メッセージ - 201502のエントリ
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預言者とは(イザヤ1:1-9)(韓国語通訳有한국어예배):右クリックで保存
【概要】
イザヤ書1章1-17節を基に、預言者の役割と真の預言の本質について解説するメッセージ。
【聖書箇所】
イザヤ書1:1-17
【戒めの言葉】
真の預言者は耳障りの良いことだけでなく、主の怒りや戒めも正確に伝えなければならない。
【勧めの言葉】
預言を受ける側も、それを真剣に受け止め、悔い改めて従う必要がある。
【悔い改めの促しの言葉】
イスラエルの民への悔い改めの呼びかけを通して、私たちも罪を悔い改め、主に立ち返るよう促される。
【***詳細***】
本日の御言葉はイザヤ書1章1節から17節です。イザヤ書は旧約聖書の大預言書の一つであり、ユダ王国の王ウジヤ、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの時代に活躍した預言者イザヤの預言が記されています。
まず、預言という言葉の本質について考えてみましょう。預言とは、ただ単に未来のことを当てることではありません。預言の漢字は「預かる言葉」と書きます。つまり、神様から言葉を預かって、それを人々に伝えることが預言なのです。
「預言の霊はイエスの証しです」(ヨハネの黙示録19:10)
と聖書にあるように、真の預言は必ずイエス・キリストを指し示すものでなければなりません。
預言者の役割は非常に重要であり、同時に危険を伴うものでした。偽りの預言をすることは、旧約時代には死罪に値するほど重大な罪とされていました。なぜなら、神の権威ある言葉を偽って伝えることは、多くの人々を誤った道に導くことになるからです。
イエス様もこう警告されています:
「しかし、この小さい者たちの一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首にかけられて、深い海に沈められる方がましです。」(マタイ18:6)
真の預言者は、人々の耳に心地よいことだけを語るのではありません。時には王や民衆の怒りを買うような厳しい言葉も語らなければなりません。そのため、多くの預言者が迫害され、殺されてきました。
イザヤ書1章の冒頭で、主は預言者イザヤを通して、イスラエルの民に対する怒りと嘆きを表明されています:
「ああ、罪を犯す国、とがの重い民、悪を行う者どもの子孫、堕落した子らよ。彼らは主を捨て、イスラエルの聖なる方を侮り、背を向けて離れ去った。」(イザヤ1:4)
主は、イスラエルを大切に育てた子どものようだと言われます。しかし、その子どもたちは主に逆らいました。牛でさえ飼い主を知っているのに、イスラエルは主を知ろうとしません。これは、私たち人間の姿を映し出しているようです。私たちも時として、神様の恵みを忘れ、自分勝手な道を歩もうとしてしまいます。
主は、イスラエルの民の罪深さを厳しく指摘されます:
「頭はことごとく病み、心はことごとく弱っている。足の裏から頭まで、健全なところはなく、傷と打ち傷と生傷ばかりだ。」(イザヤ1:5-6)
これは、罪に染まったイスラエルの惨めな姿を表現しています。罪は私たちの全身、全人格を蝕んでいきます。そして、その傷は自分たちの力では癒すことができないのです。
しかし、主は完全に見捨てることはされません:
「もし万軍の主が、私たちに少しの生き残りを残されなかったなら、私たちはソドムのようになり、ゴモラと同じようになっていただろう。」(イザヤ1:9)
ここに主の憐れみが示されています。たとえ多くの者が罪を犯しても、主は必ず残りの者を残されます。これは、私たちに対する主の変わらぬ愛と忍耐を表しています。
預言者の役割は、親が子どもを正しく導くのに似ています。子どもが間違ったことをしたとき、親は厳しく叱ります。しかし、それは子どもを傷つけるためではなく、正しい道に立ち返らせるためです。同様に、預言者の厳しい言葉の裏には、神の深い愛があるのです。
