。つまり、神の民のためなのだ。
クロス王は、いとも簡単にバビロンに勝ち、秘められていた財宝を得たが、彼は実に正しくそれを用いた。
『ペルシャ王クロスはこのように言う、天の神、主は地上の国々をことごとくわたしに下さって、主の宮をユダにあるエルサレムに建てることをわたしに命じられた。あなたがたの内、その民である者は皆その神の助けを得て、ユダにあるエルサレムに上って行き、イスラエルの神、主の宮を復興せよ。』(エズラ1:2-3)
私達も主から栄光の富を頂いたのであれば、主の宮の復興のために用いるべきだ。そのためにこそ得た肩書きと富である。また、復興する気がある人をこそ援助すべきで、その気がない人は援助すべきでない。
主が私達に力を帯びさせて下さる理由は、アニ・ヤーウェ以外には神はいない事を、世に知らしめるためだ、と書いてある(5-6節)。今、私達がトランプ大統領が再当選するように祈っているのは、今の所、主が主である事を世界に知らせ、巨大な悪に立ち向かえるリーダーは、主を敬うトランプ以外にいないからだ。
私達もまた、主こそ神である、という事を、世に知らせていくリーダーとなり、また子育てをして行くべきだ。
今、私達は、主から多くを任せられるために、準備し、心備えするべきである。その時は、近づいている。
秘められている財宝や、隠された宝が与えられたら、どう御国のために活用すべきか、しっかり今の内から心備えをし、多くを任せられるに値する皆さんとなりますように!イエス様のお名前によって祝福します!
主日礼拝
大いなる祝福を受ける準備は出来ているだろうか(申命記6:10-19)
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週報/メッセージ(説教)概要
今回の箇所は、ユダヤ人が毎日宣言しているシェマー本文(第三テフィリン本文)の直後に記されている、テフィリンを守った人に約束している祝福の内訳である。すなわち、テフィリンする人には、自分で建てていないあらゆる良い物が満ちた町々や家々、掘らなかった井戸、植えなかったぶどう畑やオリーブ畑を得、食べて、満ち足りる…。誰もがうらやむ内容だが、それを得た時こそ、気をつけなくてはならない、と言われている。その祝福が与えられるのは、その人をリッチにして安住させるためではなく、むしろますます主を敬い、主と共に歩み、与えられた良いものを用いて、主の栄光を世界へとあらわし伝えていくためである。
大きな祝福は、それを受けるに値すると主が判断した人に、すなわち準備が整えられた人に与えられる。
ユダヤ人は毎日テフィリンし、祝福の法則である御言葉を心と脳に刻みつけている。だからこそ、知能が祝福され、大いに富まされ、少人数であるのに、世界をほぼ牛耳っている。それでいて、表舞台で直接支配するでなく、また羽目を外して豪遊するでもなく、むしろ、得ている富を秩序正しく用い、諸々の良い事業や活動で世界に貢献している。それは彼らは、幼い時からテフィリンしていて、「整えられていた」からだ。
初期のソロモン王は、なぜ、豊かな知恵が与えられ、富において、名声において、世界にとどろく”成功者”となったのか。それには理由がある。主が彼に、『あなたに何を与えようか、求めなさい』と言われた時、「知恵」が与えられるよう願って、主に喜ばれた事は知られているが、その「知恵」の内訳は「シャマーの心(聞きわける心、従う心)」であり、彼がそれを求めた動機も、ただ自分のためではなく、王として、神の民を正しく取り仕切り、何が正しく、何が間違っているのかという、わきまえを得るためであった。(1列王記3章)
知恵の本質とは何か。正しい「取り仕切り」は、どうすればできるか。それは、自前の知性を高めて思考するのではなく、シャマーする心、すなわち、主から聞き、御言葉から聞き、聖霊から聞き分け、聞いたら、それに従う心、である。それによって、私たちに日夜来るさまざまな物事を、正しく取り仕切る事ができるのだ。
上から与えられる知恵、すなわち主のアドバイスこそ、価値あるものであり、地上に生きる自分由来の判断は、糞土である。パウロは、イエス様の知識の素晴らしさを知ってしまった以上、自分に生まれ持って与えられた、人間的な知恵や血筋、熱心は、損だ、損どころか、糞土のようだ、とさえ言った(ピリピ3:7-9)。
