メッセージ - 異端者を裁く「正義の」使徒サウロの痛み(使徒9:1-9) 早天祈祷会 2026年2月5日(Thu)

異端者を裁く「正義の」使徒サウロの痛み(使徒9:1-9) 早天祈祷会 2026年2月5日(Thu)

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pastor 2026-2-5 6:34

異端者を裁く「正義の」使徒サウロの痛み(使徒9:1-9) 早天祈祷会 2026年2月5日(Thu)

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【概要】

使徒パウロ(サウロ)がダマスコへの途上でイエス・キリストと劇的に出会い、キリスト教最大の迫害者から最も偉大な伝道者へと変えられた場面。イエス様と出会った経験こそが私たちの最大の宝であり、それを生涯証しし続けることの大切さを学ぶメッセージ。

【聖書箇所】

使徒9:1-9

第一コリント15:8-10

【励ましの言葉】

イエス様と出会った経験は、あなたの宝です。それは神の一方的な恵みによるものであり、あなたの力ではありません。神の恵みによって、あなたは今のあなたに変えられたのです。

【慰めの言葉】

あなたがイエス様を信じているゆえに迫害されるとき、それはあなたを迫害しているのではなく、イエス様を迫害しているのです。イエス様はあなたと一つであり、あなたの苦しみを共に担ってくださいます。

【勧めの言葉】

キリストと出会った経験を後生大事に握りしめ、機会があるごとに証ししましょう。宣教や伝道を諦めてはいけません。今は理解できない人も、後に感性が開かれて救われるかもしれないからです。

【***詳細***】

今日、恵みをいただく御言葉は使徒行伝9章1節から9節です。皆さんで共に1節と2節を宣言しましょう。

使徒9:1-2「さて、サウロはなおも主の弟子たちに対する脅かしと殺害の意に燃えて大祭司のところに行き、ダマスコの諸会堂宛の手紙を書いてくれるよう頼んだ。それはこの道の者であれば、男でも女でも見つけ次第、縛り上げてエルサレムに引いてくるためであった。」

今朝のこの御言葉は、パウロがイエス様と出会った場面です。パウロはこの経験を生涯、本当にとても大切に大切に握りしめました。実際、使徒行伝において、このサウロからパウロに変わった場面、イエス様と出会って人生が変えられた場面を、このパウロは使徒行伝の中において、今回の箇所を含めて3回も書いているんです。

その後、行く先々において、「なぜお前はこのイエス・キリストを信じたのか、なぜキリストを宣べ伝えているのか」と裁判の場面で問いただされた場面において、いつもパウロは、このイエス様との強烈な出会いの場面を証ししました。

もし皆さんが「なぜあなたはイエス様を信じているんですか」と問われた時、皆さんもイエス様と出会ったその証しをするんです。イエス様と出会う前、自分は本当にイエス様を傷つけ、迫害する者だった。けれども、イエス様と出会った。そしてイエス様と出会った次第はこれこれこうでした。この経験ゆえに私は変えられて、そしてキリストを伝える者になったのです。私たちも本当にこのパウロのように、イエス様と出会った場面を絶えず証しする者でありたいですね。

このパウロは、そのパウロと名乗る以前はサウロでした。パウロの名前の意味は「小さき者」。しかし、その前のサウロは「人から望まれる者」、あるいは「大いなる者」という意味だそうです。この9章においては、まだパウロはサウロでした。

サウロはこの主の弟子たちに対する脅かしと殺害の意に燃えて、そして大祭司のところに行って、大祭司の許可を得るために行きました。どんな許可か。それはこの道の者、すなわちキリスト者であるとするならば、それは男でも女でも見つけ次第、縛り上げてエルサレムに引いてくる、その権限を得るためでした。男でも女でもです。子供でもだったでしょうね。

キリストを信じる者であるとするならば、この者を逮捕して縛り上げて、エルサレムに引っ張ってきて、牢屋にぶち込んで、あるいは死刑宣告が裁判で取り沙汰とされるならば、もう賛成票に投じる。それほどまでにキリストに対する迫害、この道の者に対する迫害する意欲に満ちておりました。なぜか。それは、それが正しいと信じて疑わなかったからです。

