メッセージ - 201301のエントリ

礼拝説教メッセージ音声:御前に出る前の整え(出エジプト記19:9-15):右クリックで保存

『主はモーセに言われた、「あなたは民のところに行って、きょうとあす、彼らをきよめ、彼らにその衣服を洗わせ、三日目までに備えさせなさい。三日目に主が、すべての民の目の前で、シナイ山に下るからである。』(出エジプト記19:10)

主と出会う三日目のために身を聖別して衣服を洗うべき事を、主が命じられたように、私達も、主の御前に出る時は身を清めなければならない。
私達は何によって清められ、衣を洗って白くするのか。

『「この白い衣を身にまとっている人々は、だれか。また、どこからきたのか」。わたしは彼に答えた、「わたしの主よ、それはあなたがご存じです」。すると、彼はわたしに言った、「彼らは大きな患難をとおってきた人たちであって、その衣を小羊の血で洗い、それを白くしたのである。』(黙示録7:13-14)
私達の衣、罪で汚れた衣を清くするのは、ただ神の子羊キリストの血によってである。
そうして自らを清める人は、神の御前に出て、聖所で仕える事が出来るのだ。

『それだから彼らは、神の御座の前におり、昼も夜もその聖所で神に仕えているのである。御座にいますかたは、彼らの上に幕屋を張って共に住まわれるであろう。彼らは、もはや飢えることがなく、かわくこともない。太陽も炎暑も、彼らを侵すことはない。御座の正面にいます小羊は彼らの牧者となって、いのちの水の泉に導いて下さるであろう。また神は、彼らの目から涙をことごとくぬぐいとって下さるであろう」。』(黙示録7:15-17)
主は、エジプトから出てきた民を、雲によって炎熱から守ったように、私達も自らを子羊の血で洗うなら、御座にいます方は私達の上に幕屋を張り、世のあらゆる炎熱から守って下さる。
主は、エジプトから出てきた民をマナで満たし、ほとばしる水によって潤して下さったように、私達も、自らを子羊の血で洗うなら、御座にいます小羊は私達の牧者となり、いのちの水の泉へと導いて下さり、もはや飢えることも渇く事もなくなるのである。

『あなたは民のために、周囲に境を設けて言いなさい、『あなたがたは注意して、山に上らず、また、その境界に触れないようにしなさい。山に触れる者は必ず殺されるであろう。手をそれに触れてはならない。触れる者は必ず石で打ち殺されるか、射殺されるであろう。獣でも人でも生きることはできない』。ラッパが長く響いた時、彼らは山に登ることができる」と。』(出エジプト記19:12)
三日目が満ちるまで、神の山に登る事はできなかったように、主の時が満ちる前に主の御前へ直接出る事は、かなわない。
しかし、主の時が満ちてラッパが響いた時、キリストにある人は、皆、御前へと挙げられなくてはならない。

『モーセは民に言った、「三日目までに備えをしなさい。女に近づいてはならない」。』(出エジプト記19:15)
女に近づいてはならない、とは、主から命じられていなかったが、モーセがそれを言ったのはどういう事だろうか。

男は女を求めるものであり、肉欲が過ぎると不品行に陥る可能性がある。そして、女にとっても、男はそのような存在である。
『男子は婦人にふれないがよい。しかし、不品行に陥ることのないために、男子はそれぞれ自分の妻を持ち、婦人もそれぞれ自分の夫を持つがよい。・・・ただし、合意の上で祈に専心するために、しばらく相別れ、それからまた一緒になることは、さしつかえない。そうでないと、自制力のないのに乗じて、サタンがあなたがたを誘惑するかも知れない。以上のことは、譲歩のつもりで言うのであって、命令するのではない。』(1コリント7:1-6)
ここでパウロが言っているように、心を主に向け専心して祈りる為に、互いに離れるのは、良い事である。

主の御前に出るべき時は、主以外の何か夢中になるようなものは、取り除いておく事に越したことはない。
私達が主に有用な者として整えられ、用いられたいのであれば、まず、自らを清めるべきなのである。

『大きな家には、金や銀の器ばかりではなく、木や土の器もあり、そして、あるものは尊いことに用いられ、あるものは卑しいことに用いられる。もし人が卑しいものを取り去って自分をきよめるなら、彼は尊いきよめられた器となって、主人に役立つものとなり、すべての良いわざに間に合うようになる。そこで、あなたは若い時の情欲を避けなさい。そして、きよい心をもって主を呼び求める人々と共に、義と信仰と愛と平和とを追い求めなさい。』(2テモテ2:20)

