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メッセージ - 詩篇カテゴリのエントリ

全ての問題解決を神に求める行動パターンを根付かせるための詩篇(詩篇25篇)
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詩篇25篇は、アルファベットの詩篇であり、1-22節の最初が、ヘブライ語のアルファベット(アレフ、ベート、ギメル、、、タウに至るまで)で開始される。
アルファベット順に並んでいるのは、単なる語呂遊びではない。覚えやすくなっているから覚えなさい、という事である。
いつも飢えている人には、飢えては魚を与え、飢えては魚を与え、を繰り返すより、魚釣りの方法を教える事のほうが恒久的な解決であるかのように、この詩篇を覚える事は、人生のどんな問題に対しても解決の糸口を見いだせる「釣り道具」を得たかのようである。

この詩篇には、敵が立ちはだかった時、道に迷った時、罪の問題に悩まされる時、苦しみが大きくなった時、それぞれの時々に祈るべき、祈りのし方が示されている。
ギリシア思考で歩む人は、このような問題が目の前にある毎に、誰か、他の人間に解決の糸口を見出そうとする。
しかし、この詩篇を暗唱したユダヤ人は、おのおの神に直接問題を持っていき、祈りによって、また神との交わりによって慰めを得、そして神ご自身から直接解決をいただく。
私達も、この詩篇を、暗唱とまでは行かなくても、いつも身近に置いて口ずさむ祈りとするべきである。

詩篇25篇 ダビデの歌
25:1 主よ、わが魂はあなたを仰ぎ望みます。
25:2 わが神よ、わたしはあなたに信頼します。どうか、わたしをはずかしめず、わたしの敵を勝ち誇らせないでください。
25:3 すべてあなたを待ち望む者をはずかしめず、みだりに信義にそむく者をはずかしめてください。

ダビデはまず、自分は主に対してどのようなスタンスであるのか、という宣言から始めている。
自分は「主」を仰ぎ望み、主に信頼する者だ、その主から直接、問題の解決を得る者だ、と。
そして、敵と相対する時、恥を見ることが無いようにと、まず祈っている。

25:4 主よ、あなたの大路をわたしに知らせ、あなたの道をわたしに教えてください。
25:5 あなたのまことをもって、わたしを導き、わたしを教えてください。あなたはわが救の神です。わたしはひねもすあなたを待ち望みます。

彼はさらに、主の大路、主の道、そこにおける導きを求めている。ここに共通するキーワードは、「道」「導き」である。
私達も大なり小なり、常に歩むべき道の選択に直面しているが、迷った時、常に主に向かって祈り求めるべきである。
それによって主は、歩むべき道を教えてくださる。
たとえ、すぐには実体としての答がないように見えても、祈った時は平安を得られる。
そして、長い目で見たら、主は確かにあの時、私達の知り得なかった所で道を備えておられたのだ、と分かる。

続く祈りは、罪の問題についてである。

25:6 主よ、あなたのあわれみと、いつくしみとを/思い出してください。これはいにしえから絶えることがなかったのです。
25:7 わたしの若き時の罪と、とがとを/思い出さないでください。主よ、あなたの恵みのゆえに、あなたのいつくしみにしたがって、わたしを思い出してください。

若い時は、激情の強さゆえに、あるいは、無知と軽率さゆえに罪を犯してしまう事がある。
そのように犯してしまった罪を、「思い出さないでください」とは、まことに都合の良い祈りのように見えるが、そのように求める事ができる根拠は、「あなたの恵みのゆえに、あなたのいつくしみにしたがって」である。

25:8 主は恵みふかく、かつ正しくいらせられる。それゆえ、主は道を罪びとに教え、
25:9 へりくだる者を公義に導き、へりくだる者にその道を教えられる。
25:10 主のすべての道はその契約とあかしとを守る者には/いつくしみであり、まことである。
25:11 主よ、み名のために、わたしの罪をおゆるしください。わたしの罪は大きいのです。

子供が親に、まことに都合の良いお願いをして、親はそれを聞いてやるのは、子供が不完全で弱い事を知っているからである。
それだからこそ、子供は成長できる。
同じように、父なる神は私達の弱さをご存知であり、なにか罪や過ちを犯してしまった時は、速やかに親に戻って赦しを乞い願う事を、求めておられる。
ダビデはまことに、父なる神と、親子のような親しい関係にあるからこそ、大胆に「都合の良い」祈りで求める事が出来たのだ。
ペテロも、イスカリオテのユダも、共に湯を裏切ったが、イスカリオテのユダは自ら命を絶って、永遠に神との関係を絶ってしまった。しかしペテロは、恥を忍んでも主との関係を保ったゆえに、聖霊を受け、力強い主の働き人へとつくりかえられて行った。

続く箇所では、主を恐れ敬う人に主はどうしてくださるのかが示されている。

25:12 主を恐れる人はだれか。主はその選ぶべき道をその人に教えられる。
25:13 彼はみずからさいわいに住まい、そのすえは地を継ぐであろう。
25:14 主の親しみは主をおそれる者のためにあり、主はその契約を彼らに知らせられる。
25:15 わたしの目は常に主に向かっている。主はわたしの足を網から取り出されるからである。

主を恐れ敬う人に、主は、道を示して下さる。
主は、一人一人に、道をあらかじめ用意しておられる。

自分の願望や考えで頭の中がいっぱいな人は、目が曇らされて主の道を見ることができない。
しかしそれらを降ろして、主を主とする人、主の言葉に自らを従わせる人には、主の用意して下さった最良の道を見る事が出来、そこを歩む幸いを得る事ができ、そのような人こそが、あらゆる悪意ある罠から救われ、主の安全な道を歩む事ができるのだ。

続く箇所は、主に対する、ダビデの祈りである。

25:16 わたしをかえりみ、わたしをあわれんでください。わたしはひとりわびしく苦しんでいるのです。
25:17 わたしの心の悩みをゆるめ、わたしを苦しみから引き出してください。
25:18 わたしの苦しみ悩みをかえりみ、わたしのすべての罪をおゆるしください。
25:19 わたしの敵がいかに多く、かつ激しい憎しみをもって/わたしを憎んでいるかをごらんください。
25:20 わたしの魂を守り、わたしをお助けください。わたしをはずかしめないでください。わたしはあなたに寄り頼んでいます。
25:21 どうか、誠実と潔白とが、わたしを守ってくれるように。わたしはあなたを待ち望んでいます。
25:22 神よ、イスラエルをあがない、すべての悩みから救いだしてください。

ダビデはいつも主に目を向け、心を向けている。
そのような人は、いつも主から直接、助けを引き出す事ができる。

この祈りを暗唱しているユダヤ人は、なにかある毎に、この詩篇の通り、すぐにダイレクトに主に向かい、祈り、主から直接的な助けを得ている。
私達はなにかある毎に、主を除外した思考でもって、誰かから何かの助けを、物を、お金を引き出そうとするが、それは一時的に解決を得たと思ってもすぐにまた別の問題に取り囲まれてしまう。
この詩篇の通りに、いつでも主に向かう思考パターン、行動パターンとなる皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!
 

