メッセージ - 201211のエントリ
礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
種まきと刈り入れ(詩篇126篇):右クリックで保存
礼拝説教メッセージ音声:祭司の一族の成り立ちと責任(出エジプト記6:10-30):右クリックで保存
『モーセは主にむかって言った、「イスラエルの人々でさえ、わたしの言うことを聞かなかったのに、どうして、くちびるに割礼のないわたしの言うことを、パロが聞き入れましょうか」。』(出エジプト記6:12)
モーセは自分が口下手である事を幾度も言っているし、事実この時点、彼の言うとおり、パロだけでなくイスラエルの人々にさえそっぽ向かれてしまっている。
後に彼はエジプトに大きな打撃を与える者として恐れられ、多くの富を伴ってイスラエル民族をエジプトから導き出すのだが、それは、モーセの指導力や雄弁さによるのではなく、ただ神の力強い御腕による事が、誰の目にも明らかになった。
それ故、私達も希望を持つことができる。
事は、人間の願いや努力によるのではなく、あわれんでくださる神によるのだから。(ローマ9:16)
さて、6章16節から25節までは、後の祭司の一族となるレビ族の系図が記されているが、レビ族が祭司族となったその成り立ちは、中々壮絶である。
民がモーセがいない時、ほしいままに振る舞って偶像を作り、座っては飲み食いし立っては戯れた。
それを見たモーセは、イスラエル全体が滅ぼされないために、偶像崇拝をした者たちを剣で殺すよう命じたが、その時、レビ族は自分の子や兄弟達に逆らっても、主に身を捧げ尽くした故に、主によって祭司の一族に任命された。(出エジプト記32:26-30)
このように、自分の血肉や肉親よりも神を優先し、神の命令を優先する者こそ、祭司として任命される者である。
今や、私達は主イエスにあって、人類を執り成す祭司として任命されており、私達も、自分の十字架を負って主についていく事が、求められている。
『するとイエスは人々にむかって言われた、「神の御言を聞いて行う者こそ、わたしの母、わたしの兄弟なのである。だれでも、父、母、妻、子、兄弟、姉妹、さらに自分の命までも捨てて、わたしのもとに来るのでなければ、わたしの弟子となることはできない。自分の十字架を負うてわたしについて来るものでなければ、わたしの弟子となることはできない。』(ルカ8:21-23)
いかにレビ族と言えども、主が任命された祭司や預言者に逆らって立ち、反逆を試みる者には、恐ろしい罰を与えられる。
コラと仲間たちは共謀してモーセとアロンに逆らい、生きたまま地の底に飲み込まれてしまった。(民数記16章)
祭司の責任は重要で、大祭司の一族であっても、主によって殺されてしまった者もいる。
アロンの長男ナダブと次男アビフは、身勝手な火を主の前にささげたため、主の前から火が出て焼き滅ぼされ、主の前に死んでしまった。(レビ記10章)
しかも、その事件が起こった時、モーセはアロンと三男、四男に、次の事を言った。
『「あなたがたは髪の毛を乱し、また衣服を裂いてはならない。あなたがたが死ぬことのないため、また主の怒りが、すべての会衆に及ぶことのないためである。ただし、あなたがたの兄弟イスラエルの全家は、主が火をもって焼き滅ぼしたもうたことを嘆いてもよい。あなたがたは死ぬことのないように、会見の幕屋の入口から外へ出てはならない。あなたがたの上に主の注ぎ油があるからである」。彼らはモーセの言葉のとおりにした。』(レビ記10:6-7)
大祭司には厳しい責任があり、身内が主に不敬を犯して滅ぼされた場合でも、悲しみの表現をしてはならず、また、主から特別な任職をされているからには、為すべき聖なる務めの場所から離れてはならないのだ。
結局、大祭司の家系は三男エルアザルに受け継がれ、アロンが死ぬ時、大祭司の服は彼に引き継がれた。(民数記20:27-29)
エルアザルの子・ピネハスは、主の忌み嫌われる事を自分も忌み嫌うものとし、主に代わって滅ぼすべき者を彼が代わって滅ぼしたため、主に喜ばれた。
