メッセージ - ヨブと友人たち ― 七日の沈黙の間に醸成させてしまったものとは(ヨブ記2:13)
ヨブと友人たち ― 七日の沈黙の間に醸成させてしまったものとは(ヨブ記2:13)
- カテゴリ :
- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(旧約) » ヨブ記
- 執筆 :
- pastor 2026-8-25 13:00
ヨブと友人たち ― 七日の沈黙の間に醸成させてしまったものとは(ヨブ記2:13)
メッセージ音声
【概要】
ヨブと3人の友人が過ごした沈黙の7日間に、心の中で何が「発酵」していたのかを問い、私たちは主に向かい、とりなし祈る者となるべきだと示すメッセージです。
【聖書箇所】
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ヨブ2:13
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詩篇32(ダビデの詩)
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ローマ12:15
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ヨブ12:5
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ヨブ13:4
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ヨブ16:2
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ヨブ4:7
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ローマ8:26
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ヘブル12:2
【勧めの言葉】
沈黙する時は詮索や比較ではなく、心の中に主への通路を設け、とりなし祈る者となりましょう。
【戒めの言葉】
神が「良し」とされたこと以外を、神なしにじっと見て思いを巡らすと、心が腐り、相手を自分の思いで測り裁いてしまいます。
【励ましの言葉】
ダビデのように、何かあったらすぐに主に告白すれば、主は罪の咎めを赦してくださいます。
【***詳細***】
今日恵みをいただく御言葉はヨブ記の2章13節です。それでは宣言いたします。
ヨブ2:13「彼らは彼とともに七日七夜、地に座っていたが、誰も一言も彼に話しかけなかった。彼の痛みが非常に大きいのを見たからである。」
アーメン、ハレルヤ。愛するイエス様。今から我ら御言葉へと向き、またあなたから命の恵みをいただきたいと思います。私たち人間はまことに弱いもの、不完全であり、罪を犯しがちなものです。それゆえに御言葉が必要です。どうか今日必要な命の言葉を私たちに語りかけてください。初めから終わりまでのすべてをあなたの御手にお委ねして、我らの愛する主イエス・キリストのお名前によってお祈りをいたします。アーメン、ハレルヤ。
今日も素晴らしい1日が明けたことを感謝いたします。このヨブ記から多くの恵みをいただいていますけれども、ちょっと昨日の箇所をもう一度見てみたいと思います。ヨブ記は三章以降を読み進めていくとわかるんですけれども、本当にヨブ記の二章までを見れば、みんな完全な感じではあったんですね。ヨブも、また友人たちの対応も、本当に美しいような感じではあるんですけれど、三章以降になる途端に、見にくくなるんですね。
昨日も見たこの七日七夜、七日間の沈黙があったんですけれども、果たしてこの二章までの美しさ、三章以降の醜さ、一体これは何なんだろうか。今一度その思いを巡らしていたところ、この七日間に一体何があったのかを詳しく見ていきたいと思いまして、今日はこの二章13節をもう一度見て、昨日の箇所を別の視点から見ていきたいと思うんです。
この3人の友人たちは、遠くから駆けつけてきて、このヨブの変わり果ててしまった姿を見て、初めは声を上げて泣いて、塵を空中に投げて、そしてヨブと一緒にじっと黙って七日七夜を共に過ごしました。ここまでは確かに尊い姿ではあります。ローマ書にも「喜ぶ者と一緒に喜び、泣く者と一緒に泣きなさい」(ローマ12:15)と書いてあって、彼らはそれを実践したわけですね。
けれども、その場面を今一度想像して見ていきたいと思うんです。このヨブと3人の友人たち、この4人が互いに黙ってじっとそこにいる。その沈黙をしている最中、彼らの心の中では一体何が動いて七日間を過ごしていたのか。良い思い巡らしがあったのか。どうも結果を見ますと、あまりそうではないような気がします。