主を礼拝する者のあり方(詩篇24篇)
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詩篇24篇 ダビデの歌
24:1 地と、それに満ちるもの、世界と、そのなかに住む者とは主のものである。
24:2 主はその基を大海のうえにすえ、大川のうえに定められた。

詩篇24篇には、主はいかなるお方であるのかと、主を礼拝する神の民のあり方が記されている。
まずダビデは、主は、この世のすべてのものは、主のものであると宣言した。
そうである。
ヨハネ1:3 すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。
・・・
1:10 彼は世にいた。そして、世は彼によってできたのであるが、世は彼を知らずにいた。
1:11 彼は自分のところにきたのに、自分の民は彼を受けいれなかった。
1:12 しかし、彼を受けいれた者、すなわち、その名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えたのである。
1:13 それらの人は、血すじによらず、肉の欲によらず、また、人の欲にもよらず、ただ神によって生れたのである。

この、全てを創られ、全てを存続させておられるお方を受け入れる者は、神の子とされる特権が与えられる。
それだから、このお方に対し、大いに「耳」や「目」、「心」という門を開いて受け入れる人は、幸いである。

24:3 主の山に登るべき者はだれか。その聖所に立つべき者はだれか。

私達は、主の山に登るだけでなく、立たなければならない。
立つ事は、敬意を表する行為であり、そのためには、モーセのように、履き物を脱ぐ必要がある。
それまでの、自分の”くせ”で生きて来た生き方、やり慣れた方法でなく、御言葉が示された「主の方法」「主の手段」によって、礼拝するべきだ。

24:4 手が清く、心のいさぎよい者、その魂がむなしい事に望みをかけない者、偽って誓わない者こそ、その人である。
24:5 このような人は主から祝福をうけ、その救の神から義をうける。

ここは、礼拝を捧げる人の姿が記されている。

主の山には、だれでもが登れるものではなく、礼拝するために選ばれた人、主が指名した人が、登る事ができる。
美容師の中で、指名される人とは、腕がいい人、接客態度がいい人であるのと同じように、私達も、主からの指名を受けるために、常日頃から主を敬う態度を示し、日ごと御言葉を口ずさみ、主の道を歩み続けるべきである。
人の側が常日頃、「最上の礼拝を捧げたい」という志を持つなら、主の側も「この人から礼拝を捧げられたい」「この人の捧げる香りをかぎたい」と、聖なる主の山へと召して下さるのだ。

24:6 これこそ主を慕う者のやから、ヤコブの神の、み顔を求める者のやからである。〔セラ

イスラエルがヤコブだった時、彼は主と相撲を取り、もものつがいが外れる経験をした。
それ以降、ヤコブは、びっこを引いて歩くようになり、最後には、つえに寄りかかって主を礼拝した。
私達も、祈りによって主と相撲を取るべきである。
真剣に主の前に立つ時、主は、私達のそれまでの悪いクセをへし折って下さり、それまで平気でしていた悪い事をできなくしてくださる。
そして、主により掛かかって生きるようになって行き、そうして、霊的イスラエルへと創り変えられて行く。

24:7 門よ、こうべをあげよ。とこしえの戸よ、あがれ。栄光の王がはいられる。
24:8 栄光の王とはだれか。強く勇ましい主、戦いに勇ましい主である。

戦いに力ある主、とダビデは告白した。
私達は、この世を歩み続ける上で、諸々の戦いがあるが、もし私達の中の御言葉が的確であるなら、主は、戦いに力ある主として、諸々の問題に戦って下さり、解決と勝利を与えて下さる。

24:9 門よ、こうべをあげよ。とこしえの戸よ、あがれ。栄光の王がはいられる。
24:10 この栄光の王とはだれか。万軍の主、これこそ栄光の王である。〔セラ

私達も、主に対しての門を、すなわち耳を、目を、この口を、主に向かって大いに開いて、主を受け入れるのだ。
もし御言葉が来る時、うつむいていたなら、門は閉じた状態のままで、それは王なるお方を迎え入れる姿勢ではない。
主を迎える時は、うつむくのではなく、頭を下げるのではなく、れっきとして、迎えます!どうぞ!という姿勢を示すべきだ。
顔を伏せるのは、主を敬っていない「カインの礼拝」である。

4:5 しかしカインとその供え物とは顧みられなかったので、カインは大いに憤って、顔を伏せた。
4:6 そこで主はカインに言われた、「なぜあなたは憤るのですか、なぜ顔を伏せるのですか。
4:7 正しい事をしているのでしたら、顔をあげたらよいでしょう。もし正しい事をしていないのでしたら、罪が門口に待ち伏せています。それはあなたを慕い求めますが、あなたはそれを治めなければなりません」。

私達はアベルの礼拝を捧げるべきである。

4:4 アベルもまた、その群れのういごと肥えたものとを持ってきた。主はアベルとその供え物とを顧みられた。

彼は、主を普段から敬い、初物と最良のものを捧げた。
私達も、祈りにおいてしっかり声を出して祈るべきであり、賛美の捧げ物において、心の底からの感謝と喜びを捧げるべきなのだ。

詩篇講解説教
詩篇23篇の最後を信仰告白で飾ったダビデ(詩篇23:6)
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『わたしの生きているかぎりは/必ず恵みといつくしみとが伴うでしょう。わたしは
とこしえに主の宮に住むでしょう。』(詩篇23:6)

ダビデは最後の6節を、自分の主に対する信仰告白で飾った。
聖書の最後も、聖徒の信仰告白で飾られている。

信仰は、表現されなければならない。
内に閉じこめているものは、信仰とは言わない。もし信仰があるというなら、表現しなくてはならない。
ヤコブ2:14 わたしの兄弟たちよ。ある人が自分には信仰があると称していても、もし行いがなかったら、なんの役に立つか。その信仰は彼を救うことができるか。

ダビデは5節までは、自分が信じている神のご性質を表現して来たが、この6節で彼は彼自身の信仰を告白し、この神に対し、自分はこれからどうして行きたいのかを表明した。
「Surely goodness and mercy shall follow me All the days of my life・・・」
わたしの人生の全体に、と、ダビデは、告白した。
一生の間、主の「いつくしみ」と「恵み」が追いかけてくるだろう、と。
恵みといつくしみは、英語ではgoodness and mercy、ヘブライ語ではトーブ טוב と ヘセド ד ח ד סד である。

「 טוב トーブ」は「良し」という意味であり、創世記1章にて主が創造の御業を行った都度、それについて評価した言葉である。
主の創造の御業は常にトーブであり、主と共に歩むなら私達もいつもこの主のトーブを獲得できる。

このトーブには、
1,Perfect! パーフェクト!
2,Beautiful! ビューティフル!
3,Good! グッド!
の意味がある。

続く「恵み ד סד  ヘセド」は、恵み、慈悲、憐れみ、いつくしみ深い、の意味である。

主の御業は、つねにパーフェクト、ビューティフル、グッドであるが、人間がその主の言葉に対して返した、御言葉に対する反逆の結果は、ことごとくその逆、すなわち、不完全であり、醜悪であり、バッドであった。
その結果もたらされた呪い、病、死の中にうめきつつ生きなくてはならなくなってしまったが、その状態の中にある人間に、救いの手が差し伸べられて、主の再創造の良きわざが与えられること、それがすなわち「恵み(ヘセド)」である。
例えば、堕落した生活ゆえに病になってしまった時、主の癒やしが行われたなら、その癒やしが、恵みである。

恵みは、主の創造のトーブに対し、人間がしてしまった罪による破壊、その破壊ゆえに人には病や死が入ってきてしまった、この破壊、死、病に対し、主の側が、一方的に再建を、いのちを、癒やしを与えて下さった事である。
恵みとは一方的に与えられるものであり、それは一切人間のわざではなく、ただ一方的に天から与えられる良きわざである。

