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悪人が裁かれもせず、いつまでも弱者を虐げている現実。これいかに?(ヨブ記24章)
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- pastor 2018-6-7 20:13
悪人が裁かれもせず、いつまでも弱者を虐げている現実。これいかに?(ヨブ記24章)
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前章では、ヨブはエリファズへまともな回答はせず、ただ神に心を向け、神と論じ合いたいと切に求めたが、この章では、ヨブは友人たちの議論に真っ向から向かい、彼らが口を酸っぱくして主張している「因果応報」に対して、現実は必ずしもそんなにも単純には行かない事を指摘する。
24:1 なにゆえ、全能者はさばきの時を/定めておかれないのか。なにゆえ、彼を知る者がその日を見ないのか。
ヨブの友人たちは口を酸っぱくして「悪人はさばきにあう、善人は報われる」というような事を言って来た。
ヨブもそんな事は百も承知である。
それなのに、なぜ主は正当なさばきをしないまま、神の民は、日の目を見ることがないのか、と指摘する。
24:2 世には地境を移す者、/群れを奪ってそれを飼う者、
24:3 みなしごのろばを追いやる者、/やもめの牛を質に取る者、
24:4 貧しい者を道から押しのける者がある。世の弱い者は皆彼らをさけて身をかくす。
24:5 見よ、彼らは荒野におる野ろばのように出て働き、/野で獲物を求めて、その子らの食物とする。
24:6 彼らは畑でそのまぐさを刈り、/また悪人のぶどう畑で拾い集める。
24:7 彼らは着る物がなく、裸で夜を過ごし、/寒さに身をおおうべき物もない。
24:8 彼らは山の雨にぬれ、しのぎ場もなく岩にすがる。
24:9 (みなしごをその母のふところから奪い、/貧しい者の幼な子を質にとる者がある。)
24:10 彼らは着る物がなく、裸で歩き、/飢えつつ麦束を運び、
24:11 悪人のオリブ並み木の中で油をしぼり、/酒ぶねを踏んでも、かわきを覚える。
24:12 町の中から死のうめきが起り、/傷ついた者の魂が助けを呼び求める。しかし神は彼らの祈を顧みられない。
力あるものが弱い者を搾取し虐げている現実を、ヨブは細かく指摘する。
時代のひと時を輪切りにし、その「時」を瞬間風速的に見るなら、確かにそう見える事がある。
しかし神は、そんな有様を見ておられ、彼らの辛さを知っておられる事が、聖書には書いてある。
出エジプト記3:7 主はまた言われた、「わたしは、エジプトにいるわたしの民の悩みを、つぶさに見、また追い使う者のゆえに彼らの叫ぶのを聞いた。わたしは彼らの苦しみを知っている。
3:8 わたしは下って、彼らをエジプトびとの手から救い出し、これをかの地から導き上って、良い広い地、乳と蜜の流れる地、すなわちカナンびと、ヘテびと、アモリびと、ペリジびと、ヒビびと、エブスびとのおる所に至らせようとしている。
3:9 いまイスラエルの人々の叫びがわたしに届いた。わたしはまたエジプトびとが彼らをしえたげる、そのしえたげを見た。
3:10 さあ、わたしは、あなたをパロにつかわして、わたしの民、イスラエルの人々をエジプトから導き出させよう」。
神は見ていないのではない。聞いていないのではない。知らないのではない。
主を敬う民の叫びを聞き、幸いな地へと導いて下さるお方である。
ただ、人の時間と、主の時間は、違うのである。
ヨブ記24:13 光にそむく者たちがある。彼らは光の道を知らず、光の道にとどまらない。
24:14 人を殺す者は暗いうちに起き出て/弱い者と貧しい者を殺し、/夜は盗びととなる。
24:15 姦淫する者の目はたそがれを待って、/『だれもわたしを見ていないだろう』と言い、/顔におおう物を当てる。
24:16 彼らは暗やみで家をうがち、/昼は閉じこもって光を知らない。
24:17 彼らには暗黒は朝である。彼らは暗黒の恐れを友とするからだ。
ヨブはひるがえって強い者が弱い者を虐げている事と、その悪行が裁かれもせず成功している様を指摘している。
24:18 あなたがたは言う、/『彼らは水のおもてにすみやかに流れ去り、/その受ける分は地でのろわれ、/酒ぶねを踏む者はだれも/彼らのぶどう畑の道に行かない。
24:19 ひでりと熱さは雪水を奪い去る、/陰府が罪を犯した者に対するも、これと同様だ。
24:20 町の広場は彼らを忘れ、/彼らの名は覚えられることなく、/不義は木の折られるように折られる』と。
口語訳では、18節は「あなたかたは言う」とあり、そしてカギカッコの言葉を友人たちの言葉としているが、原文はそうではなく、18節から20節の「あなたがたは言う」を除いた言葉を、ヨブが言った言葉としている。
ヨブが、悪人が栄えている様を言って友人たちに反論しているのに、その悪人が裁かれる事をヨブのこの論議の中で言うのはおかしい、と訳者が判断して加えたものと思われる。
ヨブは、悪人が栄えている現実を指摘し、同時に、悪人が裁かれる事もまた忘れずに加えているのだ。
24:21 彼らは子を産まぬうまずめをくらい、/やもめをあわれむことをしない。
24:22 しかし神はその力をもって、/強い人々を生きながらえさせられる。彼らは生きる望みのない時にも起きあがる。
24:23 神が彼らに安全を与えられるので、/彼らは安らかである。神の目は彼らの道の上にある。
24:24 彼らはしばし高められて、いなくなり、/ぜにあおいのように枯れて消えうせ、/麦の穂先のように切り取られる。
悪人の最終的に行く所がどこであろうが、ともかく、この地上において、悪人が裁かれないままはびこっている現実がある。
ヨブはしかも、神が彼らを安全にし、やすらかにし、その悪人の道を守っておられるかのように言っている。
しかし同時に、彼らは結局、消えてなくなる、ということも忘れずに加えている。
24:25 もし、そうでないなら、/だれがわたしにその偽りを証明し、/わが言葉のむなしいことを示しうるだろうか」。
以上のように、ヨブは、神は悪人さえ守り、安全に支えているではないか、という指摘をした。
一体これはどういう事だろう。多くの人も疑問に思う所である。
友人たちの回答を見る前に、聖書の他の箇所を見てみたい。
この疑問への答えは、第二ペテロ3章にある。
2ペテロ3:8 愛する者たちよ。この一事を忘れてはならない。主にあっては、一日は千年のようであり、千年は一日のようである。
3:9 ある人々がおそいと思っているように、主は約束の実行をおそくしておられるのではない。ただ、ひとりも滅びることがなく、すべての者が悔改めに至ることを望み、あなたがたに対してながく忍耐しておられるのである。
すなわち神は、悪人であれ善人であれ、誰一人として滅びる事を望んでおられず、わざとさばきを遅くしておられるのである。
ある人には、おそい、と思える。
ヨブは、あたかも神は悪人のサポートさえしている、と思ったが、しかし、神のご性質は「あわれみ」であり、そのあわれみの故に、さばきを遅くしているのである。
人は、永遠の視点には立てない。
しかし、永遠の視点に立たれる全能者が、正当なさばきをされる。
ルカ16:19 ある金持がいた。彼は紫の衣や細布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮していた。
16:20 ところが、ラザロという貧しい人が全身でき物でおおわれて、この金持の玄関の前にすわり、
16:21 その食卓から落ちるもので飢えをしのごうと望んでいた。その上、犬がきて彼のでき物をなめていた。
16:22 この貧しい人がついに死に、御使たちに連れられてアブラハムのふところに送られた。金持も死んで葬られた。
16:23 そして黄泉にいて苦しみながら、目をあげると、アブラハムとそのふところにいるラザロとが、はるかに見えた。
16:24 そこで声をあげて言った、『父、アブラハムよ、わたしをあわれんでください。ラザロをおつかわしになって、その指先を水でぬらし、わたしの舌を冷やさせてください。わたしはこの火炎の中で苦しみもだえています』。
16:25 アブラハムが言った、『子よ、思い出すがよい。あなたは生前よいものを受け、ラザロの方は悪いものを受けた。しかし今ここでは、彼は慰められ、あなたは苦しみもだえている。
16:26 そればかりか、わたしたちとあなたがたとの間には大きな淵がおいてあって、こちらからあなたがたの方へ渡ろうと思ってもできないし、そちらからわたしたちの方へ越えて来ることもできない』。
死後の世界が、あるのだ。
ラザロは生前、悪いものを受けたが、その後彼は慰められ続け、ラザロにあわれみを施さなかった金持ちは、死後、苦しみを受け続けている。
人は、死後の世界も、永遠の観点も、持っていない。
しかし永遠なる神は、人が生きている100年そこらの年数のみならず、その後につづく永遠をもひっくるめて、正しいさばきをなさるのである。
ここで勘違いしてはならない事は、生前は金持ちだったら自動的にハデスに落とされるという訳ではないし、生前貧乏なら自動的にパラダイスに行くわけでもない。
実際アブラハムは、生前、金持ちだった。
では、パラダイスに行くか、ハデスに落とされるかの分かれ道は、一体何だろう。
16:27 そこで金持が言った、『父よ、ではお願いします。わたしの父の家へラザロをつかわしてください。
16:28 わたしに五人の兄弟がいますので、こんな苦しい所へ来ることがないように、彼らに警告していただきたいのです』。
16:29 アブラハムは言った、『彼らにはモーセと預言者とがある。それに聞くがよかろう』。
16:30 金持が言った、『いえいえ、父アブラハムよ、もし死人の中からだれかが兄弟たちのところへ行ってくれましたら、彼らは悔い改めるでしょう』。
16:31 アブラハムは言った、『もし彼らがモーセと預言者とに耳を傾けないなら、死人の中からよみがえってくる者があっても、彼らはその勧めを聞き入れはしないであろう』」。
パラダイスに行くか、ハデスに落とされるかの分かれ道、それは「モーセと預言者」である。
すなわち、神の言葉だ。
神の言葉を信じ、それに耳を傾け、それを行う人は、誰でも、信仰の父・アブラハムの元に行き、神の言葉を軽んじ、それを行わないなら、金持ちが行ったところへと行くのである。
金持ちは、たくさんの言葉でアブラハムを説得しようとしたが、人間の議論は、死んだ後に来てしまった場所を変える事はできないし、自分の救いに対して、何の足しにもならない。
ヨブと友人たちの議論、すなわち、主の御名の無い膨大な「人間言葉」の応酬が、神の御前で何の足しにもならなかったのと、同じである。
結局、価値があるのは、神の言葉のみだ。
神は崇高すぎて、苦しみもがく人間の願いをバーンと撥ね退けてしまうお方、か?(ヨブ記23章)
