メッセージ - 202006のエントリ
早天礼拝
主に聞き従う者に与えられる、豊かな喜びの収穫(詩篇65篇)
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詩篇65篇表題『聖歌隊の指揮者によってうたわせたダビデの歌、さんび』
65:1 神よ、シオンにて、あなたをほめたたえる(テヒラー)ことは/ふさわしいことである。人はあなたに誓いを果すであろう。
65:2 祈(テフィラー)を聞かれる方よ、すべての肉なる者は罪のゆえにあなたに来る。われらのとががわれらに打ち勝つとき、あなたはこれをゆるされる(カーファル)。
神は、罪を犯してしまう弱い人間を憐れみ、主に泣きついて来る人を赦して(カーファル)くださるからこそ、人々は賛美(テヒラー)と祈り(テフィラー)をもって御前に集う。
カーファルは元々、「覆う」が原意で、「無かったことにする」事である。
人はただ、主の一方的な恵みにより、罪を覆われ、義とされるのだ。
だからもし、自分は正しい事を行って来た・悪を行わなかった、などと主張して、自分を正しいと見なす事には何の意味も無く、むしろ、神の義から遠ざかってしまう。
パリサイ人は自分と取税人を比較し、自分があれをした、これをした、と、神の前でとうとうと自慢話をしたが、取税人は、遠く離れ、顔を天に向けようともせず、ただ自分の胸を叩いて、ただ「罪人のわたしをお赦し下さい」と祈った。ここで義とされたのは、取税人のほうだった。(ルカ18:9-14)
主は、自分で自分を義とする人ではなく、主に泣きついて来る人をこそ憐れみ、その人の罪を覆って下さるのだ。
結局、私達・人間は、自分の罪を覆い隠す事は、できない。
エデンでアダムとエバが、いちじくの葉で裸を覆ったが、それは何の役にも立たなかった。ただ、主が動物の血を流して得た皮の衣こそ、彼らの裸を覆う事ができた。
65:4 あなたに選ばれ、あなたに近づけられて、あなたの大庭に住む人はさいわいである。われらはあなたの家、あなたの聖なる宮の/恵みによって飽くことができる。
なぜ聖徒は、主の宮に集うのか。
それは、主に泣きついて行く人に、罪の贖いが与えられ、それによって、赦された事の開放感が与えられ、また、永遠なる主との関係を取り戻し、そして、受け入れられている事の安心感と、主に愛されている事の甘い感覚と、また、実際的な問題解決と、セキュリティが与えられているからだ。
65:5 われらの救の神よ、地のもろもろのはてと、遠き海の望みであるあなたは/恐るべきわざにより、救をもってわれらに答えられる。(新共同訳:)遠い海、地の果てに至るまで/すべてのものがあなたに「依り頼みます(ミブタハ:避難所、拠り所)」。
罪を自覚し、御前に泣きついて礼拝に来る人には、主は、祝福で答えられるが、神を恐れず、神の民を苦しめる者に、主は、恐ろしさをもって、その栄光を表される。
かつてエジプトは、イスラエルの民を430年もの間、奴隷として扱い、それでいて、自分が犯した悪のわざを一切悔い改めなかったが、神はエジプトに対し、恐ろしい災いで御力を表した。
しかし、イスラエルに対しては、救いと贖いの神としてあらわされた。
65:6 あなたは大能を帯び、そのみ力によって、もろもろの山を堅く立たせられる。
65:7 あなたは海の響き、大波の響き、もろもろの民の騒ぎを静められる。
海は、定まりのない恐ろしい所を、または、不信仰の世界を象徴する。
そのような、主を敬わない国民には、「騒ぎ」がある。
しかし主は、その大能の御力によって、それら全ての騒ぎを鎮められ、そして諸々の山を堅く立たせるお方。
65:8 それゆえ、地のはてに住む人々も、あなたのもろもろのしるしを見て恐れる。あなたは朝と夕の出る所をして/喜び歌わせられる。
