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主の素晴らしい約束へのダビデの応答(2サムエル記7:17-29)
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- pastor 2015-8-12 22:56
主の素晴らしい約束へのダビデの応答(2サムエル記7:17-29)
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ダビデの家を永遠に固く立てるという約束を主からいただいたダビデは、応答の祈りをする。
『主なる神よ、わたしがだれ、わたしの家が何であるので、あなたはこれまでわたしを導かれたのですか。主なる神よ、これはなおあなたの目には小さい事です。主なる神よ、あなたはまたしもべの家の、はるか後の事を語って、きたるべき代々のことを示されました。』(2サムエル記7:18-19)
どうして、こんなにも取るに足りない自分、こんなつまらない自分を、主は王として選んでくださり、ここに至るまで導いて下さり、さらには、遥か後の来るべき永遠までも示して下さるのですか、と、ダビデは驚き感嘆し、それを主に告白した。
彼は詩篇8篇でも言っている。
『わたしは、あなたの指のわざなる天を見、あなたが設けられた月と星とを見て思います。人は何者なので、これをみ心にとめられるのですか、人の子は何者なので、これを顧みられるのですか。』(詩篇8:3-4)
主の偉大さ、遠大さに引き換え、自分を見ると、ただただ小ささ、足りなさしか見いだせない。
『ダビデはこの上なにをあなたに申しあげることができましょう。主なる神よ、あなたはしもべを知っておられるのです。あなたの約束のゆえに、またあなたの心に従って、あなたはこのもろもろの大いなる事を行い、しもべにそれを知らせられました。』(2サムエル記7:20-21)
私達もダビデ同様、主の偉大さを前に、主に対して、この上何も申し上げる事はできない。
ダビデは、主が告げられた素晴らしい約束について、ただ驚きと、賛美と、その通りに成りますようにという「アーメン」しか無かった。
主の御言葉に対し、私達はただ「アーメン(その通りです)」だけが、本来の反応だ。
『主なる神よ、あなたは偉大です。それは、われわれがすべて耳に聞いたところによれば、あなたのような者はなく、またあなたのほかに神はないからです。地のどの国民が、あなたの民イスラエルのようでありましょうか。これは神が行って、自分のためにあがなって民とし、自らの名をあげられたもの、また彼らのために大いなる恐るべきことをなし、その民の前から国びととその神々とを追い出されたものです。』(2サムエル記7:22-23)
彼がこのように、両手放しで主を賛美できたのは、主の偉大さ、素晴らしさ、寛大さ、憐れみ深さ、その他、主が成して下さったあらゆる良きわざ、主のあらゆる良きご性質を、知り、理解し、味わったからである。
一体私達は、主が私達に与えて下さった良きわざをどれ程知って、理解しているだろうか。
主の御業の大いなる事を、どれ程体験し、感謝し、それを喜び誉めたたえているだろうか。
25節以降で、ダビデは「願いごと」を申し上げているが、そこには、人間的な願いは一切無い。
ただ主の御胸がなりますように、という願いのみである。
『主なる神よ、今あなたが、しもべとしもべの家とについて語られた言葉を長く堅うして、あなたの言われたとおりにしてください。そうすれば、あなたの名はとこしえにあがめられて、『万軍の主はイスラエルの神である』と言われ、あなたのしもべダビデの家は、あなたの前に堅く立つことができましょう。万軍の主、イスラエルの神よ、あなたはしもべに示して、『おまえのために家を建てよう』と言われました。それゆえ、しもべはこの祈をあなたにささげる勇気を得たのです。』(2サムエル記7:25-27)
ダビデは、主が約束されたお言葉の通りに、なりますように、と、ただ願っている。
ちょうど乙女マリヤが「お言葉の通りにこの身に成りますように」と祈ったように。
この従順の応答こそ、主が何にもまして喜ばれる祈りである。
『主なる神よ、あなたは神にましまし、あなたの言葉は真実です。あなたはこの良き事をしもべに約束されました。どうぞ今、しもべの家を祝福し、あなたの前に長くつづかせてくださるように。主なる神よ、あなたがそれを言われたのです。どうぞあなたの祝福によって、しもべの家がながく祝福されますように」。』(2サムエル記7:28-29)
ダビデは、主が約束された途方もないスケールの約束を、そのままアーメンと言って受け入れた。
それ故、彼の上にそれは成就していく。
私達・キリストを信じる者に対し、主が用意しておられる祝福のご計画もまた、主がダビデに約束して下さったように、スケールが大き過ぎて、途方も無い事である。
私達はキリストにあって、モーセよりダビデよりヨブより偉大な者だという認識があるだろうか。(ルカ7:28)
私達は既に死んでおり、その命はキリストと共に神の内に隠されているという認識があるだろうか。(コロサイ3:3)
パウロであれ、アポロであれ、ケパであれ、また世界であれ、命であれ、死であれ、現在のものであれ、未来のものであれ、キリストにあって、全て私達のものだとの認識があるだろうか。(1コリント3:21-22)
私達はキリストの中で共に復活され、共に天上に座らせられた、という認識があるだろうか。(エペソ2:6)
信じる者には、イエスの御名で悪霊を追い出し、新しい言葉を語り、蛇をつかみ、毒を受けても決して害を受けず、病人に手を置けば癒される、という認識があるだろうか。(マルコ16:17-18)
これらの約束へのアーメンと従順が、私達の中で開かれれば開かれる程、その領域における約束は実体化され、人生の中に導入されて来るのだ。
例えば、癒やしが起きる事に対してアーメンならば、癒やしは自分の人生に実体化されてゆき、また、必要の満たしに対してアーメンするならば、実体としての必要が満たされて行くのだが、もし、「癒やしも奇跡も起きっこない」という「御言葉への付け加え・取り除き」があるなら、その方面の実体は開かれる事なく、人生で体験する事もないままである。
私達に必要なのは、ダビデと同じ告白である。
『主なる神よ、あなたは神にましまし、あなたの言葉は真実です。あなたはこの良き事をしもべに約束されました。どうぞ今、しもべの家を祝福し、あなたの前に長くつづかせてくださるように。主なる神よ、あなたがそれを言われたのです。どうぞあなたの祝福によって、しもべの家がながく祝福されますように」。』(2サムエル記7:28-29)
御言葉をそのまま信じ、そこに書かれてある事が、信じた通りに、その身になる皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!
