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荒野で遠回りする経験の必要性(出エジプト記13:17-22)
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- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(旧約) » 出エジプト記
- 執筆 :
- pastor 2012-12-13 21:04
礼拝説教メッセージ音声:荒野で遠回りする経験の必要性(出エジプト記13:17-22):右クリックで保存
イスラエルはエジプトを脱出し、神が約束されたカナンの地への旅を始めた。
エジプトからカナンまでは、直線距離で約300キロ、約2週間で行けるとよく言われているが、なぜ神は、最短ルート・最短時間で、約束の地に行かせる事をしなかったのか。
その理由は、運転の実技も学科も学んだ事の無い子供に、いきなり運転させない理由と一緒である。
『パロが民を去らせた時、ペリシテびとの国の道は近かったが、神は彼らをそれに導かれなかった。民が戦いを見れば悔いてエジプトに帰るであろうと、神は思われたからである。神は紅海に沿う荒野の道に、民を回らされた。イスラエルの人々は武装してエジプトの国を出て、上った。』(出エジプト記13:17-18)
出エジプトしたイスラエルの民は四百年もの間、奴隷だった。長い期間、奴隷として培ってきてしまったイスラエル民族の有様を主はご存知であり、まずそこを取り扱う必要があったのだ。
人はよく想像する。自分の人生の、あの荒野の40年さえ無ければ、あの無駄な時期さえ無ければ、もっと多くの時を有意義に過ごせたのに、と。
しかし、主のご配剤には、一切の無駄は無い。
もし、あなたの人生で一見無駄とも思えるような、荒野を放浪するかのような時期を通らされていたとすれば、その時期は、将来の安息と祝福を受ける上で必要だったという事だ。
イスラエル民族が荒野の道への迂回が必要だったのは、まず、主がモーセを神の山ホレブで召しだした時、主が「イスラエルの民はこの山(ホレブ)で神に仕えなくてはならない」と、元々言われていたからだ。(3:12)
それはイスラエル人に礼拝させるためであり、イスラエル民族に律法をさずけ、約束の地に入りそこで暮らす際のルールを教えるためであり、また、片時たりとも主の助けが無ければ死んでしまうような荒野 - パレスチナ地方の荒野は水も緑も無い岩砂漠 - において、主からの直接的な養いを受けつつ、主に従順してより頼む事を、実践的に学ぶためであった。
つまり、イスラエル民族にとって、荒野は約束の地で神の民として暮らす為の実技と学科を学ぶ場所であり、そこで整えられた人が、はじめて約束の地に入って暮らす事が出来るのだ。
『主は彼らの前に行かれ、昼は雲の柱をもって彼らを導き、夜は火の柱をもって彼らを照し、昼も夜も彼らを進み行かせられた。』(出エジプト記13:21)
主はまず、雲の柱と火の柱によってイスラエル民族を導かれた。
それは「神の導きに従って歩むこと」「主の臨在と共に歩むこと」を学ぶためである。(民数記9:15-23)
また、雲の柱と火の柱は、昼は暑さを避ける陰となり、あらしと雨を防ぐ避け所となり、夜は闇を照らす光となる。(詩篇105:39、イザヤ4:5-6)
そうして主の守りに身を避ける事を、実体験にて学ぶためである。
こうして荒野において、主により頼む事を学び、実体験し、そうして訓練を受けてから約束の地に入ることができるのだ。
しかし、荒野で訓練を受けてきた訓練生であるイスラエル民族の大部分は、惨憺たるテスト結果だった。
『そこで、会衆はみな声をあげて叫び、民はその夜、泣き明かした。またイスラエルの人々はみなモーセとアロンにむかってつぶやき、全会衆は彼らに言った、「ああ、わたしたちはエジプトの国で死んでいたらよかったのに。この荒野で死んでいたらよかったのに。
