メッセージ - 201508のエントリ

バテ・シェバを慰めるダビデ(2サムエル記12:24-31)
Youtube動画
メッセージ音声

ダビデは姦淫の罪を犯した故に、これからその報いを受けて行かなくてはならないが、主に罪を指摘された以降のダビデは、正面からそれと向き合っていく。
『ダビデは妻バテシバを慰め、彼女の所にはいって、彼女と共に寝たので、彼女は男の子を産んだ。』(2サムエル記12:24)

ダビデはバテ・シェバを通して苦い経験をしたが、それで彼女を捨て去ったり疎んじたりする事はなく、しっかり彼女を慰めた。
何しろ彼女は、ただ一方的に、ダビデの罪故に災難に引き込まれたのだから。
彼女は、体を洗っている所を勝手にダビデ王に見られ、勝手に情欲を抱かれ、一方的に呼び出され、姦淫の相手とされ、夫ウリヤは謀殺され、ただ一方的に王の妻とされた。
そして生まれて来た子は、王の罪の故に死んでしまった。
そんな目に遭わせた彼女を疎んじるなど、御前においてとんでもない事だ。
ダビデは彼女を、根気よく慰める責任がある。

『ダビデはその名をソロモンと名づけた。主はこれを愛された。そして預言者ナタンをつかわし、命じてその名をエデデア(「主に愛された」の意味)と呼ばせられた。』(2サムエル記12:25)
世界的に有名な、あの知恵に満ちた王・ソロモン王は、このようにして生まれた。

ところでソロモンは、かの事件の後、すぐに生まれたわけではない。
彼は4男であり、彼が生まれるに至るまで、色々な紆余曲折があったようである。
『エルサレムで生れたものは次のとおりである。すなわちシメア、ショバブ、ナタン、ソロモン。この四人はアンミエルの娘バテシュアから生れた。』(1歴代誌3:5)
ダビデとバテ・シェバとの間に生まれた最初の子・シメアは、ダビデの罪ゆえに主に打たれて死んでしまった。
シメアの名の意味は「聞く、うわさ」であり、彼が生まれた時、ダビデの姦淫やウリヤ謀殺について、色々なうわさ話が聞かれていたのかもしれない。
次男ショバブの名は「堕落する、反逆的な、手に負えない」という意味である。
バテ・シェバの、その時のダビデに対する態度がそうだったかもしれないし、あるいは、子は母の胎にいる時、母の状況や精神状態に影響を受けやすいものであるが、そのため子が反逆的で手に負えなくなってしまったのかもしれない。
また、3男ナタンの名は「与えられる、置かれる」という意味である。
ダビデとバテ・シェバとの間に、段々落ち着きが与えられて行ったのだろう。
そして4男、ソロモンは「平和」という意味である。
ようやく平和な心で子が生まれた事を喜び祝い、平和の子となったのかもしれない。

『さてヨアブはアンモンの人々のラバを攻めて王の町を取った。ヨアブは使者をダビデにつかわして言った、「わたしはラバを攻めて水の町を取りました。あなたは今、残りの民を集め、この町に向かって陣をしき、これを取りなさい。わたしがこの町を取って、人がわたしの名をもって、これを呼ぶようにならないためです」。そこでダビデは民をことごとく集めてラバへ行き、攻めてこれを取った。』(2サムエル記12:26-29)
元々、アンモン人との戦いが発生した時から、ダビデの怠慢がはじまり、そうして一連の事件が起きたのであるが、その間、ヨアブの活躍によって、戦いは大体の収束をつけてきた。
そしてダビデは、ヨアブの促しによって、戦いの指揮をとる立場へと戻り、勝利し、こうしてアンモンは平定された。

このように外敵は平定されたものの、次章以降、ダビデは外敵ではなく身内から、すなわち、子と子の間の問題で、苦々しい経験をしていく事となる。
姦淫は、産んで増えて行く「いのち」に対する冒涜であり、姦淫をする人は、生まれてくる子や身内の「いのち」から災いを返されてしまうものだ。

ダビデ王のバテ・シェバとの馴れ初めは、最悪に類するものだが、主は、人のそのような「最悪」を「最善」へと造り替える事ができるお方であり、彼らの間に生まれた子を用いて、主は、全人類救済のご計画を遂行していく。
罪を犯した男女の、いのちが呪われてしまった歩み。それはエデンの園以降、全人類に重くのしかかるものであるが、ダビデがバテ・シェバを根気よく慰め続けたように、人がいのちを大切にし営んで行く所なら、主はそこから救いのご計画を遂行されて行くのだ。