ダビデ契約(2サムエル記7:1-16)
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『さて、王が自分の家に住み、また主が周囲の敵をことごとく打ち退けて彼に安息を賜わった時、王は預言者ナタンに言った、「見よ、今わたしは、香柏の家に住んでいるが、神の箱はなお幕屋のうちにある」。ナタンは王に言った、「主があなたと共におられますから、行って、すべてあなたの心にあるところを行いなさい」。』(2サムエル記7:1-3)
自分はここまで快適で豪勢に暮らしているというのに、主の箱は相変わらず粗末な環境にある、とダビデは思ったのかもしれない。
それをダビデは預言者ナタンに相談し、ナタンも最初は「あなたの心にある所を行いなさい」と言ったのだが、その夜、主は意外な事を告げられる。
『「行って、わたしのしもべダビデに言いなさい、『主はこう仰せられる。あなたはわたしの住む家を建てようとするのか。わたしはイスラエルの人々をエジプトから導き出した日から今日まで、家に住まわず、天幕をすまいとして歩んできた。わたしがイスラエルのすべての人々と共に歩んだすべての所で、わたしがわたしの民イスラエルを牧することを命じたイスラエルのさばきづかさのひとりに、ひと言でも「どうしてあなたがたはわたしのために香柏の家を建てないのか」と、言ったことがあるであろうか』。』(2サムエル記7:4-7)
主は天にも地にも満ちておられ、まどろむ事も眠る事も無く、疲れる事もたゆむ事も無いお方である。
だから、主の箱が幕屋から香木の家などに入った所で、主は安息や快適さを覚えられるような事はない。
『いと高き者は、手で造った家の内にはお住みにならない。預言者が言っているとおりである、『主が仰せられる、/どんな家をわたしのために建てるのか。わたしのいこいの場所は、どれか。天はわたしの王座、/地はわたしの足台である。これは皆わたしの手が造ったものではないか』。』(使徒7:48-50)
そもそも、幕屋や契約の箱はこれこれの寸法と材料で造りなさい、と、事細かく指示されたのは、主である。
その主が定めた事を、人はとやかく申し出る事などできないのだ。
ただ、ダビデとしては、主を愛するが故に、主に何かしたかったのだろう。
ちょうど、子供が親のために何かしたいと思って何かしても、その内容は幼稚で、意味が無く見えるように。
しかし親は、そんな子供を愛おしく思うものである。
主もダビデを愛おしく思ったのだろう、さらに大いなる名誉を与えようと約束される。
『主はまた「あなたのために家を造る」と仰せられる。あなたが日が満ちて、先祖たちと共に眠る時、わたしはあなたの身から出る子を、あなたのあとに立てて、その王国を堅くするであろう。彼はわたしの名のために家を建てる。わたしは長くその国の位を堅くしよう。わたしは彼の父となり、彼はわたしの子となるであろう。もし彼が罪を犯すならば、わたしは人のつえと人の子のむちをもって彼を懲らす。』(2サムエル記7:11-14)
主のための家を建てたいと願っていたダビデだが、なんと主は、ダビデのために永遠に堅く続く家をたてる、と言われたのだ。
永遠の王が、ダビデの家系から誕生する、と。
もっとも、ダビデの次のソロモンは、王となった当初は良かったものの、繁栄するにつれ堕落し、彼に続く王達も主から離れ罪を犯すようになり、「もし彼が罪を犯すならば、わたしは人のつえと人の子のむちをもって彼を懲らす」の言葉どおりになってしまい、ついにはアッシリヤやバビロンという「つえ(イザヤ10:5)」によって、散らされてしまった。
しかし主は、ダビデの家に対する憐れみを忘れない。
『しかしわたしはわたしのいつくしみを、わたしがあなたの前から除いたサウルから取り去ったように、彼からは取り去らない。あなたの家と王国はわたしの前に長く保つであろう。あなたの位は長く堅うせられる』」。』(2サムエル記7:15-16)
主は、堕落してしまったダビデ王家を懲らしたが、ダビデに約束されていた通り王権はダビデの家から離れること無く、イエス・キリストによって「位は長く堅うせられる」の預言は成就したのだ。
この、永遠の王メシヤ、すなわちイエス・キリストが、ダビデの子孫から生まれるという約束を「ダビデ契約」と言う。
それでユダヤ人達は、メシヤを「ダビデの子」と呼んで待ち望んだ。
だから、新契約聖書の最初、イエス・キリストの福音書のはじめは、アブラハムの子であるダビデの子、イエス・キリストの系図で始まるのである。(マタイ1:1)
いのちを産まなかったミカルの特徴(2サムエル記6:16-23)
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- 執筆 :
- pastor 2015-7-31 23:50
いのちを産まなかったミカルの特徴(2サムエル記6:16-23)
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主の箱がいよいよダビデの町に入った。
最初、御言葉を守ろうという姿勢も、主への敬いもないまま運び入れようとした時は、痛い目に遭ったが、御言葉を遵守し、心して臨んだ結果、事は成功し、しかも、大きな喜びがあった。
それは現代、教会や主の働きにおいても同じである。
『人々は主の箱をかき入れて、ダビデがそのために張った天幕の中のその場所に置いた。そしてダビデは燔祭と酬恩祭を主の前にささげた。ダビデは燔祭と酬恩祭をささげ終った時、万軍の主の名によって民を祝福した。』(2サムエル記6:17-18)
ダビデはこの時、祭司やレビ人と同じ服装、すなわち亜麻布のエポデを身にまとって、人々を祝福した。
王たる者が、祭司のようになって、人々を祝福する。
ダビデはまさに、王の王であり、かつ永遠の大祭司であるイエス・キリストのひな形である。
祝福する事は、牧師など一部の人だけの特権ではない。一家の長や、権威的に上に立つ人は、積極的に家族や配下の人々を祝福するべきである。
『言うまでもなく、小なる者が大なる者から祝福を受けるのである。』(ヘブル7:7)
アブラハムも、イサクも、ヤコブも、子孫達を祝福したし、ボアズも自分の元で働く従業員達と祝福の挨拶を交わしあったし、ヤコブはエジプトのパロをも祝福して、その祝福された家族や配下の集団、国は祝福された。
イエス・キリストを信じて救われた人は、皆、キリストにあって祭司である。祭司であるからには、神と人との間に立って執り成し、祈り、祝福するという「祭司の務め」を果たすべきだ。
『そしてすべての民、イスラエルの全民衆に、男にも女にも、おのおのパンの菓子一個、肉一きれ、ほしぶどう一かたまりを分け与えた。こうして民はみなおのおのその家に帰った。』(2サムエル記6:19)
エルサレムという都に主の契約の箱が入った時、ダビデが全ての男性・女性にもごちそうを配ったように、主イエス・キリストが栄光を帯びてやがて来られる日、主は、主を望みつつ歩んできた全ての人達を、男も女も天の大祝会に招き入れ、彼らを慰め、喜び楽しませて下さる。
『万軍の主はこの山で、すべての民のために肥えたものをもって祝宴を設け、久しくたくわえたぶどう酒をもって祝宴を設けられる。すなわち髄の多い肥えたものと、よく澄んだ長くたくわえたぶどう酒をもって祝宴を設けられる。また主はこの山で、すべての民のかぶっている顔おおいと、すべての国のおおっているおおい物とを破られる。
主はとこしえに死を滅ぼし、主なる神はすべての顔から涙をぬぐい、その民のはずかしめを全地の上から除かれる。これは主の語られたことである。その日、人は言う、「見よ、これはわれわれの神である。わたしたちは彼を待ち望んだ。彼はわたしたちを救われる。これは主である。わたしたちは彼を待ち望んだ。わたしたちはその救を喜び楽しもう」と。』(イザヤ25:6-9)
私達・教会(キリストに召しだされた「人達」)は、まことの花婿・キリストを迎える「花嫁」すなわち「新しいエルサレム」である事が、黙示録に記されている。
