メッセージ - 201410のエントリ
礼拝説教メッセージ音声:働き人の意気をくじく者達(士師記8:1-9):右クリックで保存
ギデオンは、近辺のミデヤン人の残党は他の部族に任せ、自分達は、逃げのびたミデアンの王・ゼバとザルムンナを追撃するために、ヨルダン川を渡り、東方へ急行した。
その時、ミデヤン人の首長オレブとゼエブを撃ち殺したエフライム人達が、ギデオンの所に来た。
『エフライムの人々はギデオンに向かい「あなたが、ミデアンびとと戦うために行かれたとき、われわれを呼ばれなかったが、どうしてそういうことをされたのですか」と言って激しく彼を責めた。』(士師記8:1)
ギデオン達は、敵を追撃している最中なのだが、エフライム族がわざわざヨルダン川を渡って、ギデオン達に面会を求めて来たのは、戦いに共に参加する為ではなく、「 なぜ自分達を先に呼ばなかったのか」と、どうでも良い事で激しくクレームするためだった。
そもそも、ギデオン達が角笛を吹いて戦いに召集したのは、主の霊に促されての事で(6:33-35)、戦いの呼びかけも、人選も、全て主に導かれての事だった。
そして、今回の戦いで主から選ばれたのは、三万二千人中、わずか三百人と、非常にシビアな選別だった。
だからこのような、誰を呼ぶ・呼ばない、という点で喧々諤々するために、わざわざ遠くまで足労するような性質の者達には、元から主の呼びかけが無かったのだろうし、たとえ呼ばれていたとしても、真っ先に人選から切り落とされ、ぶつぶつ不平を漏らして戦いの妨害さえしていた可能性が大いにある。
純粋に主のために働いている人の所に、名誉欲にかられた者が来て、どうでも良い事で難癖つけて疲れさせてしまうような事は、現代の教会でも大いにありうる事である。
そのような者達に、ギデオンは、実にうまく対応した。
『ギデオンは彼らに言った、「今わたしのした事は、あなたがたのした事と比べものになりましょうか。エフライムの拾い集めた取り残りのぶどうはアビエゼルの収穫したぶどうにもまさるではありませんか。神はミデアンの君オレブとゼエブをあなたがたの手にわたされました。わたしのなし得た事は、あなたがたのした事と比べものになりましょうか」。ギデオンがこの言葉を述べると、彼らの憤りは解けた。』(士師記8:2-3)
兄弟姉妹同士で争いごとをして、その間に敵を取り逃がしてしまうような、主の栄光にならない事を、ギデオンは選択しなかった。
主の働き人とは本来、主の栄光のために働くのであって、決して自分の満足や名誉のために働くのではない。確かに、ギデオンにも一言言いたい事はあっただろう。しかし、それを「主の故に」飲み込み、平和の内に速やかにこの問題を乗り越えて、すぐに、敵を追いかける任務へと戻った。
私達も、信仰が成長し切れていない弱い兄弟姉妹に対しては、霊的おとなとして、柔和な心で接するべきである。
『兄弟たちよ。もしもある人が罪過に陥っていることがわかったなら、霊の人であるあなたがたは、柔和な心をもって、その人を正しなさい。それと同時に、もしか自分自身も誘惑に陥ることがありはしないかと、反省しなさい。互に重荷を負い合いなさい。そうすれば、あなたがたはキリストの律法を全うするであろう。』(ガラテヤ6:1)
このように平和の内に 乗り越えたギデオンだったが、追撃を続けて行く内に、さらに意気をくじかれる経験をする。
『ギデオンは自分に従っていた三百人と共にヨルダンに行ってこれを渡り、疲れながらもなお追撃したが、彼はスコテの人々に言った、「どうぞわたしに従っている民にパンを与えてください。彼らが疲れているのに、わたしはミデアンの王ゼバとザルムンナを追撃しているのですから」。スコテのつかさたちは言った、「ゼバとザルムンナは、すでにあなたの手のうちにあるのですか。われわれはどうしてあなたの軍勢にパンを与えねばならないのですか」。』(士師記8:4-)
ギデオンは決して難しい注文をしているわけではなかった。
イスラエルのため、主のために命を賭して共に戦ってくれ、というのではなく、ただ、疲れているこの三百人にパンを分けてほしい、というものだったが、彼らは助けようとは一切せずに、けちな蔑みの言葉しか返さなかった。
このように、兄弟姉妹が主のため、兄弟姉妹のために戦っているというのに、指一本たりとも、びた一文たりとも助けようとしないキリスト者も、残念ながら、いる。
『ギデオンは言った、「それならば主がわたしの手にゼバとザルムンナをわたされるとき、わたしは野のいばらと、おどろをもって、あなたがたの肉を打つであろう」。そしてギデオンはそこからペヌエルに上り、同じことをペヌエルの人々に述べると、彼らもスコテの人々が答えたように答えたので、ペヌエルの人々に言った、「わたしが安らかに帰ってきたとき、このやぐらを打ちこわすであろう」。』(士師記8:7-9)
さすがのギデオンも、このような者に対しては、怒りを燃やした。
