メッセージ - 天上の裏舞台 大公開(ヨブ記1:1-11)
天上の裏舞台 大公開(ヨブ記1:1-12)
メッセージ音声
【概要】
ヨブ記の本題が始まり、ヨブという人物の人となり、その子どもたちの様子、そして人間には見えない天上会議の場面が語られる。神様がヨブの周りに信仰ゆえの「垣(囲い)」を巡らせて守られたこと、サタンの訴えとその限界について語られ、私たちを本当に守るのは信仰であり、主ご自身が私たちの報酬であることが説かれた。
【聖書箇所】
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ヨブ1:1-11
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ヨブ1:9
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ヨブ1:11-12
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Iペテロ1:5
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創世記3章
【励ましの言葉】
神を恐れ、悪から遠ざかろうと努める者は、ますます神様から喜ばれる者へと成長していく。本当に信仰をしっかりと握りしめるならば、神様から自慢されるものになる。皆さん自身も、この夜のごとくしっかりと信仰を自分自身で保ち、また子どもたちに信仰を受け継いでいこう。
【勧めの言葉】
とりなしの祈りだけでなく、先手を打って子どもたちに主を恐れることを教え諭すことが大切である。どうかこの主を報酬とし、主によって祝福の人生を歩んでいく皆さんでありますように。子ども自身が信仰によって独り立ちするまで教育すること、これが私たちの務めである。
【慰めの言葉】
信仰によって、神の御力によって私たちは悪魔サタンの手から守られている。神様は皆さん一人一人の小さな歩みを天から見ておられ、天上会議において列席している者たちに自慢してくださる。主が皆さんの報酬であるならば、皆さんは主の囲いの中で守られ、決して悪魔にタッチされることはない。
【戒めの言葉】
私たちも気をつけるべきである。皆さんは何故に神様を敬っているだろうか。財産が守られるから、祝福されるから、ということであれば、そこがサタンがつけ込んでくるポイントである。
【***詳細***】
今日、恵みをいただく御言葉はヨブ記1章1節から11節です。本日からヨブ記の本題に入っていきたいと思います。
「ウツの地にヨブという名の人がいた。この人は誠実ですぐな心を持ち、神を恐れて、悪から遠ざかっていた。彼に7人の息子と3人の娘が生まれた。彼は羊7000匹、らくだ3000頭、牛500くびき、雌ろば500頭、それに非常に多くのしもべを所有していた。この人は東の人々の中で一番の有力者であった。」
今朝もこのヨブ記から恵みをいただいていきたいと思うのですが、まずこのヨブ記の始まりにヨブの人となりが記されております。ヨブという人がいた。誠実でまっすぐな心を持っていて、神を恐れて悪から遠ざかっていたというふうに書いてあるのですが、ヘブライ語ではbe動詞「ハヤー」があるのですが、これは「であった」とも訳せますが、それと同時に「こういう人になった」というふうにも訳せるのです。ですから、ヨブは生まれつき誠実で、神を恐れてまっすぐな心ということではなく、こういうふうになっていったわけです。ヨブ自身が神様を恐れる心を持とうと努めていたところ、ますます誠実になり、ますますまっすぐな心になり、ますます悪から遠ざかりたくなっていった。そうしてついにはそういうふうになっていった。ですから、未完成において清く、また悪から遠ざかろうと努力していく人はそういうふうになっていって、そして神様は喜ぶ。そういうものになったのです。神様は天上会議によってヨブを自慢するのですが、皆さんも本当にこの神様を敬う心、恐れる心、これをしっかりと握りしめて、ますます神様から喜ばれていく皆さんであってほしいのです。
