メッセージ - 202605のエントリ
エステル記1章12-22節
メッセージ音声
【概要】
王妃ワシティが王の呼びかけを拒んだことで王妃の座を失った出来事を通して、私たちがキリストの花嫁として主の呼びかけにどう応答すべきかを学ぶメッセージ。真の美しさとは外見ではなく、従順で柔和な心であることが示されている。
【聖書箇所】
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エステル1:12-22
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第一サムエル15:22-23
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第一テモテ2:9-11
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エゼキエル28章(ルシファーについて)
【戒めの言葉】
高慢は滅びに先立つ。王妃ワシティのように、立場や美しさのゆえに高ぶることは、神の呼びかけを拒むことにつながり、結果として祝福を失うことになる。
【勧めの言葉】
主の呼びかけに対して、「主よ、はい、ここにおります」と即座に応答する心を持つべきである。エステルのように「王様、もしあなたのお心にかなって、そしてあなたが良しと思うのでしたら」という従順な姿勢が真の美しさである。
【悔い改めの促しの言葉】
私たちは時として、自分の働きや立場を誇り、主に指図するマルタのようになってしまう。自分の使命に心が急ぎ、御言葉に集中している人々を呼び出してしまうこともある。主の御前に謙遜に立ち返る必要がある。
【***詳細***】
エステル記1章12節から22節、初めに12節を宣言します。「しかし、王妃ワシティは宦官から伝えられた王の命令を拒み、来ようとはしなかった。そのため王は激しく怒り、その憤りは彼のうちで燃え立った」。
エステル記の1章は、一人の王妃が王の呼びかけに応じなかったということが発端になって、物語が展開していきます。この王妃ワシティは、たった一度の王の招きに応えなかったことが、王妃の冠を失ってしまうほどの結果を招いてしまいました。
本当に私たちにとっての王はイエス様です。この王妃ワシティも、このアハシュエロス(クセルクセス)王も人間の王、人間の王妃でした。しかし私たちにとっての王、少なくとも私たちはキリストの花嫁であり、そしてイエス様が私たちの王です。今日のところにおいて、王が皆さんに呼びかけるとき、皆さんはどのように答えるべきかということを示しております。
このエステル記の1章は、まばゆい宴会から始まりました。このペルシア帝国は、当時インドからクシュ、アフリカのエチオピアの方面まで治める大帝国、127州を治める当時最大級の帝国でした。その王宮の中において物語が始まります。180日もの間、自分の栄光と富を誇るために宴会が開かれ、そしてさらに7日間、この王宮の庭園で全市民を招いての宴会が行われていました。
その宴会7日目のことです。王はぶどう酒で心が陽気になって、それで王妃ワシティを呼びます。王妃の冠をかぶってみんなの前に出なさい。確かにこの時の王様は酔っておられました。けれども、この王が王妃を呼んだ理由は、彼女の容姿が素晴らしかったので、その美しさを民と首長たちに見せるためであったというふうに書かれてあります。
私たちの主イエス様は、私たちが贖われた時に、私たちのことを美しいというふうに呼んでくださいます。王冠をかぶらせてくださいます。本当に私たちもイエス様が、美しい花嫁よ、出ておいで、王冠をかぶって出てきなさい、もう嘆き悲しむことはやめて出てきなさい、と画家所の花婿のように呼びかける時、皆さんはしっかりとそのところから出て、王冠をかぶって出てくるべきなんです。
けれどもワシティは、この時王様がその美しさを見せなさい、王冠をかぶって出てきなさいという呼びかけに対して、それを拒みました。拒んだということを王様が聞かされた時、王様は激しく憤って、その怒りが燃え上がったのです。
このワシティとしては、ちょっと気分が乗らなかったかもしれません。なんかまた酒の肴にされるみたいなことを思ったかもしれません。あるいは、この王妃自身も女性たちの中で宴会を開いていた女性たちの間で何か話し合われていたのかもしれません。とにかく彼女は拒みました。王様のこのお言葉を拒否しました。
ここまでは大丈夫だろうという、そういったことをもしかしたら試したのかもしれません。昨日、試みという言葉について聞きましたね。試みというのは、子供が親の「してはなりません」という線にちょっとだけ、半歩だけ出て、それで親を試してみて、親が厳しい態度を取らなかったら「ああ、ここはいいんだ」と、よしここの線は確保したということで線を越え、またさらにその次の線をちょっと試してみる、ということをよくしてきます。王妃ワシティも、王様のこの呼びかけに今日はちょっとそれに応じないことを試してみようか、もしかしたらそういうことだったかもしれませんが、しかしこれが、この一度が王の怒りを招いてしまったんです。
しかも結果的には、これによって会議が召集されて、それで知恵のある人々に王様は聞いて、その会議の中で決定されたことは、この王妃ワシティはとても良くないことを王様にした、王様にしたばかりでなく王国全体に対して良くないことをしました、と。もしこのワシティが王様の呼び出しを拒絶したということが王国中に知れ渡れば、王国中のその妻たちが、王妃ワシティが夫の声を拒否したということで、甚だしい蔑みと怒りが生じるでしょう。なので、ぜひ王様こういうふうにしてください。もう王妃ワシティは王の前に進み出てはならないというお触れを出して、そしてこのことにきっちり対処するのであるならば、王国中のその妻たちは夫を軽んじることをやめるでしょう、ということがこの会議の中で出されました。
それでそれが全員の心にかなったんです。こうしてワシティは、この時もう二度と王の御前に出ることができなくなってしまって、そしてこのことが王国中に触れ広められました。
ここで本当に考えたいです。王妃という、本当に女性として最高の立場にいた人が、その座をなぜ失ってしまったのか。聖書全体を見渡すと、同じ落とし穴に落ちた存在がもう一つあるんです。それはエゼキエル書28章の方を見るとあるんですけども、もともと美の極みであった御使いルシファーです。ルシファーはもともととても美しい天使でした。けれども、その美の極み、それによって高慢になって、自分も神々の座に、神々と同じ立場になろうということで、その心が高慢になったゆえに、彼は投げ落とされたというふうに書いてあります。
本当に私たちはここから悟るべきです。本当にこの高慢が滅びに先立つものです。滅びというものは何か外側の罪というよりも、いつも私たちの内側から湧き上がって、特にこの高ぶり、高慢、これが私たちを滅ぼしてしまうことになります。