スコテも、ペヌエルも、ヨルダン川の東側の町であり、デボラとバラクが戦いに呼びかけた時も、彼らは戦いに参加せずに、ただ思案して、どうでもいい事にうつつを抜かしていた。(詳細: http://voice.of.christ.yokohama/modules/d3blog/details.php?bid=2093 )
イスラエルのため、主のために戦いをしているのに、それに参加せず、指一本たりとも助けようとしないどころか、蔑みを与えるような者は、主を蔑む者であり、そのような者達へは、それ相応の報いが待っている。
私達は、そのような者ではなく、ギデオンと三百人勇士のように、主の働きを忠実に行う者でありたい。
礼拝説教メッセージ音声:主の剣、ギデオンの剣(士師記7:16-25):右クリックで保存
『そして彼は三百人を三組に分け、手に手にラッパと、からつぼとを取らせ、つぼの中にたいまつをともさせ、彼らに言った、「わたしを見て、わたしのするようにしなさい。わたしが敵陣のはずれに達したとき、あなたがたもわたしのするようにしなさい。わたしと共におる者がみなラッパを吹くと、あなたがたもまたすべての陣営の四方でラッパを吹き、『主のためだ、ギデオンのためだ』と言いなさい」。』(士師記7:16-18)
ギデオンと三百人の勇士たちは、剣などの武具を一切持たず、ラッパ(ショファー:角笛、コルネット)と、からつぼと、たいまつだけを携えて、戦いに臨んだ。
彼らは、ともしびを空つぼの中に隠し、光が外に漏れないようにして、敵陣近くまで潜入し、ギデオンの合図を待った。
『こうしてギデオンと、彼と共にいた百人の者が、中更の初めに敵陣のはずれに行ってみると、ちょうど番兵を交代した時であったので、彼らはラッパを吹き、手に携えていたつぼを打ち砕いた。すなわち三組の者がラッパを吹き、つぼを打ち砕き、左の手にはたいまつをとり、右の手にはラッパを持ってそれを吹き、「主のためのつるぎ、ギデオンのためのつるぎ」と叫んだ。』(士師記7:19-20)
ちょうど見張りが交代し、異常なしという引き継ぎを受けたばかりの所で、敵は油断していた。
そこに近くまで侵入していたギデオン達が「主のためのつるぎ、ギデオンのためのつるぎ」と叫び声を上げ、空つぼを割り、ラッパを吹き鳴らした。
敵が見上げてみると、今まで何も見えなかった所に、無数のたいまつの火が灯され、あちらこちらからつぼの割れる音や、叫び声、ラッパの音がモレの谷にこだまし、響き渡った
敵は激しく混乱し、同士討ちが起こった。主がそのようにされたからである。
この素晴らしい計略は、ギデオン自身が編み出したものではない。
彼が主の御言葉に従順した時、聖霊によって示されたものある。
主の御旨を成し遂げたいと願う働き人には、主が聖霊を送って下さり、なすべき知恵や、語るべき言葉を与えて下さる。それは、福音を伝える伝道者も、講壇で御言葉を語る説教者も、賛美をリードする人も同じである。主イエスに全てを委ねるのであれば、聖霊がその人を導き、人の知恵や力を遥かに超えた働きが為されるのだ。
ギデオンはまず、ともし火を空つぼに入れるよう指示した。
それと同じように、私達も、まことの光であられるキリストを、土の器である私達の内に住まわせて歩むべきである。
そして、主の促しがあった時には、私達の「固定概念」や「自我」という「空つぼ」は割ってしまい、内に秘めていた光なるキリストを解き放ち、御言葉のともしびを高々と掲げるべきである。
それをせず、私達という空つぼを生かしておき、御言葉のともし火を閉じ込めたままにして置くなら、ただ熱せられて辛くなるだけである。(エレミヤ20:9、マタイ5:15-16)
私達という「空つぼ」を割り、光なるキリストを高く掲げるなら、暗闇の勢力は粉々に砕かれ、逃げ惑い、自滅して行くのだ。
私達は土の器である。そして私達キリスト者は、その内に、キリストという無限の宝を秘めている。
『わたしたちは自分自身を宣べ伝えるのではなく、主なるキリスト・イエスを宣べ伝える。わたしたち自身は、ただイエスのために働くあなたがたの僕にすぎない。「やみの中から光が照りいでよ」と仰せになった神は、キリストの顔に輝く神の栄光の知識を明らかにするために、わたしたちの心を照して下さったのである。しかしわたしたちは、この宝を土の器の中に持っている。その測り知れない力は神のものであって、わたしたちから出たものでないことが、あらわれるためである。』(2コリント4:5-7)
ギデオン達は、武器を一切使わず、空つぼを割る事、ともし火を掲げる事、「主の剣、ギデオンの剣」という叫びと、ラッパを鳴り響かせる事によって、勝利のきっかけをもたらした。
私達の勝利の仕方も、同じである。
すなわち、私達という土の器を割り、内におられるキリストの光を放たたせ、御言葉のともし火、すなわち、主の剣を高々と掲げ、そして主への賛美を響かせる事によって、勝利するのだ。
礼拝説教メッセージ音声:敵陣をひっくり返す一かたまりの大麦のパン(士師記7:9-15):右クリックで保存
