メッセージ - 201601のエントリ

早天祈祷会

エリヤとして遣わされたバプテスマのヨハネ(マラキ4:4-6)
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マタイによる福音書講解説教メッセージ
一切の権威が与えられた主から委ねられた宣教の働き(マタイ28:16-20)
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イザヤ書講解説教メッセージ
比類なき主の配慮と働き(イザヤ28:20-29)
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火曜早天祈祷会

破壊された主の祭壇を立て直すエリヤの働き(1列王記18:30)
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神殿を建てても栄光を失ったソロモンと、建てずとも栄光を受けたダビデ(1列王記8:12-21)
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『そこでソロモンは言った、/「主は日を天に置かれた。しかも主は自ら濃き雲の中に住まおうと言われた。わたしはあなたのために高き家、/とこしえのみすまいを建てた」。』(1列王記8:12-13)
モーセの時代にも、主は、濃い雲の内に臨在を現し、人々の前に現れた。
『主はこれらの言葉を山で火の中、雲の中、濃い雲の中から、大いなる声をもって、あなたがたの全会衆にお告げになったが、このほかのことは言われず、二枚の石の板にこれを書きしるして、わたしに授けられた。』(申命記5:22)

主の現れは、雲のように、何となくそこにはおられるとは分かるけれど、形はつかめないものであるが、確かにそこに「おられる」という感覚と、主の栄光とは、確かにある。
『もろもろの天は神の栄光をあらわし、大空はみ手のわざをしめす。この日は言葉をかの日につたえ、この夜は知識をかの夜につげる。話すことなく、語ることなく、その声も聞えないのに、その響きは全地にあまねく、その言葉は世界のはてにまで及ぶ。神は日のために幕屋を天に設けられた。』(詩篇19:1-4)

私達は、主についての概念を限定する事によって「像(イメージ)」をつくってはならない。
主は無限なるお方であり、決して人間の小さい頭の中で定義づけされるようなお方ではないからだ。
『それゆえ、あなたがたはみずから深く慎まなければならない。ホレブで主が火の中からあなたがたに語られた日に、あなたがたはなんの形も見なかった。それであなたがたは道を誤って、自分のために、どんな形の刻んだ像をも造ってはならない。男または女の像を造ってはならない。』(申命記4:15-16)
私達にとって大事なのは、主を理解しようとする事ではない。主は、頭で理解しようとしてできるお方ではなく、主を「理解した」と思って思考停止してしまった人は、実は、知らなければならない程度の事さえ理解していないのだ。
私達が主の御言葉が与えられた時、なすべき事は、それを理解しようとする事ではなく、それに従って行動する事である。

『王は身をめぐらして、イスラエルのすべての会衆を祝福した。その時イスラエルのすべての会衆は立っていた。彼は言った、
「イスラエルの神、主はほむべきかな。主はその口をもってわたしの父ダビデに約束されたことを、その手をもってなし遂げられた。主は言われた、『わが民イスラエルをエジプトから導き出した日から、わたしはわたしの名を置くべき宮を建てるために、イスラエルのもろもろの部族のうちから、どの町をも選んだことがなかった。ただダビデを選んで、わが民イスラエルの上に立たせた』と。』(1列王記8:14-16)
ソロモンは会衆に向かい、この宮が建てられた成り立ちについて、そして、主が特別にダビデを選ばれた事について、主を褒め称えている。
この宮は、彼の父ダビデの、主を愛する心が発端となって、造られていったものである。
主はダビデを特に選び、神の民イスラエルを牧する者とした。

『イスラエルの神、主の名のために宮を建てることは、わたしの父ダビデの心にあった。しかし主はわたしの父ダビデに言われた、『わたしの名のために宮を建てることはあなたの心にあった。あなたの心にこの事のあったのは結構である。けれどもあなたはその宮を建ててはならない。あなたの身から出るあなたの子がわたしの名のために宮を建てるであろう』と。』(1列王記8:17-19)
元々、いと高き主は、人の手で造った家の内にはお住みにならない。天は主の王座であり、地は主の足台である。そしてそれらは皆、主の手によって造られた。(使徒7:46-53)
しかし主は、宮を建てたいと願ったダビデの純心な心を、「結構である」と言われた。あたかも親が、幼い子が、親を愛するゆえの、少々お門違いな事を言っても、いとおしむように。