私たちは、この御言葉を通して何を学ぶべきでしょうか。
-
神の言葉を軽んじず、真剣に受け止めること。
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自分の罪を認め、悔い改めること。
-
周りの人々の悪い行いに同調せず、神の道を歩むこと。
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神の愛と憐れみを覚え、感謝すること。
私たちも、この世で「預言者」としての役割を果たすよう召されています。つまり、神の言葉を正しく理解し、それを周りの人々に伝える責任があるのです。時には耳障りな言葉であっても、愛をもって真理を語る勇気が必要です。
同時に、自分自身も神の言葉に従順であることが求められます。神の戒めを守り、罪を悔い改め、日々主との関係を深めていくことが大切です。
【結論】
イザヤ書1章の御言葉は、私たちに悔い改めと神への立ち返りを促しています。神の愛と憐れみを覚えつつ、同時に神の聖さと正義を忘れずに歩む者となりましょう。そして、私たちも現代の「預言者」として、神の真理を周りの人々に伝える者となれますように。
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突然の貴賓扱いを受けたサウル、と私達(1サムエル記9:17-27)
- カテゴリ :
- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(旧約) » 1サムエル記
- 執筆 :
- pastor 2015-2-27 23:29
礼拝説教メッセージ音声:突然の貴賓扱いを受けたサウル、と私達(1サムエル記9:17-27):右クリックで保存
『そのときサウルは、門の中でサムエルに近づいて言った、「先見者の家はどこですか。どうか教えてください」。サムエルはサウルに答えた、「わたしがその先見者です。わたしの前に行って、高き所に上りなさい。あなたがたは、きょう、わたしと一緒に食事しなさい。わたしはあすの朝あなたを帰らせ、あなたの心にあることをみな示しましょう。
三日前に、いなくなったあなたのろばは、もはや見つかったので心にかけなくてもよろしい。しかしイスラエルのすべての望ましきものはだれのものですか。それはあなたのもの、あなたの父の家のすべての人のものではありませんか」。』(1サムエル記9:18-20)
サウルは先見者サムエルとこの時初対面のはずが、なんと彼は、きょう、あなたと一緒に食事をすることになっている、と意外な事を言った。
そればかりでなく、サウルが父のろばを三日前から探し歩いていた事も、そして既にそれは見つかっているという、サウルさえ知らない事さえも、知っていたのだ。
さらに驚くことに、イスラエル全体は、あなたを望んでいる、と言うのだ。
サウルは面食らっただろう。
聖なる方の助言をちょっと伺おう、といったつもりで来たのに、相手は自分の何もかもを、それも自分の知らない事までも知っており、しかも、一緒に食事をすることになっている、というのだから。
この状況は、私達と主との出会いにも似ている。
取税人ザアカイは、聖なるお方イエスをひと目見ようと木に登ったのに、イエス様のほうから近づいて来られ、自分の名前を呼び、「今日はあなたの家に泊まる事になっている」と声をかけられた。
ザアカイは自分の名前で声をかけられた時、悟ったのだろう。
自分がしてきた、あらゆる悪事も。それ故人々から憎まれ、蔑まれている事も。そして、そのような状況から自分は救われたいと、密かに願っていたその事も。
この聖なる方は、そんな自分を全部知っており、しかもその上で「今日はあなたの家に泊まる事になっている」とまで言われた。
それでザアカイは、一瞬にしてこのお方に心を捕えられ、それまでの行いを悔い改め、新しい聖なる生き方をすると決心したのだ。
