メッセージ - 201312のエントリ

礼拝説教メッセージ音声:巨人をも打ち倒す(申命記3:1-11):右クリックで保存

主はシホンに続き、オグの治めるバシャンと戦うように命じられた。
『そしてわれわれは身をめぐらして、バシャンの道を上って行ったが、バシャンの王オグは、われわれを迎え撃とうとして、その民をことごとく率い、出てきてエデレイで戦った。時に主はわたしに言われた、『彼を恐れてはならない。わたしは彼と、そのすべての民と、その地をおまえの手に渡している。おまえはヘシボンに住んでいたアモリびとの王シホンにしたように、彼にするであろう』。』(申命記3:1-2)

今回の敵は、さらに強敵である。
城壁のある町が六十あり、城壁のない町もまた数多くある。
城壁の町がそれだけ多い、という事は、この地方には争いが多くあり、野蛮な性質で戦い慣れしている、という事だ。
もしかしたらイスラエルには、バシャンの国に対する恐れがあったのかもしれない。
しかし主は、恐れるな、と言われた。

四十年前、彼らの親の世代のイスラエルは、城壁の町々や先住民に恐れをなして不信仰に陥り、主に逆らったが、主はその不信仰な世代を荒野で滅ぼし、子の世代の信仰を荒野で徐々に鍛えられた。
そして彼らは、実際に主の命令どおり進んで行き、勝利した。
『こうしてわれわれの神、主はバシャンの王オグと、そのすべての民を、われわれの手に渡されたので、われわれはこれを撃ち殺して、ひとりをも残さなかった。その時、われわれは彼の町々を、ことごとく取った。われわれが取らなかった町は一つもなかった。取った町は六十。アルゴブの全地方であって、バシャンにおけるオグの国である。これらは皆、高い石がきがあり、門があり、貫の木のある堅固な町であった。このほかに石がきのない町は、非常に多かった。』(申命記3:3-5)

これは、実に圧倒的な、そして、あっけない勝利だった。
ヘシュボンやバシャンの平定は、出エジプトから第40年目の、わずか一年以内に行われたはずである。
その一年以内で、このバシャンの戦いだけでも城壁の堅固な町を六十も攻め落としたのだから、戦績としては素晴らし過ぎるものがある。
それが、主が共におられ、主が戦われる時の戦績である。

『バシャンの王オグはレパイムのただひとりの生存者であった。彼の寝台は鉄の寝台であった。これは今なおアンモンびとのラバにあるではないか。これは普通のキュビト尺で、長さ九キュビト、幅四キュビトである。』(申命記3:11)
つまり、長さ4メートル、幅180センチ程である。その大きさから察するに、バシャンの王オグは、3メートルを超す巨体だったのだろう。
親の世代はたじろいだが、しかし今やイスラエルは、主にあって、彼らを打ち負かした。
この巨大な鉄のベッドは、主に信頼し主の御心に叶った戦いをするなら、こんな巨大な敵さえ打ち破る事が出来る、という、自信につながる記念品となった事だろう。

およそ40年前、ヨシュアとカレブは、知っていた。
敵がいかに強大であっても、主が共にいるなら、簡単に打ち破る事が出来る事を。
『ヌンの子ヨシュアとエフネの子カレブは、衣を引き裂き、イスラエルの人々の共同体全体に訴えた。「我々が偵察して来た土地は、とてもすばらしい土地だった。もし、我々が主の御心に適うなら、主は我々をあの土地に導き入れ、あの乳と蜜の流れる土地を与えてくださるであろう。ただ、主に背いてはならない。あなたたちは、そこの住民を恐れてはならない。彼らは我々の餌食にすぎない。彼らを守るものは離れ去り、主が我々と共におられる。彼らを恐れてはならない。」』(民数記14:6-9)

たといヨシュアとカレブのような、見ないでも信じられる信仰の持ち主でなくても、主は徐々に、耐えられるように、信仰を鍛えさせて下さる。
『あなたがたの会った試錬で、世の常でないものはない。神は真実である。あなたがたを耐えられないような試錬に会わせることはないばかりか、試錬と同時に、それに耐えられるように、のがれる道も備えて下さるのである。』(1コリント10:13)

今、皆さんが進むべき未来の前に、勝ち得ていくべき土地の前に、邪魔な巨人が立ちはだかっているだろうか。
もし皆さんが、主の御言葉に聞き従ってその通りに行うなら、相手が人間であれ、霊的存在であれ、何か制度的な問題であれ、主が祝福を約束され、いかに巨大な敵であろうと、主にあってあっけなく勝利できるのだ。

『もしあなたがたがわたしの定めに歩み、わたしの戒めを守って、これを行うならば、わたしはその季節季節に、雨をあなたがたに与えるであろう。地は産物を出し、畑の木々は実を結ぶであろう。・・・あなたがたは敵を追うであろう。彼らは、あなたがたのつるぎに倒れるであろう。あなたがたの五人は百人を追い、百人は万人を追い、あなたがたの敵はつるぎに倒れるであろう。 』(レビ記26:3-8)

栄光の家系の女達 - マリヤ3 マリヤの賛歌(ルカ1:46-55)
第一礼拝・礼拝全体音声:右クリックで保存
第二礼拝・礼拝説教音声(韓国語通訳有한국어예배):右クリックで保存
崔執事の証:右クリックで保存
週報/メッセージ(説教)概要:右クリックで保存