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- pastor 2018-6-4 10:46
神は崇高すぎて、苦しみもがく人間の願いをバーンと撥ね退けてしまうお方、か?(ヨブ記23章)
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前章において、エリファズは神の絶対性、全能性をとうとうと語り、神をなにか、無感覚・無感動な「冷たい神」であるかのように思わせられる言葉で言ったが、ヨブはこの章では、エリファズに反論しない。
むしろ、神はそういう「冷たさ」があるという神観を、彼もある程度持っており、その「冷たさ」に、どうにも我慢ならないので、なんとしても神と論じ合いたいと願っている。
23:1 そこでヨブは答えて言った、
23:2 「きょうもまた、わたしの「つぶやき(苦い祈り)」は激しく、/彼の手はわたしの嘆きにかかわらず、重い。
ヨブはエリファズの冷たい神観に共感したのか、この章では、苦々しい思いに満たされた状態である
23:3 どうか、彼を尋ねてどこで会えるかを知り、/そのみ座に至ることができるように。
23:4 わたしは彼の前にわたしの訴えをならべ、/口をきわめて論議するであろう。
23:5 わたしは、わたしに答えられるみ言葉を知り、/わたしに言われる所を悟ろう。
23:6 彼は大いなる力をもって、/わたしと争われるであろうか、/いな、かえってわたしを顧みられるであろう。
23:7 かしこでは正しい人は彼と言い争うことができる。そうすれば、わたしはわたしをさばく者から/永久に救われるであろう。
ヨブはここにおいて、神と論じあうなら、神は自分の正しさを見出してくれるだろう、という思い込みがあった。
その思い込みは後で粉々に砕かれるのだが、ここにおいてヨブは、とても重要な願いが起こされている。それは、「神と論じ合いたい」という願いだ。
神と論じ合う、すなわち、神と交わりたいという飢え渇きこそ、神の前において義とされて行くための重要な踏み出しである。
イザヤ1:18 主は言われる、さあ、われわれは互に論じよう。たといあなたがたの罪は緋のようであっても、雪のように白くなるのだ。紅のように赤くても、羊の毛のようになるのだ。
私達の側に、義は一切無いが、唯一「義なるお方」である主と論じ合い、主と交わっていくうちに、人は、緋のような赤い罪も、白くされて行く事が可能なのだ。
23:8 見よ、わたしが進んでも、彼を見ない。退いても、彼を認めることができない。
23:9 左の方に尋ねても、会うことができない。右の方に向かっても、見ることができない。
ヨブは、主と論じ合いたいと望んでいる。けれども、見いだせないでいる。
確かに、求めている探している段階は、何も見えずに辛いが、しかし求め続けているなら、やがて与えられる。
ヨブは主を求め続け、後にはついに、主と出会うことになる。
23:10 しかし彼はわたしの歩む道を知っておられる。彼がわたしを試みられるとき、/わたしは金のように出て来るであろう。
23:11 わたしの足は彼の歩みに堅く従った。わたしは彼の道を守って離れなかった。
23:12 わたしは彼のくちびるの命令にそむかず、/その口の言葉をわたしの胸にたくわえた。
ヨブは、もし主と論じ合うなら、神は彼を「金」のように見てくれるだろう、という思い込みがある。
彼は、自分はずっと主の道を守って離れなかった、その命令に背かず、御言葉を蓄えてきた、という自信がある事をここで告白しているからだ。
確かにヨブは、まわりと自分とを比べれば、自分のほうが遥かに正しいので、自分を、神の御前でも黄金のような自分として通用すると見たのかもしれない。
事実、神もサタンに、ヨブ以上の人物はいない、と言った。
しかし残念ながら、人は、人と比較して義となるのではなく、神の基準において義と認められなくては意味がなく、さらに残念な事に、すべて「人の義」は、神の御前においては「汚れた衣」に過ぎない。
イザヤ64:6 われわれはみな汚れた人のようになり、われわれの正しい行いは、ことごとく汚れた衣のようである。われわれはみな木の葉のように枯れ、われわれの不義は風のようにわれわれを吹き去る。
このイザヤ書の「汚れた衣」を直訳すると、(女の)月のもので汚れたもの、である。
人間がいくら頑張ったところで、人の義、私達の正しい行いとは、神の前ではそんなものでしかない。
そう、義人はいない、ひとりも、いないのだ。
預言者イザヤは、それを絶望して終わるのではなく、主に食らいついて行った。
イザヤ64:8 されど主よ、あなたはわれわれの父です。われわれは粘土であって、あなたは陶器師です。われわれはみな、み手のわざです。
64:9 主よ、ひどくお怒りにならぬように、いつまでも不義をみこころにとめられぬように。どうぞ、われわれを顧みてください。われわれはみな、あなたの民です。
イザヤは主に申し上げた。
主よ、あなたは我々の父ですよね、そして我々は、あなたの民ですよね、と。
あなたは陶器師で、我々はあなたの御手の内で作られる粘土ですよね。そうであるからには、あなたは我々人間の弱さ、罪に傾く性質を、知っておいでになられます。
どうかそんな私達の様を知り、私達に憐れみをかけてください、と。
このように、主に食らいついていき、主と「論じ合う」事、主との交わりへ入って行く事こそ大事なのだが、ヨブは、神を「崇高すぎるお方」「言っても聞きはしないお方」だという認識で、無気力になってしまっている。
たとえ万一こんな自分の声が、神に届いたところで、神はそんな願いをバーンと撥ね退けてしまうのではないか、と。
それで、次のように告白する
ヨブ記23:13 しかし彼は変ることはない。だれが彼をひるがえすことができようか。彼はその心の欲するところを行われるのだ。
23:14 彼はわたしのために定めた事をなし遂げられる。そしてこのような事が多く彼の心にある。
結局、「みこころ」だけが成就するのだったら、祈っても、願っても、論じても無駄だ、こんなにひどい目に遭わされているのに、神は、何の答えもくださらない。
こんな目に遭っているのかという理由さえも教えてくれない、という思いで満たされている。
23:15 それゆえ、わたしは彼の前におののく。わたしは考えるとき、彼を恐れる。
23:16 神はわたしの心を弱くされた。全能者はわたしを恐れさせられた。
23:17 わたしは、やみによって閉じこめられ、/暗黒がわたしの顔をおおっている。
ヨブは、かなり弱気になっている。
19章の強気とは、打って変わって。
ヨブは、霊の中で、なんとなく悟っていたのだ。
自分の義は、結局、汚れた衣に過ぎない、と。
それではヨブは、なぜ、19章では強気になっていたのか。
それは、彼をあがなって下さるお方が生きておられる、と高らかに宣言したからだ。
結局、自分の義は、汚れた衣に過ぎない。しかし、私達を購って下さるお方を拠り所とするなら、私達は強いのである。
私達にとって、購って下さるお方、それは、私達の主、イエス・キリストである。
このお方に依り頼むなら、私達は強いのである。
全くもって義を持ちあわせていない私達が、義とされるには、私達を義として下さる主の元に行く他に無い。
自分の義は、月のもので汚れたものだ、とイザヤは言ったが、それでもイザヤは主に食らいついて行った。同じように、ペテロも主に自分の弱さを告白し、ただ「あなたがそんな弱いわたしをご存知です」、と、主にすがりに行った。
ヨハネ21:17 イエスは三度目に言われた、「ヨハネの子シモンよ、わたしを愛するか」。ペテロは「わたしを愛するか」とイエスが三度も言われたので、心をいためてイエスに言った、「主よ、あなたはすべてをご存じです。わたしがあなたを愛していることは、おわかりになっています」。イエスは彼に言われた、「わたしの羊を養いなさい。
21:18 よくよくあなたに言っておく。あなたが若かった時には、自分で帯をしめて、思いのままに歩きまわっていた。しかし年をとってからは、自分の手をのばすことになろう。そして、ほかの人があなたに帯を結びつけ、行きたくない所へ連れて行くであろう」。
ペテロは、自分には主を完璧な愛で愛し尽くす愛が無い事を、イエス様の十字架と復活を通して思い知らされた。
しかし、ペテロのこの告白、「主よ、あなたはすべてをご存じです。わたしがあなたを愛していることは、おわかりになっています」という告白が、彼にとって転機となる。
ヨハネ21:18 よくよくあなたに言っておく。あなたが若かった時には、自分で帯をしめて、思いのままに歩きまわっていた。しかし年をとってからは、自分の手をのばすことになろう。そして、ほかの人があなたに帯を結びつけ、行きたくない所へ連れて行くであろう」。
21:19 これは、ペテロがどんな死に方で、神の栄光をあらわすかを示すために、お話しになったのである。こう話してから、「わたしに従ってきなさい」と言われた。
ペテロはこれまで、自分の好む帯をしめ、自分の好む方へと、気ままに歩んでいた。
しかし、イエス様と交わり、関わっていくうちに、より優れた道を、主イエス様の中で見出して行った。
ペテロは後に、聖霊が与えられ、力強い大胆な主の働き人となり、そして最後には、イエス様の御名ゆえに、殉教して行く。
多くの人を、イエス・キリストにある永遠のいのちへと導きながら。
この出来事の後の彼の道は、彼の望む道ではなかった。
もっと優れた、神の国を拡大して行く道、栄光の道である。
ヨブは、自分の願いや思う事が聞き届けられないと思って、怒り、主の「みこころ」だけが成って、この圧倒的全能者を前に、自分は何を言っても無駄なのだ、と、無気力になった。
主は、聞いておられないのではない。
知っていないのではない。
私達の思い、願いを、十分に知り、そして知った上で、主が備えて下さる私達の最善・最良・最高の道へと歩ませるために、あえて、私達が願う道(罪と弱さに満ちた不完全な道)を、閉ざし、主が用意された最良の道に、取って代わらせようと、愛をもって導いておられるのだ。
それは、ヨブ記をわずか一節でまとめた、次の新約の言葉に現れている。
ヤコブ5:11 忍び抜いた人たちはさいわいであると、わたしたちは思う。あなたがたは、ヨブの忍耐のことを聞いている。また、主が彼になさったことの結末を見て、主がいかに慈愛とあわれみとに富んだかたであるかが、わかるはずである。
結局、人は主を抜きにしては、何も分からないし、何もできない。
ただ、人を義にしてくださる事がおできになる主と、論じ合い、主に知っていただき、主と交わりながら生きていく他、ないのである。
エリファズによる三回目の弁論 - 顕わにされたヨブと友人達の貧しい神観(ヨブ記22章)
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- pastor 2018-6-1 8:38
エリファズによる三回目の弁論 - 顕わにされたヨブと友人達の貧しい神観(ヨブ記22章)