石女から宝石のような世代へ(イザヤ54章)
第一礼拝: Youtube動画 / 音声
賛美集会音声
第二礼拝: Youtube動画 / 音声
週報/メッセージ(説教)概要

『子を産まなかった石女(うまずめ)よ、歌え。産みの苦しみをしなかった者よ、声を放って歌いよばわれ。夫のない者の子は、とついだ者の子よりも多い」と主は言われる。』(イザヤ54:1)
なぜ主は、子を産まない女に「喜べ」と言われるのだろう。聖書は、不妊の女や、生まれる望みのない女に奇跡的に子を与え、その子が時代を変えるようになる記述が多いが、それは、母をうめかせ、祈りへと導き、その祈りとうめきによって御前に飾られた子を、御言葉と信仰によって育て、そして時代を変えるためだ。
主は、ハンナに子を産ませなかった。彼女が「声にならない程のうめきの祈り」を生むまでは。(1サム1章)
主は、その暗黒の時代にサムエルを生み落とすために、ハンナを選び、彼女に声にもならない心からの祈りを引き出すために、石女にしたのであろう。それ程までに、「祈り」と「捧げる心」は重要なのだ。
彼女がこの祈りをした時、生まれてくる子は、主に捧げられ、それによって主は、その子をご自分の御旨どおり用いる「きっかけ」を得、こうして時代の指導者でありキングメーカーであるサムエルが生み出された。
「あなたの子孫はもろもろの国を獲、荒れすたれた町々をも住民で満たす」(3節)と記されている通りである。

子を産まない女、夫のない女は、世間からの恥がつきものだが、主は、主にすがる人々に言われる。
『恐れてはならない。あなたは恥じることがない。あわてふためいてはならない。あなたは、はずかしめられることがない。あなたは若い時の恥を忘れ、寡婦であった時のはずかしめを、再び思い出すことがない。あなたを造られた者はあなたの夫であって、その名は万軍の主。あなたをあがなわれる者は、イスラエルの聖者であって、全地の神ととなえられる。』(4-5節) すなわち、主にすがる全ての人には、主ご自身が夫となり、その子にとって、主が父となり、もはや恥じる事も、はずかしめを受ける事もなくなるのだ。

この女が捨てられて悲しんでいた(6-7節)のは、昔、主から離れて好き勝手に生きていたためかもしれない。あるいはハンナのように、時代を変える子を生むための祈りを引き出すためかもしれない。
最初から主に祈り主に捧げる生活をして苦しみや悲しみを経験しないのがベストだが、たとえその中でも主に捧げ祈るなら、主はやがて悲しむ妻を引き寄せるように慰め、大きな憐れみをもって集められる。
主はノアの時代、前の邪悪なもの達は全て水で洗い流し、その後、二度とそのような裁きはしないと、虹をもって契約されたが、私達も、主イエスにあって新しく生まれ変わり、古い性質を全て洗い流したのであるなら、主の憐れみと慈しみは、二度と奪われる事は無い。たとえ山は移り丘は動いても。(8-10節)

不妊の女「うまずめ」。漢字では石の女と書くが、たとえ私達が石のようであっても、ハンナのように心から主にうめき、主を呼び求めて祈るなら、炭が圧縮されてダイヤモンドとなるように、石は宝石へと変えられる。
『苦しみをうけ、あらしにもてあそばれ、慰めを得ない者(女)よ、見よ、わたしはアンチモニーであなたの石をすえ、サファイヤであなたの基をおき、めのうであなたの尖塔を造り、紅玉であなたの門を造り、あなたの城壁を尽く宝石で造る。あなたの子らはみな主に教をうけ、あなたの子らは大いに栄える。』(11-13節)
不妊の女、石の女、いのちを生み出す事のできなかった女は、ハンナのごとき祈りによって、宝石へと変えられ、宝石へと造り変えられた女は、子をテフィリンし、その子は世を造り変えて行く「宝石」へと育って行く。
たとえ自分の胎で産んだ子でなくても、主の教育によってその子を育てて行くなら、その子は主の前に宝石のような飾りとなる。 『その時あなたは心のうちに言う、『だれがわたしのためにこれらの者を産んだのか。わたしは子を失って、子をもたない。わたしは捕われ、かつ追いやられた。だれがこれらの者を育てたのか。見よ、わたしはひとり残された。これらの者はどこから来たのか』と」。』(イザヤ49:21)