美しいこと、これは罪ではありません。立場が高いことも、それは良いでも悪いでもないんです。ただ、その高い立場を用いて、この王のために働くべきではあるんですけども、問題はその立場、美しさ、それのゆえに高慢になってしまって、私はできるから、私は美しいから、それが高慢になってしまって、そのゆえに高ぶった心のゆえに身を滅ぼしてしまうということ。これが本当に私たち自身、気をつけなくてはなりません。
私たちはワシティほど美しくはないかもしれませんけれども、本当にこの高慢というもの、私、優れているからというこの心、私、他の人よりも特別だからというこの心が滅びに先立ってしまうわけです。それでその高慢が、このワシティの高慢は、王様から呼び出された、それに対して私、王妃だよ、私、王様に並ぶ、その右左に並ぶものだよ、というそういう高慢があったんです。それで王様の呼びかけに答えないという形で表に現れました。
この王様は結局怒りに燃えましたけれども、結局このことを通してワシティは王妃という座が取り上げられてしまいました。
冒頭で宣言した言葉が第一サムエル記15章22節から23節なんですけども、そこにおいて宣言しました。「聞き従うことは生贄に勝る。聞き従うことは牡羊の脂肪に勝る。けれども、背くことは占いの罪、また強情を張ることは偶像礼拝に等しい」。強情ですね。これは偶像礼拝に等しいんです。新改訳の方では「まことに背くことは占いの罪、従わないことは偶像礼拝の罪だ」。この従わないこと、これ強情なんです。
強情を貫き通すことは偶像礼拝の罪に等しいということです。私たち、本当にこの御言葉を前にして強情を張ったら、偶像礼拝と等しくなってしまうんです。
私たちにとっての王の王はイエス様です。イエス様は皆さんのその働きっぷりよりも、むしろ従順であること、イエス様は皆さんのことを求めておられ、その従順を美しいというふうに呼んでくださるんです。
マリアとマルタがおりましたね。マルタお姉さんの方は仕事ができる人でした。仕事を優先させて、イエス様の足元に座ってイエス様のお言葉に聞き入っているマリアを指さして、「ちょっとこのマリアが何も働かないで、私だけ働いているの、それなんともお思いにならないのですか。なんか一言言ってあげてください」ってイエス様に進言したら、イエス様は「マルタ、マルタ」って2回も名前を呼んで、「あなたはいろんなことで心を忙しくしているけど、しかしマリアは何よりも一番大事なことを選んだんですよ。マリアからそれを取り上げないでください」っていうふうに言ったんです。
私たち、忙しくなったり、また仕事ができたり、もろもろするとね、本当にイエス様にさえも指図をしてしまうようになってしまう。本当に私たちはよく気をつけるべきです。イエス様は本当に優しいお方で、マルタに「お前は指図するのか」とか、そういうことは言わないで、「マリアから一番いいものを取り上げないでください」っていうふうに、本当に私たちイエス様に習いたいですね。イエス様のお心、習いたいものです。
私たちは何かと、つい「私、これだけしております。これだけの奉仕をしています」っていうことを言いたがりなところはあるかもしれません。けれども、第一テモテ2章9節から11節には書いてあること、それは本当に私たちキリストの花嫁としてどのように立ち居振る舞うべきか書いてあります。「同じように女も慎ましい身なりで、控えめに慎み深く身を飾り、派手な髪の形とか金や真珠や高価な衣服によってではなく、むしろ神を敬うと言っている女にふさわしく、良い行いを自分の飾りとしなさい」。
本当に良い行い、これが私たちの飾りなんです。真珠や高価な諸々で身を飾るということよりも、主の目に本当に美しい飾りというのは、柔和で穏やかな心を持って良い行いで自分を飾ること。これが主の御前において何よりも美しい飾りなんです。
ですから本当に神様の御前における真の美しさ、それは外見でもない、お化粧でもなく、またあるいは高価な立場でもありません。本当にこの主からお呼びがかかったらすぐにお答えする。「主よ、はい、ここにおります。主よ、おっしゃる通りにいたします」というその心、それが聖書的な美しさです。
エステルにはそれがありました。エステルは一度も王様に「私それしたくありません」とかそういったこと言いませんでした。エステルの口癖は「王様、もしあなたのお心にかなって、そしてあなたが良しと思うのでしたら」という言葉で、エステルはいつも始めたんです。
本当に私たちもイエス様の御前において、「イエス様、もしあなたの御心でしたら、イエス様、あなたが主人です。あなたの御心がなりますように」。それがエステルの美しさ、真の美しさ、このワシティにはない美しさ。それはこの柔和で穏やかな心、従順な心。これは本当にエステルの美しさです。私たちは本当にこのエステルの美しさを身につけるべきです。
聖書は教会のことをキリストの花嫁というふうに呼んでますね。エペソ書でもそういうふうに言ってます。黙示録においても、私たちは花嫁だっていうふうに言っております。私たち、キリストの花嫁であるとするならば、本当に主がお呼びになる時はすぐに御前に従順な心を持って進み出るべきです。
このワシティは本当にこの高慢が先立って身を滅ぼしてしまいました。エステルはこの従順な心ゆえに王様から愛されました。私たちは真の王であるイエス様から、本当にこの従順な心を持って、真の王であるイエス様から愛される、そのたしなみをしっかりと身につけて、本当にイエス様から王冠がかぶせられて、「さあ美しい人よ、さあ出ておいで」、その呼びかけに応じて、イエス様の御前に、本当にこのキリストから与えられた飾り、柔和な飾りを身につけて進み出て、そして本当にイエス様から愛される皆さんでありますように。
【結論】
私たちキリストの花嫁として、主の呼びかけに即座に応答する従順な心を持つべきである。真の美しさとは外見や立場ではなく、柔和で穏やかな心、そして良い行いという飾りである。エステルのように「主よ、もしあなたの御心でしたら」という謙遜な姿勢を保ち、高慢を捨て、主に従順に従う者となることで、主から愛され、王冠を与えられる祝福に与ることができる。
エステル記1章1-12節 説教
メッセージ音声
【概要】
エステル記1章1-12節から、クセルクセス王の豪華な宴会とワシティ王妃の拒絶の物語を通して、神の御言葉の境界線内で生きる真の自由について学びます。人間の栄光ではなく神の栄光を求め、「思いのまま」という誘惑に陥らず、真の王イエス・キリストに従順に歩むことの大切さを説いています。
【聖書箇所】
エステル1:1-12
【戒めの言葉】
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御言葉の境界線を越えた「思いのまま」の自由は滅びに先立つ
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主を試みてはならない。小さな一線越えが大きな堕落につながる
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神抜きで人間の栄光を誇示する生き方は、最後には王の怒りを買う