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20章は、エリファズによる三回目の、そして、最後の弁論である。
前章では、ヨブが、因果応報と悪因悪果の単純な押し着せばかりをする友人達に真っ向から反論して、現実では悪人が平然と栄えているではないかと指摘した。
そのため、それに真っ向から反対する形で答えるのだが、その答えの中に、エリファズの貧しい神観があらわにされる。
22:1 そこでテマンびとエリパズは答えて言った、
22:2 「人は神を益することができるであろうか。賢い人も、ただ自身を益するのみである。
22:3 あなたが正しくても、全能者になんの喜びがあろう。あなたが自分の道を全うしても、/彼になんの利益があろう。
エリファズは言う。
「全能者」の前に、いくらがんばったところで、何の益があるだろうか、と。
全能者(シャッダイ)という言葉がヨブ記には何度も出てくる。
神をあらわす言葉には、色々あるが、特にこの全能者(シャッダイ)という言葉は、ヨブ記の登場人物が非常に頻繁に用いている。
全能者(シャッダイ)という言葉は、旧約全体で48回用いられているが、そのうち、31回も、ヨブ記で使われている。
だから全能者(シャッダイ)という言葉は、ヨブ記における神観をあらわす特徴的な言葉であるといえる。
そして、その「全能」が強調されるあまり、人の側が何を努力しても無駄に感じるような雰囲気ある言葉だ。
もし神の「全能」な面だけを見続けて、それにひきかえての自分と比較するなら、無気力になってしまう言葉である。
エリファズは「人は神を益することができるであろうか。賢い人も、ただ自身を益するのみである。あなたが正しくても、全能者になんの喜びがあろう。あなたが自分の道を全うしても、/彼になんの利益があろう。」と言った。
実に、神と相対しようとする人を、無気力にさせる言葉である。
神は、愛である、と、聖書に書いてある。
親という存在は、子供に正しく完璧である事を求めるばかりだろうか。
完璧にできないなら、ただつっぱねるだけが親だろうか。
親は子供をかわいく思い、なんとか助けようと思うものだが、世の親子関係は、まことの父なる神と私達との、真の親子関係の、影にすぎない。
イエス様は、罪の泥沼でもがき苦しんている私達を、「かわいそう(スプランキニゾマイ:はらわたがちぎれる思い)」に見て下さる。
イエス様は、神を父と呼び、そして信じる私達を、神様との父子関係へと、招いて下さる。
イエス様は私達を友と呼び、十字架を通して兄弟姉妹の関係へと、さらには、雅歌書のように、甘い花婿と花嫁の関係へと導いて下さる。
それはひとえに、人が神と関わる事によって。神と、ともに歩む事によって成就して行く。
エリファズには、そして災いが起きる以前のヨブには、その神感がなく、ただ、シャッダイなる神の神感しか無かった。
だから、主の御名が無い彼らの議論を聞いていると、救いが無いので、どんどん心が渇いて行くのだ。
それは、因果応報・現世利益を求める世の宗教全般も同じであり、だから、ヨブ記を読むと、なにか世の宗教に似た雰囲気が流れているのだ。
ヨブ達の議論の中に、エホバなる主の御名は、ただ一度、ヨブの口から出ただけだったが、主「エホバ」の御名にこそ、救いがある。
主の御名「エホバ」はヘブライ語では「יהוה(ユッド、ヘー、ヴァヴ、ヘー)」である。
ヘブライ文字にはそれぞれ意味が込められているが、この4文字のそれぞれの意味は、まず「ユッド」は「手」が関係する文字であり、「ヘー」は「見よ」という意味があり、また「ヴァヴ」には「釘」の意味があり、すなわち、主の御名 ユッド、ヘー、ヴァヴ、ヘーは「手を見よ、釘を見よ」という意味があるのだ。
これは実に、十字架上で釘うたれるイエス様あらわしており、その御方を見よ!と語られている文字だ。
つまり、主エホバの御名が人に知らされた時以来、何百年、何千年も、主の御名が宣言される度に「あの手を見なさい、釘打たれたあの手を見なさい」と、語り続けて来たわけである。
エリファズは、全能者という神観のみで、人には崇高すぎて手がとどかないような、あるいは、無感情なお方という、不完全な神観を持っていた。
そして、前章において、ヨブが「悪人でも栄えている者がいるではないか」と反論した事を受け、やっぱりヨブは悪人を養護した、やっぱりヨブは隠れて悪の行いをしていたのか、と、勘違いしたのか、エリファズの想像上のヨブの悪行の数々を、具体的に並べ始める。
22:4 神はあなたが神を恐れることのゆえに、/あなたを責め、あなたをさばかれるであろうか。
22:5 あなたの悪は大きいではないか。あなたの罪は、はてしがない。
22:6 あなたはゆえなく兄弟のものを質にとり、/裸な者の着物をはぎ取り、
22:7 疲れた者に水を飲ませず、/飢えた者に食物を与えなかった。
22:8 力ある人は土地を得、/名ある人はそのうちに住んだ。
22:9 あなたは、やもめをむなしく去らせた。みなしごの腕は折られた。
22:10 それゆえ、わなはあなたをめぐり、/恐怖は、にわかにあなたを驚かす。
22:11 あなたの光は暗くされ、/あなたは見ることができない。大水はあなたをおおうであろう。
22:12 神は天に高くおられるではないか。見よ、いと高き星を。いかに高いことよ。
神はあまりに高くおられる。。。それがエリファズの神観だが、悪人はそれを逆用し、調子にのって悪を行う。
彼は、ヨブがそうだと決めつける。
22:13 それであなたは言う、『神は何を知っておられるか。彼は黒雲を通して、さばくことができるのか。
22:14 濃い雲が彼をおおい隠すと、/彼は見ることができない。彼は天の大空を歩まれるのだ』と。
22:15 あなたは悪しき人々が踏んだ/いにしえの道を守ろうとするのか。
22:16 彼らは時がこないうちに取り去られ、/その基は川のように押し流された。
22:17 彼らは神に言った、『われわれを離れてください』と、/また『全能者はわれわれに何をなしえようか』と。
22:18 しかし神は彼らの家を良い物で満たされた。ただし悪人の計りごとは/わたしのくみする所ではない。
22:19 正しい者はこれを見て喜び、/罪なき者は彼らをあざ笑って言う、
22:20 『まことにわれわれのあだは滅ぼされ、/その残した物は火で焼き滅ぼされた』と。
これら言葉の節々に、かつてヨブが言った事の言葉のいくつかが混じっている。
彼は言葉じりを捉えて、責めているようであるが、それは、(ヨブが)悪を捨てて、神に立ち返るように、という、次につづく言葉へつなげるためだ。
22:21 あなたは神と和らいで、平安を得るがよい。そうすれば幸福があなたに来るでしょう。
22:22 どうか、彼の口から教を受け、/その言葉をあなたの心におさめるように。
22:23 あなたがもし全能者に立ち返って、おのれを低くし、/あなたの天幕から不義を除き去り、
22:24 こがねをちりの中に置き、/オフルのこがねを谷川の石の中に置き、
22:25 全能者があなたのこがねとなり、/あなたの貴重なしろがねとなるならば、
22:26 その時、あなたは全能者を喜び、/神に向かって顔をあげることができる。
22:27 あなたが彼に祈るならば、彼はあなたに聞かれる。そしてあなたは自分の誓いを果す。
22:28 あなたが事をなそうと定めるならば、/あなたはその事を成就し、/あなたの道には光が輝く。
22:29 彼は高ぶる者を低くされるが、/へりくだる者を救われるからだ。
22:30 彼は罪のない者を救われる。あなたはその手の潔いことによって、/救われるであろう」。
確かに、それは間違いではない。
主に立ち返るなら、主は栄光を、富を、健康を返して下さる。
主に聞き従う人は、あらゆる面で祝福される。
しかし、そうした現世的な祝福が来るから、神に立ち返れ、と勧めるだけなら、それは、世のご利益宗教と何ら変わる所がない。
確かに信仰の初心者に対しては、それで良いかもしれないが、何年も信仰生活を続けた人が、ずっとそこに留まっているとするなら、何ら信仰が成長していなかった事になってしまう。
もしも、富が与えられるから神を信じなさい、と言う信仰だけだったとするなら、すぐさまサタンにやられてしまう。
そもそものヨブ記の始まりにおいて、サタンがヨブを攻める口実が、まさにそうだった。
それなら、世的な祝福それが取り上げられたなら、神を呪いながら捨て去る以外に無い。
ヨブ記1:9 サタンは主に答えて言った、「ヨブはいたずらに神を恐れましょうか。
1:10 あなたは彼とその家およびすべての所有物のまわりにくまなく、まがきを設けられたではありませんか。あなたは彼の勤労を祝福されたので、その家畜は地にふえたのです。
1:11 しかし今あなたの手を伸べて、彼のすべての所有物を撃ってごらんなさい。彼は必ずあなたの顔に向かって、あなたをのろうでしょう」。
サタンさえ誘惑してくる。
ルカ4:6 言った、「これらの国々の権威と栄華とをみんな、あなたにあげましょう。それらはわたしに任せられていて、だれでも好きな人にあげてよいのですから。
4:7 それで、もしあなたがわたしの前にひざまずくなら、これを全部あなたのものにしてあげましょう」。
なぜヨブ記が記されたのか。
それは、全ての信仰者達を、そのような「貧しい神観」から、脱却させるためではないだろうか。
神は、単に崇高な高いだけのお方ではない。
近くにいまし、私達を知っておられるお方である。
神は、単に全能者であられるばかりではない。
愛なるお方である。
そして神は、無感情・無関係なお方では、決してない。
神は、愛の関係を求めておられるお方であり、そして私達が神と関係する事によって、義とし、ますます神に近い者へと造り変えて下さるお方である。
ヨブは、以前は、神に何か物申しても無駄だ、たちまちにその全能なる御腕で、こんな私の訴えはいとも簡単にへし折られてしまうのだ、という神観だった。(9章)
しかし神は、ヨブに災いの中を敢えて通らせ、そして、友人達の主の御名なき因果応報・ご利益宗教に、カラカラに渇きを覚え、その末に彼は、神と論じ合いたいという思いが起こされた。(13:3)
さらに彼は、神と人との間に立って下さるお方、それも、彼の保証となり、彼の弁護者となって下さるお方を、求めるに至った。(19章)
そしてヨブ記の最後、彼は、神に関する知識を深め、神との深い交わりによる祝福にあずかる事となって行く。
イザヤ書において、主は「互いに論じよう」と言っておられる。
それによって、緋のような罪が白く、紅のような赤い罪が羊の毛のようにされていくのだ。
結局、人にとって、創造主と一緒になって密接に関わる事こそ、最も大事なのだ。
それがたとえ、喧嘩腰であったとしても。
神は、因果応報・ご利益宗教の、無感覚・無感動・無関係の、マシンのような神ではない。
私達のところに降りて来てくださり、相撲を取ってでも関わる神であり、熱烈に愛し、もし別の神に浮気するなら激情に駆られて妬む神である。