このヨブ、物質的に非常に祝福されておりまして、彼は東の人々の中で一番の有力者であったというふうに書いてあります。ですから、神様を恐れ敬う人になればなっていくほど、神様から喜ばれる。物質面においても祝福されていく人になっていきます。
さらに4節、5節にこの彼の息子たち、子どもたちの人となりについて記されているのですが、4節、「彼の息子たちは互いに行き来し、それぞれ自分の順番の日に家で宴会を開き、人を遣わして彼らの3人の姉妹も招き、よく一緒に食べたり飲んだりしていた。」
このヨブの子どもたちについて、この一節に記されているのですが、聖書という永遠の書物に記された彼らの生涯を1行であらわすハイライトは何だったか。それは、互いに行き来していた、誕生日に宴会を開いて、よく一緒に食べたり飲んだりしていた。・・・これが、この子どもたちについての人生のハイライトです。皆さんが永遠の書物に記される皆さんの人生のハイライトは、一行で記すなら、何になるでしょうか。ある人の人生のハイライトは「親がお金持ちだった。自分の誕生日に年に何度も宴会を開いて、よく飲んだり食べたりしていた」というこの一行しか記されない人生になってしまうかもしれません。皆さんはそうならないでほしいのです。ここにいる皆さんは本当に日々、礼拝して、神様を恐れ敬って、神様のために働いた、そのように記されるのが、ここにいる皆さんだと思います。でも、ある人にとっては、永遠の書物に記されるのがただ飲み食いした、というだけで終わる人も、またいるわけです。
さらに続きを見ますと、この子どもたちの人となりがさらに伺えるのですが、「宴会の日が一巡すると、ヨブは彼らを呼び寄せて聖別した。朝早く起きて、彼ら一人一人のためにそれぞれの全焼のささげ物をささげたのである。ヨブは『もしかすると息子たちが罪に陥って、心の中で神を呪ったかもしれない』と思ったからである。ヨブはいつもこのようにしていた。」
父親であるヨブは子どもたちのためにとりなし祈りました。とりなし、これはとても素晴らしい性質です。事実、ヨブはこのとりなしの性質のゆえに、最終章において祝福されたのです。友人たちのためにとりなしに立った結果、神様が彼の祝福を戻して、以前の人生の2倍祝福されたと書いてあります。皆さんも本当に相手が誰であれとりなす心、これを持つならば、それは祝福される性質です。
父親ヨブはこの息子たちについて、ある種の恐れがあったのです。もしかしたら罪に陥って心の中で神を呪ったかもしれない。ヨブは何の根拠もなくこういうふうに言ったわけではないと思います。そういう節が子どもたちにあったからなのでしょう。それでそういうふうに祈ったのですが、これは後手に回る祈りです。先手を打つ対応ではなく、後手に回るのです。先手を打つというのは、もうこの息子たちがそういう罪に陥らないように、しっかりと神様を恐れ敬う心を持って諭して教育するべきです。子どもたちにはしっかりと主を恐れ敬うということ。そしてまた、もし罪を犯したのであるならば、お父さんが祈るのではなく、むしろ本人自身がしっかりと罪を悔いて、改めて主を恐れる歩みをもってこそ、悪魔サタンにタッチされない、しっかりと災いの日に守られる、そういう性質をしっかりと身につけられるのだよということを子どもたちに教えるべきです。けれどもヨブはそういうことを教えたとは書いておらず、「息子たちがもしかしたら心の中で神を呪ったかもしれない」から全焼のいけにえをささげたというふうに書いてあります。
そんなこんなしているある日、1章6節を見ますと場面が変わります。私たち人間には計り知れない天の情景が書かれてあるのです。天における舞台裏。私たちの目に見える舞台表に対して、真理の世界の舞台裏があるのです。ヨブ記、誰が書いたのかは不明ですけれども、しかし神様からの啓示を得て書かれたこのヨブ記には、しっかりとこの舞台裏にはこういう背景があるのだよということがあるのです。その天の舞台裏においては、天で開かれる天上会議の情景が公開されております。