昨日は「黙っている、沈黙は素晴らしい」ということを確かに見たんですけれども、確かに心の中に良い思い巡らしがあれば黙っているのはいいかもしれませんけれど、必ずしも黙っていれば良いというわけではないんですね。
冒頭で宣言したのは、ダビデの詩篇32篇のところだったんですけれども、ダビデは言っています。「私が黙っていた時、私の骨は疲れきり、私は一日中うめきました。昼も夜も御手が私の上に重くのしかかり、骨の髄さえ夏の日照りで乾ききったからです。」ダビデの場合、黙っておりました時、何が起きたかを正直に告白しました。黙っていた時はもう骨が疲れ切って一日中呻いていた、というんですね。
それでダビデは何をしたか。「私は自分の罪をあなたに知らせ、自分の咎を隠しませんでした。私は言いました。私の背きを主に告白しようと。するとあなたは私の罪の咎めを赦してくださいました。それゆえ敬虔な人は皆祈ります。あなたに向かって、あなたがおられるうちに。大水は濁流となっても彼のところに届きません。あなたは私の隠れ場。あなたは苦しみから私を守り、救いの歓声で私を囲んでくださいます。」アーメン。
ダビデの場合、すぐに全部主に持って行ったんですね。ところがヨブ記は、主という言葉が三章以降、たった一回しか出てきません。このヨブと友人たちの議論の中において、三章から三十七章までの間で、主という言葉は一回しか出てこないんですね。ですから、主抜きで黙っていること、これはもうただただ良くないものを心の中で発酵させていくだけです。
ダビデの場合はすぐに主に持って行って、黙っていた時はもう骨が乾ききった、だからもう自分の罪を主に告白しようと決心して主に祈りを捧げました。告白しました。そうしたらもう主が赦してくださった。なんと幸いなことだろうか、と言うんです。でもヨブと3人の友人は主抜きでずっといるんですね。
ヨブがこの七日の沈黙の後に口から出した言葉は、自分の生まれた日を呪うことでした。ここでもヨブは死を呪ったのではないんですね。彼の奥さんは「死を呪って死になさい」でしたけれども、それでも七日の沈黙の後、ヨブの口から出てきたことは確かに呪いではあったんですけれど、死を呪ったのではなくて、自分の生まれた日を呪ったということでした。ヨブの場合は、主を恐れ敬う心は確かにありましたけれど、主と対話しようという志はまだなかったんですね。読むと、3人の友人の議論の末に、ようやく「私は主と論じ合いたい」という心が芽生えるんですね。
けれどもこの場面において、友人たちは沈黙をして、よくも沈黙していたけれども、沈黙が必ずしも良いものだとは限らないということです。沈黙している間は、中に閉じ込めているものを表に出さない、吐き出さないわけですね。もし心の中に良くないものをずっと思い巡らしながら、「あいつのこと憎たらしい、憎たらしい」という思いをずっと巡らしながら黙っているとするならば、ちょっとその人、危ない人だなと皆さん思いますね。だから本当に心の中に良くないものを持ったままで沈黙しているのは良くないんです。
沈黙というものは、言ってみれば発酵する機械みたいなものですね。ぶどう酒を生成する時、発酵する機械の中に入れますね。横浜からつくばみらいに来る途中もアサヒビールの工場があるんですけれども、こんなでっかいタンクがたくさん並んでいるんですね。その中で発酵し続けているものがあります。沈黙は発酵するタンクみたいなものです。もし思いの中に良くないものを抱え込んだまま発酵させていくと、それがどんどん膨らんでパンパンになっていってしまいます。けれども、もし心の中に主をお入れして沈黙しているならば、どんどん主が中で良いものを発酵させて膨らませていくんですね。
一昨日でしたか、冷蔵庫の中にパンパンになった袋、その中にキムチが入っていたんですね。発酵するとどんどん膨らんで、パンパンになってやがて破裂してしまうんですね。何を心の中に入れているか、これがとても肝心です。
まずヨブは、この沈黙の七日間、何を発酵させていたか、ちょっと想像してみたいんです。ヨブとしては、もうひっきりなしのかゆみがあります。たった一日にして財産を失い、子供全員を失いました。その上で、全身かさぶただらけの、ひっきりなしのかゆみにある状況。そして目の前には、何ともない友人たちが3人座っております。その3人は、ヨブがまだ健康だった時、信仰においてもヨブより若干劣っていたことでしょう。祝福においても富においてもヨブが断然一番だったんですね。けれどもその3人は今、目の前で何の苦労もなく痛みもなく座っている。