すなわち、イスラエルの民が異邦人の女と不品行をして民全体に災いが下っている時、みんなで悔い改め悲しむべき時なのに、恐れもせず、平然と不品行を続けようとしている者を、槍で刺し通して殺し、そうして疫病がイスラエルの人々に及ぶのが止んだ。(民数記25章)
『「祭司アロンの子なるエレアザルの子ピネハスは自分のことのように、わたしの憤激をイスラエルの人々のうちに表わし、わたしの怒りをそのうちから取り去ったので、わたしは憤激して、イスラエルの人々を滅ぼすことをしなかった。
このゆえにあなたは言いなさい、『わたしは平和の契約を彼に授ける。これは彼とその後の子孫に永遠の祭司職の契約となるであろう。彼はその神のために熱心であって、イスラエルの人々のために罪のあがないをしたからである』と」。』(民数記25:11-13)
このように、祭司の一族、すなわち、礼拝の奉仕者や祈りの香を焚く人、聖歌隊の伴奏者や指揮者、教会の門番、宝物庫の管理など、主のつとめめを為す働き人は、主に聖別された者としての自覚をしなくてはならない。
祭司たるものは、自分の血肉や肉親よりも、主の命じられた事を第一とし、御言葉のガイドラインに沿って右にも左にもそれずに礼拝を捧げ、日々の生活を、聖なる者として送るのだ。
ナダブやアビフのように、自分流の礼拝を捧げては決してならず、油注がれた者として、私情に流されてその務めを手放してはならない。
ピネハスのように、神が忌み嫌われる事を自分の忌み嫌う事とし、滅ぼすべきは主イエスの名によって滅ぼすのだ。
『あなたがたは、選ばれた種族、祭司の国、聖なる国民、神につける民である。それによって、暗やみから驚くべきみ光に招き入れて下さったかたのみわざを、あなたがたが語り伝えるためである。』(1ペテロ2:9)
皆さんは、キリストにあって王族の祭司としての自覚はあるだろうか。
礼拝説教メッセージ音声:主の側の情報開示(出エジプト記6:2-9):右クリックで保存
モーセは神の言葉を伝えた結果、パロには断られ、イスラエルの民にもかえって災いをもたらす結果となってしまい、四面楚歌状態となってしまった。
その事を訴えたモーセに、主は、ご自身がどういうお方であるのかを詳しく開示され、彼に自信を与えられた。
『神はモーセに言われた、「わたしは主である。わたしはアブラハム、イサク、ヤコブには全能の神として現れたが、主(エホバ)という名では、自分を彼らに知らせなかった。(あるいは「知られていなかった」)」』(出エジプト記6:2-3)
アブラハムの時代には「全能の神」としては知られていたものの、「エホバ」としても「わたしはある」という名としてもまだ知られておらず、それが開示されて行ったのは、モーセの時代以降だった。
創世記に「エホバ」という語が何度も出てくるのは、創世記は、天地創造からアブラハム達の時代に至るまでを、モーセに啓示し、モーセに書かせて下さったものだからである。
神は、時代を降るごとに、また、神との付き合いが長く深くなればなるほどに、御自身がどういうお方であるのかを示し、その全容を徐々に開示されて行く。
そして今や、神は御子を世にくだす事によってその愛を完全に開示され、キリストを通して救いの全容を明らかにして下さった。
神がモーセに現れた時は、「I AM」という名を明らかにされた。
通常の言語では「I AM」だけでは使われず、普通なら「I am savior」「I am provider」など、続く語があるはずである。
この主の御名、「I AM」は、金額欄を自由に記入できる小切手のようであり、私達は「I AM」に続く空欄に、信仰によって自由に代入する事が出来る。神は助け、神は癒し主、神は備え主、神は救い主、など。
そういうわけで、主は私達にとって全ての全てであり、主を得た事は全て以上を得たも同然である。
神はまた、大いなるさばきによって民を贖うと、モーセに言われた。
『それゆえ、イスラエルの人々に言いなさい、『わたしは主である。わたしはあなたがたをエジプトびとの労役の下から導き出し、奴隷の務から救い、また伸べた腕と大いなるさばきをもって、あなたがたをあがなうであろう。』(出エジプト記6:6)