主の家に住まう事、それはすなわち、トーブとヘセードを、両腕にかかえて生きる人である。
共にいます主の創造のトーブのわざがいつも共にあり、もし主から離れて、罪ゆえの破壊が起きてしまったとしても、主に立ち返るなら、主のヘセドがそれを癒やしてくださる。
ダビデはいつも、そのトーブとヘセドに囲まれた人生であった。
それで彼は告白したのだ。
トーブとヘセードがずっとわたしを追いかけてくるから、生涯、わたしは主の家に住もう、と。

男女関係においても、告白が無いなら、関係は成立しない。
その点、雅歌書は愛の告白で満ちているからこそ、愛の甘さ酸っぱさの感覚で溢れている。

雅歌2:3 私の愛する方が若者たちの間におられるのは、林の木の中のりんごの木のようです。私はその陰にすわりたいと切に望みました。その実は私の口に甘いのです。
2:4 あの方は私を酒宴の席に伴われました。私の上に翻るあの方の旗じるしは愛でした。
2:5 干しぶどうの菓子で私を力づけ、りんごで私を元気づけてください。私は愛に病んでいるのです。
2:6 ああ、あの方の左の腕が私の頭の下にあり、右の手が私を抱いてくださるとよいのに。

雅歌書の男女は、相手がいかなる方であるのか、自分は相手にどうして欲しいのかという告白で満ちているから、この関係が甘く麗しい関係である事が分かる。
私達も、主がいかなるお方であるお方であるか、どのようにして欲しいのかを常に告白するべきである。
そうすれば、主との関係がどんどん甘く麗しいものになって行く。

トーブとヘセドを送ってくださる主。
わたしを緑の牧場へと導いて下さった主、死の陰の谷も守り導いて下さった主。
敵の前で宴を設けて下さった主。

わたしを愛して下さった、わたしの愛する主の家に住む。それは何と甘くうれしい日々、エデンの園で過ごすかのような幸いな日々だろう。
私たちもダビデのように告白し、トーブとヘセドを私達の人生に結びつけたい。

聖別する主 ジェホバ・メカディシケム(詩篇23:5)
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23:5 あなたはわたしの敵の前で、わたしの前に宴を設け、わたしのこうべに油をそそがれる。わたしの杯はあふれます。

5節には8つ目の主の御名のご性質、Jehovah Mekaddishkem(ジェホバ・メカディシケム)が込められておいる。
それは「わたしのこうべに油をそそがれる」の所であり、ジェホバ・メカディシケムの意味する所は「聖別する主」である。

主は、油を注いで聖別し、任職して下さる。それも、敵の面前で。
主を敬わない敵と、主を敬う主の民を、主がご覧になる時、主は、主を敬う側に御顔を向け、彼らを、敵の面前で食宴を設け、そして油を注いで下さる。

この幸いを呼びこむために必要な事は「主を羊飼いとすること、主を敬う事」だ。
ちょうど主が、アベルの捧げものに目を留め、アベルとその捧げものに対して敬意を表した(NKJV: Respect)のと同じように。
それに対しカインとその捧げ物に対しては、主は目もくれず、一切のリスペクトを表さなかった。それは彼が、主への敬いも、主への正しい態度もなしに、ただ捧げものをポンと持ってきたからだ。

「ジェホバ・メカディシケム」という主の御名が出てくる箇所は、出エジプト記である。
『「あなたはイスラエルの人々に言いなさい、『あなたがたは必ずわたしの安息日を守らなければならない。これはわたしとあなたがたとの間の、代々にわたるしるしであって、わたしが「あなたがたを聖別する主(ジェホバ・メカディシケム)」であることを、知らせるためのものである。』(出エジプト記31:13)

ジェホバ・メカディシケムが現れるためのキーワードは、「安息日」である。
ジェホバ・メカディシケム。それは、安息日を守る人、すなわち、主を礼拝すべき日に、世の諸々の事を止め、しっかり礼拝する人をこそ、主は聖別して下さる。
そうであるからには、私達自身が主に喜ばれる礼拝者である事の努力をし続けるべきである。
カインの性質を捨て、アベルのように最良のものを、最良の形で捧げようと、主を愛する心を持っている人にこそ、主は、目を留めて下さるのだ。主は、全地を見渡し、その心が全く主とひとつになっている人を探しておられるからである。

また、出エジプト記の続く節には、次のように記されている。

『それゆえ、あなたがたは安息日を守らなければならない。これはあなたがたに聖なる日である。すべてこれを汚す者は必ず殺され、すべてこの日に仕事をする者は、民のうちから断たれるであろう。』(出エジプト記31:14 )
ずいぶん恐ろしい事が書かれてある、と思うかもしれない。
しかし私達には、永遠の安息の地、天国が備えられている。だから、天を覚えて日々生きるべきだ。そうでなく、世のことばかりに捕われて、礼拝するべき日を軽んじ、主を覚えないなら、どうして天国に相応しい者になれるだろう。
主が「聖とせよ」「安息せよ」と命じられたのに、聖とせず、安息せずに、世の仕事、世の飲み食いを好んで続けるとするなら、その限りでは、主の聖、主の安息には、入れてもらえない。
私達は天国人である、からには、それにふさわしく生きるべきだ。

また、この言葉が与えられる直前の所では、主はある人々に、特別な使命を名指しで与えている。
『主はモーセに言われた、「見よ、わたしはユダの部族に属するホルの子なるウリの子ベザレルを名ざして召し、これに神の霊を満たして、知恵と悟りと知識と諸種の工作に長ぜしめ、工夫を凝らして金、銀、青銅の細工をさせ、また宝石を切りはめ、木を彫刻するなど、諸種の工作をさせるであろう。』(出エジプト記31:1-5)

主は人に知恵を与え、匠の技を与え、指導力や金銀、その他、主を礼拝する建物や集いを構築するために、全て必要なものを備えて下さる。
その特別な知恵が与えられた人には、「これをつくって欲しい」と言われた時、頭の中で「これとこれが必要だ」「ここにはこの材料を使おう」「ここはこのように組み立てよう」と、瞬時にイメージが組み上がり、精巧に手を動かすわざも与えられるのだ。
その理由は、共に「キリストのからだを建て上げるため」であり、まさに、主が特別な油注ぎを与える故である。ちょうど、ベザレルとアホリアブに、主を礼拝する所、幕屋建造のために知恵と啓示の霊を与えられたように。

現在は、教会が礼拝の集いである。その教会の立てあげのために、主は聖霊の油を注いで下さる。
『さて、御霊の賜物にはいろいろの種類がありますが、御霊は同じ御霊です。奉仕にはいろいろの種類がありますが、主は同じ主です。働きにはいろいろの種類がありますが、神はすべての人の中ですべての働きをなさる同じ神です。しかし、みなの益となるためにおのおのに御霊の現われが与えられているのです。
ある人には御霊によって知恵のことばが与えられ、ほかの人には同じ御霊にかなう知識のことばが与えられ、またある人には同じ御霊による信仰が与えられ、ある人には同一の御霊によって、いやしの賜物が与えられ、ある人には奇蹟を行なう力、ある人には預言、ある人には霊を見分ける力、ある人には異言、ある人には異言を解き明かす力が与えられています。しかし、同一の御霊がこれらすべてのことをなさるのであって、みこころのままに、おのおのにそれぞれの賜物を分け与えてくださるのです。ですから、ちょうど、からだが一つでも、それに多くの部分があり、
からだの部分はたとい多くあっても、その全部が一つのからだであるように、キリストもそれと同様です。』(1コリント12:4-12)
『こうして、キリストご自身が、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師また教師として、お立てになったのです。それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためであり、ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。』(エペソ4:11)

