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主ご自身の栄光のため、そして主のしもべのため(2列王記19:20-31)
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- pastor 2017-6-6 7:17
主ご自身の栄光のため、そして主のしもべのため(2列王記19:20-31)
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アッシリヤは圧倒的勢力と勢いと、装備と、そして残虐さをもってイスラエルに迫ってきた。
前の時はヒゼキヤ王が預言者イザヤに祈りを要請するためにたが、今度はヒゼキヤ王みずから主の御前に進み出て、主の祈りのような真実な祈りをした。
その結果、今度は、主が預言者を動かし、ヒゼキヤの元に御言葉を送って下さる。
19:20 その時アモツの子イザヤは人をつかわしてヒゼキヤに言った、「イスラエルの神、主はこう仰せられる、『アッスリヤの王セナケリブについてあなたがわたしに祈ったことは聞いた』。
主は、全てをご存知であり、聞いておられる。
19:21 主が彼について語られた言葉はこうである、/『処女であるシオンの娘は/あなたを侮り、あなたをあざける。エルサレムの娘は/あなたのうしろで頭を振る。
主はエルサレムを「処女であるシオンの娘」と評価して下さった。
ヒゼキヤの前の王の時代の状況を見るなら到底「処女」とは呼べないような汚れた霊的状況だったが、しかし心を尽くして主に立ち返ったヒゼキヤの世代に対しては、穢れ無き者として評価して下さる。
しかも、シオンの娘は、「あなたを侮り、あなたをあざける」「あなたのうしろで頭を振る。」と。
現実の状況としては、アッシリヤがエルサレムを侮り、あざけり、頭を振ってばかにする状況であるが、心を尽くして主を主とし、主に助けを求めるなら、主は立場を全くもって逆転させて下さるのだ。
19:22 あなたはだれをそしり、だれをののしったのか。あなたはだれにむかって声をあげ、/目を高くあげたのか。イスラエルの聖者にむかってしたのだ。
主を敬う民をそしり、ののしる事は、主をそしり、ののしる事になるのだ。
主が教会の迫害者サウロに対して、「なぜ”わたし”を迫害するのか」と言われたように。
19:23 あなたは使者をもって主をそしって言った、/「わたしは多くの戦車をひきいて山々の頂にのぼり、/レバノンの奥に行き、/たけの高い香柏と最も良いいとすぎを切り倒し、/またその果の野営地に行き、/その密林にはいった。
19:24 わたしは井戸を掘って外国の水を飲んだ。わたしは足の裏で、/エジプトのすべての川を踏みからした」。
内容的は、アッシリヤ自身が豪語した自慢話であるが、しかしそれに対する主の評価は、「主をそしって言った」である。
全てを支配しておられる主を脇に置いて、自分の実績や栄誉を自慢話するのは、主をそしる事である。
私達は何かをしたと思った時、ヨセフやダニエルのように、「わたしではありません、主です」と告白するべきである。
19:25 あなたは聞かなかったか、/昔わたしがこれを定めたことを。堅固な町々をあなたが荒塚とすることも、/いにしえの日からわたしが計画して/今これをおこなうのだ。
19:26 そのうちに住む民は力弱くおののき、恥をいだいて、/野の草のように、青菜のようになり、/育たないで枯れる屋根の草のようになった。
彼らとしては、自分の力や知恵によって実績を上げたかのように思っているが、実はそれは主は昔からご計画しておられた事なのだ。
イスラエルが罪を犯した故に、それを懲らしめる杖として、主がアッシリヤを立てて、利用したに過ぎない。
19:27 わたしはあなたのすわること、出入りすること、/わたしにむかって怒り叫んだことをも知っている。
主は、私達の事をも全てご存知である事が、詩篇139篇に記されている。
139:1 主よ、あなたはわたしを探り、わたしを知りつくされました。
139:2 あなたはわがすわるをも、立つをも知り、遠くからわが思いをわきまえられます。
139:3 あなたはわが歩むをも、伏すをも探り出し、わがもろもろの道をことごとく知っておられます。
139:4 わたしの舌に一言もないのに、主よ、あなたはことごとくそれを知られます。
