メッセージ - 201211のエントリ

昼祈祷会音声:11/27, 11/30

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pastor 2012-11-30 23:30

礼拝説教メッセージ音声:主を子孫に語り継げる内容(出エジプト記10:1-11):右クリックで保存

エジプトに降る第8の災いは「いなごの災い」、大量発生したばった類が地を覆うほど群生し、全ての草本類を食べ尽くしてしまう、いわゆる蝗害(こうがい)である。
殺虫剤の普及で近代の日本では見なくなったが、アフリカ諸国など国土が広大で組織的な駆虫が難しい地域では、今でも局地的に発生し、大きな被害を出している。
蝗害はエジプトでも古来から恐れられており、いなごの形をしたお守りを作って大量発生しないよう祈っていた。

『それは地のおもてをおおい、人が地を見ることもできないほどになるであろう。そして雹を免れて、残されているものを食い尽し、野にはえているあなたがたの木をみな食い尽すであろう。』(出エジプト記10:5)
モーセ達はそう告げるとパロのもとを出て行った。かなり強気である。

『パロの家来たちは王に言った、「いつまで、この人はわれわれのわなとなるのでしょう。この人々を去らせ、彼らの神なる主に仕えさせては、どうでしょう。エジプトが滅びてしまうことに、まだ気づかれないのですか」。』(出エジプト記10:7)
ここで家来たちは「この人はわれわれのわなとなる」と言っているが、自分達が災いを被っているのは、あたかもモーセ達によるかのような言い方である。
災いを起こしているのはモーセではないし、モーセが魔術のようなものを使って、イスラエル民族を虐げてきたエジプトに仕返しをしているのでもない。
彼らは気づいていない。自分達が頑なで、神に対して高慢であり、その罪の報いを自分達で受けているのだ、という事を。

パロは家来たちに進言されて、モーセ達を呼び戻して問うた。「行くものはだれだれか」と。
モーセは、老いも若きも、男も女も、羊も牛も、全部だ、と答えたが、パロは怒りを爆発させた。
『それはいけない。あなたがたは男だけ行って主に仕えるがよい。それが、あなたがたの要求であった」。彼らは、ついにパロの前から追い出された。』(出エジプト記10:11)

パロはなぜ、全員が行くのはだめだと言ったのか。
それは、もし全員が出てしまうと、人質になるような人がエジプトに残らず、イスラエルはもう帰ってこない可能性があり、そうなると、エジプトから奴隷仕事をする人が、いなくなってしまうからだ。
結局この期に及んでも、パロはイスラエル人を、奴隷としてこき使う気満々だったのだ。(14:5)
今はたまたま、モーセとかいう新参の魔術師みたいな者に苦しめられているけれど、これが過ぎたら、今まで四百年の伝統に従ってイスラエル人には奴隷仕事をさせて、自分達は楽な生活を続けられだろう、と思っていたのだ。

今回、彼らを頑なにしたのは、神だったと1節に書いてある。そして、神が彼らを頑なにした理由は、神がエジプトに行ったしるしを、子や孫に語り伝えるためだった。(2節)
神がどういうお方であるかを、子々孫々に語り継げる・・・その語り継げるべき内容には、自分達もパロのように頑なになって主を恐れず、主の御言葉にそむくようになるなら、エジプトに諸々の災いが下ったように、自分達にも災いが降る、という事も、含まれている。

『もし、あなたが、この光栄ある恐るべき御名、あなたの神、主を恐れて、この書物に書かれてあるこのみおしえのすべてのことばを守り行なわないなら、主は、あなたへの災害、あなたの子孫への災害を下される。大きな長く続く災害、長く続く悪性の病気である。主は、あなたが恐れたエジプトのあらゆる病気をあなたにもたらされる。それはあなたにまといつこう。』(申命記28:58)
「主は、エジプトの腫物と、はれものと、湿疹と、かいせんとをもって、あなたを打ち、あなたはいやされることができない。」(申命記28:27)

神はやさしい方だと思って、何でもかんでもやりたい放題やっても、いつまでも赦してくれると勘違いしている”クリスチャン”もいるが、そのような人は、主の日が盗人のように来た時、主の御前に立ちおおせない。
私達はキリストにあってアブラハムの子孫である。しかし、そうだと言って安住してはならない。
神は石ころからでもアブラハムの子孫を起こす事の出来るお方であり、神の民と言えど、神を恐れなくなり頑なさを続けていけば、滅びてしまうからである。

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
礼拝がつまらない人のために(ネヘミヤ記8章):右クリックで保存

礼拝を喜びに満ちたものとするために

【概要】

ネヘミヤ記8章から、イスラエルの民が律法の朗読を通して大きな喜びを得た出来事を学びます。礼拝が喜びとなるための鍵は、自ら積極的に御言葉を慕い求め、理解しようと努める心にあることを教えています。

【聖書箇所】

  • ネヘミヤ8:1-18

  • レビ23章

  • 第二歴代誌8:12-13

【励ましの言葉】

御言葉を心から慕い求め、理解しようと努める人は、年数に関係なく急速に霊的に成長し、キリストの似姿へと近づいていきます。礼拝の時間は、主を求める心があれば、喜びで満ち溢れた時間となります。

【勧めの言葉】

礼拝において受け身の姿勢ではなく、御言葉を理解しようと積極的に努めましょう。御言葉に対して敬意を持ち、心を尽くして主を慕い求めることで、礼拝は喜びの場となります。

【悔い改めの促しの言葉】

イエス様が私たちの罪のために命を投げ出してくださったことを深く理解するとき、自分の罪を悲しみ、悔い改めることが必要です。悲しみと悔い改めを経験した人こそ、その後の喜びがより深いものとなります。

【***詳細***】

今日のメッセージは、礼拝が楽しくないという方向けに、礼拝がどうすれば楽しくなるかというお話です。ネヘミヤ記の8章を見ていきます。ネヘミヤ記8章全体を見るのですが、まず8章の終わりの方は、非常にこのイスラエルの民の喜びで終わっています。それは8章全体の出来事があったからです。

ネヘミヤ8章1節から3節をお読みします。

「民はみな、一斉に水の門の前の広場に集まってきた。そして、彼らは、主がイスラエルに命じたモーセの律法の書を持って来るように、学者エズラに願った。そこで、第七の月の一日目に、祭司エズラは、男も女も、すべて聞いて理解できる人たちからなる集団の前に律法を持ってきて、水の門の前の広場で、夜明けから真昼まで、男や女で理解できる人たちの前でこれを朗読した。民はみな、律法の書に耳を傾けた。」