大祭司アロンには、特別に「聖」とされたしるしが与えられた。
『あなたはまた純金の板を造り、印の彫刻のように、その上に『主に聖なる者』と刻み、これを青ひもで帽子に付け、それが帽子の前の方に来るようにしなければならない。これはアロンの額にあり、そしてアロンはイスラエルの人々がささげる聖なる物、すなわち彼らのもろもろの聖なる供え物についての罪の責めを負うであろう。これは主の前にそれらの受けいれられるため、常にアロンの額になければならない。』(出エジプト記28:36-38)

主が、特別に任命されたからには、自らを聖とするのが、主に呼び出された者の分である。
もし、牧会者が「聖」という立ち位置に立っているなら、聖徒は祝福される。
だから私達は、「神よ、この病人に手を置けば癒やされますように」という事を願うよりも、むしろ「わたしが聖化されたものである」という事を追求するべきなのだ。

神が用いられる器は、きよい器である。きよくなければ、聖霊は働かない。
祭司がきよければ、その祈りは聞かれる。だから、きよくなるために、たゆまず努力する。

罪は、悔い改め、常習犯的な罪を、今、やめる、それを続けて行く事の繰り返しをして行くなら、主はますます尊い事へと用いられる。
自らをきよくし、ますます聖霊の油が注がれ、主の働きへと大いに用いられていく皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!

共におられる主 ジェホバ・シャンマ(詩篇23:4b)
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「あなたがわたしと共におられるからです。」(詩篇23:4b)

主が共におられる、それは聖書のいたる所に見られる主のご性質である。
特に「共にいます主・Jehovah Shammah(ジェホバ・シャンマ)という名は、エゼキエル書の最後に登場する。
『町の周囲は一万八千キュビトあり、この日から後、この町の名は『主そこにいます』と呼ばれる」。』(エゼキエル48:35)
これはエゼキエル書の最終章・最終節であるが、そこは、主が示して下さった新しい神殿の寸法を測り終え、いのちを生かす水が川となって流れ出て、その川の両岸を潤し、その町にはイスラエル十二部族への配分が割り当てられた、という箇所である。
黙示録の最後も同様に、天から降ってくる新しいエルサレムの記述があり、その町の門はイスラエル十二部族の名がつけられ、いのちの水が流れる。
その新しいエルサレムの特徴は「神が共にいます」という言葉につきる。

「主が共におられる」という言葉は、聖書の至る所に登場する。
例えば、心細い旅をしていたイスラエルの父祖・ヤコブに対して、主は「ともにいる」という事を強調するために、夢に現れた。

『さてヤコブはベエルシバを立って、ハランへ向かったが、一つの所に着いた時、日が暮れたので、そこに一夜を過ごし、その所の石を取ってまくらとし、そこに伏して寝た。』(創世記28:10-11)
この場面は、イスラエル民族の父祖ヤコブが、兄エサウの祝福をだまし取ったゆえに、兄から命を狙われる事となり、たった一人、おじのラバンの所へ逃避行する途中の旅路である。

『時に彼は夢をみた。一つのはしごが地の上に立っていて、その頂は天に達し、神の使たちがそれを上り下りしているのを見た。そして主は彼のそばに立って言われた、「わたしはあなたの父アブラハムの神、イサクの神、主である。あなたが伏している地を、あなたと子孫とに与えよう。あなたの子孫は地のちりのように多くなって、西、東、北、南にひろがり、地の諸族はあなたと子孫とによって祝福をうけるであろう。わたしはあなたと共にいて、あなたがどこへ行くにもあなたを守り、あなたをこの地に連れ帰るであろう。わたしは決してあなたを捨てず、あなたに語った事を行うであろう」。』(創世記28:12-15)

ここの主の言葉、わたしはあなたと共にいて、あなたがどこへ行くにもあなたを守り、あなたをこの地に連れ帰る、と言っておられる。ここも、ジェホバ・シャンマのご性質が良く表れている場面である。
わたしがともにいる、だから、恐れる事はない、と。

ダビデも告白した。
ヤコブも、イザヤも、またそのほか信仰の先人たちは皆、主が共にいるから恐れない、と告白した。
それは現代の私達も同じである。
インマヌエル(主が共におられる)であられる主イエス様がおられ、導いて下さる。
イエス様は、このヤコブの場面と同じ事を言った。

『また言われた、「よくよくあなたがたに言っておく。天が開けて、神の御使たちが人の子の上に上り下りするのを、あなたがたは見るであろう」。』(ヨハネ1:51 )

このはしごは、天から地に向けてかけられている。
イエス様、すなわちインマヌエルなる主は、天から降りてこられ、私達が天に上れるように、はしごをかけて下さった。
私達は、イエス様という「狭い門」を通してのみ、天国に行ける。
救いの門は、イエス様のみ。そういう意味では狭いかもしれないが、しかしその門を通った先の道は広々としていて、かぐわしい花が咲き乱れた道、贖われた者だけが通る道、一切の愚かな者や滅ぼす者が迷い込む事の無い道である。(イザヤ35章)

『ヤコブは眠りからさめて言った、「まことに主がこの所におられるのに、わたしは知らなかった」。そして彼は恐れて言った、「これはなんという恐るべき所だろう。これは神の家である。これは天の門だ」。ヤコブは朝はやく起きて、まくらとしていた石を取り、それを立てて柱とし、その頂に油を注いで、その所の名をベテルと名づけた。その町の名は初めはルズといった。』(創世記28:16-19)

ヤコブは兄から命を狙われ、そこから逃げる旅路で心細くあるヤコブ自身、主がともにおられる、という事で、その地をベテル(神の家)と呼んだ。
この体験が、ヤコブにとって、信仰のはじまりだった。
『ヤコブは誓いを立てて言った、「神がわたしと共にいまし、わたしの行くこの道でわたしを守り、食べるパンと着る着物を賜い、安らかに父の家に帰らせてくださるなら、主をわたしの神といたしましょう。またわたしが柱に立てたこの石を神の家といたしましょう。そしてあなたがくださるすべての物の十分の一を、わたしは必ずあなたにささげます」。』(創世記28:20-22)

ずっと後、彼がベテルで礼拝を捧げた時、彼は一人ではなく、二人の妻と二人の妾、そして12人の子供たちが彼とともにあった。
彼は確かに主から祝福を受け、日毎のパンや着物に困る事が全くないほどまでに富ませ、無事に帰らせてくださったにもかかわらず、すぐに礼拝をささげなかったゆえに、娘ディナに不幸な事が起きたり、息子達がとんでもない事をしたりした。
そうした色々紆余曲折があったものの、主からの促しにより、このベテルに戻って礼拝を捧げた時、諸国の間で、彼に対する恐れが芽生えた。(創世記35章)

