メッセージ - 神殿のきらびやかさより、人の心を評価される主(1列王記6:14-38)
神殿のきらびやかさより、人の心を評価される主(1列王記6:14-38)
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- 執筆 :
- pastor 2016-1-4 20:15
神殿のきらびやかさより、人の心を評価される主(1列王記6:14-38)
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続いて、ソロモンが神殿をどのように建てたか、さらに詳細な内容が記されている。
『彼は香柏の板をもって宮の壁の内側を張った。すなわち宮の床から天井のたるきまで香柏の板で張った。また、いとすぎの板をもって宮の床を張った。また宮の奥に二十キュビトの室を床から天井のたるきまで香柏の板をもって造った。すなわち宮の内に至聖所としての本堂を造った。宮すなわち本殿の前にある拝殿は長さ四十キュビトであった。宮の内側の香柏の板は、ひさごの形と、咲いた花を浮彫りにしたもので、みな香柏の板で、石は見えなかった。そして主の契約の箱を置くために、宮の内の奥に本殿を設けた。
本殿は長さ二十キュビト、幅二十キュビト、高さ二十キュビトであって、純金でこれをおおった。また香柏の祭壇を造った。』(1列王記6:15-20)
この、宮の内奥にある「本殿」は、幕屋における「至聖所」にあたる所で、そこに契約の箱が安置され、年に一度、大祭司が血を携えて入って全イスラエルの贖いをする。
この「本殿」の寸法も幕屋の二倍で、縦横高さそれぞれ二十キュビトの立方体である。
ソロモンの神殿は、主がモーセに造らせた荒野の幕屋の二倍の寸法になっているが、材料は全く違う。
主がモーセに「このように造らなければならない」と言って示された幕屋は、四層の幕から成っており、解体して携行したり、また組み立てたりする事が可能なテントである。
その一番内側は、ケルビムの織り込まれた幕、次にやぎの毛の幕、その上は赤くなめした雄羊の皮の覆い、一番外側は、じゅごんの皮のおおいであった。
だから、人々が「幕屋」を外側から見る時、それはじゅごんの皮で覆われた巨大なテントとして見えるので、あまり見栄えが良いものではなかったが、しかしその内側には主の栄光が輝いていた。
対してソロモンの神殿は、解体不能な建造物で、外側が石、その内は香木やいとすぎの板、さらにその内は、純金であり、外見からしても豪勢であった。
『ソロモンは純金をもって宮の内側をおおい、本殿の前に金の鎖をもって隔てを造り、金をもってこれをおおった。また金をもって残らず宮をおおい、ついに宮を飾ることをことごとく終えた。また本殿に属する祭壇をことごとく金でおおった。』(1列王記6:21-22)
この神殿の内側は、残らず金で覆われていたため、灯火を灯すと、上限左右の金の壁面が光を反射して、とても美しくきらびやかな様子であった事が想像できる。
ソロモンはさらに、本殿(至聖所)の中に、高さおよそ4.5mのケルビムを造った。(23-28節)
ケルビムは、主の栄光と臨在をあらわす生き物であり、また、聖なる領域と俗なる領域の間に立って守る主の使いでもある。
エデンの園は、このケルビム達と、全方向に回転する炎の剣とによって守られ、人は入れなくなってしまった。(創世記3:24)
『彼は宮の周囲の壁に、内外の室とも皆ケルビムと、しゅろの木と、咲いた花の形の彫り物を刻み、宮の床は、内外の室とも金でおおった。本殿の入口にはオリブの木のとびらを造った。そのとびらの上のかまちと脇柱とで五辺形をなしていた。その二つのとびらもオリブの木であって、ソロモンはその上にケルビムと、しゅろの木と、咲いた花の形を刻み、金をもっておおった。すなわちケルビムと、しゅろの木の上に金を着せた。』(1列王記6:29-32)
モーセの幕屋では、最も内側の幕にケルビムが織り込まれていたが、それは今や、周囲の壁にも現れるようになった。
主の栄光の臨在が外へと広がり、以前よりも大きくなっているのだ。
さらに、黙示録では、主の栄光の臨在はもっと顕著となり、天から降ってきた新しい都・エルサレムが、神殿の究極的な完成形として表されている。
『御使いは御霊によって私を大きな高い山に連れて行って、聖なる都エルサレムが神のみもとを出て、天から下って来るのを見せた。都には神の栄光があった。その輝きは高価な宝石に似ており、透き通った碧玉のようであった。・・・都は四角で、その長さと幅は同じである。彼がそのさおで都を測ると、一万二千スタディオンあった。長さも幅も高さも同じである。』(黙示録21:10-16)