朝と夕の出る所とは、すなわち、一日の初めから終わりまで、そして東の果てから西の果てまで、すなわち世界の隅から隅までをあらわす。
すなわち主は、世界の隅々までを支配し、人々を恐れ敬うようにさせ、また喜び歌うようにさせてくださる。
9節以降は、罪を悔い改め神の民とされた人々に与えられる、収穫の祝福が記されている。
65:9 あなたは地に臨んで、これに水をそそぎ、これを大いに豊かにされる。神の川は水で満ちている。あなたはそのように備えして/彼らに穀物を与えられる。
人が主に立ち返り、その罪が覆われると、主は、その地を豊かに実らせるための、下ごしらえをされる。
65:10 あなたはその田みぞを豊かにうるおし、そのうねを整え、夕立をもってそれを柔らかにし、そのもえ出るのを祝福し、
夕立と訳された語は、申命記11:14の「先の雨」である。
『わたしは季節にしたがって、あなたがたの地に雨、先の雨と後の雨を与えよう。あなたは、あなたの穀物と新しいぶどう酒と油を集めよう。』(申命記11:14)
この先の雨は、ユダヤの地で10-11月に降り、土地を柔らかにし、種から芽を出させ、その年に萌え出る苗の量を左右する、重要な雨である。
65:11 またその恵みをもって年の冠とされる。あなたの道にはあぶらがしたたる。
あぶらと訳された語「デシェン」は、豊かさや脂肪を意味する。
せっかくたくさんの芽が萌え出たとしても、その後の雨がなければ、枯れてしまう。
その後の実りをさらに豊かにしてくれるのが、申命記11:14に出てきた「後の雨」である。
この「後の雨」は、3-4月に降って、根付いた苗の実りを豊かにする、いわば木々に果実という「冠」を与える雨である。
この、先の雨と後の雨の両方が主から送られる事によって、その年の実りが豊かになるのだ。
これによって地が潤されると、家畜が食べる草も豊かに生え出て、家畜たちも命がみなぎるようになる。
65:12 野の牧場はしたたり、小山は喜びをまとい、
65:13 牧場は羊の群れを着、もろもろの谷は穀物をもっておおわれ、彼らは喜び呼ばわって共に歌う。
主を敬う民は、確かに、このように祝福される。
しかし、イスラエルが主を無視して別の神々を拝んでいた時代には、例えば、アハブやイゼベルの時代には、先の雨も後の雨も一切降らず、地につゆさえ降らなかった。
主はそれでも、悔い改めて立ち返る人には、豊かに雨を返してくださる。
レビ記26:3 もしあなたがたがわたしの定めに歩み、わたしの戒めを守って、これを行うならば、
26:4 わたしはその季節季節に、雨をあなたがたに与えるであろう。地は産物を出し、畑の木々は実を結ぶであろう。
26:5 あなたがたの麦打ちは、ぶどうの取入れの時まで続き、ぶどうの取入れは、種まきの時まで続くであろう。あなたがたは飽きるほどパンを食べ、またあなたがたの地に安らかに住むであろう。
26:6 わたしが国に平和を与えるから、あなたがたは安らかに寝ることができ、あなたがたを恐れさすものはないであろう。わたしはまた国のうちから悪い獣を絶やすであろう。つるぎがあなたがたの国を行き巡ることはないであろう。
26:7 あなたがたは敵を追うであろう。彼らは、あなたがたのつるぎに倒れるであろう。
26:8 あなたがたの五人は百人を追い、百人は万人を追い、あなたがたの敵はつるぎに倒れるであろう。
26:9 わたしはあなたがたを顧み、多くの子を獲させ、あなたがたを増し、あなたがたと結んだ契約を固めるであろう。
26:10 あなたがたは古い穀物を食べている間に、また新しいものを獲て、その古いものを捨てるようになるであろう。
主に聞き従い、その言葉を守り行い、御言葉に約束された祝福に、豊かなあずかっていく皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!