石女ハンナはやがて、宝石のような喜びの賛歌を主に捧げる。イエス様を産んだマリヤの賛歌のような、素晴らしい主への賛美を。私達も彼女達のように、時代を変える世代を産み、宝石のような子達を主に捧げるためには、主にうめきつつ祈る必要がある。この時代のために、この国のために。
ハンナの時代も、マリヤの時代も、暗闇の時代だったが、彼らは宝石のように輝いた。この暗闇の時代、彼女達のように宝石のように御前に輝く皆さんでありますように!イエス様の名前によって祝福します!

金曜徹夜祈祷会 礼拝説教メッセージ

主の栄光を見る夜番の羊飼い達(ルカ2:8-14)
Youtube動画
メッセージ音声

早天祈祷会
罪あるわたしを助けてください(詩篇51篇)
Youtube動画
メッセージ音声

マタイによる福音書講解説教メッセージ
読者はよく読み取るように(マタイ24:15-28)
Youtube動画
メッセージ音声

イザヤ書講解説教メッセージ
助言と憐れみを退け滅んでしまうモアブ(イザヤ書16:1-14)
Youtube動画
メッセージ音声

【概要】

この説教は、イザヤ書16章を通して、かつて高慢と反逆によって滅びたモアブの歴史と、今日の私たちへの悔い改めの警告・励ましを描いています。神の御言葉に素直に耳を傾け、誇り高ぶる心を捨てることの大切さを伝えています。

【聖書箇所】

・イザヤ16:1-14

【励ましの言葉】

神は悔い改める者を慈しみ、正しい道へと導いてくださいます。私たちや大切な人々が、神の恵みにすがり、取りなしの祈りの中で癒しと救いを受けるよう励まされます。

【戒めの言葉】

高慢や自己満足、古い悪しき慣習に固執することは、滅びの道です。かつてモアブが、その血筋ゆえに特別な憐れみを注がれながらも、反逆と不義を続けた結果、神の裁きを免れなかったことを忘れてはなりません。

【悔い改めの促しの言葉】

自分の罪と向き合い、誇り高ぶる態度や不当な行いを捨て、真摯に悔い改めることが救いへの道です。古い悪習慣から心を解放し、主に立ち返る決意を新たにしましょう。

【***詳細***】

本日の御言葉として、イザヤ書16章が私たちの前にあります。冒頭で読み上げられた一節と二節には、「子羊をこの国の支配者に送れ。セラから荒野を経て、シオンの娘の山に、モアブの娘たちはアルノンの渡し場で逃げ惑う。取り投げ出された巣のようになる、アメン」という御言葉が記されており、これにより、神がこの地に対してどのような計画を持たれているかが示されます。説教者はまず、愛する主に対し、今日も必要な御言葉と、その命の源となる御言葉に従う心を与えてくださるよう、深い祈りを捧げました。心の重さや、信徒それぞれの至らなさを認め、神の清めの働きを求める姿勢が強調されます。

次に、前回のイザヤ書15章からこの16章への展開として、モアブに対する神の宣告と助言の意味が語られます。モアブは歴史的には、アブラハムの甥ロトの子孫ということで、近縁者でありながらも、神から与えられた憐れみを受ける存在であったはずです。しかし、モアブの民は、次第に高慢になり、自らの栄光や力を誇示するようになりました。説教者は、かつてのモアブの様子や、かの地で守られたはずの恵みが、自己満足的な自慢話や誇りによって台無しになっていった実例を語り、その結果としてモアブが滅び、歴史の中から姿を消した事実に警告を投げかけています。

具体的には、イザヤ書16章の中で、まず「子羊をこの国の支配者に送れ」という命令が改めて示され、シオンの娘の山に神殿が建てられ、その上で正しい礼拝や献げ物が行われることこそが、神の救いの道であると説かれています。しかし、モアブはその道を拒み、反逆の道を選んだのです。さらに、説教の中盤では、モアブがかつてイスラエルに対して、羊や羊毛を貢ぎ物として納めるという義務を果たしていたにもかかわらず、アハブ王の死後、貢納をやめ、己の力に頼ろうとした結果、神の怒りを買い、厳しい裁きが下されたという歴史的背景が述べられます。この歴史的事例から、どんなに恵みを受ける立場にあっても、心が高ぶり、神の導きから離れるならば、たちまちその恩恵は失われ、滅びに至るという厳しい現実が示されます。

