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ティッシュ

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礼拝メッセージ説教音声配信 » パスター日記
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pastor 2012-1-5 20:50

この教会に初めて来られたある方は、どうして礼拝堂の随所に、ティッシュ箱が置いてあるのだろう、と不思議に思われたそうです。

ところが礼拝に出てみて、その理由が分かりました。

主に触れられて、涙が出てしまうのです。

その方はそれまでの人生、滅多な事では涙を見せない方でしたが、礼拝の中に、賛美の時に、祈りの時に、涙が抑えられなくなってしまうのです。

礼拝にいつも出ている私達は、日常的にティッシュで涙を拭き、無くなれば普通に補充しておりますので、気付きませんでしたが、ティッシュが沢山置いてあるのもこの教会の特色のひとつなのかもしれません。

礼拝説教メッセージ音声:優れた賜物とは(1コリント12:21-31):右クリックで保存
韓国語通訳有

私達はキリストの体であり、一人ひとりは各部分、各器官です。(27節)
「一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。」と26節にあるように、キリストの体の各部分、各器官は、互いにいたわり合い、あるいは喜んだり、悲しむ、というような、感覚的・感情的な面もあり、分裂が起こらないように互いに配慮し合っています。(25節)。

キリストの体、即ち、私達教会は、互いにいたわり合うべきです。
転んで足に怪我をした時、痛さを体全体で表現するように、キリストの体なる教会の誰か一人が痛めば、教会全体が痛み苦しみを表現するものであり、「キリストの体」の一部であるからには、社会組織のような人間主体の集まりではなく、「キリストそのもの」の組織の部分部分の集合体です。
キリストというお方を表現し、キリストというお方を建て上げるために、私達は召しだされ、賜物が与えられたわけです。

「神は、教会の中にいろいろな人をお立てになりました。第一に使徒、第二に預言者、第三に教師、次に奇跡を行う者、その次に病気をいやす賜物を持つ者、援助する者、管理する者、異言を語る者などです。」(28節)
ここには九種類の職制が出てきますが、この「第一に」「第二に」という順番が大切です。

世の中の価値観からは、使徒や教師になるより、奇跡を行ったり癒しを行ったりする能力のほうが、欲しいかもしれません。
しかし、神の国において最も大切な職制は、キリストの代行して権威を行使する「使徒」です。
「使徒」はギリシャ語ではアポストロス、すなわち、あるお方から権威を委ねられ、その方の代理に権威を行使する者、という意味です。
イエス様には十二使徒がおりますが、彼らはイエス様から病を癒したり悪霊を追い出す権威が授けられ、その権威を代行して実行しました。

第二の「預言者」は、未来を予知する者ではなく、その漢字が示す通り、神から言葉を預かって、伝える者です。
第三に「教師」が出て来ますが、何を教える者かと言いますと、当然、神の言葉を教える者です。
自分の徳しか高めない「異言」を語る者は一番ビリで、世で言う所の社長や支配人にあたる「管理する者」は、なんと、ビリから二番目です。

ここから分かる事は、神の国での評価基準は、どれだけ自分を捨てているか、どれだけキリストに捧げ尽くしているか、という事です。
会社組織など、世の中で評価される基準は、何が出来るか、どんな能力を持っているか、ですが、神の組織、キリストの体において評価される基準は、まったく逆です。
世の中の価値観を、教会に持ち込んでしまうと、とんだ間違いを起こしてしまいます。
世の価値観と神の国の価値観は逆転している事に気付いていない教会は、世の組織にも神の国にも属し切れず、中途半端な状態のままで、前進がありません。

31節には「もっと大きな賜物を受けるよう熱心に努めなさい。」とあります。
私達は、より優れた賜物を求めるべきです。
奇跡や癒しの賜物を求める事は、悪いことではありませんが、そうした能力を求めるよりも、自分を捨て、いかにキリストを表現する者となるかを求めるほうが、より優れた事を求める事になります。

ますます優れた賜物が与えられ、ますますキリストを力強く証する皆さんでありますように。
イエス様の御名前によって祝福します。
アーメン。

新年に入ってから、主の導かれ方、御言葉の解き明かしの与えられ方が、すごい事になっています。

実は、年末年始の深夜礼拝でも、年末最後の時間にヨブ記から、年始最初の時間に出エジプトから、計2つのメッセージを準備していたのですが、その場面になって、人の立てたプログラムとは全く別へと主が導かれ、私も準備していたメッセージは捨て去り、その場に与えられた別のヨハネ福音書から、全く別のメッセージを語らされました。