主が共におられる、その場所を離れてしまうなら、良くない事が起きる。
しかし、一人ひとりにとっての「主が共におられる」場所にとどまるなら、そこは天の御国となる。
そこは、いのちの水の川が流れ、いのちの木が茂る場所である。
エゼキエル書のジェホバ・シャンマと呼ばれた町も、黙示録に出てきた天国も、いのちの水の川が流れ、いのちの木が茂った。
ダビデも、共におられる主、羊飼いなる主にともなわれ、いこいの水のほとりへ、緑の牧場へと導かれて行った。
信仰の先輩たちはみな、地上の歩みにおいてジェホバ・シャンマを経験したのだ。

ヨハネ10:9 わたしは門である。わたしをとおってはいる者は救われ、また出入りし、牧草にありつくであろう。

イエス様こそ、天からかけられたはしご、唯一、天と地を結び、唯一、人を天国へと至らせる門である。
その門の向こう側は、祝福の道であり、ジェホバシャンマなる主がいつも共におられる道である。

私達もこの人生において、ジェホバシャンマなる主と共に歩み、また自分の家族や仕事に対して、祝福を宣言するものでありたい。

死の陰の谷を歩むとも災いを恐れない - ジェホバ・ニシ(主はわが旗)(詩篇23:4a)
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「たといわたしは死の陰の谷を歩むとも、わざわいを恐れません。」(詩篇23:4a)

この有名な言葉の中には、主の御名「ジェホバ・ニシ(Jehovah Nissi:主はわが旗)」のご性質が現れている。
このジェホバ・ニシという主の御名が登場する箇所は、出エジプト記17:15 で、そこは、イスラエルが奴隷の国エジプトを脱出した直後、主から示された約束の地・カナンへ移動する途中、アマレクが襲いかかってきた時のことである。

アマレクは、イスラエルの中で行軍に疲れ、弱って後方にいた人達を狙いうちにして、襲ってきた。
彼らの性質を一言で言うなら、「弱い者いじめ」である。主はそのような者は、断ち切られる。(申命記25:17-19)

『モーセはヨシュアに言った、「われわれのために人を選び、出てアマレクと戦いなさい。わたしはあす神のつえを手に取って、丘の頂に立つであろう」。ヨシュアはモーセが彼に言ったようにし、アマレクと戦った。モーセとアロンおよびホルは丘の頂に登った。』(出エジプト記17:9-10)

モーセが丘の上で手をあげたのは、背後で祈り、実戦部隊として戦うヨシュア達を祝福するためである。
私達の戦う武器は、鉄のものではなく「霊による剣、すなわち御言葉」であり、その手段は、肉弾戦ではなく「祈り」である事が、エペソ6章に記されている。
モーセは、祈りの重要性をよく認識していた。
だからアマレクが襲って来た時、主から特に指示される前に、祈りの手を上げたのだ。

『モーセが手を上げているとイスラエルは勝ち、手を下げるとアマレクが勝った。』(11)
モーセが背後で祝福の手を上げて祈る、その手が、戦いを左右した。
事実、祈る教会と、祈らない教会とは、大きな違いが出てくる。
教会と世の組織との違いは、祈りがあるか、ないか、と言って良い。
世の人は、ただ肉弾戦で戦おうとするが、しかし教会は、主の御名によって祈る事によって、天の扉を開けたり閉めたりする権威が与えられているのである。

祝福の手を挙げる事は、どれほど重要か。
アロンとフルは、その重要性に気づき、石を取ってモーセが座れるようにし、さらに二人は両脇からモーセの手を支えた。
それで彼の手は日没までしっかり挙げられたままだった。ヨシュアはアマレクの軍を打ち敗った。
そしてヨシュアは、丘の上で手を上げているモーセを背後に、安心して戦う事が出来た。
この経験が元で、ヨシュアは後に、積極的に祈って勝利へと導く指導者となる。
彼が指導者になった時、彼はアイの町を攻撃する際に、槍をずっとその町に向かって上げ、イスラエルが勝利するまで手を引っ込めなかった(ヨシュア8:26)。
また彼は、祈りによって太陽と月を一日停めて、イスラエルの敵が滅ぼされるまで、太陽と月は沈まなかった。(10:12)

手を上げて祈る事は、すなわち、主の旗を掲げる事である。
『主はモーセに言われた、「これを書物にしるして記念とし、それをヨシュアの耳に入れなさい。わたしは天が下からアマレクの記憶を完全に消し去るであろう」。モーセは一つの祭壇を築いてその名を「主はわが旗」と呼んだ。そしてモーセは言った、「主の旗にむかって手を上げる、主は世々アマレクと戦われる」。』(出エジプト記17:14-16)
ここに「主はわが旗(ジェホバ・ニシ)」という主の御名が出てきた。
それは『主の御座の上の手』のことであると書いてある。
つまり私達が手を上げて祈る時、その手が主の旗となり、そこに神の国の影響が、神の統治が、その場所に及ぶようになる、という事なのだ。
手を上げて祈る事が、いかに大事だろう。
戦いに勝利した時や、未開の土地に初めて踏み入れた時など、そこに、自分たちの旗を立てて、「ここは自分たちのもの、自分達の統治が及ぶ所」、と内外に宣言するように、祈りの手を挙げる事も、そうである。
自分の子供や家族のために、会社のために祈る時、あるいは、邪悪な領域に足を踏み入れて伝道する時に、祈りの手を挙げるのである。
そうする事で、そこに神の国の統治権を呼び起こす事が出来るのだ。

ただし、手を挙げれば誰でも祈りが聞かれるわけではない。
その祈る手は、神に従う「きよい手」でなくてはならない。
『ですから、私は願うのです。男は、怒ったり言い争ったりすることなく、どこででもきよい手を上げて祈るようにしなさい。』(1テモテ2:8)
『神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいてくださいます。罪ある人たち。手を洗いきよめなさい。二心の人たち。心を清くしなさい。』(ヤコブ4:8)

モーセやヨシュアのように、指導する立場にある人は、きよい手を挙げて祈る事が大事であり、祈る立場の人が煩いなく祈りに専念できるように、助ける人も重要であり、もちろん実際に働く人も大事である。
このように、モーセ、アロン、フル、ヨシュア、それぞれに役割があったように、教会の牧会の現場も、手を上げて祈る人、祈りに専念できるように支える人、実戦部隊として戦う人、それぞれ役割があるのだ。

新約の教会、エクレシアの中において、私達はそれぞれの役割を果たし、主の愛の旗印の下で勝利の歩みをして行く集いでありたい。

詩篇講解説教 早天祈祷会
ジェホバ・ロフェ、ジェホバ・チヅケヌー 牧会学の極意(詩篇23:3)
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詩篇23:3 主はわたしの魂をいきかえらせ、み名のためにわたしを正しい道に導かれる。

この節には、主の御名が2つ練り込まれており、そして牧会学(Ministry Pastoral theology)の極意が詰め込まれていて、牧会をするために必要なエッセンスがある。
牧会とは、世において問題の渦中にさらされ、挫折し、涙し、重い荷をおっている人々を、聖霊の助けを得て真の牧者であるキリストの元へと導き、傷ついた生き返らせ、再び起こし、そして正しい道へと導いて行くものである。

イエス様も言われた。
マタイ11:28 すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。
 11:29 わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。
 11:30 わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである」。

私達も、疲れたたましい達をイエス様の元へと導き、彼の元で安らわせ、憩わせる者達である。

「主はわたしの魂をいきかえらせ」(詩篇23:3a)
ここはジェホバ・ロフェ(Jehovah Rophe:癒し主)の御名が練り込まれており、その御名が登場するのは、出エジプト記15:26である。

