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決して奪われない喜びを創造して下さる主(創世記18:9-15)
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週報/メッセージ(説教)概要
年明けの瞬間から始まった天声の礼拝において、イザヤ65章から示された事は、主が新しく創造して下さる「新創造」を、いついつまでも喜び楽しめ、という事だった。主の御手が働かれる所には、喜び、楽しみ、笑いがある。主の御心は、私達がいつも主にあって喜ぶ事だ。(ヨハネ15:11, 17:13, 1テサロニケ5:16)
主は、人を創られると早速、創られた人をエデン(意味:喜び)の園に置かれた。人は本来、主の創造の源である御言葉の中に留まるべきだが、御言葉に背くなら、喜びの園から追放されてしまう。しかし御言葉に留まるなら、主の御言葉による新創造が働き、喜びが帰って来る。今回の箇所は、主が3人の人の姿をとってアブラハムに現れ、喜びを失ってしまった妻・サラに働き、彼女に喜びを返して下さる場面である。
アブラムが99歳の時、主は彼に現れ、アブラムにはアブラハム、妻サライにはサラという新しい名前を与え、またサラには男の子が生まれる事を約束し、その名を「イサク(意味:彼は笑う)」としなさい、と言われた。
その事があってから、まだそんなに日が経っていない時、主は3人の旅人の姿で彼らに現れる。
『そのひとりが言った、「来年の春、わたしはかならずあなたの所に帰ってきましょう。その時、あなたの妻サラには男の子が生れているでしょう」。サラはうしろの方の天幕の入口で聞いていた。』(創世記18:10)
彼らは明らかに只者ではないが、サラはこの不思議な出来事を見ても、まだ心が塞がれていた。
『それでサラは心の中で笑って(ツァハァク:嘲笑、苦笑)言っ た、「わたしは衰え、主人もまた老人であるのに、わたしに楽しみ(エデン)などありえようか」。』(12節) 彼女の心を塞いでいたものは、自分には子が生まれないという、何十年もずっと積み立てて来てしまった現実だった。子が生まれる事を、何十年も望みながらも、ずっと叶えられずに過ごし、年老いて、ついに女の道も途絶えてしまった現実。
その現実をなんとか受け止め、強がって、世間で流行っていた方法に従い、女奴隷にアブラハムの子を生ませてみても、かえってもっと惨めで悔しい思いをするだけだった。だから今更、こんな不思議な人達に「子が生まれる」と言われても、わたしに何の楽しみ(エデン)があろうか、と、心でつぶやくしかなかった。
ところが心にその言葉が浮かんだとたん、彼女は心に巡らしていた「現実」から「真実」に引きずり出される。
『主はアブラハムに言われた、「なぜサラは、わたしは老人であるのに、どうして子を産むことができようかと言って笑った(ツァハァク)のか。主にとって不可能なことがありましょうか。来年の春、定めの時に、わたしはあなたの所に帰ってきます。そのときサラには男の子が生れているでしょう」。サラは恐れたので、これを打ち消して言った、「わたしは笑いません」。主は言われた、「いや、あなたは笑いました」。』(13-15節)
サラはとてつもなく驚いただろう。恐れただろう。しかしそれは幸いである。絶望と倦怠感に淀み切っていた心に、主が御手を触れ、「真実」によってそれを粉々に砕き、新しい創造を与えられるのだから。
そして実際に来年、100歳のアブラハム、90歳のサラの間に、息子イサクが生まれたのだ。
主はなぜ「笑い」にこだわられたのか。ヘブライ語で見ると、主の意図が浮かび上がってくる。
「ツァハァク」(צְ (ツァディ)+חָ (ヘット)+ק (クフ))の意味は「笑い(嘲笑、冷笑など)」だが、その最初に「יִ (ユッド)」が加わるとイツァハァク、すなわちイサクとなる。文字ユッドの意味は「手、働き」であった。
サラは最初、心なしの笑いをした。ため息混じりの苦笑しか出て来なかったが、そこに主の手が加わった。
人の笑いや嘲笑に、主の御手が加わると、主の新しい創造が生まれ、死んだも同様のアブラハムとサラの間にイサクが、すなわち、決して失われない真の笑いが生まれ、そしてその子孫は、星の数のようになる。
なお、ゲマトリア(ヘブライ語の数字変換)から見ると、ツァディは90、ヘットは8、クフは100であるが、100と90は、イサクが生まれた時のアブラハムとサラの歳だ。そして8は、割礼の日の数字である。主は、アブラハムに割礼の契約を与え、サラも、硬い肉的な思い込みに切り込みを入れられ、そうしてイサクが生まれた。
「サラは言った、「神はわたしを笑わせてくださった。聞く者は皆わたしのことで笑うでしょう」。」(21:6)
私達も、どんなに無気力な笑いや冷笑しか出てこなくても、そこに主の御手が働く時、人のわざでは到底有り得ない「いのち」が創造される。そして主が働く時、私達は決して奪われない喜びと笑いに満ち溢れる。
今、日本のインターネット上は、冷笑、苦笑、望みを失った笑いに満ちている。この国を真の喜びで満たす事が出来るお方は、ただ、主イエス様だけである。主によって決して奪われない喜びと笑いに満たされ、そうしてこの国に真の喜びを届けて行く皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!