雅歌書で表現されているように、花婿が花嫁を愛し慕い求めるような、甘い愛をもって慰めてくださる神である。
キリストは私達を救うために、天を押し曲げて降りて来てくださり、人となり、十字架の上で苦しみを受けるパッションの神である。
そして、罪人の一人が悔い改めるなら、天で大宴会を起こすほどの神なのだ。
この神との関わり、それこそ、人が求めるべき事である。
友人達の論議の土俵へと降りていくヨブ(ヨブ記21章)
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ツォファルに対するヨブの答えが21章であるが、今までの様相とは若干異なる。
今までは、友人に対する反論というよりも、むしろ、神様に対する叫びのような祈りのほうで、紙面が割かれていた。
しかし、今回のヨブの返答には、神様に向けられた言葉はなく、因果応報と悪因悪果の単純な押し着せばかりをする友人達の議論の土俵に降りてきて、彼らが金科玉条としているその法則が、現実では、必ずしもそんなに単純に行われていない事をつきつけており、自分の問題は、そんなに単純ではない事を友人達に分からせようとしているふしがある。
21:1 そこでヨブは答えて言った、
21:2 「あなたがたはとくと、わたしの言葉を聞き、/これをもって、あなたがたの慰めとするがよい。
21:3 まずわたしをゆるして語らせなさい。わたしが語ったのち、あざけるのもよかろう。
21:4 わたしのつぶやきは人に対してであろうか。わたしはどうして、いらだたないでいられようか。
21:5 あなたがたはわたしを見て、驚き、/手を口にあてるがよい。
ヨブにとって最も友人にしてもらいたかった事は、ヨブの話を聞いてもらう事だ。
ひどい災いを受けている、しかし、それを受けるような事をした事が、身に覚えがない。
このいらだちを理解してもらいたかった。
それなのに彼らは、こんな災を受けているヨブを、単純に悪人と決めつけ、単調に因果応報、悪因悪果のお仕着せばかりして、ヨブを苦しめるので、ついにヨブは友人の土俵に立ち、議論を仕掛ける。
はたしてそんなに因果応報、悪因悪果が単純に行われるのか、と。そして、単調に因果応報、悪因悪果ではない現実の事例を並べ、「驚き、手を口にあてるがよい」と言う。
21:6 わたしはこれを思うと恐ろしくなって、/からだがしきりに震えわななく。
21:7 なにゆえ悪しき人が生きながらえ、/老齢に達し、かつ力強くなるのか。
21:8 その子らは彼らの前に堅く立ち、/その子孫もその目の前に堅く立つ。
21:9 その家は安らかで、恐れがなく、/神のつえは彼らの上に臨むことがない。
21:10 その雄牛は種を与えて、誤ることなく、/その雌牛は子を産んで、そこなうことがない。
21:11 彼らはその小さい者どもを群れのように連れ出し、/その子らは舞い踊る。
21:12 彼らは手鼓と琴に合わせて歌い、/笛の音によって楽しみ、
21:13 その日をさいわいに過ごし、/安らかに陰府にくだる。
21:14 彼らは神に言う、『われわれを離れよ、/われわれはあなたの道を知ることを好まない。
21:15 全能者は何者なので、/われわれはこれに仕えねばならないのか。われわれはこれに祈っても、なんの益があるか』と。
神を恐れ敬わず、悪ばかりを為して、何の罰らしい罰を受けないまま栄えている者が確かにいる現実、それをどう思うのか、と、ヨブはつきつけている。
ヨブは神をないがしろにする悪人ではないが、そんなヨブが逆に、こんなにもひどい災いを受けているという、この現実はどうなのか。
21:27 見よ、わたしはあなたがたの思いを知り、/わたしを害しようとするたくらみを知る。
21:28 あなたがたは言う、『王侯の家はどこにあるか、/悪人の住む天幕はどこにあるか』と。
21:29 あなたがたは道行く人々に問わなかったか、/彼らの証言を受け入れないのか。
21:30 すなわち、災の日に悪人は免れ、/激しい怒りの日に彼は救い出される。
21:31 だれが彼に向かって、/その道を告げ知らせる者があるか、/だれが彼のした事を彼に報いる者があるか。
21:32 彼はかかれて墓に行き、/塚の上で見張りされ、
21:33 谷の土くれも彼には快く、/すべての人はそのあとに従う。彼の前に行った者も数えきれない。
友人達は、因果応報を金科玉条のごとく突きつけるが、現実を見ると、必ずしもそうではない、という事を、ヨブは突きつけた。
だから、友人達が自分に向かって突きつける因果応報ばかりを単調に突きつけるのは、「むなしいことば」だと、逆に突きつけた。
21:34 それで、あなたがたはどうしてむなしい事をもって、/わたしを慰めようとするのか。あなたがたの答は偽り以外の何ものでもない」。
ヨブは今回、神に向かずに、友人達の議論とう低レベルな土俵へと降りてゆき、彼らに、「それでは違うのだ」という”ゆとり”が出てきたのかもしれない。
それは、彼が神に向かって叫びのような祈りをし、ついに、彼のなかだちとして立って下さるお方、弁護し購って下さるお方を知るに至ったからだろう。
アサフもまた、悪人が何の災いに遭わず栄えている様を見て、心を痛めていたが、しかし彼が神の聖所へと至った時、彼らの最後を悟ることができた。
そして、それまで神に向かって叫んでいたその獣のような荒んだ心に恥じ入り、いただいた平安を感謝し、賛美するに至った。
詩篇73:21 わたしの魂が痛み、わたしの心が刺されたとき、
73:22 わたしは愚かで悟りがなく、あなたに対しては獣のようであった。
73:23 けれどもわたしは常にあなたと共にあり、あなたはわたしの右の手を保たれる。
73:24 あなたはさとしをもってわたしを導き、その後わたしを受けて栄光にあずからせられる。
私達が世の中の現実に目を向ける時、悪人の栄えている様に目を向ける時、ただ獣のようになる以外に無い。
ヨブの友人達は、ことわざや哲学ばかりを吠える獣のような有様であるが、しかし神に心を向けるなら、アサフのように、ヨブのように、物事が見えて来る。
そして後には、栄光の内に受け入れられ、平安と賛美が戻ってくるのだ。
詩篇73:25 わたしはあなたのほかに、だれを天にもち得よう。地にはあなたのほかに慕うものはない。
73:26 わが身とわが心とは衰える。しかし神はとこしえにわが心の力、わが嗣業である。
73:27 見よ、あなたに遠い者は滅びる。あなたは、あなたにそむく者を滅ぼされる。
73:28 しかし神に近くあることはわたしに良いことである。わたしは主なる神をわが避け所として、あなたのもろもろのみわざを宣べ伝えるであろう。
ツォファルによる二回目の弁論 - ただ人を苛立たせるだけの「思い込み」の殻を抜け出せていない知恵(ヨブ記20章)
- カテゴリ :
- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(旧約) » ヨブ記
- 執筆 :
- pastor 2018-5-28 8:05
ツォファルによる二回目の弁論 - ただ人を苛立たせるだけの「思い込み」の殻を抜け出せていない知恵(ヨブ記20章)
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20章は、ナアマ人ツォファルによる第二回目の論議であるが、その内容もまた、前回と全く同様、「悪人はこうなる」という容赦ない決めつけに基づいた攻撃である。
20:1 そこでナアマびとゾパルは答えて言った、
20:2 「これによって、わたしは答えようとの思いを起し、/これがために心中しきりに騒ぎ立つ。
ツォファルから発せられて行く言葉は、「しきりに騒ぎ立つ」思いが由来である。
そのようないらだちに由来する言葉の多くは、害しか生み出さない事のほうが多い。
20:3 わたしはわたしをはずかしめる非難を聞く、/しかし、わたしの悟りの霊がわたしに答えさせる。
ツォファルは、ヨブが、自分を侮辱する訓戒をしていると思い込んでいる。
誤解がさらに誤解を産んで、怒りを燃焼させて行っている状態だ。
彼は「わたしの悟りの霊がわたしに答えさせる」と自称しているのだが、しかしその「悟りの霊」の出処は一体どこだろう。
イエス様は言われた。
ヨハネ16:13 けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう。
真理の御霊は、人をあらゆる真理へと導くものだが、ツォファルの言葉には、主エホバの御名はなく、また、ヨブが前章で叫び求めた「あわれみ」の提供もなく、ヨブが告白した「贖うお方」についての言及もなく、ただ怒り、叫び、そしりという肉の実を結んだだけであった。
私達は、いらだちや怒りから来る衝動を「悟りの霊」にあふれていると勘違いしてはならない。
人の怒りは、神の義を実現させるものではないからだ。
20:4 あなたはこの事を知らないのか、/昔から地の上に人の置かれてよりこのかた、
20:5 悪しき人の勝ち誇はしばらくであって、/神を信じない者の楽しみは/ただつかのまであることを。
ツォファルのヨブに対する論議の前提は、結局、ヨブを「悪人」「神を信じない者」と決めつけた上でのもので、しかも、いらだちに支配された思いから発せられたものなので、彼の言葉は、ひたすらひたすら悪人が受ける報いはこうだ、という多くの言葉で塗りつぶされている。
20:6 たといその高さが天に達し、/その頭が雲におよんでも、
20:7 彼はおのれの糞のように、とこしえに滅び、/彼を見た者は言うであろう、『彼はどこにおるか』と。
20:8 彼は夢のように飛び去って、再び見ることはない。彼は夜の幻のように追い払われるであろう。
20:9 彼を見た目はかさねて彼を見ることがなく、/彼のいた所も再び彼を見ることがなかろう。
20:10 その子らは貧しい者に恵みを求め、/その手は彼の貨財を償うであろう。
20:11 その骨には若い力が満ちている、/しかしそれは彼と共にちりに伏すであろう。
確かに悪人はそのようになる。
しかし、ヨブの状況をよく知らず、ヨブの言葉を聞いた上でなおもこの事を言うのは、時宜に適っていない、的外れな事である。
その「時宜に適っていない」事が、幾度、繰り返されているだろう。
20:12 たとい悪は彼の口に甘く、/これを舌の裏にかくし、
20:13 これを惜しんで捨てることなく、/口の中に含んでいても、
20:14 その食物は彼の腹の中で変り、/彼の内で毒蛇の毒となる。
20:15 彼は貨財をのんでも、またそれを吐き出す、/神がそれを彼の腹から押し出されるからだ。
20:16 彼は毒蛇の毒を吸い、/まむしの舌は彼を殺すであろう。
20:17 彼は蜜と凝乳の流れる川々を見ることができない。
20:18 彼はほねおって獲たものを返して、/それを食うことができない。その商いによって得た利益をもって/楽しむことができない。
20:19 彼が貧しい者をしえたげ、これを捨てたからだ。彼は家を奪い取っても、/それを建てることができない。