また、説教者は続く三節から五節にかけて、ユダに対しても同様の助言を与えていると解釈し、「昼の坂にもあなたの影を寄せ、散らされたものをかくまい、逃れてくる者の隠れ家となるように」という言葉を通じ、集団としての支え合いと正義の追求が求められていると説いています。これは、単にモアブだけでなく、現在の信者一人ひとりにも当てはまる教訓であり、誇りや自らの栄光に溺れることなく、互いに助け合い、神の正義を実現することの大切さを教えてくれます。

説教の後半部では、モアブの民が高慢ゆえに真実を見失い、悪しき慣行―特に子供を生け贄として捧げるといった、神に背く行為―に固執した結果、絶望的な結末を迎えたことが強く語られます。ここで、説教者は子供という弱い存在を侮ってはならないという戒めと、信仰における正しい行いの模範を示すべきであるとの呼びかけを行います。つまり、かつてモアブが誇り高ぶっていた時には、その誇りが神の警告と苦しみとして現れたのです。もし私たちが、現代においても同様に高慢になり、自己の欲望や古い習慣に固執するならば、やがてその結果は厳しい裁きとして返ってくるであろうと説かれています。

また、説教者は自らの経験や歴史的背景を交えながら、取りなしの祈りの力についても深く言及します。アブラハムが、モアブのために取りなしの祈りを捧げたように、現代の私たちも日々の中で自分や周囲の人々のために祈り続けるべきだと強調します。神は、取りなしの祈りを受け入れ、心から悔い改める者に対しては、必ずその恵みを注いでくださると信じるからです。決して自己中心的な誇り高ぶりに走らず、神への謙虚な信頼を新たにすることこそが、救いと栄光への道であると説かれています。

このように、イザヤ書16章は、古代モアブの歴史を背景にして、今日の私たち一人ひとりに「高慢は滅びの先導である」という厳しい現実と向き合わせる御言葉となっています。説教者は、これを聞く信徒たちに対して、自らの内面を省み、過去の悪しき慣習や誇りに満ちた行いから脱却するよう、熱心に呼びかけます。そして、自分自身が悔い改め、謙虚に主の導きを仰ぐことが、家族や友人、そして教会全体の祝福につながると強く説いています。

さらに説教は、主の祈りを捧げる場面で締めくくられ、イエス・キリストの御名によって、信徒一人ひとりが内面の高慢を捨て、真摯な悔い改めと信仰に基づく神との交わりを実現するように祈られます。熱心な祈りと言葉の連続は、聞く者に深い感動と共に、その心に重くのしかかる神の真実を感じさせるものとなっています。ここで示されるのは、ただ単に旧い慣習や誇りを否定するだけでなく、逆に神の慈悲と恵みの中に生きるためのあるべき姿勢―謙虚さ、誠実さ、そして互いに助け合う心―であることです。

説教者は、当初の御言葉の引用から始まり、モアブの歴史、そしてユダに対する助言、さらには子供を捧げるといった悲しい事例を並べることで、双方の教訓を浮かび上がらせます。全体を通して伝えられるメッセージは、神が私たちに対して常に救いの道を用意されているものの、そこに至るためには自らの高慢や悪しき習慣を断ち切り、心からの悔い改めを行わねばならないという、厳かでありながらも温もりのある呼びかけであります。

また、説教中で語られる歴史的背景や、神がモアブに与えた取りなしの祈りへの応答などのエピソードは、現代の信徒にとっても、自分たち自身の生活や人間関係を省みる大切な機会となります。どんなに小さな誇りや自己正当化の積み重ねであっても、それがやがて大きな誤りや滅びの原因となることを、歴史ははっきりと物語っています。だからこそ、今日ここで、皆さん自身が心の内をさらけ出し、神の御前にへりくだって悔い改めることこそが、未来への希望であり、神の恵みを享受するための唯一の道なのです。

説教の終盤において、説教者は「イエスを助けてください」と何度も口にし、皆で主の祈りを捧げるように促します。そこで強調されるのは、自己中心的な高慢や、自己満足に浸る生活から抜け出し、神の愛と導きを求める真摯な態度です。信徒各々がその悔い改めの祈りに心を開き、神と共に歩む決意を新たにするならば、かつて生け贄にあげられた子供たちの悲劇や、モアブの過ちを繰り返すことは決してない、という確信が語られます。

