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メッセージ - 申命記カテゴリのエントリ

礼拝説教メッセージ音声:のろいの条件(申命記28:15-24):右クリックで保存

『しかし、あなたの神、主の声に聞き従わず、きょう、わたしが命じるすべての戒めと定めとを守り行わないならば、このもろもろののろいがあなたに臨み、あなたに及ぶであろう。』(申命記28:15)

申命記28章の15節以降、68節までは、御胸に逆らって歩む者が受ける「のろい」の明細が、こと細かに記されている。
祝福されるための条件は、実にシンプルだったが、その逆の、呪われるための条件も、実にシンプルで、それは、御声に聞き従わない事、御言葉を守り行わない事である。

『あなたは町のうちでものろわれ、畑でものろわれ、あなたのかごも、こねばちものろわれ、あなたの身から生れるもの、地に産する物、牛の子、羊の子ものろわれるであろう。あなたは、はいるにものろわれ、出るにものろわれるであろう。』(申命記28:16-19)
御声に聞き従わず、御言葉を守り行わない人は、都会に住んでも、田舎に戻って住んでも、栄える事なく、自分や家族、家畜のいのちにおいて、何かしらの支障があり、また、台所事情においても、出入りにおいても、栄える事が無い。

『主はあなたが手をくだすすべての働きにのろいと、混乱と、懲らしめとを送られ、あなたはついに滅び、すみやかにうせ果てるであろう。これはあなたが悪をおこなってわたしを捨てたからである。』(申命記28:20)
呪われている人の、大きな特徴の一つは、混乱している事である。
そのような人は、何かととんちんかんな言動をして、的を射ず、その働きも、労多くして益少ない。それでいて、何で自分がいつもそうなのか、わかっていないのである。

『主は疫病をあなたの身につかせ、あなたが行って取る地から、ついにあなたを断ち滅ぼされるであろう。主はまた肺病と熱病と炎症と間けつ熱と、かんばつと、立ち枯れと、腐り穂とをもってあなたを撃たれるであろう。これらのものはあなたを追い、ついにあなたを滅ぼすであろう。』(申命記28:21-22)

呪われている人の特徴の、もう一つは、病や災いにつきまとわれる事である。
災いや病が、ストーカーのように追いかけて来るので、一難去っても、また一難が連続する人生である。
いつまでのろいが追いかけて来るか。それは、打たれて滅ぼされるまで、と22節に書いてある。
それらからの、唯一の脱出方法は、のろいの条件の逆を行う事、すなわち、主に立ち返って御声に聞き従い、御言葉を守り行うしか無い。

『あなたの頭の上の天は青銅となり、あなたの下の地は鉄となるであろう。主はあなたの地の雨を、ちりと、ほこりに変らせ、それが天からあなたの上にくだって、ついにあなたを滅ぼすであろう。』(申命記28:23-24)

イスラエルが、民族的に主から離れ去っていた時は、大体、かんばつや飢饉に悩まされた。
現代でも、頑なになって主の御声に聞き従わない人に対しては、その人にとっての天も、地も、頑なになって、恵みを降らせず、いのちを生じさせないのだ。
それでも主に立ち返らない人に与えられる呪いの明細は、まだまだ続く。
ここまでさんざんな目に遭うとしたら、さっさと頑なさを捨て去って、主に立ち返るほうが得だ、と思うであろうが、頑なな人は、それでもまだ懲りず、自分のしたいように生きたいものである。

礼拝説教メッセージ音声:祝福の明細(申命記28:7-14):右クリックで保存

主の御言葉に聞き従い、守り行ったなら、どんな祝福があるのか。今回の箇所には、その明細が記されている。

『敵が起ってあなたを攻める時は、主はあなたにそれを撃ち敗らせられるであろう。彼らは一つの道から攻めて来るが、あなたの前で七つの道から逃げ去るであろう。』(申命記28:7)
まずは、勝利の祝福である。この勝利の約束は、聖書の他の至る所にある。
『もしあなたがたがわたしの定めに歩み、わたしの戒めを守って、これを行うならば、・・・あなたがたは敵を追うであろう。彼らは、あなたがたのつるぎに倒れるであろう。あなたがたの五人は百人を追い、百人は万人を追い、あなたがたの敵はつるぎに倒れるであろう。』(レビ記26:3-8)
実際聖書は、少数主に忠実な信仰の精鋭たちが、強大な敵に立ち向かい、大勝利した記録が多い。(創世記14章、民数記31章、士師記7章、1サムエル14章、2歴代誌20章、他多数)
主の御心に反している軍がいかに強大であろうと、主の御心に適っている軍がいかに弱小に見えようとも、両者が戦うとしたら、必ず後者が勝つ。
主の民にとって、戦いは、人数や知恵、力よりも、御言葉に聞き、守り行っているかどうかが遥かに大事なのだ。

また主は、主の民の周りの被造物に対し祝福を「命じ」られる。
『主は”命じて”祝福をあなたの倉と、あなたの手のすべてのわざにくだし、あなたの神、主が賜わる地であなたを祝福されるであろう。』(申命記28:8)
『「七年目に種をまくことができず、また産物を集めることができないならば、わたしたちは何を食べようか」とあなたがたは言うのか。わたしは”命じて”六年目に、あなたがたに祝福をくだし、三か年分の産物を実らせるであろう。あなたがたは八年目に種をまく時には、なお古い産物を食べているであろう。九年目にその産物のできるまで、あなたがたは古いものを食べることができるであろう。』(レビ記25:20-22)