裁きとは、裁かれる人には恐ろしいが、裁かれるべき人が行った悪事の”被害者の側”にとっては、救いである。
黙示録の21章以降は、救いが完成し、永遠の祝福の世界が記されているが、その前の20章は、裁かれるべき者たちの裁きが続くが、救いの前には、さばきがあるのである。
人は言う。神はさばきをする、ひどい、恐ろしい存在だと。
そう思う人には、自分は裁かれる側である事の自覚、すなわち、自分は神の御前では罪人である事の自覚がある、という事だ。
それなら、救われて裁かれない側に入れば、さばきを恐れなくて良いわけである。
救われる方法は、キリスト教会がいつも言っており既に聞いてきた事、すなわち、イエス様を主とする事。
自分の人生のハンドルを自分で握る事を手放し、運転席をイエス様にゆずり、イエス様に人生のハンドルさばきをしていただく事である。
神は裁かれるひどいお方だ、と信じている人は、その言葉どおり裁かれてしまう。
小切手にマイナス一億円と記載したら、その額面どおりの借金を背負ってしまうようなものである。
実際の小切手にはそんな機能は無いが、信仰の世界においては、それが起こってしまうのだ。
どうせ信仰告白するなら、主は良きお方である事を告白したほうが、断然徳である。
『モーセはこのようにイスラエルの人々に語ったが、彼らは心の痛みと、きびしい奴隷の務のゆえに、モーセに聞き従わなかった。』(出エジプト記6:9)
労働の疲れや思い煩いでいっぱいいっぱいな時は、御言葉も、すばらしい解き明かしも、偉大な指導者の言葉も、耳に入らない。
それ故、主の御前に出る時は、自分のコンディションに気をつけるべきである。
『神の宮に行く時には、その足を慎むがよい。近よって聞くのは愚かな者の犠牲をささげるのにまさる。彼らは悪を行っていることを知らないからである。神の前で軽々しく口をひらき、また言葉を出そうと、心にあせってはならない。神は天にいまし、あなたは地におるからである。それゆえ、あなたは言葉を少なくせよ。夢は仕事の多いことによってきたり、愚かなる者の声は言葉の多いことによって知られる。』(伝道者の書5:1-3)
仕事を多くしてしまうと、夢によって思いが塞がれ、御言葉が入らなくなり、言葉数も多くなり、罪が増し加わってしまう。
それ故、主の御前に出る時は、整えられた心であるよう気をつけるべきだ。
そうでないと、御前に出ても罪が示され、恥じ入って御前立てなくなり、聖徒の集いから退散するのみである。
イスラエルの民は、仕事が多くなってしまった事によってモーセに示されたすばらしい事さえ聞く耳をもたなくなってしまったが、主はそんなイスラエルの成り立ちもご存知で、憐れみ、救い出して下さる。
礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
城壁完成前の猛攻撃(ネヘミヤ6章):右クリックで保存
礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
1ヨハネ3:1-3:右クリックで保存
礼拝説教メッセージ音声:どちらがなまけ者か(出エジプト記5:15-6:1):右クリックで保存
『パロは言った、「あなたがたは、なまけ者だ、なまけ者だ。それだから、『行って、主に犠牲をささげさせよ』と言うのだ。さあ、行って働きなさい。わらは与えないが、なおあなたがたは定めた数のれんがを納めなければならない」。』(出エジプト記5:17-18)
パロはイスラエル民族を、繰り返し「なまけ者」と呼んだ。
日本の社会人は特にこうした言葉に弱く、会社から「なまけ者」呼ばわりされる事を恐れ、家庭や礼拝を犠牲にし、パロのれんがをせっせと作る人は多い。
しかし、考えてもみて欲しい。
パロが命じるれんが作りをせずに主に犠牲をささげに行く事と、パロのれんが作りに没頭して主へ犠牲をささげない事。一体どちらが、永遠の視点から見れば「なまけ者」になるだろうか?