主日礼拝
助け主が来るなら、私達も癒しの奇跡ができる!(マルコ9:23)
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週報/メッセージ(説教)概要
ペンテコステ前、マルコの部屋に集った聖徒達は、イエス様が約束して下さった助け主・聖霊がすぐ来る事を期待し、来たなら、自分達もイエス様がしたわざをする事ができる、いや、それ以上の事ができる!と、ありありと思い巡らし、待ち望み続けた結果、実際にペンテコステの日に与えられ、実際にわざを行った。
これは今の私達にも起きる事である。むしろ、今の時代の日本こそ、聖霊によるしるしや奇跡が必要である。
なぜなら、そのわざによって、神を知らなかった人が、神を知るようになり、信じなかった人が信じて、救われるようになるためである。だから今、私達も、あの時代の使徒にならい、イエス様の奇跡をありありと自分のものとするため、聖書を開いて、イエス様がなされた奇跡を一つ一つ確認し、助け主が来るならば、これらは2020年を生きる今のわたしにも起きる!と、信仰を混ぜつつ思い巡らし、自分のものとして行きたい。
福音書でイエス様がなされた奇跡の内、最も多かったのが、癒しの奇跡である。イエス様が行かれた所では大勢の病や、悪霊憑きや、てんかんが、癒された。(マタイ4:23、8:14、マルコ1:29、ルカ4:38、6:17)
らい病を患っている人は、それが清められ(マルコ1:40、ルカ17:11)、皮膚の病は癒された。 (ルカ14:1)
また、手や足が萎えた人など、完全でなかった体が、完全にされた。 (マタイ12:9、マルコ3:1、ルカ6:6)。
また、弟子が勝手に切り落としてしまった耳を癒やし、弟子の不始末の責任を取られた(ルカ 22:50)。
また主は、御言葉の宣言によって遠隔地の人を癒された。主は、「お言葉さえ頂ければ(たとえ面と面を向かっていなくても)癒やされる」、という百人隊長の信仰通り、彼のしもべを癒され(マタイ8:5、ルカ7:1)、また、王室の役人の息子も、遠隔地から癒しを宣言したちょうどその時、息子は癒やされた。(ヨハネ4:43)
また、第三者の執り成しを聞き入れて癒やされた事も多々あった。(マタイ14:34、9:1、マルコ6:53)
主は個人個人に、その癒す相手に応じ、それぞれ個別の対応をされた。主は、ベテスダの池で38年、病で苦しんでいる人を癒し(ヨハネ5:1)、耳が聞こえず舌の回らない人の耳には、指を差し入れ、唾をつけて舌に触れ、「エパタ」と言って耳を開き、舌のもつれを解かれた(マルコ7:32)。また、見えない人の目に唾をつけて癒し、さらに人が木のように見えてしまう目を、はっきり見える目へと癒した (マルコ8:22)
生まれつきの盲人の目に泥を塗って、シロアムの池で洗うようにと指示し、彼がその通りすると、見えるようになった(ヨハネ9:1)。また、盲人バルティマイの「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」という叫びに応じ、癒して下さった(マタイ20:29、マルコ10:46、ルカ18:35)。このケースのように、主は癒やされた時、「あなたの信仰があなたを救った」と、よく言われた(マタイ9:22、マルコ5:34、ルカ7:50、8:48)。
また、自分自身の信仰一つで、主から癒しを引き出してしまったケースもあった。十二年間長血を患っていた女は後ろから主の衣の房に触れて癒しを引き出し(マタイ9:18、マルコ5:25、ルカ8:40)、また、ツロ・フェニキヤの女は、主の言葉を掴んだ信仰告白によって、娘の癒しを主から引き出した。(マルコ7:26)
私達も助け主が来て、聖霊に満たされるなら、これら全てのわざを行い、またそれ以上の事をするのだ!
悪霊やてんかんによって悩まされているだろうか?助け主が来るなら、それらをイエスの名によって癒す事ができる! 皮膚の病や、人から「汚れている」と言われる病を持っているだろうか?助け主が来るなら、それらを清められる! 手足など肢体の完全さを失ってしまっているだろうか?それらも癒す事ができる!