主は「光よあれ」と命じられて光を創造し、光だけでなく、御口から出る言葉によって全てのものを創造し、完成されたお方である。
だから私達は、主の命令に従って歩むなら、この全被造物の中を歩む全行程において、全てが追い風、全てが順風満帆となる。しかし、主の命令に逆らうなら、この被造物世界において、全てが向かい風、波乱万丈、四面楚歌、踏んだりけったりなのである。

『もし、あなたの神、主の戒めを守り、その道を歩むならば、主は誓われたようにあなたを立てて、その聖なる民とされるであろう。そうすれば地のすべての民は皆あなたが主の名をもって唱えられるのを見てあなたを恐れるであろう。』(申命記28:9-10)

私達が主の御言葉を守り行うなら、主の名が記された民として、全ての人々に知られる。
自分の所有物に、自分の名を記したなら、他人はおいそれと手出し出来ないし、それを盗んだり破損したりするなら、賠償請求したり訴えたり堂々と出来て当然である。
だから、主の名が記された私達に、もしサタンが勝手に病や貧しさ、災いなどを振りかけるのは、不当であり、主イエスの御名によって堂々と訴え、賠償請求できるのは当然だ。
主イエスの名によって、主の名がつけられている私達に、病や貧しさ、災いなどは、相応しくない。なぜなら主は完全で健やかな方であり、富んでおられ、祝福の源であられるお方だからだ。
私達が主の御言葉に留まるなら、主の名を用いて、欲しいものはなんでも求める事が出来るのである。(ヨハネ15:7)

『主があなたに与えると先祖に誓われた地で、主は良い物、すなわちあなたの身から生れる者、家畜の産むもの、地に産する物を豊かにされるであろう。主はその宝の蔵である天をあなたのために開いて、雨を季節にしたがってあなたの地に降らせ、あなたの手のすべてのわざを祝福されるであろう。あなたは多くの国民に貸すようになり、借りることはないであろう。』(申命記28:11-12)

既に何度も言われている通り、主に聞き従い、命令を守り行うなら、いのちも、大地の実りも、豊かに祝福され、それも、春の収穫物の脱穀が秋まで続き、秋の収穫物の取り入れが、穀物の種まきの時期まで、ずっと続く程の収穫で満たされ、穀物倉が空になる事はあり得ず、新しい収穫物が入る頃には、倉庫に余った古い収穫物は捨てるほどまでの祝福である。
『もしあなたがたがわたしの定めに歩み、わたしの戒めを守って、これを行うならば、わたしはその季節季節に、雨をあなたがたに与えるであろう。地は産物を出し、畑の木々は実を結ぶであろう。あなたがたの麦打ちは、ぶどうの取入れの時まで続き、ぶどうの取入れは、種まきの時まで続くであろう。あなたがたは飽きるほどパンを食べ、またあなたがたの地に安らかに住むであろう。・・・あなたがたは古い穀物を食べている間に、また新しいものを獲て、その古いものを捨てるようになるであろう。』(レビ記26:3-10)

そういう訳で、主の御言葉に聞き従い、それを守り行う事は、まさしく「至れり尽くせり」「良いことづくし」である。
『主はあなたをかしらとならせ、尾とはならせられないであろう。あなたはただ栄えて衰えることはないであろう。きょう、わたしが命じるあなたの神、主の戒めに聞き従って、これを守り行うならば、あなたは必ずこのようになるであろう。きょう、わたしが命じるこのすべての言葉を離れて右または左に曲り、他の神々に従い、それに仕えてはならない。』(申命記28:13-14)

主を軽んじ、主の御声に聞き従わず、主の命令を守り行わないなら、「至れり尽くせり」の逆、ふんだり蹴ったりの呪いが下る。それは次回以降、詳細に見て行きたい。
どうして私達は、主の御言葉に聞き従わないような、主の命令を守り行わないような「愚か」を、「損」を、演じ続けられようか。

礼拝説教メッセージ音声:祝福される条件とその範囲(申命記28:1-6):右クリックで保存

この申命記28章は、受けるべき祝福と呪いの、それぞれの具体的な内容が、68節という長きに渡って、詳細に記されている。

祝福を受ける条件は、実にシンプルだ。
『もしあなたが、あなたの神、主の声によく聞き従い、わたしが、きょう、命じるすべての戒めを守り行うならば、あなたの神、主はあなたを地のもろもろの国民の上に立たせられるであろう。もし、あなたがあなたの神、主の声に聞き従うならば、このもろもろの祝福はあなたに臨み、あなたに及ぶであろう。』(申命記28:1-2)

主の声によく聞き従い、主の命令を守り行う事。
この祝福の条件は、既に、申命記に入ってからは何度も聞かされている。
『あなたがたがこれらのおきてを聞いて守り行うならば、あなたの神、主はあなたの先祖たちに誓われた契約を守り、いつくしみを施されるであろう。あなたを愛し、あなたを祝福し、あなたの数を増し、あなたに与えると先祖たちに誓われた地で、あなたの子女を祝福し、あなたの地の産物、穀物、酒、油、また牛の子、羊の子を増されるであろう。あなたは万民にまさって祝福されるであろう。あなたのうち、男も女も子のないものはなく、またあなたの家畜にも子のないものはないであろう。』(申命記7:12-14)

つまり、御声に聞き従って御言葉を守り行う事は、いのちの祝福の約束があり、生んで、増えて、地に満ちていくという、創造本来の祝福の命令が実体化するものである。
エジプトは、イスラエル民族がおびただしく増えていくので恐れ、虐待し、男子をナイルに投げ込みさえしたが、主が祝福されたいのちが増え広がって行くは、止められなかった。
主は、いのちの主であり、主にあって、死は、いのちに飲み込まれて行くのである。