139:5 あなたは後から、前からわたしを囲み、わたしの上にみ手をおかれます。
139:6 このような知識はあまりに不思議で、わたしには思いも及びません。これは高くて達することはできません。
主はへりくだって祈り求める密かな祈りも、また、高慢な者達がひそかに会議する事さえも、全て聞いておられる。
そこで主は、高慢な者を引きずり降ろされる。
19:28 あなたがわたしにむかって怒り叫んだことと、/あなたの高慢がわたしの耳にはいったため、/わたしはあなたの鼻に輪をつけ、/あなたの口にくつわをはめて、/あなたをもときた道へ引きもどすであろう』。
そして、ユダに対しては次のように宣言される。
19:29 『あなたに与えるしるしはこれである。すなわち、ことしは落ち穂からはえたものを食べ、二年目にはまたその落ち穂からはえたものを食べ、三年目には種をまき、刈り入れ、ぶどう畑を作ってその実を食べるであろう。
19:30 ユダの家ののがれて残る者は再び下に根を張り、上に実を結ぶであろう。
19:31 すなわち残る者がエルサレムから出てき、のがれた者がシオンの山から出て来るであろう。主の熱心がこれをされるであろう』。
イスラエルの多くは、アッシリヤによって殺されたり引かれて行ってしまったが、残りの者が、いるのである。
ヒゼキヤは熱心に主に仕え、過越祭を何百年ぶりに行おうと呼びかけたが、多くの人達は彼をあざけりばかにした。
主は、そのような不信仰な者達は洗い流し、わずかに残った主に忠実な人達を起こして彼らを増やしていくという事を、聖書の中で繰り返して来られた。
そこで主は、アッシリヤに対して明確に宣言される。
19:32 それゆえ、主はアッスリヤの王について、こう仰せられる、『彼はこの町にこない、またここに矢を放たない、盾をもってその前に来ることなく、また塁を築いてこれを攻めることはない。
19:33 彼は来た道を帰って、この町に、はいることはない。主がこれを言う。
そして、次の言葉が、全ての事を為された主の動機である。
19:34 わたしは自分のため、またわたしのしもべダビデのためにこの町を守って、これを救うであろう』」。
全ては、主ご自身の栄光のため。そして、主のしもべのため。
それが、主の民の全歴史を動かしている。
だからもし、主の民が主を敬わず、主の教えを軽んじる事を続けて止めないなら、主はおそろしい災害をもってその者達を打ち、人々はその災害のひどさ、恐ろしさを見て主を敬うのである。
エレミヤ22:8 多くの国の人はこの町を過ぎ、互に語って、「なぜ主はこの大いなる町をこのようにされたのか」と言うとき、
22:9 人は答えて、「これは彼らがその神、主の契約を捨てて他の神々を拝し、これに仕えたからである」と言うであろう』」。
しかしもし、主の民が主を心から敬い、御言葉の通りに行うなら、主は祝福をもって答え、そうして全ての人々は、生きておられる主の栄光を仰ぎ見るのである。
19:35 その夜、主の使が出て、アッスリヤの陣営で十八万五千人を撃ち殺した。人々が朝早く起きて見ると、彼らは皆、死体となっていた。
19:36 アッスリヤの王セナケリブは立ち去り、帰って行ってニネベにいたが、
19:37 その神ニスロクの神殿で礼拝していた時、その子アデランメレクとシャレゼルが、つるぎをもって彼を殺し、ともにアララテの地へ逃げて行った。そこでその子エサルハドンが代って王となった。
こうして主の力と栄光は現れた。
主は最初からこれをなさらないのは、人々が主を知り、主により頼む事を教えるためであり、主を恐れ敬う人にはいかに祝福と幸いがあり、そして主を軽んじののしる者にはいかに呪いが降るかを、明らかにするためであろう。
私達も、「主のしもべ」という立ち位置に入るなら、主は私達を「おとめ」と呼んで下さり、彼の守りの中に入ることが出来る。
しかし主を頼みとしない者は、その守りはいつまでもその人のものとはならず、最後までそれをしないなら、ついには災いに追いつかれてしまうのだ。
召し出された人達を建て上げ成長させていく聖霊(使徒2:37-47)
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週報/メッセージ(説教)概要
本日は聖霊降誕日(ペンテコステ)、教会すなわち召し出された人達に、聖霊が降り、力を得た日である。
