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主の働きをした人にはその家族も保証を受けられる(2列王記4:1-7)
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- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(旧約) » 2列王記
- 執筆 :
- pastor 2017-1-19 8:30
主の働きをした人にはその家族も保証を受けられる(2列王記4:1-7)
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主は、主を恐れ敬うしもべを貧しいまま捨て置かれるお方ではない。
邪悪な時代の中で、正統に扱われないとするなら、そして、主に泣きついて主にあるいは主の預言者に求めるなら、主は豊かに助けて下さる事が可能なお方である。
4:1 預言者のともがらの、ひとりの妻がエリシャに呼ばわって言った、「あなたのしもべであるわたしの夫が死にました。ごぞんじのように、あなたのしもべは主を恐れる者でありましたが、今、債主がきて、わたしのふたりの子供を取って奴隷にしようとしているのです」。
奴隷とする、奴隷として虐げる。それはイスラエルの民の間では、あってはならないことである。(レビ記25:39−43)
しかし時代が悪いので、このままだと、主を恐れ敬う人が身売りをして悲惨な目に遭わなければならない。その時、彼女は、主の預言者に泣きついて行った。
4:2 エリシャは彼女に言った、「あなたのために何をしましょうか。あなたの家にどんな物があるか、言いなさい」。彼女は言った、「一びんの油のほかは、はしための家に何もありません」。
4:3 彼は言った、「ほかへ行って、隣の人々から器を借りなさい。あいた器を借りなさい。少しばかりではいけません。
4:4 そして内にはいって、あなたの子供たちと一緒に戸の内に閉じこもり、そのすべての器に油をついで、いっぱいになったとき、一つずつそれを取りのけておきなさい」。
エリシャは、からの器を借りなさい、それも一つや二つではならない、と行った。
彼女は、この言葉に何の言い返しも、混ぜ者もしなかった。
そんな子として何になるのですか、物理的に不可能です、とか。
しかし、そんな言い返しをする人は、主から何ももらえない。
また、エリシャはたくさん借りて来なさい、と言った。
それに対し、へんな謙虚を起こして、隣家に借りに行く時、ひとつだけでいいですから、などとは彼女は借りなかった。エリシャの言葉に望みをもって、たくさん、借りてきた。
結果、彼女は借りた器の分、たくさん油を得る事ができた。
4:5 彼女は彼を離れて去り、子供たちと一緒に戸の内に閉じこもり、子供たちの持って来る器に油をついだ。
4:6 油が満ちたとき、彼女は子供に「もっと器を持ってきなさい」と言ったが、子供が「器はもうありません」と言ったので、油はとまった。
4:7 そこで彼女は神の人のところにきて告げたので、彼は言った、「行って、その油を売って負債を払いなさい。あなたと、あなたの子供たちはその残りで暮すことができます」。
神の必要の満たしは、ちょびちょびではない。たっぷり、である。
ただし、それには私達の側の器次第である。
彼女は望みをもって、たくさん、器を借りたからこそ、たくさん、得た。
しかしエリシャの言葉に、預言者の言葉に少ししか信頼せず少ししか借りなかったら、少ししか受けられなかった。
私達は大いに望みを持つべきであり、大胆に恵みの見座に近づき、お理にかなった助けを得るべきである。
うしろの戸を閉じて、とエリシャは言った。主の聖霊のみわざは、ひそかな所の信仰者の集いの中で行われるものである。
うしろの戸を閉じて祈る所に働くものである。
イエス様の復活の日、弟子たちは戸を閉じていたが、主は、聖霊の油を、からの器となった弟子たちに注いで下さり、そこから始まってその聖霊の油は全世界に広まり、今、私達にも届いた。
私達も、器をからにして、主から聖霊の油を注いで頂く望みを持って、御前に進み行くのである。
エゴ、エゴを主張して口を閉ざされたザカリヤ(ルカ1:5-25)
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- pastor 2017-1-18 23:20
主からの救いが与えられない理由は、主にではなく自分にある(イザヤ50:1-4)
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- pastor 2017-1-18 22:20
三国の王たちに示された主の憐れみ(2列王記3:21-27)
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主は憐れみ深い。イスラエル、勝手に始めた戦争なのに、状況が悪くなると、神のせいにする。