その箇所は、エジプトを脱出したイスラエルの民が、主の御業によってエジプトの追撃から守られ、さらに荒野を旅して行き、マラという場所に到着した場面である。
マラは「苦い」という意味である。彼らは水の無い荒野を旅し、ようやく水の所に着いたのだが、その水はあいにく「苦く」、飲めなかった。

『ときに、民はモーセにつぶやいて言った、「わたしたちは何を飲むのですか」。モーセは主に叫んだ。主は彼に一本の木を示されたので、それを水に投げ入れると、水は甘くなった。』(出エジプト記15:24)
一本の木を投げ入れると、苦かった水が甘くなる。
その「木」は、新約における十字架の予表である。

『その所で主は民のために定めと、おきてを立てられ、彼らを試みて、言われた、「あなたが、もしあなたの神、主の声に良く聞き従い、その目に正しいと見られることを行い、その戒めに耳を傾け、すべての定めを守るならば、わたしは、かつてエジプトびとに下した病を一つもあなたに下さないであろう。わたしは主であって、あなたをいやすものである」。』(出エジプト記15:25-26)
主はここでJehovah Rophe 「癒し主」である事を宣言された。
わたしはあなたがたを癒やすエホバである、と。
人々が嫌った、マラの苦い水に、主が指したあの木の枝を投げ入れると、甘い水に変わった。ここにキリスト教の本質がある。
世が「使い物にならない」と言って捨てた人、苦い人、彼らを癒やすお方が、ジェホバ・ラッファなる主である。
ダビデは、この出エジプト記からジェホバ・ラッファを持ってきたのだ。ここに、「牧会学」の始まりがある。
牧会における最も重要な働きの一つが「魂を生き返らせる(My soul He restores)」である。
魂(ネフェシュ)を、生き返らせる。働くためには、生き返って回復された状態にならないとならない。主は、癒やし主であり、そして私たちもまた、人を癒やすことを、重要な目標の一つに据えるべきである。


「み名のためにわたしを正しい道に導かれる」(詩篇23:3b)

ここに隠されている主の御名が、Jehovah Tsidkenu(ジェホバ・チヅケヌー)であり、すなわち、「エホバはわたしたちの義」という意味だ。
それは、エレミヤ書に登場する。
『その日ユダは救を得、イスラエルは安らかにおる。その名は『主はわれわれの正義』ととなえられる。』(エレミヤ書23:6)

人を立て直す順番は、最初に「たましいを生き返らせ」、次に「義の道に導かれる」である。
主は、その理由を「自分の名のために」、すなわち、「神の名を神とするために」、その事をされるのだ。
コーエン大学設立総長、ポール・カン・シンゴン博士は言う。
牧会とはすなわち、

1,魂を生き返らせる、蘇生させる。
2,一生の間、公の義の道へと、導く。
事である、と。

牧会とは、人を救って、癒やしたら、もうそれで終わりではない。しっかりとケアもするべきである。
その人がどんどん良い人になって行き、義の道へと導いて行くものである。

牧会は、ラテン語では、CURA というが、CURA は、 CURE + CARE、すなわち、
C=C+C
それが、牧会である、と、ポール・カン・シンゴン博士は提唱する。

私達は、イエス様にあって癒やされた。
そして天国に行くその日に至るまで、日々、義の道を主にあって歩まされ、日々、義人とされ、栄光化されて行く道筋にある。
イエス様はペテロに、わたしの羊を飼いなさい、と言われた。
私達も、飼うのである。
人々にイエス・キリストを伝え、魂を生き返らせ、彼らを義の道に導くためにケアし、そして彼らもゆくゆくは羊飼いへと育てて行くのである。

詩篇23篇に隠された主の御名 - ジェホバ・シャローム(詩篇23:2)
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『主はわたしを緑の牧場に伏させ、いこいのみぎわに伴われる。』(2節)
この詩篇23篇2節に練り込められた御名は、「ジェホバ・シャローム」(主は平和、平和の主)である。

士師記6:24 この御名「ジェホバ・シャローム」が登場する場面は、主がギデオンを召し出された場面である。
どういう時に主は彼に現れたか。それは、彼がミデヤン人という敵から隠れて、酒ぶねの中に隠れながら麦を打っている場面である(士師記6章)。
そんな臆病な、部族の中で最も小さく、最も弱い者に、主は現れて言われた。
「大勇士よ、主はあなたと共におられます」(士師記6:24)

ギデオンも、人も、当然、未来は見えない。彼自身も、彼の父も、部族の人々も、まさかギデオンが大勇士になるとは思ってなかったが、主の目には、将来の彼の「大勇士」の様が、見えていた。
なぜなら彼には、主に従順する性質があったからだ。
彼は、主から言われた事を、そのまま実行する人だった。

普通、常識ある人間は、10万以上の敵にたった300人で立ち向かう事はしないが、ギデオンは、主がしなさいと言われたので、した。
主が「人が多いから減らしなさい」と言われたら、躊躇なく1万や2万をばっさり切ったし、たった300人になっても、10万以上の敵に立ち向かって行った。
そのような性質だから、彼は用いられたのだ。
この、主に言われたとおりに実行する性質こそ「大勇士」の性質である。

2. ギデオンは、どういう場面でジェホバ・シャロームを宣言したのか。
彼が酒ぶねの中で、恐れながら麦を打っている時、主の使いが彼に現れたが、彼は、主の使いと面と面を向かって話していたというのに、実感せずにいた。
しかし彼が、相手が本当に主の使いであったと分かった時、死ぬのではないかと恐れた。しかし、
『主は彼に言われた、「安心せよ、恐れるな。あなたは死ぬことはない」。そこでギデオンは主のために祭壇をそこに築いて、それを「主は平安(ジェホバ・シャローム)」と名づけた。』(士師記6:23−24) 

私達も、主の力強く全く聖であられる有様を知った時、ひるがえって、自分が昨日犯したあの罪、今日犯したこの罪も全部、主がその目でじっと見つめておられた、と知るなら、ギデオンのように絶望するしかない。
ダビデも、そうだった。主の目の前で他人の妻を奪い、その夫を謀殺するような罪を犯した。にもかかわらず、「あなたは死なない」と言われた。なぜか?それは彼が自分の罪を告白し、主のなさる事を受け入れたからだ。
「主は言われた、「悪い者には平安(シャローム)がない」と。」(イザヤ48:22)
しかし人が自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方であるから、その罪を赦し、全ての悪から私達をきよめて下さる。しかしもし、罪を犯したことがないと言うなら、それは神を偽り者とするのであって、神の言はその人の内にない。(1ヨハネ1:9-10)

3. シャロームに込められた意味
ユダヤ人は「シャローム」を、挨拶の言葉として使っている。このシャロームの中に込められている最たる願いは「トーブ(良し)」である。主がこの世界を6日に分けて創造された時、一日一日に「良し」(トーブ)と宣言された。
そして、人間を創られた第6日目には「はなはだ良し(トーブ・メオド)」と評価され、「生めよ、ふえよ、地に満ちよ、地を従わせよ」と、人を祝福された。(創世記1章)