この日以前の弟子達は、大した働きが出来なかったが、この日以降、強力な力に満たされ、福音が全世界へ爆発的に広がって行った。聖霊を受ける事は、私達主の弟子達にとって決して欠かせない条件である。
教会は聖霊の働きによって始められ、そして聖霊は今日も働いておられる。今回、私達・教会が何によって建て上げられ、いかに聖霊に満たされ、福音を爆発的に広められるのかを、初代教会から学びたい。
「彼らは使徒たちの教えを堅く守り、交わりをし、パンを裂き、祈りをしていた。」(使徒2:42)
ここに、初代教会が健全であった根拠が記されている。健全に建て上げられていくための第一条件は、まず、使徒たちの教えを堅く守る事である。使徒たちの教えとは、よく考え出された人間由来の考えや教えではなく「御言葉」であり、使徒達は御言葉を主から取り次いでいたのだ。教会とは、神の御言葉が宣言されるべき所であり、御言葉と聖霊によって生まれ変わった、聖なる共同体である。
聖徒は、働き人によって宣言される御言葉によって建て上げられていくものだ。人が普段の食べ物によって成長して行くように、キリスト者も、普段摂り入れる御言葉によって養われ、変えられ、成長していく。
御言葉を蓄え、固く立っているなら、どんな困難が来ても決して壊れず揺れ動かない。真理の御言葉は、ダイヤモンドよりも硬く、宇宙よりも永遠だからだ。また、御言葉は種のようなもので、生きており、それを人という土壌に植えるなら、必ずいのちが生え、正しく育てるなら、豊かに実を結ぶものである。(マルコ4:14)
聖霊の働きの中で最も重要な働きは、人を御言葉によって新しく造り替え、成熟させて行く事だ。そして御言葉と共に働く聖霊の力は、あらゆる暗闇の力を打ち破る唯一の攻撃の武器であるとエペソ6:17に記されている。御言葉と共に働く聖霊の力が強くなればなるほどに、いのちはどんどん増えて行くのだ。
「こうして神のことばは、ますます広まって行き、エルサレムで、弟子の数が非常にふえて行った。そして、多くの祭司たちが次々に信仰にはいった。」(使徒6:7) この「非常にふえて行った(πληθύνω)」とは、魚の腹にぎっしり詰まった卵のように増殖する意味で、そのように聖徒の数は数多く増えて行くのだ。
正しく御言葉が入り、その信仰が成長するなら、いのちが莫大に増えていくのだ。
次に「共に交わり、パンを裂き」とある。教会とは、キリストを救い主として生まれ変わった、新しい命達である。赤ちゃんは産まれた時、自動的に家族の構成員となって、父母や祖父母、兄弟姉妹がこぞって彼の面倒を見るように、キリスト者も、イエス様を信じた瞬間、キリストにある御国の家族の構成員の一人となる。
御国の家族となったキリスト者は、共に御言葉のパンと、同じいのちを味わって行くものである。私達はそれを味わってこそ健全な歩みができるのだ。その為には、教会の集まりに「集まっている」事が必要である。
そのきよい交わりの中にいるなら、自然に健全な御言葉に親しみを覚えるようになり、成長して行くのだ。
次に、「祈りをしていた」と書いてある。初代教会の聖徒たちは、祈りの力を体験していた。祈りは神との会話であり、私達が神の御言葉によって祈るなら、神はそれに答えて下さる。『主よ。いま彼らの脅かしをご覧になり、あなたのしもべたちにみことばを大胆に語らせてください。・・・彼らがこう祈ると、その集まっていた場所が震い動き、一同は聖霊に満たされ、神のことばを大胆に語りだした。』(使徒4:29)
彼らは祈り求めると、聖霊に満たされ、大胆に御言葉を伝え出した。初代教会の聖徒たちは、自分自身の必要を満たして下さいとか、人生が有意義になるために力をください、と祈ったのではない、神の御言葉を伝え、福音を伝えるために、力をください、と祈ったのだ。祈りは働きの難題に打ち勝つ神の武器である。
私達は御旨の成る事を祈り、そして御言葉の交わりをするなら、主から力を頂き、それは武器となっていく。
そうして初代教会は、神が与えて下さった伝道の使命を忠実に果たして行く。世の中では、人を集めるために労力やお金を払うものだが、御国は、こちらが労したり媚びたりして人を集めるのではない。こちらが真理によって養われ、魅力ある者になるなら、人々のほうから自然と集まってくる。そうするなら、厳格に律法を重んじていた祭司さえ、キリスト者になったのだ。
どうか皆さんという教会が、御言葉と祈りによって聖とされ、成熟したものとなって成長して行きますように!