まず、礼拝が楽しく、喜びで満たされたものとなるためのコツは、早速1節の方からあります。民は皆、一斉に、これは直訳すると「一人の人のように」水の門の前の広場に集まってきたとあります。そして彼らは、律法の書を持ってくるように学者エズラに願ったとあります。これは学者エズラという大先生が立って、そしてイスラエルの人たちに「聞け、集まれ、そしてみんな座って聞け」というふうに言ったのではなくて、民自ら集まってきたんです。一斉に一人の人のように。そして「どうか主がイスラエルに命じた律法の書を持ってきてください」と願ったんです。

ちなみにこのエズラという学者、彼は祭司であり、このネヘミヤ記の直前の書、エズラ記にその活動が記されています。このエズラという学者であり祭司は、律法に非常に精通しており、そして、このネヘミヤより少し前に、このエルサレムに到着しました。そしてエルサレムの民を清めました。律法の書を一生懸命聞かせて、そして神は何を喜ばれ、何を嫌われるかということを民に告げ知らせて、それでイスラエルの民がこのカナン人の人たちと結婚をしてしまっているということを聞いて、非常に悲しんで、そしてその民の清めを断行しました。すなわち、民の中から異邦人と結婚してしまった家族を離婚させ、また、その異邦人たちをエルサレムの中から追放して、そして、すでに子どもが生まれてしまった、異邦人との間に子どもが生まれてしまったら、それを切り離す、自分の民から追い出すということをしました。

それは、神様の御教えに異質のものが混ざってはならないから。それで、そこから異邦人の教えを持つ女やまた子供たちをそこから切り離すことによって、そして悲しみが当然止まります。そこまでしなくていいんじゃないかという意見もありました。でも、あえて断行しました。それによってこのイスラエルは清められて、そして主に喜ばれるものとなっていったのです。

そこでこのネヘミヤが来て、この城壁が完成した後に、この第七の月一日目に祭司エズラは、男も女もすべて聞いて理解できる人たちからなる集団の前に律法を持ってきて、そしてこの水の門の前の広場で、夜明けから真昼まで朗読をしました。この第七の月の一日、これはイスラエルの中では、身を戒めて清めをする集会の日になっています。第七の月の一日ですけど、ラッパを吹き鳴らして、そして死を記念する祭りの日です。この日に、このエズラに願って、それでこの律法の書を朗読させました。

このエルサレムの城壁が完成したのが第六の月の25日のことですので、それから5日ぐらい後のすぐ後ですね。エルサレムの城壁が完成したすぐ後です。早速、民は律法を朗読して、神様が喜ばれることは何か、神様が嫌われることは何かを求めたんですね。民自らです。

まず礼拝が喜びと楽しみになるコツのその1。皆さんの方から自主的に律法の書を慕い求めて、同じく神の御言葉、イエス様の御言葉を下に求めて、そしてそれを聞く耳を持つということです。

3節の方を見ますと、夜明けから真昼まで男や女で理解できる人たち、これは少なくとも国語能力がある高校生以上の人たちです。彼らがそれを夜明けから真昼まで、結構長い時間です。第七の月といえば9月です。太陽暦で言えば。結構日が長いんですけども、もう8時間ぐらいですね。その律法の書をずっと立って、それを聞いて耳を傾けていたんです。それはそれほど長い時間ですけれども、しかし民は疲れませんでした。あっという間だったんです。

律法の書を聞き入って、それをよく噛み締めて味わっている時間は楽しくて仕方がないのです。皆さんも聖書の学び会が2時間、3時間と続くので、ある人はとても潤っているのに、別の人は3時間も長い間座り続けている。そういうことがたまに起こるのですが、その違いは、御言葉を慕い求めているかどうか、御言葉を喜びとしているかどうかです。

心の置き所を御言葉じゃないところに置いている2時間3時間の礼拝というのは苦痛以外の何物でもないですよ。眠くて眠くて仕方がない。コツは、重い心を御言葉、イエス様に向けずに自分の考えやこれかれに向けること。そしたら、礼拝という時間は早く終わらないかなという、そういう苦痛以外の何者でもなくなります。

でも、イエス様を慕い求めて、御言葉を知りたい、もっとその御言葉の奥義を、奥深いところを知りたいと願う人にとっては、たとえ早朝から真昼までずっと礼拝だったとしても、それはあっという間なんです。礼拝が終わった後は、潤っているんですね。そういうふうにもなるでしょう。感動して。そういうふうになるんです。

5節から8節まで。

「エズラはすべての民の前でその書を開いた。彼はすべての民より高いところにいたからである。彼がそれを開くと、民はみな立ち上がった。エズラが、大いなる神、主をほめたたえると、民はみな手を挙げながら、アーメン、アーメンと答えて、ひざまずき、地にひれ伏して主を礼拝した。」

この絵面が、まず民の高いところに、そして律法の書を広げました。当時はスクロールで巻物状だったんですけど、それを律法の書、御言葉を広げると、まず民は皆立ち上がりました。御言葉に対して、それなりの礼儀を尽くしているんですね。カトリックの教会というのは、礼拝の説教の時、御言葉が開かれる時は、その司祭が建物の上の方の階のバルコニーみたいなところでその御言葉を広げるんですけども、ちょうどそんな感じで、そしてそこに集まってくる人たちは起立して、そして見上げる形でその神さまの御言葉を仰ぎ望むんですけども、ちょうどそういう感じで、御言葉に対しての敬意を持っているんです。

御言葉への敬意を持っているのであれば、礼拝中は楽しみ、喜びとともに、また厳かな雰囲気、それを慎んで聴こうというその真剣さが生まれるわけです。そしてエズラは御言葉を朗読していくんですが、この学者エズラは、その朗読していくうちに大いなる神、主をほめたたえざるを得ない場面が何度かあったみたいですね。エズラは御言葉を朗読するうちに主をほめたたえました。すると民はみんな手を挙げながらアーメン、アーメンと答えました。このように朗読する人とまた民とが一つの一人の人みたいになって主を礼拝し、主を喜び、主をほめたたえるんです。そのような幸いな時だったわけですね。