なにゆえ、主はわたしたちをこの地に連れてきて、つるぎに倒れさせ、またわたしたちの妻子をえじきとされるのであろうか。エジプトに帰る方が、むしろ良いではないか」。彼らは互に言った、「わたしたちはひとりのかしらを立てて、エジプトに帰ろう」。』(民数記 14:1-4)
わたしは荒野のような状態をあと何年続ければ安息に入れるのか、わたしのこの苦しい状態はあとどのくらい経験しなくてはならないのか、といった質問をする人がいるが、あとどのくらい、という質問は、ナンセンスである。
民数記のイスラエルの民のような不信仰を続けるなら、決して安息の地に入る事は出来ず、荒野で屍を晒すのみである。
安息の地に入りたいなら、唇から不信仰な泣き言を捨て、ヨシュアやカレブのように、信仰告白すれば良いのだ。
「わたしたちが行き巡って探った地は非常に良い地です。もし、主が良しとされるならば、わたしたちをその地に導いて行って、それをわたしたちにくださるでしょう。それは乳と蜜の流れている地です。ただ、主にそむいてはなりません。またその地の民を恐れてはなりません。彼らはわたしたちの食い物にすぎません。彼らを守る者は取り除かれます。主がわたしたちと共におられますから、彼らを恐れてはなりません」。(同7-9節)
礼拝説教メッセージ音声:手のしるし、額のしるしとして(出エジプト記13:1-16):右クリックで保存
『主はモーセに言われた、「イスラエルの人々のうちで、すべてのういご、すなわちすべて初めに胎を開いたものを、人であれ、獣であれ、みな、わたしのために聖別しなければならない。それはわたしのものである」。』(出エジプト13:1)
元来、全てのものは主が創られた故に、主のものであるが、だからと言って、私達に全てを捧げよとは要求されず、最初のもの、すなわち初物を主のものとして(聖別して)捧げるように定められた。
3節から10節の所は、種なしパンの祭りについて、モーセが主から受けた事を、民に伝えている。
『その日、あなたの子に告げて言いなさい、『これはわたしがエジプトから出るときに、主がわたしになされたことのためである』。そして、これを、手につけて、しるしとし、目の間に置いて記念とし、主の律法をあなたの口に置かなければならない。主が強い手をもって、あなたをエジプトから導き出されるからである。』(出エジプト記13:8-9)
一体なぜ、「主が強い手をもって、あなたをエジプトから導き出された」事が、種なしパンへと結びつくのか。
それは、主がエジプトから脱出させて下さった時に、パンに種を入れる暇が無く、パン種を入れないまま焼いて食すしか無かった事を覚える意味もあるが、パン種は元々、聖書では良い意味で用いられていない。
主もパリサイ人やサドカイ人のパン種に気をつけるように、すなわち、御言葉に人間の教えを混ぜ込んで不純にしてしまう「パン種」に気をつけるよう言われた。
『そして、これを、手につけて、しるしとし、目の間に置いて記念とし、”主の律法をあなたの口に”置かなければならない。主が強い手をもって、あなたをエジプトから導き出されるからである。』(出エジプト記13:9)
この、パン種の入っていないパンは、よく口で噛み締めなくてはならない。
イスラエル民族は7日間、種なしパンをよく噛みしめて味わっていたが、同じように、御言葉という純粋なパンも、昼も夜もじっくりかみしめて味わう事によって、主はイスラエル民族に御言葉をじっくり味わう事を、体験的に実施させ、学ばせていたのである。
11節から16節までの所では、モーセは民に、初物は主のものであり、贖う必要がある事を伝えている。
『あなたは、すべて初めに胎を開いた者、およびあなたの家畜の産むういごは、ことごとく主にささげなければならない。すなわち、それらの男性のものは主に帰せしめなければならない。また、すべて、ろばの、初めて胎を開いたものは、小羊をもって、あがなわなければならない。もし、あがなわないならば、その首を折らなければならない。あなたの子らのうち、すべて、男のういごは、あがなわなければならない。』(出エジプト記13:12)
ここでは全て初めに胎を開く者、および、家畜の初子についての指示をしているが、特に、ろばという動物についての指示をしている。
色々な動物がいる中で、なぜ、ろばなのだろうか?