この「トーブ」の中には「1,パーフェクト(完全)」「2,ビューティーフル(美しい)」「3,グッド(良い)」の意味が込められており、これら3つを束ねて「シャローム」という。つまり、ユダヤ人がシャロームの挨拶を交わす時、完全でありますように、美しい者であるように、良い者でありますように、という願いを込めているのだ。
ユダヤ人であるパウロも、その書簡の中で頻繁に「平安があなた方にあるように」という挨拶をしている。
イエス様も、恐れて隠れている弟子達の中に現れ、平安(シャローム)があなた方にあるように、と宣言し、その手とわき腹を示された。
『弟子達は、主を見て喜んだ。イエス様はもう一度、「平安があなたがたにあるように。」と言われ、彼らに息を吹きかけて、言われた。「聖霊を受けなさい。」』(ヨハネ20:19−22)

弟子達が主を見て喜んだのは、イエス様がその手とわきを示されたからだ。
イエス様が私たちの代わりに十字架上で打たれ、罰を受け、死なれた。
そして、よみがえられた。これぞ完全なシャロームの根源である。
イエス様こそ、まことの羊飼いであり、備え主であり、そして平和の主である。

羊は、羊飼いなしでは良くない。砂漠でとぼとぼ途方に暮れているのは、良くない。
羊は、羊飼いに導かれ、緑の牧場に、いこいのみぎわに伏してこそ、トーブである。まことの羊飼いに導かれ、いこわされる、トーブな皆さんでありますように!

詩篇23篇に隠された主の御名 - ジェホバ・ロイ、ジェホバ・イルエ(詩篇23:1)
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詩篇23篇は、ダビデが創った詩篇の中でも、珠玉のような詩篇として、キリスト教・ユダヤ教両者から愛されている。
一般の映画や文学でも多く引用され、教会に行った事が無い人でも詩篇23篇のフレーズを聞いた事がある人は多いだろう。
この詩篇23篇は、ダビデ自身の「主はどのようなお方であるのか」という信仰告白が詰まっていて、彼はこの23篇の中に、8種類の「主の呼び名」を秘めた。

聖書の中には多くの主の呼び名が出てくる。ジェホバ・イルエや、ジェホバ・シャンマ、ジェホバ・ニシなど。
それぞれ、主の呼び名はそれぞれの主のご性質をあらわしているが、詩篇23篇にダビデが秘めた主の御名の宝を、これから何度かに渡って掘り起こして行きたい。
なお、国や訳によっては「ジェホバ」が「アドナイ」または「ヤーウェ」に、また、たとえば「イルエ」が「エレ」または「ジレ」等と発音するが、いずれも、呼び名や発音が違うだけで、意味は同じである。

ダビデが真っ先に告白した主のご性質は、「主はわたしの牧者(ジェホバ・ロイ)であって、わたしには乏しいことがない。」(1節)であった。
詩篇23篇に真っ先に登場する主の呼び名は、ジェホバ・ロイ、すなわち「主はわたしの牧者」である。
「ロイ」には、羊を飼う、食べさせる、牧草地へ導く、保護する、一緒に伴う、などの意味が含まれている。

ダビデは少年の頃、父の羊を飼っていたので、羊の性質をよく知っている。
彼の人生で、彼自身が歩んできた道を振り返ってみると、主がいつも共におられた。
そしてその主について、彼が真っ先に表現したそのご性質は「羊飼い」である。

羊は愚かで弱く、羊飼いがいなければ、何もできない。
しかしながら、羊はいつでも羊飼いが守っている故に、全て、必要なものが備えられる。
豚には羊飼いは必要ないが、いつも自分の身を怪我し、無作為に汚れたものを食べている。
それに引き換え、羊はいつも羊飼いに導かれる故、新鮮な、良い牧草へと導かれ、良い水の所に導かれ、いつも良いものを得ている。

羊が安全に暮らすためには、力あるかないか、個性があるか無いかは関係ない。
ただ、羊飼いの声を聞き、その後について行くだけである。それでこそ、彼らは生きながらえる事ができる。
羊飼いがいないなら、いかに能力がある羊であっても、所詮は羊である。彼らは弱り果てる以外には無い。

ダビデは、主こそ、自分の「羊飼い」だと呼んだ。
彼は人生の中、色々な敵が立ちふさがった。色々な困難があった。
強大な敵が何度も立ちふさがったし、親しい人からの裏切りもあったが、ダビデは、その都度、主に避け、主を拠り所とした
自分自身の中から湧き出て来る罪という最大の敵に打ち負かされてしまった時も、躊躇なく主に帰り、自分の罪を告白した。
主に全てをうちあける事こそ、救いを引き出すために必須の手続きである。主は、そんなダビデの羊飼いとなってくださった。

「わたしには乏しいことがない。」(1節b)
この節後半には、さらに、「ジェホバ・イルエ」、すなわち「備え主」の御名が練り込められている。
この「ジェホバ・イルエ」の御名が登場する場面は、アブラハムがイサクを捧げる場面である(創世記22章)。

彼が主の命令によりイサクを捧げようとした、まさにその時、主は制止した。彼の主に対する従順が、行いによって証明されたのだ。
それで主は、イサクに代わる犠牲として、角をやぶにひっかけた羊を備え、アブラハムは羊を身代わりに捧げた。
それでアブラハムは、主が備えて下さった故に、そこをジェホバ・イルエと名付けた。

さて、ジェホバ・イルエの言葉は「主の山には備えあり」の言葉と共に「備え主」という意味として定着しているが、実は、ジェホバ・イルエの正しい意味は、別にある。
この言葉は、分解すると、「ジェホバ(主)+ラアー(見つめる)」、そして「ラアー」は未完成形なので、原意は「主はずっと見つめ続けておられる」であり、英語のKJVが正しい訳出をしている( In the mount of the LORD it shall be seen.)

アブラハムは、イサクを捧げた時、気づいたのだ。
主はずっと、自分の信仰が、このイサクを捧げるという「行い」によって「完成」されるのを、今か、今かとずっと見続けておられたのだ、と。
そういうわけで、ヤコブは次のように書いている。

ヤコブ2:21 わたしたちの父祖アブラハムは、その子イサクを祭壇にささげた時、行いによって義とされたのではなかったか。
2:22 あなたが知っているとおり、彼においては、信仰が行いと共に働き、その行いによって信仰が全うされ、
2:23 こうして、「アブラハムは神を信じた。それによって、彼は義と認められた」という聖書の言葉が成就し、そして、彼は「神の友」と唱えられたのである。
2:24 これでわかるように、人が義とされるのは、行いによるのであって、信仰だけによるのではない。

アブラハムがジェホバ・イルエと名付けたモリヤの山には、後の時代、ソロモン神殿が建ち、バビロン捕囚の時に破壊された。
しかし主は、今なお、そこを見つめ続け、待っておられる。
アブラハムの子孫達が、茨の冠を頭にひっかけた「まことの小羊キリスト」を身代わりの犠牲として捧げるのを。

主はアブラハムが信仰の完成をするために必要な、イサクの身代わりとなる羊を備えて下さったように、私達が信仰の完成を成就するために、私達の身代わりとなってくださった、まことの小羊キリストを備えて下さった。
主はずっと私達を見続けておられ、そして私達の信仰が行いを通して完成するのを、待っておられるのだ。

低くされた後、高くされ、栄光を受けるまでの道のり(詩篇22:22-31)
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詩篇22篇の前半は、受難の叫びで満ちていたのに対し、22節以降の後半は、賛美で溢れている。
それは、この詩篇の作者であるダビデが、苦難の中で低くされた後に栄光が与えられた事をあらわしていると同時に、イエス様の受難と死、そして復活と栄光化を正確にあらわす預言である。