20:20 彼の欲張りは足ることを知らぬゆえ、/その楽しむ何物をも救うことができないであろう。
20:21 彼が残して食べなかった物とては一つもない。それゆえ、その繁栄はながく続かないであろう。
20:22 その力の満ちている時、彼は窮境に陥り、/悩みの手がことごとく彼の上に臨むであろう。
20:23 彼がその腹を満たそうとすれば、/神はその激しい怒りを送って、/それを彼の上に降り注ぎ、彼の食物とされる。
あたかもヨブが、貧しい者からかすめ奪い、不当に私服を肥やした事を前提とした言葉だが、ヨブはそんな事をしていない。
怒りやあせりを持ちながら議論しだすと、相手に対する「決めつけ」が起こり、その的を外した実態の無い「決めつけ」に対する無益な攻め立てと防御の応酬に陥るものだ。
20:24 彼は鉄の武器を免れても、/青銅の矢は彼を射通すであろう。
20:25 彼がこれをその身から引き抜けば、/きらめく矢じりがその肝から出てきて、/恐れが彼の上に臨む。
20:26 もろもろの暗黒が彼の宝物のためにたくわえられ、/人が吹き起したものでない火が彼を焼きつくし、/その天幕に残っている者を滅ぼすであろう。
20:27 天は彼の罪をあらわし、/地は起って彼を攻めるであろう。
20:28 その家の財産は奪い去られ、/神の怒りの日に消えうせるであろう。
20:29 これが悪しき人の神から受ける分、/神によって定められた嗣業である」。
このように、時宜にかなわない的外れな助言は、長ければ長いほど、感情的で語尾が強ければ強いほど、また、この詩文体のように体裁が立派であればあるほど、人をうんざりさせるものである。
人間の思い込みという殻を抜け出せていない以上、人をうんざりさせる以外に無い。
ヨブ記で展開される長大な人間議論が、全て立派な「詩文体」で表現されているのは、もしかすると、主の御名も愛も除かれてしまっている人間の箴言や哲学が、どんなに無益で、うんざりさせ、ただ傷つけるものであるのかという事を示すための、長大なアイロニーなのかもしれない。
私達は、絶望の底にある人を助けるには、どうすれば良いか。
それは、人の心を探り極めるお方に聞く以外に無い。
1コリント2:10 そして、それを神は、御霊によってわたしたちに啓示して下さったのである。御霊はすべてのものをきわめ、神の深みまでもきわめるのだからである。
2:11 いったい、人間の思いは、その内にある人間の霊以外に、だれが知っていようか。それと同じように神の思いも、神の御霊以外には、知るものはない。
・・・
2:15 しかし、霊の人は、すべてのものを判断するが、自分自身はだれからも判断されることはない。
2:16 「だれが主の思いを知って、彼を教えることができようか」。しかし、わたしたちはキリストの思いを持っている。
人の思いを知る者は、本人自身と、人の心を深みまで探り極める御霊以外にはありえない。
それゆえ、私達が御霊に満たされる時、真に必要で適切な言葉が与えられる。真理の御霊が来る時、それは、自分の思い込みや世の知恵で語るのではなく、その聞くところを語るからだ。
そして、最もすぐれた道は、愛である。
1コリント13:1 たといわたしが、人々の言葉や御使たちの言葉を語っても、もし愛がなければ、わたしは、やかましい鐘や騒がしい鐃鉢と同じである。
13:2 たといまた、わたしに預言をする力があり、あらゆる奥義とあらゆる知識とに通じていても、また、山を移すほどの強い信仰があっても、もし愛がなければ、わたしは無に等しい。
13:3 たといまた、わたしが自分の全財産を人に施しても、また、自分のからだを焼かれるために渡しても、もし愛がなければ、いっさいは無益である。
ヨブ記の3章から今まで読んでいると、まことに立派なやかましい鐘、騒がしい鐃鉢が鳴り響いているような様である。
主エホバの御名の無い人間ことば、愛の無いことば、主の霊によるのではない人間の知恵は、みな、そうだ。
私達は御霊に満たされる事を求めるべきであり、そして、愛を身に着けるべきである。
わが友よ、わたしをあわれめ!わたしをあわれめ!(ヨブ記19章)
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ビルダデに対するヨブの答えが19章である。
ヨブ記19:1 そこでヨブは答えて言った、
19:2 「あなたがたはいつまでわたしを悩まし、/言葉をもってわたしを打ち砕くのか。
19:3 あなたがたはすでに十度もわたしをはずかしめ、/わたしを悪くあしらってもなお恥じないのか。
ビルダデはただ罪の指摘をしたが、この時ヨブにとって必要なものは、罪定めではなく、憐れみだった。
ヨブは友人達が来るまでは、くちびるで罪を犯さなかったが、友人達が来てひたすら罪定めしてしまったために、ひねくれてしまった。
19:4 たといわたしが、まことにあやまったとしても、/そのあやまちは、わたし自身にとどまる。
そう、罪は、留まるのだ。
ヨブは当時の誰よりも罪を犯すことが少ない人だったかもしれない。しかしアダム以来、生来持った罪が、本人を責め立て、その罪から来る報酬である死を、誰も避けられない。
全ての人には罪がある。そしてその報いを受けなければならない。
ヨブは、たまたま他の人よりも罪が少なく、たまたま祝福されていたにすぎないが、実は彼さえも、罪の報酬をいつ受けてしまっても文句が言えない存在なのだ。
しかし、ヨブはそれを「不当」だと叫ぶ。
19:5 もしあなたがたが、/まことにわたしに向かって高ぶり、/わたしの恥を論じるならば、
19:6 『神がわたしをしえたげ、/その網でわたしを囲まれたのだ』と知るべきだ。
19:7 見よ、わたしが『暴虐』と叫んでも答えられず、/助けを呼び求めても、さばきはない。
ヨブは神に、「暴虐(カァマァス:間違っている, KJV:wrong)」と叫んだ。神よ、あなたが暴虐だ、間違っている、と。
そしてあなたは、何も答えない、沈黙している、と。
神は確かにこの時は沈黙していたように見えるかもしれないが、神は、いつまでも沈黙しておられるようなお方ではない。必ず正当なさばきをし、報いて下さるお方だ。
しかしヨブは、6節から13節まで、ずっと「彼(神)は」で始まる言葉で叫んでいる。
すなわち、神がわたしを塞がれ、わたしを苦しめた、という訴えがなされ、そして13節から20節までは、彼の周りにいた人間が、ことごとくヨブを厭い、嫌い、侮り、あざけり、そむいたという事を、訴えている。
19:13 彼はわたしの兄弟たちを/わたしから遠く離れさせられた。わたしを知る人々は全くわたしに疎遠になった。
19:14 わたしの親類および親しい友はわたしを見捨て、
19:15 わたしの家に宿る者はわたしを忘れ、/わたしのはしためらはわたしを他人のように思い、/わたしは彼らの目に他国人となった。
19:16 わたしがしもべを呼んでも、彼は答えず、/わたしは口をもって彼に請わなければならない。
19:17 わたしの息はわが妻にいとわれ、/わたしは同じ腹の子たちにきらわれる。
19:18 わらべたちさえもわたしを侮り、/わたしが起き上がれば、わたしをあざける。
19:19 親しい人々は皆わたしをいみきらい、/わたしの愛した人々はわたしにそむいた。
このようにヨブは、神から打たれ、友から身内から、妻からいとわれ、嫌われ、無視されてしまった事を嘆いた。
のみならず、ヨブ自身のからだそのものも、ヨブに敵対してしまっている。
19:20 わたしの骨は皮と肉につき、/わたしはわずかに歯の皮をもってのがれた。
このような状況のヨブに、一体、何が必要だろう。
それは、あわれみである。
ヨブはそれを求めて叫んだ。
19:21 わが友よ、「わたしをあわれめ、わたしをあわれめ(ハヌイ!ハヌイ!)」、/神のみ手がわたしを打ったからである。
ハヌイはハナン(憐れむ)の命令形)である。
わが友よ、わたしをあわれめ、わたしをあわれめ。
これこそ、ヨブが最も欲していたものである。
しかしこの言葉は、友人達にはむなしく響いた。
友は、憐れみではなく、相変わらず罪定めと空しいことわざで返したからだ。
神に打たれ、人にさげすまれ、あわれんでくれる友が、誰もいない事。
これこそ人にとって最も深刻な事態であり、人類の誰しもが最も恐れるべき事である。
神は、そんな人類に、何も助けずにただ沈黙しておられるだけなのだろうか?
否!
神は、そんな絶望でうめいている人間のために、まことの友となって下さる、神のひとり子であられるイエス様を遣わして下さった。
イエス様は、38年もの間病気で動けず、もはや誰も彼を助けず、誰も彼を訪ねなくなってもう久しくなってしまったしまったような人に、友となって下さるために、訪れて下さった。
ヨハネ5:6 イエスはその人が横になっているのを見、また長い間わずらっていたのを知って、その人に「なおりたいのか」と言われた。
5:7 この病人はイエスに答えた、「主よ、水が動く時に、わたしを池の中に入れてくれる人がいません。わたしがはいりかけると、ほかの人が先に降りて行くのです」。
5:8 イエスは彼に言われた、「起きて、あなたの床を取りあげ、そして歩きなさい」。
5:9 すると、この人はすぐにいやされ、床をとりあげて歩いて行った。その日は安息日であった。
イエス様は彼をいやし、床を取り上げて歩かせて下さった。
同じように、ヨブも、やがて床を取り上げて歩き出す時が来る。
神は決して沈黙しっぱなしではないのだ。
この、38年臥せっていた人にとって、最も深刻な「よくない事」は、病気ではなく、友がいない事だった。
彼はそれを訴えたが、イエス様は、まことの友となって下さった。
しかも、友のために、いのちを捨ててくださった。
ヨハネ15:13 人がその友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない。
15:14 あなたがたにわたしが命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。
15:15 わたしはもう、あなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人のしていることを知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼んだ。わたしの父から聞いたことを皆、あなたがたに知らせたからである。
ヨブの友人達は、ヨブの様を見て、ありもしない罪定めをした。
しかし、まことの友であられるイエス様の場合は、人の罪の身代わりとなっていのちを捨てて下さった。
ヨブは、あわれんでくれる友を求めたが、その叫びは、友人達に対してむなしく響いた。
しかし、私たちには、いるのだ!
弱く、罪の責め苦の中であえいでいる私たちを、知っておられ、叫びに耳を留め、いのちを投げ出すほどの素晴らしい友となって下さり、弁護者となって下さり、覆い、あがない、救って下さるお方、イエス・キリストが!