ろばは、イエス様をお乗せしてエルサレムへ入城した動物として有名で、イエス様を乗せて運ぶ者、すなわち、神の国の働き人を示す比喩として良く用いられている。
神の国の働き人は、小羊イエス様の血によって贖われている事が必須条件で、そうでなければ、首を折らなければならない、すなわち、働き人たる事は、止めなくてはならないわけだ。
また、種なしパンの時と同じく、初物を捧げる事も「手」と「目の間(ひたい)」のしるしとして、いつも覚えておかなくてはならない、と定めている。(出エジプト記13:14-16)
「目の間(ひたい)」という部位は、その人が誰に属するかという「しるし」が置かれる所であり(黙示録13:16、14:1)、「手」は、思いの内にある事を実際に働く部位である。
私達も、種を入れぬパンを覚え、初物は捧げるべき事を覚え、それを実際に行動する時、私達は「神のものである」という”しるし”があるのだ。
礼拝説教メッセージ音声:混じってきた雑多な民(出エジプト記12:37-51):右クリックで保存
『さて、イスラエルの人々はラメセスを出立してスコテに向かった。女と子供を除いて徒歩の男子は約六十万人であった。』(出エジプト記12:37)
ラメセスは、パロがイスラエルを苦役で苦しめるために建てた倉庫の町である(1:11)。イスラエル人はそこから全員出て行ったため、その奴隷の倉庫の町はゴーストタウンと化した。
エジプトから出てきた民は、成人男子だけで60万。という事は、女子供も含めると200万を超すと思われる。
そこからさらに多くの入り交じってきた民も加わり、また非常に多くの家畜も連れ登ったため、それはそれは壮大な集団となった。
『そして彼らはエジプトから携えて出た練り粉をもって、種入れぬパンの菓子を焼いた。まだパン種を入れていなかったからである。それは彼らがエジプトから追い出されて滞ることができず、また、何の食料をも整えていなかったからである。』(出エジプト記12:39)
彼らが携え持ってきた食料は、たったそれだけである。
荒野を旅する内に、食料や衣類が欠乏するのでは、と心配した人もいたかもしれない。
しかしどういうわけか、食料が欠乏して餓死する者が出た記述は一切なく、人々は荒野でも、しっかり主に養われたのだ。
私達も主にあって、何を食べようか何を着ようかと言って心配する必要は、一切ない。
『イスラエルの人々がエジプトに住んでいた間は、四百三十年であった。四百三十年の終りとなって、ちょうどその日に、主の全軍はエジプトの国を出た。』(出エジプト記12:40)
主はアブハムに、あなたの子孫は四百年の間苦しめられると言っていた(創世記15:13)。という事は、イスラエル民族がエジプトで良い待遇を受けられた期間は、わずか三十年だったのだろう。
ヨセフも臨終の時「神は必ずあなたがたを”顧みて”、この国から連れ出し」と言っているため、もしかしたら、ヨセフの時代から既にエジプトからの圧政が始まっていたのかもしれない。
『主はモーセとアロンとに言われた、「過越の祭の定めは次のとおりである。すなわち、異邦人はだれもこれを食べてはならない。しかし、おのおのが金で買ったしもべは、これに割礼を行ってのち、これを食べさせることができる。』(出エジプト記12:43-44)
過越祭の小羊は、異邦人は食べてはならない、とここで言われている。それはイスラエル人がエジプトを出る時、多くの異邦人も入り交じって来ており、その雑多な民と区別するためである。
なぜ区別が必要か。それは、異邦人はイスラエル人と違い、まことの神である主を恐れるという事が無いからである。
このエキサイティングな脱出劇の中で、この民について行けば色々なメリットがありそうだ、というだけでついて来た異邦人は、多かった。
特に教会において陥りやすい罠だが、人数が増えれば良いというものではない。
その大勢いる人の全てが、純粋に主を慕い求めているとは限らないし、この入り交じってきた者達が、イスラエルにいらぬ情欲を起こさせ、神を怒りを招き、災いの発起となってしまった事が、幾度かあったからだ。(レビ記24:10、民数記11:4)
入り交じってきた雑多な民は、余計な事を言って主にある交わりに余計な怒りやいらぬ欲望を持ち込ませ、本来ならつまづかないような者をも、躓かせてしまった。しかし、主は彼らを荒野で篩い落とされた。(レビ記24:23、民数記11:33-34)
しかし、異邦人は決して過越の小羊にあずかれないという訳ではない。
異邦人が過越の小羊にあずかるためには”割礼”を受ける必要がある。
割礼とは、肉(生来の罪に傾く性質を持っている肉体の力や考え方など)を削ぎ取る事である。