『その夜、主はギデオンに言われた、「立てよ、下っていって敵陣に攻め入れ。わたしはそれをあなたの手にわたす。』(士師記7:9)
三百人の精鋭に絞られたギデオン達に、いよいよ主から攻撃命令が下った。
しかし、彼にとって初めての戦闘であり、しかも相手は、十三万五千。それに対して三百人で立ち向かうという、前代未聞の戦いには、当然、恐れがあっただろう。
そこで主は、ギデオンを安心させるため、「もし恐れるならば」というオプションプランも用意された。
『もしあなたが下って行くことを恐れるならば、あなたのしもべプラと共に敵陣に下っていって、彼らの言うところを聞け。そうすればあなたの手が強くなって、敵陣に攻め下ることができるであろう」。ギデオンがしもべプラと共に下って、敵陣にある兵隊たちの前哨地点に行ってみると、ミデアンびと、アマレクびとおよびすべての東方の民はいなごのように数多く谷に沿って伏していた。そのらくだは海べの砂のように多くて数えきれなかった。』(士師記7:9-12)
主は、もし恐れるなら、プラという人物と一緒に敵陣へ下って行って、彼らの内で取り交わされている会話を聞くように命じられた。
この”視察”は、敵状を探るものではなく、主が為して下さった真理を見に行かせるための”霊的視察”である。
いなごの大軍のような敵の多さや海辺の砂のような数のらくだなどの”うわべ”を見る敵情視察なら、もはや絶望しか無い。
しかし、主が既に為して下さった”真実”を知るなら、その真理はその人を自由にする。
『ギデオンがそこへ行ったとき、ある人がその仲間に夢を語っていた。その人は言った、「わたしは夢を見た。大麦のパン一つがミデアンの陣中にころがってきて、天幕に達し、それを打ち倒し、くつがえしたので、天幕は倒れ伏した」。仲間は答えて言った、「それはイスラエルの人、ヨアシの子ギデオンのつるぎにちがいない。神はミデアンとすべての軍勢を彼の手にわたされるのだ」。』(士師記7:13-14)
主は、ギデオン自身に夢を見させる事によってではなく、敵が見た夢と、敵が解釈したその内容によってギデオンを力づける。
私達はなにかと、他人がどう評価したかによって力づけられる事も、多いものである。
敵が見たのは、実に面白い夢である。どうして大麦のパンがころがって来ると、天幕が倒れ、陣営が覆るのか。
また、敵は、大麦のパンはギデオンの剣に違いない、と言ったが、ギデオン達とその軍は、この夜、刀剣類は一切持たずに勝利する。
一体、ギデオンの剣なる大麦のパンとは、何だろう。
主が戦って下さるにあたって重要なものは、剣や槍などの装備や、人の力ではなく「ことば」であり、それも、真理に立った御言葉を宣言する事が、勝利の鍵である。
『ダビデはペリシテびとに言った、「おまえはつるぎと、やりと、投げやりを持って、わたしに向かってくるが、わたしは万軍の主の名、すなわち、おまえがいどんだ、イスラエルの軍の神の名によって、おまえに立ち向かう。・・・またこの全会衆も、主は救を施すのに、つるぎとやりを用いられないことを知るであろう。この戦いは主の戦いであって、主がわれわれの手におまえたちを渡されるからである」。』(1サムエル17:45-47)
生ける神の陣をなぶったゴリヤテは、武器と肉体の大きさと偶像の神々の名によって向かって来たが、ダビデは、イスラエルの神、万軍の主の御名によって立ち向かった。
彼は真理の「ことば」を宣言する事によって、力対力の戦いから、真理対不真実の戦いへと転換し、そして見事勝利した。
真理の御言葉は、神に信頼する者にとっては、いのちを養うパンであるが、神の敵に対して、悪魔に対して、そしてあらゆる不真実に対しては、滅びの剣なのだ。
イエス様が、少年が捧げた5つの大麦のパンと2匹の魚によって、大勢の人々を養ったように(ヨハネ6:9-13)、御言葉のパンはたとえわずかであっても、また捧げる人がいかに小さくても、主イエスを信頼し慕い求めて来る大勢の人を満腹させ、弟子たち全員をも満ちたらせる。
そして、御言葉は、暗闇の支配や権威、天上にいる諸々の悪霊を薙ぎ払い、刺し貫く「剣」である。(エペソ6:11-17)
ミデヤン人の陣営に転がってきた大麦のパンは、真理の御言葉であり、ギデオン達にとっては勝利の真理、敵にとっては敗北の真理なのだ。
『ギデオンは夢の物語とその解き明かしとを聞いたので、礼拝し、イスラエルの陣営に帰り、そして言った、「立てよ、主はミデアンの軍勢をあなたがたの手にわたされる」。』(士師記7:15)
この時以降、ギデオンはもはや恐れることも、主にしるしを求める事もなくなり、本当に「大勇士」として相応しく行動をするようになる。
主の御言葉がその人の内に入り、真理を理解すると、その人は本当に自由になり(ヨハネ8:32)、もはや外見や、目の前の「現実」に捕らわれなくなる。