礼拝説教メッセージ音声:シナイ山到着(出エジプト記19:1-8):右クリックで保存

モーセはかつて主に呼び出された時、「あなたがたは、この山で、神に仕えなければならない。」と言われていたが、いよいよその山のふもとへと、イスラエル民族を導いて来た。
今日の箇所は、神とイスラエル民族が契約する前の、双方の最終確認で、モーセがその介在人となっている。

主はまず民に言われる。
『あなたがたは、わたしがエジプトびとにした事と、あなたがたを鷲の翼に載せてわたしの所にこさせたことを見た。』(4節)

鷲が卵を産むと、親鳥は卵に覆い被さって温め、ひなをかえし、ひなを翼で覆って守り、巣の中で養い育てる。
ひながある程度育つと、今度は飛ぶ訓練をするために巣の中から落とし、落ちていくひながまだ飛べないと、その上に舞いかけ、羽に乗せて運ぶ。

そのように、主はイスラエル民族を一人の人アブラムから興し、その子孫を御翼の陰で覆って守り、はぐくみ、育て、エジプトという巣において、ある程度まで成長したら、今度は荒野の中へと導き、鷲が翼に乗せてひなを運ぶように、荒野の民を導かれた。
イスラエルは、その一連の奇跡と不思議を、ずっと見続け、経験して来た。

「それで、もしあなたがたが、まことにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るならば、あなたがたはすべての民にまさって、わたしの宝となるであろう。全地はわたしの所有だからである。」(5節)
主が大いなる御業を民に見せて来たのは「声に聞き従い、わたしの契約を守る」ためであった。
もし、その主の契約を守るなら「すべての民にまさって、わたしの宝となる」事が約束され、「あなたがたはわたしに対して祭司の国となり、また聖なる民となるであろう。」(6節)

神はなぜ私達を選び、神の民という地位、王である祭司、聖なる国民という地位へと就かせたのか。(1ペテロ2:9)
「それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。」(同10節)
会社で役職に就いたら給料は上がり、同時に責任も任される。それと同じように、神が私達を素晴らしい地位に就かせて下さるからには、神の栄光を伝えるという責任もまた伴う事を、忘れてはならない。

『民はみな共に答えて言った、「われわれは主が言われたことを、みな行います」。モーセは民の言葉を主に告げた。』(出エジプト記19:8)

しかし、民はその約束を守らなかった。
かえってエジプトに帰りたいと泣き叫び、モーセ達を石で撃ち殺そうとさえした。(民数記14章)
それで神は、約束を守らなかったその世代を、約束の地へ入ることをさせず、荒野で40年の放浪へと導かれた。

人は、神の定めた基準に到達する事は出来ず、律法からは、ただ人の中には罪がある事を示されるのみである。
しかし神は人を憐れみ、人が救われるようにと、新しい契約を授けて下さった。

『主は言われる、見よ、わたしがイスラエルの家とユダの家とに新しい契約を立てる日が来る。この契約はわたしが彼らの先祖をその手をとってエジプトの地から導き出した日に立てたようなものではない。わたしは彼らの夫であったのだが、彼らはそのわたしの契約を破ったと主は言われる。
しかし、それらの日の後にわたしがイスラエルの家に立てる契約はこれである。すなわちわたしは、わたしの律法を彼らのうちに置き、その心にしるす。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となると主は言われる。人はもはや、おのおのその隣とその兄弟に教えて、『あなたは主を知りなさい』とは言わない。それは、彼らが小より大に至るまで皆、わたしを知るようになるからであると主は言われる。わたしは彼らの不義をゆるし、もはやその罪を思わない」。』(エレミヤ31:31-34)

神は律法を石版に書き記したが、人は、それを守る事が出来なかった。
そこで神は人を憐れまれ、律法を成就して下さる御方・イエスキリストを世に送られ、この御方を信じる信仰によって罪赦され、新しいいのちへと導かれる福音を与えて下さった。
その新しいいのちに生きる人は皆、律法を成就した者とされ、神の目に義とされるのである。

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
安息日の死守(ネヘミヤ記13:15-22):右クリックで保存

【概要】

ネヘミヤ13:15-22を通して、安息日を聖とすることの重要性と、ネヘミヤが霊的城壁を守るために徹底して行った改革について語られたメッセージです。イザヤ58:13-14、第2歴代誌36:11-21なども引用し、安息日を軽んじることの歴史的な結果と、主の前に徹底して歩む勧めが示されました。