割礼のしるしは神との契約のしるし、すなわち契約書の印鑑のようなもので、それは世々に渡って守るべきであり、「割礼を受けない男子、すなわち前の皮を切らない者はわたしの契約を破るゆえ、その人は民のうちから断たれるであろう」とさえ言われている程、大切な事である。(創世記17:9-14)
故に、過越の小羊は、興味本位で食べて良い物ではなく、神の民に加わるためには、生涯主に仕えるというコミットメントと、みずからの肉を切り落とす覚悟が必要なのだ。
キリストにあって救いの道が示された現在、割礼は”洗礼”に相当し、過越祭の食事であるほふられた小羊とパンは、まことのほふられた小羊キリストにあずかる”聖餐”に相当する。
聖餐も、むやみに興味本位であずかって良いものではない。
聖餐にあずかるには、自分の肉欲を切り取る決意、すなわち十字架を背負う決意と、生涯主に仕えるコミットメントが必要なのである。
礼拝説教メッセージ音声:奴隷からの解放(出エジプト記12:29-36):右クリックで保存
今日の箇所をもって、イスラエル民族はついに、400年も続いたエジプトでの奴隷状態から解放された。
『夜中になって主はエジプトの国の、すべてのういご、すなわち位に座するパロのういごから、地下のひとやにおる捕虜のういごにいたるまで、また、すべての家畜のういごを撃たれた。それでパロとその家来およびエジプトびとはみな夜のうちに起きあがり、エジプトに大いなる叫びがあった。死人のない家がなかったからである。』(出エジプト記12:29-30)
主が最後の災いを執行された時、エジプトには死人のない家がなかった。例えば父親が長子なら、父親も、長子も、死んだわけである。
それも、身分が上の者から下の者まで、さらに、家畜に至るまで。
エジプト人に大きな恐れが沸き起こり、「われわれはみな死ぬ」と思ったため、イスラエル人を躊躇せず追い出した。
神は元々、長子だけを狙い撃ちせずとも、エジプトを全滅させる事も、たやすかったのだ。
しかし、神はそんな無差別殺戮などはせず、前もって警告を与え、軽い災いから一つづつ災いを与えて忍耐深く懲らしめたにもかかわらず、エジプトは9度も頑なになったため、遂にこのような決定的な災いが起こるに至ってしまったのだ。
『そこでパロは夜のうちにモーセとアロンを呼び寄せて言った、「あなたがたとイスラエルの人々は立って、わたしの民の中から出て行くがよい。そしてあなたがたの言うように、行って主に仕えなさい。あなたがたの言うように羊と牛とを取って行きなさい。また、わたしを祝福しなさい」。 』(31-32節)
パロは今回はさすがに自分の意見を混ぜたりする事なく、全面的にモーセの言う通りにさせ、出て行かせ、主に仕えさせた。
しかも、わたしを祝福しなさい、と付け加える事を忘れなかった。
モーセがパロの祝福を祈ったとして、もし、パロの家が平安にふさわしかったなら、パロの家に祝福が来ただろう。
しかし結果的にそうでなかった所を見ると、パロは祝福されるには相応しくない家であり、その祝福は、モーセの所に返って来たようである。(マタイ10:13-14)
『そしてイスラエルの人々はモーセの言葉のようにして、エジプトびとから銀の飾り、金の飾り、また衣服を請い求めた。主は民にエジプトびとの情を得させ、彼らの請い求めたものを与えさせられた。こうして彼らはエジプトびとのものを奪い取った。 』(35-36節)
これは、創世記15章の時代から、すなわち「イスラエル民族」がまだアブラムとサラのわずか二人だけだった頃から、既に主から示されていた事である。(創世記15:13-14)
そして、その主が何百年か前に約束された事が、今日の箇所で実現したのである。
『あなたは聞かなかったか、昔わたしがそれを定めたことを。堅固な町々を、あなたがこわして荒塚とすることも、いにしえの日から、わたしが計画して/今それをきたらせたのだ。』(イザヤ37:26)
イスラエル人が出ていく事をエジプト人は喜び、それも、金銀や衣服を喜んで与えてやった。(詩篇 105:37-38)
イスラエル人の中で、最も弱気な人であっても、400年分の溜まりに溜まった給与を、堂々と請求できたのである。
主はそこまで徹底的に真実なお方であり、約束を必ず果たして下さるお方である。
今日は私の祖母(来年1月で96歳)や両親に、クリスマスメッセージを届けに、つくば市まで往復しました。
首都高はいつも苦手です。今日も違ったルートに入ってしまったり渋滞に捕まったりで大変でしたが、祖母や両親と、とても祝福された交わりが出来て、行ってみて良かったです。
祖母は、毎日私のために祈っていると言っておりました。
私の働きがこうして祝福の内に守られている秘密は、それです。