花婿が花嫁の所に入って来た時、花嫁に大きな喜びが沸き起こるように、王の王である花婿キリストが花嫁エルサレムに入ってくる時、都全体はこぞって、大いに喜び楽しむ。それは、彼女(新しいエルサレム=教会=私達キリスト者)は、花婿キリストと永遠に一緒になり、もはや涙も悲しみも無く、永遠の安息を得るからである。
さて、エルサレムに主の箱が入ってきた時、それを一緒に喜ぶ事をせず、窓からダビデを見下ろし、蔑んでいた者がいた。
『主の箱がダビデの町にはいった時、サウルの娘ミカルは窓からながめ、ダビデ王が主の前に舞い踊るのを見て、心のうちにダビデをさげすんだ。』(2サムエル記6:16)
彼女は、主の箱が自分の町に入って来た事、主の栄光と臨在が共に住まわれる事の喜びで心を満たすのではなく、彼女の夫であり王であるダビデに対する蔑みで心をふくらませていた。
『ダビデが家族を祝福しようとして帰ってきた時、サウルの娘ミカルはダビデを出迎えて言った、「きょうイスラエルの王はなんと威厳のあったことでしょう。いたずら者が、恥も知らず、その身を現すように、きょう家来たちのはしためらの前に自分の身を現されました」。』(2サムエル記6:20)
ダビデは家族を祝福するために入ってきたのに、ミカルはそれを遮って、自分の中で膨らませていた不満をぶちまけた。
祝福をしてくれる人、すなわち、主を畏れ敬う主人を蔑む人は、いのちの祝福を受けられない。
ミカルは、ダビデに王として威厳を保つべき事を、求めたのだろう。
王たる者は、民草と対等になってはならない、王服を脱ぐべきでない、と。
しかし、神の国においては、自分という「王」の上に、さらに王の王たるお方がおられ、そのお方の前では、むしろ自分の王服を脱ぐべきであり、自分の冠を外すべきなのだ。
『ダビデはミカルに言った、「あなたの父よりも、またその全家よりも、むしろわたしを選んで、主の民イスラエルの君とせられた主の前に踊ったのだ。わたしはまた主の前に踊るであろう。わたしはこれよりももっと軽んじられるようにしよう。そしてあなたの目には卑しめられるであろう。しかしわたしは、あなたがさきに言った、はしためたちに誉を得るであろう」。』(2サムエル記6:21-22)
ダビデは自分よりももっと「王」なるお方、すなわち、自分も、ミカルの父をも、王として下さったお方がおられる事を、ミカルに言った。
さらにダビデは、自分はもっともっと主の前に低くされて行く、と告白し、また、自分が王として君臨する事より、むしろ、ミカルが「家来たちのはしためら」と呼んで蔑んだ人達から、誉れを受ける事のほうを望んだ。
王であられる立ち位置を捨てて、へりくだり、人と同じようにいやしくなり、蔑まれているような人々の友となり、そして、人々の前で裸をさらした。
キリストはまさにそうだった。
彼は王であられる立ち位置を捨てて、人と同じようになり、また、偉いと見られている人々から蔑まれ、むしろ子供や遊女や取税人からほまれを受けた。
彼はあざけられ、罵られ、その衣服は人々によってくじにかけられ、十字架の上で裸を晒された。
『キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。
それゆえに、神は彼を高く引き上げ、すべての名にまさる名を彼に賜わった。それは、イエスの御名によって、天上のもの、地上のもの、地下のものなど、あらゆるものがひざをかがめ、また、あらゆる舌が、「イエス・キリストは主である」と告白して、栄光を父なる神に帰するためである。』(ピリピ2:6-11)
キリストは自分を卑しくし、死に至るまでも忠実だったからこそ、何にもまさる栄誉が与えられたように、ダビデもまた、主の御前では王服を脱ぎ、王座を降り、自分を低くしてへりくだる心を持っていたからこそ、高められたのだ。
自分を低くする者は高められ、高くする者は低くされる。(ルカ14:11)
ミカルは「サウルの娘」という呼ばれ方はされていても、「ダビデの妻」「王妃」という呼ばれ方はされなかった。
ミカルも、彼女の父も、あくまで自分という王座から降りない道を貫き通したが、ミカルはどうなったか。
『こうしてサウルの娘ミカルは死ぬ日まで子供がなかった。』(2サムエル記6:23)
ミカルからは、いのちが生まれなかった。
ミカルのような性質の人、すなわち、自分が王であろうとする人、祝福すべき夫や権威を敬わず、いつも自分が上となって意見していたい人には、主はいのちを任せられないのだろう。
私達は、まことの王、まことの夫である主キリストを前にした時、自分の王座を降り、主に全てを譲り、主のなさる事を喜ぶべきである。
そうするなら、主は豊かにいのちを与えて、任せて下さる。
正しい奉仕方法と相応しい奉仕者の総チェック(2サムエル記6:10-15)
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- pastor 2015-7-29 6:12
正しい奉仕方法と相応しい奉仕者の総チェック(2サムエル記6:10-15)
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『ダビデは主の箱をダビデの町に入れることを好まず、これを移してガテびとオベデエドムの家に運ばせた。』(2サムエル記6:10)
ウザの事件で、ダビデは恐れたのだろう。
調子に乗って分相応でない事をしようとしたのではないだろうか、自分ごときが、神の箱を自分の都に運び込んでも良いものか、と。
しかし、神の箱がエルサレムに来る事は、主の御心だった。
『神の箱はガテびとオベデエドムの家に三か月とどまった。主はオベデエドムとその全家を祝福された。』(2サムエル記6:11)
ガテといえばペリシテの領地である。昔、神の箱がガテに来た時、非常な災いが起こり、多くのガテ人が打たれた。(1サムエル記5:9)
また、オベデエドムの名の意味は「エドムに仕える」である。きっと彼は、異邦人でありながらイスラエルの神に帰依した人であろう。
そのような人でも、主の箱がそこに安置されて以来、その家には災いならぬ祝福が来た。
『ダビデ王は、「主が神の箱のゆえに、オベデエドムの家とそのすべての所有を祝福されている」と聞き、ダビデは行って、喜びをもって、神の箱をオベデエドムの家からダビデの町にかき上った。』(2サムエル記6:12)
わずか3ヶ月で、明らかに「神の箱のゆえに」祝福されたという報告がされたからには、その祝福は余程、あからさまで分かりやすいものだったのだろう。
それでダビデは悟った。
主の箱を自分の所に運び込む事については「青信号」だったけれども、その手段が「赤信号」だったのだ、と。
ダビデは今回の失敗の原因と、これからどうすべきかを調べた。
『ダビデは言った、「神の箱をかくべき者はただレビびとのみである。主が主の箱をかかせ、また主に長く仕えさせるために彼らを選ばれたからである」。』(1歴代誌15:2)
ダビデは聖書から調べ、そこから見出した。神の箱を運ぶのは、神に選ばれた働き人・「レビ人」の、それもケハテ族以外には許されていない事を。
それでダビデは大祭司の一族とレビ人を集め、『彼らに言った、「あなたがたはレビびとの氏族の長である。あなたがたとあなたがたの兄弟はともに身を清め、イスラエルの神、主の箱をわたしがそのために備えた所にかき上りなさい。さきにこれをかいた者があなたがたでなかったので、われわれの神、主はわれわれを撃たれました。これはわれわれがその定めにしたがってそれを扱わなかったからです」。』(1歴代誌15:12-14)
前回の時、ダビデは軍人たちには相談しても、祭司やレビ人という神に仕える人には相談していなかったようである。
ダビデは告白した。失敗の原因はそこにあった、前回、この奉仕を当たらせるべきだったレビ人にはさせず、無知故に、勝手に選んだ人・勝手に考えだした方法でそれに当たらせたため、神はわれわれを撃たれたのだ、と。
『そこで祭司たちとレビびとたちはイスラエルの神、主の箱をかき上るために身を清め・・・』(1歴代誌15:14)
ダビデは、それに相応しい奉仕者を呼び寄せた後、彼らの身を聖別させた。
主に任命された相応しい奉仕者に、その仕事を当たらせるだけではなく、彼らをきよめなくてはならない。
