メッセージ - 201504のエントリ
火曜早天祈祷会 礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
ひざをついて下さった主(創世記1:26-28):右クリックで保存
礼拝説教メッセージ音声:ミカルとダビデ(1サムエル記19:11-17):右クリックで保存
ダビデが逃げた先は、自分の家だった。
その家は、父エッサイからのものではなくサウルから与えられたものであろう。
そこには、新妻でありサウルの娘であるミカルがいる。
『その夜、サウルはダビデの家に使者たちをつかわして見張りをさせ、朝になって彼を殺させようとした。しかしダビデの妻ミカルはダビデに言った、「もし今夜のうちに、あなたが自分の命を救わないならば、あすは殺されるでしょう」。そしてミカルがダビデを窓からつりおろしたので、彼は逃げ去った。ミカルは一つの「像(テラフィム)」をとって、寝床の上に横たえ、その頭にやぎの毛の網をかけ、着物をもってそれをおおった。』(1サムエル記19:11-13)
ミカルはダビデを愛していたので、父の殺意を汲むのではなく、ダビデを助け、逃し、寝床に服を着せた像(テラフィム)を置いて、人が寝ているかのように見せかけた。
テラフィムは、家族・子孫繁栄のご利益物として、あるいは家督権相続のしるしとして用いられる事もあった。
ミカルはテラフィムをカムフラージュとして手軽に使った所を見ると、崇拝対象としていなかったようだが、サウルから分与された家に、そのような物が置いてあった事自体、サウル家の信仰が伺える。
(ちなみに、サムエルがサウルを叱った言葉、「そむくことは占いの罪に等しく、強情は偶像礼拝の罪に等しい」(1サムエル記15:23)の、「偶像礼拝の罪」は、直訳すれば「罪とテラフィム」となる。)
彼女はダビデを愛し、彼をかばった故に、サウル家が没落した後でも、ダビデの妻として生き残ったが、子は無かった。
ヤコブの妻ラケルも、このテラフィムがらみで災い多き人生だった。彼女は子孫繁栄のご利益物であるテラフィムを、父の所から盗み、自分のものとした結果、その子孫繁栄がらみの災いを刈り取ってしまった。
ミカルは、ダビデを窓から吊り降ろして救った。
遊女ラハブも、神の民からの斥候をかくまって窓から吊り降ろして救ったが、ラハブとミカルの違いは、ミカルはその後、夫であり王であるダビデが、主の前で無邪気に楽しみ踊っているのを見下ろして、さげすんだ所だ。
カナン人であるラハブから、ボアズという信仰の立派な子が生まれて育ったのは、彼女がイスラエル人の夫・サルモンに従順に仕え、サルモンが施す律法教育に従順に従ったからだ。
キリスト者は、まことの花婿であるキリストに嫁ぎに行く時、神ではなきものは捨て去り、まことの夫、購い救ってくれたキリストに仕える事を、しなくてはならない。
ダビデは、今回のこの時の祈りを、詩篇59編にて記している。
『 聖歌隊の指揮者によって、「滅ぼすな」というしらべにあわせてうたわせたダビデのミクタムの歌。これはサウルがダビデを殺そうとして人をつかわし、その家をうかがわせたときダビデのよんだもの
わが神よ、どうかわたしをわが敵から助け出し、わたしに逆らって起りたつ者からお守りください。悪を行う者からわたしを助け出し、血を流す人からわたしをお救いください。見よ、彼らはひそみかくれて、わたしの命をうかがい、力ある人々が共に集まってわたしを攻めます。主よ、わたしにとがも罪もなく、わたしにあやまちもないのに、彼らは走りまわって備えをします。わたしを助けるために目をさまして、ごらんください。』(詩篇59:1-4)
ダビデは、いつでも主を頼りとした。
国家の最高権力者である王から、指名手配犯のように追われ、先行きが全く絶望であるかのように見えたかもしれないが、彼は全てを主に訴えた。
主は、主に助けを求める人を守られる。