【聖書箇所】

ネヘミヤ13:15-22

出エジプト20:8-11

ネヘミヤ10:29-31

2歴代誌36:11-21

イザヤ58:13-14

【慰めの言葉】

  • 主は安息日を祝福し、聖なるものと宣言された。安息日を喜びの日とするとき、主は私たちの喜びとなり、地の高いところを歩ませてくださる(出エジプト20:11、イザヤ58:14)。

【励ましの言葉】

  • ネヘミヤの徹底さに倣い、非常識と思われても主の御言葉を守り抜く勇気を持とう。主はその徹底を覚え、憐れみをもって養ってくださる。

【戒めの言葉】

  • 安息日を軽んじる怠慢の積み重ねは主への背きとなり、歴史が示すように厳しい結果を招く(2歴代誌36章)。売り買い、無駄口、世の思いに心を占められることを慎むべきである(イザヤ58:13)。

【勧めの言葉】

  • 安息日を「喜びの日」「主の誠実の晴れある日」と呼び、門を閉ざすかのように自分の生活を整え、礼拝を守るための具体的な境界線を設けよう(ネヘミヤ13章、イザヤ58章)。

【悔い改めの促しの言葉】

  • 生ぬるさと甘さを悔い改め、主の聖なる日を軽んじてきた心、礼拝の中で世事に心を向ける癖、他者を罪に誘う態度を捨て、主をたっとぶ心へと立ち返ろう。

【***詳細***】

今日は、ネヘミヤ記13章15節から22節までです。ネヘミヤ13:15-22。

その頃、私はユダの地で、安息日に酒舟を踏んでいる者や、麦束を運んでいる者、また、ロバに荷物を負わせている者、さらに、ぶどう酒、ぶどうの実、いちじくなど、あらゆる品物を積んで、安息日にエルサレムに運び込んでいる者を見つけました。それで私は、彼らが食物を売ったその日、彼らを咎めました。また、そこに住んでいたツロの人々も、魚やいろいろな商品を運んできて、安息日に、しかもエルサレムでユダの人々に売っていました。

そこで私はユダの主だった人たちを問いただして言いました。「あなた方はなぜこのような悪事を働いて、安息日を汚しているのか。あなた方の先祖もこのようなことをしたので、私たちの神はこの全ての災いを私たちとこの町の上に送られたではないか。それなのに、あなた方は安息日を汚して、イスラエルに下る怒りを加えている。」(ネヘミヤ13:18)

安息日の前、エルサレムに夕闇が迫ると、私は命じて門を閉めさせ、安息日が済むまでは開いてはならないと命じました。そして、私の若い者の幾人かを門の見張りに立て、安息日に荷物が持ち込まれないようにしました。それで商人やあらゆる品物を売る者たちは、一度か二度エルサレムの外で夜を過ごしました。そこで私は彼らを叱って言いました。「なぜあなた方は城壁の前で夜を過ごすのか。再びそうするなら、私はあなた方に手を下す。」その時から彼らはもう安息日には来なくなりました。(ネヘミヤ13:19-21)

ネヘミヤ記では、城壁が完成した後も、ネヘミヤは霊的な城壁を守ることを遂行していきました。13章に入ってからは、まずレビ人への支給がなおざりにされていたため、レビ人たちは宮に仕えることができず、自分の畑に逃れてしまい、エルサレムからレビ人がいなくなるという事態が起きました。ネヘミヤはその状況を改善するために、レビ人たちへの支給分をしっかりと捧げるように布告しました。またその前には、神殿の中において、異邦人であるアモン人のトビヤの私物が神殿の倉庫の一角を私物化していたことを取り除き、清めました。13章の中では、他にも改革が続いていきます。今日お読みした箇所でも、ネヘミヤの改革は続きます。

ネヘミヤは、城壁の再建に限らず、霊的城壁を守ることに専心しました。とりわけ安息日を守ること、安息日という城壁をしっかり守ることの大切さをよく分かっていました。本文を読むと、安息日に仕事をしている人々を見つけ、彼らを咎めました。映画の一場面のように想像すると、ネヘミヤは堅物で、商売している人たちに「今日は仕事をしてはならない日だ」と言ってやめさせた、厳しい人だと思えるかもしれません。しかし、ユダの人々のうち、安息日に酒舟を踏んでいる人や、ぶどう酒、ぶどうの実、いちじくなどの品物を売っている人、あるいはエルサレムに運び込んでいる人たち、彼らの方が約束破りでした。