ダビデは最初、主は祈りに答えてくださらない、という思いに満たされていた(2節)。
それで主にずっと叫び続け、祈り続けて行く内に、主が答えて下さったという感覚を得られ、ついには、主は彼の声に聞いて下さった、という確信を得られた。(24節)

22:22 わたしはあなたのみ名を兄弟たちに告げ、会衆の中であなたをほめたたえる(ハラル)でしょう。

ダビデの、それまでの苦悩に満ちた祈りは、聞かれた事の確信ゆえに、主への賛美(ハラル)へと切り替わった。
ハラルはハレルヤの元であり、それには、(主を)誇りに思う、高める、重きを置く事の意味がある。
ダビデは、祈って得た確信と喜びゆえに、今度は人々に、主をハラルする事を勧めて行く。

22:23 主を恐れる者よ、主をほめたたえよ(ハラル)。ヤコブのもろもろのすえよ、主をあがめよ(カバド)。イスラエルのもろもろのすえよ、主をおじおそれよ(グル)。

カバドは「重んじる」「栄光を帰す」意味があり、その意味においてハラルと重なる。
主を喜び、ほめ讃える事は良い事だが、それは、主へのおそれ(グル)を伴っていなければならない。
主へのおそれが無ければ、主の言葉を軽んじ、主の約束を平気で破ってしまうからであり、主をおそれ敬う心が無い賛美は、ただの「盛り上がり」を求める世の歌と変わりがないからだ。

22:24 主が苦しむ者の苦しみをかろんじ、いとわれず、またこれにみ顔を隠すことなく、その叫ぶときに聞かれたからである。

主は聞かれた…ダビデはその確信を得た。それで彼は、心からの喜び、嬉しさが湧き上がり、主をハラルしたい、と心底願ったのである。

主をハラルするに至るまでには、幾つかのステップが必要である。
まずは、主の御言葉を、よく思い巡らし、咀嚼し、黙想する事(ハガー)が最初である。
その御言葉の土台の上に、祈り(テフィラー)を積み重ねるのだ。御言葉をハガーするという「土台」が無い祈りは、単なる、身勝手な願望の並べ立てに過ぎなくなってしまう。
御言葉に基づいた祈りを口ずさむ事(シイハー)を続けて行く内、諸々の感情が段々と湧いてくる。愛情や喜びや平安、あるいは、うめきや悲しみなど。
この「口ずさみ」に、それらの感情を乗せたメロディや、あるいは体を使った表現が加わると、それがすなわち「賛美(テヒラー)」である。
テヒラー(תְּהִלָּה)は賛美、賛美歌、賞賛、名声などの意味で、テフィラー(תְּפִלָּה)は祈り、あるいは祈りの賛美の意味である。いずれにも、hymn(賛美歌)の意味が含まれている。

ダビデは3節で「イスラエルの「さんび(テヒラー)」の上に「座して(ヤーシャブ:住む)」おられる/あなたは聖なるおかたです。」と言っていた。
そうである。私達の主を賛美する時、喜び踊るような嬉しい感情、あるいは、誰かを執り成しうめく感情など、それらを乗せた賛美(テヒラー)の内に、主は、住まわれるのである。

そうして、遂には、主をほめ讃える(バラク)段階、あるいは主を誇りに思って高める「ハラル」の段階になって行く。
こそ段階に至るまで、ダビデは、苦しみうめき祈ったのが、詩篇22篇前半である。
ダビデはその段階の時、主は「お答えにならない」ような気もしていたが(2節)、それでも御言葉を黙想し、祈り続けた結果、「主は聞いて下さった」という確信を得て(21節)、主を喜び歌う段階に入る事が出来た。

22:25 大いなる会衆の中で、わたしのさんび(テヒラー)はあなたから出るのです。わたしは主を恐れる者の前で、わたしの誓いを果します。

ダビデは「わたしのさんび(テヒラー)はあなたから出るのです」と言った。
そう、心から主を喜ぶテヒラーは、主が下さる。
そして私達の分は、主に向かって祈る事である。
ダビデは主を喜ぶあまり、喜び踊った。妻のミカルから蔑まれるほど。彼はそれだけ主を求め続けたからだ。

22:26 「貧しい者(アーナブ)」は食べて飽くことができ、主を尋ね求める者は主をほめたたえる(ハラル)でしょう。どうか、あなたがたの心がとこしえに生きるように。

アーナブは「へりくだった者」「低くされた者」の意味であり、KJVでは「meek」と訳されている。
へりくだった心こそ、食べ飽く事が出来る人の性質なのだ。

22:27 地のはての者はみな思い出して、主に帰り、もろもろの国のやからはみな、み前に伏し拝むでしょう。

ダビデは仰ぎ見ていた。地の果ての人々さえも、主に帰り、主に伏し拝む事を。
まさに、イエス様が十字架につけられ、死んで葬られ、よみがえり、天に昇られて以降、全世界の人々がイエス・キリストに帰り、彼を伏し拝んでいる。

続く節では、十字架につけられ低くされたイエス様が、今度は高められる事が記されている。

22:28 国は主のものであって、主はもろもろの国民を統べ治められます。
22:29 地の誇り高ぶる者はみな主を拝み、ちりに下る者も、おのれを生きながらえさせえない者も、みなそのみ前にひざまずくでしょう。
22:30 子々孫々、主に仕え、人々は主のことをきたるべき代まで語り伝え、
22:31 主がなされたその救を/後に生れる民にのべ伝えるでしょう。

30節の「子孫(ゼラ)」は、原文は単数形であり、その単数形の「子孫」はすなわちイエス・キリストをあらわす。

イザヤ書53章も詩篇22篇同様、前半はキリストの受難が、すなわち、彼が低くされる事が記されており、そしてその後、彼は高くされ、その支配は永遠に続く事が記されている。

イザヤ53:10 しかも彼を砕くことは主のみ旨であり、主は彼を悩まされた。彼が自分を、とがの供え物となすとき、その子孫(ゼラの単数形)を見ることができ、その命をながくすることができる。かつ主のみ旨が彼の手によって栄える。

父なる神様が、彼の子であるイエス様を砕く事は、御心だった。
それは、彼が砕かれて後、栄光を受け、その「命をながく」、すなわち、彼に永遠の王権が与えられ、永遠に栄えるためにである。

53:11 彼は自分の魂の苦しみにより光を見て満足する。義なるわがしもべはその知識によって、多くの人を義とし、また彼らの不義を負う。
53:12 それゆえ、わたしは彼に大いなる者と共に/物を分かち取らせる。彼は強い者と共に獲物を分かち取る。これは彼が死にいたるまで、自分の魂をそそぎだし、とがある者と共に数えられたからである。しかも彼は多くの人の罪を負い、とがある者のためにとりなしをした。

イザヤ53章でも、詩篇22篇でも、油注がれた神の御子キリストは、受難を受け、低くされ、あざけられ、ののしられ、罰せられ、死ぬ事が示され、そしてその後に復活し、高くされ、栄光が与えられる事が示されている。
イエス様はまさに、旧約聖書の随所にある預言の通りに歩まれ、そして今、世界中の、彼によって救われた人々から、あがめられ、栄光を受けているのである。

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