7節。

「ヨシュア、バニ、シェレベヤ、ヤミン、アクブ、シャベタイ、ホデヤ、マアセヤ、ケリタ、アザルヤ、ヨザバデ、ハナン、ペラヤなど、レビ人たちは民に律法を解き明かした。その間、民はそこに立っていた。彼らが神の律法の書をはっきりと読んで説明したので、民は読まれたことを理解した。」

この特に8節の方で「律法の書をはっきりと読んで説明したので、民はそれを理解した」とありますね。礼拝中は、単に受け身だけの姿勢では本当につまらないです。あっという間に眠くなってしまいます。でも、理解しようとして、そしてその説明を聞き入るのであれば、それが楽しみになっていきます。

皆さん、教会にある人はもう何十年単位で通っている、ある人は通ってまだ一年も経っていない、そういう状況かもしれないですけれども、しかし、年数は関係ないんですよ。御言葉をはっきりと聞こうとして、説明を聞いて、理解しようと努める人、そういう人はあっという間に成長していきます。あっという間に何十年か通い詰めた人の霊性を追い抜いて、ますますキリストの似姿へと近づいていきます。これは皆さんが体だけこの場にいるということには、それは一切関係がないんです。

身体だけいる人が礼拝という場にいなくてもよろしい。むしろ、御言葉を理解しようと努め、御言葉を聞こうと努める人にとっては、そこは喜びの場、潤いの場になり、本当に時間が経つのをあっという間に忘れてしまうほどのものなんです。

このエズラは、第七の月一日にこの律法を朗読して、そして民はそれを心から聞きたいと慕い求めてきました。9節からお読みします。

「総督であるネヘミヤと、祭司であり学者であるエズラと、民に説き聞かすレビ人たちは、民全部に向かって言った。『今日は、あなたがたの神、主のために聖別された日である。悲しんではならない。泣いてはならない。』民が律法のことばを聞いたとき、みな泣いていたからである。さらに、ネヘミヤは彼らに言った。『行って、上等な肉を食べ、甘いぶどう酒を飲みなさい。何も用意できなかった者には、ごちそうを送ってやりなさい。今日は私たちの主のために聖別された日である。悲しんではならない。主を喜ぶことが、あなたがたの力だからだ。』レビ人たちも民全部を静めながら言った。『静まりなさい。今日は神聖な日だから。悲しんではならない。』こうして民はみな、行って食べたり飲んだり、ごちそうを送ったりして、大いに喜んだ。これは、彼らが教えられたことを理解したからである。」

アーメン。ここで、民は涙を流して泣いています。なぜでしょうか。この涙は悲しみです。ネヘミヤもレビ人も悲しんではならないと命じています。彼らは悲しかったんです。御言葉を聞いた時。ということは、自分たちに身に覚えがあることをどんどんどんどん聞かされていったからです。

いつだったか、申命記の二十何章でしたか、呪いの箇所がありましたね。祝福と呪いの箇所。で、その呪いの箇所を朗読するだけでも10分15分かかりました。それほど長かったんですけども、その中に書いてあります。もし心を頑なにして御言葉に聞き従わないのであれば、これこれの災いに遭う。あなたがたは籠も、こね鉢も呪われて、あなたが一つの道で敵を攻撃しようとしたら、七つの道から逃げ去るようになる。もしそういう災いにあっても、なお聞き従わないのであれば、さらに恐ろしい災害に遭い、あなたの息子娘たちは囚われ人となって連れて行かれる。それでも聞き従わないのであれば、あなたの母親たちは息子娘たちを煮て焼いて食べるようになる。

そこまで書いたんですよ。律法では、モーセの律法の書で。モーセの時代でさえ、主はそういうふうにあらかじめこうなればこうなるという呪いを示されていたんですが、しかしイスラエルの民は心を頑なにして聞き従わず、自分のやりたい放題やって、そして呪いを身に受けて、すべての呪いをイスラエル人は葬儀に受けてしまったのです。

このネヘミヤ記の時代はバビロン捕囚の後の時代です。要するに敵国に捕らえられ移され、エルサレムが焼き滅ぼされて、城壁も壊されて、その後の時代にこの律法の書を改めて朝から昼間までずっと聞いていた。イスラエル人はどれほど身につまされたことでしょうね。もうモーセの時代、はるか先祖の時代からずっと主はそのように言っておられた。しかし私たちの先祖たちはそれを聞き従ってこなかった。まさに主が言われた通りだ。主は正しかった。私たちが間違っていた。それで彼らは泣いていたのです。彼らには悲しみがありました。

悲しみがあるというのは、それは良いことです。それは自分が何をしたかを理解しているか、そして自分の罪があるということを理解したからです。皆さんは主に救われたということがどれほど喜びであり、自分の罪を見たときどれほど悲しい思いをしているでしょうか。イエス様を知れば知るほど、感情が湧き起こってきます。喜びの感情、悲しみの感情、それらが湧き起こっていない人は、まだまだ理解が浅いということです。

イエス様は皆さんの罪を負って身代わりになって死んでくださって、そして皆さんの罪はチャラにされました。それを聞いたとき、ああ、ラッキーラッキーって鼻くそほじりながら、ああ、俺ラッキーだったんだ、へえ、っていう態度でいれる人は理解が浅いということですね。イエス様の痛み、イエス様の受けた屈辱、命を投げ出すほどの愛。それを聞いた時には私たちは感情が沸き起こってくるべきなんです。人間であるからには。

このメッセージの前に河合さんがある子供と母親の話をしましたね。母親の顔にありありと火傷の傷跡が残っている。その娘はその母親を世界一の美人だと先生や友達に紹介していた。母親が娘を火事から救うために火傷を負って、女性の顔に醜いその焼け跡を残した。娘はその母親を、ああラッキーラッキー、私命が助かったもんね、なんていうことだったら、皆さんはたたきたいですね、そういう娘だったら。

イエス様は、皆さんの命を救うために命を投げ出されたのです。なんで鼻くそほじりながらラッキーラッキーみたいなそんな態度でいれるでしょうね。主は。私たちは自分の罪を悲しむべきなのです。自分のそれまで行ってきた頑なさを恥じ入り、悲しみ、そして悔い改めて、そうして初めて喜びが来るのです。