ヨブの方が頑張ったんです。義においても頑張りました。唇から悪い言葉を発しないことにおいてもヨブの方が頑張りました。けれども目の前には頑張っていない3人が、無傷の健康な体の3人がおり、それに引き換え自分自身はすべてを一日で失って健康も失って灰の中に座っている。自分と相手の落差が沈黙の中で激しくなっていくことでしょう。自分の惨めさがどんどん際立っていくことでしょう。「なんで自分よりも頑張っていないものがこんなに安らかで、こんなにも義において頑張った私がこんな惨めな思いをしているんだろうか」と。沈黙の中で少しずつそういう思いが芽生えていったことがうかがわれます。
その根拠になるのは、その後のヨブの言葉の節々から見えます。例えばヨブ12:5で「安らかなものの思いには、不幸なものに対する蔑みがある」。「あんた黙っている、あんた蔑んでいたんじゃないか」と。また13:4では「あなたがたは皆、役に立たない医者だ」。医者のなりをしてきたけど、結局役に立っていないじゃないか。またヨブ16:2で「あなたがたは皆、煩わしい慰め手だ」。みんな煩わしい慰め手に見えたんですね、ヨブとしては。ですから、このヨブの言葉は突然湧き上がったんじゃなくて、この七日間の間に静かに熟成していったものが、ある時パンと弾けて出たのではないでしょうか。
この3人の友人たちは、じゃあこの七日間で何を熟成していったのか。もちろん一日目、二日目は深い同情心で一緒に泣いて共に座っていたことでしょうけれど、三日たち、四日たちすると、だんだん見慣れてくるんですね、ヨブのその有様とヨブの表情に。慣れてくると、最初はノーブルな心がだんだん支えられなくなってくるものがあります。そして心の中にどんどん芽生えていくんですね。「確かにひどい状況だけれども、なぜだろうか。何をしたらこんな目に遭うのか。この災い、ただごとじゃない。ここまでなんで徹底的に打ちのめされるのか。もしかすると我々の知らないところで彼は隠れて大きな罪を犯していたに違いない」と。
そういった思いは、ふと相手のことを見定めて、「あ、この人、服にシミがある、何々したからに違いない」というふうに、思いの中でどんどん変な方向に向かっていくんですね。沈黙して相手に聞かず、思い巡らしていると、人は本当に汚いものですね。心の中で思い巡らしていると、良くないものが熟成されていくものなんです。
では、この3人、果たしてそうなのかどうか。残念ながら、その後の章を見ると、この友人たちが本当に心の中で七日間、良くない思い巡らしをしていたことがわかるんですね。ヨブ3章では、ヨブ自身が自分の生まれた日を呪う章でした。4章からこの3人の友人たちの言葉が始まるんです。4章はまずテマン人エリファズからですけれど、彼の口から早速出た言葉が、「果たして罪のないものがこんな目に遭うだろうか」。ヨブ4:7から見ますと「考えてもみよ、罪のないもので滅ぼされたものがあるか」。突然こういう言葉が打って出てくるんですね。ですから、この七日の沈黙の間、すでに彼らの心の中に出来上がって熟成されたものが、いざ三章というゴングが鳴ると、カーンとなると、突然ヨブと3人の友人のその議論、言葉の論争が始まるんです。
なんでこういうふうになってしまうのか。それはやはり主の御名がないということです。この3章以降、主の御名がたった一度しか出てこない。この3人の友人たち、4章以降、延々と論争が始まるんですけれども、結局、ヨブの口からたった一回、主の御名が出てきました。この3人の口からは、ただの一度も主の御名は出てきませんでした。
主の御名が一度も出てこない。結局、彼らは主に今、向かっていなかったんですね。心の中にちょっとでも主がおられるのであれば、一度ぐらいは主の御名が出てきたことでしょうけれど、この三章以降、延々と続くその中には、主の御名がたった一回しか出てこなかった。結局、彼らは主に向かっていなかったんです。
主に向かうべきなんです。私たちはダビデのごとく、何かあったらすぐに「主よ」、何かあったらすぐに「イエス様」、そういうふうに向かうべきなんですね。私たちは、もし誰かこのヨブのように徹底的に打ちひしがれている人を目の前にした時、確かに沈黙して一緒に痛みを感じること、それは良いことです。けれども、もしその沈黙の中で「この人、何かやらかしたのかな」というふうに詮索し出すと、これは悪、サタンの仲間入りの第一歩です。あれこれ詮索、あれこれ詮索、心の中でそういうことをし出すと、良くないものを熟成していってしまいます。