何時間もかけて準備したメッセージ2つを手放し、その場で全く別のメッセージを語りだすなんて、普通は考えられないですが、今日の夜礼拝も同じように、ザアカイの話を準備していたはずが、講壇に立ってから全く別のはメッセージ、漁師ペテロの導かれ方の話を語らされました。

主がなさる事は人の思いを越えておりますが、ますます自分の経験や努力を手放し、主に導かれる者となって行きたいと思います。

礼拝説教メッセージ音声:貴い器となる(1コリント12:12-20):右クリックで保存
韓国語通訳有

御霊の賜物の大きな特徴は、与えられている一人ひとりが、体の各器官のように、互いに補い合い、有機的に機能する事です。
私達はキリストの体の各部分であり、御心のままにキリストの働きをするべきです。

体の各部分は、互いに有機的に組み合って初めて機能し、生き生きとすることが出来ます。
もし聖徒が独立し、群れから離れてしまうのであれば、単細胞生物のように単純かつ下等な行動しかできませんし、もし、体全体が手だけ、足だけであるなら、ただの化け物になってしまいます。

野球のある球団では、他の球団からエースと言える選手を、お金で引き抜いて集めた事がありました。
結果、その球団が他のどの球団よりも強くなったか、というと、そうではなかったようです。
その球団は、一人一人の能力は確かに高いのですが、それぞれが与えられた立ち位置になじめず、うまくプレイできなかったのです。

野球とは、チームプレイのスポーツです。
エースとは、陰でフォローしてくれる人がいたからこそエースとなれたのですが、フォローされる事に慣れ切ってしまった人たちだけが集まった結果、機能不全に陥り、弱くなってしまったのです。
むしろ、一人一人の能力が弱いとしても、全体が有機的に機能する集団のほうが、断然強いのです。

教会という集団の一人一人が、たとえ社会的に弱くても、また見栄えが悪くても、その頭であるお方が、名監督であるなら、世のどの組織よりも強いのです。
教会の監督、教会の頭なるお方はキリストです。
野球の球団が強くなるためには、選手一人一人がしっかり監督の命令に従わなくてはならないように、私達も、頭なるイエス様にしっかりと聞き従わなくては、キリストの体である教会は、機能不全に陥ってしまいます。

「つまり、一つの霊によって、わたしたちは、ユダヤ人であろうとギリシア人であろうと、奴隷であろうと自由な身分の者であろうと、皆一つの体となるために洗礼を受け、皆一つの霊をのませてもらったのです。」(13節)
教会に一般の方が来ると、非常に不思議な所に来たな、と思うようです。
なぜなら、普通に生きていれば、絶対に接点がないであろう人たちが、互いに親密に交わっているからです。
いかに聖徒達の社会的立場や国籍が違っていようと、キリストというお方にあって、兄弟姉妹として一つとなる事が出来るのです。

私達がさらに貴い御用に用いられるには、ますます清められ、不義から離れなくてはなりません。
第二テモテ2章の20節から22節に、こうあります。
「さて、大きな家には金や銀の器だけではなく、木や土の器もあります。一方は貴いことに、他方は普通のことに用いられます。
、今述べた諸悪から自分を清める人は、貴いことに用いられる器になり、聖なるもの、主人に役立つもの、あらゆる善い業のために備えられたものとなるのです。
若いころの情欲から遠ざかり、清い心で主を呼び求める人々と共に、正義と信仰と愛と平和を追い求めなさい。」

この箇所では、一人ひとりの聖徒たちが、大きな家の中の一つ一つの器にたとえられております。
ある物は卑しいことに、ある物は貴いことに用いられますが、尊いことに使われる器となるためには、自分自身を清め、不義から離れなさいと勧められております。
他の箇所でも「あなた方はより優れた賜物を求めなさい」と書いてある以上、より優れた賜物が与えられる望みは、確実にあるのです。

皆さんはキリストの体の各器官であり、各々主からいただいて託された賜物があります。
お互いがキリストのからだの各器官である事をわきまえ、おごり高ぶったり卑屈になったりする事無く、与えられている賜物がますます磨かれ、さらに優れた賜物が与えられるようにと、主に願ってください。

さらに優れた賜物が与えられ、さらに貴い器として用いられる皆さんでありますように。
イエス様の御名前によって祝福いたします。
アーメン。

礼拝説教メッセージ音声:御霊の賜物(1コリント12:1-11):右クリックで保存
韓国語通訳有

11章ではコリントの教会に秩序がない事をパウロは叱責しましたが、12章では、与えられている賜物を誇ったり、また他の人を見下したりするような人々に対し、御霊の賜物とは何かを示し、また、その賜物の正しい用い方を示しております。