【勧めの言葉】
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御言葉の秩序の中にとどまることで、真の自由と幸いを得られる
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ワシティではなくエステルのような従順さを求めよう
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礼拝の姿勢、言葉、時間の使い方において御言葉の境界線を保とう
【悔い改めの促しの言葉】
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自分の心の中の「思いのまま」を点検し、一線を越えていないか吟味せよ
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もし自分の中にワシティに似た面があるなら、それを認めて悔い改めて捨てよ
【***詳細***】
今日、恵みをいただく御言葉はエステル記の1章1節から12節です。
エステル記1章1-12節では、はじめに1節から4節を宣言します。
「クセルクセスの時代、クセルクセスがインドからクシュまで127州を治めていた時のことである。クセルクセス王がスサの城で王座についていた頃、その治世の第三年に、彼はすべての首長と家臣たちのために宴会を催した。それにはペルシアとメディアの有力者、貴族たち、および諸州の首長たちが出席した。王は彼の王国の栄光の富と大いなる栄誉を幾日も示して、180日に及んだ。」(エステル1:1-4)アーメン。
今朝も我らは御前に進み出ました。どうか我らにお語りください。御言葉をもって我らを生かし、御言葉によって清め、御言葉の道、その真実の道に歩ませてくださいますように。そうして私たちがこの邪悪な世の中においてイエス・キリストの光を輝かせることができますように助けてください。
ハレルヤ!素晴らしい主の御名をほめたたえ賛美いたします。エステル記の公開説教、エステル記に入りました。前回はこのエステル記という書の全体を眺めました。不思議な書でしたね。この神様の名前、主の御名が一切出てこないけれども、確かにこのページの行間、行間に、一文字一文字の間に神様が働いておられるのを見ました。隠れた私たちの王の御手が私たちを守っているんですね。それがエステル記を通してわかるんですけども、今日は早速その本文の中に一歩ずつ入っていきたいと思います。
この物語の始まり、今日は1章1節から12節までなんですけども、ここにおいてはまだエステルは登場しません。モルデカイとか、また悪いハマンもまだ姿を見せないんですけども、けれどもこの最初の場面、ここにおいて、これから始まる壮大なドラマの伏線が全部仕込まれているんですね。物語には伏線というものが仕込まれているものですけれども、今日の箇所において、この幕開け、現代私たちはどのようにして生きるべきか、その私たちに対して何を語りかけているのか、それが今日の箇所から見ていけるんですけども、まず、この物語はクセルクセス王、新改訳第三版でアハシュエロス王、その治世から始まるんですね。
彼はこのインドからエチオピアまで127州を治める巨大な帝国の王様でした。そしてその首都がスサというところです。スサ、王様はこの治世の第3年に王宮で大規模な宴会を開くんですけども、それがなんとも桁違いな常識外れな宴会なんですね。なんと180日にも及びました。ですからおよそ半年ぐらいですね、ずっと王様はこの王の栄光とまた富を示すためにずっと、この諸国の高官たちに見せ続けてきたんですね。王の栄光、王はこんなにも富んでいるよ、こんなにも気前がいいんだよっていうのをずっと見せ続けました。
そしてその後、それが終わった後に、この首都に住むすべてのものを集めて7日間の宴会を開きました。この王宮の庭には白と紫の幕が飾られていて、大理石の柱とか銀の長椅子、金の杯、それも全部趣向が違っていて、どれもこれも素晴らしいものだったんですね。この王様の豊かな栄光、またその勢力の輝きというふうに4節を見ますとわかるんですけども、でもこれ結局神の栄光ではなくて人間の栄光なんですね。神様抜きで人のこのきらびやかさが輝くと、それは永遠のきらびやかさではないものなんですね。
私たちが今生きているこの世界も同じです。一見きらびやかに見えるところがありますね。このスマホを開くと、多くの人々がSNS上できらびやかな自分を見せておりますね。こんなにも美味しいものを食べている、こんなにもゴージャスなところに行っている、それを自慢している様がたくさんあります。でもキラキラ輝いているその有様のその大半は、神様抜きで人間が作り上げている栄光ですね。問題は、それが輝いて見えれば見えるほど、その背後に隠されている薄暗いところが実はあるものですね。エステル記は、そのきらびやかな幕の裏側を、これから容赦なく見せつけていくことになります。
特にこの8節の方を見てみたいんですけども、8節にこう書いてあります。
「しかし、飲酒は強要しないことという法に従っていた。誰でもそれぞれ自分の思いのままにさせるようにと王が宮廷のすべての長に命じていたからである。」(エステル1:8)
王様はそれぞれ自分の思いのままにさせるよっていうふうに言ってたんですね。強要しない。一昔前はお酒の席に先輩が、上司が注ぐ酒は必ず飲まなければならないという空気がありましたけども、最近は強要しないという空気になってきました。
王様、それぞれ自分の思いのままにさせるというふうに、王様がすべての長に命じていたと8節に書いてありますね。一見、優しい王様の心配りに聞こえますね。これが王様の気前の良さ、また寛大さを表しておりました。けれどもここに落とし穴が潜んでおります。望む通りにしなさい、思いのままにしなさいっていうふうに言われた時、人間はどういうふうに振る舞うか。神様を知らない人間、好きなようにしていいよというふうに、御言葉を知らない神様を知らない人間に言うとどういうふうにすることが目に見えているか。
お酒、好きにしていいよと言われた時に、あ、じゃあ節度を持って適度に飲みますって言って、節度を持って適度に飲むのが人間でしょうか。食べ物、節度を持って健康にいいように食べるでしょうか、太らないように食べているでしょうか。互いに節度を持って節度を持った口調で、また言葉遣いでお話をしたり振る舞ったりしているでしょうか。まあ、ほとんどの場合、そうではないですね。良い方向には進みません。だから街中見ると、成人病を患っている人がたくさんおりますね。限度を超えて、下品なおしゃべりがまかり通ったりして節度を超えて振る舞っているわけです。
ですから、この御言葉の秩序を構築しないままで、いいよ、好きなふうにやっていいよ、自由だからっていうふうにそういう空気を作ってしまうと、いつの間にか何をしてもいいんだっていうそういう空気に変わっていってしまいます。思いのままを許すこの空気の中において、この王様自身もこのお酒に身を委ねて節度を越えていってしまいます。そしてその流れがこの王妃ワシティにも移って、王妃にも移り、宮殿の中に移り、女たちの中に移りということがつながっていきます。
