メッセージ - 201601のエントリ
アリエル(祭壇の炉)となったイスラエルへの預言(イザヤ29:1-12)
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- pastor 2016-1-23 11:30
捕囚先の地から神殿に向かって祈る場合(1列王記8:46-53)
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『彼らがあなたに対して罪を犯すことがあって、――人は罪を犯さない者はないのです、――あなたが彼らを怒り、彼らを敵にわたし、敵が彼らを捕虜として遠近にかかわらず、敵の地に引いて行く時』(1列王記8:46)
ソロモンが神殿で祈る人のために祈りの最後、7番目のケースは、イスラエルがもし将来、罪を犯し続けて敵に打ち負かされ、捕囚されて行った場合、捕囚先からこの神殿に向かって祈ったなら、その祈りを聞いて下さい、というものである。
主はもっと昔、イスラエルと契約を結ばれた当初の、モーセの時代から既に、イスラエルがもし主の御声に聞き従わず、懲らしめの災いを受けても、なお身勝手なふるまいを続けるなら、災いの「最終形態」として、敵国に捕囚されてしまう、という事を、あらかじめ警告しておられた。(レビ記26章、申命記28章)
残念ながら、イスラエルはその災いの最終形態にまで行ってしまった。
彼らは主に逆らい続け、預言者を通して主の警告を何度も何度も受けても、頑なに自分勝手なふるまいを改めず、主に逆らい続けたからである。
彼らが敵に打ち破られ、バビロンに捕囚されて行かれてしまった事件は、世界史に刻まれている通りである。
『もし彼らが捕われていった地で、みずから省みて悔い、自分を捕えていった者の地で、あなたに願い、『われわれは罪を犯しました、そむいて悪を行いました』と言い、自分を捕えていった敵の地で、心をつくし、精神をつくしてあなたに立ち返り、あなたが彼らの先祖に与えられた地、あなたが選ばれた町、わたしがあなたの名のために建てた宮の方に向かって、あなたに祈るならば、』(1列王記8:47-50)
捕囚として連行されて行ってしまった時代、捕囚先の地で、この事を忠実に実践し続けた人がいた。
預言者ダニエルである。
彼は少年の頃バビロンに捕囚されたが、その地で誠実に主に従い続けたが故に主に愛され、捕囚先で大きな地位を得、バビロン、メディア・ペルシアの時代、彼は総理大臣に匹敵するような地位を保ち続けた。
バビロン帝国がメディア・ペルシアによって滅ぼされて、まだ間もない頃の事である。
『ダニエルは、その文書の署名されたことを知って家に帰り、二階のへやの、エルサレムに向かって窓の開かれた所で、以前からおこなっていたように、一日に三度ずつ、ひざをかがめて神の前に祈り、かつ感謝した。』(ダニエル6:10)
この時、「署名された文書」とは、どの神にでも、何か願い事をする者があるなら、その者はライオンの穴に投げ入れてしまう、という法律である。(同7節)
それは、他の高官達がダニエルを陥れるためにわざわざ定めたものだった。
なにしろダニエルは、あまりに完璧な人だったため、他の高官達に妬まれ、彼の神、主に対する誠実を利用する以外に、彼を陥れる手段が無かったのだ。
ダニエルは、この法律が定められたのを知りながら、家に帰ると、いつも通り日に三度、神殿のほうに向かって主に礼拝する事を止めなかった。
窓を閉めれば誰にも見つからずに礼拝できたであろうに、それもせず、いつも通り堂々と主に祈願し感謝を捧げたのだ。
それでダニエルは、ライオンの穴に陥れられてしまったのだが、主はダニエルを守り、ライオンは一切ダニエルを害する事が出来なかった。
結局、ダニエルの信じる神の栄光と、ダニエル自身の栄光とがますます上がり、逆にダニエルを陥れようとした者たち全員、ライオンの穴に投げ込まれ、その者達は穴の底に落ち込む前に、ことごとくライオンに噛み殺されたのだ。(ダニエル6章)
『われダニエルは主が預言者エレミヤに臨んで告げられたその言葉により、エルサレムの荒廃の終るまでに経ねばならぬ年の数は七十年であることを、文書によって悟った。それでわたしは、わが顔を主なる神に向け、断食をなし、荒布を着、灰をかぶって祈り、かつ願い求めた。すなわちわたしは、わが神、主に祈り、ざんげして言った、