このサウロ、彼はパリサイ派の者でした。もうキリストに対して熱心に迫害するぐらい、もうユダヤ教に対して熱心な者でした。キリスト教が信仰の異端集団だと思い込んでいたんですね。それゆえに、このキリストを信じる者は異端だと。異端の者は死刑に値する。そういう義憤と言いますか、自分は正しいと信じて疑わない、それによる憤り、それに燃えて、このキリストにある者を牢屋にぶち込んでいきたい、そういう意図に燃えてはいたんですけども。

けれども彼は後に告白しております。キリスト者を牢屋にぶち込むたびに、男も女も子供も、その牢屋にぶち込んでいくたびに、彼は痛みを覚えていたんですね。あたかも棘のついた棒を蹴るような、そういう痛みを。このキリストを迫害する都度、迫害する都度、彼自身、痛みに思っていたんですね。

彼が異端だと聞かされて、そして迫害して牢屋にぶち込むたびに、あるいは死刑宣告をするたびに、その賛成票を投じるたびに痛みを覚えておりました。棘のついた棒を蹴る時、そう想像すると痛いですね。けれども、本当にそのような痛みをパウロはこの時覚えていたということを後に彼は証ししております。

なぜなら、キリスト者、異端だと思っていたキリスト者、それを引っ捕らえるたびに、そのキリスト者がとてもなんか凶悪な犯罪人の趣をしていないんです。とっても清らかな善良な趣をしているんです。

パウロはこの少し前、ステパノというキリスト者が議会で捉えられて、そして尋問されて、証しする場面に立ち会い、そして、その後、このステパノを石打ちの刑として、そしてこの石打ちの証人として、その石打ちをする人々の着物を預かる役目を負いました。このステパノの殉教の場面に立ち会ったんですね。

ステパノはこの信仰の異端の先鋒として、多くの人々を惑わしているということで、しかも神の御名を汚したという理由で、石打ちの刑に会うんですけども、この時、サウロはその場面に立ち会っておりました。

ステパノは石を投げつけられます。普通であるならば、その死刑宣告を受けて、もう人生最後です。異端として石打ちの刑に処せられて、石がこのステパノに当たっていくけれども、ステパノは全然、なんかもう罪深い死刑人の最後にのような成り立ちじゃなくて、とてもとても清らかな成り立ちでした。あたかも御使いのように顔が輝いておりました。

そして、その命を引き取る最後、叫ぶんですね。「主よ、どうかこの罪をこの人たちに負わせないでください」って、そう叫んで息を引き取るんですね。なんと石を投げている人を執り成しながら、神様に執り成しながら、御使いのような輝いた表情で息を引き取る。これ、一体どういうことだ。

異端の新興宗教集団、排除するべきなのに、けれども自分が捕らえた者は息を引き取った。それまでサウロは本当に葛藤を覚えておりました。彼は本当にガマリエルという偉い人の下で、このパリサイ派の教育を受けました。もう今で言うところの東大です。エリート中のエリート、これ以上のいい大学はないというほどのエリートとして、パウロは以前、サウロですね、サウロだった時はそういう道を歩んでおりました。

そして自分はもう律法においては、もう他の人々には引けを取らないほどの、もう自分はその道に通じた者であるという誇りを持っておりました。律法によっては欠点が一切ない者だと、自分も他人も自他共に認めておりました。

そんな彼自身、葛藤を覚えていたのは、それは彼は、良いことは何であり、悪いことは何であるか、それを知り尽くしておりながら、自分の中に罪が潜んでいるということ。自分は善をしたいのに、しかし、かえってしたくない悪を行っているという葛藤を彼はずっと覚えていたんですね。

律法を持っているにもかかわらず、また自分はそれのようなエリートであったという自負がある。自分だけでなく、他人も認めていたにもかかわらず、自分の中に罪があるというその葛藤を覚えておりました。

それなのに、このステパノという異端の新興宗教の者は、とてつもなく清らかな有り様で、自分が到達できなかった、あの聖なる領域に到達しているかのような、そういう有様。それを見て、彼は歯ぎしりしたんですね。自分が到達していないのに、なんでこの者はこんなに清らかな成り立ちなんだ。