また、『あなたは町の内でも祝福され、畑でも祝福されるであろう。』(申命記28:3) とある通り、その人は、街に住んでも、田舎に住んでも栄えるのだ。
ヤコブの子ヨセフは、奴隷としてエジプトに売られて行ったが、彼は、神を知らぬエジプトの中でも、主にあって真実に生きる道を貫き通したため、あらゆる面で祝福を受けた。
ヨセフのように、主に聞き従う生き方を貫き通すなら、たとえ奴隷として売られても、牢屋にいても、栄えるのである。

そればかりでなく、『あなたのかごと、こねばちは祝福されるであろう。』(申命記28:5) とある通り、家の奥の台所事情も祝福されるのである。
イスラエルを虐待したエジプトに対する主の災いの中に、かえるの災いがあったが、その時、かえるは、かごにもこね鉢にも侵入して来た。
私達のかごやこね鉢に、祝福が入るか、それともかえるが入るかは、御言葉に聞き従うか否かであり、主の民を虐待する者は、台所の隅々にさえ汚れが侵入して来るのだ。

『あなたは、はいるにも祝福され、出るにも祝福されるであろう。』(申命記28:6)
主を助けとし、御声に聞き従い、御言葉を行う人は、仕事先でも学校でも、家を守るにしても、出るにも入るにも祝福される。
詩篇121編に記されている通りである。
『わたしは山にむかって目をあげる。わが助けは、どこから来るであろうか。わが助けは、天と地を造られた主から来る。主はあなたの足の動かされるのをゆるされない。あなたを守る者はまどろむことがない。見よ、イスラエルを守る者は/まどろむこともなく、眠ることもない。
主はあなたを守る者、主はあなたの右の手をおおう陰である。昼は太陽があなたを撃つことなく、夜は月があなたを撃つことはない。主はあなたを守って、すべての災を免れさせ、またあなたの命を守られる。主は今からとこしえに至るまで、あなたの出ると入るとを守られるであろう。』

礼拝説教メッセージ音声:律法は呪いの宣言しか出来ない(申命記27:9-26):右クリックで保存

イスラエルがヨルダンを渡った時、まずは、御言葉を記した石をエバル山に建てる事が命じられていたが、もう一つ、為すべき事がある。
それは、祝福と呪いの宣言である。
『その日またモーセは民に命じて言った、「あなたがたがヨルダンを渡った時、次の人たちはゲリジム山に立って民を祝福しなければならない。すなわちシメオン、レビ、ユダ、イッサカル、ヨセフおよびベニヤミン。また次の人たちはエバル山に立ってのろわなければならない。すなわちルベン、ガド、アセル、ゼブルン、ダンおよびナフタリ。』(申命記27:14)

祝福するためにゲリジム山に立つ組と、のろいのためにエバル山に立つ組とに分かれ、そして、以下の通りにレビ人が大声でイスラエルのすべての人々に向かって宣言し、それに呼応して、一般のイスラエル人が応答する。
『工人の手の作である刻んだ像、または鋳た像は、主が憎まれるものであるから、それを造って、ひそかに安置する者はのろわれる』。民は、みな答えてアァメンと言わなければならない。『父や母を軽んずる者はのろわれる』。民はみなアァメンと言わなければならない。『隣人との土地の境を移す者はのろわれる』。民はみなアァメンと言わなければならない。・・・『この律法の言葉を守り行わない者はのろわれる』。民はみなアァメンと言わなければならない。』(申命記27:15-26)

宣言する内容は、十戒の内容もあるし、律法の細則的な内容もあるが、興味深い事に、「祝福と呪いの宣言をせよ」と言っておきながら、ここで宣言する内容には「何々する者は祝福される」という祝福の宣言が、一つも無い。
また、前回の箇所で学んだ通り、御言葉を刻む記念の石を建てるのは、呪いを宣言するエバル山である。
これらの事は、実は、律法の性質について、非常に象徴的な意味を含んでいる。

モーセに与えられた律法の務め、すなわち、石に刻まれた「文字に仕える務め」は、罪を宣告し、呪いを宣告する「死の務め」である。
『文字は人を殺し、霊は人を生かす。もし石に彫りつけた文字による死の務が栄光のうちに行われ、そのためイスラエルの子らは、モーセの顔の消え去るべき栄光のゆえに、その顔を見つめることができなかったとすれば、まして霊の務は、はるかに栄光あるものではなかろうか。もし罪を宣告する務が栄光あるものだとすれば、義を宣告する務は、はるかに栄光に満ちたものである。・・・
いったい、律法の行いによる者は、皆のろいの下にある。「律法の書に書いてあるいっさいのことを守らず、これを行わない者は、皆のろわれる」と書いてあるからである。律法によっては、神のみまえに義とされる者はひとりもないことが、明らかである。』(ガラテヤ3:6-11)

しかしキリストは、そんな呪いの内に束縛されている私たちを解放するため、自らが十字架上で呪われた者となって下さり、いのちを差し出して、私たちを買い戻して下さった。
『キリストは、わたしたちのためにのろいとなって、わたしたちを律法ののろいからあがない出して下さった。聖書に、「木にかけられる者は、すべてのろわれる」と書いてある。それは、アブラハムの受けた祝福が、イエス・キリストにあって異邦人に及ぶためであり、約束された御霊を、わたしたちが信仰によって受けるためである』(ガラテヤ3:13)。
このように、イエス様を信じる私たちには、律法の呪いからの解放と自由が与えられるのである。

