メッセージ - 201801のエントリ

悦び笑わせてくださる主(創世記18:9-15)
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週報/メッセージ(説教)概要

 今年は「ベエル・シェバは私達のもの」という言葉で始まった。主が導かれる広々とした地・安心して産んで増えて行ける地、ベエル・シェバを受け継いだのは、イサクだった。今回は、彼の出生の秘話を見たい。
イツァク( יִצְחָק )の意味は「彼は笑う」、その元の言葉ツァハァク(צָחַק )は「笑う、戯れる、からかう」などの意味がある。本日の箇所で何度も「笑う」というキーワードが出てくるが、今回の場面はイサクが産まれる一年前、母サラは89歳、アブラハムは99歳、ちょうど神様から新しい名が与えられ、「来年の今頃男の子が与えられる」という約束を受けた直後だった。神は「エル・シャダイ(全能の神)」として現れて下さったが、アブラハムは、100歳の自分と90歳のサラの間に、どうして子供を産まれようか、と、心の中で笑った。
遡る事13年前、サラは自分を決定的に貶める事を、自らしてしまっていた。自分に中々子供が産まれず、神様の約束が果たされないのを待ちきれず、世の流儀に従い、奴隷女ハガルをアブラハムにあてがって代理で子を生ませたのだが、彼女に待っていたのは、途方も無い惨めさだった。ハガルはすぐに子ができてしまったからだ。それ以降、アブラハムと彼の集団の注目は、ハガルの子供に集中し、サラは軽んじられ、どんどん立場を失って行った。サラはハガルに、「女性としての力」のあらゆる面で負けていた。
若さや産む力、人を惹き付ける力など。サラは子供ができないまま閉経し、この体、この人生ではもう手遅れだ、自分だけ喜びの外に出されてしまった、と、「あきらめ」が分厚い層を成して彼女の心を覆っていた。
そこで主は、サラの心に手を加えるために現れて下さる。『彼らはアブラハムに言った「あなたの妻サラはどこにおられますか」。』(9節) ここはサラは驚いて良い場面である。初対面の旅人のはずの彼らが、神様に与えられた新しい名を知っており、しかも神様の約束をそのまま言っているのだから。しかしサラは現実感が無い。長い間、蔑まれ、軽んじられていると、防衛本能が働いて、喜びや笑い、怒りや悲しみなどの感覚が、すっぽり無くなってしまうのだ。主はそんな彼女を、母として整えるため、急激に取り扱って行かれる。
主は彼女の卑屈なあきらめ心に手を加えられる。『サラは心の中で”笑って(ツァハァク)”言った、「わたしは衰え、主人もまた老人であるのに、わたしに”楽しみ(エデン)”などありえようか」。主はアブラハムに言われた、「なぜサラは、わたしは老人であるのに、どうして子を産むことができようかと言って”笑った”のか。
主にとって不可能なことがありましょうか。来年の春、定めの時に、わたしはあなたの所に帰ってきます。そのときサラには男の子が生れているでしょう」。サラは恐れたので、これを打ち消して言った、「わたしは”笑い”ません」。主は言われた、「いや、あなたは”笑いました”」。』(12-15節)
サラはようやく目が覚めた。空想から現実に引き戻されたのではなく、現実から真実へと引き戻されたのだ。
真実とは、何か。神の言葉、それが、真実である。世の人は言うかもしれない。そんな歳で一体何が出来るの、現実を見なさい、と。しかしキリスト者は言うべきだ。現実ではなく、真理である御言葉を信じなさい、と。
主がサラの心に手を加えられ、サラが真理の御言葉の約束を見るようになって以降、多くの変化が起こる。
まず、「女としての力」がよみがえって来た。サラは生理が途絶えて久しくなっていたが、それが復活した。
さらにその後、サラは、ペリシテの王アビメレクに略奪結婚されてしまう(20章)。その理由はなんと、サラがあまりに美しいために、夫アブラハムは「自分は殺されて妻サラが奪われてしまわないか」と恐れたからだ。
90歳の女性が、美貌ゆえに略奪されてしまう程、女としての力が戻る。私達は、エル・シャダイ(全能なる神)に、もっと希望を持つべきだ!18章では諦め切っていたサラの心に手が加えられたが、20章は、子供が生まれる事を「神の栄光」とするために、それまでの「兄妹」とい偽りの立場を正さなくてはならなかった。
100歳と90歳の「夫婦」の間に子供が生まれるのは、神の栄光である。しかし100歳と90歳の「兄と妹」の間に子供が生まれるとするなら、ケダモノである。だからまず彼らの偽りの口癖を取り扱う必要があったのだ。
そうして整えられ、いよいよ21章、サラに待望の子供が与えられる。『そしてサラは言った、「神はわたしを笑わせてくださった。聞く者は皆わたしのことで笑うでしょう」。』(21:6) サラはかつて、老いぼれてしまった私に何の喜び(エデン)があるだろうか、と言った。しかし神の御旨は、人を喜ばせる事(エデン)だ。
主は、人を創られると同時にエデンへ置き、喜びの夫婦関係、喜びの自然世界との関係を築かせようと、あらかじめエデンを設けておられたのだ。いつも喜んでいる事こそ、主が私達に望んでおられる事である。
90歳の女性が美くなって略奪される程になり、赤ちゃんを産んで乳を飲ませる。まさに笑いがこみ上げて来るものだ。主は気落ちしている人を笑うようにさせて下さり、聞いた人も、一緒に笑うようにさせて下さる。
真理の御言葉により、女としての力・男としての力が戻され、喜びの笑いに溢れる皆様でありますように!

ベエル・シェバを受け継いだイサク出生の秘密(創世記18章9-15)
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18:9 彼らはアブラハムに言った、「あなたの妻サラはどこにおられますか」。彼は言った、「天幕の中です」。
18:10 そのひとりが言った、「来年の春、わたしはかならずあなたの所に帰ってきましょう。その時、あなたの妻サラには男の子が生れているでしょう」。サラはうしろの方の天幕の入口で聞いていた。
18:11 さてアブラハムとサラとは年がすすみ、老人となり、サラは女の月のものが、すでに止まっていた。
18:12 それでサラは心の中で笑って言った、「わたしは衰え、主人もまた老人であるのに、わたしに楽しみなどありえようか」。
18:13 主はアブラハムに言われた、「なぜサラは、わたしは老人であるのに、どうして子を産むことができようかと言って笑ったのか。
18:14 主にとって不可能なことがありましょうか。来年の春、定めの時に、わたしはあなたの所に帰ってきます。そのときサラには男の子が生れているでしょう」。
18:15 サラは恐れたので、これを打ち消して言った、「わたしは笑いません」。主は言われた、「いや、あなたは笑いました」。

<祈り>
私達に笑いを与えて下さる主を誉め称えます。いかに恐れまどいがあろうとも、また、現実の問題の山に押しつぶされそうでも、それでもあなたは私達を笑いへと導き、喜びのエデンへと導いて下さる事を感謝します。
この時間も私達にまことの笑いへと導いてくださるように。世の笑いでなく真の笑いへ、決して廃れる事の無い喜びへと導いてください。語るしもべ、聞く一人ひとりを整え、主の語られる事を余す所なく受け止めるこの時でありますように。これからの全てを期待し、我らの主イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

<メッセージ>
ベエル・シェバという事で今年は始まった。ベエル・シェバを受け継いだのはイサクだった。
イサクの名前の意味は、「彼は笑う」。イツァハクという発音だが、その元となる言葉はツァハァク、「笑い」
ツァディ、ヘット、クフ、の3文字。冷笑とか苦笑い、嘲り笑いなどの意味がある。真理ではない側の笑い。
そんなのありえないよ、というような笑いである。

サラは、笑った、とある。
ここは、どういう場面か。その時サラは89歳、アブラハムは99歳。
来年のいまごろ、サラには男の子が生まれている、という約束を、この場面の少し前にいただいていた。
17章では、アブラムが99歳の時、神が「全能の神(エル・シャダイ)」として現れて、あなたを大いなる国民とする、そして、あなたの名を「アブラハム(多くの人々の父)」とする、と変えられ、また、サライも「サラ」と名前が変わった。