知るべきである。自分由来の判断や、知恵、知識、経験は、糞土だと。ただ主イエス様に由来する、上からのアドバイスこそベストであり、何よりも尊く、それに「聞き分ける心、従う心」こそ、主に喜ばれる。それを私達も求めるなら、ソロモンのように、こちらが求めてもいないのに、力も、富も、勝利も、主が与えて下さる。
そうして、それらの祝福が与えられたなら、主から離れず、主と共に歩み続けるべきである。『もしあなたが、あなたの父ダビデの歩んだように、わたしの道に歩んで(ハラク)、わたしの定めと命令とを守るならば、わたしはあなたの日を長くするであろう」。』(1Ki3:14) 主と共に歩み(ハラク)続ける。これこそ、主から知恵や力、富、栄誉が与えられ続ける秘訣である。そうするなら、栄えといのちは長く続く、と主は約束された。
ソロモンは、主の御声に聞き従い(シャマー)、主と共に歩み(ハラク)続ける限り、どんどん栄えて行った。
しかし残念ながら、彼は、後にイスラエルに偶像礼拝を導入し、虚しさの極みで人生を終わってしまった。
一体何が、彼をそんなに悪くしてしまったのか。それはずばり、異邦の女との結婚である。結婚とは相手と一つからだとなる聖なる契約であり、相手と一つ価値観となり、共に同じように生き、共に同じ永遠の家へ行く決意をもってするべきものだ。だから私達は、一つとなって連合する相手によくよく注意すべきである。
主は、多くのことを任せるに値すると判断した人に、多くを与えられるが、整えられていない人に大きな事を任せる事は、なさらない。聞き分ける心、従う心をもって、小さな事への忠実を積み重ねて行く人に、主は徐々に大きな事を任せ、地位において、富において、富んだものとなって行く。
しかし、富を得たとたんソロモンのように傲慢になり、欲望に身をまかせ、連合してはならない相手と一つになったり、主に聞き従うのでなく連合相手に聞き従っていくなら、ソロモンのように祝福を失い、全てが虚しくなってしまう。私達は今から、しっかりシュミレーションし準備しておくべきである。自分で建てなかった町々や家々、掘らなかった井戸、植えなかったぶどう畑やオリーブ畑を得た時こそ、それを用いて、さらに主に従順し、大いに栄光を捧げていく皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!
主日礼拝
主のテフィリン命令(出エジプト記13:1-10)
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週報/メッセージ(説教)概要
世界で同時に行っているテフィリンは、出エジプト記に入った。このプロジェクトでは、聖書全巻の中から重要な箇所、1189節を抜き出してテフィリンするものであるが、出エジプト記からの箇所は、十戒が宣言された20章と、今実践しているこの13章である。出エジプト記13章が重要な理由は、ユダヤ人が身に着けているテフィリン箱に納められている4つの聖書箇所の内、2つが、この出エジプト記13章にあるからだ。ユダヤ人の子供はモーセ五書5845節を全て暗唱するが、その前にまず、このテフィリン本文を暗唱してからモーセ五書に入る。今回、テフィリン(御言葉暗唱)がいかに重要で、必要であるのかを見ていきたい。
テフィリン本文の第1番目の箇所は、出エジプト記13:1-10で、ここのキーワードは「救い」である。ユダヤ人は、自分達は世とエジプトから「救われた者達」という事を覚え、過越祭で毎年、種を入れないパンと小羊を食べて、また日々、この箇所を暗唱する事によって 主の救いを記念し、感謝を捧げ、そして自分達は、主へと捧げられた民だ、という意識を、いつも持っている。 彼らが御言葉暗唱をするようになったのは、バビロン捕囚以降だった。彼らが捕囚され、離散の民となってしまった理由は、御言葉が体質化されていなかったからだ。御言葉がその人の中に無いと、すぐ主を忘れ、主から離れてしまう性質が、誰にでもある。
そこで、テフィリンが開発されたのだ。開発者はエズラで、彼は、思考や生活と、御言葉とを一体化させる「テフィリン教育」を確立したが、テフィリンの力はすさまじいものだったと歴史が証明している。ユダヤ人はバビロン捕囚以降、2500年もの間、あちこちに離散し、虐待されながら生きて来たのに、むしろその先々で栄え、富を得て、そして1948年、国の再興が2000年ぶりに実現した。これは奇跡としか言いようがない。