私達も人生のある時、サウルのように、ザアカイのように、聖なるお方に呼び止められたのではなかろうか。
自分の事を何もかも知り尽くし、その上で、わたしはあなたと食事を共にしたい、あなたの内に宿りたい、と、誘われたのではなかろうか。
そして主から、あなたはこれから全く違った歩みをしなさい、王族の祭司として、聖なる国民として、相応しく歩みなさい、と、勧められたのではなかろうか。
『サウルは答えた、「わたしはイスラエルのうちの最も小さい部族のベニヤミンびとであって、わたしの一族はまたベニヤミンのどの一族よりも卑しいものではありませんか。どうしてあなたは、そのようなことをわたしに言われるのですか」。』(1サムエル記9:21)
サウルとしては、晴天の霹靂だったろう。
自分はイスラエルという集団の中では、もっとも弱い、小さい、つまらない者なのに、なぜそのように言うのですか、と。
私達もまったく同じだ。
イエス様、なぜ、こんな弱い、小さい罪人に呼びかけて下さったのですか、と。
主の選びは、そのようである。
主は、この世の力ある者・知恵ある者をはずかしめるため、あえて弱く無に等しい人を、選ばれるのだ。(1コリント1章)
『サムエルはサウルとそのしもべを導いて、へやにはいり、招かれた三十人ほどのうちの上座にすわらせた。そしてサムエルは料理人に言った、「あなたに渡して、取りのけておくようにと言っておいた分を持ってきなさい」。料理人は、ももとその上の部分を取り上げて、それをサウルの前に置いた。そしてサムエルは言った、「ごらんなさい。取っておいた物が、あなたの前に置かれています。召しあがってください。あなたが客人たちと一緒に食事ができるように、この時まで、あなたのために取っておいたものです」。こうしてサウルはその日サムエルと一緒に食事をした。
そして彼らが高き所を下って町にはいった時、サウルのために屋上に床が設けられ、彼はその上に身を横たえて寝た。』(1サムエル記9:22-25)
サウル達は、この突然の貴賓扱いに、とまどっただろう。
聖なる方から宴会に招かれ、上座へと導かれ、最上のごちそうを頂いて貴賓扱いを受けたのだから。
私達もまさしく、イエス様から最上のごちそうを用意された宴会に招かれ、王侯に属するような貴賓扱いを受けたようなものだ。
父なる神は、御子イエス・キリストを、和解のいけにえとしてほふり、共にこの食卓に与からせようと、私達を招いておられる。その事を、王子の結婚の披露宴を設けた王のたとえ(マタイ22:1-14)で示された。
『そのとき、王はしもべたちに言った。『宴会の用意はできているが、招待しておいた人たちは、それにふさわしくなかった。だから、大通りに行って、出会った者をみな宴会に招きなさい。』それで、しもべたちは、通りに出て行って、良い人でも悪い人でも出会った者をみな集めたので、宴会場は客でいっぱいになった。』(マタイ22:8-10)
今や、この天の大宴会には、良い人も悪い人も、あまねく招かれ、その招待に応じる人は、だれでも宴会場に入る特権があるのだ。
しかし、礼服を身に着けずに宴会場に入った者が、外の暗闇に追い出され、泣いて歯ぎしりしてしまう事もまた、書いてある。
せっかくキリストが命を裂いてまで与えて下さった贖いの衣を、敢えて身につけず、天の宴会のごちそうだけ頂こうとするような者は、外の暗闇に追い出されてしまうのだ。
サウルは後に、せっかく与えられた特権を軽んじ続けたため、王族から追い出されてしまう事となる。
『そして夜明けになって、サムエルは屋上のサウルに呼ばわって言った、「起きなさい。あなたをお送りします」。サウルは起き上がった。そしてサウルとサムエルのふたりは、共に外に出た。彼らが町はずれに下った時、サムエルはサウルに言った、「あなたのしもべに先に行くように言いなさい。しもべが先に行ったら、あなたは、しばらくここに立ちとどまってください。神の言葉を知らせましょう」。』(1サムエル記9:26-27)
サウルとしては、ろばが見つかったのなら、もうここには用なしのはずであるが、予見者サムエルのほうが、サウルに用があるというのだ。
