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既に語られている(ヘブライ1章) 礼拝説教メッセージ 한국어예배 韓国語通訳有
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- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(新約) » ヘブル人への手紙
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- pastor 2011-1-19 23:50
礼拝説教メッセージ音声:既に語られている(ヘブライ1章):右クリックで保存
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このヘブライ人への手紙は主イエスの大祭司としてのご性質や信仰について深い洞察が書かれてあるため、これから水曜礼拝で見ていきたいと思う。
旧約の時代、神様は多くの部分に分けて語られ、色々な不思議やしるしや、神様が直接関わられた記事を見る事が出来る。
今の時代、神様の御声をそのまま聞けて理解できるという人は、ある人によってはよくあるかもしれないが、多くの人にとっては無い事である。
しかし今の終わりの時代、神様は「御子によって既に語られている」(2節)。
パリサイ人がイエス様に「しるしを見せてみろ」と議論を仕掛けた事があった。
その時イエス様が答えられたのは「夕焼けなら晴れで朝焼けなら荒れる事を知っているのに、どうして時代のしるしを見分ける事が出来ないのか」という事で、しるしという”非日常”に対し、天気の見分けという”日常”で切り替えされた。
なぜ主は、昔ながらの万国共通の”日常”で切り替えされたのか。
我々に必要な事は、昔ながらの、万国共通の、日常に存在する「御言葉」で十分、という事である。
天気の見分けは「夕焼けなら、明日は晴れ」だが、それと同様、御言葉も「こうなれば、こうなる」という単純法則の宝庫である。
「初物の十分の一を捧げれば、穀物倉は満ち溢れ酒蔵は溢れる」
「主イエスを信じれば、あなたもあなたの家族も救われる」
このような日常にある御言葉から顔を背けて、しるしや不思議に走るのは、「悪い姦淫の時代」とみなされる。
横浜天声キリスト教会 copyright 2011
ハートブレイクの向こう側(マルコ15:33-39) 礼拝説教メッセージ音声 한국어예배 韓国語通訳有
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- pastor 2011-1-19 7:18
礼拝説教メッセージ音声:ハートブレイクの向こう側(マルコ15:33-39):右クリックで保存
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イエス様が息を引き取る前、12時から15時までの間全地は闇が覆った。
主は群集から捨てられ、神からも見放されたのである。
「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」とはアラム語で「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味であるが、群集はエリヤを呼んでいると勘違いし、酢で満たした海綿をイエス様に差し出して延命させ、エリヤが助けに来るかを見ようとした。
しかし主は「父よ、あなたの両手に私の霊を委ねます」と叫んで息を引き取り、最後まで御父に従順であった。
イエスの死因については、窒息死ではないかというのがよく言われる所である。
十字架刑者の多くの死因は窒息死で、十字架につけられると、そのまま力を抜いていると胸が圧迫され、息ができない。
そこで足で踏ん張って息を確保するが、疲労してくるとそれも出来なくなり、ついには窒息するのである。
しかし、最後に大声で叫んだ事から、まだ息ができら状態だった事、また、わき腹を刺すと血と水が別れて出た事から、心身の極度のストレスによる心臓破裂が原因ではないかと思われる。
全人類の罪を一身に負い、御父から捨てられ、また十字架による肉体的苦痛は、どれほどのストレスだっただろうか。
12時から太陽は顔を隠し、全地は暗くなり神から捨てられた。
神様に親しければ、親しい人ほど、神様から見捨てられる事がどれほどの苦痛で恐ろしいか分かるだろうか。