この現代社会もまさにこの思いのままが美徳とされていて、そしてそれがまかり通っていくような時代ですね。思いのままに振る舞っていいんだ。自分らしく、したいことをすればいい、誰にも強制されない。それ自体は何か一見するといいような言葉に聞こえるんですけども、けれども、神様を中心に見据えない思いのまま振る舞っていいっていうところは、必ずどこかしら暴走をしていってしまうものですね。自分は男、女、どっちでもいいんだ。今日は男、明日は気分が乗ってるから女みたいな、そういう自由にしていい、したいことをすればいいということがはびこった結果、どういうふうになるか。本当にこの社会が混乱してしまい、また子どももどういうふうに自分が自分のアイデンティティを確立すればいいのかわからなくなってしまっております。
この誰にも強制されない、自分らしく、これは美しく聞こえる言葉ですけれども、けれども、結局、自由であること、自由であることの幸いというものは、この秩序の中にとどまってこそ、真にこの自由の幸いが輝くわけですね。神様の御心のまま、神様のこの節度の中、御言葉のこの囲いの中にいてこそ、本物の幸い、幸せ、自由はあるんですけども、この神様の御言葉の囲いを超えたところにおける自由気まま、これが滅びに先立ってしまうものになってしまいます。
もう一度言いますと、神様の御言葉の囲いからはみ出た自由、これは自分の身に滅びを招いてしまうものです。
このアハシュエロス王、クセルクセス王の宴会180日、それプラス7日ずっと続いておりました。そのアハシュエロス王の宴会の目的は結局4節に書いてあるんですけども、王様自身のこの栄光の富と大いなる栄誉を幾日も示すこと、これは人々に示すことでした。見せること、これが目的だということが4節見ると分かります。私はこんなに偉いんだ、私はこんなに気前がいいんだ、こんなに偉いんだって、こんなに金持ちなんだ、それを誇示するための宴会だったんですね。
それで王様はこの心が酔った時にふと思いつきます。そうだ、いろいろと富を見せてきた。じゃあ今度は自分の妻、王妃ワシティがどんなに美しいか見せよう。で、王妃ワシティを呼んでこさせようということで呼んでくるんですけども、けれどもここはクライマックスなんですね。自分の富を見せ、宮殿の豪華さを見せつけて、それでもまだ足りなかった。本当にSNSで自分を見せる時、美しく、なんか美しい自撮りができるような、そういうアプリもありますね。それは自由に加工もできます。なんかこういう風に横が大きいの太いのを縦長にすることもできますし、また何かお化粧しているかのようにも見せることもできますね。
このように自分を美しく見せることのたどり着く先は、実は醜くなってしまうんですね。高ぶりは滅びに先立ちます。心の高慢は倒れに先立つ、箴言に書いてありますね。悪魔サタンはなんで、もともと天使だったのが、サタンに堕落してしまったか。これ、自分の美しさ、これを誇示して神よりも上に立とうとしたからですね。結局、自分の美しさ、自分の素晴らしさ、これを誇示する先には滅びが待っているんです。この王の気前の良さ、それは神様抜きであるとするならば、結局、自分自身を本当に嫌な思いをさせてしまうものになってしまいます。
12節の方を見ますと、この王妃ワシティを呼んだんですけども、けれど、どういう風になったか。
「王妃ワシティは宦官から伝えられた王の命令を拒み、来ようとはしなかった。王は激しく怒り、その憤りは彼の内で燃え立った。」(エステル1:12)
ワシティは王の呼び出しに対して「ノー」をつけました。これわざわざ王様からの7人の宦官、名前が記されている7人の宦官を通して王妃は呼び出されたにもかかわらず、王妃は自分の宴会をこの女たちの間で開いていて、そしてこの7人の宦官の呼び出し、王様からの呼び出しを「いいえ、行きません」ってそれを突きつけたんですね。
聖書がここで示している事実がはっきりしています。大切な原則が隠れています。結局、自分の好き勝手に振る舞って、高ぶって、王の命令さえも拒むものであるならば、最後には王の怒りを買ってしまうということです。私たちが真の王であるイエス様、御言葉、この限度を超えて振る舞うのであるならば、結局最後は、主の怒りを買ってしまうことになってしまいます。
本当に現代の私たちも本当にありがちな話です。ワシティはこの時いきなり「いいえ」を突きつけたのかどうか。おそらく違うはずですね。この拒む、「ノー」を突きつけるという行動の前に、もっと小さな積み重ねがあったんですね。王妃ワシティはこの何をしてもいいよっていう180日がなければ、その前だったらおそらくこういうことはしなかったはずですけども、けれども好きにしていいよという180日の後に、これがあったんですね。
本当に人間、私たち全員含めてです。何をしてもいいよ、好きに振る舞っていいよ、御言葉の範囲、範疇外で自分の思いのままでは、本当にこの王妃ワシティの罠に陥ってしまうことがあります。
聖書に試みるという言葉があるんですけども、「あなたの神である主を試みてはならない」悪魔サタンに対してイエス様が言った言葉です。試みというものは、ここまでいいよという限度、リミットがある。そのリミットを少しずつ超えて、このリミット、白黒はっきりしているリミットですけど、しかし試みというのはグレーゾーンに足を踏み入れて、それで、ここで大丈夫だったらさらにもう一歩踏み越えて、それでもなお何か許されそうな感じであるならばさらに大きな一歩を踏み越えて、そういうふうにちょっとずつちょっとずつほんの小さな線を越えていく。
最初は誰にも叱られない。叱られないということを子どもが経験すると「あ、ここは大丈夫なんだ」って言ってもう少し一歩踏み込んでくる。それでこれも大丈夫、大人は怒らないでいるとするならば、子供はどんどん大胆に大きく踏み外していってしまうようになってしまうんですね。最初だったら絶対に超えなかった線を平気で超えていってしまうようになってしまう。これは試み。子供が親を試みることを積み重ねた結果でしたね。
このワシティもおそらくその積み重ねの結果だったんじゃないかと思うんですね。少しずつ主人である王を軽んじる心が芽生えた。女たちの宴会を開いていた女たちの間で、王様ってさあ、ちょっとあれあれだよねって、そういうふうに盛り上がっていて、その女たちの宴会の世界の中でどんどん蔑む心、傲慢な心、それがどんどん芽生えていく。で、そして境界線がずらされていって、そしてその積み重ねがあの決定的な踏み外しになってしまったんです。
イエス様は荒野で悪魔から試みられた時、はっきりこう言われました。「あなたの神である主を試みてはならない」とも書いてある。アーメン。