主が真理を教えて下さり、人がそれを信じて行動する時、十三万五千の敵はわずか三百人の神の民に滅ぼされ、屈強な巨人戦士ゴリヤテは紅顔の少年に倒され、五つの大麦のパンと二匹の魚によって、何千人もの人を満腹させ養うのだ。
アブラハムとサラ(創世記20章) - 約束の子を産む前に必要な表明
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多くの国民の父・母として整えられつつあるアブラハムとサラの間に、もうすぐ約束の子・イサクが生まれる。
その直前に、彼らは以前と同じ失敗を繰り返す。「アブラハムは妻サラのことを、「これはわたしの妹です」と言ったので、ゲラルの王アビメレクは使いをやってサラを召し入れた。」(創世記20:2)
アブラハムは以前、エジプトに滞在した時にも、妻サラに自分はアブラハムの妹ですと言わせ、エジプトの王パロに召し入れられてしまった事があったが(創世記12章)、それと全く同じ失敗をしたのだ。
彼らは、あれから色々な訓練を主から受け、信仰的に成長し、また、偉大な信仰の結果を多く生み出して来たはずなのに、こんな初歩の時に犯したのと同じあやまちを繰り返したのは、どうした事だろうか。
アブラハムには確かに、当地の王・アビメレクに対する恐れはあった(11節)。しかしこの失敗は、無意識的・習慣的な所に原因があったようである。
実はアブラハムは、父の家を出た当初、およそ24年前、妻サラとの間に、ある約束を交わしていた。すなわち彼は、彼女に、どこへ行っても「兄です」と言うよう頼んでいたのだ。(創20:13) 私達も同じ失敗を繰り返してしまう所があるなら、無意識的な「行動」や「口ぐせ」、「思考パターン」に、原因を求めたほうが良い。
信仰が未熟な時期に交わした、はるか昔の約束。彼は父の家を離れて以来、未踏の地へ足を踏み入れ初対面の人と合う度に、自分を防御するために「兄妹です」と言うようになっていた。今回もいつものように無意識的に言ってしまったため、またしても、当地の王(アビメレク)の所へ連れて行かれてしまったのだ。
そしてその時、「実は夫婦です」と言って真実を打ち明ける事もせず、ただ連れて行かれるまま、なされるがままにしてしまった。自分が無意識的に言った事が、おおごとになり、心では同意したくなかったにしても、ひと度自分の口から出して、同意してしまったからには、望まぬ手続きがあれよあれよと進んで行ってしまうと、もう、後からそれを覆すのは容易ではないものだ。だから、最初の勇気が肝心である。
それでも主は、今回も憐れんで下さり、悪くないはずのアビメレクを脅して怖れさせ、悪いほうのアブラハム達を弁護し、そうして誰も罪を犯さないよう、保護して下さった。これらの事は一体、どういう事だろう。
次の21章では、アブラハムとサラにはいよいよ待望の子が生まれ、名実共に多くの父・国々の母となって行くのだが、その前に、主は、その偉大な信仰者に相応しからぬ口ぐせや習慣を取り扱われたのであろう。
アブラハムとサラは異母兄妹なので、確かに「兄妹」には違いないし、今までそう公言した事によって、何らかの利益があったかもしれない。(もっとも聖書を見る限り、その事は不利益しかもたらさなかったが。)
しかし、神様が彼らの間に「子を与える」と約束して下さった以上、すぐに「自分達は兄妹です」という口癖は止め、「自分達は夫婦です」と公言し、周囲にあかししておくべきだったのだ。
彼らが「夫婦」であると表明していて、その上で子が生まれるなら、「神様が私達夫婦に子を与えて下さった」と証して、神の栄光となる。しかし、一体どうして「兄妹」の間に子が生まれて、神の栄光となるだろうか。
神の栄光のために、彼らのアイデンティティは「兄妹」であってはならず、「夫婦」であるべきであったのだ。
私達も、どのアイデンティティを世に表明するかによって、祝福を受ける受けないが決まって来る。
世の中では、皆が当たり前のように許されているような事でも、神の民には許されない事がある。特に、神の国の重要な役割を担っていく働き人であるならある程、そうだ。
主は、主の愛する人を、これからもっと大きな事に用い、さらに大きな祝福を継ぐに相応しく整えようとする時、それまで無意識的に言ってしまっていた不信仰な口ぐせや偽り、不信仰な時に締結してしまった約束や固まってしまった習慣などを気づかせ、それを強制的に改めさせられる。
主に愛されていればいる程、そうである。なぜなら主は、子として扱っておられるからだ。(ヘブル12:5-11)
アブラハム達はその除かれるべき口癖や習慣が取り扱われ、もはや兄妹ではなく夫婦であると、周囲に表明するようになり、こうして神と人との前で夫婦として子を生み、堂々と証できる準備が整えられた。
主にあって、ますます大きな事に用いられ、大きな祝福にあずかるために、罪深い性質や不信仰な口ぐせ、習慣などが取り除かれ、清められ、そして、主からさらに良きものが与えられる素地がますます整えられる皆さんでありますように!イエス様の名前によって祝福します!