 17:15 神はまたアブラハムに言われた、「あなたの妻サライは、もはや名をサライといわず、名をサラと言いなさい。
 17:16 わたしは彼女を祝福し、また彼女によって、あなたにひとりの男の子を授けよう。わたしは彼女を祝福し、彼女を国々の民の母としよう。彼女から、もろもろの民の王たちが出るであろう」。
 17:17 アブラハムはひれ伏して笑い、心の中で言った、「百歳の者にどうして子が生れよう。サラはまた九十歳にもなって、どうして産むことができようか」。

なんとアブラハムも当初、笑った。100歳の者に、90歳の者に、子供が生まれようか、と。
しかし神は「エル・シャダイ」、全能の神として現れて下さった。全能なのである。100歳の者に、90歳の者に、子供が生まれる?人間の常識からすれば、笑い、ツァハァクしか生まれない。ありえない、と。
しかし神は、本気で、サラから男の子を生まれさせよう、とはるか前から決めている。

その13年前、サラは自分を決定的に貶める事を自らしてしまう。
アブラハムは、妻の声に従って、奴隷女ハガルをあてがわれ、男の子を産んだことにしよう、と。神様の約束がなかなか果たされないのを、待ちきれず、自分の考えや世の流儀に従って行った結果、サラに待っていたのは、とてつもない惨めさ、であった。
確かにハガルを通してすぐに男の子が生まれた。自分は何十年も生まれなかったのに、ハガルとくっつけたら、すぐさま生まれ、致命的な恥を被った。それ以降、アブラハムの家の中での注目は、ハガルとの間に生まれたイシュマエルへと移り、サラはどんどん家の中で軽んじられるようになって行った。
だから既にこの時、虚しさしかなかった。自分には子供がいないまま、女の道も閉ざされてしまった。その現実、自分は取り残され、この体では、この人生ではもう手遅れとなって久しい。そして彼女の心は、もう自分の人生には、何の喜びもない、という、ぼんやりとした倦怠感から来る、「あきらめ」が分厚い層をなして覆っていた。

そこで18章、主は、サラのあきらめによって覆われた心に手を加えるため、3人の人として現れる。
アブラハムはこの3人を見ると、すぐに接待した。彼らが主とその御使いだとは知らずに。
しかし途中から、この3人は只者ではない、という事が分かってくる。

18:9 彼らはアブラハムに言った、「あなたの妻サラはどこにおられますか」。彼は言った、「天幕の中です」。

彼ら、初対面の旅人だったはずだし、サラという名前も、ついこの間、神様によって変えられたばかりだった。
それを知っているこの3人は何者か、と、びっくりしただろう。サラも、この3人がなぜ新しい神様から与えられた名前を知っている、何者だろう、と、びっくりしていい所ではあるが、しかし彼女は「どうでもいい感」がある。心が倦怠感やあきらめで満ちているなら、あまりびっくりしない。

あきらめに閉じ込められてしまって現実を生きていない人の特徴。
ぼんやりしている人を驚かせようとするのは、難しい。場の皆が、ある事で笑いこけたり、あるいは悲しんだりしている場面でも、ぼーっとして、自分の思い込みに自分の全部が行ってしまっているので、目の前の現場で起きている事が全然分からない。
サラは、傷ついていた。ハガルの事で。イシュマエルが生まれてから、葛藤もすごかった。だから、サラ自身、現実の世界を見ないで、どうでも良いという事で行きていたかもしれない。
だから、主が手を加えずをえなかった。そんなサラの心の状態で、イサクを与えるわけにはいかなかった。
現実感が無いまま、母の役割を与えるわけにはいかなかった。だから、主がいざ、約束していたものを与えようとする直前に、人の側が整えられていなかったら、主は急激にその人に手を加え、活を入れる。
現実感がない人を笑わせるのは、至難の業である。

思いが何か捕らえられていると、面白いこと、悲しいことに、なかなか心が震えない。あまりに蔑まれる事、軽んじられる事が続いていると、防衛本能が働いて、喜びとか笑い、怒り、悲しみが、なくなってしまう。サラにはそういう所があったのかもしれない。
只者ではない3人が現れるのだが、サラは、あまり現実感が無い。

再三の主から約束を思い出させられても、心のあきらめを払拭させないサラ。
18:10 そのひとりが言った、「来年の春、わたしはかならずあなたの所に帰ってきましょう。その時、あなたの妻サラには男の子が生れているでしょう」。サラはうしろの方の天幕の入口で聞いていた。
18:11 さてアブラハムとサラとは年がすすみ、老人となり、サラは女の月のものが、すでに止まっていた。
18:12 それでサラは心の中で笑って言った、「わたしは衰え、主人もまた老人であるのに、わたしに楽しみなどありえようか」。

ここの笑いが、ツァハァク。そして、「わたしは衰え、主人もまた老人であるのに、わたしに楽しみなどありえようか」サラは、心の中で笑うしかなかった。自分の名前を知っていて、神様の約束、来年の今頃、男の子が生まれる、という事を、なんとこの人達は知っている、と。
ああ、不思議な人達ですね、神様から遣わされた人達なのかしら、くらいの気持ちでいて、でも、その内容に対してはツァハァクした。
彼女は、約束した言葉が、なかなか信じられなかった。17章からこの場面に至るまでも、神様は、何度も「サラが」「サラが」と繰り返し言っているのに、彼女の心の中は、惨めな現実で塗りつぶされた13年のゆえに、神様の言葉に全く現実感を持てなかった。神様は、アブラハムには約束された、すると、ハガルを通して得た、でもわたしはその喜びの範囲外だ、と。

女の力が衰えてしまったというサラの「現実」から、「真実」へとサラを引きずり出す主。
サラは、ハガルに、何もかも負かされていた。若さにしても、産む力にしても、人を惹き付ける力にしても、そうした「女力」のあらゆる面で。自分はただ衰退して行くという現実、それに対するあきらめに、埋もれつくされてしまった心に、主は手を加えられる。

18:12 それでサラは心の中で笑って言った、「わたしは衰え、主人もまた老人であるのに、わたしに楽しみなどありえようか」。

サラが、この言葉を心に思ったとたん。彼女は、現実から、真実へと引きずり出される。
空想から現実に引きずり出されるというのはあるかもしれないが、主がなさるのは、現実から真実へと引きずり出される。

18:13 主はアブラハムに言われた、「なぜサラは、わたしは老人であるのに、どうして子を産むことができようかと言って笑ったのか。
18:14 主にとって不可能なことがありましょうか。来年の春、定めの時に、わたしはあなたの所に帰ってきます。そのときサラには男の子が生れているでしょう」。

まことに主ははっきりと、サラに、男の子ができる、とはっきりと宣言している。

18:15 サラは恐れたので、これを打ち消して言った、「わたしは笑いません」。主は言われた、「いや、あなたは笑いました」。

ここでやっとサラは、信じた。だから、恐ろしくなったのだ。なぜ恐ろしいか、相手は、与える、と言っているのに、自分は、ありえない、と笑ったから。彼女、自分が心につぶやいた事、彼らの見えない後ろの物陰で密かに笑った事も、全部、筒抜けであった主に対し、恐れを抱いた。彼らは、叱っている。。。
一瞬にして、目の前におられるお方は主だと本当に分かって、今までぼんやりと主の前に失礼な事を心でつぶやき、笑うという失礼な事を行って来た、主がそれにいかって、もう、与えると言っておられた事を差し止めてしまったらどうしよう、と、恐れたのかもしれない。

ここにおいて「笑う」という言葉が何度も出てくる。前の章でも、アブラハムがサラに男の子が生まれると聴いて笑った。え、あの妻サラが?と。サラは、ぱっとしない存在になってから久しかったのだろう。
けれども主の御旨は前からずっと、アブラハムとサラの夫婦だったのだ。サラから生まれる、という事こそが、肝心だった。

だから主は、サラが母になるために、整えをしておられたのだ。
今まで90年ちかく、子供がいない女性として生きてきた。サラはずっと子供が生まれない状態で生きてきた、諦めていた、そのところを、主は、真実へと彼女を引きずり込んできた。
真実とは何か。神の言葉、それが、真実である。
現実とは、神の言葉ではない、廃れるべき、目の前で展開されている物事の映像であり、聞こえてくるものである。
しかし主は、決して廃れる事の無い御言葉、真実へと引きずり込まれる。
そして永遠に廃れる事のない御言葉とは、私達への約束であり、あの時のアブラハムとサラ夫婦に対する約束とは、彼らには子供が生まれて、産んで増えて地に満ち、砂粒ほどの、空の星々ほどの数へと増えていく。
それがあの時の主の約束であり、主はサラを現実から真実へと引きずり込み、たとえ90歳であろうと子供が確かに生まれるという確約へと彼女の心を持って行った。