私達は確かに社会的責任を果たすべきである。
しかし、主に贖われた私達の人生の中心は、主を礼拝する事のはずだ。
礼拝に行かせてくれずに、労働を強いるような主人の所には、長く留まるべきでないし、もし留まらざるを得ない事情が今あるなら、それを主に祈り、導きを求めるべきである。
イエス様がベタニヤのマルタの家で御言葉を語られていた時、マリヤという妹が、主の足もとに座って御言に聞き入っていた。
しかしマルタは、給仕を忙がしくして心を乱し、イエス様のところに来て「主よ、妹がわたしだけに接待をさせているのを、なんともお思いになりませんか。わたしの手伝いをするように妹におっしゃってください。」と言った。(ルカ10:38-42)
マルタの目から見れば、マリヤのほうがなまけ者、自分は正しい働き者。だからイエス様に、マリヤも座って聞いていないで立って働くようにと、説得させようとしたのだ。
しかし主は答えて言われた。
「マルタよ、マルタよ、あなたは多くのことに心を配って思いわずらっている。しかし、無くてならぬものは多くはない。いや、一つだけである。マリヤはその良い方を選んだのだ。そしてそれは、彼女から取り去ってはならないものである」。(同41-42節)
イエス様の目から見れば、主が御言葉を語られている時に、忙しくしているマルタのほうが霊的になまけ者で、その仕事がいかに客人を相手する給仕の仕事であっても、主が語られる時は手を休め、御言葉を聞くことを優先しなくてはならない。
優先すべきは礼拝であり、主の足元に座って御言葉を聞く事なのだ。
パロのやり方は、サタンのやり方を如実に表している。
世は、サタンは、あたかも礼拝を捧げる事のほうが非常識でなまけ者、と思わせ、パロのれんが作り、すなわち労働は何より優先させて従事する方が正しい、社会的にしっかりしている、と思わせ、そうして人々から搾取し、疲れさせ、思考停止させる。
サタンは訴える。
奴隷にもどれ、と。
サタンは、あなたが奴隷である事の方が勤勉で徳であるかのように、社会人としてしっかりしているかのように見せるが、では、忠実に奴隷生活を忠実に続ければ、いつか労働のきつさが緩和されると思ったら大間違いで、相手はもっと図に乗り、こき使う度合いをさらに水増し要求して来る。
イスラエルの民は、その罠に落ちてしまった。
モーセが神に礼拝を捧げさせよなんて言ったからパロに嫌われてしまった、モーセは言わなければ良かったのに、私達はあのまま、おとなしく命じられた通りれんが作りだけをしていたら平和だったのに、と。
モーセもまた苦しんで、主の元に訴えて言った。
「わたしがパロのもとに行って、あなたの名によって語ってからこのかた、彼はこの民をひどい目にあわせるばかりです。また、あなたは、すこしもあなたの民を救おうとなさいません。」
主が命じられる事は、時として、人の目から見れば、明らかに効果が無い、逆に相手を怒らせてしまう、と思える時があり、そして実際にあらかじめ想像した通りの災いが自分の身に降り掛かってしまう、という事は、確かにある。
しかし、主が命じられるからには、そこで終わりでは決して無く、その向こう側に大逆転があるのだ。
ここに、信仰と忍耐を働かせる必要がある。
主に命じられた事を人が従順して行う時こそ、神の支配が私達の内に働く時であり、主の御業が成される手はずが整った事になるのである。
礼拝をおろそかにしたまま、世の働きに奔走し、神殿が廃墟のまま自分だけ板張りの家に住もうとするのは、穴の開いた袋にせっせとかき集めるようなものだ。
『あなたがたは多くまいても、取入れは少なく、食べても、飽きることはない。飲んでも、満たされない。着ても、暖まらない。賃銀を得ても、これを破れた袋に入れているようなものである。万軍の主はこう言われる、あなたがたは、自分のなすべきことを考えるがよい。山に登り、木を持ってきて主の家を建てよ。そうすればわたしはこれを喜び、かつ栄光のうちに現れると主は言われる。