この御言葉は、単に古代の歴史を伝えるためだけでなく、現代に生きる私たちへの戒めであり、力強いメッセージです。私たちは、日々の生活の中で、ふとした瞬間に自己の中に高慢の芽が育っていないかを問い直す必要があります。そして、互いに支え合い、正しい道を歩むために、悔い改めと謙虚な心を持ち続けるよう、神の言葉に従い続ける決意を固めなければなりません。かつてモアブが高慢ゆえに失われたように、私たちもまた、己の誇りに溺れるならば、いつかその報いを受けるかもしれません。しかし、真摯な悔い改めと神への従順があれば、神の慈しみは必ず私たちに注がれるのです。

最終的に、説教者は、皆がこの御言葉を胸に刻み、自己の罪深さを認め、悔い改めに向かうことで、神の護りと恵みの中に生きることができると力強く説きました。私たちがその声に耳を傾け、内面の高慢や自己満足を捨て、神の前にへりくだるならば、神は必ず待ってくださる。その御恵みによって、私たちは命を得、真実な喜びと平安の中で歩むことができるでしょう。

【結論】

高慢や古い悪習慣を捨て、真摯に悔い改めることで、神は私たち一人ひとりに恵みと導きを注いでくださいます。モアブの悲劇から学び、私たちは主に従い謙虚な心で生きる決意を新たにし、互いに力を合わせて神の正義と愛を実現する道を歩みましょう。

つくばエクレシア礼拝説教メッセージ
不信仰なわたしをお助けください(マルコ9:14-29)
メッセージ音声

火曜早天祈祷会
主のわざが施行されない人の特徴(マルコ9:28-29)
Youtube動画
音声

 

罪のない人が死ぬ代わりに、罪人が生かされる(2サムエル記12:15-23)
Youtube動画
メッセージ音声

ダビデは自分の罪を主に認めたゆえ、主は彼の罪を見過ごしにして下さったため、彼は主に打たれて死ぬ事や聖霊が取り上げられたりする事からは免れたが、彼の犯した罪の報いは、彼自身が刈り取る事になる。
『さて主は、ウリヤの妻がダビデに産んだ子を撃たれたので、病気になった。ダビデはその子のために神に嘆願した。すなわちダビデは断食して、へやにはいり終夜地に伏した。ダビデの家の長老たちは、彼のかたわらに立って彼を地から起そうとしたが、彼は起きようとはせず、また彼らと一緒に食事をしなかった。』(2サムエル記12:15-17)

主がダビデに言われた通り、その子に、死の兆候が現れる。
生まれたばかりの自分の子が、死の苦しみに遭っている様を見るのはとても辛い事であるが、ダビデはそれ以上に辛い事情がある。
本来、死の苦しみを受けるべきは、罪を犯した「自分」のはずなのに、その自分はぴんぴんしていて、その代わりに何もしていない自分の子が死の苦しみを味わっているのだ。
ダビデの辛さは、どれ程だっただろう。
彼は、自分が犯した罪の大きさを思い知り、苦しんだだろう。
それで彼は、必死に主のあわれみにすがり求めたのだが、結局祈りは聞かれず、その子は七日後、死んでしまった。

『罪の支払う報酬は死である。』(ローマ6:23前半)
姦淫の罪の報いは死であり(申命記22:24)、また、目には目、歯には歯、という事は、ダビデが無実の人を剣で殺したからには、剣によって撃たれるのが正当だ。
主の敵・サタンが大いにあなどり、ダビデを訴えるとするなら、残念ながら、サタンの訴えは理にかなってしまっている。
かと言って、主がこのダビデの罪をそのまま過ごしにするなら、主の「義」が立たなくなってしまう。
一体どうして、ダビデは生かされるのだろうか。
それは、罪なき命の、身代わりの死によって、である。

私達もそうだ。
本来、私達が犯した罪の刑罰を受け、死ななくてはならない罪人のはずである。
しかし、その私達が罪赦され生かされるとするなら、それは、神の一方的な贈り物の故だ。
その「贈り物」とは、すなわち、罪なきお方・生ける神の御子イエス・キリストである。
彼の身代わりの死によって、私達は生かされた。
そういう訳で、以下のように書かれてある。
『罪の支払う報酬は死である。しかし神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスにおける永遠のいのちである。』(ローマ6:23)