主がサラの心に手を加えられ、サラが現実でなく真実を見るようになって以降、多くの変化が起こる。
まず、女としての力が戻ってくる。
サラには生理が途絶えていたが、それが止まって久しくなっていたのが、再び通うようになったのだろう。
さらにその後、ペリシテの王アビメレクとの事件が起こる。(20章)
このアビメレクの所にアブラハム・サラの夫婦が行った所、サラがあまりに美しいゆえに、夫であるアブラハムは殺されて妻サラが奪われてしまわないか、と、恐れた程、サラは美しくなったのだ。
美しさも取り戻した。あらゆる女としての力を、取り戻して行ったのだ。
現実に目を奪われていた頃は、家の中で疎んじられるぱっとしない女だったのが、ぱっとする女どころか、女としての力がどんどん増し加わっていったのだ。
20:2を見ると、アビメレクが自らサラを召し入れてしまっている。真理に目覚めるなら、女としての力が戻ってくる。よその王様が見初めてしまうほど。90歳近くの女性が、美しいゆえに、略奪結婚されてしまう程。

母親になるためには、さらに整えられなくてはならなかった。
18章では、諦めきっていた心に手が加えられたが、20章では、子供が生まれる事が、神の栄光になるために、彼らのそれまでの立場、「兄妹」という「偽りの表明」が正されなくてはならなかった。
100歳と90歳の夫婦の間に子供が生まれる、これは神の栄光になる。しかし、100歳と90歳の兄と妹との間に子供が生まれる、これは、ケモノにしか聞こえない。
だからまず、その嘘偽りの口癖を、取り扱う必要があった。夫婦だった、その夫婦の間に子供が生まれた、となれば、主はまことに素晴らしい、という証が成り立つ。だから、イサクが生まれるまでの間、主が色々な整えをされたのだ。
主の約束が与えられてからの一年間、色々な主の取り扱いを通して、サラの母としての整えと、神の民としての整えが成されて行き、ついに21章、子供が生まれる。

 21:1 主は、さきに言われたようにサラを顧み、告げられたようにサラに行われた。
 21:2 サラはみごもり、神がアブラハムに告げられた時になって、年老いたアブラハムに男の子を産んだ。
 21:3 アブラハムは生れた子、サラが産んだ男の子の名をイサクと名づけた。
 21:4 アブラハムは神が命じられたように八日目にその子イサクに割礼を施した。
 21:5 アブラハムはその子イサクが生れた時百歳であった。
 21:6 そしてサラは言った、「神はわたしを笑わせてくださった。聞く者は皆わたしのことで笑うでしょう」。
 21:7 また言った、「サラが子に乳を飲ませるだろうと、だれがアブラハムに言い得たであろう。それなのに、わたしは彼が年とってから、子を産んだ」。

サラの心が平安な喜びと笑いで満ちているのがわかる。
彼女は子供を産んだのみならず、乳をあげた。色々な面で、彼女に女としての力が戻ってきたのだ。
だからこそ、現実が絶望へと導こうと襲いかかってくる時、現実逃避へと逃げ込むのではなく、真理の御言葉を取るべきなのだ。そうするなら、女としての力、男としての力も、戻ってくる。
主が、喜び、笑い、をもたらして下さる。

主の御旨は、喜ぶこと。いつも

1テサロニケ5:16 いつも喜んでいなさい。
5:17 絶えず祈りなさい。
5:18 すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって、神があなたがたに求めておられることである。

神は元々、人を喜ばせたい。神は人を喜ばせたいから、人を創られる前にエデンを造った。
実はヘブライ語を見ると、創世記18:12に、エデンが出て来る。

創世記18:12 それでサラは心の中で笑って言った、「わたしは衰え、主人もまた老人であるのに、わたしに楽しみなどありえようか」。

この「楽しみ」が、エデンである。
サラは、老いぼれてしまった私に何のエデンがあるだろうか、と言ったが、しかし神の御旨は、人をエデンへ置く事。だから主は人を創られると、人をエデンへと置かれたのだ。
エデンで喜びの夫婦関係を築かせ、喜びの自然環境との関係を築かせるために、エデンすなわち喜びの園を、あらかじめ設けておられたのだ。
サラは、エデンがなくなってしまっている、何のエデンがあるだろうか、と思っていたが、主は彼女に、エデンをつくってくださった。憐れみである。ただ神様の約束があったゆえに、サラは喜びが帰ってきた。

だから私達は、神に望みを置くべき。
そして、現実と真実が互いに対立する時、真実のほうを取るべき。
時に、現実があまりにひどすぎて、心の中がどんより曇ってしまう時、垢が溜まってしまったかのような時は、サラにして下さったように、主が手を加えて、真理へと引き戻してくださる事がある。
それを、私にも下さい!と祈るのだ。あまりに蔑まれる事が続いて、現実逃避が続き、どんより曇ってしまったこの心に、主よ、手を加えて、私にイサクを取り戻してください、エデンへと導いてください、と。

ヘブライ語で、ツァハァクと言うが、そこにヘブライ語の文字ユッドが加えられると、イツァハァク、イサクへとなる。ヘブライ語のユッドは、手の意味がある。つまり、嘲り笑い、冷笑のツァハァクに、主の手が加えられると、イサクへと変わり、それは決して奪われる事のない、真理の笑いとなった。
今、インターネット上では、嘲笑で満ちているが、そこに主が手を加えられるなら、決して廃れることのない真実の笑いへとなる。だから、真理の御言葉を取るべきなのだ。

21:6 そしてサラは言った、「神はわたしを笑わせてくださった。聞く者は皆わたしのことで笑うでしょう」。
ここは、KJVから訳すと、神はわたしを、笑うようにさせてくださいました、聞く者は、わたしとともに笑うでしょう。

神は、人を、笑うようにさせてくださり、聞く人は一緒に笑うようにさせて下さる。
89歳の女性に、生理が再び戻って来て、美しくなって、実際美しさゆえに略奪結婚される程になり、そして90歳になって子供を産んだ。乳が出るようになって、赤ちゃんに飲ませた。90歳になって、女としての力が戻ってきた。これは、喜びの笑いがこみ上げてくるものだ。まさしく主はそうだ、私達をも、笑うようにさせてくださる。

1テサロニケ5:16 いつも喜んでいなさい。
5:17 絶えず祈りなさい。
5:18 すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって、神があなたがたに求めておられることである。

喜ぶ事を、神様は望んでおられる。それ故神様は、人をエデンへと置かれた。
サラはエデンから離れてしまっていた。自分勝手にしてしまったあの事この事のゆえに。エバもそうだった。
だから真理の言葉、神の言葉へ従っていくべきなのだ。そうするなら、神は、笑いへと導いて下さる。


喜びから外されてしまうコツは、神の言葉から離れる事。
詩篇126篇もそうである。
都もうでの歌
詩篇126:1 主がシオンの繁栄を回復されたとき、われらは夢みる者のようであった。
126:2 その時われらの口は笑いで満たされ、われらの舌は喜びの声で満たされた。その時「主は彼らのために大いなる事をなされた」と/言った者が、もろもろの国民の中にあった。
126:3 主はわれらのために大いなる事をなされたので、われらは喜んだ。
126:4 主よ、どうか、われらの繁栄を、ネゲブの川のように回復してください。
126:5 涙をもって種まく者は、喜びの声をもって刈り取る。
126:6 種を携え、涙を流して出て行く者は、束を携え、喜びの声をあげて帰ってくるであろう。

なぜシオンは囚われ人になったか。それはイスラエルの側が、神の言葉から離れ、好き勝手な事をしていたゆえに、バビロン捕囚の憂き目に遭っていた。それで笑いが取り除かれ、エデンから追い出されてバビロンへと連行されていた。そこを、主が憐れみを施してくださり、帰してくださった。真理の言葉に返るからだ。

126:5 涙をもって種まく者は、喜びの声をもって刈り取る。
126:6 種を携え、涙を流して出て行く者は、束を携え、喜びの声をあげて帰ってくるであろう。

真理の中へと入っていくという、努力の種をまいていくべきなのだ。
そうするなら、喜びの刈り取りが待っている。
現実を見るに、まことに絶望しか見えない、希望が見えない、お金や食べ物がない、そのような所から、主は人を喜びへと帰してくださる。
種を巻いていくなら、束をかかえて喜びながら帰ってくる。

真理に、御言葉に、種を蒔いて行く。するなら、主は笑いで、喜びで満たしてくださる。
だからこの一年、御言葉に種を蒔こう。真理に種を蒔こう。真理と現実が対決する時、真理のほうを取るなら、やがて喜び笑いで満ち溢れながら大いに刈り取りができる。
種まきの収穫で喜び溢れながらこれからを過ごしていく皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!