実際、アロンの子ナダブとアビフは、任命された奉仕者ではあったが、相応しくない仕方で御前に出た故、火で滅ぼされてしまった。(レビ記10章)
神の箱の中には、神の言葉が刻まれた石板と、生命を息吹いたアロンの杖、天からのいのちの養いであるマナの壺が入っていたが、現代の御言葉を運ぶ奉仕者も、それに相応しく整えられた人であるべきだ。なぜなら、整えられていない人が聖なる奉仕に携わって過ちを犯してしまう時、その人にとっても、周囲にとっても災いだからだ。
ウザを死なせてしまったのは、相応しくな奉仕者を当たらせてしまったダビデの責任でもある。
私達も、聖なる務めをする奉仕者は、「自分のよかれ」で選ぶべきではなく、主の御前において相応しい人を選ぶべきである。
『ダビデはまたレビびとの長たちに、その兄弟たちを選んで歌うたう者となし、立琴と琴とシンバルなどの楽器を打ちはやし、喜びの声をあげることを命じた。』(1歴代誌15:16)
ダビデは、賛美の奉仕者も、レビ人の中から任命した。
最初に失敗した時、「ダビデおよびすべてのイスラエルは歌と琴と立琴と、手鼓と、シンバルと、ラッパをもって、力をきわめて神の前に踊った。」(1歴代誌13:8)と記されているが、どうやらこの時の賛美奉仕者は、特に選別されていなかったようだ。
しかし今回、ダビデは、賛美においても、箱を守るにおいても、全てレビ人で統一し、神の働き人として相応しい者の中から任命した。
私達も、信仰が無い人や御前に相応しくない人は、いかに世の音楽やダンスに精通している人であっても、奉仕に当たらせるべきでないのだ。
『ダビデは亜麻布の衣服を着ていた。箱をかくすべてのレビびとは、歌うたう者、音楽をつかさどるケナニヤも同様である。ダビデはまた亜麻布のエポデを着ていた。こうしてイスラエルは皆、声をあげ、角笛を吹きならし、ラッパと、シンバルと、立琴と琴をもって打ちはやして主の契約の箱をかき上った。主の契約の箱がダビデの町にはいったとき、サウルの娘ミカルが窓からながめ、ダビデ王の舞い踊るのを見て、心のうちに彼をいやしめた。』(1歴代誌15:27-29)
ダビデはこの時、王といえども、他の働き人達と全く同じ格好をし、他の人達と全く同じように、共に主を喜び楽しんでいた。
それも、妻ミカルに蔑まれるほどに。
主の御前の奉仕は、本来、社会地位も立場も一切関係無いのだ。
『こうしてダビデとイスラエルの全家とは、喜びの叫びと角笛の音をもって、神の箱をかき上った。』(2サムエル記6:15)
今回は何のトラブルも無く、大きな喜びの内に、主の箱をエルサレムに迎え入れる事が出来た。
それはダビデがこの奉仕の「方法」と「奉仕者」を、御言葉によって総ざらいし、きよめ、心して主を第一としたからだ。
私達も、神の国の事柄において仕え奉仕するとき、正しい奉仕者を用い、正しい方法、正しい心で当たるなら、それは主の喜びと栄光が大いにあらわれるものとなる。
水を差された「主・不在」の熱狂イベント(2サムエル記6:1-9)
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- pastor 2015-7-27 6:19
水を差された「主・不在」の熱狂イベント(2サムエル記6:1-9)
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『ダビデは再びイスラエルのえり抜きの者三万人をことごとく集めた。そしてダビデは立って、自分と共にいるすべての民と共にバアレ・ユダへ行って、神の箱をそこからかき上ろうとした。この箱はケルビムの上に座しておられる万軍の主の名をもって呼ばれている。』(2サムエル記6:1)
今回ダビデが兵を集めたのは、戦うためではなく、神の箱を、自分の街エルサレムに運び入れるためだった。
神の箱は、長い間、放置状態だった。
この時からさかのぼる事数十年前、サムエルがまだ若かった時、イスラエルは主を軽んじた故に、神の箱がペリシテに奪われてしまう、という事件があった。(2サムエル記4章)
しかし箱は、どの人間の手も借りず、ペリシテの地で多くの災いをもたらし、御者のいない牛車によって、ひとりでに戻されたが、その戻された所のイスラエルの人々は箱の中を見てしまったため、不敬の故に、大勢の人々が倒れた。(同5-6章)
それ以来、神の箱はずっとアビナダブの家に安置され、そのまま何十年かが経過していた。
『彼らは神の箱を新しい車に載せて、山の上にあるアビナダブの家から運び出した。アビナダブの子たち、ウザとアヒオとが神の箱を載せた新しい車を指揮し、ウザは神の箱のかたわらに沿い、アヒオは箱の前に進んだ。ダビデとイスラエルの全家は琴と立琴と手鼓と鈴とシンバルとをもって歌をうたい、力をきわめて、主の前に踊った。』(2サムエル記6:3-5)ダビデは、今までにないアイデアを駆使し、盛大に神の箱を運んだ。
新しい牛車を用意し、そこに神の箱を載せ、アビナダブの子達にその車を指揮させ、三万もの選り抜きの兵士と共に、色々な楽器を用い、新しい賛美とダンスをもって主をほめたたえながら運んだ。
かなり大掛かりで華やかなイベントが進行していたが、その盛り上がりの頂点の時、全部を覆してしまうような事が起きた。
『彼らがナコンの打ち場にきた時、ウザは神の箱に手を伸べて、それを押えた。牛がつまずいたからである。すると主はウザに向かって怒りを発し、彼が手を箱に伸べたので、彼をその場で撃たれた。彼は神の箱のかたわらで死んだ。主がウザを撃たれたので、ダビデは怒った。その所は今日までペレヅ・ウザと呼ばれている。』(2サムエル記6:6-8)
牛がつまづいて、神の箱が倒れそうになったのを支える、という、「いい事」をしたはずのウザが、主に撃たれ死んでしまう・・・なぜこのような事が起きるのだろう。
聖書を探ってみると、実は、ダビデ達の側に正さねばならない事があった事に気づく。
今回、ダビデが主の箱を運び入れようという行動に至った経緯が、第一歴代誌に詳しく記されている。
『ここにダビデは千人の長、百人の長などの諸将と相はかり、そしてダビデはイスラエルの全会衆に言った、「もし、このことをあなたがたがよしとし、われわれの神、主がこれを許されるならば、われわれは、イスラエルの各地に残っているわれわれの兄弟ならびに、放牧地の付いている町々にいる祭司とレビびとに、使をつかわし、われわれの所に呼び集めましょう。また神の箱をわれわれの所に移しましょう。われわれはサウルの世にはこれをおろそかにしたからです」。』(1歴代誌13:1-3)
ダビデはここで「もし、このことをあなたがたがよしとし、われわれの神、主がこれを許されるならば」と言っている。
つまり、「あなたがた」千人隊長や百人隊長が「先」で、「われわれの神、主」が「後」になっている。
人が先で、主の御名が後。これがまず一つである。
『会衆は一同「そうしましょう」と言った。このことがすべての民の目に正しかったからである。そこでダビデはキリアテ・ヤリムから神の箱を運んでくるため、エジプトのシホルからハマテの入口までのイスラエルをことごとく呼び集めた。』(1歴代誌13:4-5)
この一大イベント企画は、軍人たちの賛同が得られ、多くの人達が動員された様子は記されているものの、ダビデが主に伺ったとか、祭司やレビ人に相談を求めた、といった記述は見いだせない。
ようするに、ダビデ達は一見、主を敬っているかのように見えるが、実は人間が主体で「主・不在の人間的盛り上がりイベント」に過ぎなかった、という事だ。
いかに多くの人達の賛同が得られても、また、何万人を動員するイベントが企画され実行されてしまっていても、主の御心を外して突き進んでしまうのは、危険である。
なぜなら、御言葉は「法則」であり、「これをすれば死ぬ」と言われている事をするならば、死んでしまうからだ。
今回彼らは、神の箱を移動しているのだが、その場合、どうしなくてはならないのだろうか。
その作法は、民数記4章に記されている。
『宿営の進むとき、アロンとその子たちとが、聖所と聖所のすべての器をおおうことを終ったならば、その後コハテの子たちは、それを運ぶために、はいってこなければならない。しかし、彼らは聖なる物に触れてはならない。触れると死ぬであろう。会見の幕屋のうちの、これらの物は、コハテの子たちが運ぶものである。』(民数記4:15)
