メッセージ - ゲツセマネの祈りと十字架の恵み(マルコ14:32-42)

ゲツセマネの祈りと十字架の恵み(マルコ14:32-42)

カテゴリ : 
礼拝メッセージ説教音声配信 » 定期祈祷会メッセージ
執筆 : 
pastor 2026-4-2 5:50

 ゲツセマネの祈りと十字架の恵み(マルコ14:32-42)

メッセージ音声

【概要】

イエス・キリストがゲツセマネの園で捧げられた苦難の祈りと、誘惑に負けて眠ってしまった弟子たちの姿を通して、十字架の贖いの恵みを深く覚え、目を覚まして主と共に祈り歩むことの大切さを説いたメッセージです。

【聖書箇所】

マルコ14:32-42

【慰めの言葉】

罪を知らないイエス様が、私たちの身代わりとなってすべての罪を背負い、父なる神様からの断絶という想像を絶する深い悲しみと苦しみを味わってくださったからこそ、私たちは罪赦され、神の子供とされる恵みをいただきました。

【励ましの言葉】

私たちの肉体は弱く、すぐに誘惑に負けてしまう存在ですが、イエス様はそんな私たちをも受け入れ、十字架の上で「完了した」と宣言して救いを全うしてくださいました。イエス様が共にいてくださるので、私たちは自分に与えられた十字架を負って最後まで歩み抜くことができます。

【戒めの言葉】

祈るべき大切な時に祈らず、居眠りをしてしまう弟子たちの姿は、現代を生きる私たちの姿でもあります。大切な時が過ぎ去ってから後悔することのないよう、霊的に目を覚ましている必要があります。

【勧めの言葉】

心は燃えていても肉体は弱い私たちだからこそ、誘惑に陥らないように目を覚まして祈り続けましょう。私たちの願いではなく、神様の御心がなることを第一に求めていくのです。

【悔い改めの促しの言葉】

主がこれほどの苦しみの中で祈っておられた時、私たちは無関心でいなかったでしょうか。主にのみ十字架を負わせたまま、知らない顔をして生きてはいないでしょうか。自らの弱さと罪を認め、イエス様の尊い血潮による清めを求めて祈りましょう。

【***詳細***】

私たちは初めに、マルコによる福音書14章の32節を宣言したいと思います。

「ゲツセマネという所に来て、イエスは弟子たちに言われた。『わたしが祈る間、ここにすわっていなさい。』」(マルコ14:32)

愛する私たちの主イエス様は、このゲツセマネの園において、深く悲しみながら祈られました。しかし、それに引き換え、弟子たちは居眠りをしてしまい、誰一人としてイエス様の祈りに最後まで参加することはできませんでした。そのことを思うとき、本当に心が痛みます。しかし、十字架の御業が成し遂げられた後、イエス様はいつも祈り、私たちを力づけてくださっています。この受難週において、私たちがしっかりとイエス様にとどまり続け、死に至るまでも忠実であり、親密な交わりのうちに歩み通すことができるよう、神様が一人ひとりの心を整え、これから取り次ぐ御言葉を通して助けてくださることを祈ります。

イエス様が祈られた「ゲツセマネ」という場所の名前には、「油搾り」という意味があります。オリーブの木から採れた実を機械で圧搾し、そこからオリーブ油が滴り落ちていく、そういう場所です。このゲツセマネにおいて、イエス様ご自身がまるでオリーブの実のように極限まで圧縮され、押しつぶされ、油が滴るような、あるいは血の汗が滴るような、壮絶な祈りを捧げられました。

イエス様は弟子たちにこう言われました。

「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここを離れないで、目をさましていなさい。」(マルコ14:34)

イエス様も、深く悲しまれました。イエス様は神の御子です。この世界が始まる前から、父なる神様の懐深くで、いつも親密な交わりを持っておられました。皆さんも、心から信頼できる親しい人と断絶してしまったら、どれほど悲しいか想像できるでしょうか。イエス様にとって、父なる神様との永遠に親密な交わりが断絶され、神様から完全に拒絶されるということは、宇宙で一番深く、苦しく、悲しいことでした。イエス様は、その恐るべき体験をいよいよ迎えようとしていたのです。

本来、神様から断絶され、罪の処罰を受けて永遠の苦しみを味わうべきなのは、罪を犯した私たち人間のほうです。しかし、罪を全く知らない清らかなイエス様が、私たちの身代わりとなって全人類の罪を背負い、ご自身が「罪そのもの」とされて、父なる神様からの断絶を受けられました。これは、私たちには到底計り知れないほどの深い悲しみと苦しみです。私たちが受けるべき処罰を、イエス様が身代わりに受けてくださるために、イエス様は「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです」とおっしゃるほどに苦しまれたのです。