信仰生活に何の喜びを見出せないという人は、まずその逆の悲しみを味わうべきなんです。悲しみを味わい、悔い改めを経験した人こそ、その喜びが深いものになる。その味わいがますます深くなっていくんです。この律法を読んだ、朗読を聞いた民は泣きました。悲しみました。でも、このネヘミヤもレビ人たちも言います。今日は神聖な日だ。祭りを祝う日だ。悲しんではならない。泣いてはならない。むしろ上等な肉を食べなさい。むしろ甘いぶどう酒を飲みなさい。そして何も用意できなかった貧しい人にはそのご馳走を送ってやって、そして共に喜びなさいと言いました。これが主の民の受ける喜ばしき分です。この祭りの日、非常に喜びが湧き起こったはずです。

12節。

「こうして民はみな行き、食べたり飲んだり、ごちそうを送ったりして大いに喜んだ。彼らが教えられたことを理解したからである。」

そうです。理解すること。これが大事です。ですから、御言葉と相対する時は、理解しようと努めること。それが大事です。理解したなら、普通の感覚を持った人間であるならば、悲しみが沸き起こることもあるでしょう。痛みが沸き起こることも、喜びが沸き起こることもあるでしょう。そうして、ますます主の奥深さ、主のその大いに偉大なお方であることを、ますます私たちは理解していくのです。

13節以降をお読みします。

「2日目に、すべての民の一族の頭たちと、祭司たち、レビ人たちは、律法のことばをよく調べるために、学者エズラのところに集まってきた。こうして彼らは、主がモーセを通して命じた律法に、『イスラエル人は第七の月の祭りの間、仮庵の中に住まなければならない』と書かれているのを見つけ出した。これを聞くと、彼らは自分たちのすべての町々とエルサレムに次のようなおふれを出した。『山へ出て行き、オリーブ、野生のオリーブの木、ミルトス、ナツメヤシ、また枝の茂った木などの枝を取ってきて、書かれている通りに仮庵を作りなさい。』そこで民は出て行って、それを持って帰り、それぞれ自分の家の屋根の上や庭の中、また、神の宮の庭や水の門の広場、エフライムの門の広場などに、自分たちのために仮庵を作った。捕囚から帰ってきた全集団は仮庵を作り、その仮庵に住んだ。ヌンの子ヨシュアの時代から今日まで、イスラエル人はこのようにしていなかったので、それが非常に大きな喜びであった。神の律法の書は最初の日から最後の日まで毎日朗読された。祭りは七日間祝われ、八日目には定めに従って聖なる集会が行われた。」

この第七の月は非常に祭りが多い月でした。それはレビ記の23章の方にあるのですが、まず第七の月の第一日目は、先ほども言いました通り、ラッパを吹き鳴らして記念する聖なる会合の日で、そして第七の月十日は聖なる集会、身を戒めて、そして民の贖罪をする日です。そして第七の月の15日は、仮庵の祭りが行われます。仮庵の祭りを行って、そして7日間毎日集会があり、第8日目は聖なる会合をして聖なる集会を行うという、そのレビ記の23章の記述があって、ここが朗読されたんですね。祭司エズラによって。

それを聞くと、このエルサレムの住人はこぞってその通りに、やりなさいというお触れが出されます。それは、長らくこのイスラエル民族の地から断たれていた祭りでした。なんと17節、「ヌンの子ヨシュアの時代から今日に至るまで、イスラエル人はこのようなことをしていなかった」。あれ本当だったかなと思って、聖書を検索してみたところ、確かに記述がないんですね。仮庵の祭りを行ったって。唯一ヒットしたのが、歴代誌の8章のソロモンの時代ですね。第二歴代誌の8章のちょうど自分の宮殿が建て終わった時のその時。第二歴代誌の8章12節と13節。

「それからソロモンは、彼が玄関の前に建てた主の祭壇の上に、主のために全焼のいけにえをささげた。すなわち、モーセの命令通りに毎日の日課によりこれをささげ、安息日ごとに、新月の祭りごとに、年三回の例祭、すなわち種を入れないパンの祭り、七週の祭り、仮庵の祭りごとにこれをささげた。」

ついでに「ついでに仮庵の祭り」という言葉が出てきたような、そういう感じですね。ソロモンが宮殿を建てた時、それは非常に豪勢な時代でした。主の神殿に捧げられるその牛や羊たち、それはもう数えきれないほどだったから、特別に庭を聖別して、そこ全体で生贄を焼いたほど、物に富んでいる、そういう時代でした。ソロモンの時代は。でもそこに心はなかったようですね。見かけは豪勢。でも心がなかったのです。ソロモンの時代に、ソロモンはさっさと別の国に走ってしまいました。

ヨシュアの時代、その時代は、本当に民の心はまだ主に対して、主を恐れて主に対して真っ直ぐだったのですが、でもそのヨシュアのすぐ後の時代、士師記の時代からイスラエル民族は自分勝手なことをし出すようになってしまいました。その時からずっとこの仮庵祭は断たれていたのです。形式上は行われていたのですが、しかし、ここに書いてあるような、民が自分の屋根の上や広場やそういったところに仮庵を作るということを、そこまで真剣にしていなかったのでしょうね。

しかし、この17節の文を見ますと、「このイスラエル人、ヌンの子ヨシュアの時代から今日までイスラエル人はこのようにしていなかったので、それは非常に大きな喜びであった」とあります。まだこのエルサレムの城壁が再建し終わってから1ヶ月も経っていないような、そういう時期に行われた仮庵祭です。それは本当にソロモンの時代から見れば質素な、粗末な、急いで作ったかのような粗末なものだったかもしれないのですが、しかし、大きな喜びがありました。主の御言葉を守った。忠実に行った。そこには喜びがあるんです。そこは別にゴージャスでなくても、喜びというのは沸き起こるんです。心があるのであれば。

人は祝福を求めます。富を求めます。健やかさを求めます。ゴージャスさを求めます。しかし、大切なのは主に向かう心です。真剣に主を求める心があるのであれば、その祭りは非常に喜ばしいものとなります。きっと仮庵祭、野に出て行って、木の枝を集めて、それを自分の庭とか屋根の上とかに小屋を作って、そこに寝て、イスラエルの民が仮の宿に休んでいた時期を思い巡らす、そういう祭りだったんですけど、きっと廃れていってしまったのは、何かそこまで堅苦しくやらなくていいじゃんっていう、そういう思いだったのかもしれない。