そして、ここに集うのは、6節を見ますと、「ある日、神の子らがやってきて、主の前に立った。サタンもやってきて、彼らの中にいた。」と書いてあります。驚くべきことに、この天の会議に集うのは、まず神の子ら、ヘブライ語で「ベネー・ハーエロヒム」、神の子たちという表現がされております。御使いであったり、また天的な、霊的な存在であったり、人間ではないそういう存在たち、それと同時にサタンもそこに来ているのです。
サタンは勝手にこの天の会議に乱入したのではありません。ダンテの神曲という作品においては、悪魔が勝手に神のその会議に乱入して、神様に挑戦状を叩きつけるような、神様がこのサタンの挑発にのったかのような、そういう表現があるのですが、実際の真理の世界はそういうことではありません。この悪魔サタンさえも、神様の許可なしにはこの天上会議に入ることはできませんし、また、この神様とサタンの力関係、勢力図、それは全くもって月とスッポン以上の差があります。夜中の映画とか漫画などではサタンとか悪魔が何か神様と対等な戦力を持っていて、あたかもサタンにも神様に匹敵するような力があるように描かれたりすることが多いのですが、それは真理においては誤りです。サタンはもう神様の使いであるミカエルにさえも勝てないその程度の力であり、神様はお言葉一つでその悪魔の手足をもぎ取ってしまうぐらいの力があります。
創世記3章において、神様が蛇を呪った時、蛇はそれまで手足があったようですが、「お前はもう腹ばいで、一生、塵を食べ物にしなくてはならない」。ですから、神様はお言葉一つで悪魔をいくらでもなぎ倒すことができるのですが、しかしあいにく人間が自由意志でもって、悪魔サタンの言葉の方を選んでしまったから、だからあえて今悪魔サタンを生かされていて、この人間が一体どちらを選ぶか、そのために時が定まった時に至るまで、悪魔サタンを泳がされているに過ぎないのです。
本当に私たちは「神様、なんで悪魔サタンを一気にやっつけないのか」と思うかもしれないのですが、そうはいかないのです。もしある夫婦がいて、奥さんの方が旦那さんを裏切って別の男に走った。旦那さんの方はとても力があって、その裏切った男をいくらでもいつでもやっつけることができるけれども、じゃあだからといって、その力ある旦那さんが、その裏切った奥さんとまたその間男をすぐにやっつけたら、それで解決するでしょうか。そうではないのです。奥さんを取り戻すためには、奥さん自身の自由意志で間男を選ぶか、それとも自分を選ぶか、あえて泳がせなくてはならないのです。その奥さんが自由意志でもって旦那である自分を選んだならば、それで大解決。けれどももし間男の方を選んでしまったら、間男とともに滅びることになります。
神様は私たちに一体どっちを選ぶか、サタンの言葉を選んで神様を捨てるのか、それとも神様を選ぶのか、真の主人として一体どっちをあなたは選ぶのか。それを選ばせるために、あえて泳がされているのです。悪魔サタンはそれに過ぎないのです。この悪魔サタンは呪われて、そして地を這いずり回って、地を行き巡って歩き回る、そういう存在にならされました。「主はサタンに言われた。『お前はどこから来たのか。』サタンは主に答えた。『地を行き巡り、そこを歩き回ってきました。』」
創世記3章以降、悪魔サタンはこの地を行き巡る存在、全知全能ではないのです。創世記3章において、蛇は塵を食い物にしていくようになりましたが、私たち人間の組成はもともと塵です。神の息がない人間は塵に過ぎませんし、蛇の獲物にされる存在でしかありません。けれども、私たち人間、いかに塵というものでも、イエス様を信じて神の子になるのであるならば、神様がその人間をその信仰のゆえに守って、そして一切悪魔サタンが囲いを越えられないように、神様が悪魔サタンがタッチできないように囲いを置いて、私たちを守ってくださるのです。
冒頭で宣言したIペテロ1章5節ですが、「あなたがたは信仰により、神の御力によって守られており」というふうに書いてあります。信仰によって神の力によって守られると書いてあります。悪魔サタンの力から守るドアバリアは、信仰です。信仰によって皆さんは悪魔サタンから守られます。