私たちは王の王である主に対して、ここまではいいかなっていうのを繰り返してはならないですね。許されてきたじゃないか、だから自分は大丈夫なんだって、そういうふうにしていってしまうと、どんどんこの歯止しがつかなくなってしまいます。御言葉がやめなさいと告げていること、これぐらいだったらと思って、少しずつ超えていく。言葉の秩序がどんどん乱れていく。お金の使い方が乱れていく。携帯、スマホの使い方がどんどん乱れていく。そして礼拝の順守、それが乱されていく。
本当にこの試みが好きな子供、あるいは人というものが確かにおります。ここまではこうやっていいよ。そういう人はチャレンジングな言葉、チャレンジングな態度をするんですね。そのような人は本当に滅びに先立ちやすいものです。
本当に私たち、特に実際教育をしております。本当にこの御言葉の秩序、これをしっかりと保たなくてはなりません。今、私たちは神様から与えられている自由裁量があります。それを皆さんはどのように使っているでしょうか。神様、確かに私たちを奴隷としてではなく、自由人として扱ってくださっておりますけれども、その自由をどのように皆さんは使っているでしょうか。この自由は神様抜きで好き勝手していいという自由ではありません。しっかりとこの御言葉の境界線の内側で生きる本物の自由、それがあるんですね。これをしっかりと実際に伝えていかなくてはなりませんね。
本当の自由の喜び、これはこの御言葉の境界線の内側、イエス様のその守りの御翼の陰においてこそ、本当の守りと自由があるのであって、それを乗り越えた自由というものは、それは滅びが待っている自由になってしまいます。
私たちは今、主を試みてはいないでしょうか。この主を、主の権威を試みてはいないでしょうか。礼拝の姿勢や、また自分自身の口から出る言葉、あるいは自分のスマホで見るもの、時間、神様との時間、それをしっかりと皆さんは境界線を持って保っているでしょうか。強制されていないからっていうのを理由にして、少しずつ乗り越えていないか、点検したいと思います。
この本当にしっかりと御言葉の境界線を保っている人は、このワシティの結末を避けられる人ですね。ワシティはこの一件によって王妃という地位を失ってしまいました。聖書はこの空いた王妃の座に全く違うタイプの女性を、王妃に据えるということが読み進めていくとわかるんですね。エステルです。
エステル記の物語で、本当にこのまずワシティのこの拒否する、本当に試みに試みて、そして一線を越えてしまったというところの後ろ暗さから始まりました。だから、その後に来るエステルという王妃のこの従順という性質の美しさが際立っていくんですね。2章以降、本当にこのエステルの美しさが際立つのは、このワシティのこの王に対する拒否があったからなんですね。
次回以降、13節から進んでいくんですけども、本当にこの今日、まず私たちは自分の心の中の思いのまま、小さなこの一歩一線を越えてしまうという、これをしっかり点検しましょう。そして本当にこの神様の栄光ではなく、自分の栄光、これをあのサタンやこのワシティの道に倣うことなく、本当にそれはしっかりと十字架の前に置いて、そしてエステルのごとく、真の王の前に対して従順という美しさを、それを輝かせる皆さんでありますように、イエス様の名前によって祝福いたします。アーメン。
【結論】
エステル記1章は、神の名が一度も登場しないにもかかわらず、神の御手が確かに働いている書の幕開けです。クセルクセス王の180日に及ぶ豪華な宴会と、「思いのまま」という自由の中で、ワシティ王妃は王の命令を拒否し、その地位を失いました。
この箇所から私たちが学ぶべき大切な真理は、神の御言葉の境界線の内側でこそ真の自由と幸いがあるということです。「思いのまま」「自分らしく」という現代社会の価値観は美しく聞こえますが、神様抜きの自由は必ず暴走し、滅びに先立ちます。
私たちは主を試みることなく、小さな一線越えを積み重ねることなく、御言葉の秩序の中で生きるべきです。ワシティの高慢と拒否ではなく、次章に登場するエステルの従順と美しさを目指しましょう。神様から与えられた自由裁量を、御言葉の囲いの中で正しく用い、真の王イエス・キリストに従順に歩む者となりましょう。
エステル記概要 - エステル記から学ぶ神の摂理
メッセージ音声
【概要】
エステル記は神の御名が一度も登場しない不思議な書でありながら、異教の地ペルシア帝国で生きるユダヤ人を通して神の確かな働きを示す物語である。紀元前480年頃、民族存亡の危機からの救いを描き、日常の「たまたま」の中に働く神の精密な御手を示している。
【聖書箇所】
エステル4:14、エステル1-10章(全体)、サムエル記(聞き従うことに関する箇所)
【励ましの言葉】
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神様の気配が感じられない場所、神様という名前が全然感じられないストーリーの中で、礼拝も自由にできないそういうところにおいても、神様は確かにおられ、働いておられる
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私たちの日常生活の中で、突然の奇跡や声が聞こえなくても、ごく普通の出来事、日常の中において神様は臨在しておられる
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神様は見えなくても確かに働いておられる
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あなたが今いる場所には、確かに神様の意味がある
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「あなたがこの国に来たのは、このような時のためだったのかもしれない」(エステル4章)
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人生を振り返れば、神様の歯車がカチッと合っていたことがわかる時が来る
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イエス様は私たちの祈りを聞いてくださる方です
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イエス様の名前で祈ったことを、主が実行してくださると約束されています
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主は敵の前で宴を設けてくださる方です
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長年報いが受けられていなかったかもしれないが、天の真の王様が紐解いて、大きな報いをくださる時が来る
【戒めの言葉】
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残してはならない悪がある
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自分の中のハマンの性質(弱い者いじめ)を根っこごと引き抜く必要がある