私達キリスト者は、イエス・キリストを信じる信仰によって、アブラハムの子孫である。
文字は殺すのみであり、善悪の羅列は、ただ私達に死を宣告するのみである。なぜなら、私達の肉の内には、律法を守り通せるような性質は無いからだ。
だから、律法には、「いのち」を与える事は出来ないという、致命的な欠陥がある。(ガラテヤ3:21)
しかし主は、律法とは別の救いの道、すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による救いの道を開いて下さった。

この信仰の務めは、死の務めではなく、いのちの務めであり、モーセに与えられた栄光よりも、はるかに優れた、永遠の栄光の務めである。
私達はキリストにあって、それに与っているのである。

礼拝説教メッセージ音声:御言葉と一つとなれ(申命記27:1-8):右クリックで保存

ここでは、イスラエルが約束の地に入っていく際に行うべき事が命じられている。

『あなたがたがヨルダンを渡ってあなたの神、主が賜わる国にはいる時、あなたは大きな石数個を立てて、それにしっくいを塗り、そしてあなたが渡って、あなたの先祖たちの神、主が約束されたようにあなたの神、主が賜わる地、すなわち乳と蜜の流れる地にはいる時、この律法のすべての言葉をその上に書きしるさなければならない。すなわち、あなたがたが、ヨルダンを渡ったならば、わたしが、きょう、あなたがたに命じるそれらの石をエバル山に立て、それにしっくいを塗らなければならない。』(申命記27:2-4)

イスラエルが主が約束して下さった地に入った際には、真っ先に、その地に御言葉の石を建て、これから住むべきその地に、御言葉を刻み付けなければならない。
イスラエルが、御言葉という岩の上に立って定住するためであり、また後々、子孫たちがそれを見て、自分達が主から特別な恩恵を受け、主の御言葉が委ねられている民である事を覚え、そして、そこに記されている御言葉を守り行うためである。

『またそこにあなたの神、主のために、祭壇、すなわち石の祭壇を築かなければならない。鉄の器を石に当てず、自然のままの石であなたの神、主のために祭壇を築き、その上であなたの神、主に燔祭をささげなければならない。また酬恩祭の犠牲をささげて、その所で食べ、あなたの神、主の前で喜び楽しまなければならない。あなたはこの律法のすべての言葉をその石の上に明らかに書きしるさなければならない」。』(申命記27:5-8)

祭壇は、主に捧げものをする所であるが、それは鉄器を使うなどした「人の手」は一切加えてはならない。
主への礼拝は、人が好き勝手に編み出した物事は一切許されておらず、ただ、主の側が提示した方法で捧げなければならないのだ。

この祭壇を建てたなら、まず、そこで燔祭(全焼のいけにえ)を捧げる事が命じられている。
全焼のいけにえは、その人自身が、全身全霊をに捧げる事を意味し、新しく入ったその地において、全てを尽くして主に仕える決意を新たにするのだ。
また、酬恩祭(和解のいけにえ)を捧げる事も命じられている。
和解のいけにえは、神と人と祭司とが同じ食物を食べて、神と人との和解を祝うものである。
以前の神に敵対する罪深き生き方は脱ぎ去って、今や新しい地において、神と和解している事を祝うのだ。

ところがイスラエルのその後の歴史は、神への不従順と処罰と悔い改めの繰り返しとなってしまった。
イスラエルだけでなく、人類全体も、罪と弱さを持っている故に、主が提示する御言葉を守り行う事が出来ないのだ。
そこで主は、人のために、新しい契約を立てられた。

『主は言われる、見よ、わたしがイスラエルの家とユダの家とに新しい契約を立てる日が来る。この契約はわたしが彼らの先祖をその手をとってエジプトの地から導き出した日に立てたようなものではない。わたしは彼らの夫であったのだが、彼らはそのわたしの契約を破ったと主は言われる。
しかし、それらの日の後にわたしがイスラエルの家に立てる契約はこれである。すなわちわたしは、わたしの律法を彼らのうちに置き、その心にしるす。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となると主は言われる。人はもはや、おのおのその隣とその兄弟に教えて、『あなたは主を知りなさい』とは言わない。それは、彼らが小より大に至るまで皆、わたしを知るようになるからであると主は言われる。わたしは彼らの不義をゆるし、もはやその罪を思わない」。』(エレミヤ31:31-34)

今、この新しい契約の時代を生きる私達は、イエス・キリストを信じる信仰によって、聖霊が与えられ、その聖霊が私達の内に住み、私達に御言葉を思い起こさせ、御言葉にあって歩めるようにして下さった。
『助け主、すなわち、父がわたしの名によってつかわされる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、またわたしが話しておいたことを、ことごとく思い起させるであろう。』(ヨハネ14:26)

主イエスキリストを信じる信仰によって、私達は、御言葉なるキリストと一体となり、その時、もはや私達と御言葉とは別々ではなく、一つである。
『そして、あなたがたは自分自身が、わたしたちから送られたキリストの手紙であって、墨によらず生ける神の霊によって書かれ、石の板にではなく人の心の板に書かれたものであることを、はっきりとあらわしている。・・・神はわたしたちに力を与えて、新しい契約に仕える者とされたのである。それは、文字に仕える者ではなく、霊に仕える者である。文字は人を殺し、霊は人を生かす。』(2コリント3:3-6)

そしてこの新しい務めは、石の板に記されている「文字に仕える務め」よりも、はるかに栄光のあるものである。
『もし石に彫りつけた文字による死の務が栄光のうちに行われ、そのためイスラエルの子らは、モーセの顔の消え去るべき栄光のゆえに、その顔を見つめることができなかったとすれば、まして霊の務は、はるかに栄光あるものではなかろうか。もし罪を宣告する務が栄光あるものだとすれば、義を宣告する務は、はるかに栄光に満ちたものである。』(2コリント3:7-9)