「ああ、大いなる恐るべき神、主、おのれを愛し、おのれの戒めを守る者のために契約を保ち、いつくしみを施される者よ、われわれは罪を犯し、悪をおこない、よこしまなふるまいをなし、そむいて、あなたの戒めと、おきてを離れました。われわれはまた、あなたのしもべなる預言者たちが、あなたの名をもって、われわれの王たち、君たち、先祖たち、および国のすべての民に告げた言葉に聞き従いませんでした。』(ダニエル9:2-6)
ダニエルは、主が働かれる日が近い事を、預言者エレミヤの言葉から知り、以下のソロモンの祈りを、そのまま実践したのだ。
すなわち、『捕われていった地で、みずから省みて悔い、自分を捕えていった者の地で、あなたに願い、『われわれは罪を犯しました、そむいて悪を行いました』と言い、自分を捕えていった敵の地で、心をつくし、精神をつくしてあなたに立ち返り、あなたが彼らの先祖に与えられた地、あなたが選ばれた町、わたしがあなたの名のために建てた宮の方に向かって、あなたに祈る』事を、彼はそのまま実践した。
『あなたのすみかである天で、彼らの祈と願いを聞いて、彼らを助け、あなたの民が、あなたに対して犯した罪と、あなたに対して行ったすべてのあやまちをゆるし、彼らを捕えていった者の前で、彼らにあわれみを得させ、その人々が彼らをあわれむようにしてください。』(1列王記8:49-50)
ダニエルの他、多くの人々の祈りを主は聞いてくださり、実際に彼らをあわれみ、捕囚先から返して下さった。(エズラ1章)
『(彼らはあなたがエジプトから、鉄のかまどの中から導き出されたあなたの民、あなたの嗣業であるからです)。どうぞ、しもべの願いと、あなたの民イスラエルの願いに、あなたの目を開き、すべてあなたに呼び求める時、彼らの願いをお聞きください。あなたは彼らを地のすべての民のうちから区別して、あなたの嗣業とされたからです。主なる神よ、あなたがわれわれの先祖をエジプトから導き出された時、モーセによって言われたとおりです」。』(1列王記8:51-53)
ソロモンはこうして、神殿で祈る人のための執り成しを終えた。
主がイスラエルが祈る祈りを聞かれる根拠を、ソロモンは、「あなたが、彼らを区別し選ばれたから」と言っている。
今や神は、イエス・キリストを信じる人には、何の差別も区別もなく、イエス・キリストの名によって祈る祈りを聞いて下さる。
結局私達は、自分が何か良い事をしたからとか、何か優れたものであるからとかいった理由によって主に願える者ではない。
ただ、主が一方的に憐れみをかけて下さるが故に、私達の祈りを主は聞いて下さるのだ。
私達が主の御言葉を忠実に守り行うなら、私達も、主に愛される者となる。
ダニエルはいつも欠かさず祈り続け、たとえ法律で禁止されても、それを止めなかったため、主から大いに愛された。
ダニエルが断食して祈りはじめてから、21日が経った時、主の使い・ガブリエルが、ダニエルに現れて、言った。
『”大いに愛せられる人ダニエル”よ、わたしがあなたに告げる言葉に心を留め、立ちあがりなさい。わたしは今あなたのもとにつかわされたのです」。彼がこの言葉をわたしに告げているとき、わたしは震えながら立ちあがった。すると彼はわたしに言った、「ダニエルよ、恐れるに及ばない。あなたが悟ろうと心をこめ、あなたの神の前に身を悩ましたその初めの日から、あなたの言葉は、すでに聞かれたので、わたしは、あなたの言葉のゆえにきたのです。』(ダニエル10:11-12)
ダニエルは「エルサレムの荒廃の終るまでに経ねばならぬ年の数は七十年であることを、文書によって悟った」が、今、私達も、ダニエルが読んだその”文書”と全く同じものを持っている。その文書とはすなわち、聖書である。
ダニエルは、聖書の「エレミヤ書」からその日の近い事を悟ったが、その聖書を読むなら、現在を生きる私達にとって重要な日、すなわち、主が来られる日が、もう戸口まで迫って来ている事を悟ることが出来る。(マタイ24章)
ダニエルが不正な地の只中で、聖書から時機を悟り、イスラエルのために忠実に祈ったように、私達も不正な時代の只中で、主の来られる日に備え、この国のため、世界のため、そしてイスラエルのために執り成し、祈るべきだ。
異邦人が神殿に向けて祈る場合と、戦いに際して祈る場合(1列王記8:41-45)