口を閉ざされたザカリヤ(ルカ1:5-80)
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主イエスが降誕されるにあたって、最初にしるしが現れたのは、ザカリヤとエリザベツの老夫婦にであった。
ザカリヤは主の御前で正しい人だったが、彼には子がなかった。(ルカ1:6-7)
ザカリヤは、子が与えられるように、ずっと祈っていた。結婚したばかりの若かりし頃から、歳を取るにつれその祈りは必死になって行ったであろう。彼より正しくない大勢の人達にはどんどん子が与えられ、その子たちは成長しているのに、ザカリヤ夫婦にだけは、与えられていない。
そのまま何もなく、ただ歳だけ取って行くが、産むのが難しい年齢に達しても、彼らは祈っていた。
それでも彼らは、主の御前に誰よりも凛々しく立ち、戒めと定めを落ち度なく行っていた。
そんなある日、ザカリヤは日毎の香を捧げる役割が、くじによって決まったため、その役目をする事となったが、聖所に入った時、なんと、香壇の右に御使いが立っているのを見た。
恐怖に襲われている彼に御使いは言う。「恐れるな、ザカリヤよ、あなたの祈が聞きいれられたのだ。あなたの妻エリサベツは男の子を産むであろう。その子をヨハネと名づけなさい。」(13節)
子が与えられること、それは老夫婦の長年の願いであったが、神はそれ以上の事をご計画されている。
その子は、御前に大いなる者となり、胎内にいる時から既に聖霊に満たされており、イスラエルの民の多くを、主なる神に立ち帰らせる。しかも彼は、エリヤの霊と力をもって御前に先立って行き、父の心を子に向けさせ、逆らう者に義人の思いを持たせて、そうして整えられた民を、主に備えるというのだ。
人は周囲を見て、容易に手が届きそうな、人並みのささやかな幸せを求めがちだが、主を愛し恐れる人達に、主が 用意しておられるご計画は、途方もないもの、にわかには信じ切れない次元のものである。
「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮かんだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。」(1コリント2:9)
乙女マリヤもそうだったが、そんな破格なスケールの主のご計画を受けた時、人は困惑してしまう。
「どうしてそんな事が、わたしにわかるでしょうか。わたしは老人ですし、妻も年をとっています。」
彼は主の言葉に対し、自分達の状況と主の言葉とを天秤にかけ、自分が理解する事を要求してしまった。
そんな彼に与えられたしるしは、この事が実現する日まで、口が閉ざされ物が言えなくなる事だった。
御言葉を疑い、「自分が」理解したがる人に与えられるしるし、それは、その口が閉ざされる事である。
せっかく素晴らしいお告げとビジョンが示されたのに、唇が閉ざされてしまって、それを流暢に人に伝える事が出来ないのは、かなりのもどかしさであろう。
しかし意外と、多くの言葉をまくし立てるより、筆談だけのほうが、効果的に相手に伝わるものだ。
蒔かれた種のいのち、主が「こうなる」と言われた事は、寝て起きて、そうこうしている内に育つものである。
多くの言葉でまくし立てずとも、沈黙していても、御業は必ず実現する。その時をじっと待つのが良い。
「さてエリサベツは月が満ちて、男の子を産んだ。」(ルカ1:57) 後継者なき老夫婦に、男子が与えられるのは大きな慰めであり、人々はみなエリザベツと共に喜んだ。
人々がその子に父と同じ名をつけようとしたように、ザカリヤ自身も念願の子に自分の名前をつけたかっただろう。しかし彼らが、自分や他人の望みを手放し、主に言われた通り「その子の名はヨハネ」と公に示した時、ザカリヤの口は開かれた。そして、真っ先に彼の口から出たのは、神への賛美と、預言だった。
自分を降ろして従順を学び、神と人との前で、御言葉の通りに行うその時、主の素晴らしさはさらに明らか意とされ、賛美の口は開け、それも、真っ先に主を褒め称えたい程に、心が整えられるのだ。
ザカリヤはかつて御使いに、自分が「理解」する事を要求し、それによって口をつぐまされてしまったが、その「要求」を止め、自分由来の言葉をつぐんだこの期間、彼はバプテスマのヨハネの父親として訓練され、練られたのだ。
ヨハネは成長すると霊は強くなったが、主が定めた時まで荒野におり、公に活動する日まで口をつぐんだ。
主の御業が成されるまで、自分の意見を言いたい唇は閉じ、理解したいという思いを手放し、御言葉に従順して主を待ち望み、御業が成された暁には真っ先に主を褒め称える皆さんでありますように!
礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
ヨシャパテの祈り(2歴代18−20章):右クリックで保存
礼拝説教メッセージ音声:ほふられた小羊を伝えよ(出エジプト記12:21-28):右クリックで保存
モーセは神から伝えられた事を、今度は、民へと伝えた。
『モーセはイスラエルの長老をみな呼び寄せて言った、「あなたがたは急いで家族ごとに一つの小羊を取り、その過越の獣をほふらなければならない。また一束のヒソプを取って鉢の血に浸し、鉢の血を、かもいと入口の二つの柱につけなければならない。朝まであなたがたは、ひとりも家の戸の外に出てはならない。』(出エジプト記12:21-22)
ヒソプ(ギリシャ語:ヒソポス)はヘブライ語のエゾブ(聖なるハーブの意)が由来で、抗菌、抗ウイルス、代謝促進、発汗の作用があり、古来より用いられている。
気管系の炎症を鎮め、体内の水分滞留を改善させ、不安や心配、緊張、ストレスなどを和らげる心理効果もある他、すり傷や切り傷などの炎症を抑える効果もある。
ダビデは「ヒソプをもって、わたしを清めてください、わたしは清くなるでしょう。わたしを洗ってください、わたしは雪よりも白くなるでしょう。」(詩篇51:7)と祈ったが、実にこの効用をよく表している。
『主が行き巡ってエジプトびとを撃たれるとき、かもいと入口の二つの柱にある血を見て、主はその入口を過ぎ越し、滅ぼす者が、あなたがたの家にはいって、撃つのを許されないであろう。』(出エジプト記12:21-23)
血潮のしるしを境に、いのちと死がはっきり分かれる。ほふられた小羊の血の内側には、ごちそうと感謝があり、外側には死と叫びがあるのだ。
血潮の外に出てしまうと、いのちの保証は無い。それはイスラエル人であっても、異邦人であっても。
イスラエル人が滅ぼす者から害を受けなかったのは、彼らが正しかったからではなく、彼らが主の命令を守って血潮の内側に逃れていたからに他ならない。
そして私達異邦人も、ほふられた小羊キリストの血潮の内に助けを求めるなら、滅ぼす者から救われるのである。
『あなたがたはこの事を、あなたと子孫のための定めとして、永久に守らなければならない。あなたがたは、主が約束されたように、あなたがたに賜る地に至るとき、この儀式を守らなければならない。』(出エジプト記12:24)
小羊の血の内側に助けを求めて来る者への守りは永久であり、血潮の贖いの効力は永久であ。
そして贖われた人達は、ほふられた小羊を、永久に覚え、ほめたたえるのである。
『もし、あなたがたの子供たちが『この儀式はどんな意味ですか』と問うならば、あなたがたは言いなさい、『これは主の過越の犠牲である。エジプトびとを撃たれたとき、エジプトにいたイスラエルの人々の家を過ぎ越して、われわれの家を救われたのである』」。民はこのとき、伏して礼拝した。』(出エジプト記12:26-27)
この儀式の意味を子供に問われた時、その返答の仕方をも、モーセはわざわざ教えている。
そう、ほふられた小羊の意味を正しく「伝える」事は、とても大事である。
モーセはこの祭りを長老たちに伝え、長老たちはそれぞれの民に伝え、そして、子々孫々へと伝えられて行った。
私達も、実の息子娘達にはもちろん霊的に生み出した子供達孫達にも、子々孫々に、ほふられた小羊キリストの意味を正しく伝え、その血潮の尊さ、贖いの尊さを伝えて行くべきである。
しかしイスラエル民族は残念ながら、この祭りを長くは守らなかった。
2歴代誌35章18節によると、預言者サムエルの時代からヨシヤ王の時代まで、つまり、ダビデの時代後半からバビロン捕囚近くに至るまでの長期間、過越祭は正しく行われていなかったのだ。
イスラエルが過越祭をぞんざいにし出した時期と、イスラエル国家が衰退し初めた時期は、ほぼ一致している。その事からも、この血潮の贖いを覚える事が、いかに重要であるかが分かる。
モーセは「これ(ほふられた小羊)は、主の過越の犠牲(いけにえ)である。」と子供たちに言うように指示した。
いけにえとは、神をなだめるために用いるものである。
過越の小羊は確かに人が食べたりいのちを救うためのものではあるが、それ以上にまず、神をなだめるためのものである。