このイエス様の友となるためには、条件がある。それは私達が、イエス様が命じる事を行う事である。
『あなたがたにわたしが命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。』(ヨハネ15:14)
そして、イエス様の命じられる事は、以下である。
ヨハネ15:12 わたしのいましめは、これである。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい。
・・・
15:16 あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだのである。そして、あなたがたを立てた。それは、あなたがたが行って実をむすび、その実がいつまでも残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものはなんでも、父が与えて下さるためである。
15:17 これらのことを命じるのは、あなたがたが互に愛し合うためである。
互いに愛し合う事。
これこそ、イエス様が友となって下さる条件であり、幸いが戻って祝福が返ってくる条件だ。
実際、ヨブは最終的に、彼の友人達のために執り成し祈った。
すると、祝福が倍になって帰ってきた。
ヨブ記42:9 そこでテマンびとエリパズ、シュヒびとビルダデ、ナアマびとゾパルは行って、主が彼らに命じられたようにしたので、主はヨブの祈を受けいれられた。
42:10 ヨブがその友人たちのために祈ったとき、主はヨブの繁栄をもとにかえし、そして主はヨブのすべての財産を二倍に増された。
しかし、19章時点では、激しい罪定めの糾弾し合いが、変わらずに展開されている。
ヨブ記19:22 あなたがたは、なにゆえ神のようにわたしを責め、/わたしの肉をもって満足しないのか。
19:23 どうか、わたしの言葉が、書きとめられるように。どうか、わたしの言葉が、書物にしるされるように。
19:24 鉄の筆と鉛とをもって、/ながく岩に刻みつけられるように。
ヨブは自分の言葉が、永遠に書き記される事を、求めている。
求めずとも、神の御前において、私達の行いもそうであるし、心の動きも、全て、書き留められている。
そして、終わりの日に、申し開きをしなくてはならない。
マタイ12:34 おおよそ、心からあふれることを、口が語るものである。
12:35 善人はよい倉から良い物を取り出し、悪人は悪い倉から悪い物を取り出す。
12:36 あなたがたに言うが、審判の日には、人はその語る無益な言葉に対して、言い開きをしなければならないであろう。
12:37 あなたは、自分の言葉によって正しいとされ、また自分の言葉によって罪ありとされるからである」。
私達が地上でしたあらゆる行いが、あらゆる言葉が、あらゆる心で描いた事が、永遠に記録されるとしたら、それは絶望以外の何者もない。
しかし、私達が友となって下さるイエス様に助けを求め、彼が私達の弁護者となって下さるなら、私達が犯してきた罪の記録は、御前からなくされ、神はもはやその罪を思い出さないのだ。
旧約を見ると、アブラハムもサラもヤコブもダビデも、かなりえぐい罪を犯した事が詳細に記録されている。
しかし、新約においては、その罪は記録されておらず、ただ彼らが少しでも為した信仰に基づく良い行いを、大いに取り上げ、信仰の偉人に仕立て上げている。
私達も、そうなのだ。
キリストを信じて救われ、眠りについた者は、この地上における諸々の罪は思い出されず、むしろ、この地上において行った、ちょっとした信仰のわざが永遠に賞賛され、天国において永遠に生きる恵みが与えられている。
これこそ、莫大なあわれみである。
ヨブは友人達に、わたしをあわれめ!と叫んだが、神はそのまことの友・イエス様を通して、莫大なあわれみを注いで下さったのだ。
ヨブの時代、イエス様はいないはずなのに、しかし、どうもヨブは、この御方を知っているかのようである。
19:25 わたしは知る、/わたしをあがなう者は生きておられる、/後の日に彼は必ず地の上に立たれる。
本当に不思議である。
ヨブはかつて言った、彼の保証となって下さるお方がいると。また、その彼が、弁護してくれる、と。
さらには、彼をあがなう方は、生きておられ、そして後の日、その方は、地の上に立たれる、と言った。
確かにイエス様は、そのようなお方である。
エペソ1:7 わたしたちは、御子にあって、神の豊かな恵みのゆえに、その血によるあがない、すなわち、罪過のゆるしを受けたのである。
イエス様こそ、その血によって贖って下さったお方。そしてその血によって、罪のゆるしを得た。
まさにヨブが望んだ通りのお方である。
19:26 わたしの皮がこのように滅ぼされたのち、/わたしは肉を離れて神を見るであろう。
19:27 しかもわたしの味方として見るであろう。わたしの見る者はこれ以外のものではない。わたしの心はこれを望んでこがれる。
ヨブはさらに、彼自身が地上の肉の身体を離れた後、神を見る事になると言った。
それも、他の誰かではなく、わたしが直接、見る、と。
19:28 あなたがたがもし『われわれはどうして/彼を責めようか』と言い、/また『事の根源は彼のうちに見いだされる』/と言うならば、
19:29 つるぎを恐れよ、/怒りはつるぎの罰をきたらすからだ。これによって、あなたがたは、/さばきのあることを知るであろう」。
確かにヨブが言った通り、人は死んだ後、他の誰でもなく、「わたし自身」が神の御前に立たなければならない。
人を責め立て、あざけり、さばく者の座にいる者は、そのさばきの座においては逆にさばきにあうという事を、ヨブは、あたかも預言しているかのようである。
ヨブは、イエス様を知らないけれども、その心は、イエス様のご性質を求め、そのお方へと向かって行った。
彼の時代、当然イエス様は現れていないが、しかし彼は、イエス様の正確なご性質を持っておられるお方を求め、そしてその御方は「おられる」とはっきり告白した。
全て真理を求める人は、この御方を知らなくても、この御方を求めるようになるのだ。
ガラテヤ3:22 しかし聖書は、逆に、すべての人を罪の下に閉じ込めました。それは約束が、イエス・キリストに対する信仰によって、信じる人々に与えられるためです。
3:23 信仰が現われる以前には、私たちは律法の監督の下に置かれ、閉じ込められていましたが、それは、やがて示される信仰が得られるためでした。
3:24 こうして、律法は私たちをキリストへ導くための私たちの養育係となりました。私たちが信仰によって義と認められるためなのです。
旧約の全ては、キリストへと導く養育係である。
ヨブは、諸々の苦難を通して、キリストを求めるように導かれたのだ。
そして今、私達は、キリストを知った以上、もはや養育係の元にはいない。
ガラテヤ3:25 しかし、信仰が現われた以上、私たちはもはや養育係の下にはいません。
今や、ヨブが切に求めた、救いの実体であられるキリストがおられ、この御方にあって、私達はあがないを受け、保護されている。
そしてさばきの日には、彼は弁護者として、私達の側に立って下さる。
このようにお膳立てしてくださった神の恵みは、なんと計り知れないものだろう。
ビルダデによる二回目の弁論 - 物事をややこしくしてしまう「目の中の梁」(ヨブ記18章)
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- pastor 2018-5-24 9:06
ビルダデによる二回目の弁論 - 物事をややこしくしてしまう「目の中の梁」(ヨブ記18章)
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18章は、シュアハ人ビルダデによる第二回目の論議であるが、その内容は、実に単純明快、すなわち、悪人に対する因果応報である。
18:1 そこでシュヒびとビルダデは答えて言った、
18:2 「あなたは?「いつまで」?「言葉にわなを設けるのか」。?「あなたはまず悟るがよい」、/それからわれわれは論じよう。
?「いつまで」という言葉。ビルダデによる第一回論議(8章)も、その言葉で始まった。
ビルダデは、ヨブの論議および彼の友人達による、この不毛と見える議論に、さっさと終止符を打ちたいようである。
さっさとこの忌まわしいやり取りを終わりにしたいと、結論を急ぐあまり、語調を荒げ、単刀直入に相手を切るような言葉を発してしまい、しかし逆にそうやってもっと議論を白熱化させてしまう事は良くあるが、ビルダデは、まさにその罠に陥っている。
?「言葉にわなを設けるのか」、この「わな」と訳された語はヘブライ語でケネツ、「終わり」という意味であるが、アラビヤ語では「わな」という意味である故に、訳され方が分かれている。
新改訳では「けりをつける」、KJVでは「make an end」と訳されており、つまり、さっさとこの罠のような論議を脱したい、さっさと終わりにさせたいような雰囲気である。
そこでビルダデは、次の言葉を発する。
?「あなたはまず悟るがよい」
相手に悟る事を要求しているが、有用な議論は、まず聞く事から始まるはずである。
ビルダデは、ヨブが神に「これでもか」とばかりに向き合っているのに「神を知らない者」よばわりし、ヨブが神が認めている義人であるにもかかわらず、5節以降で、悪人が受ける因果応報について、とうとうと語っている。
結局、聞いていないのだ。そして、口走りが過ぎるのだ。それゆえ、この長い不毛な論議が続いている。
ヨブ記18:3 なぜ、われわれは獣のように思われるのか。なぜ、あなたの目に愚かな者と見えるのか。
18:4 怒っておのが身を裂く者よ、/あなたのために地は捨てられるだろうか。岩はその所から移されるだろうか。
ビルダデはヨブを「怒っておのが身を裂く者」としている。
本当に、人は、見えないものである。自分こそが、そのことをしている者であり、そして自分こそが、相手を怒らせている事を。
彼らに、以下の御言葉を知って行うたしなみがあったら、状況は変わっていたかもしれない。
マタイ7:1 人をさばくな。自分がさばかれないためである。
7:2 あなたがたがさばくそのさばきで、自分もさばかれ、あなたがたの量るそのはかりで、自分にも量り与えられるであろう。
7:3 なぜ、兄弟の目にあるちりを見ながら、自分の目にある梁を認めないのか。
7:4 自分の目には梁があるのに、どうして兄弟にむかって、あなたの目からちりを取らせてください、と言えようか。
7:5 偽善者よ、まず自分の目から梁を取りのけるがよい。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からちりを取りのけることができるだろう。
ヨブ記において、物事をややこしくしている「梁」とは、自分が正しいという思いと、怒りの二つであろう。
それは、私達にも言える事だ。
相手はどうしてこうなのだろう、どうしてみんなは、私だけに態度が違うのだろう、と感じた時、自問自答すべきである。
自分の目に、梁があるのではなかろうか、と。
相手が100%悪い、自分は100%正しい、という思い込み。その無意識的な前提条件こそ、やっかいな梁である。
どうしたら、この梁を取り除く事が出来るだろうか。
ヤコブは言っている。
ヤコブ1:19 愛する兄弟たちよ。このことを知っておきなさい。人はすべて、聞くに早く、語るにおそく、怒るにおそくあるべきである。
まず、聞く事。語るにおそい事。怒るに、おそい事。
ヨブ記の4人は、まさにこれに欠けている。
そして私達も、これらに欠ける者であるとするなら、行く先々で波乱を起こし混乱を起こし、面倒くさい人だと嫌煙されてしまう。
ヤコブ1:20 人の怒りは、神の義を全うするものではないからである。
もし私達の目に、人の怒りという「梁」が入ったままであるなら、誰も神の義へと導けるものではない。
もし、人を「神の義」が支配する状態へと導きたいなら、または、自分を取り巻く状況に「神の義」の支配をもたらしたいなら、まず、自分の中にある「人の怒り」を取り除く事から始まり、そして「語るにおそく、怒るにおそく」する努力が必要なのだ。
1:21 だから、すべての汚れや、はなはだしい悪を捨て去って、心に植えつけられている御言を、すなおに受け入れなさい。御言には、あなたがたのたましいを救う力がある。
御言葉こそ、救う力がある、と書いてある。
自分がどのような霊的状況にあるのか、そのような立ち位置にあるのかは、御言葉というものさしで計ってこそ、正しく導き出せる。
そして御言葉こそ、自分の中にある梁の正体を照らしだす光なのだ。
1:22 そして、御言を行う人になりなさい。おのれを欺いて、ただ聞くだけの者となってはいけない。
1:23 おおよそ御言を聞くだけで行わない人は、ちょうど、自分の生れつきの顔を鏡に映して見る人のようである。
1:24 彼は自分を映して見てそこから立ち去ると、そのとたんに、自分の姿がどんなであったかを忘れてしまう。
1:25 これに反して、完全な自由の律法を一心に見つめてたゆまない人は、聞いて忘れてしまう人ではなくて、実際に行う人である。こういう人は、その行いによって祝福される。
完全な自由の律法、とわざわざ表現されている。なぜ単に「御言葉」ではなく、完全な自由の律法と表現したのか。
律法(トーラー)は613のするな・せよの命令集であり、聞くだけでも堅苦しく思えがちだが、それを守り行う先には、完全な自由があり、大きな祝福があるのだ。
1:26 もし人が信心深い者だと自任しながら、舌を制することをせず、自分の心を欺いているならば、その人の信心はむなしいものである。
1:27 父なる神のみまえに清く汚れのない信心とは、困っている孤児や、やもめを見舞い、自らは世の汚れに染まずに、身を清く保つことにほかならない。
ヨブと友人達を見ていると、思えてくる。
彼ら、信心深い者だと自任しながら、舌を制することをせず、自分の心を欺いている、と。
しかし私達自身こそ、この罠に陥らないよう、よくよく戒めるべきである。