コリントの街は偶像崇拝が盛んで、そのために、悪霊による不思議な現象も色々起きていたことでしょう。
そのような中において、どの霊がキリストからのもので、どの霊がそうでないかを、見分ける必要があります。
その見分け方は、一言で言えば、イエス・キリストを証しているかどうか、です。

ヨハネ16章の7節と8節をご覧下さい。
御霊は助け主であり、その方が来ると、義について、罪について、裁きについて、人に知らせますが、悪霊はむしろ、罪や義、裁きを、あやふやにしてしまいます。
続いて、14節を見ますと、御霊は、イエス様の栄光を現すものだと分かります。
すなわち、御霊の賜物が与えられる理由は、ひとえに、イエスキリストというお方の栄光を現すためであり、そして教会の益となるため(1コリント12:7)です。

たとえ奇跡を行う賜物を持っている人がいるとしても、その奇跡を行う人自身が名誉を上げるような用い方は、正しくありません。
賜物が与えられるのは、あくまで、キリストというお方を栄光化するためであり、また、教会の益となり、ますます教会が建て上げられていくためです。

この箇所を見ますと、御霊の現われ方が合計9つありますが、その源は、同じ霊です。
奉仕にも色々なやり方がありますが、その奉仕をする対象であられるお方は、同じ主です。
また、働きもいろいろありますが、それら全ての働きをなさるお方は、同じ神です。

兄弟姉妹それぞれが助け合い、キリストの体を建て上げてこそ、賜物は有効な力が発揮できます。
例えば「異言を解き明かす力」は、異言を話す人がいなければ何の役にも立ちませんし、異言を話す人だけがいても、その異言が他の人を立て上げる事は出来ません。
そのように、ある聖徒の賜物の現われを、別の聖徒が有機的に補う事によって、2人または3人が、20人または30人分の働きをする事になります。

ですから聖徒は孤立するべきではありませんし、誰かが弱いとか役に立たないからと言って、切って捨てたりして良いものではありません。
後で学びますが、弱いと見られる人こそ、かえって大切だからです。
何より、御霊の現われの存在理由は、イエスキリストというお方に栄光を帰すためです。

どうか、みなさん一人一人に与えられている賜物を、私達の主キリスト・イエスのために、秩序正しく発揮されますように。
そして、さらに優れた賜物が与えられ、より主の栄光を現していく皆さんでありますように。
イエス様の御名前によって、祝福いたします。
アーメン。

本日は聖徒達に手紙を書いておりましたが、焼き鳥屋で水道が漏れたというので、さっきまで焼き鳥屋におり、それで配信がこんな時間になってしまいました。

最近、コムタンスープを作るようになり、排水溝に油がたくさん浮いていました。

その油が原因だったようで、それを取り除いたところ、無事に流れるようになりました。

主が、祝福を留める霊的な詰まりも取り除いて下さった事を信じつつ。。。

元旦の礼拝

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礼拝メッセージ説教音声配信 » パスター日記
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pastor 2012-1-1 17:19

2012年が明けました。おめでとうございます。
今年も主にあって、どうぞよろしくお願いします。

天声では、昨晩22時半から悔い改めの賛美と祈りと御言葉によって年を越しました。

深夜の礼拝の後、みんなでごちそうを頂き、そして主日が開けて、朝10時半からと14時からの礼拝もあり、礼拝づくしの年明けでした。

結構なハードスケジュールのはずなのに、昨晩から泊りがけで参加された皆さんはとても楽しく充実した時を過ごせたようです。

教会に泊まったのは7名ほどで、中には静岡から来られた姉妹もいますが、なぜそこまでして参加されるかというと、やはり、いのちの祝福と喜びがあるからでしょう。

今年もしっかり御言葉につながり、キリストの香りといのちの祝福に溢れた年であるように、ますます自分を空しくして主に仕えたいと思います。

祝福された一年でありますように!