だから私達は、いつも感謝と喜びの心をもって、この栄光の務めにあずかるべきである。

礼拝説教メッセージ音声:主の宝の民(申命記26:16-19):右クリックで保存

申命記5章から26章までの所では、主が与えられた十戒や律法の再確認的なメッセージが続いていたが、いよいよ、それらの結論的なメッセージに入る。

『きょう、あなたの神、主はこれらの定めと、おきてとを行うことをあなたに命じられる。それゆえ、あなたは心をつくし、精神をつくしてそれを守り行わなければならない。』(申命記26:16)
主は私達に「心をつくし、精神をつくす」姿勢を、すなわち、主を愛し主に敬意をもって御言葉を守り行おうとする心をこそ、求めておられる。
それはちょうど、いかに出来が良くても親を敬わない子よりは、多少出来が悪くても、親を愛し敬う心で両親に聞こうとする子供のほうがかわいいのと同じである。

イスラエルの民は、モーセから示されていた主の教えを、守り、御声に聞き従うと明言した。(申命記26:17)
そして主は、これらの命令を守り行うなら、彼らをご自身の「宝の民」とされると約束された。(同18節)

宝。それは、適当に扱われるようなものではなく丁重に扱うものであり、放っておかれるものではなくいつも気にかけられ、時に取り出しては、眺められ、楽しまれるものである。
私達が、主への愛と敬意をもって、心と思いと力を尽くして御言葉を守り行うなら、ますます主との関係が豊かになり、必要の満たしを主から充分受ける事が出来、主に喜ばれる実を豊かに結ぶようになっていく。

『あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたにとどまっているならば、なんでも望むものを求めるがよい。そうすれば、与えられるであろう。あなたがたが実を豊かに結び、そしてわたしの弟子となるならば、それによって、わたしの父は栄光をお受けになるであろう。
父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛したのである。わたしの愛のうちにいなさい。もしわたしのいましめを守るならば、あなたがたはわたしの愛のうちにおるのである。それはわたしがわたしの父のいましめを守ったので、その愛のうちにおるのと同じである。』(ヨハネ15:7-10)
主との愛の関係がますます深まると、主に何のわだかまりも無く求める事が出来、そしてそれらが与えられる。

このような、主の「宝の民」としての「特典」を享受するための条件が、本日の箇所に、まさに記されている。
すなわち、私達が心をつくし、精神を尽くして主を愛し、敬い、その御言葉に聞き従い、守り行う事。
そうするなら、主は私達をご自分の宝の民とされ、私達に誉と良き名と栄えとを与えて下さり、すべての国民にまさるものとして下さり、主の聖なる民として下さるのだ。
『主は誉と良き名と栄えとをあなたに与えて、主の造られたすべての国民にまさるものとされるであろう。あなたは主が言われたように、あなたの神、主の聖なる民となるであろう」。』(申命記26:19)

礼拝説教メッセージ音声:主の命令を守り行った事の報告(申命記26:12-15):右クリックで保存

前回の箇所では、主の側が、私達にどんなに良くして下さったのを告白し、報告すべき事を学んだ。
今回の箇所では、私達の側が、主から与えられた命令をどのように守り行ったかを報告するべき事が、示されている。

『第三年すなわち十分の一を納める年に、あなたがすべての産物の十分の一を納め終って、それをレビびとと寄留の他国人と孤児と寡婦とに与え、町のうちで彼らに飽きるほど食べさせた時、あなたの神、主の前で言わなければならない、『わたしはその聖なる物を家から取り出し、またレビびとと寄留の他国人と孤児と寡婦とにそれを与え、すべてあなたが命じられた命令のとおりにいたしました。わたしはあなたの命令にそむかず、またそれを忘れませんでした。』(申命記26:12-13)

この「十分の一を納める第三年」については、申命記14章で示されている。
その時には、十分の一を町の中に蓄え、それを町の中の在留異国人や孤児など弱い立場の人や、主の働き人であるレビ人に食べさせ、彼らを満足させなければならない、と命じられている。
「そうすれば、あなたの神、主はあなたが手で行うすべての事にあなたを祝福されるであろう。」(申命記14:28-29)

私達は何かと、主から命じられた事を守り行う以前に「祝福を下さい」と祈りがちであるが、祝福が与えられるためには、まず、私達の側が主に敬意を払って、主から命じられた事を守り行う必要がある。
行いの無い信仰は、虚しく、死んだも同然である。
『ある兄弟または姉妹が裸でいて、その日の食物にもこと欠いている場合、あなたがたのうち、だれかが、「安らかに行きなさい。暖まって、食べ飽きなさい」と言うだけで、そのからだに必要なものを何ひとつ与えなかったとしたら、なんの役に立つか。信仰も、それと同様に、行いを伴わなければ、それだけでは死んだものである。』(ヤコブ2:15-16)

働いてもいないのに、給料を「くれ」と求めても、無視されたり、怒られたりするのは当然であるように、主から「こうするならば祝福される」という言葉を無視し、実践しないままに、ただ祝福を「くれ、くれ」と求めても、主から無視されたり、怒られたりするのは、当然である。
しかし、働いたのであれば、給料は当然のように求める事が出来る。
だから私達も、主から命じられた事を、守り行ったのであれば、次のように求める事も正当である。
『わたしはその聖なる物を喪のうちで食べたことがなく、また汚れた身でそれを取り出したことがなく、また死人にそれを供えたことがありませんでした。わたしはわたしの神、主の声に聞き従い、すべてあなたがわたしに命じられたとおりにいたしました。あなたの聖なるすみかである天からみそなわして、あなたの民イスラエルと、あなたがわれわれに与えられた地とを祝福してください。これはあなたがわれわれの先祖に誓われた乳と蜜の流れる地です。』(申命記26:14-15)