あなたがたは多くを望んだが、見よ、それは少なかった。あなたがたが家に持ってきたとき、わたしはそれを吹き払った。これは何ゆえであるかと、万軍の主は言われる。これはわたしの家が荒れはてているのに、あなたがたは、おのおの自分の家の事だけに、忙しくしている。それゆえ、あなたがたの上の天は露をさし止め、地はその産物をさし止めた。』(ハガイ1:6-11)
人生で最も大切にすべきは、主を礼拝すること。主の住まわれる宮である、この体という「神殿」を、主のためにきよめ、用いる事である。
そうするなら、主はあらゆる災いを叱りつけ、予期せぬわざわいによる要らぬ出費が無くなり、生活にゆとりが出来、ますます主の祝福の内を歩むようになるのである。
2012/11/9 昼祈祷会音声:右クリックで保存
2012/11/13 昼祈祷会音声:右クリックで保存
最初の会合 - パロに飲まれてしまったモーセ(出エジプト記5:1-14)
- カテゴリ :
- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(旧約) » 出エジプト記
- 執筆 :
- pastor 2012-11-13 23:33
礼拝説教メッセージ音声:最初の会合 - パロに飲まれてしまったモーセ(出エジプト記5:1-14):右クリックで保存
いよいよモーセとパロ、最初の対面である。
『その後、モーセとアロンは行ってパロに言った、「イスラエルの神、主はこう言われる、『わたしの民を去らせ、荒野で、わたしのために祭をさせなさい』と」。』(出エジプト5:1)
この時の彼は、心の中に恐れがあったにせよ、正しく主の言葉を伝えた。
外見的・社会的にはパロのほうが上に見えるかもしれないが、モーセ達の側、そして私達の側には、万軍の主がついておられ、私達にもキリスト・イエスにあって同じ主がついておられる。
私達もその御心を正しく伝えなくてはならない。
それに対しパロは答える。
「主とはいったい何者か。わたしがその声に聞き従ってイスラエルを去らせなければならないのか。わたしは主を知らない。またイスラエルを去らせはしない」。(5:2)
これが世の者の典型的な答えで、言う前から容易に想像できる返答である。
私達も、その返答をされるであろう事が見えすぎる故に、多くのキリスト者は、神をあかしする事を躊躇してしまう。
しかし、この最初の第一声、「神である主はこう言われる」という「神のあかし」が無ければ、どうして神の国を広める働きが起きるだろうか。
自分がキリスト者であることを友人に伝える事なしに、あるいは、日曜は主を礼拝するべき事を職場の人に伝える事なしに、どうして神の国の物事が始まるだろうか。
神の言葉は、折が良くても悪くても伝えるべきである。
パロに限らず、世の悪しき者は「主を知らない」と言い、そして、自分がどれだけ傲慢なのかも知らない。
エジプトが大国になれたのはヨセフのお陰だったし、パロが高い座に座って楽をしていられるのもイスラエル民族が働いてくれたお陰だったし、すべての恩恵は、イスラエルの神、主から来たものである。
それなのに、自分が恩恵を受ける根源である神の民に、彼ら世の者たちは常に恩を仇で返し、彼らの王であるサタンは、偽りによって神の民を恐怖させ、威張り散らして奴隷にさせようとする。
このパロの返答に、モーセは弱気が出てしまった。
「ヘブルびとの神がわたしたちに現れました。どうか、わたしたちを三日の道のりほど荒野に行かせ、わたしたちの神、主に犠牲をささげさせてください。そうしなければ主は疫病か、つるぎをもって、わたしたちを悩まされるからです。」(出エジプト記5:3)
モーセは「どうか(we pray thee)」という言葉を使ってお願い口調になってしまい、しかも、「そうしなければ主は疫病か、つるぎをもって、”わたしたちを”悩まされる」と、主が言った事と逆のことを口走ってしまった。