つまり、神の箱は、大祭司の子孫によって梱包された上、レビ人のコハテ族が担ぎ棒で担いで運ぶものであり、この取り扱いを一歩間違えると、「死ぬ」恐れがある事が、元々記されている。
だから、箱が晒された状態で、コハテ族以外の者に、それも牛車で運ばせるなど、とんでもない事だったのだ。
かつて、主の箱が、御者のいない牛車に載せられて、ひとりでにイスラエルへと戻るように仕向けて下さった主は、今回、牛がひっくり返さないようにする事など、当然出来たはずである。
それなのになぜ、主は、大勢の人達が集っているイベントの真っ最中、しかも、その熱狂が最高潮に盛り上がっている時に、この事をおこされたのか。
もし、ダビデのこの斬新な企画が、何の落ち度もないまま進んで行っていたとしたら、ダビデ達は確実に御言葉に聞かない方向へと進んで行っただろう。
「なんとなく御言葉に従っているつもり」だと思い込んでいながら、実はよく分かっておらず、企画したイベントの成功や、人々の盛り上がりにばかり苦心して、突き進んで行く内に、御言葉が「してはならない」と警告している領域を侵犯し、滅びへと突き進んでいるような事は無いだろうか。
これは、現代を生きる神の民である私達がよくよく留意すべき事である。
現代の私達が、クリスチャンイベント、礼拝イベント、伝道イベント、諸々の事を興すとするなら、それは主から出たもの・主を中心とするべきものである。
もし私達も、主が、そして御言葉が置き去りにされたまま、人の祭りに酔いしれるなら、何かしらの犠牲を伴う警告が与えられるものである。
『その日ダビデは主を恐れて言った、「どうして主の箱がわたしの所に来ることができようか」。』(2サムエル記6:9)
ダビデは恐れ、このイベントを急遽中止したが、『主を恐れることは知識のはじめである、愚かな者は知恵と教訓を軽んじる。』(箴言1:7)
ここからダビデは御言葉に求め、人が主体である事を捨て、主が主体であるべきだとする思いが芽生えただろう。
私達も、良かれと思っていた方法を進めている時に、いきなり冷水を浴びせられるような事が起きるかもしれない。
その時は、御言葉に立ち返るべき時である。
内外の敵に対する正しい対処(2サムエル記5:17-25)
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全イスラエルの王とされ、堅固な都エルサレムに王宮を建てて住み、さらに妻をめとり多くの子を産んで行くダビデ。
成功の道をまっしぐらに進んでいるかのようなダビデだが、神に属する人が栄えると、それを妬んで攻撃して来る者も現れる。
『さてペリシテびとは、ダビデが油を注がれてイスラエルの王になったことを聞き、みな上ってきてダビデを捜したが、ダビデはそれを聞いて要害に下って行った。ペリシテびとはきて、レパイムの谷に広がっていた。』(2サムエル記5:17-18)
ペリシテが集結したレパイムの谷は、エルサレムのすぐ近く、ほんの数キロほど南である。
ダビデの町の喉元まで迫ってきたのだ。
サウルは、ペリシテが攻めて来た時、その軍勢を見て恐れ、わなないたが、今回もかなりの数と装備で攻め寄せて来たと思われる。
ダビデはどうしたか。
『ダビデは主に問うて言った、「ペリシテびとに向かって上るべきでしょうか。あなたは彼らをわたしの手に渡されるでしょうか」。主はダビデに言われた、「上るがよい。わたしはかならずペリシテびとをあなたの手に渡すであろう」。』(2サムエル記5:19)
かつてダビデは、サウルから逃れるために、主に御心を求めずにペリシテの地へ行き、世の中的な生存競争の泥沼に陥った挙句、妻子や財産全てを奪われ、部下たちに殺されそうにまでなったが、その時、彼は主に伺って奮い立ち、見事全てを取り返した。(1サムエル記27章)
この事があってだろうか、彼は以後、何事に対しても主に伺うようになった。
私達もダビデのように、何事についても主の守りと祝福を、そして導きを求めて祈るなら、平和と尊厳の内に人生を全うできる。
『そこでダビデはバアル・ペラジムへ行って、彼らをその所で撃ち破り、そして言った、「主は、破り出る水のように、敵をわたしの前に破られた」。それゆえにその所の名はバアル・ペラジムと呼ばれている。』(2サムエル記5:20)
「バアル・ペラジム」の名は、神は突破口を開いて下さる、という意味である。
人は、自分の考えや経験に基づいた行動によって突破口を開こうとするが、それは最善ではなく、多かれ少なかれ自分や他人を傷つけるものである。
しかしダビデのように主に伺うなら、主はどんな問題であっても、最善かつ完璧な突破口を開いて下さる。
『ペリシテびとはその所に彼らの偶像を捨てて行ったので、ダビデとその従者たちはそれを運び去った。』(2サムエル記5:21)
ダビデは、敵の残して行った偶像を、しっかり除去したが、これは大事な事である。
カナンの偶像は、性的・肉的情欲をそそる表現が、あからさまに施されていたり、また、肉欲の逸脱的な発散行為が「礼拝」とされているような地であった。
エルサレム近くの谷に置き去りにされた偶像を片付けさせた事は、言うならば、純粋な青少年男子をかかえている親が、性的不健全な本やビデオが近所に散乱しているのを、すぐ片付けさせたようなものか。
目に見える偶像に従うのは、肉的には、非常にラクだ。
それに対し、見えない神に信頼し、書かれてある御言葉に信頼して歩む道は、肉的には困難を覚える。
その事は、信仰者である皆さんは日々、実感している事であろう。
だから主は、特に偶像を警戒させたのだ。
『あなたは彼らの神々の彫像を火に焼かなければならない。それに着せた銀または金をむさぼってはならない。これを取って自分のものにしてはならない。そうでなければ、あなたはこれによって、わなにかかるであろう。これはあなたの神が忌みきらわれるものだからである。あなたは忌むべきものを家に持ちこんで、それと同じようにあなた自身も、のろわれたものとなってはならない。あなたはそれを全く忌みきらわなければならない。それはのろわれたものだからである。』(申命記7:25-26)
実際、列王記や歴代誌を見ると、ダビデの子孫である王達で、偶像が堕落のきっかけとなってしまった事例を、多く見る事が出来る。
だから、偶像をしっかり除去させたダビデは、その点素晴らしいのだ。
ペリシテ人は、懲りずにまた攻めてきた。
『ペリシテびとが、ふたたび上ってきて、レパイムの谷に広がったので、ダビデは主に問うたが、主は言われた、「上ってはならない。彼らのうしろに回り、バルサムの木の前から彼らを襲いなさい。バルサムの木の上に行進の音が聞えたならば、あなたは奮い立たなければならない。その時、主があなたの前に出て、ペリシテびとの軍勢を撃たれるからである」。』(2サムエル記5:22-24)
ダビデは再び、主に伺った。
人は特に、一度勝利したり成功したりすると、その経験や成功パターンに飛びついて主に伺う事を止めてしまう事が多い。
しかし彼は、そうではなかった。
ダビデが今回取るべき「主の戦法」は「登って行くな」であったが、もし主に伺わずに行っていたら、どうなっていただろう。
ヨシュアの時代、城塞都市エリコに大勝利した直後、アイという小さな町を攻略する上で、彼らは「今回も楽勝だろう」と考え、主に伺わずに出て行った結果、負けてしまった。
彼らの中には聖絶すべきものがあったため、どんな小さな相手にさえも勝てない状態に陥っていたのだが、主に伺っていなかったため、それに気付けなかった。
『ダビデは、主が命じられたようにして、ペリシテびとを撃ち、ゲバからゲゼルに及んだ。』(2サムエル記5:25)
以上のように、ダビデは、聖絶すべきものを徹底して除去する事についても、主に伺うという事においても、ぬかりはなかった。
そのため、ダビデは至る時、至る所で大勝利し、結構な北方まで領地を奪回した。
私達もダビデのように、滅ぼし尽くすべきものにおいて、また、主に伺う事において抜かり無くして、祝福を逃さないものでありたい。
そのような皆さんでありますように、イエス様のお名前によって祝福します!