ただ主は、多くの血を流してきたダビデは、主の宮を建ててはならない、と言われた。(1歴代誌22:7-9)
自分の腕や力づくなどによって、あるいは唇による言葉の攻撃によって、隣人を襲い、血を流し、物を奪う人は、主に喜ばれないのは当然である。
しかしダビデのように、神の国と神の民のために、力や知恵によって悪しき者と戦う人は、神の国において必要である。
ダビデが宮を建てるために多くを備え、その子ソロモンに宮のための材料を用意したように、主の礼拝の建て上げのためには、それぞれに違った役割があるのだ。

ダビデは、宮を建てる事は許されていなかった。そして彼の子、ソロモンが宮を建てたが、それは永遠のものではなかった。
人の手で造ったものは、永遠ではない。どんなに贅を凝らしたものであっても。
しかし、主を愛したダビデの栄光は、永遠のものとなった。
まことの宮の本体であられる主キリストは、永遠にダビデの王座に着かれ、ダビデの名は、永遠に栄光あるものとなった。

ソロモンは諸々の事業を拡張し、邸宅を建て、畑や庭園や男女の奴隷、多くのそばめを得たが、結局得たのは、むなしさだけであった。
彼は言っている。
『私が手がけたあらゆる事業と、そのために私が骨折った労苦とを振り返ってみると、なんと、すべてがむなしいことよ。風を追うようなものだ。日の下には何一つ益になるものはない。』(伝道者の書2:11)

結局、ソロモンのように巨大な建造物を造ったり事業をする事よりも、ダビデのように、主を愛する事にこそ、私達の人生の力を注ぐべきなのだ。

栄光の雲が神殿に満ちる時(1列王記8:1-11)
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『ソロモンは主の契約の箱をダビデの町、すなわちシオンからかつぎ上ろうとして、イスラエルの長老たちと、すべての部族のかしらたちと、イスラエルの人々の氏族の長たちをエルサレムでソロモン王のもとに召し集めた。』(1列王記8:1)
神殿は完成し、全ての祭具も整えられた。
そして最後に、「契約の箱」、すなわちイスラエルの民と神との間における契約の本体、すなわち、契約の箱が、神殿の中の収まるべき所に安置される時、神殿としての役割が始まるのだ。

『そして彼らは主の箱と、会見の幕屋と、幕屋にあるすべての聖なる器をかつぎ上った。すなわち祭司とレビびとがこれらの物をかつぎ上った。ソロモン王および彼のもとに集まったイスラエルの会衆は皆彼と共に箱の前で、羊と牛をささげたが、その数が多くて調べることも数えることもできなかった。』(1列王記8:4-5)
神殿が完成した時、イスラエルがいかに家畜が増え祝福されていたかを伺い知る事が出来る。
しかし、前回も見た通り、大事なのは、祝福の源であられる神であって、これだけの家畜が捧げられる人間がすごいのではない。
人に敢えて賞賛を与えるとするなら、それだけの祝福を主から引き出せる程の従順と愛があった所だろう。

『そして祭司たちが聖所から出たとき、雲が主の宮に満ちたので、祭司たちは雲のために立って仕えることができなかった。主の栄光が主の宮に満ちたからである。』(1列王記8:10-11)
人が主を愛し、敬い、主に命じられた通りを守り行う時、聖なる主の栄光が満ち溢れる。
これと同じ事は、モーセの時代にも起こった。

『また幕屋と祭壇の周囲に庭を設け、庭の門にとばりをかけた。このようにしてモーセはその工事を終えた。そのとき、雲は会見の天幕をおおい、主の栄光が幕屋に満ちた。モーセは会見の幕屋に、はいることができなかった。雲がその上にとどまり、主の栄光が幕屋に満ちていたからである。』(出エジプト記40:34-35)
主を礼拝する所を、主に命じられた通りに建て上げる時、主の栄光は満ち溢れる。
これはモーセの時代も、ソロモンの時代も、全く同じであり、そして今、私達の時代も全く同じである。

今、聖書は言う。
『あなたがたは神の宮であって、神の御霊が自分のうちに宿っていることを知らないのか。』(1コリント3:16)
主の契約の箱、すなわち、主の約束の御言葉が、神殿の最も内奥なる所、すなわち、至聖所に収まった時、主の栄光が満ち満ちた。
それと同じように、私達という「神殿」の最も内奥なる部分、すなわち、私達の霊に主の約束の御言葉を収め、そして私達のからだで主の御言葉を守り行う時、主の栄光が、私達の内にも外にも、生活の全場面にも満ち満ちるのだ。