『わたしの魂は主をあがめ、 わたしの霊は救主なる神を「たたえ(大いに喜び)」ます。 この卑しい女をさえ心にかけてくださいました。今からのち代々の人々は、わたしを幸いな女と言うでしょう。』(ルカ1:46-48)
ルカ1:46〜55の箇所は「マリヤの賛歌」と呼ばれる有名な歌である。マリヤは自分を、「どの時代の人々もうらやむ幸いな女」と言う程、喜びに喜んだ。彼女のように大いなる幸いを得るための秘訣を探りたい。
彼女が主を「あがめる」と言った言葉は、ギリシャ語で「メガリュオー」、「大きくする」という意味であり、また「卑しい(タペイノシス)」と自分を呼んだ言葉は、「低い」「陽のあたらない」等の意味がある。
つまり、マリヤの魂は主を大きくし、自分を低く、卑しくしたのだ。
バプテスマのヨハネも、「あの方は盛んになり私は衰えなければなりません。」(ヨハネ3:30)と言ったように、主を大きくし、自分を小さくする姿勢こそ、聖書で成功している聖徒達の性質であり、私達もならうべき姿勢であり、そして、世の何者にも勝る平安と喜びに満たされるコツである。
逆に、神を「小さく」して、自分を「大きく」する事、それは神の力を自ら制限する事に他ならない。
私達が心配したり、自分の事で頭がいっぱいになっている時、神を小さくし、働けなくしてしまっているが、自分を下ろし、神を大きくするなら、無限なる神が主体性を持って働かれ、大きな事を為して下さる。
私達は、主に対しては清純な乙女として低くへりくだるべきであるが、世に対しては、王族の祭司として主イエスの名によって大胆に神の子としての主権を行使し、サタンに対しては、イエスの名によって強く雄々しく立ち向かい、大いに勝利し分捕るべきである。

マリヤは続いて、傲慢な者がたどる道についても歌っている。
『主はみ腕をもって力をふるい、心の思いの奢り高ぶる者を追い散らし、権力ある者を王座から引きおろし、卑しい者を引き上げ、飢えている者を良いもので飽かせ、富んでいる者を空腹のまま帰らせなさいます。』
自分を大きくし、主たるお方を小さくするのは、聖書では失敗する典型であり、強制的に低くされてしまう。
例えば、アブラハムの妻・サラの女奴隷であったハガルは、自分が身篭ったのを知ると、アブラハムの家の「はしため」である地位を忘れ、傲慢になり、女主人であるサラを軽んじるようになった。(創世記16章)
マリヤは、神の子を身篭った事を聞いた時、自分を卑しく低くしたが、ハガルはその全く逆だった。
それ故ハガルは追い出され、道を行く途中、主の使いに声をかけられた。「サライの女奴隷ハガルよ。あなたはどこから来て、どこへ行こうとしているのか。」 主の使いはハガルの本来の立場である「サライの女奴隷」と呼び、彼女はそれに対し、自分は「”女主人”サライのもとから逃げているところです」と答えた。
彼女がもし「自分はアブラムの妻になってしかるべき」とか「サライは不当だ」などと自己主張していたら、どうなっていただろうか?それは、アダムやエバ、カインが自己主張した結果を見れば、大体想像できる。
彼女が正しい立ち位置を宣言したので、主の使いは「女主人のもとに帰り、従順に仕えなさい。」と、本来あるべき姿、あるべき所へ帰るよう諭し、そして、「あなたの子孫を数えきれないほど多く増やす。」と、祝福の約束も与えられた。主従関係において、正しい立ち位置に戻るなら、主は祝福を戻して下さるのである。
キリストは、神であられるのに自分を低くし、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。
このように、神の力強い御手の下にへりくだるなら、神はちょうど良い時に高くして下さるのだ。(1ペテ5:6)

マリヤは、霊においては「救い主」なる神を、大いに喜び楽しんだ(47節)。
皆さんは、若い花嫁が花婿を喜び楽しむように、主を喜び楽しんでいるだろうか?
私達を再建して下さる主もまた、私達を喜びとされる。「若者がおとめをめとるように、あなたを再建される方があなたをめとり、花婿が花嫁を喜びとするように、あなたの神はあなたを喜びとされる。」(イザヤ62:5)
マリヤが大いに喜んだ根拠は「力あるかたが、わたしに大きな事をしてくださったから」だった。
万物はキリストのために存在し、キリストにあって成り立っている。その偉大な主が、私達の所に下りて来られ、私達と実際に関わり、しかも、私達の内に宿って下さる。それはどんなに莫大な喜びであろうか。
「そのみ名はきよく、そのあわれみは、代々限りなく主をかしこみ恐れる者に及びます。」(ルカ1:49-50)
マリヤに与えられた、途方も無い幸いと祝福は、主を大きくし、自分を低くする人のものなのだ。
万物の存在の根拠なる主を喜び楽しみ、そして、その主からも喜び楽しまれる皆さんでありますように!

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
新しくなるために(イザヤ43:16-21):右クリックで保存

キリスト教会 説教メッセージ

【概要】

キリストにある者は新しく造り変えられた存在であり、古い性質は過ぎ去り、すべてが新しくされる。神は荒野に道を、荒地に川を設け、神の民を新しく造り変えて、神の栄光を宣べ伝える者としてくださる。

【聖書箇所】

  • イザヤ43:16-21

  • 2コリント5:16-19

  • コロサイ3:1-11

【励ましの言葉】

  • キリストのうちにあるなら、誰でも新しく造り変えられる

  • 古いものは過ぎ去って、すべてが新しくなる

  • 主は荒野に水を湧き出させ、荒地に川を流してくださる

  • 私たちの命はキリストとともに神のうちに隠されている

【勧めの言葉】

  • キリストのうちに留まり続けなさい

  • 先のことども、昔のことどもを思い出さず、主の新しいわざに目を向けなさい

  • 肉的な標準ではなく、キリストを中心に考えるように造り変えられなさい

  • 真理によって思いを塗り替え、神の子らしく歩みなさい

【戒めの言葉】

  • 偽りに騙されてはいけない

  • 以前の古い欲に戻ろうとする誘惑に負けてはいけない

  • 地上のものを思わず、天にあるものを思いなさい

【AIによる文字起こし】

【第1部】(冒頭〜「先のことどもを思い出すな」の勧めまで)

今日、私たちが恵みをいただく御言葉は、イザヤ書43章16節から21節です。

イザヤ43:16-21
「海の中に道を、激しく流れる水の中に通り道を設け、戦車と馬、強力な軍勢を連れ出した主は、こう仰せられる。彼らはみな倒れて起き上がれず、灯心のように消える。
先の事どもを思い出すな。昔の事どもを考えるな。
見よ、わたしは新しいことをする。今、もうそれが起ころうとしている。あなたがたはそれを知らないのか。
確かにわたしは荒野に道を、荒れ地に川を設ける。
野の獣、ジャッカルやダチョウもわたしを崇める。わたしが荒野に水を湧き出させ、荒れ地に川を流し、わたしの民、わたしの選んだ者に飲ませるからだ。
わたしのために造ったこの民は、わたしの栄誉を宣べ伝えよう。」
アーメン。