花婿を迎え入れた花嫁 - ダビデを迎え入れたエルサレム(2サムエル記5:6-16)
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- pastor 2015-7-24 12:47
花婿を迎え入れた花嫁 - ダビデを迎え入れたエルサレム(2サムエル記5:6-16)
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いよいよ今回、エルサレムにダビデ王が入城し、この都はイスラエルのものとなる。
エルサレム。
この都は今後、聖書に何度も登場する重要な都である。
『王とその従者たちとはエルサレムへ行って、その地の住民エブスびとを攻めた。エブスびとはダビデに言った、「あなたはけっして、ここに攻め入ることはできない。かえって、めしいや足なえでも、あなたを追い払うであろう」。彼らが「ダビデはここに攻め入ることはできない」と思ったからである。』(2サムエル記5:6)
ダビデが入る前、エルサレムは「エブス」という町で、エブス人が住んでいた。
ヨシュアの時代、そこはベニヤミン族のものとして割り当てられていたが(ヨシュア18:21-28)、ベニヤミン人はそこを自分のものとせず、ずっと放置してエブスが住むままにしていた。
この都、エルサレムの成り立ちは、私達キリスト者の成り立ちと、よく共通している。
エルサレムが最初に聖書に登場するのは、いつだろうか。
それは実は、かなり早い段階で、イスラエルの父祖アブラハムの時代である。
『その時、「サレム」の王メルキゼデクはパンとぶどう酒とを持ってきた。彼はいと高き神の祭司である。彼はアブラムを祝福して言った・・・。』(創世記14:18-20)
この「サレム」が、エルサレムの初期の名である。
そして、そこを支配していた王は、あのアブラハムを祝福した偉大な祭司・義の王であるメルキゼデクだった。
しかし、いつしかエブスという邪悪なカナン人が、この都を占拠し、支配するようになってしまった。
「エブス」の名の意味は「踏み潰す」、「エルサレム」の名の意味は「平和という土台」である。
元々は義の王が支配していた「平和の土台」という都は、やがて、「踏み潰す」者たちに占拠されてしまった。
これは人間の成り立ちにも、非常によく似ている。
人間は元々、神の似姿として創造され、永遠に、神と共に平和に生きるはずだったが、人はいつしか、邪悪な者に踏みにじられてしまった。
人を不当に踏みにじった者、それはサタンである。
それ以来、人の内側は不法で満ち溢れ、罪によって占拠されてしまった。
時代が降り、ヨシュアの時代、「エブス」となっていたエルサレムの町は、ヨシュアのくじによって、ベニヤミンの地とされたが、ベニヤミン族はその町をずっと放置したままにした。
一時、ユダ族がその町を攻め取ったものの(士師記1:8)、その後もエブス人が住み続けていた、という事は、ベニヤミンはせっかく邪悪な者どもをユダ族に追い払ってもらったのに、そこを神の民で満たす事をせず、空き家のままに放置したのだろう。
それで再びエブス人が来て住むようになって、以前よりももっと攻め落としづらくなってしまった。
人も同じように、悪しきものが内側から追い出されたとしても、そこを良きもので満たしていないなら、もっとたちの悪い七つの悪霊が来て住みつくようになってしまい、以前よりももっと悪い状態になってしまうのだ。(マタイ12:43-45)
長らく続いた邪悪な者による占拠状態から、ようやくエルサレムを救ったのが、ダビデだった。
『ところがダビデはシオンの要害を取った。これがダビデの町である。・・・ダビデはその要害に住んで、これをダビデの町と名づけた。またダビデはミロから内の周囲に城壁を築いた。こうしてダビデはますます大いなる者となり、かつ万軍の神、主が彼と共におられた。』(2サムエル記5:7-10)
偉大な王・ダビデがエルサレムに介入して入り、邪悪な者達をなぎ払い、神の民が住む都とした。
こうしてこの都は、偉大な王・ダビデが名を置く所となり、さらに強固に建て直され、やがては、聖なる神殿がその中に構築されて行く。
私達キリスト者も、同じ事を経験している。
罪の奴隷状態として、邪悪な感情や思いの占拠状態であったこの心と身体に、まことのダビデであるイエス様が介入して入って来られ、罪や汚れをなぎ払い、神のものとして、私達を邪悪な者サタンから分捕り返して下さった。
さらには、私達を聖霊の住まわれる宮とされ、偉大な王・イエス・キリストが住まわれる「神殿」とされた。
『あなたがたは神の宮であって、神の御霊が自分のうちに宿っていることを知らないのか。』(1コリント3:16)
しかし後に、エルサレムの都は、主を敬わない身勝手な王達によって、不法をはびこらせてしまう。
主が預言者を遣わし、それを戒めても、彼らはそれを無視し続け、ついにはバビロンという破壊者によって破壊されてしまう。
『ああ、エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、おまえにつかわされた人たちを石で打ち殺す者よ。ちょうど、めんどりが翼の下にそのひなを集めるように、わたしはおまえの子らを幾たび集めようとしたことであろう。それだのに、おまえたちは応じようとしなかった。見よ、おまえたちの家は見捨てられてしまう。わたしは言っておく、『主の御名によってきたる者に、祝福あれ』とおまえたちが言う時までは、今後ふたたび、わたしに会うことはないであろう」。』(マタイ23:37-39)
私達も、まことのダビデであるイエス様を軽んじ、身勝手な思いに身を委ね、戒めを無視し続けるなら、破壊されてしまう。
しかし、イスラエルが後に憐れみを受けたように、私達も悔い改めて立ち返るなら、主は豊かに赦し、回復させて下さるのだ。
エルサレムは2015年現在、神殿の丘にはイスラムのモスクが建っており、未だ、不純なものが混在している状態である。
だが将来、主の時に必ず完全で純粋なものへとつくり変えられる。
『また、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意をととのえて、神のもとを出て、天から下って来るのを見た。』(黙示録21:2)
その時、エルサレムは完全で清いものとなり、キリストの花嫁として、永遠にキリストのものとされる。
エルサレムがまだその途上であるように、今、私達も完成される途上にある。
私達のこの肢体には、相変わらず罪と義が混在状態になっていて、この身体を着ている間、しばし、うめかなくてはならないが、しかし私達がまことのダビデであるキリストを王として迎え入れる時、私達はこの地上の束縛から解放され、天に属するものとして、聖なる栄光の歩みをして行く事が出来、そして、来るべきキリストの花嫁として、ますます整えられて行くのである。
王とされたダビデ(2サムエル記5:1-5)
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『イスラエルのすべての部族はヘブロンにいるダビデのもとにきて言った、「われわれは、あなたの骨肉です。先にサウルがわれわれの王であった時にも、あなたはイスラエルを率いて出入りされました。そして主はあなたに、『あなたはわたしの民イスラエルを牧するであろう。またあなたはイスラエルの君となるであろう』と言われました」。
このようにイスラエルの長老たちが皆、ヘブロンにいる王のもとにきたので、ダビデ王はヘブロンで主の前に彼らと契約を結んだ。そして彼らはダビデに油を注いでイスラエルの王とした。』(2サムエル記5:3)
いよいよダビデは、全イスラエルの王となった。
聖書中の最重要人物の一人、イエス・キリストが生まれる家系の父となりイスラエル王族の大元となった「ダビデ王」。
彼が王となった成り立ちは、自分のはかりごとや力に一切依らず、ただ、主の約束を信じる「待ちの姿勢」を貫いた結果、半自動的に王とされた。