目がはっきり見えないだろうか?人が人として見えず、木が歩いているかのように見えてしまうだろうか?助け主が来るなら、そのような人を癒やす事ができる! 助け主が来るなら、12年来でも38年来の病でも、長年治らなかった病が癒せる! 助け主が来るなら、耳や目が塞がれている人に「エパタ!」と言って開く事ができる! 舌がもつれてうまく言えない舌も、解ける! 弟子が犯した不始末の責任を、癒しによって補償できる!そうして癒しのわざを人々が見るなら、主が確かに生きて働かれる事を知り、衣の房を触れるだけで癒しを引き出したり、あるいはパウロのように、前掛け布をかざすだけで、癒やす事も、起こるだろう。
今まで、こう言うのは「おこがましい」、癒しはイエス様の専売特許で、イエス様なら出来ても自分には出来ない、と言って来たのは、私達・信じる者にも与えられていた特権を制限する事だったと反省しなくてはならない。聖書に書いてある内容で、「まさかここまではできないだろう」と思えていた事は、どんどん「聖霊が来るなら自分にもできる!」と塗りつぶして行き、主のわざを実際に行っていく皆さんでありますように!
自分の罪の報いを受けている最中でも、何度でも主に泣きついたダビデ(詩篇61-62篇)
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- pastor 2020-6-3 18:00
詩篇63篇表題『ユダの野にあったときによんだダビデの歌』
これは、アブシャロムがダビデにクーデターを起こし、ダビデがユダの荒野へ逃げざるを得なくなった時に詠んだ詩である(2サムエル記16:2)。
ダビデは、彼自身が犯した姦淫と殺人の罪の故、彼の子たちもまた、子供たち同士で姦淫や殺人を犯すようになり、父ダビデの煮え切らない態度の結果、息子アブシャロムはクーデターを起こしてしまった。
いわば、自分の身から出た錆である。
しかし、ダビデは、「自分はもう罪を犯したので、主に合わせる顔がない」などと、主から離れる事はせず、かえって、熱烈に主に泣きつき、主に助けを求めた。
あたかも、泥だらけになって汚れた子供が、親に泣きつくように。
親を慕っている子は、自分が泥だらけになった時、「自分はもう汚れてしまったから、親に合わせる顔が無い」などとは言わず、逆に、親に泣きついて行くものだ。
まことの父なる神様も、それを願っておられる。
だから私達は、どんな罪を犯し裏切ったとしても、何度でも神に立ち返るべきなのだ。
詩篇63:1 神よ、あなたはわたしの神、わたしは切にあなたをたずね求め、わが魂はあなたをかわき望む。水なき、かわき衰えた地にあるように、わが肉体はあなたを慕いこがれる。
ダビデは、は、岩砂漠の荒野にて、水に渇く以上に、主に対して渇いており、神に「あなたはわたしの神」と呼んだ。
主は、それほどまでに主を慕い求め、積極的に関って行こうとする人を、ご自身のものとし助けてくださる。
詩篇63:2 それでわたしはあなたの力と栄えとを見ようと、聖所にあって目をあなたに注いだ。
彼は、ユダの荒野にいるはずで、そこには聖所は無いはずである。
ではなぜ、彼は「聖所にあって目をあなたに注いだ。」と言ったのか?
