メッセージ - ヨブ記は難しい?難解?いいえ!(ヨブ記1:1)
ヨブ記は難しい?難解?いいえ!(ヨブ記1:1)
メッセージ音声
概要
ヨブ記は難解で理不尽に思える書物だが、ヘブライ思考的に最初と最後を見比べる(キアズム)ことで、その真の結論が「神は慈愛に富み、憐れみに満ちておられる」ということだとわかる。人間の議論による崇高な言葉よりも、神との親密なとりなしの祈りこそが幸いへの道である。
聖書箇所
ヨブ1:1、ヨブ12:9、ヨブ42:17、ヤコブ5:11
慰めの言葉
神様は気まぐれに人に災いを起こすお方ではなく、私たちを憐れみ深く、忍耐深く、恵みを施そうとして待っておられる方である。
励ましの言葉
神様と喧嘩をしてでも親密に関わろうとすることは幸いなことである。神様から背を向け、無視して生きることこそが一番良くない。
勧めの言葉
聖書が分からない時は、まず最初と最後を読むこと。それでも分からなければコンテキスト(前後の節)、インターテキスト(前後の章)、インフラテキスト(他の書物)を見ること。
悔い改めの促しの言葉
人間の議論、崇高そうに見える言葉のやりとりの中にどれだけ忌まわしいものが潜んでいるかを、自分も含めて知り、悔い改めることに信仰の中心を置くべきである。
***詳細***
ヨブ記は擬人の苦難というテーマを扱った文献として知られています。ウィキペディアにもそう書いてありますが、一般的には難しい、崇高的な、哲学的なことが書かれていると思われがちです。でも皆さん、ヘブライ思考を学びましたね。ヘブライ思考で感じるのは、最初と最後のキアズムです。
ヨブ記の1章1節ではこう書いてあります。「この鬱(ウツ)の地にヨブという人がいた。この人は誠実で真っ直ぐな心を持ち、神を恐れて悪から遠ざかっていた。」そしてヨブ記の最後、42章17節にはこう書いてあります。「こうしてヨブは死んだ。年老いて満ち足りた生涯であった。」
ここを見ますと、ヨブ記が理不尽なこと、不条理なことが書いてあるから好きだという人には、その考えは当てはまりません。最初はヨブが誠実で神を恐れて悪から離れていたこと、最後はヨブが満ち足りた生涯であったこと。その真ん中にサンドイッチされたのがヨブの苦難です。ヨブの人生からすれば、苦難の後にもう140年生きたのです。ヨブが苦難を受けたのは70歳の時だという人もいますが、そうだとすると210年も生きたことになり、しかもその大部分は幸せな人生だったということが分かります。
キム先生が言っていたのですが、聖書が分からなかったら、最初と最後を読みなさいということと、もう一つ、聖書の別の箇所を読むと分かりやすいということです。聖書本体はテキストと言いますが、それに関わる他のテキスト、一番身近な前後の節はコンテキストと言います。分からなかったらコンテキストを見なさい。それでも分からなかったらインターテキスト、章と章、前の章と後の章を見なさい。あるいはヨブ記の他の章を見なさい。それでも分からなかったらインフラテキスト、つまり他の書、新約と旧約をまたいで、それについての説明がどう書いてあるか見なさい。これがヘブライ思考的な聖書の見方です。答えは必ず書いてあると、キム先生も菅先生もおっしゃっていました。
このヨブ記に関してのインフラテキストが、冒頭で宣言したヤコブ書5章11節です。新約によって唯一ヨブについて言及されているのがそこです。そこにおけるヨブ記の結論はこう書いてあります。「見なさい、耐え忍んだ人たちは幸いだと私たちは思います。あなた方はヨブの忍耐のことを聞き、主によるその結末を知っています。主は慈愛に富み、憐れみに満ちておられます。」ヨブ記単体を見ますと、神様が恐ろしい、理不尽なことを仕掛けるんじゃないかと思う人が大勢いますが、聖書の結論は、神様はこのヨブを通して慈愛に富み、憐れみに満ちておられるお方だということです。