主は世の始まる以前から御父の懐で親しい愛の関係を結んでいた御子である。
そのストレスはどれほどだったろう。
私達が受けるべき御神との断絶を、イエス様が代わりに断絶されて下さり、私達が死ぬべき死を、イエス様が身代わりに死んで下さった。
彼が亡くなられた時、神殿の幕が真っ二つに裂け、地震がおき、墓が開いて多くの聖徒達がよみがえった。
立ち会った百人隊長は、それらの諸々の天変地異や、またイエス様のご人格を見て、「この方こそまことに神の子であった」と告白した。
イエス様は十字架から降りる事が可能であったのに、敢えて御神との断絶を受け入れ、御父からの罰を受けつくしたのを、そこに居た人達は垣間見たのである。
イエス様が息を引き取った時に裂けた神殿の幕とは、聖所と至聖所を分けるものであり、年に一度、大祭司が小羊の血を携えて幕の奥の至聖所に入って、民の罪の贖いをする。
イエス様はただ一度、まことの小羊として、まことの罪の贖いを成し遂げたが故に、もはや聖所と至聖所を分ける幕は必要なくなったのである。
それ故、イエス様にある私達は、大胆に御前に出て、折に適った助けをいただく事ができるのである。
イエス様はメルキツェデクの系統の、永遠の真の大祭司として贖いをし、力ある叫びを持ってその従順により御父に受け入れられた。(ヘブル5:6-8)
十字架上での焼き尽くされたような叫びと祈りが、御父の前に全焼のいけにえの煙として立ち上り、父なる神は、完全になだめられたのである。
そのイエス様にあって私達は罪の赦し、体のよみがえり、永遠の命を受ける事ができたのである。
主が十字架上で受けた苦しみ、贖いの血を覚えて感謝する者でありたい。
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十字架から降りろ(マルコ15:29-32、ルカ23:39-43) 礼拝説教メッセージ音声 한국어예배 韓国語通訳有
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- pastor 2011-1-18 7:18
礼拝説教メッセージ音声:十字架から降りろ(マルコ15:29-32、ルカ23:39-43):右クリックで保存
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十字架の場面において、人は色々な方向に分かれる。
通りすがりの群集は「おやおや、神殿を打ち倒し、三日で建てる者、十字架から降りて自分を救ってみろ。」(29,30節)と言った。
通りすがりなのに、イエス様の言った言葉をある程度知っていながら、冒涜して通り過ぎていく者はいる。
群集にとっての救いは十字架から降りる事だったが、救いは十字架を経なければ完成しない。
イエス様ご自身がかかられる十字架もあれば人間一人一人が負うべき十字架もある。
負うべき十字架を避けて救いに到達しようとする者は大勢いるが、十字架を避けては、救いは達成しない。
祭司や律法学者達は「他人は救ったのに、自分は救えない。」と言った。つまり、メシヤとしての証拠の奇跡で他の者は救った、と、彼ら自身認めている。
それなのに彼らはイエス様を十字架につけたのだ。
イエスがどなたであるか知った上で、イエスに苦しませ、辱めを与える者もいる。
しかし、通りすがりであろうと、宗教者であろうと、私達であろうと、本来十字架にかからねばならない罪人は、私達人間である。
十字架とは刑罰の道具である。私達がその罰を受けねばならないのに、その罰を免れ、痛みから逃れる事が救いだとカン違いしている者は多いが、神様が提供する救いは全く逆である。
まず自分こそ罪があると認め、悔い改め、永遠に生きておられるイエスというお方に立ち返る事こそが、神様の提供した救いである。
イエス様の両側にも二人の死刑囚が十字架につけられていた。(ルカ23:39-43)
イエス様と同様十字架を受けていた犯罪人の一人も、イエス様を冒涜した。
自らの行いの刈り取りをしている最中であるにもかかわらず、自分のそれまでしてきた事は無いかのように、自分と私をこの苦しみから救え、と、メシヤに要求する者もいるが、当然それはお門違いである。
もう一人の死刑囚は、自分が今受けている苦難は、それまで自らが行ってきた事の当然の罰だと告白し、そして、イエス様は何も悪いことをしていない、と告白した。
さらには、自分もイエス様もあと数時間で命を終えるはずなのに、イエス様に「御国においでになる時には」と、あたかもその後彼には栄光の人生があるかのような告白をしている。