主の命令を守り行う事、それは、律法の膨大な「こうせよ/するな」の集大成を記憶して、一つ一つ行ったか・行わなかったに注意する事ではなく、律法を成就して下さったお方・イエス・キリストを、愛をもって信じる事であり(ガラテヤ5:1-6)、この主イエス・キリストに日々導かれて歩む事である。
例えば、「うそをつくな」という御言葉が、特に最近主から示されているのであれば、そのように守り、「憐れみなさい」という御言葉が特に主から示されているのであれば、主にあって努めて憐れむ事。
そのように、都度、御言葉に導かれている通りに歩んで行けば良いのである。
『キリスト・イエスにあっては、割礼があってもなくても、問題ではない。尊いのは、愛によって働く信仰だけである。』(ガラテヤ5:6)

礼拝説教メッセージ音声:主への報告義務(申命記26:1-11):右クリックで保存

この章では、イスラエルが約束の地に入って、初めてその地の産物を収穫した時に為すべき事が命じられている。
その際、真っ先にすべきは「主への報告」である。
『あなたの神、主が嗣業として賜わる国にはいって、それを所有し、そこに住む時は、あなたの神、主が賜わる国にできる、地のすべての実の初物を取ってかごに入れ、あなたの神、主がその名を置くために選ばれる所へ携えて行かなければならない。そしてその時の祭司の所へ行って彼に言わなければならない、「きょう、あなたの神、主にわたしは申します。主がわれわれに与えると先祖たちに誓われた国に、わたしははいることができました。」』(申命記26:1-4)

モーセがこの命令をしている時点では、イスラエルはそれまでの40年、種まきや収穫はしておらず、食べ物は、主から一方的に与えられるマナによって養われていた。
しかし、これからすぐ後に入ろうとしている約束の地では、食べ物は天から降って来たりせず、地の産物を得なくてはならない。
そこでは自分の畑をしっかり管理し、種蒔きや収穫をする必要はある。
しかし、その「乳と蜜の流れる地」「天の雨で潤っている地」に生じる産物は、良いものであり、豊かであり、実にバラエティに富んでいる。

忘れてはならないのは、その土地を得させて下さるもの、天の雨を降らせて下さるのも、豊かな実りを実らせて下さるのも、全て「あなたの神、主」がして下さる事だ。
だから、主の御言葉によく聞き従い、歩み続ける必要があるのだ。

それは、キリスト者が世に出て行って働く時も同じである。
世での仕事がいつも潤され、祝福されるためには、主の御言葉にいつも聞き従い、歩み続ける必要がある。
自らの手で働き、自分自身や自分の家をしっかり管理すべきであるが、それによって結ぶ実は、良いものであり、豊かであり、バラエティに富んでいる。

主に報告すべき言葉は、五節以降に記されている。
『わたしの先祖は、さすらいの一アラムびとでありましたが、わずかの人を連れてエジプトへ下って行って、その所に寄留し、ついにそこで大きく、強い、人数の多い国民になりました。』(申命記26:5)
ここで、自分達の先祖は「アブラハム」とは言わせないで、「さすらいの一アラムびと」(KJVでは「A Syrian ready to perish」)と言わせている所が、興味深い。
自分達は元々、「いつでも滅びるための用意ができていた一さすらい人」であった事を、まず告白しなくてはならない。

バプテスマのヨハネは言った。
『自分たちの父にはアブラハムがあるなどと、心の中で思ってもみるな。おまえたちに言っておく、神はこれらの石ころからでも、アブラハムの子を起すことができるのだ。斧がすでに木の根もとに置かれている。だから、良い実を結ばない木はことごとく切られて、火の中に投げ込まれるのだ。』(マタイ3:9)
だから、悔改めにふさわしい実を結べ、と。
私達キリスト者も、キリストにつながる事をせず悔い改めの実を結んでいないとしたなら、いつでも滅びる用意の整ってる、一さすらい人に過ぎない事を、忘れてはならない。

『ところがエジプトびとはわれわれをしえたげ、また悩まして、つらい労役を負わせましたが、われわれが先祖たちの神、主に叫んだので、主はわれわれの声を聞き、われわれの悩みと、骨折りと、しえたげとを顧み、主は強い手と、伸べた腕と、大いなる恐るべき事と、しるしと、不思議とをもって、われわれをエジプトから導き出し、われわれをこの所へ連れてきて、乳と蜜の流れるこの地をわれわれに賜わりました。主よ、ごらんください。あなたがわたしに賜わった地の実の初物を、いま携えてきました。』(申命記26:6-10)

この告白をする事によって、主は、弱くどうしよもない自分達をいかに救い出して下さったか、取るに足らない自分達を、どんなに良くして下さったかを、思い起こさせている。
私達も以前は、神から切り離された者達であり、いつ滅ぼされてもおかしくはない状況であった事を忘れてはならない。
そのような状況から助けだされ、祝福され、幸いを得た時、私達もイエス様がどんなに素晴らしい人生へと導いて下さったか、どんなに素晴らしい事を為してくださったかを、告白すべきなのだ。