ヨブ記18:5 悪しき者の光は消え、/その火の炎は光を放たず、
18:6 その天幕のうちの光は暗く、/彼の上のともしびは消える。
18:7 その力ある歩みはせばめられ、/その計りごとは彼を倒す。
18:8 彼は自分の足で網にかかり、/また落し穴の上を歩む。
18:9 わなは彼のかかとを捕え、/網わなは彼を捕える。
18:10 輪なわは彼を捕えるために地に隠され、/張り網は彼を捕えるために道に設けられる。
18:11 恐ろしい事が四方にあって彼を恐れさせ、/その歩みにしたがって彼を追う。
18:12 その力は飢え、/災は彼をつまずかすために備わっている。
18:13 その皮膚は病によって食いつくされ、/死のういごは彼の手足を食いつくす。
18:14 彼はその頼む所の天幕から引き離されて、/恐れの王のもとに追いやられる。
18:15 彼に属さない者が彼の天幕に住み、/硫黄が彼のすまいの上にまき散らされる。
18:16 下ではその根が枯れ、/上ではその枝が切られる。
18:17 彼の形見は地から滅び、/彼の名はちまたに消える。
18:18 彼は光からやみに追いやられ、/世の中から追い出される。
18:19 彼はその民の中に子もなく、孫もなく、/彼のすみかには、ひとりも生き残る者はない。
18:20 西の者は彼の日について驚き、/東の者はおじ恐れる。
ビルダデは5節からとうとうと「悪い者はこうなる」「悪い者はこんなに酷い目にあう」と述べたてており、そして結論は以下の言葉である。
18:21 まことに、悪しき者のすまいはこのようであり、/神を知らない者の所はこのようである」。
彼は、悪人と決めてかかって、とうとうと語ったが、最終的に神からよしと認められたのは、ヨブのほうだった。
私達はこの事から戒めを受けるべきである。
自分の目に、梁がないか。
すなわち、人の怒りや自己義という梁によって見えない状態になっていないかを。
保証となって下さるお方が無いゆえに絶望するヨブと、そのお方がおられる故に希望がある私達(ヨブ記17章)
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- pastor 2018-5-23 9:27
保証となって下さるお方が無いゆえに絶望するヨブと、そのお方がおられる故に希望がある私達(ヨブ記17章)
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ヨブは引き続き、神からも友人達からも見捨てられた心情を吐露する。
17:1 わが霊は破れ、わが日は尽き、/墓はわたしを待っている。
17:2 まことにあざける者どもはわたしのまわりにあり、/わが目は常に彼らの侮りを見る。
17:3 どうか、あなた自ら保証となられるように。ほかにだれがわたしのために/保証となってくれる者があろうか。
この3節の「保証となられるように」は、原文は「保証する」の命令形であり、直訳は「どうか置いて下さい。私を保証して下さい。あなたと共に」となる。
ヨブははっきりと、神に、自分の保証を求めている。
しかしその声は虚しく響き、ヨブの身を担保して下さる方が誰もいないので、ヨブの心は再び闇の中へ落ち込んで行く。
いかにヨブのような義人であったとしても、神と人との間に立って弁護し、執り成してくれるお方がいないなら、ただ絶望の闇に落ち込んで行く以外に無いのだ。
17:6 彼はわたしを民の笑い草とされた。わたしは顔につばきされる者となる。
17:7 わが目は憂いによってかすみ、/わがからだはすべて影のようだ。
17:8 正しい者はこれに驚き、/罪なき者は神を信ぜぬ者に対して憤る。
17:9 それでもなお正しい者はその道を堅く保ち、/潔い手をもつ者はますます力を得る。
ここのヨブの叫びを見ると、あたかもイエス様が十字架の受難の中で叫んでいるかのような内容だ。
そう、イエス様は私達人間の代わりに、つばきかけられ、その目は憂いによってかすみ、そのからだは影のようになり、弁護される事なく、容赦なく十字架上で裁かれたのだ。
本来、私達こそ罪人であり、どんなに義人ぶったとしても、罪がある。
元々は、ヨブが絶望したように「神に捨てられた」「保証となってくれる人がいない」と言って絶望しなくてはならない者である。
しかし、イエス様が身代わりになって、十字架上で神に捨てられ、「父よ、どうしてわたしをお見捨てになられたのですか」と叫ばれた。
だから私達は、ヨブのように絶望する必要は無い。
イエス様が、私達の身代わりとなって捨てられて、死んで下さり、陰府へと下り、そしてよみがえり、今や、栄光の父の右に立って、私達の事を執り成しておられるのだから。
1ヨハネ2:1 わたしの子たちよ。これらのことを書きおくるのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためである。もし、罪を犯す者があれば、父のみもとには、わたしたちのために「助け主(パラクレートス:弁護者)」、すなわち、義なるイエス・キリストがおられる。
2:2 彼は、わたしたちの罪のための、「あがないの供え物(ヒラステリオン:贖罪蓋)」である。ただ、わたしたちの罪のためばかりではなく、全世界の罪のためである。
「贖罪蓋」とは、契約の箱を覆う蓋であり、それが無いなら、契約の箱は外界へ開かれっぱなしであり、そうすると、罪有る人間は、神の「聖」に打たれて死んでしまう以外に無い。(1サムエル記6:19)
今や、イエス様が贖罪蓋となり、私達の罪を覆い、神と人との間の仲保者となって下さったゆえに、私達はイエス様ゆえに、自分の罪に打たれる事がないのだ。
ヨブには、それが無いという事で、絶望するしかなかった。
さらに私達を弁護して下さるパラクレートスが、ほかにおられる。
ヨハネ14:16 わたしは父にお願いしよう。そうすれば、父は別に助け主を送って、いつまでもあなたがたと共におらせて下さるであろう。
14:17 それは真理の御霊である。この世はそれを見ようともせず、知ろうともしないので、それを受けることができない。あなたがたはそれを知っている。なぜなら、それはあなたがたと共におり、またあなたがたのうちにいるからである。
イエス様が復活後、御父のところに上り、そこからペンテコステの日に送って下さった助け主、聖霊が、私達に留まり、それも、いつでも私達のうちにいて下さる。
ヨハネ14:18 わたしはあなたがたを捨てて孤児とはしない。あなたがたのところに帰って来る。
14:19 もうしばらくしたら、世はもはやわたしを見なくなるだろう。しかし、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きるので、あなたがたも生きるからである。
14:20 その日には、わたしはわたしの父におり、あなたがたはわたしにおり、また、わたしがあなたがたにおることが、わかるであろう。
聖霊は私達と共におられ、そしてイエス様を証し、御父を証しして下さる。
だから、聖霊を否定する者は、御子も、御父をも否定する者であり、それは決して赦されないのだ。
こうして聖霊は、私達の弁護者となり、助け主となり、御子キリストを証するお方、御父を証するお方、である。
聖霊は私達が御国を受け継ぐ保証であられ、いつまでも共におられ、私達を生かし、導いて下さるお方である。
このように、私達はヨブのように、自分を保証して下さるお方がいないと言って絶望する必要が、全くなくなった。私達を保証して下さるお方、すなわち、私達の身を担保するために、身代わりになって十字架につけられ復活された主イエス様がおられ、そして、私達を弁護する助け主・聖霊がおられるからである。
この助けが得られている私達キリスト者は、どれほど素晴らしい中を、生かされていることだろう。
ヨブが神に捨てられ人からも捨てられたと思った時に求めた、神と人との間に立つ仲保者(ヨブ記16章)
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- pastor 2018-5-18 9:02
ヨブが神に捨てられ人からも捨てられたと思った時に求めた、神と人との間に立つ仲保者(ヨブ記16章)
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16-17章は、ヨブによるエリファズへの回答なのだが、といっても、彼の友人に向けられた言葉はわずかで、多くの言葉は、主に向けられている。
16:1 そこでヨブは答えて言った、
16:2 「わたしはこのような事を数多く聞いた。あなたがたは皆人を慰めようとして、/かえって人を煩わす者だ。
16:3 むなしき言葉に、はてしがあろうか。あなたは何に激して答をするのか。
ヨブは、エリファズの15章の1節から35節にわたっての論説を、わずかな言葉でばっさり切った。
状況を見極めず、ただ自分の思い込みによって相手を計り、その誤った動機から発せられた格言が、立派であればあるほど、また長々としていればいるほど、煩わしいものだ。
16:4 わたしもあなたがたのように語ることができる。もしあなたがたがわたしと代ったならば、/わたしは言葉を練って、あなたがたを攻め、/あなたがたに向かって頭を振ることができる。
16:5 また口をもって、あなたがたを強くし、/くちびるの慰めをもって、あなたがたの苦しみを/和らげることができる。
ヨブは、もし自分と友人達の立場が逆転したら、言葉を練って友人達を攻め、友人達に向かって頭を振る(すなわち、あざけりばかにする)事が出来、そして言葉でもってあなた方を強くし、苦しみを和らげる事が出来る、と、批判とも嫌味とも取れる事を言ったが、いずれにしてもヨブは、人も神からも何の助けを得られない事を嘆いている。
16:6 たといわたしは語っても、/わたしの苦しみは和らげられない。たといわたしは忍んでも、/どれほどそれがわたしを去るであろうか。
ヨブは、以上の言葉をもって、友人達への言葉は終わりにし、そして7節以降の言葉は、再び神に向けられる。
彼は再び吐露し始める。友人達から、そして神から、自分が苦しめられている事を。
16:7 まことに神は今わたしを疲れさせた。彼はわたしのやからをことごとく荒した。
16:8 彼はわたしを、しわ寄らせた。これがわたしに対する証拠である。またわたしのやせ衰えた姿が立って、わたしを攻め、/わたしの顔にむかって証明する。
彼は、自分に今ありありと現れている、このやつれ果てた自分の外見が、その証拠だ、と主に申し上げる。
16:9 彼は怒ってわたしをかき裂き、わたしを憎み、/わたしに向かって歯をかみ鳴らした。わたしの敵は目を鋭くして、わたしを攻める。
16:10 人々はわたしに向かって口を張り、/侮ってわたしのほおを打ち、/ともに集まってわたしを攻める。
16:11 神はわたしをよこしまな者に渡し、/悪人の手に投げいれられる。
16:12 わたしは安らかであったのに、/彼はわたしを切り裂き、/首を捕えて、わたしを打ち砕き、/わたしを立てて的とされた。
16:13 その射手はわたしを囲む。彼は無慈悲にもわたしの腰を射通し、/わたしの肝を地に流れ出させられる。
16:14 彼はわたしを打ち破って、破れに破れを加え、/勇士のようにわたしに、はせかかられる。
16:15 わたしは荒布を膚に縫いつけ、/わたしの角をちりに伏せた。
16:16 わたしの顔は泣いて赤くなり、/わたしのまぶたには深いやみがある。
ヨブは、神から敵対され、友人達から敵対され、もはや自分には何の助けも見いだせない事を告白し、絶望の暗闇に閉じ込められた心情を神に吐露している。
それでもヨブは、自分の潔白を主張する。
16:17 しかし、わたしの手には暴虐がなく、/わたしの祈は清い。
16:18 地よ、わたしの血をおおってくれるな。わたしの叫びに、休む所を得させるな。
血は、叫ぶ。義人アベルの血が神に叫んだように。
ヨブは、たとえ自分が死んだとしても、その血が覆われる事がないように、すなわち、自分の血がずっと潔白を叫び続けるように、と願う。
このように、神から捨てられ、人から捨てられ、ただ絶望しかない状況に追い込まれた、と感じているヨブは、驚くべき告白をする。
16:19 見よ、今でもわたしの証人(エド:証人、記録者)は天にある。わたしのために保証してくれる者は高い所にある。
16:20 わたしの友はわたしをあざける、/しかしわたしの目は神に向かって涙を注ぐ。
16:21 どうか彼が人のために神と弁論し、/人とその友との間をさばいてくれるように。
ヨブは、彼を見ておられ、彼を記録し、彼を保証しておられるお方の存在を告白しており、そしてその方が、自分と神との間に立って弁論してくださるように、と願っている。
さらに彼は、17:3においても、「どうか、あなた自ら保証となられるように。ほかにだれがわたしのために保証となってくれる者があろうか。」と言っている。
神と人との間に仲保者は、唯一、キリストであるが、ヨブはキリストを知らないはずである。
一体どうして、彼は、このような仲保者の存在をはっきりと告白し、願う事が出来たのだろう。
旧約において、アブラハムは自分達を導いて下さる御使いがいた事を意識しており(創世記24:7)、ダビデも、自分の前にはいつも主がおられた事を意識しており、それ故彼は揺るがず、心は楽しみ、望みがある事を喜んだ。
使徒2:25 ダビデはこの方について、こう言っています。『私はいつも、自分の目の前に主を見ていた。主は、私が動かされないように、私の右におられるからである。
モーセも、荒野で、彼らについて来た岩、すなわちキリストを意識し(1コリント10:4)、モーセの後に現れる指導者を預言した。
イザヤも、とりなして下さるキリストを預言した。(イザヤ53:12)
このように、旧約の信仰者達は、聖霊によってキリストを知り、意識し、預言したのである。
ヨブがはっきりと自分の保証となって下さるお方を告白しているからには、彼もまた、霊的に、そのお方の存在をさとったのかもしれない。
いずれにせよ、今、はっきりしている事は、私達には確かに、おられるのだ!