覚えているでしょうか。今は13章ですが、10章ではエルサレムの人々が呪いの誓いをしている箇所があります。その誓いの中で、「私たちは安息日は聖なる日として覚えて、一切のものは買ったり売ったりしません」と約束しました。ネヘミヤ10:29-31にはこうあります。「彼らは…神のしもべモーセを通して与えられた神の律法に従って歩み、私たちの主のすべての命令、その定めと掟を守り行うために…約束した。」ところが、その約束を早速破ってしまいました。約束をするときは心が燃えていて、「守ります」と勢いよく言えるのですが、それを守り続けられる人こそ本当に主に喜ばれる人です。

安息日は、ユダにおいては誰も働かず、物を売ったり買ったりすることはできません。安息日に歩く歩数も限りがあることが知られています。安息日、例えば前日に作ったものを食べますが、「もっと別のものが食べたい」という時に、ふらっと買いに行きたくなることがあるでしょう。都会ではコンビニが24時間開いていて、夜中でも欲しいものをすぐ買える便利さがあります。しかし、その仕事をしている人たちは、夜中だろうが主日だろうが土曜だろうが元旦だろうが働いている。そこには安息がありません。神が命じられているのは「安息日を覚えて、これを聖なるものとせよ」ということです。

十戒におけるこの命令は、出エジプト記20章にあります。「安息日を覚えて、これを聖なるものとせよ。六日間、あなたは働いて、あなたのすべての仕事をしなければならない。しかし七日目は、あなたの神、主の安息である。あなたはどんな仕事もしてはならない。あなたも、あなたの息子、娘、それにあなたの男奴隷や女奴隷、家畜、またあなたの町囲みの中にいる在留異国人も。それは主が六日のうちに天と地と海、またそれらの中にいるすべてのものを造り、七日目に休まれたからである。それゆえ主は安息日を祝福し、これを聖なるものと宣言された。」(出エジプト20:8-11)

安息日は、単に仕事をしないという決まり事の日ではありません。神がこれを聖なるものと宣言し、取り分けられた日です。創造の御業を主がすべて終えて安息されたから、私たちも安息日を覚えるのです。「安息日を守る」だけでなく「安息日を覚えてこれを聖とする」ことは、神を正しいとし、神を敬う心そのものです。ですから、安息日に売り買いしたり、家畜に荷を負わせたりすることは主に喜ばれないことです。

ただし、主の災いはすぐには下りません。私たちは主に背くつもりはないでしょう。しかし、一日一日の怠慢の積み重ねが、主への背きです。主に戦いを仕掛けることだけが背きではありません。ちょっと気を緩めて、神の定めを守らないことの積み重ねが背きとなります。

ネヘミヤが町を歩いていて、安息日に売り買いしている人々を見つけたとき、彼は彼らを問い質しました。厳しすぎると見えるかもしれませんが、根拠があります。先ほどのネヘミヤ13:18の通り、「あなた方の先祖もこのようなことをしたので…災いが下った」。安息日を守らなかったがために、ユダ王国は滅ぼされました。歴代誌という長い書物の最後は、バビロン捕囚の直前で終わります。

第2歴代誌36章では、最後の王ゼデキヤの記録があり、次のように語られます。「彼は二十一歳で王となり、エルサレムで十一年間王であった。…彼はその神、主の目の前に悪を行い、主の言葉を告げた預言者エレミヤの前にへりくだらなかった。…彼はうなじの強い者となり、心を閉ざしてイスラエルの神、主に立ち帰らなかった。その上、祭司長全員と民も、異邦の民の忌み嫌うべきすべての習わしをまねて、不信に不信を重ね、主がエルサレムで聖別された主の宮を汚した。彼らの父祖の神、主は彼らのもとに使者たちを使わし、早くからしきりに、使いを送られた。それはご自分の民とご自分の御住まいをあわれまれたからである。ところが彼らは神の使者たちを笑いものにし、その御言葉を侮り、その預言者たちをばかにしたので、ついに主の激しい怒りがその民に対して積み重ねられ、もはや癒されることがないまでになった。そこで主は彼らのもとにカルデヤ人の王を攻め上らせた。彼は剣で彼らのうちの若い男たちを、その聖所の家の中で殺した。若い男も若い女も、年寄りも老衰の者も容赦しなかった。主はすべてのものを彼の手に渡された。彼は神の宮のすべての大きな器具、主の宮の財宝と、王とその司たちの財宝、これらすべてをバビロンへ持ち去った。彼らは神の宮を焼き、エルサレムの城壁を取り壊した。その高殿を全部火で燃やし、その中の宝としていた器具を一つ残らず破壊した。彼は剣を逃れた残りの者たちをバビロンへ捕らえ移した。こうして彼らはペルシア王国が支配権を握るまで彼とその子たちの奴隷となった。これはエレミヤにより告げられた主の言葉が成就して、この地が安息を取り戻すためであった。この荒れ果てた時代を通じて、この地は七十年が満ちるまで安息を得た。」(2歴代誌36:11-21)