『神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それは、ご自身の義を現わすためです。というのは、今までに犯されて来た罪を神の忍耐をもって見のがして来られたからです。それは、今の時にご自身の義を現わすためであり、こうして神ご自身が義であり、また、イエスを信じる者を義とお認めになるためなのです。』(ローマ3:25-26)
『こうして、ほとんどすべての物が、律法に従い、血によってきよめられたのである。血を流すことなしには、罪のゆるしはあり得ない。』(ヘブル9:22)
本来、ユダヤ人もエジプト人も、そして私達を含む人類全体も、罪の報いとして罰を受け、死ななければならないものだった。
しかし、まことの小羊の流された血潮によって神は完全になだめられた。
この血潮の内に逃れる者は全て、罪と滅びから逃れられるのである。
礼拝説教メッセージ音声:種なしパンの祭り - 除酵祭(出エジプト記12:15-20):右クリックで保存
過越祭に続き、神はイスラエル民族に「除酵祭」をも定められた。
『七日の間あなたがたは種入れぬパンを食べなければならない。その初めの日に家からパン種を取り除かなければならない。第一日から第七日までに、種を入れたパンを食べる人はみなイスラエルから断たれるであろう。』(出エジプト記12:15)
除酵祭は、過越の小羊がほふられる日に始まり、第一日と第七日に聖なる会合を開く。
その期間中、どんな仕事もしてはならず(食事を作る事は良し)、祭りの最初の日に、家の中からパン種を徹底して取り除き、七日間、種を入れぬパンを食べなければならない。その期間、種を入れたパンを食べる者は、イスラエルから断たれてしまう。
イスラエル民族は、過ぎ越の小羊をほふって食べた日から七日間、安息し、ただ兄弟姉妹の口に入れるもの、すなわち種を入れないパンを作る事以外は仕事をせず、安息するわけである。
私達キリスト者も、ほふられた小羊キリストを受けて以降は、世的なやりくりは止めて安息し、自分自身を純粋なパン種の入っていない者としてきよく保つのである。
『なぜなら、神の安息にはいった者は、神がみわざをやめて休まれたように、自分もわざを休んだからである。』(ヘブル4:10)
酵母入りのパンに比べると、パン種の入っていないパンは見栄えはしないし、口に入れてみても最初は小麦粉の素っ気ない味しかしないが、噛めば噛むほど味わい深く甘くなって行く。
御言葉もそれと同じで、はじめに受けた時の印象は素っ気ないかもしれないが、それをじっくり噛み締めれば噛み締めるほどに甘く、良くなって行く。
イスラエル民族が種なしパンをじっくり味わったように、私達もじっくりと御言葉を味わう事を知るべきである。
パン種はパンの酵母、パン生地に入れてふくらますもので、これを入れたパンはふくらんで大きくなり、柔らかくなるが、発酵させるため、腐りやすくなる。
聖書でパン種は、大体良くない意味で使われる。
ゆえに、神の民の交わりにおいては、このパン種のような性質、すなわち外見を膨らまし、発酵させ、純粋さを失わせるような暗闇からの働きには、十分気をつけなくてはならない。
『あなたがたが誇っているのは、よろしくない。あなたがたは、少しのパン種が粉のかたまり全体をふくらませることを、知らないのか。新しい粉のかたまりになるために、古いパン種を取り除きなさい。あなたがたは、事実パン種のない者なのだから。わたしたちの過越の小羊であるキリストは、すでにほふられたのだ。
ゆえに、わたしたちは、古いパン種や、また悪意と邪悪とのパン種を用いずに、パン種のはいっていない純粋で真実なパンをもって、祭をしようではないか。』(1コリント5:6-8)
除酵祭において、最初の日に家の中から注意深くパン種を取り除いたように、キリスト者の集まりからも、世的な価値観を注意深く取り除かなくてはならない。(マタイ16:6-12)
なぜなら、「わたしたちの過越の小羊であるキリストは、すでにほふられた」からだ。
小羊がほふられて以降、7の日数が満ちるまで、安息してパン種を入れぬパンを食べ続ける事が定められている。
「わたしたちの過越の小羊であるキリストは、すでにほふられた」のであれば、まず自分のわざを終え、神の安息に入るのである。
私達は完成の日(7は完全数)まで、自分自身を純粋に保って行くべきであり、私達が地上で定められた日数が満ちた時、救いの御業は完成するのである。