『私は、この都の中に神殿を見なかった。それは、万物の支配者である、神であられる主と、小羊とが都の神殿だからである。都には、これを照らす太陽も月もいらない。というのは、神の栄光が都を照らし、小羊が都のあかりだからである。諸国の民が、都の光によって歩み、地の王たちはその栄光を携えて都に来る。都の門は一日中決して閉じることがない。そこには夜がないからである。こうして、人々は諸国の民の栄光と誉れとを、そこに携えて来る。』(22-26節)
モーセの時の幕屋の至聖所は、縦横高さ10キュビトの立方体だったが、ソロモンの神殿では20キュビトの立方体となり、それが黙示録では、一万二千スタディオン(2220km)の立方体となっている。
もはや都そのものが至聖所となり、主の栄光の臨在が都のどこもかしこも照らし、太陽も月もいらないのだ。
アダム以来、エデンの園はケルビムによってガードされ、いのちの木に至る道を失ってしまったが、ほふられた小羊キリストの血によって自らを洗った聖徒達は、この都に自由に入る事が出来、いのちの木にあずかる事が出来る。
『第四年のジフの月に主の宮の基をすえ、第十一年のブルの月すなわち八月に、宮のすべての部分が設計どおりに完成した。ソロモンはこれを建てるのに七年を要した。』(1列王記6:37-38)
ソロモンは、7年がかりで神殿を造った。それは幕屋に比べれば非常に贅を凝らした造りだったが、後の時代には異邦人に破壊され、汚される事となってしまう。
なぜなら神は、神殿という”場”に特別に住まわれるのではなく、神殿で礼拝をする「人の心」にこそ働かれるからだ。
ステパノは、神殿冒涜の濡れ衣を着せられて、裁判の席に立たされた時、欺瞞に満ちているイスラエルの指導者達に言った。
『ダビデは、神の恵みをこうむり、そして、ヤコブの神のために宮を造営したいと願った。けれども、じっさいにその宮を建てたのは、ソロモンであった。
しかし、いと高き者は、手で造った家の内にはお住みにならない。預言者が言っているとおりである、『主が仰せられる、/どんな家をわたしのために建てるのか。わたしのいこいの場所は、どれか。天はわたしの王座、/地はわたしの足台である。これは皆わたしの手が造ったものではないか』。
かたくなで、心と耳とに割礼を受けていない人たち。あなたがたは、先祖たちと同様に、いつも聖霊に逆らっているのです。あなたがたの先祖が迫害しなかった預言者がだれかあったでしょうか。彼らは、正しい方が来られることを前もって宣べた人たちを殺したが、今はあなたがたが、この正しい方を裏切る者、殺す者となりました。あなたがたは、御使いたちによって定められた律法を受けたが、それを守ったことはありません。」』(使徒7:46-53)
ソロモン以降の王たちも、また、使徒時代の人々も、神殿を重んじておきながら御言葉から逸脱し、その心は主から遠く離れ、表向きでは神を敬っているようでも実は主に背き、主の怒りを積み上げていたのだ。
結局のところ、主が評価されるのは、神殿のきらびやかさではない。
礼拝者の心である。
『あなたがたは神の宮であって、神の御霊が自分のうちに宿っていることを知らないのか。もし人が、神の宮を破壊するなら、神はその人を滅ぼすであろう。なぜなら、神の宮は聖なるものであり、そして、あなたがたはその宮なのだからである。』(1コリント3:16-17)
神殿や礼拝堂といった、建物の大きさやゴージャスさが重要なのではなく、神と対面する「人」こそ重要なのだ。
私達こそ、キリストが宿られる神の建物であり、そしてその土台は、キリストご自身である。
そして、このキリストという土台の上に、私達は神の家を立てていくのだが、どのように建てるべきか、それは、各人にかかっている。
『あなたがたは神の畑であり、神の建物である。神から賜わった恵みによって、わたしは熟練した建築師のように、土台をすえた。
そして他の人がその上に家を建てるのである。しかし、どういうふうに建てるか、それぞれ気をつけるがよい。なぜなら、すでにすえられている土台以外のものをすえることは、だれにもできない。そして、この土台はイエス・キリストである。この土台の上に、だれかが金、銀、宝石、木、草、または、わらを用いて建てるならば、それぞれの仕事は、はっきりとわかってくる。すなわち、かの日は火の中に現れて、それを明らかにし、またその火は、それぞれの仕事がどんなものであるかを、ためすであろう。』(同9-13節)