私達も、主に何か願い事を叶えて頂いたなら、もう用済み、ではない。
主イエス様の側が、いつでも、私達に用があるのだ。
『あなたがたは、選ばれた種族、祭司の国、聖なる国民、神につける民である。それによって、暗やみから驚くべきみ光に招き入れて下さったかたのみわざを、あなたがたが語り伝えるためである。』(1ペテロ2:9)
主は私達に、いつも、この与えられた特権に相応しく歩みなさい、と言われているのだ。
礼拝説教メッセージ音声:サウルの成り立ち(1サムエル記9:1-16):右クリックで保存
イスラエルは主の御心に反して王を求めたが、主は、彼らが求めるがままに、イスラエルに王を与える。
礼拝説教メッセージ音声:王なる主を退けるイスラエル(1サムエル記8:1-22):右クリックで保存
『サムエルは年老いて、その子らをイスラエルのさばきづかさとした。長子の名はヨエルといい、次の子の名はアビヤと言った。彼らはベエルシバでさばきづかさであった。しかしその子らは父の道を歩まないで、利にむかい、まいないを取って、さばきを曲げた。』(1サムエル記8:1-3)
父が素晴らしい信仰者だからと言って、子も自動的にそうなるとは限らない。
信仰は結局、本人の意志決断に依るのものだが、親の愛情と祈りは、それを養うのに大きな力がある。
実際、サムエルは年に一度しか親と会う事ができない状況だったのにも関わらず、母の愛と祈りによって、良き信仰者として成長した。
そこで人々は、サムエルに、「ほかの国々のように、われわれをさばく王を、われわれのために立ててください」と願い出た。
『彼らが、「われわれをさばく王を、われわれに与えよ」と言うのを聞いて、サムエルは喜ばなかった。そしてサムエルが主に祈ると、主はサムエルに言われた、「民が、すべてあなたに言う所の声に聞き従いなさい。彼らが捨てるのはあなたではなく、わたしを捨てて、彼らの上にわたしが王であることを認めないのである。彼らは、わたしがエジプトから連れ上った日から、きょうまで、わたしを捨ててほかの神々に仕え、さまざまの事をわたしにしたように、あなたにもしているのである。』(1サムエル記8:6-8)
彼らが王を求めた事は、サムエルの機嫌を損ね、主もまた、「わたしがエジプトから連れ上った日から、きょうまで、わたしを捨ててほかの神々に仕え、さまざまの事をわたしにした。」とまで言われた。
王を求める事。
一般的に見るなら、何ら問題もなさそうなこの事が、一体なぜこんなにも主を怒らせ、サムエルの機嫌を損ねたのか。
それは、王を求める事も偶像礼拝も、「主を捨てる」という一点においては、なんら変わり無いからである。
『「今その声に聞き従いなさい。ただし、深く彼らを戒めて、彼らを治める王のならわしを彼らに示さなければならない。」サムエルは王を立てることを求める民に主の言葉をことごとく告げて、言った』(1サムエル記8:9-11)
主は、もしイスラエルが王を立てるとするなら、いかなる事になるのかを説いて聞かせた。
すなわち、王は息子娘達を徴用して使い、畑の産物や家畜を徴用し、望まぬ事をさせられ、人々は、奴隷のようになってしまうという事を。
『「そしてその日あなたがたは自分のために選んだ王のゆえに呼ばわるであろう。しかし主はその日にあなたがたに答えられないであろう」。ところが民はサムエルの声に聞き従うことを拒んで言った、「いいえ、われわれを治める王がなければならない。われわれも他の国々のようになり、王がわれわれをさばき、われわれを率いて、われわれの戦いにたたかうのである」。サムエルは民の言葉をことごとく聞いて、それを主の耳に告げた。主はサムエルに言われた、「彼らの声に聞き従い、彼らのために王を立てよ」。』(1サムエル記8:18-22)
彼らは、「われわれも他の国々のようになり」と言ったが、要するに、彼らには他の国々への妙なあこがれがあるのだ。
はたして、神が直接導かれるイスラエルのほうが劣っていて、人間の王が導く他の国のほうが優れている、というのだろうか?とんでもない!