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酸い愛のバラードから甘い愛のバラードへ(イザヤ5:1-7):右クリックで保存
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礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
逆・種まきのたとえ(マタイ13:24-30):右クリックで保存
礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
運は制御する事が可能である(伝道者の書11:1-6):右クリックで保存
【概要】
本日の御言葉は、伝道者の書11章1節から6節の知恵と、私たちが日々歩む信仰生活における投資と備えについての御教えです。神様の導きに応じ、御言葉に従って歩むことの大切さをお伝えいたします。
【聖書箇所】
・伝道者の書 11章1節〜6節
・申命記 11章8節〜
・(最後に)主の祈り
【慰めの言葉】
どんなに私たちが不安や試練に直面しても、主は私たち一人ひとりの歩みを見守り、恵みと祝福を賜ってくださいます。
【励ましの言葉】
一見無駄に見える努力や投資も、信仰をもって続けるならば、やがて豊かな実りとなって現れると、神はお約束くださいました。
【戒めの言葉】
人間の知恵に頼り、偶然やリスク分散だけに心を奪われるならば、神様の御業を見失う危険があります。神の導きを無視することは、霊的な大罪に他なりません。
【勧めの言葉】
毎日の生活の中で、御言葉の種を惜しみなく蒔き、日々の小さな努力を通して神様の御恵みにあずかるよう努めましょう。家族や隣人に対しても、愛と信仰の証として御言葉を伝え、励まし合いましょう。
【悔い改めの促しの言葉】
もし、これまで神様の御言葉に耳を傾けず、自分勝手な判断で歩んできた者は、今一度心を改め、神様の愛と導きに立ち返るよう、謙虚な心で悔い改める時です。
【***詳細***】
今日、私は「あなたのパンを水の上に投げよう。ずっと後の日になって、あなたはそれを見出そう」という伝道者の書11章1節の御言葉を、心に深く刻みながら説いております。この一節は、一見無駄と思える投資や努力が、遠い未来に予想もしなかった豊かな実りとなって返ってくるという、神の御知恵を示しているのです。神様は、私たちに「あなたの受ける分を7人か8人に分けておけ。地上でどんな災いが起こるか、あなたは知らないのだから」と語り、リスクを分散させる知恵を授けられました。私たちの日常生活において、子育てやビジネス、あるいは御言葉の宣言という霊的投資も、投げ捨てるのではなく、ひたむきに続けるべき行為であると改めて教えられます。
神様の御計画は、時として私たちの理解を超え、偶然や不確かな未来の中に秘められているかのように思えます。しかし、**「あなたは一切を行われる神の御業を知らない」**という御言葉が示す通り、すべてのことは神様の御手の内にあるのです。朝のうちに種を蒔き、夕方にも手を離してはならないという教えは、私たちに怠ることなく日々の労苦を惜しまず、信仰と努力をもって前に進むようにとの励ましです。たとえ、どんなに私たちが計画し、リスク分散に努めても、結局は「神様の御業」が導かれる結果に従うのです。
また、申命記11章8節以降に記された御言葉にもあるように、神様の命令に従えば、与えられた地において絶えず恵みが降り注ぎ、豊かな実りが得られると約束されました。エジプトの過酷な土地とは異なり、天の雨で潤された土地は、神様がお心を留め、絶えず御顔をかたむけてくださる場所なのです。私たちもまた、どんなに厳しい時代にあっても、神様にすべてを委ね、御言葉に従って歩むならば、必ずや「先の雨」と「後の雨」を受け、心にも、物質にも、霊的にも実りある人生を歩むことができるのだと確信しております。
私たち信仰者は、世の中の成功哲学に流されることなく、主の御言葉という礎に立ち、歩むべき道を選ぶべきです。失敗や予期しない災いが襲ってくることもあるでしょう。しかし、世界の知恵ではなく、神様の知恵と約束に信頼するならば、どんな嵐の中にも平安と希望があると信じております。実際、御言葉の一節「あなたの門が固く守られるように、あなたは日々その備えをせよ」という励ましは、私たちが一人ひとり、風雨に抗して前進するための確固たる指針となるはずです。