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中途半端な従順は、後に大きな災いの根を残す
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「聞き従うことは羊の脂肪に勝る。背くことは占いの罪」(サムエル記より)
-
悪の芽は小さいうちに摘み取ること
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悪を憎め
【勧めの言葉】
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この時代のエステル、モルデカイとして歩むこと
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それぞれの場所で誠実に働きをなすこと
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神の民として覚悟を持って立つこと
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子どもたちに惜しまずにキリストを届ける者でありましょう
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この時代において選ばれた栄光の次世代を担う者として立ちましょう
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へりくだって主の御心を行使する者となりましょう
【***詳細***】
前回までネヘミア記を公開説教のような形で一章ずつやってきました。今日は、公開説教の後、詩編をやりたかったんですね。詩編の101編でずっと止まって、もうここ数年ぐらい公開説教が滞っていたので、続きをやろうかなと思っていたところ、そこに甲斐先生が突然「あなた今何してるの」って。それで「まあ今公開説教、今度詩編にしようと思ってるんだけど」って言ったら、なんか「エステル記」っていう声が隣の部屋から聞こえてきて、まあ、神学生宣教師がそういうリクエストしたんですけど、「うん」って思って。まあ確かにネヘミア記の次はエステル記だけどもなんて。
で、甲斐先生に言ったら、なんか突然その順番を乱すようなことするんじゃないみたいなこと言われて。それでまあ確かにネヘミア記の次はエステル記だし、まあリクエストもあったから、まあこれが導きだろうと思いまして。ということで、エステル記を今度はまた公開説教をしていきたいと思います。
今日はエステル記の概要的なところを見ていきたいと思うんですけども、まあ、エステル記を一言で表す箇所といえばどこだろうな、と思ったところ、この4章14節ですね。エステル記の4章14節をちょっと宣言したいと思います。
エステル4:14「もしあなたがこのような時に沈黙を守るなら、別のところから助けと救いがユダヤ人のために起こるだろう。しかし、あなたもあなたの父の家も滅びるだろう。あなたがこの王国に来たのは、もしかするとこのような時のためかもしれない。」
アーメン。一言お祈りします。父なる愛する主よ、エステル記から恵みをいただきたいと思います。あなたが確かにこの箇所へと導かれました。主よ、本当に折にかなった言葉があなたからいただきますことを期待し、感謝いたします。どうか取り次ぐしもべの唇、また聞く一人一人の耳を清め、通りよくしてください。あなたの御旨、それを豊かに悟ることができますように助けてください。イエス様のお名前によってお祈りをいたします。アーメン。
ハレルヤ。主の御名を褒めたたえ賛美いたします。このエステル記なんですけども、非常に不思議な書でして、この他の書物とは決定的に違うところがあるんですけど、それはですね、何が不思議かというと、実はね、「神」という言葉、「主」という言葉が一言も出てこないんですね。この初めから終わりまで一切出てきません。ヘブライ語でのユダヤ、ヤーウェ、主の御名が出てきませんし、またエローヒムも登場しないんですね。「神がこう仰せられた」とか、「主が現れた」、「神様が答えた」、はっきり書かれてありません。
けれども、それにもかかわらず、このエステル記を読み終わった時には、確かに神が生きて働かれたのだということを、それは確信できる書でもあるんです。このエステル記から、これから一緒に恵みを受けていきたいんですけども、まずね、このエステル記の物語はいつどういう時代であるのかを押さえておきたいんですけども、この時代としてはおよそ紀元前480年頃で、場所は紀元前480年当時の世界の一番の大国である、ペルシア帝国においての物語です。
で、その時の王様の名前は、まあ、アハシュエロス王、まあ、新改訳第三版の方でアハシュエロス王、けれども、歴史上では、クセルクセス王という名前です。新改訳2017ではクセルクセスというふうに記されております。で、その領土はインドからエチオピアまで127の州に及んでいた。それほどの超大国の、その王宮の真っ只中においての物語になるんですけども。
で、エステルが王妃になったのは、およそ紀元前479年頃と言われてます。で、ネヘミアの時代とはまあどうなのか。まあ若干かぶってないんですね。ネヘミアがエルサレムに来たのは、だいたい紀元前445年ですので、エステルの時代はネヘミアよりも一世代前の方なんですね。ですから若干遡る時系列です。
ここで思い出したいのは、ユダヤ人はなんでこのエルサレムから遠く離れていたところにいたのか。これですね。まあ、留学していたわけでもないし、観光していたわけでもないし、バビロン捕囚ですね。この国、エルサレムが滅ぼされて、遠く異国の地に強制的にもう縛られて連れて行かれて、それで行ったその子孫たちがこのエルサレムから遠く離れたペルシアの方に行ったんですね。その子孫たちが、バビロンからペルシアの時代になった。そして故郷に帰ってもいいという許可もおりました。
けれども、このエステル記の時代、まだ城壁が再建されない、その92年の間のストーリーなんですね。ネヘミアとかエズラに率いられて、一部の人々はその時エルサレムに帰りはしたんですけども、けれども、帰れなかった人たちが大勢いたわけです。このエステルとかモルデカイ、まさにその帰れなかった側の人々なんですね。
ここで留めておいていただきたいのは、このエステル記は神殿があるこのイスラエル、エルサレム、神の都の中の物語ではありません。むしろそこから遠く離れざるを得なかった、異教の帝国のど真ん中で生きる人々の物語なんです。神様の気配が感じられない場所、神様という名前が全然感じられない、ストーリーの中で礼拝も自由にできない。そういうところにおいての物語。果たして神様はそこにおられるのか。エステル記は「果たして神様はそこにおられるのか」という問いに対して、「おられる、確かに神様は働いておられる」というストーリーなんですね。このエステル記は。