つまり「イエス様は生と死を超えた王である」事を彼は告白したのだ。
彼が認めたその”永遠に生きておられる王”は
「アーメン(これから言う事は真実である)、私はあなたに言う、あなたは今日(すでに)私と共に楽園にいるだろう」(43節、岩波訳)と言われた。
私達も「今日すでに、イエス様と一緒にパラダイスにいる」ためには、どうすれば良いか。
自分こそ十字架にかかるに相応しい罪人であると認め、イエス様は正しいお方である事を認め、そして生と死を超えた永遠に生きておられる王であると告白する事である。
人は、十字架から降りる者こそメシヤだ、自ら刈り取るべき刑罰から免れるのが救いだ、と2重の勘違いをしてるものだが、イエス様は
「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」
と言って、自分で何をしているのか、何を言っているのか分からないような私達人間を取り成して下さった。
この取り成しのゆえに、私達には赦される余地があり、いつでもイエス様に立ち返る事ができる。
今日と言われている日のうちに、私達もイエスを主と告白し、私達こそ十字架にかかるに相応しい罪人であると認め、イエス様は正しいお方である事を認め、そして生と死を超えた永遠に生きておられる王であると告白するべきである。
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預言されていた苦しみ(マルコ15:22-28) 礼拝説教メッセージ音声 한국어예배 韓国語通訳有
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- pastor 2011-1-17 6:58
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ローマ兵はイエス様の衣服をくじによって分けたが、これは詩篇22編にてメシヤの苦難について預言されていた事の成就である。
詩篇22編はダビデが彼を攻め立てる者について書いたが、同時に、彼の子孫から出るイエスキリストの苦難を預言するものだった。
2節「わたしの神よ、わたしの神よ/なぜわたしをお見捨てになるのか」とダビデは詠み、神から見捨てられたかのような「気がした」が、イエス様は文字通り、神から見捨てられ尽くした。
イエス様が十字架に磔にされる際、没薬の入った酒が与えられたが、主はそれを受けなかった。
没薬の入った酒は麻酔作用があり、痛みを和らげる温情措置だが、それを拒み、十字架の痛みを一身に受け、罰を受けつくし、御父の怒りを受けつくしたのだ。
イエス様が身代わりとなって既に罰せられ、既に見捨てられたので、彼を信じる私達はもはや決して見捨てられる事は無い。
9節「主に頼んで救ってもらうがよい。主が愛しておられるなら/助けてくださるだろう。」
主は十字架上で同じ事を言われた。(マタイ27:43)
もし彼らの言う通り、御力をもって十字架から降りてしまったら救いは成就しないばかりか、もしそのような圧倒的力でもって従わせるような神であれば、自由な愛の心を持って人々は従うだろうか。
もしそのように力で従わせる主であったら、表向き従うような者は確かに増えるだろうが、恐怖政治の敷かれた国のように、自由も喜びも無くなってしまう。
神様は自由な心で、心からの愛による従順を求めておられるから、敢えて、主は力で自分を救い出す事はなさらず、力で世に示す事もなさらなかったのだ。
彼が十字架から降りず、十字架上で罰を受けてくださったからこそ、私達に救いがもたらされ、恐怖ではなく自由な心で主に仕える事ができるのだ。
16節「口は渇いて素焼きのかけらとなり」
主は十字架上で「渇く」と言われた。(ヨハネ19:18)
主は焼き尽くす捧げものとして捧げられ、十字架上で祈ったその叫びは香となって御父の前に立ち上り、御父はなだめられ、主はその敬虔のゆえに大祭司となられた。(ヘブル5:7-10)
マルコ15:28(異本)『「不法な者と共に数えられた」という聖書の言葉が実現した』
ここはイザヤ53:12の成就であり、主はその従順のゆえに多くの人達を分捕り者として与えられた。
彼は罪人の一人として数えられ、身代わりとなられたからこそ、彼を信じる者は彼の分捕り物として、罪人の内に数えられなくなるのである。
