メッセージ - 「貧しい義人」から「豊かな義人」への第一歩(ヨブ記3章)
「貧しい義人」から「豊かな義人」への第一歩(ヨブ記3章)
メッセージ音声
【概要】
ヨブ記3章から、苦しみのどん底に落ちたヨブが自分の生まれた日を呪う姿を見ます。しかし、この苦しみは、神様がヨブを恐れから解放し、より豊かな信仰へと引き上げるための試練であり、私たちにとってもイエス・キリストこそが失われることのない最高の報いであることを教えられます。
【聖書箇所】
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ヨブ3:1-2
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ヨブ3:3-4
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ヨブ3:7-10
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ヨブ3:11-12
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ヨブ3:16
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ヨブ3:20-23
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ヨブ3:25
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創世記15:1
【慰めの言葉】
耐え難い苦しみの中で自暴自棄な言葉を発してしまうのは仕方のないことです。神様はその苦しみを、より深い神様との関係へと導くためのプロセスとして用いてくださいます。すべてのことを益としてくださる神様の意図が必ずあります。
【励ましの言葉】
私たちが決して失うことのない最高の報酬はイエス・キリストご自身です。主を私たちの盾、私たちの報いとするとき、受ける報いは甚だ大きいのです。この揺るがない真理にしっかりと立ちましょう。
【悔い改めの促しの言葉】
私たちの正しい行いの動機が、何かを失うことへの「恐れ」から来ていないでしょうか。「地獄が怖いから」といった動機で従う「貧しい義人」から、神様への愛と感謝に根差した「豊かな義人」へと変えられていきましょう。
【***詳細***】
本日はヨブ記の3章です。はじめにヨブ記3章1節と2節を宣言いたします。「そのようなことがあった後、ヨブは口を開いて自分の生まれた日を呪った。ヨブは言った。」(ヨブ3:1-2)。
ヨブ記は、この3章から文体が「詩」の形式に変わります。詩篇と同じ文体ですが、その内容は詩篇のように共感できるものばかりではなく、ヨブの過酷な嘆きが綴られていきます。物語は「起承転結の承」の段階、より深みへと入っていきますが、その先にあるのは消耗するような議論です。
2節に「ヨブは言った」とありますが、ヘブライ語の原典では「答えて言った」という意味の言葉が使われています。ヨブと3人の友人は7日7晩、一言も交わさず沈黙していました。では、ヨブは何に「答えた」のでしょうか。実は、沈黙にも言葉があるのです。
音楽に休符があるからこそメリハリがつくように、沈黙もまたメッセージの一部です。現代音楽家のジョン・ケージが作曲した「4分33秒」という曲は、演奏者が4分33秒間ただ黙っているだけの曲です。これは、沈黙や無音の中にこそ音楽が存在するという気づきを聴衆に与えるためのものでした。沈黙は、人の心の内側で言葉を熟成させます。ヨブが7日7晩の沈黙の間に心の中で練り上げてきた言葉が、いよいよ音となって現れるのです。
その言葉はどのようなものだったでしょうか。3節から読んでみましょう。
「私が生まれた日は滅び失せよ。男の子が胎に宿ったと告げられたその夜も。その日は闇になれ。神も上からその日を顧みるな。光もその上を照らすな。」(ヨブ3:3-4)
7日7晩の沈黙を破って出てきた言葉は、自分の生まれた日を呪う、壮絶なものでした。自分の誕生が宇宙のカレンダーから消え去り、光が闇に変わってしまうようにと願っています。神様が天地創造の際に闇の中に光を創造し、秩序と命を造られたのとは全く逆の、破壊と消滅を願う言葉です。
7節以降も見ていきましょう。
「見よ、その夜は不妊となるように。その夜には喜びの声も起こらないように。日を呪う者たちが、レビヤタンを巧みに呼び起こす者たちが、その日に呪いをかけるように。その夜明けの星は暗くなれ。光を待ってもそれはなく、暁のまばたきを見ることがないように。その日が私を孕んだ胎の戸を閉ざさず、私の目から労苦を隠してくれなかったからだ。」(ヨブ3:7-10)
ヨブは、自分を孕んだ母の胎の戸がなぜ閉ざされなかったのかと、自分の誕生そのものを憎んでいます。これが、長い沈黙の中で熟成された彼の心の叫びでした。