もし、主を「わたしの主」とし、砂漠で水を求めるように、主を慕い求めるなら、そこが聖所と化すのである。
ダビデは、この荒野の聖所で、素晴らしい賛美を捧げる。
詩篇63:3 あなたのいつくしみは、いのちにもまさるゆえ、わがくちびるはあなたをほめたたえる。
63:4 わたしは生きながらえる間、あなたをほめ、手をあげて、み名を呼びまつる。
心の底からの賛美は、「あなたのいつくしみは、いのちにもまさる」という実感から出て来る。
そして、その慕い求める心からの賛美を捧げる時、主は、甘く麗しい感覚をもって答えてくださる。
賛美や礼拝が「お勤め」になっている人にとっては、永遠に賛美をささげる天国は、つまらない所に思えるかもしれない。
しかし、こんなにも罪深い自分を、こんなにも素晴らしい天国へ入れてくれたという心の底からの感謝と賛美を、永遠に捧げられる天国は、じつに甘く麗しい、喜びに満ちた所なのだ。
天国にて、24人の長老たちが、冠を自分の頭から外して、主の御前に投げ出したのは、自分の頭なんかに冠があるなど、とてももったいない、一刻も早く、主こそが冠を受けるに相応しいお方だ、と表現したいのではないだろうか。(黙示録4:10)
天国でも、自分は罪を犯して生きてきた、という記憶がある。
なぜなら、
罪を犯した記憶、そして、そんな自分さえ赦されたという記憶なしには、感謝は生まれないからである。
だから、今私達の罪の記憶が消えていない理由は、自分は罪深いのだと自分に言い聞かせて苦しむためではなく、むしろ、こんな自分を赦して下さった事を、主に感謝するためである。
詩篇63:5 わたしが床の上であなたを思いだし、夜のふけるままにあなたを深く思うとき、わたしの魂は髄とあぶらとをもって/もてなされるように飽き足り、わたしの口は喜びのくちびるをもって/あなたをほめたたえる。
63:7 あなたはわたしの助けとなられたゆえ、わたしはあなたの翼の陰で喜び歌う。
63:8 わたしの魂はあなたにすがりつき、あなたの右の手はわたしをささえられる。
ダビデは、息子アブシャロムが起こしたクーデターのゆえに、逃げている最中である。
状況からして、到底眠るどころではないはずなのに、彼は床の上で横にり、しかも魂は豊かにもてなされるかのように満ち足りていて、彼の口は、喜びをもって主をほめたたえている。
それは、彼が主を思い、主の御言葉を思い巡らした故に、そこが御翼の陰、平安に満ちた所となり、いかに荒野で敵に追い回されている最中であっても、安らかな眠りが与えられたからだ。
もし私達が、過去や現在、将来起こるであろうあの事この事や、あるいはあの人・この人の言葉を思い巡らすなら、どんなにそこがセキュリティの確保されたホテルであっても、不眠症になってしまう。
63:9 しかしわたしの魂を滅ぼそうとたずね求める者は/地の深き所に行き、
63:10 つるぎの力にわたされ、山犬のえじき(メナート:分前、相続)となる。
この時、ダビデの魂を滅ぼそうとする者はアブシャロムであったが、彼はダビデはずかしめるために、公然と父ダビデの側女と寝たり、策略を巡らして父親を殺そうと追い回したり、と、律法では死に値する事を平気で行った。
その結果、彼は木に吊るされた状態、すなわち、呪われた状態のまま、なぶり殺されてしまった。
主に憎まれる事をあえてするような者は、山犬のえじき(相続分)となってしまうのだ。
63:11 しかし王は神にあって喜び、神によって誓う者はみな誇ることができる。偽りを言う者の口はふさがれるからである。
神からの約束に従って忠実に歩もうとする人は、真理の内に歩み、つまづく事なく、その道は確かである。
しかし、偽りを言う者は、その口が塞がれてしまうのだ。
続く詩篇64篇は、口達者な悪者に対抗する詩篇である。
もし自分は言葉巧みではない、けれども相手は悪辣な言葉を朗々と操るのに長けていて、言葉では勝ち目がない、という場合は、この詩篇を宣言すると良い。
詩篇64篇表題『指揮者のために。ダビデの賛歌』
64:1 神よ。私の嘆くとき、その声を聞いてください。恐るべき敵から、私のいのちを守ってください。