そしてこの悪魔サタンは地を這いずり回って、兄弟姉妹を訴える者なのです。
8節の方を見ますと、「主はサタンに仰せられた。『お前はわたしのしもべヨブに心を留めたか。彼のように誠実ですぐな心を持ち、神を恐れて悪から遠ざかっている者は地上に一人もいない。』」ここで会話を切り出したのはサタンの方でなく、神様の方からでした。神様はこのヨブについて自慢話をまず切り出したのです。悪魔サタンに「お前、ヨブを見たか」、まるで親が我が子を自慢するかのように「見たか、ヨブを」というふうに。
皆さん自身も、皆さん一人一人の信仰を神様が見ておられます。皆さんが本当に信仰において凛々しく立った時、神様は天から「見たか」「見たか」というふうに、皆さんのことを神様から言われるようになってください。本当に信仰をしっかりと握りしめてあげるならば、神様から自慢されるものになります。その皆さん一人一人の小さな歩みを天から見ておられ、天上会議において、そこに列席している一員たちに自慢してくださるんですね。
9節を見ますと、「サタンは主に答えた。『ヨブは理由もなく神を恐れているのでしょうか。あなたが彼の周り、彼の家の周り、そしてすべての財産の周りに垣を巡らせたではありませんか。あなたが彼の手の業を祝福されたので、彼の家畜は地に増え広がっているのです』」(ヨブ1:9)とあります。
サタンは日夜、兄弟姉妹を訴える者です。サタンはこう告発しました。「ヨブは理由もなく神を恐れているのでしょうか」。ですからサタンの主張はこうです。「ヨブが神を恐れているのは、あなたが祝福をしてくださっているからじゃないですか。ヨブがあなたを拝んでいるのは、ただ単に祝福が欲しいから。財産だとか健康だとか、それが増し加えられたいから、ただそれだけで神様を恐れ敬っているんじゃないですか」。「あなたがその垣を取り除いてください。そうすれば、果たしてヨブがあなたを恐れ敬うかどうか、それを知ることができますよ」というふうに訴えるんですね。
このサタンは、「あなたが彼の周り、彼の家の周り、彼の財産の周りに垣を巡らされた」というふうに、3回も繰り返して言っています。この「垣」、原語ではヘブライ語で「スーク」と言います。コーエンでは「アドナイ・シュク・バラク」の法則というふうに学びました。神様がその家と持ち物と財産に、くまなくこの垣を巡らしてくださって、だからサタンは手出しができなかった。信仰ゆえに、神様が彼に垣を巡らしたのです。
ですから、サタンが訴えるのはお門違いです。ヨブの信仰のゆえに神様が垣を巡らされたのに、それを持っているから「ヨブはあなたを敬っている」と言うんですね。本当に私たちも気をつけるべきです。皆さんは何故に神様を敬っているでしょうか。財産が守られるから、祝福されるからということ、そこがサタンがついてくるポイントです。けれどもヨブは、本当にこの点で誤ってはいませんでした。
確かに神様は許可を下します。11節から見ますと、「しかし、手を伸ばして、彼のすべての財産を打ってみてください。彼はきっと面と向かってあなたを呪うに違いありません。主はサタンに言われた。『では、彼の財産をすべてお前の手に任せる。ただし、彼自身には手を伸ばしてはならない』。そこでサタンは主の前から出て行った」(ヨブ1:11-12)。
ここで神様はサタンの挑発に乗ったかのように見えますが、実は違うんですね。以前、ヨブ記のキアズム構造を見ました。最初と最後を見たところ、神様がこのヨブをより一層2倍に祝福され、そしてヨブが以前よりも神様と親しく親密に交わるようになる。その内容がこのヨブ記の真ん中にあったということを見ましたね。神様がこの悪魔サタンの挑発が悔しくて乗ったんじゃありません。ヨブをさらに立て上げるためです。サタンなんかなんとも思っていないんです。むしろヨブのことをより一層立て上げるために、サタンを道具として用いた。これが正しい構図ですね。