金曜徹夜祈祷会 礼拝説教メッセージ
ベエル・シェバを受け継いだイサク出生の秘密(創世記18:9-15)
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悪者に加担する事に懲りて、正しくさばく事を推し進めたヨシャパテ(2歴代誌19章)
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ヨシャパテはアハブ王を助けようとした結果、散々な目にあった。
参加しても何の益ももたらさない、アハブ王の欲望にまみれた戦争に参加させられ、正しい預言者の言葉に一緒くたになって逆らったり、戦いでは、なかば「おとり」にさせられてしまったりもしたが、ヨシャパテが本当に危ない目にあって主に助けを求めた時、主は彼を助けてくださった。
彼には、主の前に善行を積んだ”貯金”があったからだ。

2歴代誌19:1 ユダの王ヨシャパテは、つつがなくエルサレムの自分の家に帰った。

アハブは主の”憐れみ”という貯金を使い果たし、ついには彼に災いが追いついてしまったが、ヨシャパテは、なんとか無事に家に帰る事ができた。

19:2 そのとき、先見者ハナニの子エヒウが出てヨシャパテを迎えて言った、「あなたは悪人を助け、主を憎む者を愛してよいのですか。それゆえ怒りが主の前から出て、あなたの上に臨みます。
19:3 しかしあなたには、なお良い事もあります。あなたはアシラ像を国の中から除き、心を傾けて神を求められました」。

ハナニの子エフーはヨシャパテに警告を与える。
彼がアハブ王に対し「わたしはあなたと一つです、わたしの民はあなたの民と一つです。」と言ってしまった言葉は、なお、呪いのように彼につきまとってしまっているのだ。
エフーの父ハナニは、ヨシャパテの父アサに警告の預言をした結果、アサはハナニに足かせをかけ、それが元でアサは足の病にかかり、死んでしまった。
しかしヨシャパテはエフーの警告を謙虚に受け止め、彼は再び内政を充実させるように、特に、悪を除き去る行動に出る。

19:4 ヨシャパテはエルサレムに住んでいたが、また出て、ベエルシバからエフライムの山地まで民の中を巡り、先祖たちの神、主に彼らを導き返した。

ヨシャパテは自国の中を行きめぐり、主を敬うように指導した。

19:5 彼はまたユダの国中、すべての堅固な町ごとに裁判人を置いた。
19:6 そして裁判人たちに言った、「あなたがたは自分のする事に気をつけなさい。あなたがたは人のために裁判するのではなく、主のためにするのです。あなたがたが裁判する時には、主はあなたがたと共におられます。

ヨシャパテは特に、裁判制度の充実をはかった。
彼自身、アハブ王と結託してしまい、その結果、散々な目に遭ったためかもしれない。
『不信者と、つり合わないくびきを共にするな。義と不義となんの係わりがあるか。光とやみとなんの交わりがあるか。キリストとベリアルとなんの調和があるか。・・・だから、「彼らの間から出て行き、/彼らと分離せよ、と主は言われる。そして、汚れたものに触れてはならない。触れなければ、わたしはあなたがたを受けいれよう。そしてわたしは、あなたがたの父となり、/あなたがたは、/わたしのむすこ、むすめとなるであろう。全能の主が、こう言われる」。』(2コリント6:14-18)

19:7 だからあなたがたは主を恐れ、慎んで行いなさい。われわれの神、主には不義がなく、人をかたより見ることなく、まいないを取ることもないからです」。
19:8 ヨシャパテはまたレビびと、祭司、およびイスラエルの氏族の長たちを選んでエルサレムに置き、主のために裁判を行い、争議の解決に当らせた。彼らはエルサレムに居住した。

ヨシャパテは裁判官としてレビ人や祭司を採用したのは、律法に適った事であり、レビ人や祭司は律法に通じているゆえ、彼らがさばきをする時、御言葉にかなった正しいさばきができるからである。
もし主の御言葉を知らないものを裁判官に任命するとするなら、主の目に叶わない事を押し通してしまったり、主の目に適う事を否定してしまったり、助けるべき人を助けなかったり、助けてはならない者を助けてしまったりしてしまう。

19:9 ヨシャパテは彼らに命じて言った、「あなたがたは主を恐れ、真実と真心とをもって行わなければならない。
19:10 すべてその町々に住んでいるあなたがたの兄弟たちから、血を流した事または律法と戒め、定めとおきてなどの事について訴えてきたならば、彼らをさとして、主の前に罪を犯させず、怒りがあなたがたと、あなたがたの兄弟たちに臨まないようにしなさい。そのようにすれば、あなたがたは罪を犯すことがないでしょう。

ヨシャパテが「彼らをさとして、主の前に罪を犯させず、怒りがあなたがたと、あなたがたの兄弟たちに臨まないようにしなさい。」と言ったように、間違った者をイスラエルの民の中でのさばらせてしまったら、イスラエルという集い全体が主の怒りがのぞむものとなってしまう。
主はヨシュアの時代言われた。
ヨシュア 7:10 主はヨシュアに言われた、「立ちなさい。あなたはどうして、そのようにひれ伏しているのか。
7:11 イスラエルは罪を犯し、わたしが彼らに命じておいた契約を破った。彼らは奉納物を取り、盗み、かつ偽って、それを自分の所有物のうちに入れた。
7:12 それでイスラエルの人々は敵に当ることができず、敵に背をむけた。彼らも滅ぼされるべきものとなったからである。あなたがたが、その滅ぼされるべきものを、あなたがたのうちから滅ぼし去るのでなければ、わたしはもはやあなたがたとは共にいないであろう。
7:13 立って、民を清めて言いなさい、『あなたがたは身を清めて、あすのために備えなさい。イスラエルの神、主はこう仰せられる、「イスラエルよ、あなたがたのうちに、滅ぼされるべきものがある。その滅ぼされるべきものを、あなたがたのうちから除き去るまでは、敵に当ることはできないであろう」。

19:11 見よ、祭司長アマリヤは、あなたがたの上にいて、主の事をすべてつかさどり、イシマエルの子、ユダの家のつかさゼバデヤは王の事をすべてつかさどり、またレビびとはあなたがたの前にあって役人となります。雄々しく行動しなさい。主は正直な人と共におられます」。

このようにヨシャパテは再び内政を充実させ、有用な事をした。
ヨシャパテがアハブ王に加担した事は全く無益どころか、かえって、損ばかりをして命の危険にさえ遭った。
悪人に加担するよりは、主を恐れ敬う事を人に教え、主の民を正しく養うような、有益な事にこそ、心血を注ぐべきである。

イザヤ 55:1 「さあ、かわいている者は/みな水にきたれ。金のない者もきたれ。来て買い求めて食べよ。あなたがたは来て、金を出さずに、ただでぶどう酒と乳とを買い求めよ。
 55:2 なぜ、あなたがたは、かてにもならぬもののために金を費し、飽きることもできぬもののために労するのか。わたしによく聞き従え。そうすれば、良い物を食べることができ、最も豊かな食物で、自分を楽しませることができる。
 55:3 耳を傾け、わたしにきて聞け。そうすれば、あなたがたは生きることができる。わたしは、あなたがたと、とこしえの契約を立てて、ダビデに約束した変らない確かな恵みを与える。

真の預言者と偽預言者(2歴代誌18:9-34)
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2歴代誌18:9 さてイスラエルの王およびユダの王ヨシャパテは王の衣を着て、サマリヤの門の入口の広場におのおのその玉座に座し、預言者たちは皆その前で預言していた。