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クレネ人シモンと女達(マルコ15:21) 礼拝説教メッセージ音声 한국어예배 韓国語通訳有
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- pastor 2011-1-14 7:23
礼拝説教メッセージ音声:クレネ人シモンと女達(マルコ15:21):右クリックで保存
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十字架刑の場所であるゴルゴダの丘までの間、イエス様は十字架を背負って最後まで歩く事ができなかった。
その前日、ピラトの前で鞭打たれ、大量の血を流していたからである。
当時の鞭には石や釘が仕込んであり、鞭打たれる度に血と肉が飛び散ったため、イエス様の背中は酷い状態であった。
そこで、たまたま通りかかったキュレネ人シモンが徴用されたわけである。
彼は「アレクサンドロスとルフォスとの父」とあり、またローマ16:13の記述から推測するに、キリスト者の集まりでは有名人物だった可能性が大きい。
つまり、十字架を背負った時点では、イエス様とは全く面識がなかったものの、共に十字架を負う内にイエス様のご人格に触れ、後にはキリスト者の集まりに加わったと思われる。
彼はたまたまその場に居合わせ、ずいぶん血に汚れた死刑囚が苦労しているな、ぐらいに野次馬のように見ていただけだったかもしれないが、そこを突然徴用されたわけである。
見ず知らずの犯罪人の十字架を背負わされるなんてとんだとばっちりだと思ったかもしれない。
ところがこの十字架を背負わされている死刑囚は、どうも邪悪ではなさそうだ。
それどころか、大勢の女達が泣きながら彼に従っている。
その女性達は、この事が起きるよりも前にイエス様と出会い、信じ、彼の良さを十分知っていたので、きっと「もし自分が力ある男性だったら自分から進んで十字架を背負う事を手伝いたい」と思っていた事だろう。
ところが、唯一彼の手伝いが出来たのは、外国出身の、初対面のこの男であった。
彼のように、ある日突然イエス様と出会い、半ば暴力的にイエス様の十字架を背負う役割を負わされたようなキリスト者もいるし、イエス様と共に働くうちに、イエス様というお方に触れていき、その魅力にどんどん取り付かれて行く事もある。
彼は、後ろにいる女性達にも感謝の声をかけられた事だろう。
「本当は私達が、あなたの役割を果たしたかった。でも、力が無いので出来なかった。本当によく助けてくれた。」
そう言われただろう。
イエス様のお役に立ちたい、彼のためにこれこれの働きをしたいけれど、力が無いので出来ない。そんな彼女達の代わりに、イエス様の事を全く知らない人が、はじめは嫌々ながらその役割につく。
イエス様との出会いの仕方、働きの分与のされ方、主の配剤の仕方は、本当に不思議である。
女性達は力なく、「お前達もイエスの仲間か」と捕らえられる事すらされない程、取るに足らない存在。
ただ泣いてついていくしか出来ない彼女達であったが、そうする事によって、一緒に十字架を背負ったわけである。
そしてクレネ人シモンは実際にイエス様の十字架を背負う助けをした。
ゴルゴダの刑場に至るまで、このような男性女性がイエス様の十字架と共に歩んだのである。
クレネ人シモンは、いずれ十字架を肩から下ろす時が来る。
背負うべき十字架の分はあるが、大勢の人の身代わりとなって十字架にかかるのは、イエス様しか出来ない分である。
しかし、私達に背負う事の出来る十字架は、確かにある。
イエス様と共に十字架を背負い、各々しか果たせない御国の働きをするみなさんでありますように。
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十字架前のイエスを取り巻く「私達」(マルコ15:15-20)礼拝説教メッセージ音声 한국어예배 韓国語通訳有
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- pastor 2011-1-13 6:38
礼拝説教メッセージ音声:十字架前のイエスを取り巻く「私達」(マルコ15:15-20):右クリックで保存
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ピラトは結局、群集を満足させようとしてバラバを釈放し、イエスを引き渡した。
彼が満足させようとした群集とは、大祭司達などイエス様を憎み殺そうとした群集達である。