主は、造り替えの主であられます。私たちの古い性質を過ぎ去らせ、終わりとし、神の子として、まったく新しく造り替えてくださるお方です。罪の性質を取り除き、神の子にふさわしい性質を新しく形づくり、ジャッカルやダチョウにたとえられるようなあり方をも取り除いて、私たちを聖なる者として新しくしてくださる主です。

「福音」とは、良い知らせです。では、何がそれほど良い知らせなのでしょうか。なぜ私たちはイエス・キリストを慕い、なぜ教会へ集うのでしょうか。
教会に食べ物があるから、ということではありません。私たちは御言葉を聞くために来るのです。御言葉によって、私たちは整えられ、日々新しく造り替えられていきます。かつてはダチョウのような性質を抱えていたとしても、御言葉を聞き、受け取る者へと、主は造り替えてくださいます。

実際に、「ダチョウのような性質も神を崇める」という御言葉を信じて祈り続けるうちに、かつての性質が取り除かれ、驚くほど穏やかで品位ある人へと造り替えられていく姿を、私たちは目の当たりにすることがあります。

福音が良い知らせである理由の一つは、まさにここにあります。古いものが過ぎ去り、すべてが新しくされる――その秘訣が御言葉の中にあり、イエス・キリストのうちにあるからです。だから私たちは教会に集い、御言葉に耳を傾けるのです。

主は、イザヤ書43章で「先のことどもを思い出すな。昔のことどもを考えるな」と仰せになります。礼拝の中に、なお「先のことども」「昔のことども」、あるいは、さきほどまで心を占めていた思い煩いや不安を持ち込んだままでいるなら、ここで受け取るべき恵みを受け損ねてしまいます。
ですから今、私たちの思いを主の御前で静め、主に向け直しましょう。先のことども、思い煩いを、今この時、主の手にお委ねしましょう。


【第2部】(造り替えの確かさと「目的」〜2コリント5:16-17まで)

皆さんはキリストにあって、確かに造り替えられます。たとえ私たちがしつこく過去を思い返し、古い性質に引き戻されそうになったとしても、主はなお私たちに働きかけてくださいます。私たちが主に立ち返るなら、それでよいのです。

ただし、この恵みの招きには、私たちが軽んじてはならない厳粛さもあります。私たちが「立ち返るべき時」を先延ばしにしてよいのではありません。主に立ち返るなら、造り替えは確かに起こります。古いものは過ぎ去り、すべてが新しくされます。

なぜ、私たちは造り替えられるのでしょうか。そこには神の目的があります。20節が語るとおり、主を崇める者となるためです。

「ジャッカルやダチョウもわたしを崇める」とあるのは、主が荒れ地に川を流し、主の民、選ばれた者に飲ませてくださるからです。どれほど荒れた者であっても、どれほど愚かさを抱えていたとしても、主はその人を潤し、主を崇める者へと導かれます。

さて、この造り替えには、聖書がはっきり示す要点があります。御言葉は「無条件に、だれでも自動的に新しくなる」と語っているのではありません。鍵となるのは、**「キリストのうちにあるなら」**ということです。キリストのうちにあるなら新しくされます。キリストのうちにとどまらないなら、造り替えは実を結びません。

そのことを、第二コリント5章は明確に語ります。

2コリント5:16-17
「ですから、私たちは今後、人間的な標準で人を知ろうとはしません。かつては人間的な標準でキリストを知っていたとしても、今はそのような知り方はしません。
だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」
アーメン。

キリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。私たちが教会に集うのは、ただ何かを享受するためではなく、御言葉を受け、キリストのうちにとどまり、造り替えにあずかるためです。キリストのうちにあるなら、古いものは過ぎ去り、すべてが新しくなります。

教会においては、かつて「人間的な標準」、すなわち肉的な物差しで物事を見ていた者が、その枠を越え、キリストを中心にして考え、歩む者へと変えられていきます。

この「人間的な標準」とは、直訳すれば「肉によって」という意味合いです。かつては肉的な考え方でキリストを理解していたとしても、今はもはや、そのような知り方はしません。

世の多くの人は、キリストを、過去の偉人の一人のように捉え、聖書を昔話のように扱うことがあります。残念ながら、教会の中にも、そのような伝え方にとどまってしまうところがあるかもしれません。しかし私たちは、肉的な標準でキリストを知ろうとはしません。キリストのうちにあるなら、造り替えが起こるからです。それは昔も今も変わりません。使徒パウロの時代と同じ造り替えが、今日を生きる私たちにも起こり得るのです。


【第3部】(ペテロとユダの対比〜「和解の務め」まで)

ペテロは、イエス様を知らないと三度言いました。しかし彼は造り替えられました。なぜなら、倒れながらも、なおキリストのもとにとどまったからです。

一方、イスカリオテのユダは、最後まで自分の価値観に固執し、キリストのもとに立ち返る道を選びませんでした。自分の歩みを自分で結論づけ、そこで終わらせてしまいました。

しかしペテロは、自分の誇りを脱ぎ捨てました。「もはや自分は何者でもない。ただキリストにすがるしかない。」その姿が、復活の主と再会したときに表れます。ペテロは上着をまとい直し、そして水に飛び込み、主のもとへと向かったのです。裏切りの痛みを抱えながらも、なお主を手放さなかったのです。

私たちも、自分の弱さや罪に打ちひしがれることがあるでしょう。しかしそのときこそ、何もかも抱えたままで、キリストのもとへと走り寄るのです。そうするなら、造り替えは起こります。ペテロは大胆な証人へと造り替えられ、多くの人々の前で、イエス・キリストを証しする者となりました。キリストのうちにあるなら、だれでも造り替えられるのです。古いものは過ぎ去り、新しくされます。

ただし、これらは、私たちを単に心地よくさせるための出来事ではありません。私たちが新しくされるのは、「神から出ている」からです。造り替えは神の御業であり、神の目的に結びついています。