注目するべきなのは12節で、神様が一線を敷かれていることです。その一線というのは「ただし彼自身には手を伸ばしてはならない」と、しっかりとサタンに釘を刺しているところ。サタンは釘を刺される側、神様はこの悪魔サタンの行動に明確に境界線をびちっと敷くお方です。ですから私たちはこの神様の法則に守られています。これを神様の「サメク」の囲い守りと言います。サメクはこういう形をしている、円の形をしたヘブライ文字です。その囲い守りの中に、神様がしっかりと守っておられる。
ですから皆さん、いろいろなことが人生の中で起こるでしょう。「なんでこんなことが」と思っても、それもしっかりと神様の守り、囲いの中において守られていることであり、決して皆さんが悪魔サタンや、あるいは誰か悪意ある人間の好きにさせられること、その自由にさせられるものではありません。むしろその背後にしっかりと神様の境界線が敷かれていて、その境界以上にはその悪人もサタンも超えることができないものです。
結局、私たちを守るもの、それは信仰です。第一ペテロ1:5に「あなた方は信仰により神の御力によって守られており、終わりの時に表されるように用意されている救いをいただくのです」とあります。ヨブにはそれがありました。だから神様の囲いの中で守られておりました。
けれども、後になってわかるのは、ヨブの子どもたちにはその囲いがなかったことです。もし子どもたちの中の一人でもしっかりと信仰を持っている子どもがいたら、その子供は守られたことでしょう。けれども、あいにくこの時、子どもたちは全滅してしまいます。
イスラエルの王の中にヤロブアムという悪どい王がいます。神様から「もしあなたが神様の御教えを守るならば、ダビデに匹敵する祝福があなたのものになり、子孫は代々続くだろう」と言われていたにもかかわらず、彼は神様から離れて偶像礼拝を人々にさせてしまい、結局その子孫は絶たれてしまうんですけれども、このヤロブアムの子供の中で唯一アビヤという子だけはまともだったんですね。彼は王の子としてまともに葬られますが、他の子孫は野の犬に死体が食われるというような扱いを受けます。
いかに父親が悪くても、子供の中で信仰がまともな子供はしっかりと神様の目に留められて、神様の守りと祝福があるんですけれども、結局、人を本人自身を守るのは信仰なんですね、本当に。ですから、私たちの子供教育において、しっかりと本人自身が信仰によって独り立ちするまで教育するということ、これが私たちの務めです。皆さん一人一人も、本当にこの信仰を自分自身で保って、そしてまた子どもたちに信仰を受け継いでいきましょう。
今日の御言葉からわかること。ヨブ自身の信仰が元にあったからこそ、ヨブをこのように神様に自慢話をさせるまでになりました。どうか皆さん自身も、本当にこの神様を恐れる信仰を持ちましょう。神様こそが皆さんにとっての相続財産、皆さんにとってのお給料です。この神様を恐れ敬う人に与えられる祝福は非常に大きいものです。以前学んだ創世記15章で、アブラハムに対して「私があなたの盾である。あなたの甚だ大きい報酬は私自身だ」ということを見ましたけれども、主が皆さんの報酬です。この主が報酬であるのであるならば、皆さんは主の囲いの中で守られて、決して皆さんが悪魔にタッチされることはありません。どうかこの主を報酬とし、主によって祝福の人生を歩んでいく皆さんでありますように。
【結論】
ヨブは生まれつき完全な人だったのではなく、日々神を恐れ悪から離れようと努める中で誠実でまっすぐな人になっていきました。私たちも同じように、日々神様を恐れ敬う心を持ち続けることで、神様から喜ばれる者へと成長していくことができます。また、悪魔サタンは神様の許可なしには何もできない存在であり、信仰によって私たちは神の御力に守られています。神様は信仰を持つ者の周りに確かな「垣(囲い)」を巡らせて守ってくださり、サタンの訴えにはお門違いな面があることも示されました。私たちを本当に守るのは財産や環境ではなく、信仰そのものです。子どもたちに信仰を受け継がせる責任も含め、主ご自身を報酬として恐れ敬う信仰を持ち続け、恐れることなく主を選び続けていきましょう。