ローマの兵士達は、イエスを引き渡されて彼を嘲弄し、茨の冠を被せたりした。
イエス様を裏切ったり見捨てたり、侮辱して傷つけた人達を見ると、憤るだろうか。
しかし私達は、これら一連の登場人物達の一人に、いつでもなり得るのである。
私達はいつでも、イエスを売り渡したユダにも、3度知らないと言ったペテロにも、イエスに本質を突かれて殺意を覚えた祭司長達にも、扇動されて「十字架につけろ」と言う群集の一人にも、茨の冠を被せた兵士にも、手を洗って「私には関係無い」と言ったポンテオ・ピラトにも、いつでもなり得る。
彼ら一人一人がイエスを苦しめた張本人であり、その張本人の一人が実に私達なのである。
使徒信条に引用されているポンテオ・ピラトは、総督としてイエスを十字架につける権限もあれば、十字架から守る権限もあったが、私達もイエスを知る者として、信仰告白する者として、ポンテオ・ピラトと同様の立場にある。
イエス様を最初から否定し、否定して終わるような者達には、主は目を留めておられないが、主に目を向けようとする者達にこそ主は目を留められ、特別に扱われるのだ。
イエス様が十字架上で息を引き取った場面においては、それを見て悔やんだ少数の者がおり、その中の百人隊長は神をあがめた。
その時点、ペテロ達は「イエスを知らない」と言って隠れたままであり、そこで聖書が終わるならそのままであったが、彼らはイエスの名の集まりにいたからこそ後に大いに変えられ、栄光のために用いられた。
イエスの名のある交わりに集まり続けるなら、ユダも、祭司長も、ピラトさえも、後に変えられたはずである。
私達が学ぶべきは、歴史上の人物達を第3者的にどうこう批評する事ではなく、私達の内のユダやペテロ、祭司長達、群集、兵士、ポンテオ・ピラトをどうするかであり、いかにイエスの名を否まず、彼を主とし続けられるかである。
それによって、人生を「後悔」で塗りつぶすか、御国の為に用いられる充実感で塗り替えるかが決まる。
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イエスを前に分かれる人々(ヨハネ19:12-15) 礼拝説教メッセージ音声 한국어예배 韓国語通訳有
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- pastor 2011-1-12 7:22
礼拝説教メッセージ音声:イエスを前に分かれる人々(ヨハネ19:12-15):右クリックで保存
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人はイエス様の前に、色々なタイプに分かれる。
ピラトは何とかしてイエスを解放しようとし、イエスについて「ユダヤ人の王」という言葉にこだわった。
彼は確かにユダヤ人の王と認めるのだが、周りの人や空気に負けて、この王を死に定め、人殺しを解放してしまった。
ユダヤ人は、イエスがどういうお方であるのかを見、彼が自由に行動されるのを嫌がり、歯軋りし、その者の死を声高に叫ぶ。
彼らは「自分を王とする者は皇帝に逆らう」(ヨハネ19:12)と言った。
自分が自分の王座を下りる、という所までは聖書的であるが、その王座に座っていただく者が問題である。
座っていただく者がこの世の王であると、ユダヤ人達がそうであったように、その王に搾取された挙句、滅ぼされてしまうのである。
またヘロデ・アンティパスはイエスに出会って大いに喜んだが、それは彼が徴を成す事で有名で、興味があったからである。(ルカ23:6-12)
ヘロデは色々と興味本位で質問したり促したりするが、それに対するイエス様の応答は、何もせず黙っている、というものであった。
結局ヘロデがイエスに成した行動は、兵士達と一緒に侮り、なぶり、けばけばしい衣を羽織らせて放り出す事だった。
イエス様を単に興味本位で質問し、はでに飾り立てたり、面白おかしくなぶりものにする者たちに対しては、イエス様は何の反応もされず一言も発しないのである。
イエスはこの場面においては弱々しくみっともなく、誰も「この人の仲間です」と言いたくないような状況であるが、イエスは王の王、主の主、誰も近づく事のできない光の中に住まわれるお方であり、このお方を主とする者は力を得、勝利を得る。
弟子達はこの時点、逃げ隠れして震えていたが、十字架後のイエスによって大胆にイエスを証し、力を得た。(使徒4章)
私達が留まるべきは、イエスの名の内である。