主は、もしパロが拒むなら「わたしはあなたの子、あなたの長子を殺す」(4:23)と言われたのに、その反対、自分達に災いを招くような事を告白してしまった。
このように、真実を逸して自分を低く見積り告白する事は「謙遜」ではなく「卑屈」であり、その卑屈さがサタンを付け上がらせ、敵に勢いを与え、さらに、その人を踏みにじらせるための足場を与えてしまう事になるのだ。
『エジプトの王は彼らに言った、「モーセとアロンよ、あなたがたは、なぜ民に働きをやめさせようとするのか。自分の労役につくがよい」。』(出エジプト記5:4)
悪しき者が勢いづいた時とは、偉大な指導者モーセも偉大な大祭司の父アロンも、労働すべき一労働者として罵倒してしまうものなのだ。
私達の立ち位置は、主イエスにあって選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民である(1ペテロ2:9)が、私達も悪しき者の虚勢に飲まれてしまうと、彼らの奴隷に成り下がってしまう。よくよく気をつけなくてはならない。
パロはさらに言った。
「この人々の労役を重くして、働かせ、偽りの言葉に心を寄せさせぬようにしなさい」。(出エジプト記5:9)
敵は、主の言葉を「偽り」に思わせ、パロの力が絶対であるかのように思わせる。労役を重くし、思考停止させる事によって。
実際にその後暫くの間、イスラエルの民は、調子に乗ったパロによって、以前よりも悪い状態にされてしまったが、主を主としているのであれば、それも永続するものではない。
この日本に働く霊も、労役を重くし、思考停止させる事によって多くの人達を支配しているが、私達は主にとりなし、叫ぶ事を止めてはならない。
モーセはパロの前に出た時、相手の勢いに飲まれてしまい、最初の対面は惨めな結果に終ってしまった。しかしそれは、取り返しのつかない失敗ではない。
私達も、あまりに奴隷生活や労働生活が長かったりすると、この世の権威ある者の前に立たされた時、動揺して主から預かった言葉を見失ったり、命じられた事をうまく伝えられなかったりするが、主は、そのような私達の弱さも成り立ちもご存知である。
モーセは動揺していて、杖を蛇に変える奇跡さえ行い忘れていたが、神は後にパロの口で「不思議をおこなって証拠を示せ」と言わせ(7:9)、当初の主のご命令どおりに、モーセをして不思議を行わせた。
主は憐れみ深く、私達の成り立ちや弱さをご存知であり、必ず助けの道を与えて下さるお方である。
「あなたがたの会った試錬で、世の常でないものはない。神は真実である。あなたがたを耐えられないような試錬に会わせることはないばかりか、試錬と同時に、それに耐えられるように、のがれる道も備えて下さるのである。」(1コリント10:13)
礼拝説教メッセージ音声:肉を削ぎ落とす事の重要性(出エジプト記4:24-31):右クリックで保存
『さてモーセが途中で宿っている時、主は彼に会って彼を殺そうとされた。その時チッポラは火打ち石の小刀を取って、その男の子の前の皮を切り、それをモーセの足につけて言った、「あなたはまことに、わたしにとって血の花婿です」。そこで、主はモーセをゆるされた。この時「血の花婿です」とチッポラが言ったのは割礼のゆえである。』(出エジプト記4:24-26)
主はモーセに、エジプトへ行ってパロからイスラエルの民を救い出す事の役割を任じられたばかりなのに、なんとそのすぐ後、主はモーセを殺そうとされたのだ。
これは一体どういう事だろう。
それは、モーセ自身が子に割礼を施していなかった事にある。
神は義なるお方であり、いかに神の選びの民であろうとも、不従順を続けて改めないなら、その報いをされるお方。それは、いかに特別な役割を任じられたモーセであろうと、王として油注がれたサウル王であろうと、主に愛されたダビデであろうと、である。