ヨブ記が難しく感じられる理由の一つは、3章から最後の章まで、詩文体という特別な文体で書かれているからです。詩篇と同じ文体です。詩篇は読んでいて感動し、共感しますね。しかしヨブ記は、同じ詩篇と同じ文体で書かれているにもかかわらず、感動する人はなかなかいません。感動どころか読んでいてうんざりしてくる人も多いかと思います。
詩篇の場合はそのまま読んでいて「ああ、共感できるな」と自分の祈りを重ねられますが、このヨブ記は詩文体で書かれてあって崇高そうなことが書かれています。この崇高な文体で書かれてある内容は、人間の知恵、人間の哲学、それに基づく議論なのです。もう一つ、うんざりする理由は、この詩文体で書かれてある部分において主の御名がほぼないことです。ヨブ記の3章から37章まで、この長い議論の中で主の御名がたった1回しか出てきません。それが出てくるのはヨブ記12章9節のヨブの言葉だけです。ですから皆さん、キリスト教会の中にいたとしても、主の御名がない人間的な哲学議論、難しい議論は人をうんざりさせるのです。
ヨブは創造主に対して、友人に対して詩文体を用いて崇高な言葉で、自分が正しい、主は間違ってる、友人たちお前たちの方が間違ってるんだと、議論で打ち負かそうとしているのです。もし皆さんがヨブのように、私は悪くない、創造主の方が悪いんだという祈りを延々としていると、怒りが積み重なって浸透していき、ついには圧倒的な力によって打ちのめされることになってしまいます。皆さんは詩篇のように、「主よ、あなたが主です、どうか私を憐れんでください」と祈るのであれば、詩篇が示す幸いに与ることができます。
このヨブ記の議論を読んでいくと、なぜキリスト者の中にもうんざりさせるような崇高な感じの人がいるのか、その正体が分かってきます。また、最初は素晴らしかったヨブが、友人たちとの議論を重ねていくうちに、だんだんくだらない土俵に落ち込んでいってしまう。義人をこんな風に貶めてしまう原因は何かも、このヨブ記から分かってきます。
しかも、この議論の中には主の御名は出てこないけれども、実際は全部見えているのです。ヨブが徐々にイエス様のような執り成し手を求めるかのような変化が見られてきます。「私には弁護士が必要だ、私を憐れんでくれる人が必要だ」と。そして主を求めるようになっていきますが、さらに友人たちの議論によって怒りがある時点で爆発し、今度は神様に対して喧嘩を吹きかけるようになっていくのです。でも喧嘩であろうとも、神様と親密に関わろうとすることが幸いなことです。神様に対して納得がいかなかったら、「なんでですか」と吹きかければいいのです。祈りの中で親密になっていけばいいのです。一番良くないのは、神様から背を向けて、神様を無視して、神様なしで別次元で生きることです。喧嘩でも神様と関わることは良いことです。どうせなら「神様、あなたを愛します、あなたに従います」と言えることが最も幸いです。
ヨブは非の打ち所がない、東の第一の信仰者であり、東の第一の祝福を受けた人でした。けれども災いを受けるようになっていきます。今の私たちだけでなく、古代の人々もこう考えていました。何か悪いことが起きるのは、その人が悪いことをしたからだ、罰が当たったんだ、因果応報だと。ヨブの友人たちもこぞってこの因果応報を主張し、「あなたは何か悪いことをしたからこういうことが起きたんだろう」と言い続けますが、ヨブは全くもって身に覚えがなかったのです。
このヨブ記の起承転結を見ますと、まず「起」の部分は1章と2章です。天上で会議が行われ、サタンも登場します。サタンはヨブについて「果たしてヨブは理由もなく神様を恐れているでしょうか」と疑問を投げかけます。「どうせヨブが神様を恐れているのは、あなたが祝福の囲いを置いているからじゃないですか」と。「一つヨブから、その加護を取ってごらんなさい。たちまちヨブはあなたを呪うでしょう」と。神様はそれを許可し、ヨブはたった1日にして全財産を失い、愛する子どもたちを失います。それでもヨブは一切神様を呪うようなことはしませんでした。ヨブの妻は「神を呪って死になさい」とまで言いますが、それでも呪わなかったのです。