『七日目にその子は死んだ。ダビデの家来たちはその子が死んだことをダビデに告げるのを恐れた。それは彼らが、「見よ、子のなお生きている間に、われわれが彼に語ったのに彼はその言葉を聞きいれなかった。どうして彼にその子の死んだことを告げることができようか。彼は自らを害するかも知れない」と思ったからである。しかしダビデは、家来たちが互にささやき合うのを見て、その子の死んだのを悟り、家来たちに言った、「子は死んだのか」。彼らは言った、「死なれました」。』(2サムエル記12:18-19)
家来たちは、思っただろう。
7日も断食して祈り続ける程、熱情的に懇願していたのに、それが叶わずに、子が死んでしまった。彼はその熱情を一体どこに持っていくだろう?
悲しみのあまり後を追っおうとするだろうか。それとも「神様ひどい」とばかりに自暴自棄になるだろうか。色々思い巡らしたかもしれない。
しかしダビデは、彼らの想像を超えた行動を取った。

『そこで、ダビデは地から起き上がり、身を洗い、油をぬり、その着物を替えて、主の家にはいって拝した。そののち自分の家に行き、求めて自分のために食物を備えさせて食べた。』(2サムエル記12:20)
彼は、それまでの熱情的な祈りと断食を一切止めた。
そして真っ先にした事は、身をきれいにし、主の家に入って、礼拝した事だった。

もし、子が死んだと悟ったとたん、何日ぶりかで身体を洗えるとか、何日ぶりかで食べられるといった事に、真っ先に飛びついたとしたら、彼は本当は冷酷で、子を愛していたのではなく、ただのパフォーマンスで断食や祈りをしていたに過ぎない。
また、もしダビデが「こんな事をした主はひどい」と言って主を恨んでいたなら、彼は身を清めて礼拝するなど、しなかっただろう。
しかしそうではない。
彼は真っ先に、主の前に出て、礼拝したのだ。

彼は、自分のした悪と、それに対して主がなさった事を100%受け入れ、同意したからこそ、主の御前に身を清め、礼拝を捧げ、もはや自分の願いや執着は捨て去ったのだ。
これこそ、神の民が取るべき主への従順である。

イエス様も、ゲツセマネの園で、「この杯(十字架)を過ぎ去らせて下さい」と血の汗を流す程、必死に祈った。
しかし、御父の御旨はイエス様が十字架に架かられる事だと示された時、イエス様はそれを100%受け入れ、堂々と十字架へと歩んで行った。
私達もダビデやイエス様にならい、主の御心が示されたなら、それがどんな道であれ、従順して歩むべきなのだ。

イエス様は私達の身代わりになって死んで下さった。そして、よみがえって下さった。
それ故、私達もダビデのように、主のなさる事に同意し、全て自分の願いや執着を主の前に捨て、身を清めて礼拝し、正しく食事をとり、イエス様に生かされた命を感謝しつつ、正当に生て行くべきなのだ。

犯してしまった罪の刈り取り(2サムエル記12:7-14)
Youtube動画
メッセージ音声

『ナタンはダビデに言った、「あなたがその人です。イスラエルの神、主はこう仰せられる、『わたしはあなたに油を注いでイスラエルの王とし、あなたをサウルの手から救いだし、』(2サムエル記12:7)
ダビデは、主に見放されたサウル王がどんな悲惨な軌跡を辿ったのかを見ていたので、預言者から「あなたがその人です」と言われた時、冷水を浴びせられたようにぞっとしただろう。
主がどのようなお方であるかを理解しているならしている程、主の怒りを買う事がいかに恐ろしいかを知っており、自分がそのような状態にある時、心落ち着かないものだ。
主に扱っていただくべき罪や弱さ、至らなさを、いつまでも放置して呻いたまま何ヶ月も何年も過ごすのは、不健康であり、速やかに御前に出て取り扱っていただくべきだ。

『どうしてあなたは主の言葉を軽んじ、その目の前に悪事をおこなったのですか。』(2サムエル記12:9)
もし御言葉に記されている事(例えば、姦淫をしてはならない、殺してはならないという記述)を知りながら、それでもそれを犯すとするなら、御言葉なる主を軽んじ、御言葉なる主の目の前で悪を行っているものである。
警察官を目の前にするなら、誰も万引きはしないであろうが、そのようなレベルの問題ではなく、主のことばによって造られたこの世界の中で、主のことばによって造られた私達は、決して、神の臨在から離れる事は出来ないのものであり、例えば、アダムとエバがいちじくの葉で腰を覆ったり木陰に隠れたりする事は、全く無意味な事なのだ。