しかし、そうした思いを捨てて、たとえ世の人から見れば、堅苦しくてそこまでしなくていいんじゃないみたいなところを、あえて主のゆえに守りを行うところに喜びが湧き起こるんです。こうして、この第七の月、このイスラエルの民にとっては特別な、ささやかですけども、しかし喜びに満ちた、そして、祭りの期間を送ることができました。それは、自ら積極的に御言葉を慕い求める心があったからです。また、御言葉に対する畏敬の念、恐れがあったからです。そして、何が神様に喜ばれ、何が悲しまれ、何が憎まれるのか、その律法を読んだ時に、何が悲しまれ、何が憎まれるのか。心に悲しみが起きたからです。悲しみがあったから、そこには悲しみがなくなり、逆に喜びが湧き起こるのです。

礼拝という心を尽くして、思いを尽くして、主を慕い求める。そこには主からの喜びが湧き起こるのです。礼拝がつまらないという人は、どうか心から主を求めて礼拝に臨んでみてください。そうしたら喜びで満ち溢れる礼拝の時間がとても楽しいものになります。どうか礼拝を喜びに通し、ますます神様から祝福をいただいていく皆さんでありますように。イエス様のお名前によって祝福いたします。

【結論】

礼拝が喜びとなるための鍵は、自ら積極的に御言葉を慕い求め、理解しようと努める心にあります。御言葉に対する敬意を持ち、自分の罪を悲しみ、悔い改める時、そこから真の喜びが湧き起こります。ネヘミヤの時代の民のように、心を尽くして主を求めるならば、たとえ質素であっても、礼拝は喜びに満ち溢れた時間となるのです。

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
1ヨハネ3:10-16:右クリックで保存

礼拝説教メッセージ音声:第七の災い-雹(出エジプト記9:22-35):右クリックで保存

『主はモーセに言われた、「あなたの手を天にむかってさし伸べ、エジプトの全国にわたって、エジプトの地にいる人と獣と畑のすべての青物の上に雹を降らせなさい」。モーセが天にむかってつえをさし伸べると、主は雷と雹をおくられ、火は地にむかって、はせ下った。こうして主は、雹をエジプトの地に降らされた。』(出エジプト記9:22)

今回以降の3つの災いは、モーセ自らが杖を動かして災いが降るようにしている。
この時モーセは、もはやパロに対する怖気は無く、神の代理人としての余裕と、その穏やかな口調に貫禄と気品が見える。
神はモーセの過去のトラウマを癒し、人の頑張りでは決して出来なかった事をもさせて下さった。
同じように主は、私達が過去受けた傷を癒し、解放し、権限を委任された使徒として私達を用いて下さり、余裕と気品で飾らせて下さるのだ。

『そして雹が降り、雹の間に火がひらめき渡った。雹は恐ろしく大きく、エジプト全国には、国をなしてこのかた、かつてないものであった。』(出エジプト記9:24)
かつて無かったほどの雹の災いは、黙示録にも登場する神の裁きである。(8:7,16:21)

この災いの前日、モーセは予めアドバイスをしていたが、それに従った者は災いを免れ、そうでない者は災いを受けた。
そして神は、またもイスラエルを区別され、イスラエル人の住むゴシェンの地には雹は降らなかった。
このように主は、御言葉に従う人と従わない人、神の民とそうでない人、さばきを免れる人とさばきを受ける人の区別を、明確にされる。

『そこで、パロは人をつかわし、モーセとアロンを召して言った、「わたしはこんどは罪を犯した。主は正しく、わたしと、わたしの民は悪い。主に祈願してください。この雷と雹はもうじゅうぶんです。わたしはあなたがたを去らせます。もはやとどまらなくてもよろしい」。』(出エジプト記9:27-28)
パロは言う。「こんどは罪を犯した」と。
「こんどは」と言うからには、裏を返せば、今まで彼の頭の中では、パロが正しくて、モーセ達と神が間違っていたわけである。
このように、頑なな者の特徴とは、自分は正しくて、自分の望む通りに動かない周りや神のほうが間違っている、とする事である。

パロが「わたしはこんどは罪を犯した。主は正しく、わたしと、わたしの民は悪い。主に祈願してください」と言ったのは、激しい雹が降っている最中だった。
しかしモーセには分かっていた。「あなたとあなたの家来たちは、なお、神なる主を恐れないことを、わたしは知っています」(30節)

「亜麻と大麦は打ち倒された。大麦は穂を出し、亜麻は花が咲いていたからである。小麦とスペルタ麦はおくてであるため打ち倒されなかった。」(31-32節)
主は憐れみ深く、いきなり再起不能な一網打尽は、なさらない。
主から懲らしめを受けた時は、自分が滅ぼし尽くされなかった事を感謝し、主に立ち返るのが正しい作法であるが、パロとその家臣たちは、そうではなかった。

『ところがパロは雨と雹と雷がやんだのを見て、またも罪を犯し、心をかたくなにした。彼も家来も、そうであった。すなわちパロは心をかたくなにし、主がモーセによって語られたように、イスラエルの人々を去らせなかった。』(出エジプト記9:34-35)
株で身を滅ぼす人のパターンは、大きな損をした時に、自分にはまだあれが残っている、これを保持していれば必ずいつか巻き返す、など、根拠なき希望を頑なに持ち続けて、手放すべきものを手放さず、結局、何もかも失ってしまうものだが、パロとその家臣たちは、その滅びの行動パターンに陥り、ますます頑なになってしまったのである。

『また、一タラントほどの大きな雹が、人々の上に天から降って来た。人々は、この雹の災害のため、神にけがしごとを言った。その災害が非常に激しかったからである。』(黙示録16:21)
私達は雹の災いを受ける人を見て、あたかも対岸の火事を見るのように、どうしてそこまで頑なになれるのかと第三者的に思うかもしれないが、人は結構、自分がこの頑なさに陥っている事が、わからないものである。

「なぜ親はあんなに厳しく、うるさく、しつこく自分を罰するのか」と思った事はあるだろうか。
それは自分が周囲に、厳しく、うるさく、しつこく迷惑を振りまいていたからに、他ならない。
頑なな者はいつもそのように、罪ある自分に気付かないまま、主から罰を受ける。

私達は災いを受けた時、自分を省みるべきである。
主は、自分の咎を悔いた人をあわれみ、労苦に報い、祝福の将来を与えて下さるお方である。(エレミヤ31:15-22)