イエス様は、神様であると同時に、私たちと同じ「人」としてこの世に来られました。人として来られたからこそ、鞭で打たれれば当然痛いですし、手足に釘を打たれればとてつもない激痛を感じます。そして、最も親しい父なる神様から引き離されることは、死ぬほど悲しいことでした。私たちは時々、「イエス様は神の御子だから、私たち人間ほどには痛みや悲しみを感じなかったのではないか」と勘違いしてしまうことがあるかもしれません。しかし、決してそうではありません。イエス様は、私たち人間の罪を救い、私たちの身代わりとなるために、私たちと全く同じように痛みを感じ、悲しむことのできる「人」として天から降りてきてくださったのです。人間として罪の処罰を引き受け、神様と断絶されるために来られたからこそ、これほどまでに深く悩み悲しまれたのです。

だからこそ、イエス様は弟子たちに「ここを離れないで、目をさましていなさい。私のために祈っていてください」とお願いされました。その後、イエス様は少し進んで地面にひれ伏し、祈り始められました。

「アバ、父よ。あなたにおできにならないことはありません。どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願うことではなく、あなたのみこころのままを、なさってください。」(マルコ14:36)

イエス様はここで、「この杯を取りのけてください」と祈りました。この「杯」とは、全人類の罪を背負って十字架につけられ、父なる神様から完全に断絶されるという恐ろしい苦しみのことです。イエス様は「父よ、あなたにおできにならないことはありません」と祈りました。父なる神様には不可能なことはありませんから、イエス様を十字架にかけずに人類の罪を取り除く方法も、おできにならないはずはないと考えられたほどの苦悩でした。

しかし、イエス様はご自身の願いを押し通すことはしませんでした。祈りの最後に「しかし、わたしの願うことではなく、あなたのみこころのままを、なさってください」と付け加えられたのです。私たちも、神様にどんなことでも正直に願い求めることができます。しかし、私たちが常に忘れてはならないのは、最後に「私の願いではなく、神様の御心がなりますように」と祈ることです。神様の御心こそが、私たちにとって常にベストであり、最善だからです。

この時、イエス様がご自身の願いを捨てて父なる神様の御心に従い、十字架にかかってくださったからこそ、黙示録に記されているように、全被造物から「屠られた小羊は、力と富と知恵と勢いと誉れと栄光と賛美を受けるにふさわしい方です」と褒めたたえられるのです。イエス様が屠られてくださったおかげで、私たちの罪はイエス様と共に十字架に釘付けにされ、私たちはイエス様の尊い血潮によって買い取られ、神の子供とされるという素晴らしい身分を与えられました。私たちはこのゲツセマネでの祈りと、イエス様の苦しみを決して忘れてはなりません。

イエス様が祈りを終えて戻って来られると、なんと弟子たちは眠ってしまっていました。そこでイエス様はペテロにこう言われました。

「シモン、眠っているのか。一時間でも目をさましていることができなかったのか。誘惑に陥らないように、目をさまして祈り続けなさい。心は燃えていても、肉体は弱いのです。」(マルコ14:37-38)

弟子たちは、たった一時間も祈り続けることができませんでした。それが10分だったのか、20分だったのか、40分だったのかはわかりません。しかし、イエス様が血の汗を滴らせるほどの最大の苦しみの中で祈っているその瞬間に、彼らは目を覚まして共に祈ることができなかったのです。

ここでイエス様が注意されたのは、「誘惑に陥らないように目を覚まして祈りなさい」ということでした。私たちは、祈るべき時に祈りに集中できず、眠気という誘惑や、テレビ番組、買い物のことなど、別の楽しいことに心を奪われてしまう誘惑にとても弱いです。心の中では「神様のために祈りたい」と燃えていても、私たちの肉体は本当に弱いものです。困難に耐えることよりも、自分を気持ちよくさせる誘惑の方に流されやすいのです。だからこそ、イエス様は「誘惑に陥らないように、霊的に目を覚まして祈り続けなさい」と警告されました。

その後、イエス様は再び同じ言葉で熱心に祈られました。そして戻って来ると、弟子たちはまたしても眠っていました。彼らはひどく眠気がさしていて、イエス様にどう言い訳してよいのかもわからない状態でした。イエス様がたったお一人で苦しみもだえて祈っているのに、弟子たちは肉体の誘惑に負けてしまったのです。

イエス様は三度目に祈りに行き、また戻って来られました。しかし、弟子たちはまだ眠っていました。最も一緒に祈ってほしかった大切な場面で、彼らは三回も眠ってしまったのです。そこでイエス様は言われました。