主エホバの栄光を全地に満たすために(エゼキエル40:1-5)
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週報/メッセージ(説教)概要
この日本という国は、世界的には富んだ国、力ある国として認知されているかもしれないが、福音という面では、全く貧しい弱小国である。1549年、フランシスコ・ザビエルによって初めてこの地に福音が入り、当時は多くの人々が福音を受け入れたが、時の指導者達は、主キリストにある私達の兄弟姉妹を迫害し、多くの血を流し、その後も、多くの罪を国の内外に対して犯し続けて来た。
そして未だに、この国が大規模に福音を受け入れたという歴史は無い。ちょうど、エゼキエル書37章のように、はるか昔に殺された人達の枯れ果てた骨々が、谷を埋め尽くしていたような状況である。果たして、はるか昔に殺されて干からびてしまった骨々は、生き返る事が出来るだろうか?主こそ、ご存知である!
主はエゼキエルに、骨に対して主の言葉を語れ、と言った。枯れた骨よ、主の言葉を聞け、と。(37:4)
彼が干からびた骨に対し、主から命じられたとおりの御言葉を宣言すると、大きな変化が起きたように、私達も、御言葉をそのまま語りだすなら、大きな変化が起きる。たとえ相手が、干からびた骨のような人でも。
散り散りになってしまっていた骨と骨が組み合わされ、筋が通り、肉が生じ、主の息吹にいぶかれて、大軍団となったように(37:10)、主はそれと同じ事をなさるお方であり、私達はそるなるよう宣言する事が出来る。
神は、宣教のことばの愚かさを通して信じる者を救おうと定められた。だから、それをするのは、私達である。
どのようにしてそれを行うべきか。続くエゼキエル書に、そのヒントがある。
エゼキエルは、バビロン捕囚下のイスラエルの民に、主の言葉を伝える預言者として用いられた。
その時代はすなわち、ソロモンが建てたあの豪華絢爛な神殿が、バビロンによって破壊され尽くした後である。神殿が破壊されてしまったのは、イスラエルが代々犯して来た罪の故であり、そしてその罪のはびこりの原因は、御言葉の伝授が、すなわち、子供たちへのテフィリン教育が為されていなかったためだった。
しかし、バビロンによって神殿が破壊されてしまって14年の後、エゼキエルは主にとらえられ、非常に高い山の上に、人の手によらない神殿と都が建っている幻を見せられた。
『神がわたしをそこに携えて行かれると、見よ、ひとりの人がいた。その姿は青銅の形のようで、手に麻のなわと、測りざおとを持って門に立っていた。 ・・・その人の手に六キュビトの測りざおがあった。そのキュビトは、おのおの一キュビトと一手幅とである。』(3-5節)
この、主の使いが持つ測りは、世の測りとは違う。人が使い古した測りに、一手幅、加えられたものだ。
つまり、まことの神殿であるキリストを測る際は、人が使い古して来た基準や常識という測りで測ってはならない。まことの神殿をは、十字架のキリストの手が加えられた神の御言葉によってこそ、測るべきなのだ。
エゼキエルは、この手幅が加えられたはかりを用いて、神殿を測って行くと、さらに次々と示しや預言が与えられて行く。そしてその後、神殿の入り口に連れ戻されると、水が神殿の敷居の下から流れ出ていた。
その水によってできた川は、測れば測るほど大きくなり、木が生え、いのちが増え、魚も群がって行く。
この水が流れこむなら、死海でさえいのちが群がる所となり、そこの魚をとるために、漁師達が住んで、網を引く場所となる、と書いてある(47章)。
そしてその水はさらに流れて行って、やがては、水が海を覆うように全地に満ちる事になるだろう。
「海が水でおおわれているように、地は主の栄光の知識で満たされるからである。」(ハバクク2:14)
エホバの栄光を知る「知識」によって、全地は満たされる。地の果てに至るまで。それをするのは、人の教えに教えられた者ではない。十字架のキリストの手が加えられた御言葉によって養われた人こそ、神殿を正しく測ることができる。彼らこそ、正しい「はかり」を得た人であり、彼らによって、それが可能なのだ。
イエス様は言った。全世界に出ていきなさい、と。イエス様は既に、天においても地においても、いっさいの権威が既に与えられた。もし流し出さないで留まっているなら、水は良くならず、塩のまま残ってしまう、とも書いてある(エゼキエル47:11)。だから、イエス様の権威を身に帯びて、全世界に出ていき福音を伝えるべきだ。多くのいのちを、死から救い出すために。
どんどん、まことの神殿であるキリストを計って、どんどん流し出し、海が水で覆うように、主エホバの栄光を地の隅々にまで至らせる皆さんでありますように、イエス様のお名前によって祝福します!
