メッセージ - 201105のエントリ

礼拝説教メッセージ音声:エルサレム使徒会議2 - 神は人を自由にする(使徒15:12-21):右クリックで保存
韓国語通訳有 한국어예배

信仰によって救われた異邦人に「割礼を受けなければ救われない」と主張した者達は、自分達はこれこれに従って歩んできた、だからあなたも、、、という、自分の価値観を押し付ける考え方だった。
そもそも律法は、当のユダヤ人達も先祖達も追いきれなかった、重いくびきだった。
にもかかわらず、自分達は律法を持っていると言って誇るものだから、彼らは頭が固く主張の強い、あまり係わり合いを持ちたくない種類の人達だった。
会議という場で、そのような人達が操作や駆け引きによって支配すると、他の人々を束縛する諸々の規定が定められてしまう。

しかしこのエルサレム使徒会議は逆で、人の野心や主張ではなく、神の御心に沿って行われ、人を束縛する事ではなく人を自由にする事が決定された。
真理のある所には自由があるのである。(ヨハネ8:32)

ペテロやパウロ、ヤコブは、神は何をなされ、御心はどこにあり、御言葉には何と書かれてあるか、という、神の価値観を主張した。
この事から私達が学ぶべきは、教会の運営は、人の習慣や知恵、経験を押し付けるのではなく、神がどういう御心を持っておられるのか、神はどういうことをされて来たのか、御言葉には何と書いてあるのか等、神中心に運営されるべきである。

真理は自由だと言って何でもかんでもOKというものではなく、主が嫌われ、呪いを招くものは、避けるべきである。
「ただ、偶像に供えた穢れたものと、不品行と、絞め殺したものと、血とを避けるようにと、彼らに手紙を書くべきです。」(20節)

ペルガモンにある教会(黙示録2:12-17)は、邪悪な場所の真っ只中にある教会で、殉教者が出た時さえ信仰を捨てなかったにもかかわらず、バラムの教えを奉ずる者がいる事を非難されている。
バラムの教えとは神の民を神から逸らしてしまうための罠、すなわち、偶像に備えた肉と不品行である。
まことの神以外を拠り所とする「偶像」にも、ニコライ派という「人間中心の教え」にも、「まぁいいんじゃない」と言って妥協したり譲歩してはならない。
教会は信仰による自由や開放は確かにあるが、何でもかんでも受け入れてよいというものではない。
神以外のものに逸れて行ってしまうものについては、力の限り見張っていなくてはならない。

イエス様を信じた者は彼と一つ霊とされた者、それに相応しく、ますます純粋・純真な皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!

入院していた姉妹は土曜に退院する事になりました。

その姉妹も不思議な夢を見たそうです。

汚いぼろをまとった霊的存在が彼女を群がって追いかけるのですが、そいつらは彼女に追いつけない。

そういう夢を続けて見ていたそうですが、入院中、御言葉にとどまって祈りをした所、夢の中では彼女は花畑の中に入っていて、その霊的存在は彼女の所に行こうとするのですが、花畑の内側には絶対に入れなかったそうです。

霊的空き家状態になると、悪い奴は入り込もうとするのですが、御言葉で満たしていると、奴らは決して灰って来れないのです。
 

礼拝説教メッセージ音声:エルサレム使徒会議1 - 法を行わなければ救われない?(使徒15:1-11):右クリックで保存
韓国語通訳有 한국어예배

ある人たちがユダヤからアンティオキアヘくだって来て「モーセの慣例に従って割礼を受けなければ、あなたたちは救われない」と兄弟たちに教えていた。
それで、パウロやバルナバとその人たちとの間に、激しい意見の対立と論争が生じ、この件について使徒や長老たちと協議するために、パウロとバルナバ、そのほか数名の者がエルサレムへ上ることに決まった。(使徒15:1,2)
いわゆるエルサレム使徒会議である。

会議という場において、意見の強い者の思惑によって議論が進む場合、その人の意図が通される事によって他の人を束縛する方向性で、物事が決まる事が多い。
しかし教会における会議では、人間の経験や知識ではなく御言葉には何と書いてあるかを、人の思惑ではなく神の御心を、優先させるべきである。