「承」の部分は3章から31章、終わりなき論争のところです。友人たちは「お前は何か悪いことをしたから災いにあってるのだ」と言い続け、ヨブは「違う」と反論します。それが何巡もするうちにどんどん激しくなり、ついにヨブが切れてしまいます。正しかったヨブが「神様、あなたの方が間違ってる、私はあなたと議論したい」というふうになっていってしまうのです。人間だけの議論、いかに崇高そうな詩文体でつじつまが合っているように見えるものであっても、ヨブをこんな風に痛めつけて追い詰めてしまう力があります。ここにヨブ記の警告があるのです。
「転」は神様の登場です。神様がついに嵐の中からヨブに語りかけていきます。「私が地の基を据えた時、あなたは一体どこにいたのか。暁の星々が歌った時、お前はそこにいたのか」と、圧倒的な膨大な質問を投げかけていきます。神様はヨブの疑問に対して一切何も答えていません。ただ神様の圧倒的な臨在、力、その摂理の奥深さと力強さをただ示しただけでした。この神様の圧倒的な御業と支配、創造の素晴らしさの前に、ヨブの疑問はどんどん解けていきます。
「結」は42章です。ヨブはついに悔い改めて塵と灰の中にひれ伏します。そしてヨブの祝福が帰ってくるのですが、そのトリガーは、ヨブの悔い改めではなく、なんとヨブが自分を責め続けてきた友人たちのために執り成し祈ったその瞬間だったと書いてあるのです。私たちに必要なのは議論ではなく、執り成しです。これが祝福が帰ってくるコツだということも、ヨブ記が示すところです。
実際、ヨブは苦難のあと祝福されて、その祝福を140年も味わって満ち足りた生涯を送りました。ヨブ記の結論はヤコブ書にありました。「あなた方はヨブの忍耐のことを聞いております。主によってその結末を知っています。主は慈愛に富み、憐れみに満ちておられます。」確かに神様は恐ろしい形でヨブに現れました。けれども、主と本当に面と向かって出会ったヨブ、悔い改めたヨブ、自分をひどい目に遭わせた友人たちのために執り成した後に、主はこのように幸いを返してくださいました。
神様は皆さんに気まぐれに災いを起こすお方ではありません。ある人生の瞬間だけを切り取ってみると、神様が災いしか起こさないんじゃないかと思えることがあるかもしれませんが、神様は憐れみ深く、忍耐深く、恵みを施そうとして待っておられる方です。なぜ神様はヨブに災いを起こしたのか。それはさらなる幸いの深みにヨブを持っていくために、あえてサタンの言葉を許可し、ヨブをもっと深く神様と親密に交わらせ、もっと祝福の人生を送ってほしいから、あえて人生のある瞬間を切り取ってそうされたのです。
ヨブが受け取った本当の報酬は、持ち物が2倍になったということではありません。嵐の中から語りかけられた主との出会い、これが何よりの宝でした。生きた出会いによって、ヨブの人生観が変えられました。皆さんも主こそ宝です。主こそ皆さんの報酬です。皆さんは本当に主と親密に交わって、出会って、時には喧嘩をするのもいいでしょうが、主と仲良しで親密に交わって幸いなこれからを歩んでいく皆さんでありますように。
結論
ヨブ記は理解しにくく、辛い書物であるがゆえに、読みたくないと感じるクリスチャンも少なくありません。しかしこの書には、人間の議論の中にどれほど忌まわしいものが潜んでいるか、そして神様の恵み深さがどれほど大きいかが示されています。義人は一人もいない中で、私たちが正しく歩めるとすれば、それはすべて神様の備えによるものです。悔いる心を持ち、嫌な相手のためにさえ執り成し祈ることの幸いを、ヨブ記から学び取り、苦難のただ中にあっても、以前のものは過ぎ去り、新しくされるという素晴らしさに与ることができますように祈ります。