いのちが流れ出て行くために(エゼキエル37-47章)
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※メッセージテキストは後程アップします。
(音声データは毎週土曜日にアップ予定です)
37:1 主の手がわたしに臨み、主はわたしを主の霊に満たして出て行かせ、谷の中にわたしを置かれた。そこには骨が満ちていた。
37:2 彼はわたしに谷の周囲を行きめぐらせた。見よ、谷の面には、はなはだ多くの骨があり、皆いたく枯れていた。
37:3 彼はわたしに言われた、「人の子よ、これらの骨は、生き返ることができるのか」。わたしは答えた、「主なる神よ、あなたはご存じです」。
日本には1500年代、福音が入り、多くの人々が福音に触れたが、やがて彼らは迫害され、多くの殉教者の血が流された。
果たして、切り殺され、干からびてしまった骨々は生き返る事が出来るだろうか?
主こそ、ご存知である。
37:4 彼はまたわたしに言われた、「これらの骨に預言して、言え。枯れた骨よ、主の言葉を聞け。
干からびてしまった骨に対しても、御言葉を語ると、変化が起きる。
37:5 主なる神はこれらの骨にこう言われる、見よ、わたしはあなたがたのうちに息を入れて、あなたがたを生かす。
37:6 わたしはあなたがたの上に筋を与え、肉を生じさせ、皮でおおい、あなたがたのうちに息を与えて生かす。そこであなたがたはわたしが主であることを悟る」。
37:7 わたしは命じられたように預言したが、わたしが預言した時、声があった。見よ、動く音があり、骨と骨が集まって相つらなった。
37:8 わたしが見ていると、その上に筋ができ、肉が生じ、皮がこれをおおったが、息はその中になかった。
主は、死んだような状態から生き返らせて下さる事をされる。かつては骨のような状態から人並みの状態にまで戻されたキリスト者は大勢いるし、そのように求めている人は多い。
しかし、「神の息」が無い状態では、マネキンのように死んだも同然の、「行い」の無い信仰状態である。
だから神の息、神のルアッハ、神の霊が必要である。
37:9 時に彼はわたしに言われた、「人の子よ、息に預言せよ、息に預言して言え。主なる神はこう言われる、息よ、四方から吹いて来て、この殺された者たちの上に吹き、彼らを生かせ」。
37:10 そこでわたしが命じられたように預言すると、息はこれにはいった。すると彼らは生き、その足で立ち、はなはだ大いなる群衆(Force, Army)となった。
主の霊が入るなら、自分の足で立てなかった者も立ち、暗闇の王国、サタンの座をも、大胆に攻撃し勝ち取る大いなる軍隊になる事が可能なのだ。
主の息、それは、全地を覆っている。
創世記1:2の、あの暗闇と混沌の中で、主の霊はめんどりがひなを覆うように覆っていた。
ヨブ38:7 かの時には明けの星は相共に歌い、/神の子たちはみな喜び呼ばわった。
38:8 海の水が流れいで、胎内からわき出たとき、/だれが戸をもって、これを閉じこめたか。
38:9 あの時、わたしは雲をもって衣とし、/黒雲をもってむつきとし、
天地が創造された時、海の水が胎内から破水して出た時、それを主は乱雑に広がらないよう閉じ込め、主の霊によって覆い、むつき(ハトラー)によって守り囲っていた。
混沌の中においても、主の霊が覆い、守っておられるのだ。この日本を、世界を、切り殺された骨々を。
混沌と死の大地にいのちの潤いの水が流れだし、いのちの水が全地を覆うようになるために、どうすれば良いか。
続くエゼキエル書の箇所に、その答えがある。
40:1 われわれが捕え移されてから二十五年、都が打ち破られて後十四年、その年の初めの月の十日、その日に主の手がわたしに臨み、わたしをかの所に携えて行った。
40:2 すなわち神は幻のうちに、わたしをイスラエルの地に携えて行って、非常に高い山の上におろされた。その山の上に、わたしと相対して、一つの町のような建物があった。