光よ。あれ。(創世記1:1-5)
第一礼拝・礼拝全体音声(韓国語通訳あり):右クリックで保存
第二礼拝・説教音声:右クリックで保存
週報/メッセージ(説教)概要:右クリックで保存

神は世の全てを6日に渡って創造し、第7日に創造のみわざを完成し、休まれた。
「神が造ったすべての物を見られたところ、それは、はなはだ良かった。」(創世記1:31)
はじめに神が創造したものは全て美しく調和し、全てが完全で、はなはだ良いものだった。
しかし今の世を見るに、その美しく調和の取れたはなはだ良い世界とは、一体どこにあるのか。むしろ、闇に覆われて形無く、混沌である、という表現のほうが、しっくり来るのではないか、と思うかもしれない。
そうなってしまった理由はただ一つ。人が神の命令から離れ、自分勝手な選択をしてしまった結果である。
憐れみ深い神は、そんな世を絶ち滅ぼしてしまうのではなく、呪われてしまった世界と、罪と死に支配されてしまった人間とを、再び回復するために、御子イエスキリストのいのちを通して買い戻す方法を取られた。
それが聖書の全体像である。

世は、初めからおられた「ことば」なるキリストによって造られ、この方によらずに出来たものは、一つもない。
世にまだ光が無く、闇に覆われていた時、神は、めんどりが雛を羽で覆うようにして、混沌の上を覆っておられたように、主は、混沌の闇にうずくまって一人泣いているような私達をご覧になり、愛の御翼で覆い、その陰で守っておられたのだ。
そしてこの方はいのちであり、このいのちは人の光であり、闇はこれに打ち勝たなかった。(ヨハネ1章)
その全ての人を照らす、まことの光なるキリストは、罪と死の闇に閉ざされてしまった人にまことの光をもたらし、混沌となってしまった人に秩序をもたらし、いのちを創造されたあの御業を再び働かせて下さるのだ。

我々はその主を、主日すなわち日曜日に祝うが、なぜユダヤ人のように安息日にではなく主日に祝うのか。
まず、律法が与えられたイスラエルの民には、安息日を覚えてこれを聖とせよ、と命じられたが、彼らは本当の安息に入ったのではなく、来るべき真の安息を世に現すためにと、安息日を守るよう指示されたのだ。
「もしヨシュアが彼らに安息を与えたとするのなら、神は後になって他の日について語られることはなかったでしょう。それで、安息日の休みが神の民に残されているのです。」(ヘブル4:8)
つまり真の安息は、イエスを信じて神の民となった我々に、新創造である我々に、残されているのである。

主日、すなわち週の初めの日、第1日は、神が「光よ。あれ。」と言葉を発せられ、光が世に来た日である。
そしてまことの光なる主イエスは、主日に甦られ、主日に弟子達に顕現され(ヨハネ20:19-29)、初代教会の聖徒達も主日に集まっていた(使徒20:7)から、我々もそれに習い、主日にイエスを覚えて、祝っている。
神は、第7日すなわち安息日に創造の御業を休まれたが、アダムは創造の御業を台無しにしてしまった。
そこで神は、第二のアダム、すなわち全ての人を照らすまことの光なるキリストを遣わし、罪と死の闇に閉ざされてしまった人にまことの光をもたらし、混沌となってしまった人に、秩序をもたらして下さった。
だから、新しい創造へと造り変えて下さった、まことの光なる主が来られたこの日を、我々は祝うのである。

キリストこそ真の安息へと導いてくださる安息日の主であるが、その安息に入るにはどうすれば良いか。
「信じたわたしたちは、この安息にあずかることができるのです。」(ヘブル4:3)つまり、「信じる」事である。
アダムの失敗である自分の主張をキリストの元に降ろし、御言葉なるキリストを信じて、服従する事。
荒野を40年さ迷った民が、安息に入れなかったのは、福音を説き聞かされても従おうとしなかったからであり、みことばを聞いた人たちが、信仰によって混ぜる事をしなかったからである。(ヘブル3:13-4:2)
神の安息に入った者は、神がご自分のわざを終えて休まれたように、自分のわざを終えて休む。(4:10)

キリストは十字架上で「完了した」と言い、頭を垂れて主に霊を明け渡され、そして安息日が始まったように、私達も、生来の人間的なわざは十字架に明け渡し、信仰によって安息に入る。
そしてキリストが主日に甦られたように、私たちも共に甦り、新創造であるいのちにあずかるのである。
御言葉なるキリストを信じ、神の安息へと入る皆さんでありますように。イエス様の名前によって祝福します!

当教会では、今夜22時半より年越し礼拝を行いますので、兄弟姉妹達は今、その準備をしています。

今年は災い多き年でしたが、それでも主にあって無事守られてきました。

私達信じる者達には、単に守られてきたばかりでなく、起きてきた災いを上回る恵みとあわれみも、主から示されてきました。

これを読んでおられる皆様も、どうか主にしっかりと繋がって、恵みとあわれみが豊かに注がれる来年でありますように!