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- pastor 2016-1-20 17:54
異邦人が神殿に向けて祈る場合と、戦いに際して祈る場合(1列王記8:41-45)
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ソロモンの祈りの5番目のケースは、異邦人が主の宮に向かって祈る場合である。
『またあなたの民イスラエルの者でなく、あなたの名のために遠い国から来る異邦人が、――それは彼らがあなたの大いなる名と、強い手と、伸べた腕とについて聞き及ぶからです、――もしきて、この宮に向かって祈るならば、あなたは、あなたのすみかである天で聞き、すべて異邦人があなたに呼び求めることをかなえさせてください。そうすれば、地のすべての民は、あなたの民イスラエルのように、あなたの名を知り、あなたを恐れ、またわたしが建てたこの宮があなたの名によって呼ばれることを知るにいたるでしょう。』(1列王記8:41-43)
主の神殿はイスラエル人だけのものではなく、異邦人も主を礼拝する場所でもある。
イスラエルの民は現在、万軍の主を伝道する事には力を注がず、ただ、自分が救われた事に満足し、閉鎖的になってしまっているが、救いはユダヤ人だけのものではなく、異邦人のものでもある。
神は元々、全人類を救うために、一人の人アブラハムを選び、彼を通して全人類を救わせようとされた。
それは、イスラエル人の先祖・アブラハムが、主から呼びだされた時に、主が既に約束されていた通りである。
『時に主はアブラムに言われた、「あなたは国を出て、親族に別れ、父の家を離れ、わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大きくしよう。あなたは祝福の基となるであろう。あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。”地のすべてのやからは、あなたによって祝福される”」。』(創世記12:1-3)
ここで主が言われている通り、「地のすべてのやから」は、アブラハムによって、すなわち現在のユダヤ人を通して祝福されるはずであるが、ユダヤ人は古来から宣教に対しては消極的になってしまっている。
しかし今や、救いの福音はイエス・キリストに始まり、彼にあって救いを得た人は、次々と世界に出ていき、福音を宣教している。
異邦人の中で、一番最初にバプテスマを受ける恵みに与ったのは、エチオピア人の宦官だった。(使徒8章)
彼の、主に対する熱心は、並々ならぬものだった。
『すると、ちょうど、エチオピヤ人の女王カンダケの高官で、女王の財宝全部を管理していた宦官であるエチオピヤ人が、礼拝のためエルサレムに上り、その帰途についていたところであった。彼は自分の馬車に乗って、預言者イザヤの書を読んでいた。』(使徒8:27-28)
彼のような異邦人は、当時のエルサレム神殿に行っても「異邦人の庭」から先には入れないし、また彼は宦官であるため、イスラエルの民に加えられる事は律法によって禁じられている。
彼はまた、高い地位で忙しい身にもかかわらず、女王に暇をもらって、エチオピアからはるばる礼拝のため上り、しかもその帰り道、彼は舗装されていない道を走りながら、サスペンション無しの馬車の中で、イザヤ書を朗読し、御言葉を思い巡らしていたのだ。
現在でも、礼拝から帰る車の中で(しかもサスペンションつきの車で舗装された道路を走っている中で)、御言葉を朗読するような熱心な人は、そういないだろう。
彼は、どれほど熱心に主を求めていた事だろう。
それ程までに主の宮を慕い、主の御言葉を慕う彼に、主は報いられたのだ。
彼のために主はピリポを遣わし、御言葉はイエス・キリストを示している事を伝え、そうして彼は、異邦人の中で一番最初にイエスを信じ、洗礼を受ける恵みにあずかった。
まさにソロモンが祈った通りである。主を慕い求める異邦人に対しても、主は恵みを施してくださるのだ。
続いて、6番目のケースは、イスラエル人が敵と戦う時に、主に向かって祈る場合である。