エゼキエルは、バビロン捕囚下のイスラエルの民に、主の言葉を伝える預言者として用いられた。
この時代、ソロモンが建てた豪華絢爛な神殿は、イスラエルが代々犯して来た罪の故に、異邦人に破壊され尽くした後だった。神殿が打ち壊されてから十四年後、彼は、主が見せられた幻の内に、非常に高い山の上に建てられた、人のものならぬ神殿へと上げられた。
『神がわたしをそこに携えて行かれると、見よ、ひとりの人がいた。その姿は青銅の形のようで、手に麻のなわと、測りざおとを持って門に立っていた。 ・・・その人の手に六キュビトの測りざおがあった。そのキュビトは、おのおの一キュビトと一手幅とである。』(3-5節)
この、主の使いが持つ測りは、世の測りとは違う。人が使い慣らされたはかりに、一手幅、加えられたものだ。
人手に依らない神の宮、それは、人の常識、人の習慣的な計りでは、計る事は禁じられている。それに、一手幅加えた測りを用いるように御使いに言われた。
ヘブライ語で、ユッドには、手の意味がある。
ユッド ヘー、バブ、ヘー、これがエホバの御名であるが、そこからユッド(手)を除くとハバー、息を吹き込む、成る、という意味である。
手、イエス様の十字架で釘打たれた手、それを加えられる時、
הוה:"havah {haw-vaw'}"; a primitive root (compare 'avah, hayah) supposed to mean properly, to breathe; to be (in the sense of existence) -- be, X have.息、に、手、すなわち、イエス様の十字架で釘打たれた手、それを加えられる時、ユッド ヘー、バブ、ヘー、エホバの御名が完成し、主のわざが完成するのだ。
エゼキエル40章以降、この、人のはかりに、手幅が加えられた、人のものならぬ測りざおを用いて、主が示された新しい神殿、すなわち罪ある人間が建てたものではない神殿を、主の測りで測って行く内に、次々と、色々な示しや預言が与えられて行く。
そして、神殿の入り口に連れ戻されると、水が神殿の敷居の下から流れ出していた。
47:1 そして彼はわたしを宮の戸口に帰らせた。見よ、水の宮の敷居の下から、東の方へ流れていた。宮は東に面し、その水は、下から出て、祭壇の南にある宮の敷居の南の端から、流れ下っていた。
47:2 彼は北の門の道から、わたしを連れ出し、外をまわって、東に向かう外の門に行かせた。見よ、水は南の方から流れ出ていた。
47:3 その人は東に進み、手に測りなわをもって一千キュビトを測り、わたしを渡らせた。すると水はくるぶしに達した。
人のものならぬ主の建てた神殿を、主の測りに従って測って行くなら、いのちを潤す水が流れ出して来る。
まことの神殿は、イエス様であり(ヨハネ2:21)、この神殿を、主の示す物差し、すなわち御言葉によって正しく測り、寸法もきっちり正しく調べて行くなら、行く程、いのちの水、潤す水が内から流れ出して行くのだ。
47:4 彼がまた一千キュビトを測って、わたしを渡らせると、水はひざに達した。彼がまた一千キュビトを測って、わたしを渡らせると、水は腰に達した。
47:5 彼がまた一千キュビトを測ると、渡り得ないほどの川になり、水は深くなって、泳げるほどの水、越え得ないほどの川になった。
47:6 彼はわたしに「人の子よ、あなたはこれを見るか」と言った。それから、彼はわたしを川の岸に沿って連れ帰った。
47:7 わたしが帰ってくると、見よ、川の岸のこなたかなたに、はなはだ多くの木があった。
流れ出したいのちの流れを、主の測りで測る毎に、その潤す水、いのちの水は、どんどんかさが増していく。最初は足首ほどから、次にひざ程、次に腰ほどに、そして、渡る事にできない川にまで至る。