私たちはこれを聞いて「そんなことを言ってはいけない」と思うかもしれません。しかし、ヨブが味わった苦しみを考えれば、彼がそうならざるを得なかった心情も理解できます。全財産とすべての子どもを一日で失い、今や全身が悪性の腫瘍におかされ、土器のかけらで体を掻きむしっているのです。ある解釈では、これは痒みのためではなく、固まったかさぶたを剥がすためだったとも言われます。友人たちが一目見てヨブだと分からなかったほど、彼の姿は変わり果てていました。
私たちはここまでひどい災いに遭ったことはありません。しかし、苦しみの中にある兄弟姉妹に対して私たちができることは、ただ執り成し祈ることです。ヨブの友人たちは、彼の自暴自棄な言葉を額面通りに受け取り、正論で反論し続けましたが、それは全く無意味でした。苦しみの渦中にいる人の言葉を、私たちはただ受け止め、自分の知恵で返そうとせず、祈るべきなのです。
11節からヨブは、いくつもの「なぜ」を問いかけます。
「なぜ私は生まれた時に死ななかったのか」(ヨブ3:11)。「なぜ私を、生まれた時、受け止める膝があったのか、さらに、なぜ私を生かすその乳房がそこにあったのか」(ヨブ3:12参照)。「なぜ最初から存在しないもののようにならなかったのか」(ヨブ3:16参照)。彼は死を強烈に渇望しますが、死ぬことさえできず、ただ苦しみの中で生き続けなければなりません。
彼の問いはさらにエスカレートしていきます。
「なぜ、苦悩する者に光が、心の痛んだ者にいのちが与えられるのか。彼らは死を待つが、死はやってこない。隠された宝にまさって死を探し求めても。彼らは墓を見いだしたときに、歓声をあげて喜び楽しむ。自分の道が隠されている人、神が囲いに閉じ込めた人に、なぜ光が与えられるのか。まことに、食物の代わりに嘆きが私に来て、私のうめきは水のようにあふれ出る。」(ヨブ3:20-23)
「なぜ自分に命があるのか」という問いは、普通の人が抱くものではありません。しかし、人は耐え難い苦しみに遭うと、普段考えもしなかったことを考え、命の存在そのものや、命を与えた神の存在について問い始めるのです。ヨブの問いは、やがて「なぜ神はこんなことを許すのか。神は本当に正しいのか」という根源的な問いへと発展していきます。
その問いの果てに、ヨブはついに神ご自身と出会います。神が圧倒的な形で彼に語りかけ、それまでの神に対する認識の貧しさは一掃されました。噂で聞いていただけの神を、この目で確かに見るという、深く親密な交わりへと導かれたのです。その結果、ヨブは神の前にへりくだり、その後、彼の持ち物は二倍に祝福され、以前にも増して神との親密な人生を歩むことになりました。これがヨブ記の結論です。
しかし、この3章の時点では、ヨブの神に対する認識はまだ浅いものでした。25節にそのことが表れています。
「私がおびえていたもの、それが私を襲い、私が恐れていたもの、それがわが身に降りかかったからだ。」(ヨブ3:25)
ヨブは「恐れていたことが起きた」と言っています。彼は、多くのものが与えられていた時から、すでにそれを「失うこと」を恐れていたのです。子どもたちが自分の知らない間に罪を犯したかもしれないと恐れ、そのためにいけにえを捧げていました。彼の正しい行いの動機は、実は「恐れ」だったのです。
私たちはどうでしょうか。神様を愛し、その喜ぶお方になりたいから、自分のために命を捨ててくださったイエス様に応えたいから正しいことを行う人は「豊かな義人」です。一方、今持っているものを失いたくないから、罰が怖いから、いやいやながら罪を我慢する人は「貧しい義人」です。どうせなら、豊かな義人になりたいものです。
しかし、神様は貧しい義人を喜ばないわけではありません。少なくとも正しくあろうと努力するヨブを、神様は天の会議で大いに賞賛されました。神様は、ヨブに貧しい義人のままでいてほしくなかったのです。豊かな義人になってほしかったからこそ、あえてサタンの試みを許し、ヨブをグレードアップさせようとされたのです。
私たちも「なぜ」と思うような苦しみに遭うことがあります。しかしそれは、神様が私たちをより優れた者とし、想像もしなかった素晴らしい領域へと導くために、敵さえも用いられることがあるのです。
では、私たちの報酬とは何でしょうか。お金や土地、建物でしょうか。それらは失う恐れが伴います。しかし、私たちには決して失われることのない報酬が与えられています。それはイエス様ご自身です。主こそが、私たちの最も優れた報酬であり、給料であり、ご褒美であり、決して失われない相続財産です。このイエス様を受け入れるなら、私たちが受ける報いは甚だ大きいのです。
冒頭で宣言した創世記の御言葉を思い出しましょう。アブラハムに臨んだ主の言葉です。
「恐れるな、アブラムよ。わたしはあなたの盾であり、あなたへの報いは、はなはだ大きい。」(創世記15:1)
主が私たちの盾であり、イエス様が私たちの報酬です。この真理を固く握りしめ、一切の恐れから解放され、貧しい義人から豊かな義人へと変えられていきましょう。
【結論】
ヨブの苦しみと嘆きは、彼が「恐れ」に根差した「貧しい義人」であったことを明らかにしました。神様は、この試練を通してヨブを恐れから解放し、神ご自身と出会わせることで、神への愛に根差した「豊かな義人」へと変えられました。私たちにとっても、失われることのない最高の報酬はイエス・キリストです。このお方を固く信じ、恐れから解放され、豊かな信仰生活を歩んでいきましょう。