アハブおかかえの400人もの預言者たちは、こぞってアハブ王に「良い」預言をしていた。
さらに、パフォーマンスをする者も現れる。

2歴代誌18:10 ケナアナの子ゼデキヤは鉄の角を造って言った、「主はこう仰せられます、『あなたはこれらの角をもってスリヤびとを突いて滅ぼし尽しなさい』」。
18:11 預言者たちは皆そのように預言して言った、「ラモテ・ギレアデに上っていって勝利を得なさい。主はそれを王の手にわたされるでしょう」。

アハブはさぞかし気分が良かっただろうが、その実はどうだったか。
アハブがこの戦いに行った結果、アハブは戦いに負け、そして命を落とす事になる。

彼らは、主エホバの御名を用い、勝利の「預言」してはいるが、それは真実ではない。
このような預言は「偽預言」というが、なぜ偽預言者が現れるのか。
そして偽預言には、どんな特徴があるのか。

偽預言の特徴は、やたら「平安」を乱発し、耳ざわりの良い、人受けし易い言葉を多様する事だ。
『万軍の主はこう言われる、「あなたがたに預言する預言者の言葉を聞いてはならない。彼らはあなたがたに、むなしい望みをいだかせ、主の口から出たのでない、自分の心の黙示を語るのである。彼らは主の言葉を軽んじる者に向かって絶えず、『あなたがたは平安を得る』と言い、また自分の強情な心にしたがって歩むすべての人に向かって、『あなたがたに災はこない』と言う」。』(エレミヤ23:16)

偽預言者の目的は、自分の思いついた言葉に、主の御名を付けることによって権威付けし、自分に注目を集めさせ、自分が利益を得る事である。
アハブの所にいた400人は、アハブから利益を得たいがために、大勢で彼に取り巻き、耳障りの良い事を言って、彼を気分良くさせ、そうしてアハブから食い扶持を得ているのだ。
それはちょうど、ホステスに大金をつぎ込む男性と、ホステスとの関係に、良く似ている。
偽預言を囲う側は「自分を持ち上げてもらいたい」「心地良い言葉をもらいたい」という心がある故に、また、偽預言者の側は、お金や食を得たいが為に、需要供給関係が成り立ち、相ともに集まるのだが、そこには、真実も主を敬う心も何も無い。
まさに、パウロがテモテに警告している通りである。
『人々が健全な教に耐えられなくなり、耳ざわりのよい話をしてもらおうとして、自分勝手な好みにまかせて教師たちを寄せ集め、そして、真理からは耳をそむけて、作り話の方にそれていく時が来るであろう。』(2テモテ4:3-4)

さらにエレミヤは語っている。

エレミヤ23:18 彼らのうちだれか主の議会に立って、その言葉を見聞きした者があろうか。だれか耳を傾けてその言葉を聞いた者があろうか。
23:19 見よ、主の暴風がくる。憤りと、つむじ風が出て、悪人のこうべをうつ。
23:20 主の怒りは、み心に思い定められたことを/なし遂げられるまで退くことはない。末の日にあなたがたはそれを明らかに悟る。
23:21 預言者たちはわたしがつかわさなかったのに、彼らは走った。わたしが、彼らに告げなかったのに、彼らは預言した。
23:22 もし彼らがわたしの議会に立ったのであれば、わたしの民にわが言葉を告げ示して、その悪い道と悪い行いから、離れさせたであろうに。

エレミヤが言ったように、主の議会というものがある。
それは実際、この後のミカヤの預言から分かる。

エレミヤ23:23 「主は言われる、わたしはただ近くの神であって、遠くの神ではないのであるか。
23:24 主は言われる、人は、ひそかな所に身を隠して、わたしに見られないようにすることができようか。主は言われる、わたしは天と地とに満ちているではないか。

主はまさに天にも地にも満ちておられ、個室で話したひとりごとさえも、また、心の内に企んでいる事も、主は全てお見通しなのだ。

2歴代誌18:12 さてミカヤを呼びに行った使者は彼に言った、「預言者たちは一致して王に良い事を言いました。どうぞ、あなたの言葉も、彼らのひとりの言葉のようにし、良い事を言ってください」。

この使者の言葉の中に、現代キリスト教会にある問題の根源を見る事が出来る。
問題とは、主の言葉をそのまま伝えるべき者が、人に気に入られる事を求め、主の言葉をそのまま伝えるのをせずに、人に「良い」事を言うようになってしまう事だ。
主の言葉を伝える人は、主を恐れる事を促すために、主の言葉をそのまま伝えるべき者だ。

2歴代誌18:13 ミカヤは言った、「主は生きておられる。わが神の言われることをわたしは申します」。

主が言われる事を、そのまま伝える。このミカヤの姿勢こそ、まことの預言者であり宣教者が取るべき姿勢である。

2歴代誌18:14 彼が王の所へ行くと、王は彼に言った、「ミカヤよ、われわれはラモテ・ギレアデに戦いに行くべきか、あるいは控えるべきか」。彼は言った、「上って行って勝利を得なさい。彼らはあなたの手にわたされるでしょう」。

ミカヤの言葉は、どうもそれは真剣味に欠けたような、むしろ蔑みを含んだ口調や表情で言ったものと思われる。
なぜならアハブは、ミカヤに次のように答えるからだ。

18:15 しかし王は彼に言った、「幾たびあなたを誓わせたら、あなたは主の名をもって、ただ真実のみをわたしに告げるだろうか」。

それでミカヤは、彼の望む通り、主の御心そのものを告げる。
それは、アハブが戦いに行くべきか行かないべきかの問題とは、全く別次元の内容であった。

18:16 彼は言った、「わたしはイスラエルが皆牧者のない羊のように山に散っているのを見ました。すると主は『これらの者は主人をもっていない。彼らをそれぞれ安らかに、その家に帰らせよ』と言われました」。

これが主の御心である。
イスラエルが、羊飼いのいない羊のようだ。彼らを安らかにさせなくては。

主は、神の民が散らされている様を見て、深くうめき、憐れまれる主である。
『イエスは、すべての町々村々を巡り歩いて、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、あらゆる病気、あらゆるわずらいをおいやしになった。また群衆が飼う者のない羊のように弱り果てて、倒れているのをごらんになって、彼らを深くあわれまれた。』(マタイ9:35-36)
ここの「深くあわれまれた」のギリシア語は「スプランキニゾマイ」、原意は「はらわたがちぎれる思い」で、心の痛みを伴って「ああ、かわいそうに!」と叫ぶ時の思いである。
主は、人々が羊飼いがいないような有様で弱り果てて倒れている様を、そのような思いでご覧になられる。
しかしアハブに、そんな主のうめきは届かず、自分の気に入る・気に入らないで答える。

18:17 イスラエルの王はヨシャパテに言った、「わたしはあなたに、彼はわたしについて良い事を預言せず、ただ悪い事だけを預言すると告げたではありませんか」。

彼は、自分がイスラエルの良き羊飼いである、とでも思い込んでいたのかもしれない。しかし、主のイスラエルに対する評価は、「羊飼いがいない」であった。
さらにミカヤは、主から示された事をさらに告げる。

18:18 ミカヤは言った、「それだから主の言葉を聞きなさい。わたしは主がその玉座に座し、天の万軍がその右左に立っているのを見たが、
18:19 主は、『だれがイスラエルの王アハブをいざなって、ラモテ・ギレアデに上らせ、彼を倒れさせるであろうか』と言われた。するとひとりは、こうしようと言い、ひとりは、ああしようと言った。
18:20 その時一つの霊が進み出て、主の前に立ち、『わたしが彼をいざないましょう』と言ったので、主は彼に『何をもってするか』と言われた。
18:21 彼は『わたしが出て行って、偽りを言う霊となって、すべての預言者の口に宿りましょう』と言った。そこで主は『おまえは彼をいざなって、それをなし遂げるであろう。出て行って、そうしなさい』と言われた。

ミカヤは、主の議会でやり取り為された内容を主に示され、災いが来る事を預言した。
驚く事に、ミカヤが見た天の議会の議題は、アハブを倒れさせるために如何にすれば良いか、という事である。一体、作戦会議で、会議の内容を敵に全部明かす者はいるだろうか。しかし主は、その内容を堂々とミカヤを通して公開したのだ。

18:22 それゆえ、主は偽りを言う霊をこの預言者たちの口に入れ、また主はあなたについて災を告げられたのです」。

こうしてアハブの望み通り、主の御旨が、あますところなく伝えられた。
彼らはどう答えたか。

18:23 するとケナアナの子ゼデキヤが近寄ってミカヤのほおを打って言った、「主の霊がどの道からわたしを離れて行って、あなたに語りましたか」。
18:24 ミカヤは言った、「あなたが奥の間にはいって身を隠す日に見るでしょう」。