『どうぞ、わが民の忘れることのないために、彼らを殺さないでください。主、われらの盾よ、み力をもって彼らをよろめかせ、彼らを倒れさせないでください。彼らの口の罪、そのくちびるの言葉のために/彼らをその高ぶりに捕われさせてください。彼らが語るのろいと偽りのために憤りをもって彼らを滅ぼし、もはやながらえることのないまでに、彼らを滅ぼしてください。そうすれば地のはてまで、人々は神がヤコブを治められることを/知るに至るでしょう。』(1サムエル記59:11-13)
ダビデを追う者、苦しめる者の災いを彼は求めている。
彼は上っ面で祈るのではなく、そのようないらだちの心さえ主に隠し立てせずに、正直に、心のままを打ち明けている。
ダビデは、主を喜ぶ時も、ミカルにさげすまれる程に喜びの感情をあらわしたし、敵に追われる時も、心に湧き上がる思いを全部、主に打ち明けた。
そうして心の全てを、主に洗いざらい打ち明ける時、平安が来る。
実際、この詩篇の最後は、心からの賛美と、救いの確信で閉じられている。
『しかし、わたしはあなたのみ力をうたい、朝には声をあげてみいつくしみを歌います。あなたはわたしの悩みの日にわが高きやぐらとなり、わたしの避け所となられたからです。わが力よ、わたしはあなたにむかってほめうたいます。神よ、あなたはわが高きやぐら、わたしにいつくしみを賜わる神であられるからです。』(詩篇59:15-17)
全能者なる主に、何もかもを打ち明ける時、平安が与えられ、そして罪や弱さは覆われ、きよく平和な心が与えられるのだ。
私達も、ダビデのように、主に隠し立てせず何もかも打ち明け、ダビデが詩篇を編纂したように、私達も主と共に歩んだ日々を、心に、あるいは書物に記し、主の良くして下さった事を何一つ忘れない者でありたい。
立てた約束を簡単に破ってしまう人の性質(1サムエル記19:1-10)
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- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(旧約) » 1サムエル記
- 執筆 :
- pastor 2015-4-16 23:50
礼拝説教メッセージ音声:立てた約束を簡単に破ってしまう人の性質(1サムエル記19:1-10):右クリックで保存
『サウルはその子ヨナタンおよびすべての家来たちにダビデを殺すようにと言った。しかしサウルの子ヨナタンは深くダビデを愛していた。』(1サムエル記19:1)
サウルは今まで、ダビデを殺したいという思いを内密にしていたが、おおっぴらにするようになった。
このままダビデを生かし、彼の活躍をゆるしていたら、サウル家の存続にかかわる、と、息子ヨナタンや家来たちに煽ったのだろう。
サウルには、主がダビデを通してイスラエルを御旨を為そうとしておられる事より、自分の王座、自分の名声が保たれる事のほうが大事だったのだ。
ヨナタンは、ダビデを主にある信仰の兄弟として愛していたので、父をなだめるための和解の行動に出る。
『ヨナタンは父サウルにダビデのことをほめて言った、「王よ、どうか家来ダビデに対して罪を犯さないでください。彼は、あなたに罪を犯さず、また彼のしたことは、あなたのためになることでした。』(1サムエル記19:4)
ヨナタンは、何の罪も犯していないダビデを殺すという「罪」を犯さないで下さい、と、サウルの霊的自尊心を突いた。
このような、霊的自尊心を突く言葉は、「どうかダビデを殺さないで」という嘆願を何十回するより、あるいは「どうしてそんな事するのか」、と責めなじる言葉よりも、はるかに効果がある。
『彼は命をかけて、あのペリシテびとを殺し、主はイスラエルの人々に大いなる勝利を与えられたのです。あなたはそれを見て喜ばれました。それであるのに、どうしてゆえなくダビデを殺し、罪なき者の血を流して罪を犯そうとされるのですか」。』(1サムエル記19:5)
続いて、ダビデがイスラエルに対して為した明白な良き実績と、そしてサウルがそれを喜んだ、という事実を思い出させた。