『彼はわたしに「人の子よ、あなたはこれを見るか」と言った。それから、彼はわたしを川の岸に沿って連れ帰った。』(6節) 私達も、流したら流しっぱなしではなく、結果、どんな実を結んだか、見に戻るべきだ。
47:8 彼はわたしに言った、「この水は東の境に流れて行き、アラバに落ち下り、その水が、よどんだ海にはいると、それは清くなる。
47:9 おおよそこの川の流れる所では、もろもろの動く生き物が皆生き、また、はなはだ多くの魚がいる。これはその水がはいると、海の水を清くするためである。この川の流れる所では、すべてのものが生きている。
47:10 すなどる者が、海のかたわらに立ち、エンゲデからエン・エグライムまで、網を張る所となる。その魚は、大海の魚のように、その種類がはなはだ多い。
水は、神殿の聖所から流れ出ている。まことの神殿はイエスキリストであり、私達もイエス様を信じる時、「腹(コイリア:下腹、子宮、知情意の座)」の奥底から、生ける水が川々となって流れ出るようになる。(ヨハ7:38)
その”水”が入るなら、その水は良くなるため、生き物が群がるようになり、非常に多くの魚がいるようになる。
この水が流れこむなら、死海さえいのちが多くなり、海岸には漁師達が住むようになり、網を引く場所となる。
死海のようだったサマリヤの女も、イエス様を受けた時、いのちが湧き出し、いのちが群がるようになった。
『ただし、その「沢(ビツサァー:沼地、湿地帯)」と「沼(ゲベー:貯水池、プール)」とは清められないで、塩地のままで残る。』(11節)
水が流れず留まっている所、人為的に水を貯めこむような所は、良くならず、塩のまま残ってしまう。どんなに良質の御言葉が流れて来ても、どんなにイエス様の魅力を教えられても、ただ受けるばかり・頂くばかりで、流し出さないなら、塩のまま残り、死海のように、いのちがいなくなってしまう。
御言葉のいのちが流れこんで来たなら、それが口まで溢れているなら、留めて置いてはならない。御言葉も、ただ暗記するだけで、宛先が明確でないなら、宛先不明の手紙のように、どこぞに落ちてしまうのだ。
47:12 川のかたわら、その岸のこなたかなたに、食物となる各種の木が育つ。その葉は枯れず、その実は絶えず、月ごとに新しい実がなる。これはその水が聖所から流れ出るからである。その実は食用に供せられ、その葉は薬となる」。
毎月実が成る・・・一体どれだけ多産で、いのちに溢れているのだろうか。
私達の内に、キリストという、生ける水のいのちの泉を据えるなら、御霊の実は何も頑張らずとも、自然と、絶える事なく、実らせ続けるものである。そしてそれは自分ばかりでなく、周囲も潤し、癒やすものとなる。
人の建てた神殿を、人の物差しで測っても、ただ疲れるしか無いが、人のものならぬ、主の建てた神殿・イエス様を、主の物差しである御言葉に従って測って行くなら、いのちを潤す水がどんどん流れ出して来る。
この、いのちの源・イエス様を御言葉で正しく測り、泉を湧き出させ、湧き出る水を測って、ますます流し出し、多くのいのちと実りを獲得して行く時、主のいのちの水を流し出す者となり、ついには全地を主のくださる潤いの水が、「腹(コイリア:下腹、子宮、知情意の座)」の奥底から、生ける水が川々となって流れ出るようになる。(ヨハ7:38)
ハバクク2:14 海が水でおおわれているように、地は主の栄光の知識で満たされるからである。
この言葉が成っている事を、信じるだろうか?
アーメン、今、いかに混沌に見えるような現状でも、主の霊は覆っており、そして私達が主の与えてくださったはかりで計る時、いのちの水が流れていき、いのちが実体化して行くのだ。
なぜなら、福音の伝達は、人間の、伝道の愚かさによって成就して行くようにと、主が定められたからだ。
義人は安息に入るが、欲深い者は疲れ知らずに諍い続ける(イザヤ57:1-13)
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