祝福と呪いの選択、そして祝福を選んだ人に与えられる新創造の喜び(イザヤ65:1-16)
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- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 定期祈祷会メッセージ
- 執筆 :
- pastor 2017-1-6 23:50
主が私たちに望んでおられる事 - いつも喜び、絶えず祈り、全ての事について感謝する(1テサロニケ5:16-24)
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- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 定期祈祷会メッセージ
- 執筆 :
- pastor 2017-1-6 20:50
産んでも育ててもいない子供たちが所狭しと溢れるようになる幸い(イザヤ49:14-21)
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- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(旧約) » イザヤ書
- 執筆 :
- pastor 2017-1-4 21:50
日々、新しく造り変えられていく事を目指して(イザヤ65:17-25)
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週報/メッセージ(説教)概要
新年おめでとうございます!古いものを過ぎ去らせ、新しくしてくださる主を誉めたたえます。
主を喜ぶ人を、主は喜んでくださり、特に、初物を捧げる人を主は喜ばれ、その人には、さらに増し加えて与えて下さいます。世の中には、新年最初のこの時間を、レジャーやイベントに興じる人々は多いですが、そんな中、誰よりも先んじて主に捧げた皆様を、主が、誰より先んじる祝福を与えて下さいますように!
『見よ、わたしは新しい天と、新しい地とを創造する。先の事は覚えられることなく、心に思い起すことはない。しかし、あなたがたはわたしの創造するものにより、とこしえに楽しみ、喜びを得よ。見よ、わたしはエルサレムを造って喜びとし、その民を楽しみとする。わたしはエルサレムを喜び、わが民を楽しむ。』(17-19)
主は確かに新天新地を創造されますが、イエス様を信じる私達は現在、その前味わいとして、日々、新しくされています。それはイエス様を信じる信仰と、それに基づいた歩みに基づくものですが、主はそんな私たちに「わたしの創造するものにより、とこしえに楽しみ、喜びを得よ。」と言われます。(18節)
「楽しみ喜べ」。命令として言われたからには、私たちは一切遠慮する事なく、主が与えて下さる新創造を、ただ、心の底から喜べば良いのです。
今、私たちは確かに主が創造された世界の中に生きてはいますが、アダムとエバは、その主が創造されたあらゆる良きものを、台無しにしてしまいました。主の言葉に逆らい、自分勝手な行動をしたからです。
彼ら以来、全被造物は破壊され、汚染され、その呪いと悲しみ・うめきの中にあります。全被造物は、神の子達の現れを待ち望んでいます。イエス様を信じて神の子とされた者達のあらわれを。(ローマ8章)
私たちは新創造、すなわち神の子に変えられる事を、実際的な希望として、望んで生きていくべきです。
私たちが全く新しく変えられ、その新創造の中で喜びを得るために支払うべきものがあります。それは、信仰です。祝福と慰め、癒し、力、勝利は、それを主に支払った人達にこそ与えられる特権です。
イエス様を自分の主とする人は、確かに救われ、新しく造り変えられ、喜びと開放感を感じるようになります。
しかし肝心な事は、それをキープし続け、イエス様と共に歩み続けていく事です。
信仰の先人たち、アブラハムやノア、エノクは皆、「神と共に歩み続けた人達」です。彼ら自身が誰よりも強かったり正しかったりしたからではありません。彼らが「主と共に歩んだ」からこそ、彼らは主の民とされ、義人として数えられたのです。私たちはキリストと共に歩み、日々救われ、義とされ、究極的には、キリストの姿形に変えられる事が目標です。 『しかし、わたしたちの国籍は天にある。そこから、救主、主イエス・キリストのこられるのを、わたしたちは待ち望んでいる。彼は、万物をご自身に従わせうる力の働きによって、わたしたちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じかたちに変えて下さるであろう。』(ピリピ3:20-21)
私たちは最終的には栄光の姿、永遠のものに変えられる、という点にこそ希望を持たなくてはなりません。
栄光の体に変えられたの自分の姿を、しっかり見れない所に、失望の原因があるからです。
イエス様に従って歩む歩みの中では、確かに、問題の解決や必要の満たし、勝利や癒しはあるでしょう。
ただ単に、願い事を叶えたいというのであれば、そういう「神々」と呼ばれるものは、世の中沢山あります。
しかし、全てを最善へと導き、最終的には神の御子の栄光の姿形へと変えて下さる神は、唯一、イエス様だけです。ですから、諸々の問題が一時的に解決された事を喜ぶだけでなく、問題が起きたなら、キリストへと向き、御言葉から解決を頂き、キリストの姿へと一歩前進した事をしっかり認知し、それをバネにして、さらにさらにキリストの似姿へと変えられて行く、というサイクルに入る事が必要です。
問題が起きた、それが解決した、また問題が起きた、それが解決した、の連続だけでは、ただ平行線をたどるだけで、進歩がありません。もし主が問題を与えて下さったなら、イエス様を見上げ、御言葉を元に解決して行こうとするなら、その過程で信仰と忍耐と御言葉が自分自身に混ぜられ、その都度、キリストの似姿に変えられて行き、より問題に捕われにくい、より完全に近づいた者とされ、そうしてどんどんキリストに近づいていくのです。
この2017年、皆さんの身に、実生活に、さらに新創造が体現され、さらにキリストに似た者とされ、神である主に喜ばれる者とされていく皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!