ますますこれは危険な宗教だということで、この脅かしと殺害の意に燃えて、大祭司のところに行って、この道の者であるならば、男でも女でも逮捕して、そしてエルサレムに牢屋に引きずって、死刑宣告を、ますますしなくてはならないという殺害の意に燃えたんです。

けれども、彼がキリスト者を引っ捕らえれば引っ捕らえるほど、棘のついた棒を蹴るような痛みを覚えていたんですね。そんな葛藤を覚えつつも、ダマスコの方に行きました。ダマスコのキリスト者たちを捉えるために行ったんですね。

けれども、3節と4節、皆さん一緒に宣言しましょう。

使徒9:3-4「ところが、道を進んでいってダマスコの近くまで来た時、突然、天からの光が彼を巡り照らした。彼は地に倒れて、『サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか』という声を聞いた。」

これが彼の人生が変えられた経験でした。「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか」という声を聞きました。

ダマスコの近く、ダマスコのキリスト者たちを迫害するために、もうキリスト者を見つけたならば、すぐに引っ捕らえるためにダマスコの近くまで来た。その時、彼は天からのまばゆい光、それに照らされました。もう太陽よりもはるかに輝く光ですね。これ真昼です。昼、太陽の下にありました。けれども、その太陽よりももっと強い光、もう地に打ち倒れるぐらいに打ちのめされるぐらいに強い光です。

こんな光は悪魔サタンが放つはずがありません。神、光を創造された神以外の者が、こんな光を放つはずがありません。その光の中で声がするんです。「サウロ、サウロ」と2回名前を呼ばれました。名前を知っておりました。その光の主人はもう主である他にはありません。

その主が「なぜわたしを迫害するのか」と言うんです。彼としては熱心に神に仕えて、そしてその熱心さは正しいと自負しておりました。自分は正しいんだ、神に正しく仕えているのだと思い込んでおりましたが、しかしなんとこの光の主人が、「なぜわたしを迫害するのか」と、そういうふうに言うんですね。

じゃあ5節、みんなで一緒に宣言しましょう。

使徒9:5「彼が『主よ、あなたはどなたですか』というと、お答えがあった。『わたしはあなたが迫害しているイエスである。』」

サウロとしては、もう本当にわけがわからなかったんです。自分が神に正しく仕えていると思い込んで、そしてイエスを迫害しておりました。それで、その迫害するためにダマスコまで来たけれども、こんな強い光、もう神以外にはこんな光は放つことができない、そのような光。それに照らされて、打ちのめされて、しかも「なぜわたしを迫害するのか」と、この光の主人は言うんですね。

この光の主人はイエス様です。そのイエス様は、「なぜわたしの弟子たちを迫害するのか、なぜわたしを信じる者を迫害するのか」とは言わず、「なぜわたしを迫害するのか」と言いました。

皆さんがイエス様を信じている。そして皆さんがイエス様を信じているゆえに家族から、あるいは子供から迫害をされるとき、それはその家族は、子供は皆さんを迫害しているのではなくて、イエス様を迫害しているんです。イエス様の弟子を迫害することイコール、イエス様を迫害しているんです。イエス様はそのように宣言しました。

皆さんを迫害する人、皆さんがイエス様を信じているということゆえに、皆さんのことをよくなく言う人がいるかもしれません。それは皆さんを迫害しているんではなくて、イエス様を迫害しているんです。

サウロは言います。「主よ」、「主よ」と言います。先に言って、その次に「あなたはどなたですか」と言うんですね。もうサウロとしては、この光の主人は、自分が主と呼んでいる主以外にはありえないけれども、「あなたはどなたですか」と、もう主だと言っときながら、「あなたはどなたですか」と矛盾するかのようなことを叫ばずにはおれなかったんですね。

「わたしはイエス、あなたは迫害していたんですか。あなたに仕えていたつもりだったのに、じゃあ一体あなたは一体どなたなんですか」。そういうふうに言うと、お答えがありました。「わたしはあなたが迫害しているイエスである。」

このサウロはイエスが異端の教祖人だと思っておりました。異端の教祖だと思っていました。ところが、この光の主人は、なんと「わたしはイエスである。あなたが迫害しているイエスである」とそういうふうに言いました。