第二コリント5章18節から19節は、その目的を語ります。

2コリント5:18-19
「これらのことはすべて神から出ているのです。神はキリストによって私たちをご自分と和解させ、また和解の務めを私たちに与えてくださいました。」

私たちには「務め」があります。これは働き(ミニストリー)です。主が私たちを造り替えるのは、私たちがこの職務――和解の務めを担うためです。神とこの世とを和解へ導くための務めです。

イエス様は今、地上において肉体をもっておられる形ではおられません。しかし私たちは肉体をもっています。キリストは、私たちを通して、和解の務めを進められます。神がこの務めを地上でなされるとき、神は私たちを用いられるのです。

 

私たちは「自分に務めが果たせるのか」と恐れを覚えるでしょう。しかし主は、私たちにその務めを託されました。だからこそ、私たちは新しく造り替えられた者とされたのです。肉的な思考に支配される歩みを脱ぎ捨て、神の御心のために整えられていくのです。以前のものは過ぎ去ります。

【第4部】(コロサイ3章〜たとえ〜コロサイ3:5-11〜結び)

それゆえ、私たちはもはや、以前の「肉的な標準」によって動くのではありません。肉的な思考パターン、肉的な衝動に導かれる歩みから、主は私たちを解放し、神の和解の務めのために整えてくださいます。以前のものは過ぎ去ります。

そして、そうであるならば、聖書ははっきりと語ります。もはや以前のものは、「死んだ」のです。過去形で記されています。そのことが、コロサイ人への手紙3章に書かれています。

コロサイ3:1-4
「こういうわけで、もしあなたがたがキリストとともによみがえらされたのなら、上にあるものを求めなさい。そこにはキリストが神の右に座を占めておられます。
あなたがたは地上のものを思わず、天にあるものを思いなさい。
あなたがたはすでに死んでおり、あなたがたのいのちは、キリストとともに神のうちに隠されてあるからです。
私たちのいのちであるキリストが現れると、そのとき、あなたがたもキリストとともに栄光のうちに現れます。」
アーメン。

ここには、「あなたがたはすでに死んでおり」と明確に書かれています。そして、「あなたがたのいのちは、キリストとともに神のうちに隠されてある」とあります。つまり、真理の上では、すでに「古い人」は終わり、私たちはキリストとともに死に、そして新しい命に生かされているのです。これは事実です。

ところが、私たちがなお「死んでいないかのように」、あたかも古い人のままで生きているかのように振る舞ってしまうことがあります。それは、頭の中に残っている古い思考パターン、古い記憶、古い思い込みが、なお強く私たちを引きずるからです。真理の上では新しくされたのに、古い考え方で動いてしまうと、結果として「古い自分」であるかのように生きてしまうのです。

ここで、たとえ話をいたします。もし仮に、「イエス・キリストを信じた犬が人間になる」という法則があるとしましょう。犬は四本足で歩きますね。ところが、その犬が信じて、すでに人間に造り替えられたにもかかわらず、なお四本足で歩き続けているなら、それは以前の行動パターンが染みついたままだからです。

しかし神の目から見れば、また周囲の客観的な目から見れば、その存在はすでに「犬」ではなく「人間」になっています。けれども本人の内側だけが、「自分は犬だ」という古い認識のまま生きてしまっている――そういう状態に似ています。

だからこそ必要なのは、頭の中に残る古いパターン、古い思い込みを捨てて、真理を適用することです。「自分はキリストにあって新しく造り替えられた。古い命は終わった。新しい命が与えられた。」この真理をもって、自分の思いを塗り替えていくのです。

真理によって思いを塗り替えていくとき、私たちはますます神の子らしく整えられていきます。たとえ話の中でも、もし「自分はもう犬ではない。人として生かされているのだ」と理解するなら、以前の習慣を改め、ふさわしい歩みに向かっていくでしょう。もちろんこれは比喩ですが、言いたいことは明確です。私たちもまた、「古い自分はすでに終わった」という真理を、御言葉によって思いに刻み、日々塗り替えていく必要があるのです。

コロサイ3章3節を、改めて味わいましょう。

コロサイ3:3
「あなたがたはすでに死んでおり、あなたがたのいのちはキリストとともに神のうちに隠されてあるからです。」
アーメン。

この御言葉を、どうか思いの深いところに塗り込んでください。
そうするなら、古い生活パターン、古い罪の思考、古い反応は、御言葉によって少しずつ塗り替えられていきます。そして、神の子としての実態を、ますます身にまとっていくようになります。神の子としての栄光が、生活に現れてくるのです。造り替えが進んでいきます。

続いて、コロサイ3章5節以降を読みます。

コロサイ3:5-11
「ですから、地上の体の諸部分、すなわち不品行、汚れ、情欲、悪い欲、そしてむさぼりを殺してしまいなさい。このむさぼりがそのまま偶像礼拝なのです。
このようなことのために神の怒りが下るのです。あなたがたも以前、そのようなものの中に生きていたときは、そのような歩み方をしていました。
しかし今は、あなたがたもすべてこれらのこと、すなわち、怒り、憤り、悪意、そしり、あなたがたの口から出る恥ずべきことばを捨ててしまいなさい。
互いに偽りを言ってはいけません。あなたがたは古い人をその行いと一緒に脱ぎ捨てて、新しい人を着たのです。
新しい人は、造り主の形に似せられて、ますます新しくされ、真の知識に至るのです。
そこには、ギリシア人とユダヤ人、割礼の有無、未開人、スキタイ人、奴隷と自由人というような区別はありません。キリストがすべてであり、すべてのうちにおられるのです。」
アーメン。

ここで9節は、「互いに偽りを言ってはいけません」と語ります。これは、互いに対してだけではなく、自分自身に対しても、また敵のささやきに対しても、真理を守りなさいということでもあります。私たちは騙されてはなりません。

サタンはしばしば、「以前のほうがよかっただろう」「その欲に戻れば楽になる」と、偽りを吹き込んできます。しかし、騙されてはなりません。私たちはすでにキリストにあって、新しい人を着たのです。古いものは過ぎ去りました。