神の国で高められる人の性質は、自分の力や知恵によらず、ただ主に依り頼む人である。
『ダビデは王となったとき三十歳で、四十年の間、世を治めた。すなわちヘブロンで七年六か月ユダを治め、またエルサレムで三十三年、全イスラエルとユダを治めた。』(2サムエル記5:4-5)
ダビデの統治した期間は40年。
イスラエル全体の歴史からすればとても僅かであり、その間、ダビデ自身の罪や不完全さによって、人々の生活が不安定となった時もあった。
しかし、来るべきダビデの子・イエス・キリストの統治は、永遠であり、完全である。
『わたしは彼らの上にひとりの牧者を立てる。すなわちわがしもべダビデである。彼は彼らを養う。彼は彼らを養い、彼らの牧者となる。主なるわたしは彼らの神となり、わがしもべダビデは彼らのうちにあって君となる。主なるわたしはこれを言う。』(エゼキエル34:23-24)
王の中の王として有名なダビデ。
彼はなぜ、神と人とに愛され、そこまで偉大な王となれたのか。
それは、ダビデは事あるごとに主に主に求め、罪を指摘された時は、間髪を入れず悔い改め、すぐ主に立ち返る性質だったからだ。
ダビデとサウルの違いは、日頃主に依り頼むか、頼まないか。
罪が指摘された時、悔い改めるか、悔い改めないか。
その違いはシンプルだが、それは実に、永遠の明暗を分ける違いである。
私達も、救い主・イエスキリストにあって「王族の祭司」とされた。(1ペテロ2:9)
「王」であるからには、私達にも統べ治めるべき領域がある。
自分自身の人生、すなわち、自分の時間や身体を正しく治めるものであるし、子供や家庭を、また事業や仕事などを正当に治めるべき「王」である。
今、私達に任されているその王としての統治領域は僅かかもしれない。
しかし私達は、その小さな領域を、忠実に支配していくべきだ。
ダビデはいつ、全能の主から「王」として見出されただろうか。
それは彼がまだ紅顔の少年だった時に、すなわち、エッサイ一家の末っ子として皆に軽んじられ、サムエルの食事会にも招かれず、羊の番をさせられていた時から、であった。
その時から彼は、羊飼いとして与えられた小さな仕事を軽んじる事なく、任された羊達を、ライオンや熊からも命がけで守った。
彼は普通の毎日の中で、主に聞き従い、主の主権の中で忠実である事を、しっかり培ったからこそ、人間の誰にも見向きもされない時期から、主に目を留められ、油注がれたのだ。
そうして彼は、イスラエルの徴兵にもされない弱冠の歳にして、イスラエルの大人たちが誰も出来なかった事、すなわち、ゴリアテを倒したのだ。
それは、彼の能力や知恵によらず、はかりごとによらず、ただ、主に信頼して進み出た事によって、だった。
私達もダビデのように、日々、遣わされている仕事場や家庭などの先々で、主と主のことばに忠実に仕える事をしっかり養い、守るべき「羊」達を守るべきだ。
日々の小さな事に忠実であるなら、ダビデのように主に見出され、さらに多くを任せられる。
日ごと忠実に歩み、ダビデのように多くを任され、多くの主の仕事が出来る皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!
イシュ・ボシェテ殺害に対するダビデの表明(2サムエル記4:1-12)
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- pastor 2015-7-20 23:50
イシュ・ボシェテ殺害に対するダビデの表明(2サムエル記4:1-12)
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『サウルの子イシボセテは、アブネルがヘブロンで死んだことを聞いて、その力を失い、イスラエルは皆あわてた。』(2サムエル記4:1)
平和のうちに物事が進んでいたのに、突然、血なまぐさい事が起き、上から下まで大騒ぎになる。
2015年7月現在の日本も、まさにその状況だ。
衆議院で、安全保障関連法案が強行採決されてしまい、今までに無かったようあ大騒ぎである。
このような激動の時、これを機に「のし上がってやろう」と、良からぬ事を企む者も出てくるものだ。
『サウルの子イシボセテにはふたりの略奪隊の隊長があった。ひとりの名はバアナ、他のひとりの名はレカブといって、ベニヤミンの子孫であるベロテびとリンモンの子たちであった。(それはベロテもまたベニヤミンのうちに数えられているからである。ベロテびとはギッタイムに逃げていって、今日までその所に寄留している)。』(2サムエル記4:2-3)
この二人の「略奪隊の隊長」であるベロテびとは、ベロテから逃げざるを得ない、何かしらの不穏な事情があって、ギッタイムに来た、という経緯がある。
『ベロテびとリンモンの子たち、レカブとバアナとは出立して、日の暑いころイシボセテの家にきたが、イシボセテは昼寝をしていた。家の門を守る女は麦をあおぎ分けていたが、眠くなって寝てしまった。そこでレカブとその兄弟バアナは、ひそかに中にはいった。
彼らが家にはいった時、イシボセテは寝室で床の上に寝ていたので、彼らはそれを撃って殺し、その首をはね、その首を取って、よもすがらアラバの道を行き、イシボセテの首をヘブロンにいるダビデのもとに携えて行って王に言った、「あなたの命を求めたあなたの敵サウルの子イシボセテの首です。主はきょう、わが君、王のためにサウルとそのすえとに報復されました」。』(2サムエル記4:5-8)
二人は、サウルの子・イスラエルで王たる者を、寝込みの無防備な時に、密かに命を奪って、その首をダビデの元に持って行くという、これまた卑劣な行為を行った。
しかも彼らは「主(エホバ)」の名を用い、あたかも、自分達が大義名分を果たしたかのような言い草で、のうのうと「主は報復されました」とダビデに報告している。
このような者たちは、血なまぐさい平和ならざる事をしてしまって後、後付け的に、大義名分を付け加えるものだ。
彼らは、義なる方・平和の君である「主」への尊敬も怖れも無く、単に、自分がしでかした事に正当性を付与したいがために、「主の御名」をその道具として使っただけである。
主は言われる。
『主よ、主よ』と言う者が御国に入るには非ず、御父の御心を行う者だけが入る、と。
その日いかに『主よ、主よ、私達はあなたの名によって何々したではありませんか』と言っても、『あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ。』と言う、と。(マタイ7:21-23)
かの二人のような「略奪者」の観点では、敵将の首を取り、持って行くのは、褒美がもられる「良い事」に見えたかもしれない。
しかしあいにく、神の国の価値観は、略奪の価値観とは違い、主は「真実」な方、「平和の君」である。
サウルは、「勇気のある者や、力のある者を見つけると、その者をみな、召しかかえた」が(1サムエル記14:52)、隊長に任ずる採用基準に、霊的モラルのある無しは、あまり関係無かったようだ。
その”つけ”が、サウル家にまわって来てしまった。
私達も、力だけを求めて、御国の基準を後回しにすると、そのつけが後で回って来るものなのだ。
『ダビデはベロテびとリンモンの子レカブとその兄弟バアナに答えた、「わたしの命を、もろもろの苦難から救われた主は生きておられる。わたしはかつて、人がわたしに告げて、『見よ、サウルは死んだ』と言って、みずから良いおとずれを伝える者と思っていた者を捕えてチクラグで殺し、そのおとずれに報いたのだ。悪人が正しい人をその家の床の上で殺したときは、なおさらのことだ。今わたしが、彼の血を流した罪を報い、あなたがたを、この地から絶ち滅ぼさないでおくであろうか」。』(2サムエル記4:9-11)
ダビデは、サウルが無防備だった時も、寝込みを襲えたような時も、決して手をかけなかった。
また、サウルが殺された時も、「自分が殺した」と言って来たアマレク人に、「油注がれた者」に手をかけた罪に報いた。