「もう十分です。時が来ました。見なさい。人の子は罪人たちの手に渡されます。」(マルコ14:41)

私たちにも、誘惑に負けて居眠りをしてしまい、祈るべき時に祈れず、そのまま「時が来てしまう」ことがあります。祈り会に最初から最後まで居眠りをしてしまい、終わりの時間が来てしまう。その時、皆さんは「ああ、祈り会に参加できてよかった」と思えるでしょうか。それとも「ああ、また居眠りしてしまった。イエス様と共に過ごすことができなかった。イエス様の苦しみを少しでも共に背負うことができなかった」と深く後悔するでしょうか。

「時が来ました」とイエス様が言われた直後、裏切る者と、イエス様を捕らえに来た者たちによって、イエス様は連行されていきます。この時、イエス様は天から御使いの十二軍団を呼び寄せて、捕らえに来た者たちをいとも簡単に追い払うこともできました。しかし、イエス様はあえてそうはされませんでした。なぜなら、それは父なる神様の御心ではなかったからです。イエス様が全人類の罪の身代わりとなって十字架にかかり、命を落とし、父なる神様から断絶されること。それこそが、父なる神様の御心だったからです。だから、イエス様は完全に服従して、あえて捕らえられていかれたのです。

今日、私たちはイエス様の十字架と復活の後の時代を生きています。だからこそ、私たちは目を覚まして祈り続けるべきです。この十字架の激しい苦しみを覚え、復活の命をいただき、私たちのために屠られた小羊であるキリストに、栄光と賛美を捧げるべきなのです。私たちの肉体は確かに弱いです。しかし、この地上において、イエス様と共に歩む人生を全うできるように祈りましょう。

「主にのみ十字架を負わせまつり、我知らない顔にどうしてあるべきだろうか」という賛美歌があります。私たちは、イエス様にだけ十字架を負わせて、自分は関係ないというような「知らない顔」をして生きていてはいけません。イエス様が全人類の罪を負う十字架を背負ってくださったのですから、私たちは、自分自身の生き様を神様に捧げるという、自分に与えられた十字架を背負いながら、この人生を歩んでいくべきなのです。

イエス様は、あの十字架の上で「テテレスタイ」、すなわち「完了した」と宣言してくださいました。私たちが負うべきすべての処罰を身代わりに受け、ご自身の命を差し出して、私たちが必ず死ななければならないその死を全うしてくださったのです。さらにイエス様は、十字架の上でご自身を十字架につける者たちのために「父よ、彼らをお赦しください。彼らは自分が何をしているのかわからないのです」と、とりなしの祈りを捧げてくださいました。自分がどれほどわからずやであるかさえも気づいていない私たちのために、イエス様はとりなしてくださったのです。

今日、私たちは、十字架のイエス・キリストを記念し、仰ぎ見ます。イエス様の尊い血潮によって清められ、罪赦されて、新しく贖われた者として、私たちはここにいます。この受難週において、イエス様が全人類の罪の赦しのためになされたこの偉大な御業を思い出し、深く心に刻みましょう。そして、許しの十字架の御許にいる者として、目を覚まして祈り、人々にこの福音を証ししていくことができるよう、神様の助けを求めて祈り歩んでいきましょう。

【結論】

イエス・キリストは、ご自身の願いを捨てて父なる神様の御心に従い、私たちが受けるべき罪の処罰と神からの断絶という想像を絶する苦しみを、十字架の上で引き受けてくださいました。私たちは肉体の弱さゆえに、弟子たちのように祈るべき時に誘惑に負けてしまう者ですが、主の尊い血潮によって完全に赦され、贖われています。だからこそ、ただ主にのみ十字架を負わせて傍観するのではなく、霊的に目を覚まして祈り続け、自らに与えられた十字架を背負って、主と共に歩む人生を最後まで全うしていきましょう。

トラックバック

トラックバックpingアドレス トラックバックpin送信先urlを取得する
メインメニュー
礼拝ライブ中継

礼拝ライブ中継!

礼拝ライブ中継!

過去の礼拝映像も視聴できます

メッセージ
このページを紹介!

 
 
 
礼拝週報
メッセージ音声
検索
Copyright ©Yokohama Voice of Christ Church 横浜天声キリスト教会
All Rights Reserved.
 〒231-0058 神奈川県横浜市中区弥生町2-17 ストークタワー大通公園?-201
TEL/FAX:045-326-6211

tensei.christ at gmail.com (atを@に変更して下さい)
© 2022 Powered by XOOPS Cube 2.1
Welcome Guest