人は何かと、愛なる優しい神、憐れみ深い神をイメージして、祝福が欲しい、下さい、とよく求めるが、自分達の側が果たすべき責任や、取り除くべき罪を、忘れてはならない。
神は確かにアブラハムとその子孫に祝福を約束されたが、その契約は、人の側が果たすべき責任も、すなわち、割礼を守る事も、含まれる。
割礼のしるしは神との契約のしるし、すなわち契約書の印鑑のようなもので、それは世々に渡って守るべきであり、家で生まれた者も、買い取った異邦人も、生まれて八日目に受けなければならず、「割礼を受けない男子、すなわち前の皮を切らない者はわたしの契約を破るゆえ、その人は民のうちから断たれるであろう」とさえ言われている。(創世記17:9-14)
ましてや、60万以上の民の先頭に立つモーセ自身、自らこの割礼を守っていないとなると、どうして彼は、神と人との前に示しがつくだろうか。
割礼を施したのは、ミデヤン人の妻・チッポラであった。
彼女が咄嗟の機転で割礼を施したからには、割礼の重要性をモーセから聞いていたはずである。それなのに、生まれてから八日目の割礼を受けさせていなかったのは、どういう事だろう。
もしかしたら、モーセが子に割礼を受けさせようとした時、彼女は「わたしの子は関係ない」「子にそんな事させないで」と言っていたのかもしれないし、あるいは、モーセのほうが不従順だったのかもしれない。
いずれにせよ、息子は割礼を受けておらず、断ち切られる対象だったため、神はモーセを殺そうとされ、そしてチッポラが割礼を施した時、神は彼を放された。
ヨシュア記を読むと、イスラエルの民はモーセと違って、エジプトで割礼を受けさせていたようだ。(ヨシュア記5:2-9)
出エジプトした民がいよいよ約束の地、乳と蜜の流れる地へ入ろうとヨルダンを渡った直後、主は民に割礼を受けるよう命じられた。荒野で生まれた世代は皆、割礼を受けていなかったためである。
『その時、主はヨシュアに言われた、「きょう、わたしはエジプトのはずかしめを、あなたがたからころがし去った」。それでその所の名は、今日までギルガルと呼ばれている。』(ヨシュア記 5:9)
割礼とは、肉(生来の罪に傾く性質を持っている肉体の力や考え方など)を削ぎ取る事である。
『外見上のユダヤ人がユダヤ人ではなく、また、外見上の肉における割礼が割礼でもない。かえって、隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、また、文字によらず霊による心の割礼こそ割礼であって、そのほまれは人からではなく、神から来るのである。』(ローマ2:28-29)
神の民となるには、肉を削ぎ落とす「割礼」が必要である。
今、皆さんは、肉の生活、すなわち、罪の奴隷生活から脱出しようとしているだろうか。
主が約束して下さった、乳と蜜の流れる地を慕い求め、約束の地に入る心づもりは出来ているだろうか。
そうであるなら、礼拝を軽んじる心や、神様の御言葉を軽んじる心を切り取って、心の割礼を施し、安息と祝福の地に入るに相応しい者となろうではないか。
限られた時の合間に(伝道者の書3:1-8)
第一礼拝・礼拝全体音声(韓国語通訳有한국어예배):右クリックで保存
第二礼拝・説教音声:右クリックで保存
週報/メッセージ(説教)概要:右クリックで保存
時間とは、時(とき)の間(ま)と書くが、限られた時の合間に何をするかによって、永遠の行き先が決まる。
時間の合間は「間合い」と呼び、時間的間合いの他に、空間的間合い、心理的間合いもある。
武道において、この間合いは無視してはならない大切な要素で、間合いの取り方が下手は人は負け、惨めな結果になってしまうが、それは武道に限らず、人間関係や人生においても、そうである。
自分が剣で相手が槍なのに、自分の剣の間合いで戦いを仕掛けるなら、必ず負けてしまうように、相手のバックグラウンドを考慮せず、いつも自分のペースで望む人は、負け続け、みじめになり続けてしまう。