私達を神の御前で弁護し、保証して下さる御方、イエス・キリストが。
ローマ8:33 だれが、神の選ばれた者たちを訴えるのか。神は彼らを義とされるのである。
8:34 だれが、わたしたちを罪に定めるのか。キリスト・イエスは、死んで、否、よみがえって、神の右に座し、また、わたしたちのためにとりなして下さるのである。
私達の身代わりに死んで下さった方、そして、よみがえって下さった方・キリストが、私達のために、とりなして下さる。
のみならず、聖霊も言いようのない深いうめきによって、とりなしておられる。
ローマ8:26 御霊もまた同じように、弱いわたしを助けて下さる。なぜなら、わたしたちはどう祈ったらよいかわからないが、御霊みずから、言葉にあらわせない切なるうめきをもって、わたしたちのためにとりなして下さるからである。
8:27 そして、人の心を探り知るかたは、御霊の思うところがなんであるかを知っておられる。なぜなら、御霊は、聖徒のために、神の御旨にかなうとりなしをして下さるからである。
このように私達は、御子にとりなされ、御霊にとりなされ、そうして父なる神のみ前に大胆に進み出る事が出来、さばきにあう事がなく、永遠に生きるのである。
そして、キリストに繋がれたその”つながり”は、世の何者も奪う事が出来ない。
8:35 だれが、キリストの愛からわたしたちを離れさせるのか。患難か、苦悩か、迫害か、飢えか、裸か、危難か、剣か。
8:36 「わたしたちはあなたのために終日、/死に定められており、/ほふられる羊のように見られている」/と書いてあるとおりである。
8:37 しかし、わたしたちを愛して下さったかたによって、わたしたちは、これらすべての事において勝ち得て余りがある。
8:38 わたしは確信する。死も生も、天使も支配者も、現在のものも将来のものも、力あるものも、
8:39 高いものも深いものも、その他どんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスにおける神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのである。
ヨブは、神から捨てられ人から捨てられたように思えた時、自分をとりなし弁論して下さるお方を叫んだが、私達にはいつでも仲保者キリストに助けを求める事が出来る。
私達が彼と共に歩むなら、彼があらゆる悪魔サタンの訴えから弁護し、私達の罪は覆われ、そのように救われた状態・祝福の状態のうちに、この世の旅路を歩んで行けるのである。
エリファズによる二回目の弁論 - 本質を外した格言の押し売り(ヨブ記15章)
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- pastor 2018-5-17 8:30
エリファズによる二回目の弁論 - 本質を外した格言の押し売り(ヨブ記15章)
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15:1 そこでテマンびとエリパズは答えて言った、
テマン人エリファズの第二回目の論議である。
第一回目はまだ理性的であったが、しかしこの度の彼の言葉は、幾分ヒートアップしている。
自分達は知恵の言葉を披露した、その披露に対し、聞いた者は、ありがたさと尊敬をもっていただくものだ、と、期待していたのに、ヨブはそうではなかった。
その事のいらだちが、言葉の節々に現れ始める。
15:2 「知者はむなしき知識をもって答えるであろうか。東風をもってその腹を満たすであろうか。
15:3 役に立たない談話をもって論じるであろうか。無益な言葉をもって争うであろうか。
エリファズは、自分達は知恵がある者達である、それなのに、その私達の言葉を、あたかも作物を干からびさせる東風のようにあなたは見做すのか、と、彼をたしなめる。
15:4 ところがあなたは神を恐れることを捨て、/神の前に祈る事をやめている。
ヨブは祈っていなかったのだろうか?
いや、直前の13章後半から14章まではずっと神に対しての祈りだった。
ヨブは神を恐れていなかったのだろうか?
いや、祈りのはじまりである13章後半は、神に対する恐れだった。
エリファズにとって「祈り」は、理性的に、良い言葉だけを並べ立てる事だという決めつけがあったのかもしれない。
それだから、ヨブの、あまりに自由な、そして獣のような勢いで御前に言葉をぶちまけるものは、祈りではなく、神に対する暴言だと見えたのかもしれない。
いずれにせよ、エリファズは、ヨブの言葉の内容を結局聞いておらず、ヨブの状況を理解しておらず、ただ、ヨブの「激しさ」だけを見て、彼は神に逆らったのだ、罪を犯したのだ、と思い込み、そして、その思い込みの偏見がかかったまま、ヨブを諭す言葉を始める。
つまり、この15章のエリファズの諭しもまた、偏見というフィルターがかかった状態での言葉なので、ヨブに対しては全く空虚なことわざになってしまった。
15:5 あなたの罪はあなたの口を教え、/あなたは悪賢い人の舌を選び用いる。
15:6 あなたの口みずからあなたの罪を定める、/わたしではない。あなたのくちびるがあなたに逆らって証明する。
ヨブに対し、あなたはかなり偉そうで知恵があるかのように振舞っているが、私達もまたそれに引きを取らない者だぞ、と主張をする。
15:7 あなたは最初に生れた人であるのか。山よりも先に生れたのか。
15:8 あなたは神の会議にあずかったのか。あなたは知恵を独占しているのか。
15:9 あなたが知るものは/われわれも知るではないか。あなたが悟るものは/われわれも悟るではないか。
15:10 われわれの中にはしらがの人も、/年老いた人もあって、/あなたの父よりも年上だ。
15:11 神の慰めおよびあなたに対するやさしい言葉も、/あなたにとって、あまりに小さいというのか。
つまり、エリファズにとっての優れた知恵とは、先祖伝来の知恵であり、また白髪の年老いた人であればあるほど、その知恵に長けているものだ、というものである。
ひいてはヨブ、あなたはどれほどの知恵があるというのか、自分達はあなたよりも年上の者がいるではないか、と主張し、その上で、どうしてあなたの心は激しく波打って逆らうのか、と聞く。
15:12 どうしてあなたの心は狂うのか。どうしてあなたの目はしばたたくのか。
15:13 あなたが神にむかって気をいらだて、/このような言葉をあなたの口から出すのはなぜか。
15:14 人はいかなる者か、どうしてこれは清くありえよう。女から生れた者は、どうして正しくありえよう。
15:15 見よ、神はその聖なる者にすら信を置かれない、/もろもろの天も彼の目には清くない。
15:16 まして憎むべき汚れた者、/また不義を水のように飲む人においては。
この言葉の内容は、4:17-19とほぼ同じである。
このように、ヨブを悪者、罪有る者に仕立て、彼が前に言ったのと全く同じように、悪者の行く道がどのようなものかを、くどくどと説き聞かせていく。
15:17 わたしはあなたに語ろう、聞くがよい。わたしは自分の見た事を述べよう。
15:18 これは知者たちがその先祖からうけて、/隠す所なく語り伝えたものである。
人の言葉を聞いていない人から「聞け」と言われても、ますます耳を塞ぎたくなるものであり、自分が知者の知恵を語るものだ、と言われても、相手の状態を正しく理解していない者がひけらかす知恵は、ただ人をうんざりさせるものでしかない。
15:19 彼らにのみこの地は授けられて、/他国人はその中に行き来したことがなかった。
15:20 悪しき人は一生の間、もだえ苦しむ。残酷な人には年の数が定められている。
15:21 その耳には恐ろしい音が聞え、/繁栄の時にも滅ぼす者が彼に臨む。
15:22 彼は、暗やみから帰りうるとは信ぜず、/つるぎにねらわれる。
エリファズは、悪人の道はこうだ、という論議を展開しているからには、暗に、ヨブ、あなたは悪者だと指摘しているのだ。
15:27 また彼は脂肪をもってその顔をおおい、/その腰には脂肪の肉を集め、
15:28 滅ぼされた町々に住み、/人の住まない家、荒塚となる所におるからだ。
15:29 彼は富める者とならず、その富はながく続かない、/また地に根を張ることはない。
15:30 彼は暗やみからのがれることができない。炎はその若枝を枯らし、/その花は風に吹き去られる。
15:31 彼をしてみずから欺いて、/むなしい事にたよらせてはならない。その報いはむなしいからだ。
15:32 彼の時のこない前にその事がなし遂げられ、/彼の枝は緑とならないであろう。
15:33 彼はぶどうの木のように、/その熟さない実をふり落すであろう。またオリブの木のように、その花を落すであろう。
15:34 神を信じない者のやからは子なく、/まいないによる天幕は火で焼き滅ぼされるからだ。
15:35 彼らは害悪をはらみ、不義を生み、/その腹は偽りをつくる」。
このように、状況を見極めないで、自分の思い込みによって相手を計り、その誤った計りによって格言と箴言を調合し、相手に無理やり飲ませようとする時、私達もただ相手を苦しめ、病状をもっと悪化させてしまうことになる。