十字架の言葉に留まる者は一時敗北のように見えるが、十字架の向こうには復活と勝利、栄光がある。
イエスの名によって癒しと徴と奇跡を行い、大胆に神の言葉を語るみなさんでありますように。
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ポンティオ・ピラトの前で証するイエス(1テモテ6:13-16、ヨハネ18、19章) 礼拝説教メッセージ音声 한국어예배 韓国語通訳有
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- pastor 2011-1-11 7:34
礼拝説教メッセージ音声:ポンティオ・ピラトの前で証するイエス(1テモテ6:13-16、ヨハネ18、19章):右クリックで保存
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ポンティオ・ピラトの前でのイエスは、口を開かず、辱められ、弱さの極みであったが、イエスキリストは唯一の権力者で王の王、主の主、不死なるお方であり、近づくことのできない光の中に住んでおられる力強い主である。(1テモテ6:13-16)
万物に命をお与えになったお方が、ポンティオ・ピラトの面前で証しをなさったのだ。(13節)
彼のポンティオ・ピラトの前での告白を見て行きたい。(ヨハネ18:33-38)
ピラトが最初に見たイエスは、大勢の悪意の群集に囲まれ、祭司長達に罵られ、犯罪人として縛られて引っ立てられている様子であった。
そのような状況の33歳の若造なら、本来、絶望と恐怖に満ち、卑屈に総督の前に出ているべきなのに、平安と清らかな佇まいに満たされていた彼の様子を見て、ピラトはただ者ではないと悟った。
彼がイエスと会話を交わしていくうちに、イエスが地上にいるどんな人間とも違い、全てを越えた聖なる王の性質に触れていく。
イエスの前には、総督であろうと奴隷であろうと、イエス様を王とするか、しないかの、2つに一つしかない。
そしてそれは、イエス様が輝く天の王座に座っていようとも、犯罪人のように捕縛され打ち傷に満たされた状態であろうとも、である。
「わたしが王だとは、あなたが言っていることです。わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く。」(ヨハネ18:37)
この部分を本の字面を追って読むだけなら「何を突拍子も無い事を」と思うかもしれないが、その場面の状況として、究極的に弱い立場の筈のイエスが、いつでも御使い達に命じて守らせる事の出来る余裕と、清らかで平安に満ちた佇まいの内にこの言葉を発したのだから、ピラトはますます、このお方は何かしらの王たるに相応しい者であると確信する。
ピラトは確かにイエスを釈放する権限も、十字架につける権限もあるのだが、ピラトも上から権力を与えられなければ何もできない事を言われ、なんとかして釈放したいと思うようになっていった。
ピラトはイエスの無罪を宣言しても、群集はバラバ釈放を要求し、あくまでイエスの十字架を要求した。
祭司長達が本来王とすべきは、唯一の神であるはずなのに、皇帝陛下の他に王は無いと言ってみたり(15節)、異邦人に支配されるのは嫌いなはずなのに、その異邦人の権力に取り入って利用してイエス様を十字架につけようとする。
外見だけの宗教者はこのように、自分の王を好き勝手に摩り替えたり、聖なるお方を罪に定めたり、邪悪なバラバを釈放したりするのである。
ピラトは「見よ、この人だ」と叫び、この聖なるお方をお前達は十字架につけていいのか?と促すが、結局ピラトはイエスを引き渡してしまうのである。
人間とは悟りが無ければ、とことん弱く愚かなのである。
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私達の内にいるポンテオ・ピラト(マルコ15:1-15) 礼拝説教メッセージ音声 한국어예배 韓国語通訳有
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- pastor 2011-1-10 6:44
礼拝説教メッセージ音声:私達の内にいるポンテオ・ピラト(マルコ15:1-15):右クリックで保存
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使徒信条で出てくる人名は、マリヤとポンテオ・ピラトの二人である。