『そしてあなたはそれをあなたの神、主の前に置いて、あなたの神、主の前に礼拝し、あなたの神、主があなたとあなたの家とに賜わったすべての良い物をもって、レビびとおよびあなたのなかにいる寄留の他国人と共に喜び楽しまなければならない。』(申命記26:10-11)
主が私達をそのように祝福し、富ませて下さったからには、その主からいただいた恵みを、貧しい兄弟姉妹や、主の働き人達と、共にわかちあうべきなのだ。
そして、「共に喜び楽しまなければならない」と命じられている。
兄弟姉妹や主の働き人と共に、喜び楽しむ事、それが主の命令であるからには、私達は大いに主に感謝し、喜び、楽しむべきである。

礼拝説教メッセージ音声:主の御前に正しく歩め(申命記25:13-19):右クリックで保存

『あなたの袋に大小二種の重り石を入れておいてはならない。あなたの家に大小二種のますをおいてはならない。不足のない正しい重り石を持ち、また不足のない正しいますを持たなければならない。そうすればあなたの神、主が賜わる地で、あなたは長く命を保つことができるであろう。すべてこのような不正をする者を、あなたの神、主が憎まれるからである。』(申命記25:13-16)

この「重り石」は、重さを量る天秤の分銅のようものであり、「ます」も、穀物などの分量を量る「はかり」である。
つまりここは、例えば9キロの重り石を10キロだと偽って「これは10キロのお米です」というような事を禁じている。
主はそのように、「はかり」の基準となるものを偽る事を、憎まれる。

そのような者に対する預言が、アモス書に記されている。
『あなたがた、貧しい者を踏みつけ、また国の乏しい者を滅ぼす者よ、これを聞け。あなたがたは言う、「新月はいつ過ぎ去るだろう、そうしたら、われわれは穀物を売ろう。安息日はいつ過ぎ去るだろう、そうしたら、われわれは麦を売り出そう。われわれはエパを小さくし、シケルを大きくし、偽りのはかりをもって欺き、乏しい者を金で買い、貧しい者をくつ一足で買いとり、また、くず麦を売ろう」。』(アモス8:4)

ここのエパは「ます」で、シケルは「重り石」である。
それらを偽り、新月ごとに行われる主の祭日や、主を覚えるべき安息日を「早く終わって欲しいもの」とし、月曜朝の市場開始の時間になったら、早速偽りのはかりで乏しい者や貧しい者から搾取するような者に対して、主は、突然の災いを下される。
『主なる神は言われる、「その日には、わたしは真昼に太陽を沈ませ、白昼に地を暗くし、あなたがたの祭を嘆きに変らせ、あなたがたの歌をことごとく悲しみの歌に変らせ、すべての人に荒布を腰にまとわせ、すべての人に髪をそり落させ、その日を、ひとり子を失った喪中のようにし、その終りを、苦い日のようにする」。』(アモス8:9-10)

世の中では一見、偽りのはかりを用いている者が栄えて、正直者がばかを見ているかように見えるが、主は、このような偽りや虐げで勢いづいている者を、いつまでもそのままにはされない。
彼らが栄え、「日盛りだ」と、思っているような時に、突然、災いを臨ませ、悲しませる。そして彼らの終わりは、苦々しいものとなる。

また、そのような者に対する、もう一つの災いは、「御言葉のききん」である。
『主なる神は言われる、「見よ、わたしがききんをこの国に送る日が来る、それはパンのききんではない、水にかわくのでもない、主の言葉を聞くことのききんである。彼らは海から海へさまよい歩き、主の言葉を求めて、こなたかなたへはせまわる、しかしこれを得ないであろう。その日には美しいおとめも、若い男もかわきのために気を失う。』(申命記8:11-13)
こういうクリスチャンがいる。普段は、罪や欲望を存分に飲み食いして、いざ困った時になったら、神様に助けを求めればいいや、と思っているクリスチャンが。
そういう人は、突如とした災いに襲われ、その時、あわてふためいても、守りを宣言する御言葉も、救われるために告白する御言葉も、見つからないのだ。


また、主は命じられた。
『あなたがエジプトから出てきた時、道でアマレクびとがあなたにしたことを記憶しなければならない。すなわち彼らは道であなたに出会い、あなたがうみ疲れている時、うしろについてきていたすべての弱っている者を攻め撃った。このように彼らは神を恐れなかった。それで、あなたの神、主が嗣業として賜わる地で、あなたの神、主があなたの周囲のすべての敵を征服して、あなたに安息を与えられる時、あなたはアマレクの名を天の下から消し去らなければならない。この事を忘れてはならない。』(申命記25:17-19)

アマレクの性質は、一言で言うなら「弱い者いじめ」である。
彼らは、エジプトから出てきた会衆の後ろについて来ていた「弱っている人達」を狙い撃ちにした。
また、アマレクは後に、ダビデと部下達が留守中に女子供を狙い撃ちして、財産を妻子もろとも奪って行った。
また、さらに後のエステルの時代には、ハマンが権力を利用してイスラエル民族全部を皆殺しにしようと企んだが、このハマンは、アマレク人だと言われている。
未来も全て見通される主は、イスラエルや全て「弱い者」のために、このアマレクを必ず滅ぼし尽くさなければならないと命じられたのである。
主は、弱い者を狙い撃ちするようなサタンの性質の者は、滅ぼし尽くすよう、命じられるのだ。