『あなたの民が敵と戦うために、あなたがつかわされる道を通って出て行くとき、もし彼らがあなたの選ばれた町、わたしがあなたの名のために建てた宮の方に向かって、主に祈るならば、あなたは天で、彼らの祈と願いを聞いて彼らをお助けください。』(1列王記8:44-45)
旧約聖書の中には、敵と戦う時、主に祈って勝利したケースは、何度もある。
ダビデ王は戦いに出る都度、主に求め、主から知恵と力を得て勝利したし、ヨシャパテ王やヒゼキヤ王も、到底勝ち目の無い大きな戦いの時、ただ主により頼んで祈った結果、主ご自身が戦って下さり、大勝利を収めた。
『エチオピヤびとゼラが、百万の軍隊と三百の戦車を率いて、マレシャまで攻めてきた。アサは出て、これを迎え、マレシャのゼパタの谷に戦いの備えをした。時にアサはその神、主に向かって呼ばわって言った、「主よ、力のある者を助けることも、力のない者を助けることも、あなたにおいては異なることはありません。われわれの神、主よ、われわれをお助けください。われわれはあなたに寄り頼み、あなたの名によってこの大軍に当ります。主よ、あなたはわれわれの神です。どうぞ人をあなたに勝たせないでください」。
そこで主はアサの前とユダの前でエチオピヤびとを撃ち敗られたので、エチオピヤびとは逃げ去った。アサと彼に従う民は彼らをゲラルまで追撃したので、エチオピヤびとは倒れて、生き残った者はひとりもなかった。主と主の軍勢の前に撃ち破られたからである。ユダの人々の得たぶんどり物は非常に多かった。』(2歴代誌14:9-13)
アサ王の場合は、主により頼んでいた時は、素晴らしく祝福されていたが、その内傲慢になってしまい、主を忘れてしまった後の人生は悲惨だった。
私達も、社会に出て仕事をする時、戦いがある。
時には、礼拝に行きたくても行けないまま、戦わなくてはならない状況も出てくる。
しかしそれでも、その戦いの先で主に向かって祈るなら、その場面におられる主が祈りを聞いてくださり、勝利を与えて下さるのだ。
ソロモンが祈っている通りである。
『あなたの民が敵と戦うために、あなたがつかわされる道を通って出て行くとき、もし彼らがあなたの選ばれた町、わたしがあなたの名のために建てた宮の方に向かって、主に祈るならば、あなたは天で、彼らの祈と願いを聞いて彼らをお助けください。』
主は何も、神殿にいつも居れる人だけの主ではない。
神殿にいつも居て、だらだら過ごして、何もしない人よりは、主に依り頼んで戦いに出る人のほうがよほど、主の御業の働かれる事を多く見ることが出来るのだ。
悩みの時に神殿に向かって祈る人々のための、ソロモンの執り成し(1列王記8:31-40)
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- pastor 2016-1-19 23:30
悩みの時に神殿に向かって祈る人々のための、ソロモンの執り成し(1列王記8:31-40)
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ソロモンは続いて、「これこれの人が、この状況で、この神殿にて祈る時、その祈りを聞いて下さい」というパターンを、7つの場合に分けて祈っている。
その一番目は、人と人との間で何かトラブルがあって、この神殿に来て主の御前に持ち込んで来た場合、主がそのさばきを正統に裁いてください、というものである。
『もし人がその隣り人に対して罪を犯し、誓いをすることを求められる時、来てこの宮であなたの祭壇の前に誓うならば、あなたは天で聞いて行い、あなたのしもべらをさばき、悪人を罰して、そのおこないの報いをそのこうべに帰し、義人を義として、その義にしたがって、その人に報いてください。』(1列王記8:31-32)
人は、正統にさばくという事が難しい。人は、他人の心に秘めている事や動機までも探り出す事ができないからだ。
時には、裁かれるべき不当な事が隠されたままであったり、あるいは、何も悪い事をしていないのに断罪されてしまう、という事もある。
神の民がこの神殿に持ってくるさばきを、全てを見透かしておられる主が正しく裁いてください、と、ソロモンは祈っているのだ。
『もしあなたの民イスラエルが、あなたに対して罪を犯したために敵の前に敗れた時、あなたに立ち返って、あなたの名をあがめ、この宮であなたに祈り願うならば、あなたは天にあって聞き、あなたの民イスラエルの罪をゆるして、あなたが彼らの先祖に賜わった地に彼らを帰らせてください。』(1列王記8:33-34)