礼拝説教メッセージ音声:主が忌み嫌われる者:高ぶる者(出エジプト記9:13-21):右クリックで保存

『主はモーセに仰せられた。「あしたの朝早く、パロの前に立ち、彼らに言え。ヘブル人の神、主はこう仰せられます。『わたしの民を行かせ、彼らをわたしに仕えさせよ。』(出エジプト記9:13)
既に幾度も聞いている言葉だが、頑なな心には、幾度同じ言葉を言っても自分を曲げないものである。
ここまで幾度も主が同じ事を命じられているのに、ことごとくそれを反故にし、その度に災いが下されて来たのに、なお主に従う事の出来ないパロの頑なさを見る時、私達も、そのような頑なさ、すなわち「災いに遭いやすさ」が自分の内に無いか内省し、そのような性質を悔い改め、そうならないよう気をつけるべきである。

『今度は、わたしは、あなたとあなたの家臣とあなたの民とに、わたしのすべての災害を送る。わたしのような者は地のどこにもいないことを、あなたに知らせるためである。わたしが今、手を伸ばして、あなたとあなたの民を疫病で打つなら、あなたは地から消し去られる。』(出エジプト記9:14-15)
主はいつでもエジプトを疫病で打って消し去る事は出来る。
しかしそれをあえてなさらないのは、彼らの内に一人でも主を恐れる人が起こされ、主の素晴らしさを多くの人が仰ぎ見、救われるためであり、主を恐れる人には主は憐れみ深く敵に対しては力強いお方である事を、世にあまねく知らせるためである。

主は、エジプトに災いが次々と下る根本原因を、パロに示された。
『あなたはまだわたしの民に対して高ぶっており、彼らを行かせようとしない。』(出エジプト記9:17)
エジプトに災いが次々と下る根本原因、それは、「高ぶり」である。

パロからすれば、イスラエルの民は奴隷として当然のように働くべきであり、自分はいつでも彼らを滅ぼせる立場にある、と思っており、事実、主の助けが無ければそうかもしれない。
キリスト者も基本やさしいために、世の人は威張り散らすかもしれないし、もし主がついていなければ、たちまち滅びてしまうような者かもしれない。
しかし真実な所、主は不信仰で頑なな者たちを、逆にいつでも滅ぼせる立場におり、一人でも多くが不信仰や頑なさを捨て、主に立ち返って救われて欲しいと、憐れみつつ忍耐しておられるのである。

主が最も忌み嫌われる罪、それは「高ぶり」である。
サタンはこの「高ぶり」によって地に投げ落とされた。
『黎明の子、明けの明星よ、あなたは天から落ちてしまった。もろもろの国を倒した者よ、あなたは切られて地に倒れてしまった。あなたはさきに心のうちに言った、『わたしは天にのぼり、わたしの王座を高く神の星の上におき、北の果なる集会の山に座し、雲のいただきにのぼり、いと高き者のようになろう』。しかしあなたは陰府に落され、穴の奥底に入れられる。』(イザヤ14:12-15)

サタンの基本的性質は、自らを高くし、神のようになろうとする事、そして、自分を神よりも高く置こうとする事である。
アダムとエバも「神のようになれる」という誘惑に陥って、結局エデンの園から追い出されてしまった。
この「神のようになろう」「高くなろう」るという高ぶり、それこそサタンの性質であり、アダムやエバだけでなく、多くの人類がそれによって呪われてしまい、滅びを招き入れてしまった。

『さあ、今度は、あすの今ごろ、エジプトにおいて建国の日以来、今までになかったきわめて激しい雹をわたしは降らせる。それゆえ、今すぐ使いをやり、あなたの家畜、あなたが持っている野にあるすべてのものを避難させよ。野にいて家へ連れ戻すことのできない人や獣はみな雹が落ちて来ると死んでしまう。』」』(出エジプト記9:18-19)
ここに主の憐れみ深さがある。
パロの頑なさの故に、エジプトに災いが決定してしまった時も、パロ以外の臣民が救い出されるようにと道を示された。

『パロの家臣のうちで主のことばを恐れた者は、しもべたちと家畜を家に避難させた。しかし、主のことばを心に留めなかった者は、しもべたちや家畜をそのまま野に残した。』(出エジプト記9:20-21)
主を恐れ、主の御言葉に従った者は救われ、損害を出さないで済んだが、そうでないものは、災いに遭い、損害を受けてしまった。

聖書のはじめから終わりまで、主が一貫して語っておられる事は、結局そこである。
主を恐れ、主の御言葉に従う人は救われ、祝福を得るが、主を軽んじ、御言葉に従わない者は、救いを得ず、呪われてしまうのだ。

礼拝説教メッセージ音声:イスラエルの盾となる主 - 第五,第六の災い(出エジプト記9:1-12):右クリックで保存

エジプトに降る第五の災いは、家畜の疫病である。
『主の手は最も激しい疫病をもって、野にいるあなたの家畜、すなわち馬、ろば、らくだ、牛、羊の上に臨むであろう。』(出エジプト記9:3)
馬、ろば、らくだは物を運搬する動物で、また牛と羊は重要な聖獣である。
主は今回、エジプトの財産と物流、そして神々を打たれたのだ。

主は今回も災いの時を予め定め、その通り実行し、また、エジプトとイスラエルを明確に区別された。
『あくる日、主はこのことを行われたので、エジプトびとの家畜はみな死んだ。しかし、イスラエルの人々の家畜は一頭も死ななかった。パロは人をつかわして見させたが、イスラエルの家畜は一頭も死んでいなかった。それでもパロの心はかたくなで、民を去らせなかった。』(出エジプト記9:6)
主は予告した通りの災いを降し、エジプトとイスラエルの民を区別された。それ程鮮やかにしるしを行ったのに、パロはなお、心頑なにした。

続く第六の災いは、うみが出る腫物の災いで、ぶよの災いの時同様、パロの目の前で明示的に実行した。
『主はモーセとアロンに言われた、「あなたがたは、かまどのすすを両手いっぱい取り、それをモーセはパロの目の前で天にむかって、まき散らしなさい。』(出エジプト記9:8)

かまどと言えば、イスラエルがまさに奴隷仕事としてれんがを焼いている道具である。
かまどの中からすすを取りだして空中に蒔いた所、それが人や動物、そしてモーセ達に対抗した呪法師にも、腫物の災いを及ぼした。
こうして主は、イスラエルを奴隷として用いていた道具を用い、エジプトの人々にも動物にも、そして神々にも、明示的に報復したのである。
主ご自身が、イスラエルの盾となり、戦っておられるのである。