「新しい人は、造り主の形に似せられて、ますます新しくされ、真の知識に至る」とあります。つまり、造り替えは一度きりの出来事で終わるのではなく、主の御手の中で、さらに進み続けていきます。

ですから、怒り、憤り、悪意、そしり、貪り、恥ずべきことば――そうしたものに引きずられないようにしましょう。
私たちのアイデンティティは「神の子」です。古い人は過ぎ去り、古い命は終わり、キリストにあって新しい命が与えられました。これが私たちの真理であり、立つべき土台です。

たとえ話のように、もし私たちがなお古い歩み方に戻ろうとするなら、それは「古い認識」に引きずられているからです。しかし、御言葉の真理をもって思いを塗り替えるなら、私たちは新しい命にふさわしく歩むことができます。神の子として、ますますキリストの似姿へと造り替えられていきます。

どうか皆さんが、古いものに縛られず、キリストにあって新しい命を大胆に生き、ますます新しくされていきますように。主が私たちを造り替えてくださることを信じ、真理のうちに立ち続ける者となれますように。

 

主イエス・キリストの御名によって祝福いたします。アーメン。

【結論】

キリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者であり、古いものは過ぎ去って、すべてが新しくなった。私たちはすでにキリストとともに死んでおり、私たちのいのちはキリストとともに神のうちに隠されている。肉的な思考パターンや古い行動パターンを真理によって塗り替え、神の子としてのアイデンティティをしっかりと持って、神の和解の務めを果たすために、キリストの似姿へとますます造り変えられていく歩みを続けよう。

礼拝説教メッセージ音声:神が敵を頑なにする理由(申命記2:26-37):右クリックで保存

『そこでわたしは、ケデモテの荒野から、ヘシボンの王シホンに使者をつかわし、平和の言葉を述べさせた。『あなたの国を通らせてください。わたしは大路をとおっていきます、右にも左にも曲りません。金で食物を売ってわたしに食べさせ、金をとって水を与えてわたしに飲ませてください。徒歩で通らせてくださるだけでよいのです。』(申命記2:26-28)
主は24節で、この国は既にイスラエルの手に渡してある、戦って占領せよ、と言われていたが、モーセは和平を申し出ている。
いきなり戦いを仕掛ける前に、和平交渉をする事は、御言葉に適った事であるが(申命記20:10)、この場合、主は既にエモリ人の国をイスラエルに渡されている事を明確に示しておられたのだから、エモリ人が和平の申し出を蹴る事は、主にあって想定内であった。
実際、このエモリ人の国は心をかたくなにし、強気になって、イスラエルに歯向かってきた。
こちらが平和に立ったのに、あちらは争いを仕掛けてきたのだから、イスラエルが正しくエモリ人が悪かったと誰もが認めざるをえない。

エジプトの時ももそうだったが、主はその国を滅ぼして神の栄光をあらわすため、また神の民を栄えさせるため、悪しき者達の心をかたくなにされる事がある。
人は言う。「それならなぜ、神は人を責められるのか。誰が神のご計画に逆らうことができるだろう。」と。しかし、それに対してはパウロは言う。
神を評価し、自分を正しいとして神を不当とするあなたは、一体何者か、と。(ローマ9:18-24)

主は確かに、ある人を滅ぼすために、その人の心を頑なにされるが、主は映画のキャストでも選ぶように、ある人は滅び役、ある人は救い役と訳もなくするわけではない。
滅ぼされる人の側に、責任があるのだ。

もし人が、欲望のままに歩む事を止めず、あくまで神に逆らい続けるのであれば、神はその人をかたくなな心のままに任せ、汚れと滅びの中へ引き渡される。(ローマ1:24)
神はむしろ、豊かな寛容をもって、長い間忍耐し、人が悪しき事を止め、主に立ち返る事をずっと待っておられるのだ。(ローマ9:22)
神はどれ程忍耐深く待たれるお方であるか。また、かたくなにされ滅びが定められてしまった人達は、どれ程恩知らずであったか。

主は、大洪水で世を滅ぼされる前、人間がはなはだ堕落していた時代を、千何年も忍耐して来られたが、人々はついに行いを改めなかった。
またエジプトは、ヨセフから受けた恩恵を仇で返してイスラエルを奴隷としてこき使い、しまいには男子が生まれたらナイルに投げ込むまでに悪を行ったが、主は400年以上もの間ずっと忍耐して来られた。それでもエジプトは、行いを改めなかった。
そして、このエモリ人の国は、アブラハムの時代からずっと何百年も悪を行っており(創世記15:16)、ついには主の憐れみの期間が尽きてしまったため、主はシホンを頑なにし、滅ぼすに任されたのだ。

このように、トータルで見るならば、主は徹底的に真実で、忍耐深くあられた事が分かり、また、それに対する人間がいかに不真実で罪深いかが浮き彫りにされる。
だから、人は誰も、主がなさる事にとやかく言う権利はないのだ。

『その時、われわれは彼のすべての町を取り、そのすべての町の男、女および子供を全く滅ぼして、ひとりをも残さなかった。』(申命記2:34)
私達も、主にあって滅ぼしつくすべきものは、惜しまずに、滅ぼしつくすべきである。
サウル王は、滅ぼしつくすべきものを惜しみ、その事をサムエルから咎められても、悔い改めず、「神への捧げ物だ」と言い訳したため、主に忌み嫌われた。
バラムも、受け取ってはならぬ不正の報酬を受け取るために奔走し、主がロバをしゃべらせて制止されたのに彼は聞かず、ついには滅びへと邁進してしまった。

神が恵み深く、悪を行っても全く罰されないのを調子に乗っていると、やがては痛い目を見る。
神はいつまでも許してくださると思い、悪の道を変えないのなら、やがて間に合わなくなってしまう時が来るのである。

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
山上の説教 - 姦淫について(マタイ5:27-32):右クリックで保存

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
裁かれる大バビロンという淫婦(黙示録18:1-13):右クリックで保存