2番目の場合は、敵に打ち負かされてしまった時、この神殿に来て、祈り願う場合である。
ソロモンは、「あなたに対して罪を犯したために敵の前に敗れた時」と言っており、「主に対して罪を犯す」事と「敗北する」事を一体とみなしている。
そう、神の民は、主に罪を犯したまま勝利に勝利を重ねる、という事は、ありえないのだ。
エリコに大勝利したヨシュアは、アイという小さな町での敗北を大いに憂慮し、主に切に祈り求めた結果、主は、イスラエルの民の、たった一人が犯した罪を指摘され、それを取り除くように言われた。
主は、純粋である事をその民に求められる。
最初から神に見向きもされていない者であるなら、罪を犯した状態で勝利に勝利を重ねる事は、あるだろう。
それは、その者が自ら滅びを積み重ねるためだ。
しかし、神の民が罪を犯したまま、それを放置する時、主はその事を気づかせ、悔い改めて主に立ち返らせるために、敢えて、敗北させられる。
私達も人生で敗北が重なる時は、自分自身に目を向け、自分の中に敗北の原因となっているような主に対する罪、主の御前に取り扱っていない罪があるのではないかと探るべきであり、それを取り除くべきなのだ。
だから、小さな敗北の時に大いに憂慮して主に導きを求めたヨシュアは、さすがなのである。
続いて、3番目のケースは、干ばつの時に主に祈り求める場合である。
『もし彼らがあなたに罪を犯したために、天が閉ざされて雨がなく、あなたが彼らを苦しめられる時、彼らがこの所に向かって祈り、あなたの名をあがめ、その罪を離れるならば、あなたは天で聞き、あなたのしもべ、あなたの民イスラエルの罪をゆるし、彼らに歩むべき良い道を教えて、あなたが、あなたの民に嗣業として与えられた地に雨を降らせてください。』(1列王記8:35-36)
私達も、人生の中であたかも天が閉ざされ、恵みの雨が一切降らないように感じる場合、やはり、自分の中に主の御前に取り扱われていない罪があるかないかを疑うべきである。
ソロモン達の住んでいる「約束の地」は、「乳と蜜の流れる地」と呼ばれてはいるが、しかしそこは、主の御前に罪を犯したままそれを残している人に対しては一切雨が降らない地と化してしまう。
『もし、あなたが、あなたの神、主の御声に聞き従わず、私が、きょう、命じる主のすべての命令とおきてとを守り行なわないなら、次のすべてののろいがあなたに臨み、あなたはのろわれる。あなたは町にあってものろわれ、野にあってものろわれる。・・・またあなたの頭の上の天は青銅となり、あなたの下の地は鉄となる。主は、あなたの地の雨をほこりとされる。それで砂ほこりが天から降って来て、ついにはあなたは根絶やしにされる。』(申命記28:16-24)
キリスト者もその「乳と蜜の流れる地」に住んでいるも同じで、もし主の御声に聞き従い、御言葉の通り守り行って歩むなら、そこは乳と蜜の流れる地として豊かな祝福を受ける。
しかし、もし主に聞き従わず、御言葉を守り行わないとなれば、その人生から恵みの雨は差し止められ、潤いの無い砂漠のような人生となってしまう。
「彼らがこの所に向かって祈り、あなたの名をあがめ、その罪を離れるならば、あなたは天で聞き、あなたのしもべ、あなたの民イスラエルの罪をゆるし、彼らに歩むべき良い道を教えて、あなたが、あなたの民に嗣業として与えられた地に雨を降らせてください。」
悔い改めて立ち返る人に、主はこのようにして下さるのである。
4番目は、色々な災いのケースが記されている。
『もし国にききんがあるか、もしくは疫病、立ち枯れ、腐り穂、いなご、青虫があるか、もしくは敵のために町の中に攻め囲まれることがあるか、どんな災害、どんな病気があっても、もし、だれでも、あなたの民イスラエルがみな、おのおのその心の悩みを知って、この宮に向かい、手を伸べるならば、どんな祈、どんな願いでも、あなたは、あなたのすみかである天で聞いてゆるし、かつ行い、おのおのの人に、その心を知っておられるゆえ、そのすべての道にしたがって報いてください。』(1列王記8:37-39)
ここに記されている色々な災いは「ききん」「疫病」「立ち枯れ」「腐り穂」「いなご」「青虫」、もしくは「敵のために町の中に攻め囲まれること」「災害」「病気」である。