さらにイエス様は言われます。「立ち上がって町に入りなさい。そうすればあなたのしなければならないことが告げられるはずです。」

イエス様はこの時サウロに、「あなたがしなければならないことはこれこれだ」というふうに言わないで、「町に入りなさい。町に入れば、そうすれば、あとしなければならないことが告げられるはず」、ある人を通して、「あなたがしなければならないことが告げられるはずです」ということを、イエス様はここで、イエス様、直接あなたのしなければならないことを言うのではなく、人を通して、弟子を通して、「あなたのしなければならないことが告げられるはずですよ」というんですね。

皆さんも、イエス様と出会った経験があるかと思います。ある人はこのサウロのように、ある人、突然イエス様の声を聞いて。私は直接イエス様の声を聞いてということではありませんでした。御言葉を通してだったんですね。ある人は夢を通してかもしれません。私もイエス様に関わった夢を見たことはあります。

ある人は、まあ大勢のケース、イエス様と出会う場面において、まあ、イエス様から直接声を聞くのは、まあ少数かもしれませんけれども、多くのケースは人づてだったことでしょう。道で伝道しているキリスト者、伝道者を通して、ある人はトラクトを通して、ある人はこのキリスト教放送番組を通してかもしれません。人づてであることが、多くのケースですね。

このサウロも直接イエス様と出会ったことは出会いました。けれども、しなければならないことを伝えられたのは、人づてを通してでしたね。その後で会うアナニアという人、キリスト者を通してしなければならないことが告げられました。

宣教というものは人間に託されているんです。私たちに託されております。私たちのこの宣教の愚かさを通して、神様はこの福音が伝えられ、全世界に伝えられていることを定められたと書いてあります。

彼はそういうわけで立ち上がって、これからどうするべきか町に入って、そしてしなければならないことを告げられることを待つ身となります。

7節を見ますと、「同行していた人たちは、このサウロに同行していた人たちですね。同行していた人たちは、声は聞こえても誰も見えないので物も言えずに立っていた。サウロは地面から立ち上がったが、目は開いていても何も見えなかった。そこで人々は彼の手を引いてダマスコへ連れて行った。彼は3日の間、目も見えず、また飲み食いもしなかった。」

同行していた人々がおりました。その人々は、この声を聞いていたんですね。けれども、誰も見えない。このサウロは光、とてつもなく強い光に打ちのめされて、目が見えなくなりました。けれども、この同行していた人は目が見えました。光に打ちのめされることもありませんでした。

なぜでしょうか。サウロだけが打ちのめされ、強い光を見て、この声の内容をしっかりと聞き取って、打ちのめされました。「主よ、あなたはどなたですか」「わたしはあなたが迫害しているイエスだ」。それをはっきりと理解して打ちのめされました。けれども、この同行していた人々は、なんと声は聞こえても誰も見えない。

この声、確かフォーネというギリシャ語だったと思います。これは、あの声、音というふうに訳され、あるいはノイズというふうにも訳することができる、確かそういう単語だったと記憶しているんですけども。ですから、このイエス様の声は、ある人にとってはもう衝撃的に人生を塗り替えるほどのその声として聞くんですけど、しかし、ある人にとってはノイズとしか聞こえない。

ある人にとっては本当に賛美がノイズにしか聞こえないという人がおり、ある人にとっては、賛美がもう本当に心が震えて涙が流れるほどの、そういう声に聞こえる、音に聞こえる。本当に不思議です。

なんである人にとっては、このイエス様の声がノイズ類にしか聞こえない。ああ、つまらないな、早く終わらないかなって。ああ、このキリストの宣言。もうつまらないな、早く終わらないかなと言って、ペラペラペラペラって、もう宣言を、主の祈りも、「天にまします我らの父よ」みたいな。ある人にとってはこのノイズにしか聞こえないけれども、ある人にとってはもう本当に尊い尊い主の祈りを、ああ、「天にまします我らの父よ」、本当に感動を持って祈る。これ、感性でしょうね。

この同行していた人たちには声がノイズにしか聞こえませんでした。けれども、じゃあこの人はもう生涯救われない人なのかというと、そうとはわかりません。その後、もう本当に感性が開かれて、ああ、あの時パウロが出会ったあの人の声はこんなにあんな声だったんだっていうふうに変えられたかもしれないですね。それはわかりませんけれども、確定していること、それがあります。