ここには、安息が人にも町にも畑にも与えられるべきものであることが示されています。しかし安息は聖と覚えられず、イスラエルの民は主が使わされた預言者たちを馬鹿にし、その言葉を行わず、物笑いにした結果、あってはならないことが起こりました。神の聖所の庭で人々が殺され、聖なる器物はすべて奪われ、若者も年寄りも殺され、残された人々は捕らえ移されました。そうしてこの地は安息を得たのです。邪悪で不信仰で堅くなな人々が取り除かれ、残りが捕らえ移されることによって、地が安息を得た。安息を守らない国、安息日を聖としない人々は、神が取り除かれ、土地に強制的な安息が与えられることになります。

安息日を聖なる日とすることは、とても大事です。ネヘミヤはこのことをよく知っていました。ところが、安息日に売り買いしていた人たちは、儲けのことしか考えていませんでした。「安息日は誰も働かない。では私が市場に物を持ち込めば独占だ」と浅ましい儲けをしたのでしょう。しかしそれは、神を侮ることです。目先の利益を優先し、御言葉をないがしろにする民には、主が強制的に裁きをなされます。

異邦人の国にはこの律法は課せられていません。しかし、神の律法を知り、贖われ、神の民とされた者が、神が性別された日を守り行わないなら、エルサレムに起こった破壊が及ぶのです。そこでネヘミヤは、安息日を徹底的に守るために、夕闇が迫ったら門を閉じ、安息日が済むまで開けないよう命じ、見張りを立てました。外国の商人たちは門が閉まっているのを見て、城壁の前で夜を過ごし、安息日に門が開くのを待って商品を運び入れ、売り買いしようと企みました。しかしネヘミヤは彼らを咎め、「再びそうするなら、手を下す」と警告しました。それ以降、彼らは安息日には来なくなりました。

異邦人から見れば、ネヘミヤのやり方は堅苦しく、非常識でしょう。イスラエルに商品を持ち込んでやるものか、と思ったかもしれません。しかしネヘミヤは躊躇しませんでした。物を売りに来る商人たちの事情を考えれば、彼のしたことは厳しすぎる、非常識です。それでも、神の律法、御言葉、神に喜ばれることを守り通すために、ここまで徹底したことがあるでしょうか。私たちもネヘミヤのように、非常識と見られることがあっても、御言葉を守るために徹底する必要があります。

例えば、主日には無駄口を慎み、御言葉以外のことを話題にしないことを貫く。主日に電話がかかってきても、礼拝と安息のために切る勇気を持つ。ネヘミヤはそこまでやりました。「なぜ城壁の前で夜を過ごすのか。もう一度やったら手を下す。」彼は安息日を聖とすることに徹底しました。

この徹底は、イザヤの預言にも響き合います。「もしあなたが安息日に出歩くことをやめ、私の聖日(誠実)に自分の好むことをせず、安息日を喜びの日と呼び、主の聖日を栄えある日と呼び、これをたっとんで旅をせず、自分の好むことを求めず、無駄口を慎むなら、その時、あなたは主をあなたの喜びとしよう。私はあなたに地の高いところを踏み行かせ、あなたの父ヤコブの譲りの地であなたを養う。」(イザヤ58:13-14)安息日に出歩くことをやめ、主の聖日に自分の好むことをせず、安息日を喜びの日と呼び、主の聖日を栄えある日と呼び、これをたっとび、無駄口を慎むなら、主はあなたの喜びとなり、あなたを高いところに歩ませ、譲りの地で養ってくださいます。