ゼデキヤは、鉄の角まで作って預言しアピールした事とは全く逆の事をミカヤが言ったので、彼を殴った。
もしゼデキヤが、主の言葉をそのまま伝えるなら、反する事を言われたとしも、ゼデキヤが侮辱されたのではないから、何も殴る必要は無いはずである。実際、ミカヤは憤慨しなかった。
結局、ゼデキヤがミカヤを殴った行為は、彼は、主から受けた事を語ったのではなく、ゼデキヤ自身から出たアイデアをアピールしていたのだという事を表している。

18:25 イスラエルの王は言った、「ミカヤを捕え、町のつかさアモンと王の子ヨアシの所へ引いて行って、
18:26 言いなさい、『王はこう言う、この者を獄屋に入れ、少しばかりのパンと水をもって彼を養い、わたしが勝利を得て帰ってくるのを待て』と」。
18:27 ミカヤは言った、「あなたがもし勝利を得て帰るならば、主はわたしによって語られなかったのです」。また彼は言った、「あなたがたすべての民よ、聞きなさい」。

結局アハブも、その取り巻きの預言者達も、このミカヤに与えられた内容を、「失礼な戯言」として受け取った。
しかも、ヨシャパテまで、この言葉を聞いたにもかかわらず、アハブと共に行ってしまう。
それによって、ヨシャパテも、大きな災難を通る事になる。

18:28 こうしてイスラエルの王とユダの王ヨシャパテは、ラモテ・ギレアデに上った。
18:29 イスラエルの王はヨシャパテに言った、「わたしは姿を変えて戦いに行きましょう。しかしあなたは王の衣を着けなさい」。イスラエルの王は姿を変えて戦いに行った。

アハブは、厚顔無恥にも、善意で助けに来てくれたヨシャパテひとりにリスクを負わせ、自分だけが安全になろうとした。
『悪しき者は物を借りて返すことをしない。しかし正しい人は寛大で、施し与える。主に祝福された者は国を継ぎ、主にのろわれた者は断ち滅ぼされる。』(詩篇37:21-22)

18:30 さて、スリヤの王は、その戦車隊長たちに命じて言った、「あなたがたは小さい者とも、大きい者とも戦ってはならない。ただイスラエルの王とのみ戦いなさい」。

シリヤの王のこの命令は、ヨシャパテにはますますピンチ、アハブにはますます有利、と思われるかもしれないが、結果的に、その真逆となる。

18:31 戦車隊長らはヨシャパテを見たとき、これはきっとイスラエルの王だと思ったので、身を巡らしてこれと戦おうとした。しかしヨシャパテが呼ばわったので、主はこれを助けられた。すなわち神は敵を彼から離れさせられた。

シリヤの戦車隊が、王服をまとったヨシャパテ王に迫った時、この者がイスラエルの王アハブではないと判断した材料は、彼がとっさに「主エホバを呼び求めた」事だった。シリヤの間では、アハブは主エホバを求めるような者ではない、と、有名だったのかもしれない。
ともかくヨシャパテはこうして、主に助けを呼び求めた事により、また、あらかじめシリヤ王が発していた命令のおかげで、危ない所で命が救われた。

18:32 戦車隊長らは彼がイスラエルの王でないのを見たので、彼を追うことをやめて引き返した。
18:33 しかし、ひとりの人が、なにごころなく弓を引いて、イスラエルの王の胸当と、くさずりの間を射たので、彼はその車の御者に言った、「わたしは傷を受けたから、車をめぐらして、わたしを軍中から運び出せ」。
18:34 その日戦いは激しくなった。イスラエルの王は車の中に自分をささえて立ち、夕暮までスリヤびとに向かっていたが、日の入るころになって死んだ。

誰かが何気なく放った矢が、見事、戦車で激しく動いているアハブの、それも胸当てと草摺の間にヒットし、彼を死に至らしめたのだ。絶妙のコントロール、と言いたい所だが、結局、主には全ての事がお出来になるのだ。
主は、少年ダビデの手を用いても、神の民をなぶったゴリヤテを「絶妙なコントロール」で倒した。
結局、汚い手段を使う者、姑息な手を使ってでも万全を期して臨んだのであろうが、そのような小賢しい知恵や努力も、主の「為す」と定められた災いを防ぐ事は出来ない。

ヨシャパテはこの度、悪しき者同士の、欲深い領土争いに足を突っ込んでしまって、とんだとばっちりを受けたが、主は、そのような罠に陥ってしまった主の民を悪人同士の争いの中から引き上げ、救い出す事がお出来になるお方である。
この戦いには、ヨシャパテの南ユダの兵士達も混ざっており、悪しき者と善き者とが混在状態ではあったものの、シリヤ王があの命令を下してくれたおかげで、ヨシャパテ側の兵士達から犠牲者が多く出る事からも守られたのだ。
どんなに、善き人に対不利な戦局が展開されようとも、主はその人を助け出される事が可能であり、そして、悪しき者がいかに二重三重の防護策を講じようとも、その者が主の裁きから免れられる事は無い。
ヨシャパテは主を呼び求めた故に、かろうじて助けられたが、この後彼は、アハブと縁結びをした故に、さらに災いに巻き込まれて行く事になる。

ルカによる福音書 講解説教メッセージ
全て隠れた悪・隠れた善に報いて下さる父なる神と、全てを教えて下さる聖霊(ルカ12:1-12)
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エレミヤ書 講解説教メッセージ
さかりがついた獣以上に情欲で身を汚した主の民イスラエル(エレミヤ2:20-37)
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汚れた者と共にくびきを負ってしまったヨシャパテ(2歴代誌18:1-8)
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2歴代誌18:1 ヨシャパテは大いなる富と誉とをもち、アハブと縁を結んだ。

アハブは、イスラエル史上、最悪の王とされている。
ヨシャパテはせっかく自国を霊的に清め、主から祝福を受けたのに、よりによってアハブと縁を結んでしまった。
これがきっかけで、ヨシャパテは諸々の災いの中に突入して行く事になる。

18:2 彼は数年の後、サマリヤに下って、アハブをおとずれた。アハブは彼と彼に従ってきた民のために羊と牛を多くほふり、ラモテ・ギレアデに一緒に攻め上ることを彼にすすめた。

アハブは豪勢なごちそうの接待でヨシャパテを迎え、一緒にラモテ・ギルアデ、すなわちシリアに、一緒に戦いを仕掛けよう、とすすめた。
実はその少し前、シリヤは圧倒的な大軍を率いてアハブの国に攻めて来た事が、二度あったにもかかわらず、二度とも、主の一方的な憐れみ故に勝利できた。
それなのにアハブは主に感謝せず、主に聞こうともせず、勝手にシリヤと契約を結び、みすみす王を逃してしまった経緯がある。(1列王記20章)

それ以来、シリヤはイスラエルに攻めてくる事はしなかったが、シリヤは、イスラエルに返還すると約束していた町々を返さないまま年月が過ぎた。
アハブはシリヤと「契約」を結んだのだから、本来、外交的に使者を遣わして申し出るのが筋であるはずだが、いきなり「奪い返す」という暴力手段に訴えようとしている。
それも、ヨシャパテ王が、友好的な関係を結ぼうとして来たタイミングで。
アハブはヨシャパテをごちそう攻めにして、彼を利用して戦争しようとしたのだ。

2歴代誌18:3 イスラエルの王アハブはユダの王ヨシャパテに言った、「あなたはわたしと一緒にラモテ・ギレアデに攻めて行きますか」。ヨシャパテは答えた、「わたしはあなたと一つです、わたしの民はあなたの民と一つです。わたしはあなたと一緒に戦いに臨みましょう」。

ヨシャパテは「わたしはあなたと一つです、わたしの民はあなたの民と一つ」などと答えてしまった。
どれ程本気で言ったのかは分からないが、しかし発せられた言葉は、力を持ってしまう。
私達はこの口から出る言葉を、よく注意し管理するべきだ。良い言葉すなわち神の御言葉を信仰じて発するなら、良き主人が良い実を落として下さる。しかし悪い事を言ったら、空中の悪い主人が悪い実を振り落とさせてくる。
『人は自分の言葉の結ぶ実によって、満ち足り、そのくちびるの産物によって自ら飽きる。死と生とは舌に支配される、これを愛する者はその実を食べる。』(箴言18:20)