64:2 悪を行なう者どものはかりごとから、不法を行なう者らの騒ぎから、私をかくまってください。
この詩も、神への訴えで始まる。
64:3 彼らは、その舌を剣のように、とぎすまし、苦いことばの矢を放っています。
64:4 全き人に向けて、隠れた所から射掛け、不意に射て恐れません。
ダビデを攻める者達は、舌が達者で、苦い言葉をダビデにめぐらして、彼を苦しめている。
実際、アブシャロムは口達者な者だった。
彼は長年、ダビデを貶めるうわさ話を周到に巡らす事によって人々をダビデに敵対させ、また、甘い言葉で人心を買い、そうして長年の準備が整った時、彼はクーデターを起こした。
64:5 彼らは悪事に凝っています。語り合ってひそかにわなをかけ、「だれに、見破ることができよう。」と言っています。
64:6 彼らは不正をたくらみ、「たくらんだ策略がうまくいった。」と言っています。人の内側のものと心とは、深いものです。
彼らは、悪において長けている。
互いに談合し合意の上で、ひそかに罠を仕掛け、それを「だれに、見破ることができよう。」「たくらんだ策略がうまくいった。」と言っている、いわば、確信犯である。
意図して悪いたくらみをし、そうして成り上がって行こうとする事において、長けた者達である。
そのような者が、悪い力を駆使して攻め寄せて来る時、私達も、詩篇64篇の内容で、主に訴えるのだ。
特に、相手が主に忌み嫌われるような偽りや不正で立ち向かって来るなら、主の軍配は私達の側に上がり、以下のように扱って下さる。
64:7 しかし神は、矢を彼らに射掛けられるので、彼らは、不意に傷つきましょう。
64:8 彼らは、おのれの舌を、みずからのつまずきとしたのです。彼らを見る者はみな、頭を振ってあざけります。
そう、彼らが不正をする時、その不正が、彼らを攻め立てる口実となる。
偽りを言うなら、その偽りを言った口が、彼らを攻め立てる材料となる。
だから私達は、悪者の道に足を踏み入れるべきではない。
箴言1:19 利得をむさぼる者の道はすべてこのようだ。こうして、持ち主のいのちを取り去ってしまう。
1:20 知恵は、ちまたで大声で叫び、広場でその声をあげ、
詩篇64:9 こうして、すべての人は恐れ、神のみわざを告げ知らせ、そのなさったことを悟ります。
64:10 正しい者は主にあって喜び、主に身を避けます。心の直ぐな人はみな、誇ることができましょう。
主は、悪者が報いを受ける事によっても、栄光を受けられる。
その報いを人々が見る時、義なる神が生きておられ、悪人は必ず滅びるのだ、と、世界は知るようになる。
事実、ダビデをあなどったアブシャロムは、誰が見ても呪われた死に方をして、主がダビデに軍配を上げて下さった事を、全国民は知った。
確かに私達も、罪を犯した者達で、主から守られるに値しないように見えるかもしれない。
しかしたとえ罪を犯した者であったとしても、悔い改めて何度でも主に立ち返り、主に泣きつき、主により頼む人を、主は弁護し、保護してくださる。
人から来る圧迫のただ中でも平安と喜びを湧き上がらせる方法(詩篇61-62篇)
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- pastor 2020-6-1 20:20
詩篇 講解説教
人から来る圧迫のただ中でも平安と喜びを湧き上がらせる方法(詩篇61-62篇)
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詩篇61-64篇の背景は、アブシャロムがダビデに対してクーデターを起こし、ダビデはユダの荒野に逃げざるを得なくなった時のものと思われる。(63篇表題)
強い敵が追い迫って来た時、人から圧迫され続けている時、私達はどのように乗り切るか。その術を、この一連の詩篇から学びたい。
詩篇61篇表題『聖歌隊の指揮者によって琴にあわせてうたわせたダビデの歌』
61:1 神よ、わたしの「叫び(リナー)」を聞いてください。わたしの祈に耳を傾けてください。
「叫び(リナー)」とは、金切り声、甲高い叫びである。