『しかし、主はパロの心をかたくなにされたので、彼は主がモーセに語られたように、彼らの言うことを聞かなかった。』(出エジプト記9:12)
前の五回の災いが起きた時は、パロ自ら心を頑なにしていたが、今回、はじめて「主が」パロの心をかたくなにされた、という表現が用いられている。
人があくまで主を拒否し、頑なさを続けていると、今度は、主がその心を頑なにされるのだ。
以下、詩篇81篇に記されている通りである。

『わたしが、あなたの神、主である。わたしはあなたをエジプトの地から連れ上った。あなたの口を大きくあけよ。わたしが、それを満たそう。しかしわが民は、わたしの声を聞かず、イスラエルは、わたしに従わなかった。それでわたしは、彼らをかたくなな心のままに任せ、自分たちのおもんぱかりのままに歩かせた。
ああ、ただ、わが民がわたしに聞き従い、イスラエルが、わたしの道を歩いたのだったら。
わたしはただちに、彼らの敵を征服し、彼らの仇に、わたしの手を向けたのに。」
主を憎む者どもは、主にへつらっているが、彼らの刑罰の時は永遠に続く。しかし主は、最良の小麦をイスラエルに食べさせる。「わたしは岩の上にできる蜜で、あなたを満ち足らせよう。」』(詩篇81:10-16)

主は人に、心へりくだって御言葉に従順となり、主の道に歩む事を望んでおられる。
人がその通りにしたなら、速やかにその敵を征服し、最良の小麦と岩の上にできる蜜で道たらせる用意が、主の側にはいつでもできているのだ。

しかし人が頑なになると、どうしても自分の道を捨てたがらず、怒り狂って神にさえ対抗し、けがしごとを言ってしまうものだ。(黙示録16章)
祝福へのもっとも近道は、主に対して心柔らかにし、いつでも御言葉を受け入れる体制でいる事である。
かたくなさは捨て去り、いつも主の御声に従順に聞き従って、いつでも祝福を頂き続けている皆さんでありますように!
イエス様の名前によって祝福します!

信じる者には何でもできる(マルコ9:14-29)
第一礼拝・礼拝全体音声(韓国語通訳有한국어예배):右クリックで保存
第二礼拝・説教音声:右クリックで保存
週報/メッセージ(説教)概要:右クリックで保存

『一同がほかの弟子たちのところに来てみると、彼らは大勢の群衆に取り囲まれて、律法学者たちと議論していた。』(マルコ9:14) 弟子達は、ある父親から子を救って欲しいと、お願いされていた。
その子は幼い時から、言うことも聞くこともさせない霊(マタイ17:15:てんかん)につかれ、何度も火の中や水の中に投げ込まれて来た。しかし、弟子達はその霊を追い出す事ができず、その子は放って置かれたまま、律法学者たちは弟子達に議論を仕掛け、それを大勢の群集が囲んで見ている有様だった。
主は怒られた。「ああ!」「信仰無き世代!」「私はいつまであなた達と一緒にいられるだろう?」「いつまであなた達に我慢しなくてはならないだろう?」「その子を私の所に連れて来なさい」と。
主は怒る。弟子達の信仰の無さを。悪霊を追い出せない事をエサとし、癒すべき子をよそに議論する事を。
悪霊の目的は、人々を真理から背けさせ、物事を混乱させ、人々を互いに主義主張させ、いのちから遠ざける事である。この時まさに、悪霊は高らかに笑っているような状況だったであろう。

主は「いつまであなた達と一緒にいられるだろう」と言われたが、主はやがて天に昇られ、弟子達と面と向かってアドバイス出来なくなった。しかし弟子達は「使徒」となり、大胆に主の働きを為すようになった。
今や私達は、先生と生徒のように、耳で主から具体的なアドバイスを聞いたりは出来ないが、主はいつでもどこでも共におられ、信じる者の信仰を通して働かれ、聖霊によって助けて下さる。
主は、我慢しておられる。私達キリスト者が、見える所によらず、信仰によって実体ある働きを為すまで。
私達はいつまでも、目で見れる「先生」に頼る事から、脱皮しなくてはならない。弟子たちがやがて使徒となったように、私達も信仰によって一人立ちして、主から遣わされた「使節」として働かなくてはならない。
「使徒(apostoros)」とは「職権を委ねられ遣わされた者」という意味であり、「全権大使」「遠征隊」の意味もある。主は私達に職権を委ね、主に代行し使節として働く事を望んでおられる。(2コリント5:20)

『霊はたびたび、この子を火の中、水の中に投げ入れて、殺そうとしました。しかしできますれば、わたしどもをあわれんでお助けください」。』(マルコ9:22)
子がいつも尋常でない言動をして、手を付けられない事が長続きすると、人は癒されるのは無理と思う。
しかも主にさえ「できるものなら」と言ってしまう。皆さんは主に言っていないか?「できるものなら」と。
それはイエス様が最も嫌う、「”不”信仰告白」である。主は言われる。信じる者には、何でも出来る、と。
皆さんも信仰告白すべきである。イエス様にあって、わたしは、何でもできる!と。(ヨハネ14:12)
『イエスは群衆が駆け寄って来るのをごらんになって、けがれた霊をしかって言われた、「言うことも聞くこともさせない霊よ、わたしがおまえに命じる。この子から出て行け。二度と、はいって来るな」。』(マルコ9:25)
私達が使節として権限委託された権威の大元は、この、頑なにもの言わせない霊も、頑なに聞かせない霊も、震え上がって従わざるをえない、全能の父なる神の右に座し、全てを裁かれる主、イエス様である。

「このたぐいは、祈と断食とによらなければ、追い出すことはできない」(マタイ17:21)
親や子、親しい友人などが病的状況に陥って長い時、それが悪霊によるのか、単に病によるのかといった追求は、無用である。大事なのは、「このたぐい」は、追い出し可能という事だ。それも、祈りと断食によって。
皆さんは、親しくしている子や友人、親類が癒されるために、断食、すなわち、自分の好むあれこれを止めて主の御前に出、本気になって祈った事があるだろうか?
断食とは、単に「食べない」事ではなく、今までして平気でしていた悪を止め、人を身勝手に支配して来たそのなわめをほどき、しいたげられた人達を自由の身とする事。人の後ろ指をさす事を止め、つまらないおしゃべりを口から除き、困っている兄弟姉妹や、肉親の世話を誠実にする事である。(イザヤ58章)
そうするなら、あなたの光は闇の中に輝き出で、あなたを包む闇は、真昼のようになる。
主は常に導き、焼けつく地で渇きをいやし、骨に力を与え、潤された園、水の涸れない泉となり、人から「城壁の破れを直す者」と呼ばれるようになる。(同10-12節)
癒すべき子を放って置いたまま神学議論に明け暮れ、大勢の群集が見ていた有様は「断食」とは正反対の有様である。主に喜ばれる断食をし、愛する人の為に本気で祈って取り戻す皆さんでありますように!