そう、ダビデは命がけで戦ったのだ。千人隊の長になった時も、千人の部下の誰より先陣を切って敵陣へ切り込んでいったから、多くの「年上の部下」も喜んで彼についていったのだ。
実に素晴らしい「執り成し」である。
『サウルはヨナタンの言葉を聞きいれた。そしてサウルは誓った、「主は生きておられる。わたしは決して彼を殺さない」。ヨナタンはダビデを呼んでこれらのことをみなダビデに告げた。そしてヨナタンがダビデをサウルのもとに連れてきたので、ダビデは、もとのようにサウルの前にいた。』(1サムエル記19:6-7)
こうしてヨナタンは、サウルから、「ダビデを決して殺さない」という誓いを引き出し、和解のつとめは大成功に終わった。
それなのにサウルは、主(エホバ)の名によって自分で立てた誓いを、早速破ってしまう。
『ところがまた戦争がおこって、ダビデは出てペリシテびとと戦い、大いに彼らを殺したので、彼らはその前から逃げ去った。さてサウルが家にいて手にやりを持ってすわっていた時、主から来る悪霊がサウルに臨んだので、ダビデは琴をひいていたが、サウルはそのやりをもってダビデを壁に刺し通そうとした。しかし彼はサウルの前に身をかわしたので、やりは壁につきささった。そしてダビデは逃げ去った。』(1サムエル記19:8-10)
せっかくヨナタンが建て上げた尊い和解のわざを、サウルはいとも簡単にひっくり返してしまった。
神と人との前で誓った誓いを、いともあっさり破ってしまう。めちゃくちゃだ、と思うかもしれないが、悪霊に憑かれている者の行動は、そのように、支離滅裂なものである。
主に属する人は、和解のつとめを無し、いのちを建て上げるが、サタンに属する者はそれを破壊し、尊いものを踏みにじるのが、仕事である。
『聖なるものを犬にやるな。また真珠を豚に投げてやるな。恐らく彼らはそれらを足で踏みつけ、向きなおってあなたがたにかみついてくるであろう。』(マタイ7:6)
サウルは、どのタイミングで、主からの悪い霊が入ったか。それは、ダビデがペリシテとの戦いで、大活躍したタイミングだ。
つまり、サウルに再び「嫉妬」「恐れ」「怒り」が沸き起こり、それを「エサ」として悪霊がおびき寄せられ、その侵入をゆるしてしまったのだろう。
私達も、心に空隙を残したまま悪霊の好むエサを取り扱わずにいるなら、もっとたちの悪いもの七つが連れて来られ、以前よりもさらに悪い状態になってしまう。(マタイ12:45)
ダビデははっきりとサウルの元にはいれないと認識し、これ以来、ダビデのサウルからの逃亡生活が始まる。
私達もサウルのようにならないように、悪霊の好む汚れた性質は放置しておかず、それをイエスキリストの名によって支配して追い出し、追い出されて出来たその空隙は、御言葉と感謝と賛美で満たしていきたい。
ダビデを鍛える事に用いられたサウル(1サムエル記18:17-30)
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- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(旧約) » 1サムエル記
- 執筆 :
- pastor 2015-4-15 23:50
礼拝説教メッセージ音声:ダビデを鍛える事に用いられたサウル(1サムエル記18:17-30):右クリックで保存
『その時サウルはダビデに言った、「わたしの長女メラブを、あなたに妻として与えよう。ただ、あなたはわたしのために勇ましく、主の戦いを戦いなさい」。サウルは「自分の手で彼を殺さないで、ペリシテびとの手で殺そう」と思ったからである。』(1サムエル記18:17)
サウルとしては、ダビデに「王の娘と結婚できる」という「褒美」をちらつかせて戦争に出させ、戦っている内に戦死させようと、目論んだのだろう。
サウルから二度も槍を投げつけられ、妬みの目で見られていたダビデには、彼のこの表面上きれいな言葉に、かなりの胡散臭さを感じたであろう。
しかし「王」という最高権威から言われる事については、どうしようもない。