親しくもない相手に初対面から間合いを詰めすぎて馴れ馴れしく接するなら怒りを買ってしまう。かといって、親しくすべき相手に遠慮し過ぎて、間合いを遠ざけて しまうのも、また良くない。
ようするに、自分の固定概念を捨て、相手をよく見た上で、自分との関係(間合い)を考え、相手に接することが大事である。そして間合いは時間と共に流動的に変化するもので、それをうまく見極めてやりくりする人は、必ず成功する。このように、武道や人間関係にいおいても、自分を降ろし、相手を良く見極めて対応できる人は成功するが、ただ、私達キリスト者が最も注目し大切にすべきは、神の時、神との関係である。
皆さんは主イエス様と相対する時、正しい位置関係、正しい間合いを取っているだろうか。主との正しい位置関係とは、常に主が上であり、自分は常に下。主が先であり、自分は後である。自分の”命”(プシュケー:思い、意思、感情)を日々、主の御前に捨て、自分の十字架を負って主に従うなら、その”命”を得るが、主の御前にあくまで自分の思い、意思、感情を手放さないなら、それを失ってしまう。(ルカ9:23-25)
主との間合いは、私達の霊的成長の度合いによって変わってくる。
はじめ救われた時のイエス様と間合いは、先生と生徒、主人と僕の関係(ヨハネ13:12-17)だが、主の命じる通り行うなら、一歩んで「友」の関係になり(ヨハネ15:14)、友の関係になるなら、ただ命じられて行うというのではなく、友なる主の望んでおられる事を自ら汲み取り、心からその事をしたい、と思うようになる。
さらに優れた間合いは、「兄弟」の関係である(ヨハネ20:17)が、兄弟の関係になるには、ヨハネ15章と20章の間の出来事、すなわち十字架の経験が必要であり、十字架の経験とは、自分の”命”(プシュケー:思い、意思、感情)を日々、主の御前に捨てる事である。
主とより親しい関係に入りたいのなら、まず自分を捨てる所から、である。
「天が下のすべての事には季節があり、すべてのわざには時がある。」(伝道者の書3:1)
スポーツや戦いで名場面と言われるものは大体、時機に叶った時に時機に叶った事をする場面である。
時機に叶った攻撃は、大勝利をもたらす。例えこちらが劣勢であっても、時機を突けば勝つことは可能だ。
神のなさる事が美しいと感じるのは、神がなさる事は全て、時に叶っているからである。(伝道者の書3:11)
時に叶っていない事をするのは、美しくない。美しくない人とは、為すべき時にそれをせず、いつも自分流に、自分の好き勝手な事をする人で、その人は大体において敗北し、不幸になってしまう。
サウル王は待つべき時に待たず、いけにえを捧げてはならぬ時に捧げ、食事させるべき時に断食を強いるような「時に叶っていない事をする」達人(1サムエル13−14章)だが、ようするに、自分の時、自分のやり方を、人や神に押し付けるような「身勝手な礼拝」は不幸をもたらし、「美しくなさ」を周囲に振りまくのみだ。
皆さんは、主の時を見極めているだろうか。主の時とはすなわち、永遠の中で今しかない「今」である。
今は恵みの時、救いの時である。その今、自分を捨てて主を第一としているだろうか。
生まれるのに時があり、死ぬのに時がある。生まれる予定日はあっても、死ぬ日はいつか分からない。
しかし確実に言えるのは、「きょう」の「今」時点、わたしもあなたも生きている、という事である。
「あなたがたの中に、罪の惑わしに陥って、心をかたくなにする者がないように、「きょう」といううちに、日々、互に励まし合いなさい。」(ヘブル3:13)「きょう、み声を聞いたなら、/神にそむいた時のように、/あなたがたの心を、かたくなにしてはいけない。」(同15節)
恵みの時、救いの日に、主の御声に聞き従い、きょう、と言われている間に互いに励まし合って、共に御国への歩みを進めていく皆さんでありますように!イエス様の名前によって祝福します!