そんな、真実な彼の行動パターンを見ていれば、分かりそうなものを、かの二人は、空気が読めなかったというか、自分の価値観に凝り固まっていたというか、自らダビデの元に、自らを滅ぼす愚かさを、晒しに行ったのである。
『そしてダビデは若者たちに命じたので、若者たちは彼らを殺し、その手足を切り離し、ヘブロンの池のほとりで木に掛けた。人々はイシボセテの首を持って行って、ヘブロンにあるアブネルの墓に葬った。』(2サムエル記4:12)
ダビデは、アブネルにしたのと同じく、イシボセテをヘブロンに葬って敬意を表し、ここにおいても、神と人との前に義と平和を表明した。
ダビデは、平和の君・キリストのひな形である。
平和の君とは、隠れて血を流すような卑劣な者を、そのまま許すような方ではなく、悪に対しては、きっちりけじめをつける、義なるお方だ。
こうしてダビデは、サウル家の誰にも手をかける事なく、かつて彼が宣言した通りになった。
『主は生きておられる。主が彼を撃たれるであろう。あるいは彼の死ぬ日が来るであろう。あるいは戦いに下って行って滅びるであろう。主が油を注がれた者に向かって、わたしが手をのべることを主は禁じられる。』(1サムエル記26:10-11)
このダビデの有様、すなわち、決して自分で動くのではなく、主に伺い、主が何もかも為して下さった様を見て、私達に繰り返し語られている、次の御言葉を身に付けるべきである。
『柔和な人たちは、さいわいである、彼らは地を受けつぐであろう。・・・平和をつくり出す人たちは、さいわいである、彼らは神の子と呼ばれるであろう。』(マタイ5:5-9)
アブネルの死に対するダビデの表明(2サムエル記3:28-39)
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- pastor 2015-7-17 23:50
礼拝説教メッセージ音声:アブネルの死に対するダビデの表明(2サムエル記3:28-39):右クリックで保存
ヨアブは、卑劣な方法でアブネルの血を流し、殺した。
主は言われる。
『あなたがたの命の血を流すものには、わたしは必ず報復するであろう。いかなる獣にも報復する。兄弟である人にも、わたしは人の命のために、報復するであろう。人の血を流すものは、人に血を流される、/神が自分のかたちに人を造られたゆえに。』(創世記9:5-6)
主は確かに、血を流したがる者には、血をもって報いられるが、私達はそのような者達に対し、全くの無対応でいてはいけない。
そのような者たちに対し、はっきりと御言葉に基づいた見解を、そして命の立場を、表明すべきである。
ダビデは、起きた事についてどのような立場であるか、どのような見解であるかを、公然と表明した。
『その後ダビデはこの事を聞いて言った、「わたしとわたしの王国とは、ネルの子アブネルの血に関して、主の前に永久に罪はない。どうぞ、その罪がヨアブの頭と、その父の全家に帰するように。またヨアブの家には流出を病む者、らい病人、つえにたよる者、つるぎに倒れる者、または食物の乏しい者が絶えないように」。』(2サムエル記3:28-29)
ダビデはまず、今回、アブネルが卑劣な仕方で殺された事について、自分も、そしてイスラエルという神の国においても、一切関わりが無い、という事を表明し、また、ヨアブがした事については「呪われるべき」であると見解を表明し、実際に呪いを宣言した。
(なお天声では、この度、衆議院において安部首相をはじめとする自民党が「戦争法案」の強行採決に踏み切った事を受け、争いを好む者、敢えて血を流そうとする者達に対し、聖書(創世記9:6、箴言1:15-19)が示している通り「呪われる」事を、また、いのちのために働く人達が祝福されるよう、主イエスの名によって宣言している。)
『こうしてヨアブとその弟アビシャイとはアブネルを殺したが、それは彼がギベオンの戦いで彼らの兄弟アサヘルを殺したためであった。』(2サムエル記3:30)
ここを見ると、アブネルを殺したのはヨアブ一人だけではなく、弟のアビシャイも関わっていた事、そして、この動機は兄弟アサヘルが殺されたためである事が記されている。
つまり、この事件を意図し関わったのは、ヨアブ一人だけではなかったようだ。
そこでダビデは、ヨアブを中心に、この事件に関わった全ての人々に命じている。
『ダビデはヨアブおよび自分と共にいるすべての民に言った、「あなたがたは着物を裂き、荒布をまとい、アブネルの前に嘆きながら行きなさい」。そしてダビデ王はその棺のあとに従った。』(2サムエル記 3:31)
『人々はアブネルをヘブロンに葬った。王はアブネルの墓で声をあげて泣き、民もみな泣いた。』(2サムエル記3:32)
アブネルが葬られたヘブロンは、ユダ族の領地である。
アブネルはベニヤミン族であるので、ベニヤミンの地に葬るのが普通だが、敢えて、ダビデが治めていた地に葬った事で、アブネルを「イスラエルに功労した者」として、後の人々から敬意が表されるよう配慮したのかもしれない。
『王はアブネルのために悲しみの歌を作って言った、/「愚かな人の死ぬように、/アブネルがどうして死んだのか。あなたの手は縛られず、/足には足かせもかけられないのに、/悪人の前に倒れる人のように、/あなたは倒れた」。そして民は皆、ふたたび彼のために泣いた。民はみなきて、日のあるうちに、ダビデにパンを食べさせようとしたが、ダビデは誓って言った、「もしわたしが日の入る前に、パンでも、ほかのものでも味わうならば、神がわたしをいくえにも罰しられるように」。』(2サムエル記3:33-35)
ダビデはアブネルのために追悼の歌を作り、人々に歌わせたばかりでなく、断食して悲しんだ。
以上のように、ダビデは、自分と自分の王国には「血を流すような罪とは関わりがない事」を表明し、このように卑劣な形で血を流すような者は、呪われるべきである事を、そして、アブネルを殺した者達に対しては、アブネルの死をしっかり悼み悲しませた。
そしてダビデ自身は、アブネルの死を悼み、悲しみ、断食し、ヘブロンに葬り、追悼の歌を創って敬意を表した。
『民はみなそれを見て満足した。すべて王のすることは民を満足させた。その日すべての民およびイスラエルは皆、ネルの子アブネルを殺したのは、王の意思によるものでないことを知った。』(2サムエル記3:36-37)
全イスラエルは、安心しただろう。
この度の事は、ダビデが裏で糸を引いていたものではない、ダビデは計略を用いて不都合な人を暗殺するような腹黒い王ではない、と。
またダビデは、家来たちに対しても、表明した。
『王はその家来たちに言った、「この日イスラエルで、ひとりの偉大なる将軍が倒れたのをあなたがたは知らないのか。わたしは油を注がれた王であるけれども、今日なお弱い。ゼルヤの子であるこれらの人々はわたしの手におえない。どうぞ主が悪を行う者に、その悪にしたがって報いられるように」。』(2サムエル記3:38)
ダビデは、悪を行う者は、主・エホバがその悪に報いて下さるように、と、部下達の前で宣言した。
もし企業のトップが、儲けのためには少々の悪も必要だ、と言うとしたら、部下達は妥協して悪を行うだろう。世の企業ではそうだとしても、神の国に属する集団は、潔白であるべきなのだ。
ダビデはそのように宣言し、妥協しなかったからこそ、偉大な王となったのだ。
ダビデは、自分にはイスラエルを治めるような力は無い、と認めていた。その通り、自分に威厳や力や経験があるから、民は従ってくれる、というものではない。
民が、ダビデに従うようにさせて下さるのは、主である。
『あなたは民の争いからわたしを救い、わたしをもろもろの国民のかしらとされました。わたしの知らなかった民がわたしに仕えました。彼らはわたしの事を聞くと、ただちにわたしに従い、異邦の人々はきて、わたしにへつらいました。』(詩篇18:43-44)
このようにダビデは、内外に対して明確に、自分は真理に立っており、闇には立っていない、という立場を表明した。
これは私達にも必要なたしなみである。