自分にみつぎを収めてくれなくなると、勝手に招集し、勝手に戦いを仕掛け、しかし無計画ゆえに勝手に自滅しそうになると、そこで初めて神の名を出して、神のせいにする。
人間にはそのような所がある。困った時の神頼み、ならまだしも、困った時の神のせいにする、性質が。
しかし主はヨシャパテのゆえに、憐れみをほどこされる。
それはエリヤの時代から、ずっと同じである。神はすぐに滅ぼすような事はされない。
3:21 さてモアブびとは皆、王たちが自分たちを攻めるために上ってきたのを聞いたので、よろいを着ることのできる者を、老いも若きもことごとく召集して、国境に配置したが、
3:22 朝はやく起きて、太陽がのぼって水を照したとき、モアブびとは目の前に血のように赤い水を見たので、
3:23 彼らは言った、「これは血だ、きっと王たちが互に戦って殺し合ったのだ。だから、モアブよ、ぶんどりに行きなさい」。
モアブは、水がないはずの所に、太陽の反射で赤く見える水を、勝手に血だと解釈し、勝手に同士討ちして流された血だと思い込んで、無防備に進み行く。
3:24 しかしモアブびとがイスラエルの陣営に行くと、イスラエルびとは立ちあがってモアブびとを撃ったので、彼らはイスラエルの前から逃げ去った。イスラエルびとは進んで、モアブびとを撃ち、その国にはいって、
新改訳では攻め入った、と訳されているが、ボウは「入る」の意味。つまりモアブは、無防備に、入って行ったのだ。
のこのことやられに行ったようなものだ。
3:25 町々を滅ぼし、おのおの石を一つずつ、地のすべての良い所に投げて、これに満たし、水の井戸をことごとくふさぎ、良い木をことごとく切り倒して、ただキル・ハラセテはその名を残すのみとなったが、石を投げる者がこれを囲んで撃ち滅ぼした。
イスラエル達は、何もしていない。向こうから勝利が舞い込んだのだ。
このようにして下さる主を褒め称えるべき、だが、あいにくその後主に栄光を捧げたのはヨシャパテだけだった。
3:26 モアブの王は戦いがあまりに激しく、当りがたいのを見て、つるぎを抜く者七百人を率い、エドムの王の所に突き入ろうとしたが、果さなかったので、
3:27 自分の位を継ぐべきその長子をとって城壁の上で燔祭としてささげた。その時イスラエルに大いなる憤りが臨んだので、彼らは彼をすてて自分の国に帰った。
このような人身御供は偶像礼拝の土地で行われる。この日本でも。
モアブの神はケモシュで、手を差し伸べたケモシュ像の上に子供を置いて、下から火を炊き、子供の叫び声はドラムでかき消して捧げる。そのような神の下に居たいだろうか。いのちの君なる神は、のような偶像礼拝システムの存在を許さない。
かつて太平洋戦争では、神風特攻隊による自分の命もものともしない戦いでアメリカは戦慄したが、しかし実際の戦果は、
正規空母=0/護衛空母=3/戦艦0/巡洋艦=0/駆逐艦=撃沈13/その他(輸送船、上陸艇など)撃沈=31
撃沈の合計は47隻である。1隻沈めるために81人もの兵士が死ななければならなかった、ということだ。しかも戦果のほとんどが、米軍にとって沈んでも大勢に影響のない小艦艇だった。(http://gendai.ismedia.jp/articles/-/50088?page=3)
無駄に命を散らしていった命が際立っただけだった。日本はそれを美談にしてしまったが、皆さんは犠牲を強いるような上司の下で働きたいだろうか。
神は、いのちの君である。そんな国は、残念ながら、勝利させない。
神の憐れみは注がれている。立ち返るべきである。
イスラエル、ユダ、エドムはまことの神の栄光を見た。しかし、ユダ以外は立ち返らなかった。
主に立ち返らないなら、ただ、滅びだけが待っている。それは、手を離せば落ちていく法則と同じである。ただ、無意思無情な法則と違う事は、神は憐れみの期間を設けられる所である。
エデンに忍び寄る誘惑者を撃退する方法(マタイ4:1-11)
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勝手に行動し勝手に危機に陥って神のせいにした者に、憐れみを施して下さった神(2列王記3:1-20)
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- pastor 2017-1-16 9:10
自分の家を喜びの園とするために(創世記2:15-17)
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賛美集会〜第二礼拝 Youtube動画
賛美集会音声
第二礼拝音声
週報/メッセージ(説教)概要
今年はじめに与えられた御言葉はイザヤ65章から、主は新しい創造をされる事、そして、主が創造されたものは喜びと楽しみ、笑いに満ちたものだという事だった。主は、人が喜ぶ事を望んでおられる故に、主は人を創られると、早速エデン(喜び)の園に置かれた。主はエデンを散歩(ハーラフ)し(3:8)、アダムとエバも主と共に歩み、そこには完全な秩序があり、彼らは何のわだかまりも無く、喜びの交わりをしていた。