『ダビデはサウルに言った、「わたしは何者なのでしょう。わたしの親族、わたしの父の一族はイスラエルのうちで何者なのでしょう。そのわたしが、どうして王のむこになることができましょう」。』(1サムエル記18:18)
ダビデには、知恵があった。そして、自分という立場をわきまえていた。
彼は「主が油を注がれた王」が、いかに尊いものかを、サウル本人よりもわきまえており、後に彼は自分を付け狙うサウルを、いとも簡単に殺せるチャンスが2度訪れるのだが、2度とも、主に油注がれた王を殺す事は出来ないと、決して手を降さなかった。
『しかしサウルの娘メラブは、ダビデにとつぐべき時になって、メホラびとアデリエルに妻として与えられた。』(1サムエル記18:19)
サウルは、ダビデが中々罠にかかってくれないので、あきらめて、娘を他の男に嫁がせたのかもしれない。
このようにサウルは、ダビデに勧めた事を土壇場でキャンセルしておきながら、すぐにまた別の企みをする。
『サウルの娘ミカルはダビデを愛した。人々がそれをサウルに告げたとき、サウルはその事を喜んだ。サウルは「ミカルを彼に与えて、彼を欺く手だてとし、ペリシテびとの手で彼を殺そう」と思ったので、サウルはふたたびダビデに言った、「あなたを、きょう、わたしのむこにします」。そしてサウルは家来たちに命じた、「ひそかにダビデに言いなさい、『王はあなたが気に入り、王の家来たちも皆あなたを愛しています。それゆえ王のむこになりなさい』」。』(1サムエル記18:20-22)
サウルが娘の気持ちを喜んだのは、娘の幸せを思ってではなく、ダビデを殺す道具に使える、と思ったからだ。
彼は元から上の娘・下の娘の幸せを全く考えておらず、むしろ、妬ましいダビデが死ぬなら、娘が未亡人になってもかまわないのだ。
『そこでサウルの家来たちはこの言葉をダビデの耳に語ったので、ダビデは言った、「わたしのような貧しく、卑しい者が、王のむこになることは、あなたがたには、たやすいことと思われますか」。サウルの家来たちはサウルに、「ダビデはこう言った」と告げた。』(1サムエル記18:23-24)
サウルは、今度は直接ではなく、兵士たちの口を用いて、間接的にダビデに勧めたが、彼はまたも辞退した。そのような身分ではない、と。
どんな条件を要求をされるのか分かったものではないし、また、自分をわきまえていたからだ。
しかし、サウルの側から、結婚のための条件が提示される。
『サウルは言った、「あなたがたはダビデにこう言いなさい、『王はなにも結納を望まれない。ただペリシテびとの陽の皮一百を獲て、王のあだを討つことを望まれる』」。これはサウルが、ダビデをペリシテびとの手によって倒そうと思ったからである。』(1サムエル記18:23-25)
陽の皮は、ユダヤ人が割礼の時に切り取られるべき部分である。
それを百枚、それも期限つきでそれを獲よ、とダビデを急かす事によって、ダビデは屈強なペリシテ人の手で殺されるだろう、とサウルは思ったのかもしれない。
しかし前章を見て分かる通り、ダビデにとって、割礼なきペリシテ人に勝利する事は、主にあって当然すぎる事だった。
『サウルの家来たちが、この言葉をダビデに告げた時、ダビデは王のむこになることを良しとした。そして定めた日がまだこないうちに、ダビデは従者をつれて、立って行き、ペリシテびと二百人を殺して、その陽の皮を携え帰り、王のむこになるために、それをことごとく王にささげた。そこでサウルは娘ミカルを彼に妻として与えた。』(1サムエル記18:26
ここまであざやかに条件を達成されてしまっては、何も文句は言えない。
サウルは一度、既に約束を破っている。
そして今回は、サウル自ら兵たちに噂を流させ、公に意図を伝えたのだから、人目を恐るサウルとしては、自分が約束した事を果たさざるをえない。
『しかしサウルは見て、主がダビデと共におられること、またイスラエルのすべての人がダビデを愛するのを知った時、サウルは、ますますダビデを恐れた。こうしてサウルは絶えずダビデに敵した。さてペリシテびとの君たちが攻めてきたが、ダビデは、彼らが攻めてくるごとに、サウルのどの家来よりも多くのてがらを立てたので、その名はひじょうに尊敬された。』(1サムエル記18:28-30)
