メッセージ - 凝り固まって中々消せない心の黒板の落書きに対処する術(2コリント10:4-6)
凝り固まって中々消せない心の黒板の落書きに対処する術(2コリント10:4-6)
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昨日、私達の心に、心の「黒板」がある事を、学びましたね。
今日は、その続きです。
この、私達の心の黒板には、ガードがありません。鍵は、ありません。
気づかないうちに、傍らの人が、チョークを持って入って来て、
好きなことを書いていける――そんな黒板です。
親や友だちが好き勝手にかけますし、
先生や上司や、兄弟姉妹も、ぐさぐさ刺さるような事を、書いていきます。
たとえば、こんな感じです。
「それ、向いてないんじゃない?」 「えー、また失敗したの?」
「なんで普通にできないの?」 「ああ、ほんと面倒な人だね。」
「みんなに迷惑かけるって、わかってるの?」
「あなたは、愛されるタイプじゃないよね。」
「どうせ続かないよ。」 「期待しないほうがいいよ。」
こういう、一言です。
しかも、心の黒板の落書きって、チョークの粉が、凝り固まって残るんですよ。
黒板消しで消しても、薄く残るんです。
しかも、残った粉の上に、また次が書かれる。
それで、黒板はいつの間にか、他人の文字でぎっしりになる。
そして、厄介なのはここからです。
書かれた言葉が、いつしか“自分の声”になってしまうこと。
誰も言っていないのに、朝起きた瞬間から聞こえてくるんです。
耳元で、ささやいてくるんです。
「えー、また失敗したの?」
「なんで普通にできないの?」 「ああ、ほんと面倒な人だね。」
「今日もだめだよ」 「また迷惑かけるよ」
あたかも、黒板の文字が口を持って話しかけてくるみたいに。
それで、LINEをしても、既読にならないだけで、胸がざわつく。
“あれ?嫌われた?”って、勝手に結論が出る。
職場で名前を呼ばれただけで、わなわな、わなわな、なってくるんです。
川合先生が、まだ怒っていないのに、
ああっ、怒られる!! が先に来て、身が硬直するんです。
そばの人が、タメ息をついただけで、反射的に、わたし、嫌われてるのかな?って思うんです。
何でもないのに、突然、過去の失敗がフラッシュバックするんです。
もう過ぎたはずなのに、心の中が、“現在進行形”で痛いんです。
これが、黒板が落書きで埋まりすぎている状態です。
こうなってくると、
「本当の自分」がどこにいるのかわからなくなってしまうんです。
神さまが造られた創造本来の姿よりも、
誰かに貼られた落書きのほうが、濃くなってしまっているんです。
みなさん―― その落書き、
あなたじゃないです!!
それはあなたの本質ではないし、あなたの性格でもないし、あなたの運命でもない。
それは、心の黒板に書き込まれた言葉が、積もって、固まって、
“要塞”になってしまったものです。
要塞って何か。
中に敵が潜んで、タイミングを見て攻撃してくる場所です。
普段は静か。でも「きっかけ」があると急に動き出す。
たとえば――
ちょっと注意された。それだけなのに、
「ああ! やっぱり否定された」
「やっぱり私は価値がない」 「やっぱり嫌われる」
たとえば――
家族に一言言われた。
ほんの小さな言い方が刺さった。
すると、昔の傷が全部連れて来られる。
それで、涙が出るほどちぢこまったり、腹が立って怒りが止まらなかったりします。
それでいて、自己嫌悪が来るんです。
違うんです!
それは、あなたではない。
あなたの中に“住み着いた要塞”、言葉の城なんです。
今日のテーマは、ここです。
要塞は、壊せる。
みなさん、言いましょう!
要塞は、壊せる。
黒板は、書き換えられる。
そしてそれは、気合いや根性ではありません。
聖書は言います。
10:4 私たちの戦いの武器は、肉の物ではなく、神の御前で、要塞をも破るほどに力のあるものです。
10:5 私たちは、さまざまの思弁と、神の知識に逆らって立つあらゆる高ぶりを打ち砕き、すべてのはかりごとをとりこにしてキリストに服従させ、
10:6 また、あなたがたの従順が完全になるとき、あらゆる不従順を罰する用意ができているのです。
こで「思弁」とでてきました。これは、「ロギスモス)」と呼びます。
「相手が悪い、だから私は正しい」
とか、一見すると論理的で、筋が通っている。計算が合っている。
だからこそ厄介なんです。
そして次に、その理屈が大きくなると、心の中に「高い塔」が建ち始める。
“私はこういう人間だ” “私はこうする所存です”
それが「障害物(エパイロー)」――高慢という名の“高台”です。
高台に立つと、見晴らしがいい。自分が強くなった気がします。
さらに、その高台の中で「思い、これを(ナイマ)といいます」――
この思いというのは、はかりごと、とか、所存とか、心の企みが育っていく場所です。
これは、自分の中で、会議室をつくって、心の中の“自分王国”が政策を決めていくんです。
「こう反応すべきだ」 「こうやって人を判断すべきだ」
「こうやって自分を守るべきだ」
そうして、気づいたら、心の中に“要塞”が完成しているんです。
そして、その要塞の中から、敵が時々顔を出すんです。
些細な一言で爆発するんです。
だからパウロは言うんです。
私たちの武器は、肉のものではない。
神のためには、要塞さえ破壊する力がある、と。
ここで大事なのは、聖書が「あなたは努力で心を整えなさい」と言っているのではないことです。
“神から来る武器”があるんです!
つまり、戦い方が違うんです。
そして、その戦い方が、衝撃的な表現で描かれています。
「それを、逮捕して、キリストへと連行せよ!」
思いを、逮捕する。
感情を、逮捕する。
理屈を、逮捕する。
みなさん、神に逆らってたついものは、逮捕です。
自分の思いかどうか、怪しいものは“手錠をかける”んです。
「はい、あなたは今、ここで主権者ではありません。」
「あなたは真理ではありません。」
「あなたは私の人生の王座に座れません。」
そして連行して、キリストの前に引き出すんです。
ここまで来ると、私たちは気づき始めます。
「あれ…これ、私の本音だと思ってたけど、違う。」
「これ、私の性格だと思ってたけど、違う。」
「これ、真実だと思ってたけど、“要塞の声”だった。」
ダビデがよくやったのは、これです。
彼は自分に言い聞かせました。
「わがたましいよ、主をほめたたえよ」と。
面白いですよね。
ダビデは、心が自然に主をほめたたえるのを待っていない。
たましいが暗いとき、たましいがふてくされているとき、たましいが傷だらけのとき、
彼は“たましいを相手にして”語りかけた。
つまり、私たちも同じです。
心が勝手に言うことを、そのまま採用しなくていい。
たましいが勝手に走ろうとする方向に、ハンドルを渡さなくていい。
「その思い、いま逮捕。」
「そして、キリストに服従。」
これが、御言葉の戦い方です。
ですから、今日、もし心の中が騒がしいなら。
理屈が止まらないなら。
高台から降りられないなら。
こう祈ってください。
「主よ、この思いを逮捕します。
私の計算を、あなたの前へ連れて行きます。
私の高慢を、あなたの光にさらします。
私の所存を、キリストに服従させます。
私は王座を明け渡します。あなたが王です。」
この!
服従が“完全になる”とき――
つまり、心の中で主が王座に座ることを私たちが選び続けるとき、
要塞は音を立てて崩れ去ります。
敵は居場所を失います。
ですから、みなさんの人生は、みなさんの理屈が守るのではなく、
キリストの御言葉が生かすのです。
この「いのちのことば」を、今日いっしょに握りしめましょう。