ダビデは、金切り声を上げざるを得ないほどの圧迫に瀕していたが、その金切り声を単に響かせるのではなく、主に向かって、叫んだ。
何事も、金切り声さえも、主に向かう事。それこそダビデの道である。
詩篇61:2 わが心のくずおれるとき、わたしは地のはてからあなたに呼ばわります。わたしを導いて/わたしの及びがたいほどの高い岩に/のぼらせてください。
61:3 あなたはわたしの避け所、敵に対する堅固なやぐらです。
61:4 わたしをとこしえにあなたの幕屋に住まわせ、あなたの翼の陰にのがれさせてください。〔セラ
アブシャロムに追われて、ユダの荒野にいる彼は、まさに、地の果てにいる心地だったろう。
私達も、圧迫するようなもの、事、状況を前にした時、ダビデのように主に叫び、全ての重荷を主に委ねるなら、そこがたとえ地の果てであろうと、あるいは、いつもの職場や家庭であろうと、そこは主の幕屋となり、また、主の翼の陰となる。
詩篇61:5 神よ、あなたはわたしのもろもろの誓いを聞き、み名を恐れる者に賜わる嗣業を/わたしに与えられました。
ダビデは宣言した。嗣業は既に与えられました、と。
まだ実体として得ていないのに、主の御言葉を盾にとって、信仰を混ぜて「得た」と宣言する。すると、実際にすぐ与えられた、という証を、信仰者はよくする。
それは確かな事である。次のように書いてある。
『信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである。』(ヘブル11:1)
詩篇61:6 どうか王のいのちを延ばし、そのよわいをよろずよに至らせてください。
61:7 彼をとこしえに神の前に王たらしめ、いつくしみとまこととに命じて/彼を守らせてください。
ダビデは、王のいのちを伸ばしてくださいと祈ったが、神の国に生きる王は、世の王とは全く違う。
世の王は、人々の上に立って権力をふるい、好き勝手に支配できるため、誰もが王様になりたがる。
しかし、神の国の王たる者は、そうであってはならない。
イエス様は言う。神の国における王たる者は、皆に仕える者、しもべになりなさい、と。
『人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためであるのと、ちょうど同じである。』(マタイ20:28)
私達・主イエスを信じる者は、事実、王である。
王として、民を良い政治を行って幸いにし、神の敵と戦い、悪い者から支配権を奪還し、神の統治をもたらさなくてはならない。
ダビデは彼の告白を主に申し上げ、訴えた結果、平安が与えられ、賛美が生まれた。
詩篇61:8 そうすればわたしはとこしえにみ名をほめうたい、日ごとにわたしのもろもろの誓いを果すでしょう。
彼は告白した。とこしえに神と共に住まい、いつまでも永遠に主をほめたたえる、と。
それだけでなく、地上における残された日々も、いつも主に対しての誓い(ネデル:約束)を果たしていく、と。
これは、うるわしい主に対する私達の告白でもあるべきである。
そして、力強い信仰宣言に満ちた62篇へと続く。
詩篇62篇表題『聖歌隊の指揮者によってエドトンのしらべにしたがってうたわせたダビデの歌』
62:1 わが魂はもだして「ただ(アク)」神をまつ。わが救は神から来る。
62篇の1,2,4,5,6節は、「アク」というヘブライ語で始まる。
「アク」は肯定の助詞で、日本語では「ただ」「こそ」「まことに」など、強い肯定を表現する。
詩篇62:2 神「こそ(アク)」わが岩、わが救、わが高きやぐらである。わたしはいたく動かされることはない。
神を「わが岩、わが救、わが高きやぐら」と呼ぶのは、ダビデに特徴的な宣言だが、これを、ダビデだけの宣言で終わらせてはならない。
私達自身の宣言にするべきだ。
詩篇は、全人類が直面するあらゆる問題に対処できる祈りが、記されているからだ。
詩篇62:3 あなたがたは、いつまで人に押し迫るのか。あなたがたは皆、傾いた石がきのように、揺り動くまがきのように人を倒そうとするのか。