これらの事が起きた時は、「その心の悩みを知って」この宮に向かって祈って願う時、主はそれを聞いて赦し報いてください、とソロモンは祈っている。
このケースでは、人々が特に「罪を犯した」とは明記されていない。
人は特段、罪を犯さなくても、主が何らかの理由で災いを送られる事はある。
例えば、訓練を与えて信仰を成長させるためであったり、敢えてその人にそのような所を通らせる事で鍛え、強めるためであったり。
そして、その人が主の宮に向かって手を差し伸べて祈る時、主がその祈りを聞いて、答えて下さい、とソロモンは祈っている。
『ただ、あなただけ、すべての人の心を知っておられるからです。あなたが、われわれの先祖に賜わった地に、彼らの生きながらえる日の間、常にあなたを恐れさせてください。』(1列王記8:39-40)
主は、一人ひとりの心を知っておられる。
主こそ、全ての人のの成り立ちと最善をご存知である。
いつ試練を与えられるか、いつ幸いと報いを与えられるか、そのタイミングとさじ加減は、完璧であり、全ての道に従って正統に裁き、正統に報いられるお方なのだ。
ソロモンの神殿奉献の祈り(1列王記8:22-30)
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ソロモンは主の栄光の雲が神殿に満ちた事を受け、民に対し、この神殿が建てられた事は、主にあって正統であり、自分の願いや意思ではなく、主が建ててくださった事を説いた。
その後彼は祭壇のほうに向き直り、主に祈る。22節から53節の彼の祈りは、神殿奉献の祈りであり、礼拝で代表祈祷する人も、大いに参考にできる所だ。
祈りとは、神様との会話であり、人が話をする時、誰を対象に話をするのかを明確にするため、名を呼ぶものだが、祈りもそこから始まるものである。
『ソロモンはイスラエルの全会衆の前で、主の祭壇の前に立ち、手を天に伸べて、言った、「イスラエルの神、主よ、』(1列王記8:22-23)
私達が祈る時、神様との会話になっていない事も、多々ある。
例えば祈りが、自分自身を奮い立たせるためであったり、あるいは、巧妙に人を支配するための「言い聞かせ」であったり。
そのような、祈りの本体であられる主を無視した「祈りもどき」を防ぐために、私達も祈りのはじめに、祈りを聞いて下さるお方に、正しく呼びかける必要がある。
ソロモンは続いて、この神殿の主体であられる「イスラエルの神、主」は、どのような御方であるのかを、正しく宣言している。
『上の天にも、下の地にも、あなたのような神はありません。あなたは契約を守られ、心をつくしてあなたの前に歩むあなたのしもべらに、いつくしみを施し、あなたのしもべであるわたしの父ダビデに約束されたことを守られました。あなたが口をもって約束されたことを、手をもってなし遂げられたことは、今日見るとおりであります。』(1列王記8:23-24)主はどのようなお方か。
主は比類なき神であり、約束を誠実に成し遂げられたお方である、とソロモンは言った。
主の祈りも「天にまします我らの父よ」という呼びかけから始まるように、イエス様は教えられた。
自分が呼びかけた主は、一体どのようなお方であるのかを宣言してから祈る事によって「無駄な祈り」を、すなわち誰に向かって祈っているか分からないような、主にも人にも届かないようなだらだらした祈りを防ぐ事が出来る。
そしてソロモンは、主に願う。
『それゆえ、イスラエルの神、主よ、あなたのしもべであるわたしの父ダビデに、あなたが約束して『おまえがわたしの前に歩んだように、おまえの子孫が、その道を慎んで、わたしの前に歩むならば、おまえにはイスラエルの位に座する人が、わたしの前に欠けることはないであろう』と言われたことを、ダビデのために守ってください。イスラエルの神よ、どうぞ、あなたのしもべであるわたしの父ダビデに言われた言葉を確認してください。』(1列王記8:25-26)
彼の願いは、主がダビデに約束された事を、どうぞ守ってください、という事だった。
ダビデは死ぬ直前、主が彼に約束して下さった事を、ソロモンに言い遺している。