神殿の最も聖なる所に納められた契約の箱に入っている「あかしの板」は、英語では「the testimony」、ヘブライ語では「アイドース」、すなわち「あかし」や「証人」を意味する「アイド」の、女性形である。
契約の石板が女性形である事は、実に興味深い。
私達は、キリストに対しては、男も女も皆、「女」の立場である。
キリストこそ、全人類に対して唯一の主人であり、夫であり、そして教会はその妻、キリストの花嫁である。

旧約においては、神の言葉は石板に神の指によって記され、神の筆跡によって石の板に御言葉が刻みつけられたように、新約の今、神の言葉は私達の「心」に、神の指によって刻み込まれた。
『しかし、それらの日の後にわたしがイスラエルの家に立てる契約はこれである。すなわちわたしは、わたしの律法を彼らのうちに置き、その心にしるす。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となると主は言われる。』(エレミヤ31:33)
『わたしたちの推薦状は、あなたがたなのである。それは、わたしたちの心にしるされていて、すべての人に知られ、かつ読まれている。そして、あなたがたは自分自身が、わたしたちから送られたキリストの手紙であって、墨によらず生ける神の霊によって書かれ、石の板にではなく人の心の板に書かれたものであることを、はっきりとあらわしている。』(2コリント3:2-3)

新約の私達は、神の指によって、神の言葉が心に刻み込まれている。
そして新約の私達自身は、聖霊が宿る神の宮であり、幕屋に置かれた一つ一つの祭具のように、キリストの栄光のために用いられる者であり、そして教会はキリストの花嫁である。
私達自らを、キリストの言葉によって清めるなら、聖なる祭具としてますます聖なる事に用いられる器となって行き、ますます主の栄光がこの「宮」に満ち満ちて行くのである。

神殿の栄光とは(1列王記7:40-51)
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『ヒラムはまたつぼと十能と鉢を造った。こうしてヒラムはソロモン王のために主の宮のすべての細工をなし終えた。・・・ソロモンはその器が非常に多かったので、皆それをはからずにおいた。その青銅の重さは、はかり得なかった。』(1列王記7:40-47)
神殿の建物も、祭具類も、全て完成し整えられた。
そのために用いられた青銅や貴金属類の分量は非常に多かったが、これらは全て、ソロモンの父・ダビデの「主の宮を建てたい」という志によって始まり、ダビデはこれらを苦労して準備し、そしてソロモンが受け継いで、整えたものである。

ダビデは言っている。
「見よ、わたしは苦難のうちにあって主の家のために金十万タラント、銀百万タラントを備え、また青銅と鉄を量ることもできないほどおびただしく備えた。また材木と石をも備えた。あなたはまたこれに加えなければならない。」(1歴代誌22:14)

『またソロモンは主の宮にあるもろもろの器を造った。すなわち金の祭壇と、供えのパンを載せる金の机、および純金の燭台。この燭台は本殿の前に、五つは南に、五つは北にあった。また金の花と、ともしび皿と、心かきと、純金の皿と、心切りばさみと、鉢と、香の杯と、心取り皿と、至聖所である宮の奥のとびらのためおよび、宮の拝殿のとびらのために、金のひじつぼを造った。
こうしてソロモン王が主の宮のために造るすべての細工は終った。そしてソロモンは父ダビデがささげた物、すなわち金銀および器物を携え入り、主の宮の宝蔵の中にたくわえた。』(1列王記7:48-51)
このようにして、栄光に満ちた神殿は完成した。

しかし残念な事に、その栄光は、ソロモンの時代が最盛期で、それ以降、ただ下降の一途をたどる。
ソロモンの次の代は、親達が構築した七光りの上にあぐらをかいて傲慢になり、主を軽んじるようになり、結果、主の守りと祝福は去ってしまい、敵がのさばるようになり、攻めてきた敵をなだめるために、神殿の宝物倉を開いて、その尊い宝を敵に貢ぐようになり、そのように、財も栄光もただ浪費するようになってしまったのだ。