『身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたけるししのように、食いつくすべきものを求めて歩き回っている。この悪魔にむかい、信仰にかたく立って、抵抗しなさい。あなたがたのよく知っているとおり、全世界にいるあなたがたの兄弟たちも、同じような苦しみの数々に会っているのである。あなたがたをキリストにある永遠の栄光に招き入れて下さったあふるる恵みの神は、しばらくの苦しみの後、あなたがたをいやし、強め、力づけ、不動のものとして下さるであろう。』(1ペテロ5:8-10)
ししは、動物を襲う時、群れに向かって吠えたけり、恐れをなして動けないものや、群れからはみ出たものを、食いつくす。
私達も、サタンがほえたける時こそ、信仰のスクラムをしっかりと組み、信仰に固く立って、悪魔に抵抗するのである。
私達が信仰に立ち、神に従い、そして悪魔に立ち向かうのなら、悪魔は逃げ去って行く。(ヤコブ4:7)

主は「あなたの神、主が嗣業として賜わる地で、あなたの神、主があなたの周囲のすべての敵を征服して、あなたに安息を与えられる時、あなたはアマレクの名を天の下から消し去らなければならない。」と言われた。
平安が無い時や、信仰の基盤が確立されていない時は、まだ、悪しき者に戦いを仕掛けるべき時ではない。
主にあって十分に養いを受け、安息が与えられた、安定した時こそ、悪しき者と戦う事が出来るのだ。

礼拝説教メッセージ音声:子を残し、名を残し、いのちを繋げる事(申命記25:5-12):右クリックで保存

今回の箇所では、子々孫々へといのちを繋げる事や、一族の名を残す事の大切さが示されている。

現代の私達が、旧約律法を見ると、子孫を残す事について、結婚について、夫婦のつとめについて、ことさら大切に命じられている所が多いと感じるかもしれない。
現代の法律では、そうした事は強制する所は無く、自由裁量に任されて、あまり重視されていないが、神の国では、家の「名」を残す事、いのちを子々孫々へと繋げる事が、ことさら重要であり、その価値観は、そのまま神の国の住人である私達にも同じである。

『兄弟が一緒に住んでいて、そのうちのひとりが死んで子のない時は、その死んだ者の妻は出て、他人にとついではならない。その夫の兄弟が彼女の所にはいり、めとって妻とし、夫の兄弟としての道を彼女につくさなければならない。そしてその女が初めに産む男の子に、死んだ兄弟の名を継がせ、その名をイスラエルのうちに絶やさないようにしなければならない。』(申命記25:5-6)
もし兄弟が死んでも、その亡くなった兄弟の妻をめとるのを、どうしても拒否するなら、彼女は、彼の足のくつを長老達の前で脱がせ、その顔につばきし、言う。
『「兄弟の家をたてない者には、このようにすべきです。」そして彼の家の名は、くつを脱がされた者の家と、イスラエルのうちで呼ばれるであろう。』(申命記25:10)

主は、アブラハムやヨシュアに「あなたの足の裏で踏む所は、ことごとく与えた」と言ったが、妻とすべき女性をめとる事を嫌がって「くつを脱がされた者の家」(申命記25:10)という烙印を押される事は、イスラエルの土地を踏み歩く権利を脱がされた者として、かなりの恥辱となる。
実際、ルツ記では、夫に先立たれたルツを買い戻すべき責任が最もある親類は、その権利を放棄し、自らくつを脱ぎ、次に権利のあるボアズに渡したが、彼の名は聖書の中には記されず、その名は除外されてしまっている。(ルツ記)

また、ユダの長男エルは主を怒らせるようになり、ついには子供を残さないまま主に殺されてしまったため、ユダは、次男のオナンに、彼女をめとって兄弟の務めを果たすよう命じたが、彼は子が自分のものとならないので、行為の度に子種を地面に流した。
それは「生んで増えて地に満ちる」という神の御心にも、また、父の命令にも、反抗する事だったため、主は彼をも殺されてしまった。
神にも父にも反抗してまで、自分を貫きたい、という者を、主は打たれるのだ。

永遠に名を残し、栄光の家系を受け継ぐ人とは、物質的・肉的な相続を優先させる者ではなく、信仰によって身寄りのない人を養い、御言葉を実践する人である。
ルツ記のボアズがまさしくそうである。
飢えた人にパンを分け与え、貧しい人々を家に入れ、裸の人に着せ、肉親の世話をするなら、暁のように光がさし出で、傷はすみやかに癒され、絶えず主に導かれ、焼けつく土地でも、思いは満たされ、骨は強くされ、潤された園のようになり、水のかれない源のようになるのだ。(イザヤ58:6-12)

ルツを買い戻したボアズは、キリストの予表である。
世の何者も、私達のような罪の負債だけの者を、買い取る事は無い。私達を買い取るメリットなど無く、ただ重荷にしかならないからだ。
しかしそれでも、イエス様は私達を買い取って下さった。
何のメリットも無いのに。それどころか、自分のいのちを投げ出さねばならぬという「究極のデメリット」しか無いのに。
それはただ、彼の大きな愛の故である。

『ふたりの人が互に争うときに、そのひとりの人の妻が、打つ者の手から夫を救おうとして近づき、手を伸べて、その人の隠し所をつかまえるならば、その女の手を切り落さなければならない。あわれみをかけてはならない。』(申命記25:11-12)
「隠し所」はマブシュ、男性の急所の意味もあるだろうが、「ひみつ」という意味である。
たとえ、正当防衛的な理由があったとしても、だからと言って、男性のその部分、すなわち、その家の”命のひみつ”を掴む事は、ゆるされないのだ。

命は主のものである。
イスラエルでは、家の「名」を残す事、いのちを子々孫々へと繋げる事が、ことさら重要であり、その価値観は、そのまま神の国において同じである。
なぜなら、天に私達の「名」が永遠に記され、キリストイエスにあって永遠のいのちをつなげていく事を表しているからである。

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