ネヘミヤのしたことは厳しく見えますが、イスラエルの民に罪を犯させないためであり、また地に売り買いしに来る異邦人たちにも罪を犯させないためでした。私たち自身も、主の聖なる日にそれをたっとび、喜びとし、無駄口を慎むなら、自分が罪を犯さないだけでなく、私たちに売り買いを仕掛ける人々、無駄口を誘う人々にも罪を犯させないことになります。ネヘミヤのような徹底さをもって、自分自身を、主が聖なるものとしてくださった者として清く保ち、主が聖別してくださった日を清く保つように勧めるなら、主は私たちを覚え、慈しみをもって憐れんでくださいます。

最後に祈りが捧げられました。ネヘミヤの徹底ぶりは、外から見れば厳しすぎるように見えます。しかしそれは相手に罪を犯させないことであり、イスラエルの人々に罪を犯させないことでした。私たちはこれほどまで徹底して罪と戦ってきたでしょうか。生ぬるい信仰を悔い改め、これからは自分を清く保ち、人々に罪を犯させないために、あえて厳しい態度をとる勇気を与えてください。御言葉を守ることの重要さを教えてください。かつて安息日を軽んじたイスラエルはバビロンに連行され、多くが殺され、神の聖所の前で殺され、土地は七十年の安息を得ました。私たちはその愚かを繰り返さないように。主が聖とされた礼拝の時を聖とし、頭の中で売り買いをせず、礼拝の時に世のことに心を使って罪を犯すことがないように。そうしている兄弟姉妹には、愛をもってしっかり戒めることができるように。主よ、助けてください。イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

【結論】

安息日は、主が祝福し聖とされた日であり、私たちが神をたっとぶ心を具体的に表す「霊的城壁」です。ネヘミヤの徹底は、民と異邦人を罪から守るための愛の実践でした。私たちも境界線を明確にし、安息日を喜びの日と呼び、無駄口を慎み、礼拝を聖とするとき、主は私たちの喜びとなり、地の高いところを歩ませ、譲りの地で養ってくださいます。2024-11-20 12:53:18に与えられたこのメッセージを心に留め、日々の小さな怠慢を悔い改め、御言葉を守り抜く徹底で歩みましょう。

 

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
1ヨハネ5:1-5:右クリックで保存

礼拝説教メッセージ音声:重荷を分かち合う時は(出エジプト記18:1-12):右クリックで保存

(本日の引用は口語訳ではなく新共同訳からです。)

『あくる日モーセは座して民をさばいたが、民は朝から晩まで、モーセのまわりに立っていた。モーセのしゅうとは、彼がすべて民にしていることを見て、言った、「あなたが民にしているこのことはなんですか。あなたひとりが座し、民はみな朝から晩まで、あなたのまわりに立っているのはなぜですか」。』(出エジプト記18:13)
モーセたった一人が民の問題をさばき、さばきを必要としている他の人達は、自分の順番が来るまで待つ。
そのようなやり方をしている様を見て、イテロは物申さずにはおれなかったのだ。

『モーセはしゅうとに言った、「民が神に伺おうとして、わたしの所に来るからです。彼らは事があれば、わたしの所にきます。わたしは相互の間をさばいて、神の定めと判決を知らせるのです」。』(出エジプト記18:15)
確かに、神と人との間に立つ人にさばきをしてもらう事は、正しい事である。
しかし、このような体制だと、些細な訴えが頻繁になされ、いたずらに裁判が増えてしまい、本当に必要な訴えが、長時間の間、ないがしろにされたまま、という事が大いに起こりうる。

『今わたしの言うことを聞きなさい。わたしはあなたに助言する。どうか神があなたと共にいますように。』(出エジプト記18:19)
イテロは元々、ミデヤンの祭司だが、前回の箇所を見ると、彼は主の御業を見て喜び、主はあらゆる神々に勝って偉大な御方である、という立派な信仰告白をしている。(10,11節)
そして彼の助言内容も、実に聖書的である。

『わたしの言うことを聞きなさい。助言をしよう。神があなたと共におられるように。あなたが民に代わって神の前に立って事件について神に述べ、彼らに掟と指示を示して、彼らの歩むべき道となすべき事を教えなさい。あなたは、民全員の中から、神を畏れる有能な人で、不正な利得を憎み、信頼に値する人物を/選び、千人隊長、百人隊長、五十人隊長、十人隊長として民の上に立てなさい。』(出エジプト記18:19)

彼の助言で真っ先に来たのは、「あなたが民に代わって神の前に立って事件について神に述べ」る事。(19節)
つまり、モーセは諸々の小さい事を全部するよりも、まず、神と人との間に立って、執り成して祈る事に専念しなさい、というのである。