また、主の祈りにおいて、私たちは「我らの父よ、御国を来たらせたまえ」などと願うように、神様への信頼と依存を新たにしなさいと命じられています。この祈りの中にこそ、私たちの生きるべき姿勢、つまりどんなに道が厳しくも、御言葉に従い、神の御声に耳を傾け、日々の小さな努力と愛の行いを惜しまない決意が込められているのです。私たちは、自分自身の知恵ではどうにもならぬ未来に対し、ただ主の慈しみと恵みに全てを委ねるべきであり、その証として、家庭や教会、地域社会においても積極的に御言葉を実践し、互いに励まし合って歩む責務を負っております。
この説教を通して、私たち一人一人に伝えたいのは、投資の対象が何であれ、神様の御言葉の種こそが、最も尊く、最も確かな実りをもたらすという真実です。たとえ、日々の生活の中で「パンを水の上に投げる」ように感じられる努力があったとしても、そのすべては後の日に大いなる祝福として回収されるのです。子育ての中で、霊的な乳を与え続けること、また自らの信仰を堅く守り通すこと、これらはすべて、神様が後に大きな利子となって実を結ばせるための大切な行いです。
私たちは、経済的なリスクを分散し、世の知恵に基づいた計画を立てることも大切ですが、何よりも重要なのは、心から神様に従い、御言葉を信頼することです。多くの方が、世の中の流行や成功哲学に惑わされながらも、現実の厳しい試練に遭遇する中で、神様の御恵みから遠ざかってしまうことを私自身も痛感しております。しかし、逆に神様の御声に従い、信仰の道を歩むならば、決して時の流れや環境に左右されることなく、確固たる信頼と盼望を持って未来に向かうことができると、聖書は力強く語りかけております。
このように、伝道者の書に記された知恵と、申命記の約束、そして私たちが共に唱える主の祈りは、私たちの人生における羅針盤であり、決して見失ってはならない光の道しるべです。どうか、今日ここに宣言された御言葉の一語一句を、皆さんの心の中に大切に留め、明日への希望と励ましとして生かしていただきたく、心より願っております。すべては、私たちを愛し、導いてくださる主イエス・キリストのおかげです。
【結論】
私たちの一見無駄に思える努力も、神様の御計画の中では必ずや大いなる実りとして帰ってきます。日々、御言葉の種を惜しまず蒔き、互いに励まし合い、主の御声に従って歩む者こそが、真の幸いと祝福を受けるのです。どうか皆さん、一人ひとりが神様の愛と恵みに満たされ、永遠に歩むべき光の道を進んでいかれますよう、主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。
礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
イエス様に飲ませるとは(ヨハネ4:6-15):右クリックで保存
礼拝説教メッセージ音声:ギデオンの300人勇士の選別(士師記7:1-8):右クリックで保存
『さてエルバアルと呼ばれるギデオンおよび彼と共にいたすべての民は朝早く起き、ハロデの泉のほとりに陣を取った。ミデアンびとの陣は彼らの北の方にあり、モレの丘に沿って谷の中にあった。』(士師記7:1)
いよいよ、双方の陣営は、互いに5キロメートル程の距離に迫った。
ギデオン率いるイスラエルの軍は、三万二千人。対する敵の連合軍は、十三万五千人。敵は四倍ほどの兵力である。
数の上では実に不利であり、一人でも多くの人手が欲しいと思う所だが、主は、その逆である事を言われる。
『主はギデオンに言われた、「あなたと共におる民はあまりに多い。ゆえにわたしは彼らの手にミデアンびとをわたさない。おそらくイスラエルはわたしに向かってみずから誇り、『わたしは自身の手で自分を救ったのだ』と言うであろう。』(士師記7:2)
主はご存知だったのだ。
もしこのままの状況で勝ったなら、人は「自分達の力で勝った、自分達はすごい」と言って、傲慢になってしまう事を。
もし勝利しても、神様に感謝と栄光を帰さない傲慢さが残っているなら、「わたしは彼らの手にミデアンびとをわたさない」と言われたように、主はもっと力を削ぎ、ただ主に求める以外に無い状況へ置かれる。
皆さんが今、何かの戦いに面しているとして、もし勝利が与えられたなら、真っ先に、主に栄光と感謝を帰する「自信」はあるだろうか。
主から幸いを受けた時、願っていたことが成就した時こそ、重要である。
念願の事が叶った時、祝杯を上げるのに忙しくて主を忘れ、そのまま主に戻らないとするなら、もっと悪い事になってしまう。事実、士師記の荒んだ時代はそうしてはじまった。