ヨシャパテはアハブと一緒になり、アハブの汚れた欲望を満たす道具となってしまい、欺瞞に満ちた争いごとに加担してしまった故、その報いを受ける事になって行く。
主は、悪い交わりとは関わりを持ってはならない、と戒められる。
『不信者と、つり合わないくびきを共にするな。義と不義となんの係わりがあるか。光とやみとなんの交わりがあるか。キリストとベリアルとなんの調和があるか。信仰と不信仰となんの関係があるか。神の宮と偶像となんの一致があるか。わたしたちは、生ける神の宮である。神がこう仰せになっている、/「わたしは彼らの間に住み、/かつ出入りをするであろう。そして、わたしは彼らの神となり、/彼らはわたしの民となるであろう」。
だから、「彼らの間から出て行き、/彼らと分離せよ、と主は言われる。そして、汚れたものに触れてはならない。触れなければ、わたしはあなたがたを受けいれよう。そしてわたしは、あなたがたの父となり、/あなたがたは、/わたしのむすこ、むすめとなるであろう。全能の主が、こう言われる」。』(2コリント6:14-18)

主は、私達の内に住まわれる故、私達の内に汚れたものがあるとするなら、聖であられる主は、共にいてくださらない。
だから、汚れた行いや汚れた交友関係からは出ていくべきであり、もし既に出ているのであれば、悪者同士が裏切りあったり騙しあったり、争いあったりする中へと入っていってはならないのだ。

私達は、イエス様くびきを共にすべきである。
イエス様は、わたしのくびきを負いなさい、と言っている。

マタイ11:28 すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。
 11:29 わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。
 11:30 わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである」。

では、キリスト者と言われている者の中で、汚れた事をする者についてはどうすればいいか。パウロは書いている。
1コリント5:9 わたしは前の手紙で、不品行な者たちと交際してはいけないと書いたが、
5:10 それは、この世の不品行な者、貪欲な者、略奪をする者、偶像礼拝をする者などと全然交際してはいけないと、言ったのではない。もしそうだとしたら、あなたがたはこの世から出て行かねばならないことになる。
5:11 しかし、わたしが実際に書いたのは、兄弟と呼ばれる人で、不品行な者、貪欲な者、偶像礼拝をする者、人をそしる者、酒に酔う者、略奪をする者があれば、そんな人と交際をしてはいけない、食事を共にしてもいけない、ということであった。
5:12 外の人たちをさばくのは、わたしのすることであろうか。あなたがたのさばくべき者は、内の人たちではないか。外の人たちは、神がさばくのである。
5:13 その悪人を、あなたがたの中から除いてしまいなさい。

パウロは言った。キリストにあってひと度救われた人の中で、なおも汚れた事を止めない、その汚れた事をしてしまう自分を悲しまないで、堂々として、兄弟姉妹を悲しませ、聖なる集いを汚すような者とは、交際してはならない、食事さえ、一緒にしてはならない、と。
確かに汚れた事をする者一人が、聖なる食卓を汚すものである。
「その悪人を、あなたがたの中から除いてしまいなさい。」(1コリント5:13)と書いてある。

2歴代誌18:4 ヨシャパテはまたイスラエルの王に言った、「まず主の言葉を求めなさい」。

アハブは自分が戦いを起こす事について、主に聞いていなかった。
しかしヨシャパテが南ユダ王国の良い王として数えられたのは、主に聞くたしなみがあったからだった。

2歴代誌18:5 そこでイスラエルの王は預言者四百人を集めて彼らに言った、「われわれはラモテ・ギレアデに、戦いに行くべきか、あるいは控えるべきか」。彼らは言った、「上って行きなさい。神はそれを王の手にわたされるでしょう」。

アハブには、400人ほどの預言者がいた。
エリヤは、バアルの預言者400人と、アシェラの預言者450人と戦ったが、アハブは、預言者をたくさん集めるのが好きなようである。
しかし、預言者は、頭数が多ければ良いというものではない事はエリヤの時に証明されたはずだ。
神の国の運営は、多数決の原理ではない。60%の預言者がイエスで、40%がノーなら、60%で行こう、というようなものでは決して無い。
主はただ、100%間違いの無い、真実な御言葉によって示されるものであるからだ。

パウロは言う。
『神のみまえと、生きている者と死んだ者とをさばくべきキリスト・イエスのみまえで、キリストの出現とその御国とを思い、おごそかに命じる。御言を宣べ伝えなさい。時が良くても悪くても、それを励み、あくまでも寛容な心でよく教えて、責め、戒め、勧めなさい。人々が健全な教に耐えられなくなり、耳ざわりのよい話をしてもらおうとして、自分勝手な好みにまかせて教師たちを寄せ集め、そして、真理からは耳をそむけて、作り話の方にそれていく時が来るであろう。しかし、あなたは、何事にも慎み、苦難を忍び、伝道者のわざをなし、自分の務を全うしなさい。』(2テモテ4:1-4)
アハブはまさに、「健全な教に耐えられなくなり、耳ざわりのよい話をしてもらおうとして、自分勝手な好みにまかせて教師たちを寄せ集め、そして、真理からは耳をそむけて、作り話の方にそれて」いる状態だ。

これらの大勢の預言者達は、「神はそれを王の手にわたされるでしょう」と口をそろえて言っているが、この”神”は、エホバではない。どの神かも分からない。
ヨシャパテ王は、400人皆が皆こぞってアハブに都合の良い事を告げるのを見て、何か非常に胡散臭いものを感じたのだろう。

18:6 ヨシャパテは言った、「ほかにわれわれが問うべき主の預言者はここにいませんか」。
18:7 イスラエルの王はヨシャパテに言った、「ほかになおひとりいます。われわれはこの人によって主に問うことができますが、彼はわたしについて良い事を預言したことがなく、常に悪いことだけを預言するので、わたしは彼を憎みます。その者はイムラの子ミカヤです」。ヨシャパテは言った、「王よ、そうは言わないでください」。
18:8 そこでイスラエルの王はひとりの役人を呼んで、「イムラの子ミカヤを急いで連れてきなさい」と言った。

アハブは、主エホバの御心を伺うことのできる預言者が、いる、と答えた。
いたのに、その預言者はそこには呼ばず、彼以外の、しかも主エホバの御心を伺う事をしない400人を連れてきて、こぞってアハブに都合の良い事を言わせ続けていた。
アハブはその預言者を憎んでいるとヨシャパテに言ったが、その憎んでいる理由は、彼はアハブに良い事を預言せず、悪いことばかり預言するからだ、と言った。
自分が気に入る・気に入らないの基準で、主の言葉を伝える人を受け入れたり拒否したりする。
そのような人は、アハブの道、滅んでしまう人の道を歩んでいるのだ。

ヨシャパテは、アハブと縁を結んでしまった事がきっかけで、諸々の災いの中に突入して行く事になる。
私達はそのような汚れた
私達は汚れた者とは最初から付き合う事をせず、ましてやくびきを共にする事なく、ただイエス様と共にくびきを負って歩み、災い知らずの歩みを主と共にして行きたい。
 

ヨシャパテ - 主の祝福が留まり続ける人のたしなみ(2歴代誌17章)
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アサは最初は主に従う王であったが、最終的に驕り高ぶってしまい、足の病によって死んでしまった。

17:1 アサの子ヨシャパテがアサに代って王となり、イスラエルに向かって自分を強くし、
17:2 ユダのすべての堅固な町々に軍隊を置き、またユダの地およびその父アサが取ったエフライムの町々に守備隊を置いた。

アサの子ヨシャパテは、良い王として記録されており、歴代誌では4章に渡ってその行いが記されている。
彼が歩んだ道は、私達に大いに示唆を与えてくれる。

17:3 主はヨシャパテと共におられた。彼がその父ダビデの最初の道に歩んで、バアルに求めず、
17:4 その父の神に求めて、その戒めに歩み、イスラエルの行いにならわなかったからである。
17:5 それゆえ、主は国を彼の手に堅く立てられ、またユダの人々は皆ヨシャパテに贈り物を持ってきた。彼は大いなる富と誉とを得た。