その次に助言した内容は「彼らに掟と指示を示して、彼らの歩むべき道となすべき事を教えなさい。」(20節)である。
すなわち、神のおきての何たるかを、神の側のスタンダードを、まず民全体に教えるべき事を勧めた。

そして第三に、民の長を立てて重荷を分散させるべき事である。
「あなたは、民全員の中から、神を畏れる有能な人で、不正な利得を憎み、信頼に値する人物を/選び、千人隊長、百人隊長、五十人隊長、十人隊長として民の上に立てなさい。」(21節)

この、民の長となるべき人の選考基準も、3つある。
その真っ先に来るのが、「神を畏れる」人。
そして「有能な人」であり「不正な利得を憎み、信頼に値する(誠実な)人物」。である事だ。

イテロは実に良いアドバイスをモーセに与え、その結果、モーセの重荷は軽くなり、かつ本当に重要な事が出来るようになったが、モーセは完全にそのアドバイス通りにしていなかったようである。
次の箇所に注目したい。

『全イスラエルの中から「有能な人々」を選び、彼らを民の長、すなわち、千人隊長、百人隊長、五十人隊長、十人隊長とした。』(25節)
イテロの助言は、「神を畏れる有能な人で、不正な利得を憎み、信頼に値する人物」を選考するはずだったのに、実際に、民の長として選ばれたのは、「有能な人々」としか書かれていない。

教会においても、指導者の立場に「神を畏れる人」よりも優先して「有能な人」を選んでしまうと、後々災いを招きやすい。
実際、コラの反逆の時、彼らは耳障りの良い言葉で有名人や有力者達を仲間につけ、神が立てた権威であるモーセと、神によって油注がれた大祭司アロンに反抗して立った。
神の国の運営においては、その人の信仰を確認せず単に「有能だから」という理由で安易に採用するのは、絶対に控えるべきである。

使徒時代の教会において、人数が増えるにつれて様々な問題が起きるようになった時、使徒たちは、どのような優先順位で事に当たったか。
「わたしたちが、神の言葉をないがしろにして、食事の世話をするのは好ましくない。それで、兄弟たち、あなたがたの中から、“霊”と知恵に満ちた評判の良い人を七人選びなさい。彼らにその仕事を任せよう。わたしたちは、祈りと御言葉の奉仕に専念することにします。」(使徒6:2-4)

使徒たちは、社会的弱者の配給がなおざりになっている時、自ら事に当たって解決するのではなく、「わたしたちが、神の言葉をないがしろにして、食事の世話をするのは好ましくない。」と言った。
そしてその問題には、「“霊”と知恵に満ちた評判の良い人」に当たらせる事に決め、自分達はもっぱら、祈りと御言葉の奉仕に専念する、と言ったのだ。

それは一見、冷たく聞こえるようだが、これこそ正しい優先順位である。
今日の教会で色々な不都合が起きている最たる原因は、この優先順位を取り違え、祈りと御言葉の奉仕をないがしろにして、社会的弱者の配給に心砕いているような所にある。

この奉仕者の選考基準で、真っ先に来るのは“霊”に満ちた人であり、そして知恵に満ちた、評判の良い人である。
霊に満ちた人であるなら、その人は直接神に伺い、神の基準に沿った正しい判断をできる。
神の国の奉仕者は、人の知恵に頼るものではなく、神よりも人の知恵を優先するような人は、教会の上に立ててはいけないのだ。

祈祷会音声:12/25, 1/1

カテゴリ : 
その他音声
執筆 : 
pastor 2013-1-2 22:53

2012/12/25 昼祈祷会 キリストの降誕後:右クリックで保存 音声のみ
2012/12/27 祈祷会 聖霊に満たされよ:右クリックで保存
2012/1/1 祈祷会 悪魔に機会を与えるな:右クリックで保存 音声のみ
 

 

謹賀新年!