『「わたしは世のすべての人の行く道を行こうとしている。あなたは強く、男らしくなければならない。あなたの神、主のさとしを守り、その道に歩み、その定めと戒めと、おきてとあかしとを、モーセの律法にしるされているとおりに守らなければならない。そうすれば、あなたがするすべての事と、あなたの向かうすべての所で、あなたは栄えるであろう。
また主がさきにわたしについて語って『もしおまえの子たちが、その道を慎み、心をつくし、精神をつくして真実をもって、わたしの前に歩むならば、おまえに次いでイスラエルの位にのぼる人が、欠けることはなかろう』と言われた言葉を確実にされるであろう。』(1列王記2:2-4)
つまり、ダビデから続く子々孫々が、主の道に歩み、精神をつくし真実をもって主の前に歩むなら、王座は決して絶えることはない、という主の約束なのであるが、残念ながらソロモン自身が、彼の代で早速、その約束を破ってしまう事になる。
ソロモンから続く、歴代の王たちの多くは、主の道を捨て、主の怒りを招いた。
それでも主の真実は、どんなに人の不真実が長く続いても、違えることなく貫かれた。
人は確かに、弱い。不完全であり、罪があり、主に約束した事を守り通せない弱さがある。
しかし、人が主との約束を破ってしまった事で、自分の罪を悔い改めるなら、主はその人を大きな憐れみをもって赦される。
実際ダビデはそうだった。
しかし、主から警告を受けて無視し、敢えて主の忌み嫌う事を好き好んでするような人に対しては、主は御顔を背けられる。
『しかし神は、はたして地上に住まわれるでしょうか。見よ、天も、いと高き天もあなたをいれることはできません。ましてわたしの建てたこの宮はなおさらです。』(1列王記8:27)
日本人は、神社などの社(やしろ)や、自然界のもろもろの物に、神々が宿っている、と思う人は多い。
しかし主は、人が建てたどんな神殿にも、住まわれるような御方ではなく、空も、全宇宙も、そして永遠の天国も、主をお入れする事は出来ない。その事をソロモンは知っており、そう告白した。
では、神殿の存在は、無意味なのだろうか?それは違う。
『しかしわが神、主よ、しもべの祈と願いを顧みて、しもべがきょう、あなたの前にささげる叫びと祈をお聞きください。あなたが『わたしの名をそこに置く』と言われた所、すなわち、この宮に向かって夜昼あなたの目をお開きください。しもべがこの所に向かって祈る祈をお聞きください。しもべと、あなたの民イスラエルがこの所に向かって祈る時に、その願いをお聞きください。あなたのすみかである天で聞き、聞いておゆるしください。』(1列王記8:28-30)
ソロモンは、有限なる人が、無限なる神と、関わりを持てる場所として、この神殿を用いて下さい、と祈っている。
主を愛する人々が、この神殿に来て祈る祈りを聞いてください、この神殿に来てそれぞれが捧げる捧げものを受け取り、彼らの願いを聞いて、赦してください、と。
主は確かに無限なるお方であり、どこかの神殿や教会などの特別な場所に宿るわけではない、という事を、私達も知っているが、しかし教会のため、あるいは礼拝が行われる全ての場所のために祈る祈りは有効である。
私達は教会について、あるいは礼拝が行われる場所、空間、時間が聖別されるために、そして私達の生活の場、仕事の場のために、祈るべきである。
主の宮の栄光とは(ハガイ書2:3-9)
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賛美集会〜第二礼拝 Youtube動画
賛美集会音声
第二礼拝音声
週報/メッセージ(説教)概要
ハガイ書から天声教会の設立のビジョンが与えられたのは15年前の2001年だった。そして今のこの会堂が与えられ、礼拝が始まったのは、10年前の2006年だった。ちょうど節目にあたる今年、「礼拝を再建せよ」という当初のビジョンに立ち返り、「再建すべき礼拝」とは一体何であるのかを、聖書から見ていきたい。
『あなたがた残りの者のうち、以前の栄光に輝く主の家を見た者はだれか。あなたがたは今、この状態をどう思うか。これはあなたがたの目には、無にひとしいではないか。』(ハガイ2:3)
この「以前の栄光に輝く主の家」とは、ソロモンの時に建てられた神殿である。その神殿は豪華絢爛で、神殿の内面は全て、純金で覆われ、量り切れない程の青銅が用いられ、器物も全て豪奢なものだった。
しかしそれらは全て異邦人によって荒らされ、破壊され、金銀も器類も全てバビロンに奪われてしまった。