で、エステル記はですね、もう一つ面白いエピソードは、聖書として選ばれるまで非常に揺れた一冊でもあったということですね。まあ、その理由は、この神様の御名が一つも出てこない。エローヒムも出てこない、ヤーウェも出てこない、一度も出てこない。果たしてこれ、聖書と呼べるんだろうかって昔の人々も悩んだんですね。
また、興味深いことに、あの死海のほとりで、死海写本がたくさん見つかったんですけども、で、旧約聖書39巻のうち、ただ一冊だけ、このエステル記だけが死海写本の中に一つも出てこなかったですね。で、後の時代、あの宗教改革者のマルティン・ルターもですね、このエステル記、一体どういうふうに扱うべきか、果たして本当に聖書と呼べるんだろうかって悩んだ。そういう人もまたいたんですけども、けれども、エステル記はしっかりと聖書のうちの一冊として受け止められたんですね。
それは、ユダヤ人がプリム祭というものを行っているんですね。プリム祭というのは、このエステル記に起源がある祭りです。プリム祭、民族が皆殺しの危険にあった、そこから救われた、それを祝う祭りですね。そして本当にこの神様が確かに働かれて、この民族の危機を救ってくださった、民族の危機、そこから救ってくださった。ですから、ユダヤ人としてはもう民族の記憶そのものだったんです。
で、もう一つ、さらに深い理由。それは神様の御名が書かれていないということ自体が、神様に関する重要なメッセージだということを、それを私たちに訴えてるんだということですね。私たち、今このつくばみらいという場所において信仰生活をしてるんですけども、何か奇跡が突然、空から降ってくるわけでもありませんね。神様の声が聞こえてきたわけではないですね。なんで私たちがここにいるのかって。ここを歩いていたら、阿部先生夫婦に、阿部夫婦、「この土地が主の御心の地だ」って声が聞こえたわけではなかったですね。ごく普通の出来事、日常の中において神様が臨在をして、確かにここが神様の御心の場所だって、そういうふうに確信した。
エステル記は、聖書の中でも非常にユニークな書物です。この書物の最大の特徴は、神様の名前が一度も登場しないということです。しかし、神様の名前が出てこないからといって、神様が働いておられないわけではありません。むしろエステル記は、見えない神様が確かに生きて働かれるということを、私たちに力強く示しているのです。
私たちの日常もエステル記に似ています。神様の声が聞こえるわけでもない。何か、すごい奇跡が起こるわけでもない。そんな日常の淡々とした日々の最中に、神様が確かに生きて働かれるということを、まさにこのエステル記は示しているのです。
エステル記を読み進めていくと、「たまたま」という言葉が何度も出てきます。たまたま、王妃がエステルになった。そしてたまたまユダヤ人の危機が起こった。ユダヤ人たちが断食して神様に祈った。たまたま王様が眠れなかった。たまたま王様が持ってこさせた書物が、このユダヤ人の危機を回復させる手がかりになった。たまたまエステルが王妃になっていて、そして王様に訴えることができた。
王妃エステルは命がけで断食した上で、王様の御前に進み出たところ、王様の快諾を得た。そうした「たまたま」の積み重ねの上に、確かに見えない神様の御手が働いておられたのだということを、このエステル記は訴えているのです。
この聖書66巻が皆さんの手元にあるのは、人間が選んだということではありません。神様が選んで、そしてこの聖書66巻がこうしてあるのです。そして2000年ずっと、この皆さんの手元にある聖書が聖典として皆さんの手元にあるわけです。今、神様は見えません。しかし、見えない神様は、確かに今この時、精密に緻密に働いておられる。エステル記そのものがそれを証明しているわけです。
このエステル記を起承転結的に四つに分類して見てみましょう。
まず「起」、これは1章から3章です。民族危機の種が蒔かれるところから始まります。華やかな宴会の場所から物語が始まります。王妃ワシティが王様の呼びかけに対してそれを無視するのです。そしてそれが原因になってワシティは王妃から退けられて、たまたまこのバビロン捕囚民のエステルが王妃として選ばれるのです。
その一方でハマンが力をつけてきます。悪役です。このハマンに対してユダヤ人モルデカイ、このエステルの叔父にあたるモルデカイがハマンに対して跪かない。ただそれだけの理由で、この民族全体を滅ぼしてしまおうという殺意に変わるのです。
次に「承」の部分、それは4章から5章のところです。この大きな危機の中においてモルデカイがエステルに直訴するのです。王様に直接訴えられるのはあなただけだ、と。けれどもエステルはそれを躊躇します。お呼びがかかっていない時に王様のところに行くことは、死刑になる確率が非常に高いからです。
しかしそこにおいて、聖書の中においても本当に屈指の名言が語られます。「あなたがこの国に来たのは、このような時のためだったのかもしれない」。エステルは覚悟を決めます。「もし私が死ななければならないのでしたら死にます」と言って、3日の断食の後に御前に命がけで進み出ます。
そして「転」、6章から7章です。すべてがひっくり返すのです。まさに「転」、物語が本当にクライマックスを迎えるのは、王様がたまたま眠れなくなったところです。そのたまたま眠れなくなった夜、退屈しのぎに記録の書を持ってこさせて朗読させたところ、モルデカイの話が出てきました。モルデカイに対して功績があるのに、彼に対して十分な報いが与えられていなかったのです。
皆さんも長年報いが受けられていなかったかもしれません。それを天の真の王様が紐解いて、大きな報いをくださる時が来るでしょう。モルデカイに対しては、ある時、報いが与えられて、その報いがたまたまその夜だったからこそ、ユダヤ人滅亡の危機が回避されたわけです。すべての神様の歯車がカチッと合う時が来て、しかもこのユダヤ人、神の民に対して滅亡を企んだハマンが逆に首をかけられて、自分が立てた25mほどのポールにハマン自身がかけられて、墓穴に自分で落ちたのです。
そして「結」、8章以降です。この嘆きが喜びに変わります。このハマンが下した死の法令が、ペルシアの法令においては取り消せないところがありますが、しかしそこでモルデカイがその死の法令に勝る命の法令を発布するのです。身を守って良いという法令を新たに発布して、こうして滅亡の日は逆に勝利と解放の日に取って代わりました。嘆きの日が喜びの日に変わる。これがエステル記の見事な起承転結なのです。
この古い物語は、今、私たちに新しく命を吹き込んで、三つのことを力強く語りかけています。
まず第一に、神様は見えなくても確かに働いておられるのだということです。私たちの毎日もエステル記に似ております。神様の声を直接かけてくれるわけでもありません。奇跡が起こるわけでもない。仕事があり、家事があり、毎日食事作りがあり、毎日学校の仕込みがあり、淡々と地味な日々が続いていくように見えます。