『あなたはつるぎをもってヘテびとウリヤを殺し、その妻をとって自分の妻とした。すなわちアンモンの人々のつるぎをもって彼を殺した。あなたがわたしを軽んじてヘテびとウリヤの妻をとり、自分の妻としたので、つるぎはいつまでもあなたの家を離れないであろう』。』(2サムエル記12:9-10)
ダビデは「剣」を用いて罪なき人の血を流した。
それ故今後、剣による災いに悩まされる事になる。
事実、ダビデから生まれた子の内、3人は剣で殺されてしまう。またダビデ自身、将来、剣から逃れなくてはならなくなってしまう。

『主はこう仰せられる、『見よ、わたしはあなたの家からあなたの上に災を起すであろう。わたしはあなたの目の前であなたの妻たちを取って、隣びとに与えるであろう。その人はこの太陽の前で妻たちと一緒に寝るであろう。あなたはひそかにそれをしたが、わたしは全イスラエルの前と、太陽の前にこの事をするのである』」。』(2サムエル記12:11-12)
ダビデはもうひとつ、姦淫という罪を犯した。
それ故、彼は姦淫で「はずかしめられる側」となり、事実この言葉の通り、ダビデの娘タマルは異母兄弟によって辱められ、ダビデの側女もダビデの子アブシャロムによって、白昼公然と辱められてしまう。

『ダビデはナタンに言った、「わたしは主に罪をおかしました」。ナタンはダビデに言った、「主もまたあなたの罪を除かれました。あなたは死ぬことはないでしょう。』(2サムエル記12:13)
ダビデはこの時、王の権威をふるって、耳に痛い事を言う預言者を殺す事もできたであろうが(実際、歴代の王達は預言者を迫害し殺した者も多くいた)、ダビデはそれをせず、正直に罪を認めた。

主は確かにダビデの罪を見過ごして下さった。
しかし、犯罪を犯した人は相応の服役をしなくてはならないように、彼が行った事の報いは、彼自身が受けなくてははらない。
『しかしあなたはこの行いによって大いに主を侮ったので、あなたに生れる子供はかならず死ぬでしょう」。』(2サムエル記12:14)

ダビデが犯した「姦淫」は、いのちの誕生への冒涜行為であり、剣によって罪なき人を殺害するという罪もした。
それ故、ダビデ自身は報いを受けなかったが、彼が産んだいのちが、その報いを受ける事になってしまった。

ダビデは、自分の罪の故に死ぬのではなく、罪を背負い、報いを刈り取りつつ生きなくてはならなくなった。
罪の刈り取りは、必ずある。しかし主は、人が一度罪を犯せば罰の中に永遠に閉じ込めたままにされるお方ではない。
懲らしめられて悔い、主に帰ろうとする人を、主は憐れまずにはいられない。(エレ31:18-22)

メインメニュー
礼拝ライブ中継

礼拝ライブ中継!

礼拝ライブ中継!

過去の礼拝映像も視聴できます

メッセージ
このページを紹介!

 
 
 
礼拝週報
メッセージ音声
携帯メールで毎日メッセージを購読!無料!

以下コードを読み込み、空メールを送信すれば登録できます。

パソコン/ウィルコム/スマートフォンで受信:以下にメールアドレスを入力下さい。

メルマガ購読・解除
日々のバイブルメッセージ
   
バックナンバー
powered by まぐまぐトップページへ
Podcast

以下画像をitunesへドラッグすれば、更新が自動的にPodcast配信されるようになります。

※2020/1/1より以前に登録された方は、再度、以下Podcast画像をitunesへドラッグする必要があります。

 主日礼拝ポッドキャスト

定期祈祷会ポッドキャスト

その他音声 ポッドキャスト

検索
Copyright ©Yokohama Voice of Christ Church 横浜天声キリスト教会
All Rights Reserved.
 〒231-0058 神奈川県横浜市中区弥生町2-17 ストークタワー大通公園?-201
TEL/FAX:045-326-6211

ephes_03-tensei@ yahoo.co.jp
© 2022 Powered by XOOPS Cube 2.1
Welcome Guest