ところが、彼らには、そう見えたのだ。
神が王として自分達を治め、導いておられる事が、どんなに素晴らしく特権的であるのかを、彼らは知らないのだ。
彼らは「われわれも他の国々のようになり、王がわれわれをさばき、われわれを率いて、われわれの戦いにたたかうのである。」と言ったが、果たして今まで主は正当にさばいてくださっていなかったのだろうか。
主は、ペリシテ人に対し、そして背いたイスラエルに対しても、先頭に先んじて戦っておられたではないか。
イスラエルは、あんなにも不従順ゆえに神を怒らせていたにも関わらず、主はここまで守って下さったという「エベン・エゼル」の幸いを、早速忘れてしまったのだ。
まさに、彼らは主を捨てたのだ。
『ピラトはユダヤ人らに言った、「見よ、これがあなたがたの王だ」。すると彼らは叫んだ、「殺せ、殺せ、彼を十字架につけよ」。ピラトは彼らに言った、「あなたがたの王を、わたしが十字架につけるのか」。祭司長たちは答えた、「わたしたちには、カイザル以外に王はありません」。そこでピラトは、十字架につけさせるために、イエスを彼らに引き渡した。彼らはイエスを引き取った。』(ヨハネ19:14-16)
まことの王なる主を差し置いて、別のものを王としてあこがれる時、王なる主を「除け」と叫び、十字架につけようとしているようなものである。
もし、主を王座から退けてしまい、主とは別物の、例えばお金や権力、自分自身を「王」と据えるなら、その「王」によって、散々な目に遭ってしまうのだ。
イスラエルはイエス様を王から除き、カイザルを王としたその結果、すぐ後にローマによって亡ぼされ、1900年もの離散生活を送らなくてはならなかった。
主は敢えて、主以外のものを王として据える事を許される。王なる主を十字架につける自由さえ与えられたのだ。
私達は、主イエスキリストを王とし、そこからぶれる事なく、違った別物を王とする者が受けるような災いから遠ざかる歩みをしたい。
礼拝説教メッセージ音声:エベン・エゼルを忘れるなかれ(1サムエル記7:7-17):右クリックで保存
『イスラエルの人々のミヅパに集まったことがペリシテびとに聞えたので、ペリシテびとの君たちは、イスラエルに攻め上ってきた。イスラエルの人々はそれを聞いて、ペリシテびとを恐れた。そしてイスラエルの人々はサムエルに言った、「われわれのため、われわれの神、主に叫ぶことを、やめないでください。そうすれば主がペリシテびとの手からわれわれを救い出されるでしょう」。』(1サムエル記7:7-8)
イスラエルは、悔い改めの集会をするためにミツパに集まったのであって、軍事的行動をしたのでは決してなかった。それなのに、ペリシテ人は攻めて来た。
それには意味がある。
神の民が、主に立ち返る事。それは、神の民の根本的な敵である悪魔サタンが、最も嫌がる行動だからだ。
現代を生きる私達・神の民も、誰かを主に立ち返らせたり、あるいは今まで悔い改めていなかった態度を悔い改めたりする時、大体このような霊的攻撃が起こり、その気を挫こうと仕掛けてくるが、それに負けてはならない。
イスラエルはこの時、今までとは違った、悔い改めに相応しい行動パターンを取った。
すなわち、力やご利益など、自分の良かれと思うやり方で、困難に対抗するのではなく、主に助けを求め、主から救いを得ようとしたのだ。
もっとも、サムエルなど霊的指導者まかせのままでいるなら、後々、同じ過ちを繰り返してしまうのだが、しかし少なくとも、神の契約の箱さえも自分都合の勝利の道具に利用しようとしたような今までとは、違った行動である。
『そこでサムエルは乳を飲む小羊一頭をとり、これを全き燔祭として主にささげた。そしてサムエルはイスラエルのために主に叫んだので、主はこれに答えられた。サムエルが燔祭をささげていた時、ペリシテびとはイスラエルと戦おうとして近づいてきた。しかし主はその日、大いなる雷をペリシテびとの上にとどろかせて、彼らを乱されたので、彼らはイスラエルびとの前に敗れて逃げた。イスラエルの人々はミヅパを出てペリシテびとを追い、これを撃って、ベテカルの下まで行った。』(1サムエル記7:9-11)
