メッセージ - 子供たちへの信仰のQ&A(申命記6:20-25)
礼拝説教メッセージ音声:子供たちへの信仰のQ&A(申命記6:20-25):右クリックで保存
今回の箇所では、子供からこう質問されたら、こう答えなさい、という、Q&Aを示している。
『後の日となって、あなたの子があなたに問うて言うであろう、「われわれの神、主があなたがたに命じられたこのあかしと、定めと、おきてとは、なんのためですか。」』(申命記6:20)
子供が信仰についてする質問は、時に、本質を突いて鋭い。
皆さんは、子供に限らず、未信者から信仰について質問された場合に、答える準備は出来ているだろうか。
ペテロは言っている。
『また、あなたがたのうちにある望みについて説明を求める人には、いつでも弁明のできる用意をしていなさい。しかし、やさしく、慎み深く、明らかな良心をもって、弁明しなさい。そうすれば、あなたがたがキリストにあって営んでいる良い生活をそしる人々も、そのようにののしったことを恥じいるであろう。』(1ペテロ3:15-16)
故に、キリスト者は日々、いつでも私の望みについて、やさしく、慎み深く弁明できるよう準備しておくべきであり、また、あかしのため、そして主キリストがそしられないために、良い生活を心がけるべきである。
信仰に関する質問をされた時は、自分は以前どのような状態で、主はそんな私達に、何をして下さったか。それをまず説明すると良い。
『その時あなたはその子に言わなければならない。『われわれはエジプトでパロの奴隷であったが、主は強い手をもって、われわれをエジプトから導き出された。』(申命記6:21)
イスラエルはかつて、エジプトの奴隷だった。主はそこから力強い御手で救い出された。
私達も以前は、罪に縛られ、サタンの奴隷状態だった。しかし主は、そこから偉大な御手によって救い出して下さった。
その過程がエペソ書2章に詳しく記されている。
『あなたがたは以前には、肉によれば異邦人であって、手で行った肉の割礼ある者と称せられる人々からは、無割礼の者と呼ばれており、またその当時は、キリストを知らず、イスラエルの国籍がなく、約束されたいろいろの契約に縁がなく、この世の中で希望もなく神もない者であった。ところが、あなたがたは、このように以前は遠く離れていたが、今ではキリスト・イエスにあって、キリストの血によって近いものとなったのである。』(エペソ2:11-13)
これが、主が私達に為して下さった事である。
キリストは、私達の身代わりに十字架上で罰される事によって、神と私達との間の隔ての壁を打ち壊し、神との平和をきたらせて下さった。
今や私達は、主にあって、どのような立ち位置を得ているだろうか。
『あなたがたは、もはや異国人でも宿り人でもなく、聖徒たちと同じ国籍の者であり、神の家族なのである。またあなたがたは、使徒たちや預言者たちという土台の上に建てられたものであって、キリスト・イエスご自身が隅のかしら石である。このキリストにあって、建物全体が組み合わされ、主にある聖なる宮に成長し、そしてあなたがたも、主にあって共に建てられて、霊なる神のすまいとなるのである。』(同19-22節)
当教会では、信徒の事を「聖徒」とよく呼んでいるが、あるクリスチャンは、一般のキリスト者を「聖徒」と呼ぶのはおこがましいのでは、と言う。
確かにクリスチャンは罪を犯すし、自分が「聖なる人」だとは到底思えないかもしれないが、ヘブル2:2に「聖とする方も、聖とされる者たちも、すべて元は一つです。」と書いてあるし、エペソ書にも、あなたがたは、もはや「聖徒たちと同じ国籍の者」であり、「神の家族」である、と記されている。
私達キリスト者は、使徒や預言者という土台の上に建てられた者であり、キリスト・イエスご自身が、隅のかしら石となっているのだ。
このキリストにあって、私達は古今東西の「聖徒たち」という建物へと組み込まれ、聖なる宮へと成長し、主にあって共に建てられて、霊なる神の住まいとなって行くのである。
そのように記されているからには、私達はアーメンと言って信じ、受け入れるのが筋であって、「信じられないから」と、御言葉に変な解釈を足すべきではない。
続いて主は、イスラエルを虐げてきた敵に対し、主はどうされたのか、という事も、子どもたちに教えるよう命じられた。
『主はわれわれの目の前で、大きな恐ろしいしるしと不思議とをエジプトと、パロとその全家とに示され、われわれをそこから導き出し、かつてわれわれの先祖に誓われた地にはいらせ、それをわれわれに賜わった。』(申命記6:22-23)
主はイスラエルのために、奴隷生活を強いてきたエジプトを処罰し、そこからイスラエルを救い出して、約束の地へと導き入れて下さった。
同じように、主は私達のためにも、奴隷を強いてきた罪とサタンを処罰され、そこから私達を救い出し、永遠のいのちへと導き入れて下さった。
また私達は、何のために主を信じ、どうして主の命じられた事を守り行うかを、そして、それら主のいましめを守り行ったらどうなるかも、子どもたちにしっかりと教えるべきである。
『そして主はこのすべての定めを行えと、われわれに命じられた。これはわれわれの神、主を恐れて、われわれが、つねにさいわいであり、また今日のように、主がわれわれを守って命を保たせるためである。』(申命記6:24)
主の命じられた事を守り行うなら、常に幸いであり、また、主に守られ、命を保つ事が出来る。
このように私達は、子供たちへ信仰を継承するのである。