主は、主を愛する者を守り、その敵の企み通りにはなさらないのだ。
詩篇を読むと、サウルに関連した悩みがたくさん出てくるのが分かるが、その都度、ダビデは主に助けを求め、主から慰めを受け、主にあって奮い立ち、主から力を得ており、ダビデとしては、このサウルから学んだ事が非常に多い。
主は、サウルを用いてダビデを鍛えたのだ。
私達も、どうしてこんな人が目の前にいるのだろう、いなくなって欲しい、と思うような人がいるかもしれない。
しかしそのような時でも主に助けを求め、主を拠り所とするなら、主はやがてその人を高く挙げて下さるのだ。
礼拝説教メッセージ音声:罪を制さぬ者は悪霊に制せられる(1サムエル記18:1-16):右クリックで保存
『ダビデがサウルに語り終えた時、ヨナタンの心はダビデの心に結びつき、ヨナタンは自分の命のようにダビデを愛した。この日、サウルはダビデを召しかかえて、父の家に帰らせなかった。ヨナタンとダビデとは契約を結んだ。ヨナタンが自分の命のようにダビデを愛したからである。ヨナタンは自分が着ていた上着を脱いでダビデに与えた。また、そのいくさ衣、およびつるぎも弓も帯も、そのようにした。』(1サムエル記18:1-4)
主にある信仰者は、信仰者の、信仰ある行動に惹きつけられて互いに意気投合し、血の繋がった実の兄弟姉妹以上の親しさを覚えるものである。キリスト者とは、そういうものだ。
教会は「キリストのからだ」で、同じキリストのいのちを共有しており、一つが尊ばれれば共に喜び、一つが傷つけば共に痛む。故に、教会では互いを「兄弟」「姉妹」と呼び合うのだ。(1コリント12章)
ダビデの名は「愛されし者」だが、彼はヨナタンから愛されただけでなく、サウルの家来たちからも愛された。
『ダビデはどこでもサウルがつかわす所に出て行って、てがらを立てたので、サウルは彼を兵の隊長とした。それはすべての民の心にかない、またサウルの家来たちの心にもかなった。』(1サムエル記18:5)
ダビデはとても若いはずなのに、兵の隊長へと大抜擢された。
上司がかなり年下だと、うまく関係が築けなくなりやすいものだが、ダビデの場合、そうではなかった。
なぜなら彼は、戦いにおいて、いつも先頭に立って戦っていたからである。(13,16節)
彼が千人隊の長になっても、千人の部下より、誰よりも先んじて出て行き、いつも圧倒的な実績を収めていた。
だから誰もが認め、誰もが彼に安心してついて行けたのだ。
このように人々から愛され、人気者になると、妬む者も現れる。
彼を妬んだのは、イスラエルの王・サウルだった。
『人々が引き揚げてきた時、すなわちダビデが、かのペリシテびとを殺して帰った時、女たちはイスラエルの町々から出てきて、手鼓と祝い歌と三糸の琴をもって、歌いつ舞いつ、サウル王を迎えた。女たちは踊りながら互に歌いかわした、/「サウルは千を撃ち殺し、/ダビデは万を撃ち殺した」。サウルは、ひじょうに怒り、この言葉に気を悪くして言った、「ダビデには万と言い、わたしには千と言う。この上、彼に与えるものは、国のほかないではないか」。サウルは、この日からのちダビデをうかがった。』(1サムエル記18:6-9)
サウルが、ダビデを見る目が変わってしまったきっかけは、女性たちの、ダビデを褒めたたえる歌だった。
サウルは身長が高く、美男子だったので、ペリシテとの戦いで勝利する度に、女性達からの声援も、たくさん受けた事だろう。
しかしこの度、サウルよりもダビデのほうに、より大きな評価が集まっているという事で、彼を憎んだ。
妬み、怒り、独占欲、そうした悪い心を、取り扱わないまま放置しているなら、悪魔サタンにエサを蒔いて「来てください」と言っているようなものである。