そして最終的には、神殿は異邦人によって破壊され、神殿の尊い器物は、ことごとく奪われてしまった。
『カルデヤびとはまた主の宮の青銅の柱と、主の宮の洗盤の台と、青銅の海を砕いて、その青銅をバビロンに運び、またつぼと、十能と、心切りばさみと、香を盛る皿およびすべて神殿の務に用いる青銅の器、また心取り皿と鉢を取り去った。侍衛の長はまた金で作った物と銀で作った物を取り去った。ソロモンが主の宮のために造った二つの柱と、一つの海と洗盤の台など、これらのもろもろの器の青銅の重さは量ることができなかった。
一つの柱の高さは十八キュビトで、その上に青銅の柱頭があり、柱頭の高さは三キュビトで、柱頭の周囲に網細工とざくろがあって、みな青銅であった。他の柱もその網細工もこれと同じであった。』(2列王記25:13-17)
ここには、第一列王記7章に記された明細と全く同じものがリストアップされているが、しかしそれらは、奪われて行ってしまったものの明細である。
第一列王記の初盤に記された明細には、栄えの絶頂期のような得意げな趣きがあったが、第二列王記の終わりは、絶望のどん底のような悲しい趣きとなってしまった。

結局、大切なのは建物や外見ではない。
人の、主を敬う心である。
せっかく富と栄誉がふんだんに与えられても、その人が主を軽んじ、主から離れてしまうなら、せっかく得た豪華絢爛な資産財産の明細は、単に、憎むべき敵に奪われて行くものの明細となってしまうのだ。
持たない者は、持っているものまで奪われてしまう、と書いてある通りである。

神殿とは、礼拝をする所だ。
そして神殿の器物の一つ一つは、主を礼拝するために用いるためのものだ。
神殿の栄光とは、何だろう。また、教会の栄光とは、何だろう。
それは、神殿や教会で礼拝される対象である「主の栄光」であって、建築したソロモンやヒラムなどの「人間の栄光」ではないのだ。

ソロモンの神殿が破壊された後、70年を経て、神殿は再び立て直されるのだが、破壊される前の豪華絢爛な有様を知っている老人たちは、立て直された後の神殿を見て、大声で泣いた。(エズラ記3:12)
『あなたがたのうち、以前の栄光に輝くこの宮を見たことのある、生き残った者はだれか。あなたがたは、今、これをどう見ているのか。あなたがたの目には、まるで無いに等しいのではないか。しかし、ゼルバベルよ、今、強くあれ。――主の御告げ。――エホツァダクの子、大祭司ヨシュアよ。強くあれ。この国のすべての民よ。強くあれ。――主の御告げ。――仕事に取りかかれ。わたしがあなたがたとともにいるからだ。――万軍の主の御告げ。――
あなたがたがエジプトから出て来たとき、わたしがあなたがたと結んだ約束により、わたしの霊があなたがたの間で働いている。恐れるな。』(ハガイ書2:3-5)

捕囚から戻ってきた老人たちは、以前の神殿の有様と比べたら、無いにも等しい有様を見て、泣き叫んだが、結局、建物の美しさや大きさ、豪華絢爛さが大事なのではない。
金も銀も豊かに備えて下さる主こそ、大事である。

主は、礼拝者の心を見られ、その心が主に対し真実でまっすぐであるなら、主はその宮を「以前の栄光にも勝る」ようにされる。
『銀はわたしのもの、金もわたしのものであると、万軍の主は言われる。主の家の後の栄光は、前の栄光よりも大きいと、万軍の主は言われる。わたしはこの所に繁栄を与えると、万軍の主は言われる』」。この宮のこれから後の栄光は、先のものよりまさろう。万軍の主は仰せられる。わたしはまた、この所に平和を与える。――万軍の主の御告げ。――」』(ハガイ2:8-9)

主は、金も銀も支配しておられるお方。
そして主は、私達を愛し、憐れみ、ひとり子のいのちまでも惜しみなく与えて下さったお方。
このお方こそ、主とするべきである。

本来あるべき「礼拝」の再建(ハガイ書1章)
第一礼拝 Youtube動画 / 音声
賛美集会〜第二礼拝 Youtube動画
賛美集会音声
第二礼拝音声
週報/メッセージ(説教)概要