主は御言葉によって全てのものを創造され、そして御言葉によって創造されたものは全て「良い」ものだ。
人が御言葉に従って歩む時、主の良き創造の中で大いに喜び楽しむ事ができる。
しかし御言葉に逆らうなら、それを続ける事はできない。御言葉に逆らう時、人は主の御顔から逃げ隠れし、主の御言葉による指摘に対し言い訳をしたり、人のせいにしたり、ついには神のせいにしたりしてしまい(3:8-13)、ついには、エデン(喜びから締め出されてしまう。主が人をエデンから追放した、と言うより、人が「喜びの源」すなわち御言葉を追放し、それ故、みずからエデン(喜び)を追放してしまったのだ。
私たちはどうしたら、主の創造の良き所、エデン(喜び)に留まり続けられるのか。それを本日学びたい。
エデンを「喜びの園」としてキープし続ける責任は、私達・人間の側にある。
『主なる神は人を連れて行ってエデンの園に置き、これを耕させ、これを守らせられた。』(創世記2:15)
楽園は、何もしなくて良いバカンス地ではなく、「耕す」事、「守る」事の二つをしなくてはならない所である。
まず、「耕す」と訳された語「アバァド」は「従事する」「仕える」の意味があり、「耳」と関連ある言葉である。(出21:6)
喜びの園は、喜びを豊かに実らせ続けるために、主の御言葉を耳で聞き、それに従事するべき所である。
神はまことのぶどう園の農夫であり(ヨハネ15章)、枝の中で実を結ばないものは、剪定する(ヨハネ15:2)。
同様に私達も、御前で実を結ばない「わざ」や「考え方」などを、自分から断ち切り、実を結ぶものには、どんどん肥料を与え、「喜び」を豊かに実らせるように働くべきなのだ。
次に、「守る」のヘブライ語「シャマール」は、持続させガードする事である。すなわち、主の喜びを邪魔するいばらやあざみを刈り取り、ぶどう畑を荒らすきつねを追い出し、入って来ないようガードするのだ。
これを怠ると、次のようになる。『わたしはなまけ者の畑のそばと、知恵のない人のぶどう畑のそばを通ってみたが、いばらが一面に生え、あざみがその地面を覆い、その石垣はくずれていた。』(箴言24:30 -31)
私達は夫婦関係や親子関係、経済などが「喜びの園」となるためには、御言葉によって維持管理すべきであり、それを怠けるなら、いばらやあざみが生え、石垣は崩れ、荒らすきつねが自由に出入りし放題となり、大切な夫婦・親子関係が、経済が荒らされてしまう。だから、主が命じた通り「耕し」「守る」べきである。
また、主はエデンにおいて命じられた。「あなたは園のどの木からでも心のままに取って食べてよろしい。しかし善悪を知る木からは取って食べてはならない。それを取って食べると、きっと死ぬ」(2:16-17)
喜びの園の中央には、「いのちの木」と、「善悪を知る木」があって、主は「善悪を知る木」から取って食べるな、と言われた。それと同じように、私達の家庭も、いのちを選んで食べるか、それとも善悪知識を選んで食べるか、という二者択一がいつも置かれていて、そして善悪を取って食べるなら、死をもたらしてしまう。
イエス様の言葉は霊であり、いのちである。(ヨハネ6:63) 私達が自分の家を、喜びの園としてキープし続けたいのなら、いつも、御言葉を取って食べ続け、自分の独善的善悪判断を捨て続けるべきなのだ。
アブラハムの妻サラは、主の御言葉に付け加えをしてしまい(16章)、喜びも希望も失ってしまった。
主が直接現れ、約束の御言葉を思い起こさせても、彼女は心の中で笑い(ツァハァク)、「わたしは衰え、主人もまた老人であるのに、わたしに楽しみ(エデン)などありえようか」と言った(18:12)。
しかし主は、恵みによって、サラの喜びを失ってしまった心に手(ユッド)を加え、聞けない耳・信じられない心を剪定し、彼女にイサク(イツァハァク = ツァハァク + ユッド)を回復させて下さった。
アダムは、エデンの園をしっかり管理し続け、一定の時を経た後に、主は伴侶を、家庭を与えられた。
結婚生活も家庭も、御言葉によって維持管理できる人が、豊かな喜びの実を結ばせる所である。
もしそこに、手前勝手な善悪判断を持ち込むなら、そこはたちまち責任のなすりつけ合いの場、いさかいの場となり、主の御前にやましくなり、主の臨在を恐れ隠れなくてはならない。家庭というエデンを御言葉で管理し、喜びの実りを豊かに結ばせる皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!
ヨーロッパのはじまり - パウロの夢に現れたマケドニア人の懇願(使徒16:6-15)
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- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 定期祈祷会メッセージ
- 執筆 :
- pastor 2017-1-13 23:50