ひるがえって、キリスト教は、どうだったか。ヨーロッパはかつて、キリスト教が熱かった時期があったのに、今や廃れてしまった。あれほど熱心に世界中に宣教師を送って伝道し、教会を建てたのに。現在、韓国も同じジレンマに陥っている。弟子訓練の方法や教会学校、バイブルスタディの方法論は非常に洗練されているのに、子供や若者の教会離れが凄まじい。日本も、Youtubeやインターネットを通して、いくらでも有名な先生のメッセージが見聞きできるのに、キリスト者は相変わらず弱いままで、福音が浸透して行かない。
これは、御言葉暗唱をしない事が一番の原因である。事実、経典を暗唱しているイスラム教やヒンズー教は、どんどん勢力が増していて、方向性にもブレが無いのに、暗唱が無いキリスト教は、生活でも政治でも、御言葉の基準を捨て、世の中のトレンドや、人受けする事に媚びて、身勝手に判断し、同性愛も中絶も良しとし、御言葉からどんどん離れて、子供への信仰継承は崩れ、衰退の一途を辿ってしまっている。
結局、衰退の理由は、バビロン捕囚前のイスラエルと同じである。御言葉暗唱せず、御言葉と一体化されていないと、どんなに教会のシステムを改善しても、世の誘惑に晒されたら、そちらに行ってしまうし、どんなに頑張っても、スマホやインターネットにある、もっと面白い、誘惑的な情報へと流されていってしまう。
結局、御言葉にではなく、「自分よかれ」に支配されていると、世の誘惑に100%、負けてしまうのだ。
しかし、テフィリンで御言葉を蓄えている人は、本人の中にある御言葉が、自動防御システムとなり、世の誘惑を自動で跳ね除け、また人生を導くナビゲーションとなり、自動的に成功パターンで生きるようになる。
事実、暗唱している子供は、世の誘惑を撥ね付け、たとえ自分に不利だと分かっていても正しい事を選ぶようになった。親が四六時中見張っていなくても、彼らの中に入った御言葉が彼らを指導しているのだ。
御言葉は、光と闇の定義を明確にする。これを日々暗唱すると、世のあらゆる道に対処する術を身に着けられる。事実、イエス様がサタンの誘惑に勝利したのは、奇跡や超自然的パワーによってではなく、全部、御言葉によってだった。これは、私達もそれに倣って御言葉を暗唱して対処するように、と示している。
テフィリンして御言葉の剣を宣言する事こそ、悪魔サタンの惑わしや誘惑に勝利できる唯一の方法なのだ。
テフィリンによって、御言葉が持っている聖なる品性を、私たちの思い、心、意思、感情、霊、魂の中に蓄え、染み着かせ、イエス様の完全な道に歩み、その御言葉の爆発的な力で歩む皆さんでありますように!
また、テフィリンによって蓄えた御言葉の剣を、的確な時・的確な場所で振るい、悪に勝利し、この世を支配していく皆さんでありますように!そうして宣言した御言葉がどんどん実体化して行くのを体感し、勝利パターンを身につけ、それによって織りなされてゆく世界の主人公となっていく皆さんでありますように!
主日礼拝
イエス様の復活によって完成した完全な安息(創世記2:1-3)
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週報/メッセージ(説教)概要
『こうして、天と地とそのすべての万象が完成された。』(創世記2:1) 完成と訳された語カーラー כָּלָהには「完了した」「完成した」「終わった」の意味がある。神様が創造した全被造物は、あらゆる点において完璧であったが、最後に人を創造して被造物の中へ入れられた時、神は「非常に良い!(トーブ・メオド)」と大喜びされ、ついに完成を宣言し、安息に入られた。神様は、人が、神様が創造した素晴らしき被造物の中、御言葉を守る「完全な者」として、神様と共に歩む時、「非常に良い」と言って安息されるのである。
しかし悲しいことに、その完成し完了したものは、人が神様の言葉を破った故に、破壊されてしまった。