礼拝説教メッセージ音声:エサウやロトの子孫でさえ勝利しているのに(申命記2:9-25):右クリックで保存

イスラエルが約束の地へ向かうに当たり、今度はモアブやアモンの領土、すなわち、アブラハムの甥・ロトの子孫の領土を通過する上での命令と、そして励ましとを与えられた。

『その時、主はわたしに言われた、『モアブを敵視してはならない。またそれと争い戦ってはならない。彼らの地は、領地としてあなたに与えない。ロトの子孫にアルを与えて、領地とさせたからである。』(申命記 2:9)
主は、モアブはイスラエルの近親の民族であるから、争わず平和の内に通過するよう命じておられた。
しかし実際は、モアブがイスラエルを恐れて敵対し、モアブの王バラクはバラムを雇ってイスラエルを呪わせようとした。(民数記22−24章)
ただ、この時点で主は、ロトの子孫はアブラハムの近親であった故に、憐れみを注いでおられた。

唐突に主は、このロトの地やエサウの地の歴史を挿入している。
『むかし、エミびとがこの所に住んでいた。この民は大いなる民であって、数も多く、アナクびとのように背も高く、またアナクびとと同じくレパイムであると、みなされていたが、モアブびとは、これをエミびとと呼んでいた。ホリびとも、むかしはセイルに住んでいたが、エサウの子孫がこれを追い払い、これを滅ぼし、彼らに代ってそこに住んだ。主が賜わった所有の地に、イスラエルがおこなったのと同じである。』(申命記2:10-12)

これらの土地には、かつて、背の高い強大な原住民が住んでいた。しかし、今はもういない。
エサウの子孫も、ロトの子孫も、それらの先住民を、滅ぼしたからだ。
それで彼らは、現在、そこで安住している。

あの、俗悪なエサウの子孫でさえ、また、あの近親相姦で生まれたモアブやアモンでさえ、イスラエルの父アブラハムと関係する子孫だからと言うので、主が特別扱いし、力づけ、先住民である巨人たちを打ち倒し、主が彼らのために保っておられた地に、安住している。
それに引き換え、アブラハムの正当な子孫であるあなた方・イスラエルを、どうして主は良くして下さらない事があろうか、と、勇気づけておられるのだ。

『「あなたがたは、いま、立ちあがってゼレデ川を渡りなさい。」そこでわれわれはゼレデ川を渡った。カデシ・バルネアを出てこのかた、ゼレデ川を渡るまでの間の日は三十八年であって、その世代のいくさびとはみな死に絶えて、宿営のうちにいなくなった。主が彼らに誓われたとおりである。まことに主の手が彼らを攻め、宿営のうちから滅ぼし去られたので、彼らはついに死に絶えた。』(申命記2:13-15)

40年前、イスラエルは不信仰の故に、主が進むように言われた地に、行かなかった。
彼らは、主が導こうとしておられる地は堅固な城壁の町々で、巨人がいて、自分達を飲み尽くしてしまう、と、悪く言いふらし、イスラエル全体を進ませなかったため、主はその世代の成人男子を皆、荒野で死に絶えさせた。

そこで、彼らが荒野で滅び尽くした今、主は今一度イスラエルを力強く励ましている。
『あなたがたは立ちあがり、進んでアルノン川を渡りなさい。わたしはヘシボンの王アモリびとシホンとその国とを、おまえの手に渡した。それを征服し始めよ。彼と争って戦え。きょうから、わたしは全天下の民に、おまえをおびえ恐れさせるであろう。彼らはおまえのうわさを聞いて震え、おまえのために苦しむであろう』。』(申命記2:24-25)

主が共にいるのであれば、何も恐れる事は無い。
あの俗悪な者の子孫たちでさえ、アブラハムのゆえに憐れみが注がれ、巨人たちに打ち勝たせ、主が保って下さった地で安心して暮らしている。
アブラハムの正当な子孫であるイスラエルのために、主は今、敵国内に恐れを生じさせ、勝利させるようにしておられる。
どうして進まないでおれようか。

今、皆さんの目の前にも、立ちはだかる巨人はいるだろうか。超えるべき山は、そびえているだろうか。
皆さんも、主に信頼して進むなら、天と地を造られた主から助けが来るのだ。

『わたしは山にむかって目をあげる。わが助けは、どこから来るであろうか。わが助けは、天と地を造られた主から来る。主はあなたの足の動かされるのをゆるされない。あなたを守る者はまどろむことがない。見よ、イスラエルを守る者は/まどろむこともなく、眠ることもない。
主はあなたを守る者、主はあなたの右の手をおおう陰である。昼は太陽があなたを撃つことなく、夜は月があなたを撃つことはない。主はあなたを守って、すべての災を免れさせ、またあなたの命を守られる。主は今からとこしえに至るまで、あなたの出ると入るとを守られるであろう。』(詩篇121:1-8)

礼拝説教メッセージ音声:除外されてしまう期間(申命記2:1-8):右クリックで保存

『それから、われわれは身をめぐらし、主がわたしに告げられたように、紅海の方に向かって荒野に進み入り、日久しくセイル山を行きめぐっていたが、主はわたしに言われた、「あなたがたは既に久しくこの山を行きめぐっているが、身をめぐらして北に進みなさい。」』(申命記2:1)

ここには「久しくセイル山を行きめぐっていた」とあるが、イスラエルの民がどのくらいセイル山の周りを行き巡っていたかというと、なんと、38年以上もの年月行き巡っていたのである。それを、たった1節で片付けている。
民数記でも同じように、19章から20章の間で、38年以上もの時間をひとっ飛びしている。
色々な事件やドラマがあったであろう、その長き年月が、記録もされずに、飛ばされてしまう。そう、信仰によらない日々、すなわち、神から離れて不従順の内に過ごした年月や、罪のむくいを償還するための長き年月は、永遠の書物には、書き記されないのだ。

アブラハムも、神の約束を待つのではなく妻の助言を聞いてハガルをめとり、肉の力でイシュマエルを産んだ時、神が沈黙し、全く記録されない空白の13年があったし(創世記16:15〜17:1)、マタイの1章の系図でも、不信仰の悪い王の名は省かれてしまっており、あたかも存在しなかったかのような扱いである。
このように、不信仰の世代や、不信仰の期間は、主からカウントされず、永遠の書物から除外されてしまう、という事があるのだ。