だから、主から幸いを得た暁には主に感謝し、主にしっかり繋がって生きるのだという確固とした信念をもっておくべきである。
『それゆえ、民の耳に触れ示して、『だれでも恐れおののく者は帰れ』と言いなさい」。こうしてギデオンは彼らを試みたので、民のうち帰った者は二万二千人あり、残った者は一万人であった。』(士師記7:3)
主は、戦うべき人々を、選別される。その上で、恐れおののく者は真っ先に切り捨てられて行く。
信仰の戦いにおいて、最も邪魔するものは、この、気後れしている者、恐れている者、おくびょう者である。
事実、イスラエルが荒野で40年も回り道をしてしまった原因は、わずか十名の斥候の「恐れ」が発端だった。(民数記13-14章)
このようにして、イスラエルの手勢は一万になってしまった。
彼我の人数比は、一対十三。数ではもはや圧倒的不利であるが、主は、さらに人数を絞られる。
『主はまたギデオンに言われた、「民はまだ多い。彼らを導いて水ぎわに下りなさい。わたしはそこで、あなたのために彼らを試みよう。わたしがあなたに告げて『この人はあなたと共に行くべきだ』と言う者は、あなたと共に行くべきである。またわたしがあなたに告げて『この人はあなたと共に行ってはならない』と言う者は、だれも行ってはならない」。』(士師記7:4)
信仰の戦いにおいては、主が「共に行くべきだ」という人と「共に行ってはならない」という人とに分かれる。
それは、どのような基準で選別されるか。
『そこでギデオンが民を導いて水ぎわに下ると、主は彼に言われた、「すべて犬のなめるように舌をもって水をなめる者はそれを別にしておきなさい。またすべてひざを折り、かがんで水を飲む者もそうしなさい」。そして手を口にあてて水をなめた者の数は三百人であった。残りの民はみなひざを折り、かがんで水を飲んだ。主はギデオンに言われた、「わたしは水をなめた三百人の者をもって、あなたがたを救い、ミデアンびとをあなたの手にわたそう。残りの民はおのおのその家に帰らせなさい」。』(士師記7:5-7)
手で水をすくってなめるだけの人は選別されたが、膝をつき、かがんで水を飲んだ人は、選別から外された。
既に、敵がもうすぐそこに迫っているような状況で、膝をついて水をがぶ飲みする者は、臨戦態勢が整っていない、という事だ。
例えば、チームで宣教旅行に行った際、せっかく見知らぬ地に来たのだから、ご当地の有名処でグルメを飲み食いしたいと思っている人は、チームから外され、そうしたものには目をくれず、むしろ当地の人々の救いのために祈ったり、御言葉で心備えしたりする人が、選別に残るようなものである。
霊的な戦いにおいては、人数は関係無い。むしろ、その軍団の霊的純粋さが重要だ。それは、教会の働き人についても、ミニストリーのチームについても、同じである。
『そこで彼はかの三百人を留めおき、残りのイスラエルびとの手から、つぼとラッパを取り、民をおのおのその天幕に帰らせた。時にミデアンびとの陣は下の谷の中にあった。』(士師記7:8)
選別に合格したのは、わずか三百人だった。
三百人が、十三万五千に戦いを仕掛ける。もはや、お話にならない。
これで勝つとしたなら、もはや人間のわざではなく、100%主のわざだとしか言いようが無い。
こうして、主の戦いの条件が整えられた。
主が御業を働かせられる条件が整うまでに、人は、多くのものを主に明け渡し、手放して行かなくてはならない。
人が自分の方法を、あるいは自分の何かを、自分のものとして握り締めている限り、主は「あなたの力はまだ多すぎる」と言われ、どんどん手放す事を要求される。
私達は、主に促されるままに手放して行くたびに、心細さを感じるかもしれないが、しかし、手放せば手放して行く程、主の圧倒的な力が働く素地が整えられていくのだ。それが、十字架の死と復活の原理である。
十字架、それは、全てを明け渡し手放す究極形態で、人には絶望に見えるが、十字架の上で全てを明け渡す時、神様から復活の圧倒的ないのちのパワーが湧き起こり、人間の力では決してあり得ないような神様の力が働く事のできる素地が整うのだ。
臆病であっても御胸を為す人は、勇士となって行く(士師記6:33-40)
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- 執筆 :
- pastor 2014-10-2 23:39
礼拝説教メッセージ音声:臆病であっても御胸を為す人は、勇士となって行く(士師記6:33-40):右クリックで保存