そうして70年を経て後、神殿は再び立て直されて行くのだが、破壊される前の豪華絢爛な有様を知っている老人たちは、後の有様を見て大声で泣いた。以前のような栄光はなくなってしまったと。(エズラ3:12)
しかし万軍の主は言われる。「主の家の後の栄光は、前の栄光よりも大きい」と。(ハガイ2:9)
神殿の栄光とは、一体何だろう。教会の栄光とは、一体何だろう。
豪華さや高価な器物といった面での栄光は去ってしまった事で人々は泣いたが、神殿や教会とはそもそも、主を礼拝をする所であり、建物や器物など人・モノ・仕組みの素晴らしさを見物しに来る所ではない。
神殿や教会の栄光とは、礼拝されるべきお方・主の栄光であって、栄光の主を仰ぎ、ひれ伏す所なのだ。
豪奢な神殿があった列王記・歴代誌の時代と、神殿よりも粗末な幕屋で礼拝していたモーセやヨシュア、ダビデの時代と、どちらが主の栄光に輝いていただろう。きっと誰もが後者だと答えるだろう。
ダビデは神殿を建てたくても建てられなかったが、ソロモンはそれを建て、そればかりでなく諸々の事業を拡張し、邸宅を建て、畑や庭園や男女の奴隷、多くのそばめを得たが、結局、むなしさだけが残った。
彼は言う。『私が手がけたあらゆる事業と、そのために私が骨折った労苦とを振り返ってみると、なんと、すべてがむなしいことよ。風を追うようなものだ。日の下には何一つ益になるものはない。』(伝道者の書2:11)
結局、主の栄光は、人々の主に対する愛と、心の純粋さと、主への従順や服従の内にこそ現れるのだ。
だから、ソロモンのように巨大な建造物を造ったり、人を多く動員して事業を拡大する事に心血を注ぐ事よりも、ダビデのように心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして主を愛する事へと心血を注ぐべきなのだ。
「勇気を出せ。働け。わたしはあなたがたと共にいると、万軍の主は言われる。これはあなたがたがエジプトから出た時、わたしがあなたがたに、約束した言葉である。わたしの霊が、あなたがたのうちに宿っている。恐れるな。」(4-5節) これは、主を愛し、主を敬い、主のからだを建て上げるために山に登り、木を運んで働く働き人たちに対する言葉である(1:8)。 主は彼らに対し「恐れるな」「勇気を出して働け」と言われる。
なぜなら、共にいて、働いて下さるお方は、万軍の主であり、彼の霊が私達の内に宿って下さるからだ。
主イエス様は、彼の命令を抱いて守る人と共にいて栄光を現す、と言われた。『その日には、わたしはわたしの父におり、あなたがたはわたしにおり、また、わたしがあなたがたにおることが、わかるであろう。 わたしのいましめを心にいだいてこれを守る者は、わたしを愛する者である。わたしを愛する者は、わたしの父に愛されるであろう。わたしもその人を愛し、その人にわたし自身をあらわすであろう」』(ヨハ14:20-21)
主はいま一度、天と地と、海と陸とを揺り動かし、全ての国々を揺り動かして、全ての国々の宝物をこの宮にもたらし、この宮を栄光で満たす、と言われる。なぜなら、『銀はわたしのもの、金もわたしのものであると、万軍の主は言われる。』(ハガイ2:6-9) 金は主のものであり、銀も主のものであり、主はそれらのもので豊かに満たす事は、簡単におできになる。だから外見的な豪華絢爛さよりも、何より、主を愛し求めるべきだ。
しかし私達は、金銀が欲しいから主を愛するのではない。金銀に遥かに勝るいのちを主は投げ打ってまで愛して下さったからであり、主は私達に、罪のゆるしと、永遠のいのちと、神の御前に大胆に出る事が出来る愛の関係を回復させて下さった。この御方の栄光で満ちる事をこそ、私達は仰ぎ求めるべきなのだ。
主の栄光を豊かにあらわすために用いられていく皆さんであり、教会でありますように!
主の約束と御言葉を握りしめ、溢れ流れる川に足を踏み出す(ヨシュア記3:14-17)
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- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 定期祈祷会メッセージ
- 執筆 :
- pastor 2016-1-16 23:35