『次の日、神から来る悪霊がサウルにはげしく臨んで、サウルが家の中で「狂いわめいた(ナーバー:預言した)」ので、ダビデは、いつものように、手で琴をひいた。その時、サウルの手にやりがあったので、サウルは「ダビデを壁に刺し通そう」と思って、そのやりをふり上げた。しかしダビデは二度身をかわしてサウルを避けた。』(1サムエル記18:10-11)
サウルは、悪い霊が激しく望んで「預言した」。ここで分かるように、預言すれば何でも良いというものではない。
預言できる人が、必ずしも、霊的に正しいとは限らないため、その、預言をさせている霊を確かめるべきだ。
御霊の実には、妬みや嫉妬、怒り、独占欲、殺意なぞ、無い。もし、皆さんの周りに霊的な人、預言の人、奇跡をする人がいて、ガラテヤ5:19-21でリストアップされているような、死に属する行動を取るなら、すみやかに離れたほうが良い。
戸口で待ち伏せている罪を治める事をせず、放置しているなら、さらに悪い事になり、さらに罪を犯す事になってしまう。
『日がたって、カインは地の産物を持ってきて、主に供え物とした。アベルもまた、その群れのういごと肥えたものとを持ってきた。主はアベルとその供え物とを顧みられた。しかしカインとその供え物とは顧みられなかったので、カインは大いに憤って、顔を伏せた。
そこで主はカインに言われた、「なぜあなたは憤るのですか、なぜ顔を伏せるのですか。正しい事をしているのでしたら、顔をあげたらよいでしょう。もし正しい事をしていないのでしたら、罪が門口に待ち伏せています。それはあなたを慕い求めますが、あなたはそれを治めなければなりません」。』(創世記4:3-7)
カインもサウルも、自分より下の者が、神様から愛され認められる事で、妬みを起こし、殺人の行動を取った。
主はなぜアベルを認め、またダビデを認めたのか。
それは、彼らが主を愛し、主に優れたものを捧げたからであって、彼らは別に誰かに認められたいとか、昇進したいとかいう下心は、一切なかった。
ダビデはますます手柄を立て、ますます人々から愛され、その事は、サウルをますます恐れた。
妬み、嫉妬、殺意、恐れ。それは皆、ガラテヤ5:19-21に記されている、肉の実である。
私達は、罪が戸口で慕っていると感じた時、それを主イエスの名によって、とりこにし、治めるべきだ。
それをしないなら、殺意が芽生え、それを放置する、あるいは殺意を思い巡らしていくなら、実際に、殺しをするのである。
『何が原因で、あなたがたの間に戦いや争いが起こるのですか。あなたがた自身の内部で争い合う欲望が、その原因ではありませんか。あなたがたは、欲しても得られず、人を殺します。また、熱望しても手に入れることができず、争ったり戦ったりします。得られないのは、願い求めないからで、願い求めても、与えられないのは、自分の楽しみのために使おうと、間違った動機で願い求めるからです。』(ヤコブ4:1-3)
私達は決して肉の欲望を満足させず、御霊にあって歩み、御霊の実である愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制を豊かに結ばせる者でありたい。(ガラテヤ5:22-23)
主が祭司へと託した祝福の意味(民数記6:22-27)
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前回のイースター礼拝では、戸を閉ざして恐れている弟子達の所に、復活の主が現れ、「安かれ」と言われた事、そしてこ、の言葉に込められた色々な祝福の意味を学んだが、今回、ユダヤ教でもキリスト教でも用いられている民数記6章の有名な祝祷、「主があなたを祝福し・・・」の言葉を学びたい。
そもそも、「祝福」という言葉は聖書でも教会でも頻繁に用いられるが、一体「祝福」とは何だろう。
祝福のヘブライ語「バーラフ」は元々「ひざをつく」の意味で、「あがめる、かがめる、祝福する、ひざまずく、賛美する、誉め称える」の意味がある。この言葉が最初に登場するのは聖書の最初の書、最初の章からだ。