主イエスキリストの名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:聖餐(1コリント11:23-34):右クリックで保存
韓国語通訳有

今年最後の早天礼拝メッセージは、奇しくも聖餐の箇所、第一コリント11章、23節から34節までです。
イエス様は、肉体の命の最後の夜、聖餐を制定されました。

主が制定された聖餐には、とても大切な意味があります。
パンと杯をいただくのは、主の死を告げ知らせるためであり、また、「わたしの記念として」(24節・25節)これを行います。
聖餐を頂く時、私たちは、イエス・キリストというお方を覚えて、パンと杯をいただく必要があります。

パンは、イエス・キリストの裂かれた肉体を覚える意味があります。
当教会では、小麦粉を手でこねて作った種無しパンを使うのですが、そのパンを手作りする方が、お話して下さいました。
その粉は、本当によく砕かれた粉で、そして手でよくこねたものでないと、パンはうまく焼けないそうです。
イエス様が砕かれて、主の御手のうちでこねられたように、私たちもよく砕かれ、主の御手の中で陶器師の粘土のように、こねられなくてはなりません。

また、パン種や蜜のような、余計なふくらましや味付けはしてはなりません。
種無しパンは、特に味があるわけではありませんが、噛めば噛むほど味が出て、甘くなっていきます。
御言葉なるキリストも、本当によく似ています。
御言葉も外見的には特に見栄えはせず、そのままでは特に味はしないのですが、噛めば噛むほど味わいが出てきます。
そして御言葉には、私達の好む味付けを混ぜたり、ふくらましをさせてはならないのです。

杯は、ぶどうの実で作られた液体が入っています。
ぶどうも特徴的な果物です。粒々がたくさんあり、そのまとまりを一房として数えております。
イエス様は、主はまことのぶどうの木、あなた方は枝です、と言われました。
ぶどう酒は、それら、身が一つ一つすり潰されて、各々の形は留めておりません。
もはや、一粒一粒という個性や形は無いように、私達も主を礼拝する時は、各々の個性や形を主張してはいけません。

27節に、「従って、ふさわしくないままで主のパンを食べたり、その杯を飲んだりする者は、主の体と血に対して罪を犯すことになります。」と書いてあります。

イエス様を信じていない方は、主が割かれた肉や主が流された血をわきまえておりませんので、聖餐には与れません。
ところが、イエス様を信じて、洗礼を受けたにもかかわらず、自分が「ふさわしくない」と勝手な判断をして、聖餐を受けない人がおります。
それまでの自分の行いを顧みるに、罪ばっかり犯して自分に良い事がないだから、自分は聖餐を受けるにふさわしくない、という判断をするのです。

もし、罪を犯したか犯してないか、という基準で、聖餐に与るにふさわしいか相応しくないかを判断するとしたら、ふさわしい者など、誰一人いません。
では、ふさわしいとは、何の事でしょうか。
それは、24・25節両方にあるキーワード「わたしを覚えて」という言葉です。
自分がどういう人間か、ではなく、イエス様を覚えているかどうか。それが、ふさわしいかふさわしくないか、です。

私達は自分を吟味する時、自分に罪がある事は、明らかに分かります。
だからこそ主は、そんな私達のために血を流し、肉体を割いてくださったのです。
私達は断然、イエス様を覚えるべきであり、流された血を、裂かれた肉を感謝しつつ、聖餐に与るべきなのです。

聖餐が渡されても拒否するのは、イエス様の裂かれた肉を、流された血を軽んじる事になってしまいます。
イエス様が購いきれないような罪はありません。
どうして私達は、イエス様がせっかく割いてくださった肉、せっかく流してくださった血を、ないがしろにする事ができるでしょか。
そのような、主の体をわきまえない飲み食いは、裁きを招くことになってしまいます。

30節には「そのため、あなたがたの間に弱い者や病人がたくさんおり、多くの者が死んだのです。」とあり、これを読むと、非常な恐ろしさを感じます。
コリントで弱い者や病人、死んだ者が多く出たのは、29節にあるとおり、主の体をわきまえない飲み食いが、裁きを招いてしまった結果です。

罪が宿っている肉をまとっている皆さんが、罪を犯してきたのは、当然のことです。。
その罪を、イエス様が購ってくださった事、イエス様を信じる者は赦されるという事を、信じておりますか。
もしアーメンであるなら、流してくださった血潮を、裂いてくださった体を、ただ感謝して頂くべきなのです。

主イエス様を中心とした交わりを、清く保っていく皆さんでありますように。
イエス様の御名前によって、祝福します。
アーメン。

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