それはね、その人にとって、この時は救われていなかったかもしれないけれども、そのうちに救われるかもしれない。だから皆さん、宣教すること、伝道すること、これ諦めてはならないんです。今はそういう状況であっても、後で感性を与えられて救われるかもしれない。

とにかく皆さん、わかるべきことは、この、ある類の人にとって、キリストの声はノイズにしか聞こえないこともある。間違えてもある人にとっては、もう本当に心を触れて人生変えられるほどの声になるかもしれません。そういうものなんですね。

サウロにとっては、本当にこの人生変えられるほどの衝撃を受けたキリストの声でした。イエス様は本当に私たちの人生を変えるお方です。今日のこの箇所において、本当にもう「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか」というこの声は、サウロにとって人生が変わった、名前も変わった経験でした。

イエス様と出会った経験、これこそが皆さんの宝です。サウロは後にパウロと名乗り、自分は小さき者だ。なぜ、自分は神の教会を迫害したからだ。

第一コリント15:8-10で、パウロはそこにおいて、本当に最も大切なこととして、あなたに伝えた福音。それは、イエス・キリストがこの世に来られて、十字架にかかられて、全人類の罪を背負って死なれたこと、そして復活されたこと、そして大勢の人々に現れて、そして最後には月足らずで生まれたような、こんな私にも現れてくださった。「最後に、月足らずで生まれた者と同様な私にも現れてくださいました」と、第一コリント15章8節でパウロは告白しております。

「私は使徒の中で最も小さい者。パウロ、小さい者であって、使徒と呼ばれる価値のない者です。なぜなら、私は神の教会を迫害したからです。」

今日の使徒行伝の箇所においては、もう本当に迫害の意に燃えていた者でした。それが正しいと思っていたんです。この者を打ち叩き、この者を迫害すること、これが神の意に沿ったものだと迫害の意に燃えていたけれども、後になって本当にとてつもなくひどいことをした。自分は主を打ち叩いていた。自分はイエス様を打ち叩いていた、迫害していた。まことに自分は小さな者だ。使徒と呼ばれる価値のない者だ。

「ところが神の恵みによって私は今の私になりました」と告白しております。「そして私に対するこの神の恵みは無駄にはならず、私は他のすべての人たちよりも多く働きました。しかし、それは私ではなく、私にある神の恵みです。」

神の恵み、一方的な恵みによって、こんな最も小さき私がキリストのために働く働き人になれた。これは神の恵みだって。

今、皆さんが神様のために働いている、皆さんは神様の恵みですね。皆さんの力ではなく、本当に皆さんがイエス様と出会ったのは神の恵みです。だから誇ることはできませんね。唯一誇るとしたら、キリストにあって神の者とされたこと、ただこれだけです。

パウロは本当にこの時、キリストにあって作り変えられました。そして、このキリストと出会った経験を後生大事に捉えられて、裁判の席に引きずり出された時も、この自分の無実を弁明するのではなく、キリストと出会ったことを証ししました。

それで、そういうわけで、以前の者から今の私に変えられて、だから今、私はキリストを伝えているのですと。もう王様と出会うたびに、また捉えられて、裁判の席に引きずり出されるたびに、彼はこれを告白しました。

皆さんも告白するんです。キリストと出会った経験、これこそが皆さんの宝です。

今日、皆さんにお伝えしたいこと、それは皆さんにとっての宝、それはキリストと出会ったことです。それを後生を大事に握りしめて、機会があるごとに証ししましょう。私がキリストにあって変えられた次第はこれこれですと。キリストはこういうお方です。

皆さんもキリストの証し人として用いられていく皆さんでありますように。イエス様のお名前によって祝福いたします。

【結論】

イエス・キリストと出会った経験こそが、私たちの最大の宝である。パウロは最大のキリスト教迫害者から、最も偉大な伝道者へと変えられた。それは彼自身の力ではなく、神の一方的な恵みによるものであった。私たちも、イエス様と出会った経験を後生大事に握りしめ、機会があるごとに証しする者となろう。キリストの証し人として用いられていくことが、神の恵みによって救われた者の歩みである。宣教や伝道を諦めず、今は理解できない人々も後に感性が開かれて救われることを信じて、キリストを伝え続けていこう。

 

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