人が神様の言葉を破って、善悪を知る木から食べた故に、被造物も呪われてしまい、土地は茨やあざみを生えさせ、人は一生、額に汗し、労しながら糧を得なくてはならなくなってしまった。こうして人と全被造物は「非常に良い」から離れてしまい、いのちの木への道も封鎖された。この呪われてしまった被造物と人間を、完全な、欠点の無い状態にする事ができるものは、天にも、地にも、地の下にも、誰一人いなかった。
しかし、ユダ族から出たしし、ダビデの根であられるイエス様が、十字架上でほふられた事によって勝利を得られた。彼はほふられて、その血により、あらゆる部族、国語、民族、国民の中から、神のために人々を贖い、神のために彼らを王国とし、祭司とされ、地上を治めるようにされたのである。(黙示録5章)
イエス様は、十字架上でほふられ、彼の地上における贖いの働きが完成した事を知ると、聖書が成就するために、「わたしは渇く」と言われ、酸いぶどう酒を受けられた。この酸いぶどう酒は、人の有り様を示している。神様が六日かけて素晴らしい世界を構築し、その”ぶどう園”に人を置き、彼らが甘い実を結ぶのを期待されたのに、人は罪を犯し、神様に対して酸いぶどうを実らせるようになってしまった。(イザヤ5章)
イエス様は、罪を犯して酸っぱくなってしまった私達の人生を、すっかり飲みつくされた。彼は酸いぶどう酒を受けられた時、「完了した(テテレスタイ)」と宣言をされた(ヨハネ19:30)。このテテレスタイというギリシア語は、あの創世記二章の宣言、すなわち、神様が全被造物を欠けのないものとして創造し、完成された時の宣言と同じであり、「完了した、」「成就した」「終わった」「(借金などを)完済した」等の意味がある。
イエス様は、人の酸っぱくなってしまった有り様も、被造物の酸っぱくなってしまった有り様も、十字架の上で、全て受けられた。そして「完了した」と宣言し、安息された。そうして十字架の日・第六日目は、日没となり、第七日目・安息日が始まった。そして夕があり、朝があった。そして第八日目、新たな事が起きた。
第八日目、すなわち日曜日、主日。イエス様は、復活された!以前のものは過ぎ去り、もはや、この世界の時間や空間に制約されない、全く新しいいのちとして。以降、主は、主日に現れるようになる。週の初めの日(日曜日)、主は弟子達やトマスと会い、ヨハネは主日に主から啓示を頂き(黙示録1:10)、また初代教会の聖徒達も主日に主の名の元に集い、パンを割き、御言葉を聞き、聖徒の交わりを行った(使徒20:7)。
またパウロは、週の初めの日すなわち日曜日に、献金を集めて置くように、と言っている。(1コリント16:2)
それで私達も、主日に、主と会うために集い、礼拝し、御言葉を聞き、パンを割き、献金を集め、そして主と共に安息するのだ。
律法の決まり事や安息日は、次に来るものの影であって、本体はキリストにあるのだ(コロサイ2:16-17)。
この世界の、最初の天地創造のみわざは、既に「終わっている」(ヘブル4章)。終わってしまっているからには、人がひと度破壊してしまったこの天地万物に、新たに修正を加える事は、できない。そこで神が取られた方法は、この、修復不能の天地万物はもはや過ぎ去らせ、もはや呪われるべきものの一切ない、新天新地を創る事である。そこには、神の言葉を意図的に反する人は一人も入れない。ただイエス様を主とし、主を愛し、自由意志をもって主の血の贖いを受け入れ、神のことばを守った人だけが入れる世界である。
彼らは、信仰によってイエス様を受け入れ、自分の善悪判断のわざを終え(止め)て安息に入った人である。
それで私たちは、この世で六日働き、七日目の主日に主を覚え、礼拝し、安息するのだが、日々、善悪判断を捨てて、自分のわざを終え、全て主に明け渡すなら、毎日が、瞬間瞬間が、主にある安息である。
安息日の休みは、神の民のためにまだ残っている。その神の安息に入った者なら、神がご自分のわざを終えて休まれたように、自分のわざを終えて休んだはずである。だから私たちは、この安息にはいるよう力を尽くして努め、あの不従順の例にならって落後する者が一人もいないようにするべきだ(ヘブル4:9-11)。
古い肉による生き方ではなく、イエス様にある新しいいのちの、新天新地の思考パターンで生き、安息して歩んでいく皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!