なぜ主がヨシャパテと共におられたのか。その理由がこれらの節の中に込められている。
すなわち、彼がダビデの最初の道に歩み、バアルに求めず、父の神に求め、その戒めに歩み、イスラエルの行いにならわなかった、からだ。

主が共におられた人は、聖書の中に幾つか見られるが、共通する事は、彼らは全て、主を敬い、主を第一としていた点である。
ヤコブの子ヨセフはそうだった。

創世記39:1 さてヨセフは連れられてエジプトに下ったが、パロの役人で侍衛長であったエジプトびとポテパルは、彼をそこに連れ下ったイシマエルびとらの手から買い取った。
 39:2 主がヨセフと共におられたので、彼は幸運な者となり、その主人エジプトびとの家におった。
 39:3 その主人は主が彼とともにおられることと、主が彼の手のすることをすべて栄えさせられるのを見た。

ヨセフは、兄弟達の悪意に対して悪を返すことをせず、ポティファルの妻に陥れられ牢に入れられても、その先々で権威に忠実に従うスタンスを捨てたりしなかった。
彼はいつでも「神は」が口ぐせで、どんな事があっても自分の手柄にはしなかった。
そのヨセフの性質の故に、神が彼を守り、彼の敵に神が弓を射返し(詩篇64篇)、流れのほとりに植えられた木のように、時が来た時には垣根を越えて広がる程の、豊かな実を結ばせるに至ったのだ。
私達も、イスラエルの岩なる牧者・イエスキリストに拠り頼む事によって、あらゆる悪から守られる。

17:6 そこで彼は主の道に心を励まし、さらに高き所とアシラ像とをユダから除いた。

この、自分達の中から主に忌み嫌われるものを取り除く、という行為は、私達が周囲から恐れられ、高められる、という事をもたらず。(後述)

17:7 彼はまたその治世の三年に、つかさたちベネハイル、オバデヤ、ゼカリヤ、ネタンエルおよびミカヤをつかわしてユダの町々で教えさせ、
17:8 また彼らと共にレビびとのうちからシマヤ、ネタニヤ、ゼバデヤ、アサヘル、セミラモテ、ヨナタン、アドニヤ、トビヤ、トバドニヤをつかわし、またこれらのレビびとと共に祭司エリシャマとヨラムをもつかわした。
17:9 彼らは主の律法の書を携えて、ユダで教をなし、またユダの町々をことごとく巡回して、民の間に教をなした。

ヨシャパテは、主の道に歩むことで祝福され、ますます主を愛する心が奮い立ち、主の道を町々に教えた。
主を恐れることを配下の人々に教える、これは祝福が倍増する秘訣である。
例えばヨシャパテの教育の結果、配下に百万の主に従う人が育ったとしたなら、主に祈る人が百万倍になり、主に愛され主から守られる人が百万倍に増える、という事になるからだ。

17:10 そこでユダの周囲の国々は皆主を恐れ、ヨシャパテと戦うことをしなかった。
17:11 また、ペリシテびとのうちで贈り物や、みつぎの銀をヨシャパテの所に持ってくる者があり、またアラビヤびとは雄羊七千七百頭、雄やぎ七千七百頭を彼に持ってきた。

主を恐れるなら、周囲の主を知らない者達から恐れられる。
ヤコブがまさにそうだった。

創世記35:1 ときに神はヤコブに言われた、「あなたは立ってベテルに上り、そこに住んで、あなたがさきに兄エサウの顔を避けてのがれる時、あなたに現れた神に祭壇を造りなさい」。
35:2 ヤコブは、その家族および共にいるすべての者に言った、「あなたがたのうちにある異なる神々を捨て、身を清めて着物を着替えなさい。
35:3 われわれは立ってベテルに上り、その所でわたしの苦難の日にわたしにこたえ、かつわたしの行く道で共におられた神に祭壇を造ろう」。
35:4 そこで彼らは持っている異なる神々と、耳につけている耳輪をことごとくヤコブに与えたので、ヤコブはこれをシケムのほとりにあるテレビンの木の下に埋めた。
35:5 そして彼らは、いで立ったが、大いなる恐れが周囲の町々に起ったので、ヤコブの子らのあとを追う者はなかった。

主の恐れが、ヤコブの周辺に及んだ。それは、ヤコブが「異なる神々を捨て、身を清めて着物を着替え」、主が最初に現れてくださったベテルへ戻り、主を礼拝する志を確立させたからだ。
このように、主に忌み嫌われるものと主以外に頼りとするものとを捨て去り、身をきれいにして生き方を改め、そして、主を礼拝する志を確立させるなら、主はその道を守るために、周囲に恐れを送られる。

2歴代誌17:12 こうしてヨシャパテはますます大いになり、ユダに要害および倉の町を建て、
17:13 ユダの町々に多くの軍需品を持ち、またエルサレムに大勇士である軍人たちを持っていた。

私達も、主を敬い、主を第一とし続けるなら、その間、主の祝福がいつも留まり続けるのである。

どんな密室で言った言葉も、翼ある者が聞いており記録されている(マタイ12:33-37)
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メッセージ音声

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マタイ12:33 木が良ければ、その実も良いとし、木が悪ければ、その実も悪いとせよ。木はその実でわかるからである。
12:34 まむしの子らよ。あなたがたは悪い者であるのに、どうして良いことを語ることができようか。おおよそ、心からあふれることを、口が語るものである。
12:35 善人はよい倉から良い物を取り出し、悪人は悪い倉から悪い物を取り出す。
12:36 あなたがたに言うが、審判の日には、人はその語る無益な言葉に対して、言い開きをしなければならないであろう。
12:37 あなたは、自分の言葉によって正しいとされ、また自分の言葉によって罪ありとされるからである」。

創世記4:6 そこで主はカインに言われた、「なぜあなたは憤るのですか、なぜ顔を伏せるのですか。
4:7 正しい事をしているのでしたら、顔をあげたらよいでしょう。もし正しい事をしていないのでしたら、罪が門口に待ち伏せています。それはあなたを慕い求めますが、あなたはそれを治めなければなりません」。
4:8 カインは弟アベルに言った、「さあ、野原へ行こう」。彼らが野にいたとき、カインは弟アベルに立ちかかって、これを殺した。
4:9 主はカインに言われた、「弟アベルは、どこにいますか」。カインは答えた、「知りません。わたしが弟の番人でしょうか」。

伝道者の書10:20 あなたは心のうちでも王をのろってはならない、また寝室でも富める者をのろってはならない。空の鳥はあなたの声を伝え、翼のあるものは事を告げるからである。

エペソ2:2 かつてはそれらの中で、この世のならわしに従い、空中の権をもつ君、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊に従って、歩いていたのである。

詩篇17:1 ダビデの祈
主よ、正しい訴えを聞き、わたしの叫びにみ心をとめ、偽りのないくちびるから出るわたしの祈に/耳を傾けてください。
17:2 どうかわたしについての宣告がみ前から出て、あなたの目が公平をみられるように。
17:3 あなたがわたしの心をためし、夜、わたしに臨み、わたしを試みられても、わたしのうちに/なんの悪い思いをも見いだされないでしょう。わたしの口も罪を犯しません。
17:4 人のおこないの事をいえば、あなたのくちびるの言葉によって、わたしは不法な者の道を避けました。
17:5 わたしの歩みはあなたの道に堅く立ち、わたしの足はすべることがなかったのです。

詩篇12:1 主よ、お助けください。神を敬う人は絶え、忠信な者は人の子らのなかから消えうせました。
12:2 人はみなその隣り人に偽りを語り、へつらいのくちびると、ふたごころとをもって語る。
12:3 主はすべてのへつらいのくちびると、大きな事を語る舌とを断たれるように。
12:4 彼らは言う、「わたしたちは舌をもって勝を得よう、わたしたちのくちびるはわたしたちのものだ、だれがわたしたちの主人であるか」と。
12:5 主は言われる、「貧しい者がかすめられ、乏しい者が嘆くゆえに、わたしはいま立ちあがって、彼らをその慕い求める安全な所に置こう」と。
12:6 主のことばは清き言葉である。地に設けた炉で練り、七たびきよめた銀のようである。
12:7 主よ、われらを保ち、とこしえにこの人々から免れさせてください。
12:8 卑しい事が人の子のなかにあがめられている時、悪しき者はいたる所でほしいままに歩いています。

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