『おまえはまた民に命じて言え、「あなたがたは、エサウの子孫、すなわちセイルに住んでいるあなたがたの兄弟の領内を通ろうとしている。彼らはあなたがたを恐れるであろう。それゆえ、あなたがたはみずから深く慎み、彼らと争ってはならない。彼らの地は、足の裏で踏むほどでも、あなたがたに与えないであろう。わたしがセイル山をエサウに与えて、領地とさせたからである。あなたがたは彼らから金で食物を買って食べ、また金で水を買って飲まなければならない。』(申命記2:4-6)
荒野での40年の月年の終わりに、主は約束の地に向かって歩を進め、イスラエルの兄弟・エサウの領土を通る際の注意事項を示された。

エサウは長子の権利を一杯の食物で売った俗悪な者であるが、それでも主は、彼の父・アブラハムの故に、ちゃんと相続地を定め守っておられ、イスラエルも、彼らの土地を通過する時は、争ったりせず、食料や水を金で買うように命じている。
『あなたの神、主が、あなたのするすべての事において、あなたを恵み、あなたがこの大いなる荒野を通るのを、見守られたからである。あなたの神、主がこの四十年の間、あなたと共におられたので、あなたは何も乏しいことがなかった。』(申命記2:6-7)
主は、俗悪なエドムでさえ、きちんと相続すべき分を与えておられる事を見せ、そして彼らの権利を守るよう命じられた。

ひるがえって、イスラエルはどうだったか。
イスラエルは今まで、荒野の中でもしっかり守られ、主に養われ、導かれて来た。
「あなたは何も乏しいことがなかった」と言われたように、彼らは、いのちの危険がいつも付きまとう岩砂漠地帯を、40年も旅して来たというのに、なんと不足は無かったのである。
それは信じられない事かもしれないが、主は実際、誠実に、真実に養ってこられたのだ。

私達は、自分自身の不信仰や罪の故に、空白の13年や、荒野での38年を通るかもしれない。
たとえそうなったとしても、主の恵みと養いは、その間、尽きる事がない。
荒野での長き期間、イスラエルは一体、何万トンのマナで、何万キロリットルの水で養われたというのだろうか。
人は、無駄に日々を費やしたとは思っていても、それでも主の恵みは、途方もなく膨大に注がれていたのだ。

私達が通らされた荒野の経験は、決して無駄ではなく、その間、私達の不従順は削ぎ落とされ、信仰が培われ、主が真実に養って下さったという体験が残るのである。

礼拝説教メッセージ音声:呪いの根源 - 神から独立した善悪判断(申命記1:34-46):右クリックで保存

『主は、あなたがたの言葉を聞いて怒り、誓って言われた、「この悪い世代の人々のうちには、わたしが、あなたがたの先祖たちに与えると誓ったあの良い地を見る者は、ひとりもないであろう。」』(申命記1:34-35)
主の御言葉に聞き従わず、不従順を貫き通した「悪い世代」は、カレブ以外、誰も良き地に入れない事が確定してしまった。
そして、あの多くの功績を残したモーセであっても、御言葉に聞き従わないなら、良き地に入れないのだ。

主に聞き従わない事は災いだが、その根源は、「神から独立して自分で善悪判断をする」というスタンスである。
『またあなたがたが、かすめられるであろうと言ったあなたがたのおさなごたち、およびその日にまだ”善悪”をわきまえないあなたがたの子供たちが、そこにはいるであろう。わたしはそれを彼らに与える。彼らはそれを所有とするであろう。』(申命記1:39)
荒野で滅びる事が確定してしまった「悪い世代」と、アダムとエバとに、共通している事がある。
それは、神から独立した善悪判断をして、身勝手な事を行い、その結果死と呪いを刈り取り、主が用意された良き地から吐き出されてしまうという「失楽園」を経験してしまった事だ。

エデンの園以来、私達には常に、究極の二択が迫られている。
究極の二択、それは、「善か、悪か」ではない。
「いのちの木か、善悪の木か」である。(詳細: http://voice.of.christ.yokohama/modules/d3blog/details.php?bid=1335 )
私達が、神から独立して自分で善悪判断をするなら、失楽園し、労苦の挙句に死ぬのみであるが、自分の善悪判断を降ろし、イエス・キリストといういのちの木から取って食べるなら、私達は楽園(パラダイス)に入り、永遠に生きるのである。

『しかし、あなたがたはわたしに答えて言った、『われわれは主にむかって罪を犯しました。われわれの神、主が命じられたように、われわれは上って行って戦いましょう』。そして、おのおの武器を身に帯びて、かるがるしく山地へ上って行こうとした。』(申命記1:41)
イスラエルの民は「われわれは主にむかって罪を犯しました。」と、自分の罪を認めているが、主の御言葉への服従が全く無く、相変わらず自分の善悪判断を固く握りしめている。
それは以下の事でわかる。

『その時、主はわたしに言われた、『彼らに言いなさい、「あなたがたは上って行ってはならない。また戦ってはならない。わたしはあなたがたのうちにいない。おそらく、あなたがたは敵に撃ち敗られるであろう」』。このようにわたしが告げたのに、あなたがたは聞かないで主の命令にそむき、”ほしいままに”山地へ上って行ったが、その山地に住んでいるアモリびとが、あなたがたに向かって出てきて、はちが追うように、あなたがたを追いかけ、セイルで撃ち敗って、ホルマにまで及んだ。』(申命記1:42-44)
彼らは「こうするのが主に償いをする事だ」と、身勝手な思い込みで突き進み、それで散々な目に遭って、逃げ帰ってきた。
主の御旨に叶っていない事を、人が”ほしいままに”行うなら、主はそんな人は助けない。

『あなたがたは帰ってきて、主の前で泣いたが、主はあなたがたの声を聞かず、あなたがたに耳を傾けられなかった。』(45節)
主は、人が流すどんな涙でも、目を留めて下さるものではない。
美しい涙と、醜い涙がある。
自分の罪を悲しみ、主の元で悔いる涙は美しく、主はそれを受け止めて下さるが、自分の欲望が満たされなかった事を悲しむ涙、自分の思い通りに行かない事を嘆く涙は醜く、その泣き顔は、神と人との怒りを引き起こす。