主日礼拝
御霊に従い、解放された人生を生きよ(ガラテヤ5:16-18)
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週報/メッセージ(説教)概要
テフィリン(御言葉暗唱)の創世記箇所が終わり、先週はその復習期間だった。御言葉は良いものであり、礼拝も賛美も祈りも、神様と共に歩む生活も、喜ばしく良いものである。しかし時に、テフィリンする事や、そうした聖なる物事が、何か重い、喜んでできない、あるいは神様がいるという実感が持てない、といったジレンマに陥るかもしれない。どうしたらいつも、御言葉が喜びとなれるか。どうしたら日々、必要の満たしや病の癒やしなど、「祝福の実体」を得る日々となり、神様と喜びの交わりの日々となるか。その秘訣を得たい。
鍵は、御霊(聖霊)である。もし「あれはいい、これはダメ」というような善悪判断システムが稼働しているなら、神は見いだせず、御言葉を理解できず、命も喜びも見いだせない。パウロは常々言っていた。御霊によって歩みなさいと。もし御霊によって歩まないなら…。御言葉はその人の血肉とならず、自分生来の知性の限度内でしか御言葉を理解できず、さらに、御言葉そのものさえ、自分の善悪で判断してしまい、聖なる御言葉と一体化できない自分に落胆するのみならず、自分を縛り、他人を縛りながら生きえざるを得ない。
御霊抜きには、満たされる事も解放される事も、無いのだ。律法学者やパリサイ人が、まさにそうだった。
ユダヤ人は確かにテフィリンしていて、世的には祝福されているかもしれない。しかし、御霊の根源であられるイエス様を信じない彼らは、結局、自前の善悪判断システムの範囲内でのみ御言葉を理解し、御霊ならぬ、肉によって律法を適用し続けているため、心底の解放も、喜びもない。肉によって律法を成就しようとする事は、無理なのだ。律法の行ないによる人々は、すべて、呪いのもとにあるからだ。(ガラテヤ3:10)
パリサイ人で律法の教師だったニコデモは、その解決を求めてイエス様の元に来た時、『イエスは答えられた、「よくよくあなたに言っておく。だれでも、水と霊とから生れなければ、神の国にはいることはできない。』(ヨハネ3:5)。水と霊によって新しく生まれる!それが、答えである。水は死を意味するが、今までの善悪判断に生きてきた生き方、すなわち「魂」に対しては、水へ浸し込んで死に明け渡し、御霊によって生きる生き方へ生まれ変わるのだ。人、モノ、コトについて、的確に、神の判断出来るのは、御霊しかない。
神は霊であり、神が望んでおられるのは、私たちが霊とまことによって礼拝し、霊において祈り、霊において御言葉(すなわち神)と交わりをしながら、生きる事だ。御霊によって歩む時、肉に生きていた人は、今まで味わった事の無い、完全なる解放を味わい、今までに無かった大きな喜びが沸き起こる。
結局、全て人生をややこしくし、罪に苦しみ、汗を流して労苦している根源は、あの、エデンにおいてアダムとエバが食べてしまった、善悪を知る知識の実にある。この、善悪判断・・・。「わたしは正しい」「あの人は間違っている」「自分が欲するままにしたい」「わたしが立てた計算に従いなさい」などなど、自分が神のようになって善悪判断する道こそ、「必ず死ぬ」道であり、この「善悪判断システム」が思いっきり稼働している人生は、肉欲に暴走し、あちこちぶつかりながら、あれこれ間違えながら、全身傷だらけの人生を生きる以外に無い。全て、「キリスト抜き」に生きて、自分流の善悪判断で生きている人は、その呪いの下にある。
彼らは、真実なる御言葉を知らず、それを聞かされても、知識で善悪判断し、それを理解せず、従えない。
しかし、「御霊判断システム」の中で生きると、御言葉すなわちイエス様がその人の中で稼働し、その人の霊を起こし、霊が蘇生し、たましいが霊に従い、御言葉に従順できるようになって真に解放されるのだ!
神の息、神の霊が入っていない人は、所詮ちりである。人の組成は、酸素、水素、炭素、窒素、カルシウムで98%を占め、まさに「ちり」に過ぎない。成分単体では数千円の価値しか無いのに、なぜ人は尊いか。
それは、神に似たものとして創造され、御口から息吹かれた神の息が入ったゆえである(創世記2:7)。もし、人に神の息が無く、神の言葉に反するなら、人はただの「歩くちり、蛇のエサ」に過ぎない。(創世記3:14)
御霊をいただいている新約聖徒である事は、何と幸いであろうか!バプテスマのヨハネは、女が産んだ中で最も偉大であるが、御国においては、最も小さいものである、と、主は言われた。旧約の律法も、預言者も、バプテスマのヨハネまでである。私たちが、彼が示した救い主イエス様を信じて、御霊をいただいているなら、私たちはバプテスマのヨハネより偉大であり、パリサイ人や律法学者の義に勝っているのだ。
結局、全て問題の根源は、善悪判断である。神から離れた善悪判断がどれほど大変な事か。神は「それは食べるな!取って食べる時、死ぬ、死ぬ!」と、厳重に言われた点からも分かる。心してそこから離れ、御霊によって歩む事を、日々、選択する皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!