62:4 彼らは人を尊い地位から落そうと「のみ(アク)」はかり、偽りを喜び、その口では祝福し、心のうちではのろうのである。〔セラ
ダビデは、このような者によって、苦しめられていた。
人を、尊い地位から落そうとはかり、偽りを喜び、その口では祝福しても心のうちではのろうような者達に。
神を恐れぬ者や良心が麻痺している者は、今にも倒れそうな石垣を見ると、倒したい衝動に駆られる。
いじめられっ子がいじめられているのを見たら、嬉しくなって、一緒にいじめに参加するのだ。
それら、破壊したい、殺したい、倒したいという衝動、は、サタンから来る。
私達は、忘れてはならない。
主はそのような弱者が虐げられているのを黙って見ておらず、特に、ダビデのように、主に叫び求める者の声を、主は聞いて下さるのだ、と。
ダビデに敵対した者達の末路を見れば、その者達が最後はどうなるかがわかる。
詩篇62:5 わが魂はもだして「ただ(アク)」神をまつ。わが望みは神から来るからである。
62:6 神「こそ(アク)」わが岩、わが救、わが高きやぐらである。わたしは動かされることはない。
62:7 わが救とわが誉とは神にある。神はわが力の岩、わが避け所である。
この世の中で、最も敵に回してはならない人とは、力ある人でも、お金持ちでもない。
ダビデのように、何かあったらすぐに主に走って行き、泣きつき、訴え、御言葉を宣言する人だ。
ダビデはその事を、人々に模範として示すために詩篇を書いている。
詩篇62:8 民よ、いかなる時にも神に信頼せよ。そのみ前にあなたがたの心を注ぎ出せ。神はわれらの避け所である。〔セラ
これが、真の王が宣言すべき言葉である。
真の王とは、人々の心を、まことの神である主へと向けるようにと、支配する王である。
詩篇62:9 低い人はむなしく、高い人は偽りである。彼らをはかりにおけば、彼らは共に息よりも軽い。
ダビデは宣言した。
人は、むなしい。身分が低い人も、高い人も、ともどもに。彼らを全部まとめても、息よりも軽い、と。
そうであるからには、「息よりも軽い」人間による「息よりも軽い」いじめ言葉や、「息よりも軽い」者の嫌がらせに、目を留めても仕方ない。
私達は、永遠に土台として残るイエス・キリストの言葉にこそ目を留め、そこに土台を据えるのだ。
その土台に立つ時、私達は、そうした「軽い」物事は一切、問題ではなくなる。
詩篇62:10 あなたがたは、しえたげにたよってはならない。かすめ奪うことに、むなしい望みをおいてはならない。富の増し加わるとき、これに心をかけてはならない。
しいたげも、かすめ奪う事も、力づくで人を圧迫する事であり、そこに生活基盤を置いてはならない。
圧迫された人が、主に叫ぶ時、主が、その者達に敵対されるからだ。
富は、使ってしまえばなくなってしまう。
そのようなものにも、人生の基盤を置いてはならない。
人生の基盤は、永遠のいのちの源である主にこそ置くべきだ。
62:11 神はひとたび言われた、わたしはふたたびこれを聞いた、力は神に属することを。
話すための口はひとつ、聞くための耳は2つである。
タルムードによれば、神は人を、口を使うよりも神の言葉を耳で二倍聞くように、そのように創造されたという。
私達はただ一つ、神の口から出る言葉をこそ、この二つの耳をよくかたむけて聞くべきである。
最後にダビデは願う。
詩篇62:12 主よ、いつくしみもまたあなたに属することを。あなたは人おのおののわざにしたがって/報いられるからである。
もし主が、人のおのおののわざに従って報いていたなら、誰一人、生きながらえる者はいない。
しかし、主イエス様の贖いによって、赦しと救いを得た。
だから私達もダビデのように、ほめたたえるのである。
詩篇61:8 そうすればわたしはとこしえにみ名をほめうたい、日ごとにわたしのもろもろの誓いを果すでしょう。
主のあわれみ、主の素晴らしさを体験し、味わい、実感し、そうして感動した心をもって、人々に主の素晴らしさ伝え、そして王として、人々に憐れみの統治をしていく皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!