ペテロは立ち上がり、神がなさった事実、すなわち、イエスを信じた者には聖霊が下った事、そこには異邦人もユダヤ人も何の差別も無かった事を伝えた。

「それなのに、なぜ今あなたがたは、先祖もわたしたちも負いきれなかった軛を、あの弟子たちの首に懸けて、神を試みようとするのですか。
わたしたちは、主イエスの恵みによって救われると信じているのですが、これは、彼ら異邦人も同じことです。」(15:10,11)
主が為さった完全な救いがあるのに、なお人間的に固執してきた思い込みやしきたりを人に押し被せようとするのは、神を試みる事である。

そもそも、律法の行いによって人は義とされるのだろうか?
「人は律法の業によっては義とされず、イエス・キリストヘの信仰によってのみ〔義とされる〕ということを知って、私たちもまたキリスト・イエスを信じたのである。それは私たちが、律法の業によってではなく、キリストヘの信仰によって、義とされるためである。というのは、律法の業によっては、いかなる人も義とされないであろうからである。」(ガラテヤ2:16)
例え律法のチェックリストが100あったとして、100全て守ったとしても、義もいのちも与えられない。(ガラテヤ3:21)

では、律法とは何か。
それは、人に違反を示すため付け加えられたものであり(ガラテヤ3:19)人をイエスキリストへと導くための養育係である。(3:24)
人間は、とても律法を全て守れるものではない。
そういうわけで、人間にはどうしようもない罪という「違反」があるという事を示される。
そこで救いが必要だという渇望が起こり、そこからキリストへと導かれる。
そういうわけで「律法の**を守らなければ救われない」と言うのは、的外れである。

しかし律法は当然良いもので、律法を守るなら律法における守りによってその人は守られ、律法のもたらすあらゆる祝福を享受できる。
ただし、救いの条件は律法ではなく、イエスキリストを信じる信仰である事に変わりは無い。
イエス様は律法を成就するために来た。(マタイ5:17)
イエス様を信じることによって、律法も神の要求も全て全うされたイエス様のいのちが、私達のいのちに適用されるのだ。

律法を成就されたイエスキリストといのちを共有する者として相応しく歩む皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!

最近、Facebookを始めました。
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礼拝説教メッセージ音声:そのいのち、リアル以上。(使徒14:19-28):右クリックで保存
韓国語通訳有 한국어예배

パウロ達を神々にしてしまったリュストラの住民は、今度はパウロを石打にしてしまった。
その町にはもちろん、イエス様にしっかり繋がった者達はいたが、パウロに石を投げた者達は、心定まらない者達だった。
ギリシア神話は最近のファンタジー小説や映画と良く似ていて、平凡な日常を捨てて奇想天外な毎日に明け暮れたいとか、大いなるパワーを気ままに振るってみたいとかいったバーチャルリアリティに耽っている者は、いとも簡単にパウロを神にしたり、石を投げる側に豹変してしまったりするのである。
しかしイエス様が与える命は、バーチャルではなくリアルな平安をもたらし、しかも、現実さえも左右されない、超リアルに迫ってくるのである。

リュストラの住民が突然豹変してしまったのは、パウロがそこにいる事を聞きつけたユダヤ人達が遠くからはるばる来て、民衆を扇動したからである。
イエス様はパリサイ人を「改宗者を一人つくろうとして、海と陸を巡り歩くが、改宗者ができると、自分より倍も悪い地獄の子にしてしまう」(マタイ23:15)と言われたが、嫉妬に燃え、あくまで自分を指導者の座に置きたい者の執念は、時にすさまじいものがある。
確かにそのような者の迫害や邪魔もあるが、主の恵みは、それをはるかに上回る。

パウロは石打にされ、死んだものとされ、野の鳥や獣についばまれるままにするために引きずり出されたが、弟子達が集まって取り囲むと、なんと、自らの足で立ち、翌日には50kmほど東のデルベという町にまで行く程、奇跡的な回復を見せた。
普通、石をぶつけられたら翌日も翌々日も痛いはずなのに、その痛みも、またユダヤ人に対する恐怖も取り除かれたというのは、驚くべき奇跡である。