カテゴリ : 
礼拝メッセージ説教音声配信 » パスター日記
執筆 : 
pastor 2013-1-1 23:00

新年のご挨拶を申し上げます。

昨晩は20名ほどの聖徒達と一緒にニューイヤーズ・イブ礼拝を行い、カウントダウンして新年が開けた後、新年最初の礼拝を行いました。そのうち10名ほどの聖徒達は朝まで残り、そのまま早天礼拝に突入しました。

ニューイヤーズ・イブ礼拝音声:http://voice.of.christ.yokohama/media/3/other/130101o_newyeareve.mp3

また、昼の2時からは横浜訓盲院の子供たちが20名ほど来てくれて、一緒に新年礼拝を行いました。

元旦こども礼拝音声:http://voice.of.christ.yokohama/media/3/other/130101o_kunmouin_kodomoreihai.mp3

そしてさっきも、通常の夜礼拝。礼拝と御言葉にあふれた新年でした。

本年もまた、主イエスにあって、よろしくお願い申し上げます。

皆さんの上にも主の祝福が豊かにある一年でありますように!

元旦子供礼拝(横浜訓盲院)

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その他音声
執筆 : 
pastor 2013-1-1 23:00

元旦子供礼拝(横浜訓盲院)(音声のみ):右クリックで保存

ニューイヤーズ・イブ礼拝

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その他音声
執筆 : 
pastor 2013-1-1 22:50

礼拝説教メッセージ音声:異国の祭司も主をほめたたえる(出エジプト記18:1-12):右クリックで保存

イスラエルがアマレクとの戦いで勝利した後、モーセのしゅうとでありミデヤンの祭司であるイテロが、モーセの妻・チッポラと二人の息子とを連れて、モーセを訪ねて来た。
このレフィディムの地は、イテロの住んでいる所から近く、つまり、神が当初モーセに現れ礼拝場所として定めておられた神の山から近い所にイスラエルの民は来ているのである。

イテロは、イスラエルの神とその民のうわさを聞いていた。
すなわち、神である主がイスラエルの民になされた素晴らしい御業と御救い、そしてエジプトになされた災いを、また、神が荒野でイスラエルを養っておられる様を。
そして彼がイスラエルの陣営に入り、砂漠の中なのに神に養われている様を実際に見、そして、今や200万ほどの民を率いるまでになったモーセと再会して、驚きの連続だったに違いない。

モーセは今や200万ほどを率いる指導者であるが、彼がかつて40年仕えたしゅうと・イテロに会った時、まだ神に召されていなかった昔を思い出して、なつかしかったのであろう。彼はイテロに身をかがめ、口づけし、天幕に入って、お互い安否を尋ねあった。
『そしてモーセは、主がイスラエルのために、パロとエジプトびととにされたすべての事、道で出会ったすべての苦しみ、また主が彼らを救われたことを、しゅうとに物語ったので、イテロは主がイスラエルをエジプトびとの手から救い出して、もろもろの恵みを賜わったことを喜んだ。』(出エジプト記18:8-9)

イテロは、全能なる神の御業をモーセの口からさらに詳しく聞いて、喜び、主をほめたたえた。

「主はほむべきかな。主はあなたがたをエジプトびとの手と、パロの手から救い出し、民をエジプトびとの手の下から救い出された。今こそわたしは知った。実に彼らはイスラエルびとにむかって高慢にふるまったが、主はあらゆる神々にまさって大いにいますことを」。
そしてモーセのしゅうとイテロは燔祭と犠牲を神に供え、アロンとイスラエルの長老たちもみなきて、モーセのしゅうとと共に神の前で食事をした。(出エジプト記18:11-13)

イテロはミデヤンの祭司であったが、パロとは違って、全能の神である主のみわざを見聞きし、実際に主がイスラエルを養っておられる様を見て、主を褒め称えずにはおれなくなり、主に捧げ物をした。
主の御業を見る時、素直な感性を持った人なら、感動せざるを得ない。
しかしパロのような頑なな心の持ち主は、いくら主の御業を見ても、いくら主の災いが自分の身にふりかかっても、主に立ち返る余地がいのだ。
頑なな心、それが救われる事の無い一番の原因である。

主に望みを置く人達には主の栄光があらわれ、主の栄光によって包まれ、主から来る助けによって満たされる。
そして彼らが栄えるのを見る異邦の人々は、主を褒め称えるのである。

『起きよ、光を放て。あなたの光が臨み、主の栄光があなたの上にのぼったから。見よ、暗きは地をおおい、やみはもろもろの民をおおう。しかし、あなたの上には主が朝日のごとくのぼられ、主の栄光があなたの上にあらわれる。もろもろの国は、あなたの光に来、もろもろの王は、のぼるあなたの輝きに来る。あなたの目をあげて見まわせ、彼らはみな集まってあなたに来る。あなたの子らは遠くから来、あなたの娘らは、かいなにいだかれて来る。』(イザヤ60:1-4)

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