かつてイスラエルは、主を軽んじた事により主に激しく打たれ、その打たれた数は、ペリシテ人に打たれた数よりも多かった。
しかし今回、イスラエルは悔い改めて主に返り、心を尽くして主に求めたたため、主はペリシテ人に敵対し、イスラエルに勝利をもたらして下さった。
イスラエルに、ようやく勝利が与えられた。
それは、イスラエルが主の忌み嫌われるものを取り除き、自分に罪がある事を認め、悔い改め、主にのみ仕えたからに他ならない。
神の民にとって、勝ち負けは、主を重んじるか、それとも軽んじるかによりけりである。
勝利とは、自分の力や知恵で勝ち取るものではなく、主から与えられるものなのだ。
まさしくサムエルが言った通りである。「もし、あなたがたが一心に主に立ち返るのであれば、ほかの神々とアシタロテを、あなたがたのうちから捨て去り、心を主に向け、主にのみ仕えなければならない。そうすれば、主はあなたがたをペリシテびとの手から救い出されるであろう。」(3節)
そして、勝利の後こそ肝心だ。
『その時サムエルは一つの石をとってミヅパとエシャナの間にすえ、「主は今に至るまでわれわれを助けられた」と言って、その名をエベネゼルと名づけた。こうしてペリシテびとは征服され、ふたたびイスラエルの領地に、はいらなかった。サムエルの一生の間、主の手が、ペリシテびとを防いだ。』(1サムエル記7:12)
主は今までイスラエルが犯してきた背きの罪の数々にかかわらず、今に至るまで、助けて来られた。
その事を覚えさせるため、また、勝利の秘訣は主にある事を後々に伝えるため、サムエルは、エベンエゼル(助けの岩、救いの岩という意味)という記念の岩を立てた。
私達も、主に立ち返って助けられたなら、それを忘れないように、心の内に”エベンエゼル”を建て、事あるごとに思い返し、主に感謝すべきである。
『サムエルは一生の間イスラエルをさばいた。年ごとにサムエルはベテルとギルガル、およびミヅパを巡って、その所々でイスラエルをさばき、ラマに帰った。そこに彼の家があったからである。その所でも彼はイスラエルをさばき、またそこで主に祭壇を築いた。』(1サムエル記7:15-17)
サムエルは、主への感謝と従順をキープさせるために、平和が与えられて後も、年ごとに各所を巡回し霊的指導を続けた。
せっかく手術して治っても、以前の不摂生を相変わらず続けるなら、全く意味が無いのと同じように、ひと度、主にあって勝利をしたなら、主に喜ばれる霊的健全さをキープし続けなくては、意味が無い。だからサムエルは年ごとに巡回し、それをキープさせたのだ。
そこには、戦いに勝利するような派手さは無く、地道なものであるが、これはひとつの戦いに勝利する事よりも、はるかに偉大な彼の功績である。
私達もそれを怠ってはならない。
サレプタのやもめ - 最後の粉と油による宴会(1列王17:8-15)
第一礼拝・礼拝全体音声(韓国語通訳有한국어예배):右クリックで保存
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第二礼拝・礼拝音声(韓国語通訳有한국어예배):右クリックで保存
週報/メッセージ(説教)概要:右クリックで保存
私達の王であられる主イエスのために宴会を設けるなら、主が私達に敵の前で宴を設けさせ、敵の前で油を注いで下さる事が、最近特に語られている。今回は、預言者エリヤを養ったやもめから学びたい。
時は北イスラエル最悪の王・アハブの時代、彼はシドン出身の妻・イゼベルに言われるままにイスラエルに偶像礼拝を導入し、主を怒らせていたため、主は人々をご自身に立ち返らせようと、預言者エリヤを遣わし、ここ数年、彼の言葉がなければ、2,3年は雨も露も降らない事を告げた。(1列王記17:1)
実際、エリヤが預言した通り、その後一切雨が降らず、厳しい飢饉となったが、アハブ王はこの力ある神・主に立ち返る事をせず、かえってエリヤを逆恨みし、彼を探し出して捕らえるよう人々に厳命した。