『神は彼らを”祝福(バーラフ)”して言われた、「生めよ、ふえよ、地に満ちよ、地を従わせよ。また海の魚と、空の鳥と、地に動くすべての生き物とを治めよ」』(創世記1:28) 主は、人類がこの世に誕生した始まりから、人が産んで増えて、地を治めるように、と、「ひざをついて」便宜をはかって下さったのだ。ちょうど、親が子供の目線に合わせるために、膝をついて、よく食べなさい、健康になりなさいと願う、あの愛の眼差しで。
神に似た、神の子としての人と、また、全被造物のために、主、自らが膝をついて便宜を図り、いのちが増え広がる事を主が応援した結果、それをご覧になられた主は「はなはだ良し」と評価された。(創世記1:31)
今、世界が「はなはだ良い」状態からかけ離れているのは、人が、創造者である主の御言葉に反し、主から離れ、好き勝手に歩んでいる故だ。今、全被造物はうめきつつ、「神の子」たちの現れを待ち望んでいる。
主が祝福して(膝をついて)下さる人とは、創造者なる主の言葉を守り行い、主と共に歩む「神の子」である。
罪が入る前の人類に、主は「生めよ、増えよ」の祝福を与えたが、それと同じ祝福を受けたのがノアであり、アブラハムである。彼らに共通する事は、創造者の言葉を信じて守り行ない、主と共に歩んだ事だ。
彼らのように、父なる神様の御言葉に従って歩み、神の霊に導かれて歩む「神の子」こそ、祝福を受けるに相応しく、彼らのような神の子たち繁栄し、増え広がり、地を治めていく事を、主は望んでおられる。
主は、御言葉に従順したアブラハムの子孫・イスラエルを神の民とし、祭司を立て、彼らに御言葉を委ねた。
主が大祭司に「こう祝福せよ」と命じられた祝福の第一は、『主があなたを祝福(バーラフ)し、あなたを守られ(シャーマル)るように。』。このシャーマルには「守る」の他、見張る、気をつける、の意味がある。
自分のかわいい子供なら、泣いても笑っても、夜通し見守っていても、いつまでも飽きないものである。
そのように、どうか主があなたに膝をつき、その愛の眼差しと見守りをもって、昼も夜もいつもあなたに注いでいて下さるように。そうしてあなたが神の子として、創世当初の「はなはだ良かった」状態へと、ますますなって行きますように。それがこの第一の祈りである。
第二の祝福は、『願わくは主がみ顔をもってあなたを照し、あなたを恵まれる(ハーナン)ように。』。
この「恵む(ハーナン)」の言葉は、憐れむ、情けをかけるという意味で「具体的な行動を伴った同情」である。
それは新約のギリシヤ語「スプランギニゾマイ(はらわたがちぎれる思い)」に相当し、イエス様が人の有様、飼い主のいない羊のように弱り果て倒れているような様を見た時に感じた、深い憐れみ、同情である。
この祝福は、主が、はらわたがちぎれるほどの深い憐れみをもって、あなたに情けをかけ、その慈愛に満ちた表情を、光のようにあなたに照らして下さるように、という祈りなのだ。
そして第三の祝福は、『願わくは主がみ顔をあなたに向け(ナサー)、あなたに平安(シャローム)を賜わるように』である。先週も見たように、この「向け(ナサー)」には、「上げる」「支持する」等の応援的な意味があり、そして「シャローム」は、平和を意味する挨拶言葉で、実に広範な意味があり、祝福の総称とも言える。
すなわち、主がその御顔をあなた向け、あなたを応援し、あなたが平安で、健やかで、安全であり、知恵と力と栄光と富に満ち、あらゆる悪や敵から守られ、それらに勝利し、そして、あらゆる面で満ち足り、繁栄し、産んで増えて地に満ちて、満足するように、という、実に多様な願いを込めた祈りである。
主は、神の似姿である神の子を、祝福したかったのだ。それも、世界の始まる前から、キリストの内に選び、御前できよく傷なき者として定めておられ、時至ってイスラエルの民に律法という御言葉を託し、神と人との仲保者である祭司に、この祝福の言葉をもって、人々を執り成すように、と、定められたのだ。
どうか、主が膝をついて皆さんを守られ、主が、はらわたのちぎれるような憐れみの表情を皆さんに照らし、恵まれますように。まどろむ事も、眠る事も無い主が、皆さんを応援し、シャロームを与えられますように!