神の民の敵は連合し、大軍をなして攻めて来た。その数は、およそ十三万五千人。
その時、主の霊がギデオンに臨み、彼がラッパを吹き鳴らすと、彼の家の者・アビエゼル人が集まり、さらに母体の部族であるマナセ族が、続いて、イスラエル北方に領地を得ているアシェル、ゼブルン、ナフタリの部族の中からも、次々とギデオンの元に集まった。(士師記6:33-35)
おびただしい数の敵を前に、ギデオンは、およそ三万三千人の集団を率いる長として、立った。
彼はついこの間まで、敵を恐れる故に、酒槽の中で隠れて麦を打っていたような者、あたかも、不良たちを避けてトイレの個室に隠れて弁当を食べていたような状況だった。
それが今、多くの人々が彼に命を預け、戦おうとしている。
今まで、家の中で最も小さき者として過ごして来た彼にとっては、かつて無いような経験である。
主の霊に導かれて、人々を召集したものの、ふと我に返った時、彼には恐れが来たのであろう。
それは無理もない事である。
『ギデオンは神に言った、「あなたがかつて言われたように、わたしの手によってイスラエルを救おうとされるならば、わたしは羊の毛一頭分を打ち場に置きますから、露がその羊の毛の上にだけあって、地がすべてかわいているようにしてください。これによってわたしは、あなたがかつて言われたように、わたしの手によってイスラエルをお救いになることを知るでしょう」。すなわちそのようになった。彼が翌朝早く起きて、羊の毛をかき寄せ、その毛から露を絞ると、鉢に満ちるほどの水が出た。
ギデオンは神に言った、「わたしをお怒りにならないように願います。わたしにもう一度だけ言わせてください。どうぞ、もう一度だけ羊の毛をもってためさせてください。どうぞ、羊の毛だけをかわかして、地にはことごとく露があるようにしてください」。神はその夜、そうされた。すなわち羊の毛だけかわいて、地にはすべて露があった。』(士師記6:36-40)
ギデオンは主に二度しるしを求めたが、このしるしの中に、キリストが隠れている。
キリストは、世の罪を取り除くまことの小羊として世に降りて来られた。
最初のしるしでは、羊の毛だけに露が降り、それ以外の全地は乾いていたが、同じように、かつては世において唯一キリストにのみ、父のひとり子としての栄光があり、めぐみとまことが彼には充満していた。(ヨハネ1:14)
第二のしるしでは羊の毛だけが乾き、それ以外の全地は潤っていたが、同じように、キリストは十字架上で「わたしは渇く」と言われた。
彼は富んでおられたのに、貧しくなられ、祝福されていたのに呪われ、いのちの君であられたのに十字架上で死なれた。
それは、キリストが貧しくなる事によって、彼を信じる人々が彼の代わりに富む者とされるため、また、彼が全人類の呪いを彼が一手に引き受け、全て彼を信じる者が祝福を受けるため、そして、死ぬべき私達の死を、彼が全て身代わりに背負って、死に、彼の身代わりの死によって、私達が永遠に生きるようになるためである。
彼が世の罪を取り除くまことの小羊としてほふられた時、彼の内にあった全ての知恵と力と栄光と富と、いのちの属するあらゆる良きものは、全ての人々へと解き放たれ、潤されたのだ。
ギデオンは何度もしるしを求め、主もまた、彼が安心するまで、何度もしるしを行った。
主は、見ないで信ずる者はさいわいである、と言われたが(ヨハネ20:29)、信仰によって歩みだしたばかりの人が、全く未経験の領域へと歩みだそうとする時、あるいは、今自分が乗っているこのレールは、果たして御心に沿っている道なのだろうかと、疑問が沸き起こる時、大いに、主に求め、聞くべきである。
主に聞きもしないで、勝手にゴールを変えてしまったり、あるいは、自分は相応しくないからと途中で降りてしまうのは、自分自身に滅びを招いてしまう事だ。
ヨナは主からの召命があったのに、逆方向へと向かってしまった故に、彼が乗った船全体に災いが及び、彼自身は、魚に飲み込まれてしまった。
また、モーセに連れられて出エジプトした民は、主に示された事を守らず、途中でエジプトを懐かしんで逆方向へ戻ろうとしたため、荒野で滅んでしまった。
ギデオンは確かに何度もしるしを求めたが、しるしが与えられておきながら御旨に背いた事は、一度も無かった。
どんなに怖くても、彼はちゃんと御旨を実行した。
そのような素養があったからこそ、主は彼を召しだされたのかもしれない。
私達も、いかに恐れても、臆病であっても、いかに落胆しても、それでもなお主の御胸を守り行って行くなら、どんどん勇士へとつくり変えられて行くのである。