エリヤは主の導きによってケリテ川のほとりに住み、そこの水と、からすが朝夕運んでくるパンと肉によって養われていたが、いよいよ川の水も枯れた時、再び主の言葉が降る。 「立ってシドンに属するザレパテへ行って、そこに住みなさい。わたしはそのところのやもめ女に命じてあなたを養わせよう。」(1列王記17:9)
彼女はシドンの一地方に、幼い息子と二人で住んでいたが、飢饉はそこにも及び、もはや彼女の持ち物は、ひと握りの粉とわずかな油だけとなって、それをもって自分と息子のために最後の食卓を整えようと、薪を集めていた所を、預言者エリヤに呼び止められる。水を少し持って来て、飲ませてください、と。
彼女は、人生最後にも思えるその仕事の手を止め、彼のために水を持って来ようとした時、さらに言われる。
「手に一口のパンを持ってきてください。」 彼女は言った、「あなたの神、主は生きておられます。わたしにはパンはありません。ただ、かめに一握りの粉と、びんに少しの油があるだけです。今わたしはたきぎ二、三本を拾い、うちへ帰って、わたしと子供のためにそれを調理し、それを食べて死のうとしているのです」。
主の導きは不思議である。神がエリヤを養わせよ、と命じた女の全財産は、かめに一握りの粉と、びんに少しの油だけ。しかもこの女は、主から「預言者エリヤを養え」と命じられた記憶や自覚は、どうやら無さそうである。しかし彼女には、「あなたの神、主(エホバ)は生きておられます」と告白する信仰は、あった。
イエス様は「預言者は自分の郷里では敬われない」事の例として、このエリヤとやもめの箇所を引用されたが(ルカ4:26)、つまり、当時のイスラエルには主の預言者を敬う者は何処にもいなかった、という事なのだ。
主はあまねく全地を見渡し、心が主と一つとなっている人を探され、用いられる。(2歴代誌16:9)
また、イエス様は何度も「わたしはあなたを知っている」と言っている。(黙示録2-3章だけで7回)
彼女は自覚していようといまいと、普段から主を敬う心を主から認められており、預言者を養う素地も出来ていたため、彼女が意識している・いないに関わらず、エリヤを養うよう主から「命じられていた」のだ。
主は言われる。わたしはあなたを知っている、あなたの心も、行いも、そしてこれから為すべき働きも、と。
エリヤは「まず、それでわたしのために小さいパンを、一つ作って持ってきなさい。その後、あなたと、あなたの子供のために作りなさい。」と言った。粉はもう一握りしか無いので、3人分のパンは作れないはず。
しかし、「主が雨を降らす日まで、かめの粉は尽きず、びんの油は絶えない」という御言葉の約束は、ある。
人の計算ではあり得ない事であり、人情的に見ても非道い話だが、しかし彼女は主が言われた言葉に従い、自分と息子の分の粉をエリヤのため、いや、御言葉なる主に従うために調理し、非常にささやかな「宴会」を設けたのだ。最後の、一握りの粉とわずかな油。しかしそれは主の目には尊い宴会である。
「彼女と彼および彼女の家族は久しく食べた。主がエリヤによって言われた言葉のように、かめの粉は尽きず、びんの油は絶えなかった。」 御言葉の根拠なく非常識で過酷な要求をする「預言者」には要注意だが、十字架の死を要求する御言葉に従って従順するなら、決して尽きる事の無い祝福が与えられるのだ。
世に吹き荒れている不況という飢饉の中でも、世界に訪れる苦難の時でも、主に守られ養われる者とは、主の御名を否まず、主の言葉を守った者である。力は僅かしか無くても全く関係ない。(黙示録3:8)
天声では2010年最後にこの箇所からメッセージをし、かの一年、このやもめのように主と主の働き人に捧げた聖徒達の粉と油は尽きず、さらに祝福されている様を、主に感謝したが、その粉と油は5年目の今も尽きないどころか、さらに祝福が増し加わり、さらに清められ、豊かにされている。主はまことに真実である。
油も粉も尽きる事なく、更に主の祝福を頂く皆さんでありますように、イエス様の名前によって祝福します!