パウロはそれまで福音を伝えてきた町々を引き返して「信仰に留まっているように」励ました。
「私たちは神の王国に入るためには、多くの苦難を経なければならない」
苦難は一人ひとりに違うが、それは押しつぶされてお終いというものではなく、脱出の道も癒しの道も用意されており、しかも、人間の感覚では見えていなかった、はるかに大いなる祝福へと導くためのものである。
私達に苦難があるからこそ主からの助けがあり、主からの助けがあるからこそ、主の良さ、主の麗しさ、主の確かさを、日々学んで行く事が出来るのである。

パウロは迫害されたため町から町へと行かざるを得なかったし、石打にさえ遭ったが、主の恵みはそれらをはるかに上回り、敵は、パウロのいのちを奪う事も、福音を邪魔する事にも、失敗した。

イエス様にあって勝利し、決して奪われることの無いいのちと平安に満たされる皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!

なんと、別の信徒の家でも排水溝の詰まりが起こり、そちらの対応に行ってきました。

実は私も、ある姉妹も、別の意味での「詰まりからの開放」を経験しています。

神様は何か、大きな「詰まりからの開放」を私達のために用意されておられるのかもしれません。

礼拝説教メッセージ音声:空想世界から開放されよ(使徒14:8-18):右クリックで保存
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パウロ達はイコニオンにおける石打の謀略を避けるため、その南およそ40kmの異邦人の都市リュストラに入った。
リュストラは異邦人中心の町だったため、メッセージも旧約聖書を紐解いてではなく、天からの雨がもたらす実りなど、異邦人にも日常的に与えられている数々の恵みを通して、まことの神を伝えた。

さて、この町に生まれつき足の利かない男がいた。
パウロはその男に、癒されるに足る信仰があるのを認めると、大声で「自分の足で真っ直ぐに立ち上がりなさい」と言った。すると、彼は躍り上がって歩き出した。
パウロの声や演説に不思議な力があって癒されたのではなく、彼が伝えていた「イエスキリストの御名」に力があり、その男は信仰を持って聞き、行ったからこそ、癒されたのである。

それを見た民衆はとても驚いて、二人を人間の姿を取った神々と勘違いし、ゼウス神殿の祭司達は彼らに犠牲を捧げようとした。

「使徒たち、すなわちバルナバとパウロは、このことを聞くと、衣服を引き裂いて群衆の中へ飛び込んで行き、叫んで言った、「皆さん、とうしてこんなことをするのですか。私たちもあなたたちと同じ人間にすぎません。あなたたちがこのような空しいものから離れて、天と地と海と、その中のすべてのものを造られた生ける神に立ち帰るように、福音を告げ知らせているのです。」(使徒14:14,15)

福音を伝えた者が、伝えた福音の中身そっちのけであがめられるというのは、実に空しい事であり、衣を引き裂くくらい悲しむべき事である。
牧師や伝道者をあたかも神のように立て、犠牲を捧げる・捧げられる事を良しとする者も世の中にはいるが、御言葉を信じる者の内に働いて良き働きをなさるのはイエスであって、牧師や伝道者ではない。

このイエス様を伝える目的は、架空の存在である偶像に無駄な犠牲を捧げるという「空しい事」から立ち返らせ、より健全な、実体のあるいのちを楽しむようになるためである。
ギリシア神話の神々は人間の姿を取り、人間と接触するのだが、気まぐれによって人に災いをもたらしたり幸いをもたらしたり、ちょっかい出して人間との間に子供をもうけて、それが争いの元になったりと、実に気まぐれでロクな事をしない。
神々や人間が超自然的な力を使って気まぐれで面白おかしいストーリを展開させる神話は、現代の非現実的な物語が展開するテレビや小説、ゲーム等と何ら変わらない。
神話の神々や登場人物になり代わって、空想世界に多大なエネルギーやお金という「犠牲を捧げ」過ぎると、当然不健全になる。