横浜天声キリスト教会が礼拝を始めたのは、2006年からだった。当初は建物は無く、開拓メンバーが場所を間借りして礼拝を行ていたが、その年の4月末に現会堂が与えられ、5月連休からほぼ手作りと手弁当による工事を始め、6月18日、工事が完了し、翌19日にこの会堂で初の正式な礼拝が捧げられた。
当初は日本人は一人もおらず、大人九名と子供三人、韓国教会のメッセージテープによる礼拝であった。
今年、この会堂での礼拝が始まって10周年に当たるが、天声教会設立のビジョンが与えられたのは、もっと遡る事、2001年であった。2001年1月10日、開拓者・川合働き人にハガイ書の御言葉が与えられた。
ハガイ書は主に、神殿を再建しなさいという主の命令であるので、与えられた当初は教会を再建する事と思って祈っていたが、御心を求めて行く内、再建するのは教会よりもむしろ「礼拝」であると分かって来た。
すなわち、教団や教派などに見られるような「既存のキリスト教会システム」の仕組みの支配下にある「既存の教会」を、もう一つ新しく建築するという事ではなく、本来あるべき「礼拝」の再建である。
それが分かったのが2006年の事であった。こうして、既存のしきたりや既定の概念から離れ、ただ「天」からの「声」のみを聞いて歩む、「天声教会」の模索と建設が、そして礼拝の歩みが始まったのだ。この会堂が発足して10年目を迎えたこの時、このビジョンに戻り、再建するべき「礼拝」とはいかなるもので、どのように歩んで行くべきか、そして礼拝を建て上げて行くなら、どこへ行き着くのかを、暫く見ていきたい。

礼拝をおろそかにすると、どんな生活が待っているか。ハガイ書はそこから始まる。
『「主の家はこのように荒れはてているのに、あなたがたは、みずから板で張った家に住んでいる時であろうか。』 ハガイ書は、主の宮が荒れ果てている状況と、それに引き換え、人々は自分の家を快適に建てあげる事に奔走している様を指摘し、「よく考えよ」と言われる。多く蒔いても取り入れは少なく、飲み食いしても満たされず、着ても温まらず、お金を稼いでも穴の空いた財布に入れるようなものではなかったのか、と。
人は多くを望んでも、得たものは少なかった。主がそれらを吹き払ったからだ。なぜ主は吹き払われるか。
「これはわたしの家が荒れはてているのに、あなたがたは、おのおの自分の家の事だけに、忙しくしている。
それゆえ、あなたがたの上の天は露をさし止め、地はその産物をさし止めた。」(9-10節)
「わたしの家」「主の宮」は、礼拝する所である。もし私達の内の「宮」がおろそかにされているなら、すなわち、礼拝の心が破綻し、主への恐れ敬いが無いなら、穴の空いた財布に入れるような生活なのだ。
聖書で「礼拝」と訳されている語は複数あり、ヘブライ語のシャーハーは「平服する、おじぎする(ギリシア語:ゴニュペテオー)」、シャーラスは「仕える」、アーバドゥは「奉仕する(ギリシア語:ラトゥレイア)」である。
神である主を第一にし、主の御前に身を低くし、主に仕え、主のわざをする。それが礼拝である。
主が第一であるはずの所を、自分を第一にし、主の前に低くなるべきなのに自分を高め、主に仕えるべきなのに、世と自分に仕える。それは「本末転倒」の生き方であり、物事はどんどん悪くなって行くのだ。

「山に登り、木を運んで来て、宮を建てよ。そうすれば、わたしはそれを喜び、わたしの栄光を現わそう。」
具体的な行動から始めよ、と主は言われる。礼拝は、「主のため」という動機を心に握りつつ、床から身を起こし、足を踏み出すその一歩から始まる。どんなに立派な宮を建て、どんなに立派な教団に属しても、礼拝者の心がおろそかだと、何にもならない。ソロモンは、贅を凝らした神殿を建築したのに、後の時代、異邦人に破壊され汚されてしまった。主は、礼拝をする「人」の心こそ重んじられ、人に宿られるからだ。
『あなたがたは神の宮であって、神の御霊が自分のうちに宿っていることを知らないのか。』(1コリ3:16)
この教会は、栄光の「礼拝」を回復するように、というビジョンの元に建てられた。すなわち、主イエスを宿した「働き人」という「生きた神殿」を建て上げ、輩出して行くための教会として、使命が与えられている。
それは、自分の家のために奔走するのではなく、キリストのからだを建て上げるために主の山に登り、木を運んで働く人達である。「そうすれば、わたしはそれを喜び、わたしの栄光を現わそう。主は仰せられる。」
実際に今、天声はそのような働き人達が増え、自分の家よりもこの宮にいる事を愛し、主と交わり、主を思い、主のために働く働き人が不在となった日は、ここ数年、一日たりとも無い。そのような教会は、日本に他にあるだろうか。今、この国の霊的状況は暗澹としており、真に「礼拝」を建て上げる働きを必要としている。
そのために豊かに用いられていく皆さんであり、この教会でありますように!

金曜徹夜祈祷会

ただ契約だけを見つめて歩む私達の歩み(ヨシュア記3:1-6)
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死につながれているなどありえない主イエス(マタイ28:1-15)
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