金曜徹夜祈祷会 礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
世の栄華に目を留めず(ヨハネ19:38-42):右クリックで保存
主の言われる事を全然聞いていないキリスト者達(マタイ20:17-28)
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- 執筆 :
- pastor 2015-4-11 14:36
マタイによる福音書講解説教メッセージ音声(音声のみ)
主の言われる事を全然聞いていないキリスト者達(マタイ20:17-28)(韓国語通訳有한국어예배):右クリックで保存
イザヤ書講解説教メッセージ音声(音声のみ)
7人の女にすがりつかれる男とは(イザヤ4章)(韓国語通訳有한국어예배):右クリックで保存
【概要】
イザヤ書4章1-6節を基に、真の夫であるイエス・キリストへの信頼と、それ以外のものを頼りにすることの愚かさについて語られたメッセージ。
【聖書箇所】
イザヤ書4:1-6、イザヤ書11:1-5、黙示録7章
【戒めの言葉】
主以外のものを頼りにすることの愚かさと、その結果もたらされる災いについて警告しています。
【励ましの言葉】
真の夫であるイエス・キリストだけを頼りにし、その守りと祝福の中に生きることを勧めています。
【***詳細***】
今日のメッセージは、イザヤ書4章1-6節を中心に展開されています。この箇所は、イスラエルの民が主を離れ、偶像や世俗的なものを頼りにしたことによって引き起こされた災いと、そこからの回復の預言を含んでいます。
まず、1節で描かれている「七人の女が一人の男にすがりつく」という状況は、バビロン捕囚時代に実際に起こったことを反映しています。戦争によって多くの男性が死亡し、捕囚となったため、女性たちが結婚相手を見つけられない状況に陥ったのです。しかし、この預言は単に歴史的な出来事を語るだけでなく、私たちにも適用される霊的な真理を含んでいます。
説教者は、この状況を現代の私たちの生活に当てはめ、主以外のものを「夫」として頼りにすることの愚かさを指摘しています。お金、地位、名誉、美しさなど、世俗的なものを頼りにする生き方は、結局のところ空しく、災いをもたらすのです。
「そういった頼りにならないものに対して主、子自身は証をするんですね。これはこのように頼りにならないよ。あなたが頼りにした権威、力をどうやって地に落ちていくのか見てみなさい。」
一方で、2節以降に描かれている「主の若枝」は、メシア、すなわちイエス・キリストを指しています。イザヤ書11章1-5節を引用しながら、説教者はこの「若枝」がイエス・キリストであることを明確にしています。
「エッサイの根株から新芽が生え、その根から若枝が出て実を結ぶ。その上に主の霊が留まる。」(イザヤ11:1-2a)
イエス・キリストこそが、私たちの真の夫であり、頼るべき唯一の存在です。4-6節では、主が私たちを清め、守り、祝福してくださることが描かれています。
「主はシオンの山のすべての場所、その会合の上に、昼は雲、夜は煙と燃える火の輝きを創造される。それは、すべての栄光の上に大幕となり、かつ天幕となり、昼は暑さを避ける影となり、嵐と雨を防ぐ避け所と隠れ家になるからだ。」(イザヤ4:5-6)
この描写は、黙示録7章に描かれている天の光景とも呼応しています。説教者は、黙示録7章14-17節を引用し、イエス・キリストが私たちの真の守り主であることを強調しています。
「御座についておられる方も、彼らの上に幕屋を張られるのです。彼らはもはや飢えることもなく、渇くこともなく、太陽もどんな炎熱も彼らを打つことはありません。」(黙示録7:15b-16)
最後に、説教者は聴衆に対して、イエス・キリストだけを頼りとし、その守りと祝福の中に生きることを勧めています。
「どうか皆さん、このイザヤ書3章の愚かな夫、愚かな女、この二の鉄を踏むことなく、本当に誠の夫であるイエス様だけを頼りとして、本当にイエス様ご自身が皆さんの覆いとなって、幕屋となって、守って、その幸いにいつまでも預かる皆さんでありますように。」
【結論】
私たちは、この世のはかないものではなく、真の夫であるイエス・キリストだけを頼りとして生きるべきです。イエス・キリストは私たちを清め、守り、祝福してくださる唯一の存在です。この真理に立ち返り、主との親密な関係の中で生きることが、真の幸いと祝福への道なのです。