礼拝説教メッセージ音声:あぶの災い(出エジプト記8:20-32):右クリックで保存

エジプトに降る第四の災いは、あぶの災いである。
日本語で「あぶ」と訳されている言葉は、ヘブライ語でアロブ、七十人訳では「いぬばえ」、犬などの家畜や人に刺し、刺されると痛みが走る虫で、動物の神々を敬うエジプト人には嫌悪される虫である。

エジプト人の、聖獣といわれる動物への崇敬ぶりは、すごいものがある。
『エジプト人が死守していたベルザの城をペルシャ王カンビセスの大群が久しく囲んで落とせないでいた。智慧の深いカンビセスは、攻撃軍の先鋒に当たる兵士や士官の全部に楯を与える代わりに猫を一匹ずつ持たせた。この、世にも堂々たる進軍が起こされると同時に、城の輿論が決した。エジプト人は猫を殺すくらいなら潔く城を明渡そうと云うのに一致したのだった。』(「猫のいる日々」大佛次郎氏)

今回の災い以降、アロンが杖を差し伸べることではなく言葉で命じる事によって災いが降る。
そして今回の災い以降、主はエジプトとイスラエルを明確に区別され、イスラエルには災いが降りかからないように、特別扱いされた。

神を恐れぬ国の中にいると、その国の中にいる神の民にも災いのとばっちりを受ける事があるが、神は真実なお方であり、その邪悪な国の中に義人が十人いるなら、その国を滅ぼすことはなさらず(創世記一八章)、義人を悪者の集団もろとも滅ぼすような事の無いお方である。

『主はそのようにされたので、おびただしいあぶが、パロの家と、その家来の家と、エジプトの全国にはいってきて、地はあぶの群れのために害をうけた。そこで、パロはモーセとアロンを召して言った、「あなたがたは行ってこの国の内で、あなたがたの神に犠牲をささげなさい」。』(出エジプト記8:24)

パロはモーセの言った要求の一部は許可したが、そこに自分の主張も混ぜ込み、モーセに譲歩させようとした。
しかしモーセはそれには乗らず、自分達は神の要求を何一つ違えるつもりは無くそのまま実行すると主張した。

世は神の民に、色々な手を使って「妥協」を要求して来る。
礼拝するのは主日でなくてもいいではないか、イエスを信じるのは勝手だが私達にイエスを伝えるな、など。
私達は世に妥協して、御言葉をねじまげてはならない。

『こうしてモーセはパロのもとを出て、主に祈願したので、主はモーセの言葉のようにされた。すなわち、あぶの群れをパロと、その家来と、その民から取り去られたので、一つも残らなかった。』(出エジプト記8:30-31)
昨日まで国中に溢れていたあぶの群れが、モーセの言葉のとおり、翌日には一匹も残らずいなくなった。それもまた、すごい奇跡である。
かえるの災いの時、モーセはかえるが絶えるよう主に叫んだが、今回は単に「祈願した」とだけある。それはモーセの主に対する信頼が以前より増したからである。

水を恐れる人が、膝の高さの水でも溺れてしまうのは、水に対する恐れと不安のために、余分な力を入れたり余計なもがきをしてしまうからで、水泳の達人は、水への知識と信頼があるため、無意識的にに力を抜き、必要な力だけを使って、素早い泳ぎができる。
同じように、信仰が発達していない人も、余計な心配や祈りをして、信仰生活が、あたかも莫大なエネルギーを要するかのように見てしまうが、しかし主と共に歩んだ日数の多い信仰の達人は、無意識的にに主を信頼し、余計な力の入った祈祷をせずとも、意識する以前から必要が備えられたりする。

『しかしパロはこんどもまた、その心をかたくなにして民を去らせなかった。』(出エジプト記8:32)
パロは今回、モーセに「私のために祈ってくれ」と言った。
もしもパロがこの時に約束を守っていたら、モーセは約束した通りパロのために祈ったであろうが、残念ながら、モーセが荒野に出てパロのために祈った事は無かった。
なぜなら、パロは更に幾度も心頑なになり、神の前での約束を反故にし、エジプトの初子が打たれてやっとイスラエルの民は荒野へ行けたのに、それでもなおパロは軍隊を遣わして、イスラエルの民を滅ぼそうとし、そこで主はエジプトの軍隊を海に飲み込ませ、そうしてイスラエルは徹底的にエジプトと決別したからである。

今は恵みの時、救いの日である。
とりなし手が祈ってくれる内に主を恐れ、心を頑なにする事を止め、御前にへりくだるべきである。

昨日から新潟の兄弟が来ており、ずっと交わっておりました。

本当は、ある一つの目的のために来られたのに、その目的がクリアになっただけでなく、他にもいくつもの良き御業を主から与えられ、解放と勝利が与えられ、ビジョンが与えられました。

昨日も今日も昼から夜遅くまで交わりや賛美、祈りが続き、今もまだ交わりがずっと続いています。

主が触れられると人は時間を忘れてしまうものです。

他にも昨日、教会の姉妹が長年超える事のできなかった一線を超えることが出来て勝利し、とても興奮しておりました。

「主は、いと高き所から御手を伸べて私を捕え、私を大水から引き上げられた。主は私の強い敵と、私を憎む者とから私を救い出された。彼らは私より強かったから。彼らは私のわざわいの日に私に立ち向かった。だが、主は私のささえであった。主は私を広い所に連れ出し、私を助け出された。主が私を喜びとされたから。」(詩篇18:16-19)

主はまことに良き方、私達を救われ、広々とした良き地へと導かれるお方です。ハレルヤ!

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