しかし神様は確かに私たちの中に働いておられます。「たまたま」の連続の中において、私たちにとって必要な物事が起こされていきます。たまたまあのことが起きた。たまたまこの子が来た。たまたまこの授業でこれが必要になってきた。そうした連続の中に、神様は確かに働いておられるということ、これが第一です。
第二は、皆さんが今いるこの場所、それは確かに意味があるのだということです。モルデカイは、「あなたが今、王妃になっているのは、私たちが今ここにいるのは、まさにこの時のためかもしれない」と言いました。今、皆さんがつくばみらいにいるのは、まさにこの時のために神様が置いたのです。
エステルが王妃の座についたのは、このエステルの野心があったからではありません。「ぜひ私が王様のハートを射抜いてやろう」といったことは一切なしでした。まさにこのような時のためだったのです。皆さんが今いる場所、家庭、職場、学校、もろもろの場所、そこにいるのは偶然ではないのです。
一見つまらなく見える、なんで自分がこの役職なんだって戸惑うような場面であったとしても、神様は今まさにこのような時のためにここに置いておられるのだということです。それが二番目です。
三番目。それは皆さん、エステル記を通して皆さんが学ぶべきは、残してはならない悪があるということです。悪を憎め、神様は聖書において書いてあります。
このハマン、実はこのエステル記の時代よりもはるかずっと昔、サウル王の時代、サムエルが、滅ぼし尽くしなさいと言われているアマレク人のその子孫だと言われているのです。サウルが「ちょっとぐらいいいや」って、もったいないから滅ぼし尽くさなかった。ちょっと中途半端に従ったゆえに、この災いの根っこがもうずっと残って、何百年も後にこうしてハマンという悪の実が結んだわけです。
本当にサムエルが言ったこと、それは「聞き従うことは羊の脂肪に勝る。背くことは占いの罪だ」という言葉が重要になってきます。私たちは本当にこの自分の中の悪、皆さん自身の中のハマンの性質、皆さんを悪どい方向に持っていく、そういったもろもろはもう根っこごと引っこ抜いて、そして残してはならないのです。
このアマレクの性質、これを一言で言えば弱い者いじめです。アマレク、この出エジプトをしていたイスラエルの民、後ろから、弱い者を、落伍した者たちを略奪して、そういう性質です。これはサタンの性質そのものです。
私たちの心の中にも、放置しておけば、この民族を滅ぼしかねないような、そういう悪の根っこ、これ小さい根っことしても残しておいてはならないのです。芽は摘み取っておかなくてはなりません。
このエステル記、神様の名前は一度も出てこないのですけども、でも皆さんにも隠れた王がおられます。イエス様です。このエステル記、神様の名前が出てこないとしても、けれども、この全ページを通して、上から見たら、確かに神様が生きて働かれておられた。神の民を愛しておられた。ということを見ることができます。
私たちの人生も同じです。毎日毎日、1日1日見れば、神様果たしているのかな、神様の御手が見えない時期が続くかもしれません。けれども、人生を上から読み返して見返してみれば、確かに神様が生きて働かれたのだ。このすべての歯車がカチッと合って、神様が確かに働かれたんだな、仕込んでおられたんだ、だから今、あの時、あの時期があったんだ、とわかる時が来ます。
神様は今まさに皆さんをこのような時のために、このつくばみらいに、横浜において、あるいはそれぞれの場所、場所においておられます。どうか皆さんはこの神様、見えないかもしれなくても、それでも神様のその御手がちゃんと働いておられるということをはっきりと見て、皆さんも今ここに置かれたエステルとして、あるいはモルデカイとして、このところにおいてしっかりと根ざして、それぞれの働き、誠実になしていきましょう。
どうか皆さんお一人お一人がこの時代のエステルとなり、モルデカイとなり、また本当にこの聖書におけるヒーローとして歩んでいく皆さんでありますように。
さらに、世界を民主主義で、イエス・キリストにある自由民主主義で再編することができますように、あなたがお守りください。トランプ大統領の心が驕り高ぶることがないように。イエス様、あなたがいつも導いてください。そして、へりくだって、主の御心を行使することができますように。
主よ、あなたが祝福してください。イランが何らかの形で、もう本当に今回落ち着いて、そして昔のペルシアに戻ってほしいと思います。なぜならペルシアはイスラエルを助けた実績がある国です。昔の本当に和気あいあいと愛し合った、助け合ったその時代の友情を戻すことができますように。
そしてイランが解放されて、今隠れクリスチャンがどんどん増えているイランが、公においてたくさんの教会が立ち、そしてイエス様を褒め称えることができますように。主よ、あなたが助けてください。
その未来、キリスト教会に、また宣教教会に、栄光の礼拝者、栄光の働き人、栄光の伝道者、栄光のリーダーを送ってください。そして、共に時代を担っていくことができる、イエス様に選ばれた働き人の集まり場所でありますように、主よ祝福してください。
子どもたちに惜しまずにキリストを届ける一人一人でありますように。そして、この時代において選ばれた栄光の次世代がどんどん運ばれてきて、そしてキリストを賛美することができますように。主よ、あなたが祝福してください。
今日一日を主にお祈りいたします。主を敬うべき人と出会わせ、そして良き御言葉に満ちた一日となりますように。私たちがイエス様に会って、良き出会いがありますように。そしてイエス様に会って土地との出会いがありますように。建物との出会いがありますように。主よ、祝福してください。
今、ICUに入っているパク執事のために祈ります。主よ、阿部先生の肺の水を抜いてくださった主よ。私の肺の水を抜いてくださった主よ。彼の肺の水も抜いてください。枯らしてください。呼吸を穏やかにし、イエス・キリストにあって立ち上がりますように。敵の前で宴を設けてくださる主にあって回復しますように。主よ祝福してください。
私の名によって祈るならば、父が聞いてくださる、私が実行すると約束してくださったイエス様のお名前で祈りました。
この時間、祈りの課題をもって主に祈っていきたいと思います。イエス様は私たちの祈りを聞いてくださる方です。イエス様の名前を呼びます。
【結論】
エステル記は神の名前が一度も登場しない書物ですが、その全編を通して見えない神様の精密な御手が働いていることを示しています。私たちの日常も同じです。「たまたま」の連続のように見える出来事の中に、神様は確かに働いておられます。
私たちが今いる場所は偶然ではなく、「このような時のため」に神様が置かれた場所です。同時に、自分の中の悪(ハマンの性質)を根っこから取り除く必要があります。中途半端な従順は後に大きな災いを生みます。
見えない王イエス・キリストが、私たちの人生の全ページを通して確かに働いておられることを信じ、この時代のエステル、モルデカイとして、それぞれの場所で誠実に歩んでいきましょう。人生を振り返る時、すべての歯車がカチッと合って、神様が確かに働かれていたことがわかる時が来ます。