私達は「いのちの木か、善悪の木か」のどちらを選ぶかを主から提示されており、もし善悪を選ぶなら、私達は死と呪いを刈り取り、「失楽園」してしまう。
私達が選び取るべき「いのちの木」は、まことの食物であるイエス・キリストである。
「わたしは命のパンである。・・・これは天から降って来たパンであり、これを食べる者は死なない。わたしは天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。」(ヨハネ6:48-51)

キリストは十字架を負われ、自分の善悪判断を捨てられ、ただ御父のみこころに委ねられた。
私達もキリストにならい、自分で善悪判断する生き方を十字架にはりつけ、死に渡し、いのちなるお方イエス様にならって十字架上で御父に自らを明け渡すなら、いのちを得るのである。

礼拝説教メッセージ音声:底辺からいつまでも脱却できない人の思考パターン(申命記1:19-33):右クリックで保存

『その時わたしはあなたがたに言った、『あなたがたは、われわれの神、主がお与えになるアモリびとの山地に着いた。見よ、あなたの神、主はこの地をあなたの前に置かれた。あなたの先祖の神、主が告げられたように、上って行って、これを自分のものとしなさい。恐れてはならない。おののいてはならない』。』(申命記1:20-21)

この時、イスラエルの民が、モーセに言われた通りに、何も言わずそのまま行っていたなら、すんなり約束の地に入れたはずだ。
しかし、以下の民の言葉の故に、荒野の放浪が始まってしまった。主の命令に、人間が「でも」を混ぜてしまう事こそ、荒野の放浪の入り口なのである。

『あなたがたは皆わたしに近寄って言った、『われわれは人をさきにつかわして、その地を探らせ、どの道から上るべきか、どの町々に入るべきかを、復命させましょう。』』(同22節)

これは「知恵があり、人に知られている人々」(15節)なら、いかにも考えそうな、極めて常識的な提案である。
事前調査するのは、悪い事ではない。実際モーセも、それをするのは良いと思った。
民は今まで、主の御業を見てきたのだから、今回も主が、素晴らしい御業を為して下さるだろう、と、民は当然判断するものと、モーセは思っていたかもしれない。

しかし民の考え方は、モーセと同じではなかった。
民は、主がおられる事を度外視し、自分と相手を比べて計算して、絶望したのだ。

戦いであれ、友人関係であれ、主を度外視して「自分と相手を比べて計算」する事は、大いに問題である。
それに引き換え、ヨシュアとカレブは、「自分達の内にいます主と、相手とを見比べて計算」し、勝利を確信した。
主と相手とを見比べるなら、希望以外には考えつかないが、自分と相手とを見比べるなら、絶望以外には考えつかないものである。

『しかし、あなたがたは上って行くことを好まないで、あなたがたの神、主の命令にそむいた。そして天幕でつぶやいて言った。『主はわれわれを憎んでアモリびとの手に渡し、滅ぼそうとしてエジプトの国から導き出されたのだ。』(申命記1:26-27)

主は、四百年以上も前から、アブラハムの時代から、この地をイスラエルの民に与えると約束しておられた。
そして実際、彼らは、主がエジプトにおいて、荒野において、大きな御業をして下さった事を、何度も目の当たりにして来た。
それなのに、この期に及んで、「主はわれわれを憎んでアモリびとの手に渡し、滅ぼそうとしてエジプトの国から導き出されたのだ。」などと言っている。
一体どうしたらこんなひねくれた考えになるのか、と思うかもしれないが、主が為された事に目を向けず、主が共におられる事を度外視し続け、あくまで自分の考えに凝り固まって、自分の主張を通そうとしている者は、大体そのような愚かな判断をくだすものである。
主は、ねじ曲がった者にはねじ曲げる方であり、彼らが主に対して量っている通りに量り返すお方である。(詩篇18:26、ルカ19:22)

『われわれはどこへ上って行くのか。兄弟たちは、「その民はわれわれよりも大きくて、背も高い。町々は大きく、その石がきは天に届いている。われわれは、またアナクびとの子孫をその所で見た」と言って、われわれの心をくじいた』。』(申命記1:28)
これが、自分と相手を見比べてばかりいて、主を度外視している者の言葉であり、信仰生活を何年しても、霊的にも社会的にも底辺からいつまでも脱却できないクリスチャンの思考パターンである。

『その時、わたしはあなたがたに言った、『彼らをこわがってはならない。また恐れてはならない。先に立って行かれるあなたがたの神、主はエジプトにおいて、あなたがたの目の前で、すべてのことを行われたように、あなたがたのために戦われるであろう。あなたがたはまた荒野で、あなたの神、主が、人のその子を抱くように、あなたを抱かれるのを見た。あなたがたが、この所に来るまで、その道すがら、いつもそうであった』。』(申命記1:29-31)

モーセは19節で、「あなたがたが見た、あの大きな恐ろしい荒野を通り、アモリびとの山地へ行く道によって、カデシ・バルネアにきた。」と言っているが、実際その道は、石灰岩ばかりの岩砂漠地帯で、もし一日でも放って置かれたら、完全に干からびてしまう。
それなのに、彼らが長年守られて来たのは、主が昼は雲の柱によって照りつける太陽から守り、夜は火の柱で暗闇と寒さから守って来られたからだ。
主は、人のその子を抱いて運ぶように運ばれ、主が、めんどりが雛を覆うようにして、守って来られたのだ。

『このように言っても、あなたがたはなお、あなたがたの神、主を信じなかった。主は道々あなたがたの先に立って行き、あなたがたが宿営する場所を捜し、夜は火のうちにあり、昼は雲のうちにあって、あなたがたに行くべき道を示された。』(同32-33節)

主がして下さった事を一切思わず自分の考えに凝り固まってそれを降ろさない人、いつも自分と相手を比較して計算し、主を度外視している人は、荒野を放浪するような人生を歩んでいる。
私達は、ヨシュアやカレブのように、主を見、主と相手を比較して希望を得、信仰によって進み出て、いつも勝利する者でありたい。

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