イエスこそいのちの実体であり、彼を信じて御言葉を受け入れる者には、病の癒しや悪霊からの開放、不完全な体が完全にされる事などの、あらゆる良き実を結ばせるようになるのである。
信仰をもって御言葉を語り、良き実をたくさん結ばせ、癒し、開放、勝利を得る皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:心地良さの罠(使徒14:1-7):右クリックで保存
韓国語通訳有 한국어예배

ピシディアのアンティオキアから追い出されたパウロ達は、そこから南東およそ144kmに位置する町イコニオンへ行き、ユダヤの会堂に入ってそこでもイエスを伝えた。
ここでも彼らは大胆に語り、その福音が確かである証拠の徴や奇跡を行い、それによってイエスを信じる者も何人か出た。
にもかかわらず、そこでも反対する者が現れ、陥れられ、別の地方へと出て行かざるを得なくなってしまった。

このイコニオン地方において多くの苦労があり、主の力あるわざがなされ、教会もある程度育ち、これからさらに500人1000人と増えていって欲しかったのが、彼らの気持ちであろう。
それなのに反対され、扇動された民衆に命の危険に遭い、別の地方へと追い出される、と言うのは、人の目からは「失敗」のように見えるかもしれない。
しかし主の御心は、一箇所でキリストの体を肥大化させる事ではなく、各地方に散らばって、キリストの体をぽつぽつと建てていく事である。

福音は、人々を真っ二つに分ける。
「私が地上に平和をもたらすために来たと思うな。平和ではなく、剣である。」(マタイ10:34)
イエスを信じる事によって、神との間には和解が訪れるが、人との間には剣が生まれるかもしれない。
父母は敬い、子は愛し、友人達は大切にして然るべきだが、ことに「イエス様から離れなさい」という言葉だけは、別である。
その時、人間的な思いや愛情が、かえってイエスに敵対し福音を阻害するものとなる。

パウロは元々、パリサイ派の中のエリートだった。
会堂においては、それまで何年も培ってきた彼の得意分野である律法や預言者について語ったほうが受けが良かったであろうし、パウロとしても、そういう働きの方が慣れていて心地良かったかもしれない。
しかし彼は、そんなはかない心地良さよりも「イエスの御名」の方が、肉体的命よりも永遠のいのちの方がはるかに重要だったが為に、イエスの御名による福音を語った。
その結果、彼は大いに用いられ、多くの人達を永遠のいのちへと救う結果となった。

私達ももしかしたら、イエス様の故に、慣れた礼拝形式や勝手知ったる心地良さを、捨てなくてはならない時が来るかもしれない。
今までどおりで勝手を知っていて心地良いけれど、主の為には何の新しいものを生み出さない「A」という道と、今までと経験した事が無く予測不能だけれど、主が促されている「B」という道があるのなら、当然、Bの道を選ぶべきである。
主は福音のために、今まで知らなかった道を歩ませる事があるかもしれない。

主の御心を知り、行い、主の用意された道を歩んで豊かに用いられる皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!

今日は教会の信徒が経営している韓国料理屋で、排水溝が詰まって、詰まりの除去を手伝いに行きました。

食べ物のかすが指の届かない所で詰まって異臭を放っているし、当初はどうしようかと思っていましたが、金属製のロープのような道具を買って使ったら、あっさり除去できました。

霊的排水溝の異臭や詰まりを取り除くには、その人自身がいただいた霊的食物を溜め込む事無く、いつも流し出す事ですね。

新潟グローリーチャペルでの3日間の聖会音声を、以下のURLにて配信しております。

http://voice.of.christ.yokohama/modules/d3blog/details.php?bid=339

この聖会のテーマは「神と人との間に立つ」で、今の日本に対して、また、それぞれ置かれている場において、神と人との間に立つ祭司としての勤めを果たすための、呼びかけのメッセージをしました。

今日は、本国に帰っていた中国の兄弟姉妹達が日本に帰ってきて、久しぶりに礼拝に参加して下さいました。

久しぶりにお会いできて、とても嬉しかったです。

元々、外国人が多く住んでいるこの地域は、地震以降、本国に帰っている人が多かったですが、段々人が戻って来て、活気も戻ってきました。

さらに活発になって、経済も元気になりますように。

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