ピラトはイエスを庇おうという意図が見られるため、ピラトの前に苦しみを受け、というより祭司長や群集の前に苦しみを受け、のほうがいいのではないか。
マリヤが出てくるのは分かるが、なぜピラトなのか。詳しく見て行きたい。
当時のユダヤでは死刑確定の権限は無く、ローマにあったため、イエス様はまず総督であるピラトの前に連れて行かれた。
ピラトは総督に登りつめた人間であるため、彼らが妬みの故にイエスを連れてきた事は察知していた。
また彼の妻も「この義人には関わらないで」と伝えていたため、彼としてはあまり関わりたくない案件であった。
そこで、誰の目にも明らかに悪人であるバラバ・イエスを釈放するか、それともキリスト・イエスを釈放するかの2択を迫り、まさかバラバを釈放するわけはないと思った訳だが、群集が選んだのは、バラバであった。
ピラトはイエスが死刑にならないよう色々手を尽したが、最終的に、彼が死刑を”許可”してしまう。
群集はキリストがどんな悪事を働いたのかという問には答えず、いっそう激しく「十字架につけろ」と叫んだだけであった。
ピラトは群集の前で水を取って手を洗ったが、それは自分にはこの事については責任が無い、という象徴的行為である。
ここまで見ると、ピラトは結構良い人で、同情の余地もあるのでは、と思うかもしれないが、しかし彼は主を死刑に定めた。
私たち自身も、ピラトのような性質を持っている。
イエスを助けたいという思はあるのだが、結局は周りの大声に負け、私達の内で沈黙の眼差しを向けているイエスを拘束し、死刑宣告し、そしてバラバを開放してしまう事がある。
私達の人生の選択の場面において、「この事はしょうがない」と言って手を洗い、イエス様を、私というポンテオピラトの元で苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、、、という使徒信条の下りを、演じてしまうのである。
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礼拝説教メッセージ音声:イエスの名を否んでも(マルコ14:66-72) :右クリックで保存
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人はその場の空気に支配され、口先では心と違った事を言う傾向がある。
イエス様が尋問されていた時、ペテロが中庭に行ったのはイエス様を思う気持ちからだったが、女中に指摘された時、彼は単に場の空気に順応したかっただけで、「言葉ではイエス様を否んでしまったが心はイエス様に使えているのだ」とさえ思わなかった程に無意識、反射的だったかもしれない。
しかし彼は事実「イエスを知らない」と3度言うのであり、鶏は鳴くのである。
ペテロはその少し前、力を込めて「死んでもイエス様を知らないとは言わない」と言っていたが、その夜が明ける前に、力を込めて、しかも誓って「イエス様を知らない」と言ってしまった。
主に従いつくせるかどうかは、力のある無しは全く関係ない。
主のことばを守り、主の名を知らないと言わない教会こそ、大艱難の時にに守られる教会である(黙示録3:7-10)が、それは人の力では出来ない。
最後までイエス様を愛し尽す力は人には無いが、主は私達の信仰が無くならないように執り成しておられる。
ペテロとイスカリオテ・ユダの違いは、イエス様の名の元に集まる事を止めなかったか、止めたかである。
死してお詫び申し上げる、など、主の前には美学でも何でもなく、究極の自慰行為である。
たとえ主の名を否んでも、生き恥を晒しても、主の集まりから決して離れない事を、主は望んでおられるのだ。
ペテロはこの後、再びイエスの名のために大勢の前で尋問される時が来るが、その時彼は大胆にイエスを告白し、それを聞いた権力者達は何も答える事ができなかった。(使徒4:5-14)
この力の源は聖霊に満たされていたからであり(使徒4:8)、聖霊に満たされるコツは、主の集まりから離れない事。
無学な普通の人である事は何の問題も無く、大切なのは、イエスと一緒にいる者である、という事だ。(使徒4:13)
困難な時代において守られる者とは、イエスの名を否まない者であるが、イエスの名を否まない事は人間の力では出来ない。
しかし聖霊に満たされるなら、このお方を否まないどころか、大胆にイエスを伝える事が出来る。
聖霊に満たされる者とは、イエス様の名の元から離れない者である。
イエスニム イルムロ チュッポク パドゥル チヨダ!
(イエスの名によって祝福されよ!)