もしせっかく沈黙するんだったら、とりなしをするべきですね。心の中で「主よ、この人を憐れんでください。主よ、この人を助けてください」と、そういうふうにとりなしているとするならば、その沈黙はむしろ天に向かって立ち上る祈りになっていくんですね。私たちがなすべきことは、とりなし祈ることです。相手に対して何の言葉もかけてやれないとするならば、「主よ、この人を助けてください、憐れんでください」ととりなし祈ることですね。真の癒し主であり全能者であられるお方、そのお方に「この人を助けてください、全能なるあなたがこの人に声をかけてください」ととりなし祈ること。これは聖霊の働きであり、またイエス様の働きですね。御霊は言いようもない深いうめきをもって、私たちのためにとりなしておられると書いてあります(ローマ8:26)。イエス様も今、御手において私たちのためにとりなしておられます。
このヨブ記の最後も、実はとりなしで祝福が戻ってくるんですね。ヨブはこの3人の友人たちのためにとりなし祈った、その瞬間から祝福が戻ってきたと書いてあります。ヨブが神様の前で悔い改めて自分を低くした時に祝福が戻ってきたのではない。とりなし祈った時に祝福が戻ってきたということが書いてあります。だから私たちはとりなし祈るものになるべきです。本当に詮索したり、比較したりするならば、相手に対しての良くない思いがどんどん熟成されていってしまいます。
だから私たちは心に「主よ」という、主に対する通路をいつも設けておき、何かあったらその都度、主に行って、ダビデのごとく「黙っている間は本当に私の骨は打ちひしがれておりました。けれども、あなたに罪を告白したら、あなたは赦してくださいました」と。皆さんはいつも主に向かって心を開いておきましょう。いつも主に対する通路を設けておきましょう。何かあった場合は、本当に「主よ」ととりなし祈りましょう。皆さんはこの地上において、本当にとりなし祈るものとして、心の中に溜めておかないで、主に向かってすべてを打ち明け、主にとりなし祈る。そのようなものでありますように、イエス様のお名前によって祝福いたします。アーメン。
ハレルヤ、愛する主よ。本当に詮索しがちな私たちです。口を閉ざして、心の中に何を巡らしているのか、本当にそれが大事であることを今日見ました。私たちはいつも主を思い巡らし、また人を見るたびに主を思い、主に向かってとりなし、また自分の状況を見ては、ダビデのごとく、主にすべてを告白する私たちとならせてください。そしてこの地上においては、とりなし祈る祈り手になって、人々をあなたへと持っていく私たちとならせてください。今日いただきました御言葉に感謝して、私たちの愛する主イエス・キリストのお名前によってお祈りいたします。アーメン。
じっと見る、じっと見るということは本当に良くないです。なぜなら私たちの目は、神様が「非常に良かった」と仰せられた、その見解で見る目が私たちにはないからです。神様なしでじーっと見るということは、罪の罠に陥ってしまうことです。じーっと見て、見たものに思いを走らせるということを、私たちの先祖があのエデンの園ではっきりと、実をじーっと見て、心と思いが腐っていきました。神様が良しとされたこと以外、私たちはじっと見てはならない。じっと見たところに罠があるからです。
ヨブを心配してきた友人たちも、変わり果てた彼の姿を見て言葉を失い、じーっと見ていたその七日間を通して、その友人たちも腐っていきました。キリストに根拠しないものをじっと見ると、私たちもこのようなことが起きるに違いありません。主よ、あなたが保証すること以外は、じっと見て思いを巡らすことがありませんように。イエス様、私たちを助けてください。じっと見たところに罠があります。じっと見たところに謀りごとをします。じっと見たことによって相手を自分の思いで測ってしまいます。主よ、測って、その人をああだこうだと判断すること、これは主から私たちに赦されたことではありません。
ヘブル12:2 信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さないでいなさい。この方は、ご自分の前に置かれた喜びのために、辱めをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されたのです。
私たちがキリストにあるならば、相手をいつも愛、憐れみ、赦し、その恵みの目でじっと見て、愛すべきところを探し、憐れむべきところを見つけ出し、赦すべきところを見出し、恵まれなければならないことを主に祈る。これが私たち、神から出たものがなすべき業です。主よ、今日もあなたが、じーっと見たことによって起きてしまったこのもろもろを、痛いほど教えてくださったことを感謝いたします。アーメン。
私たちは、主が与えてくださった愛、憐れみ、赦し、その恵みによって相手をじっと見ることができますように。じっと見させてください。そして愛、憐れみ、赦し、その恵みの量りに、私たちの愛すべきもの、憐れむべきもの、罪赦されてほしいもの、恵まれてほしいものを測り見ることができますように。とりなし祈ることができますように。イエス様、助けてください。助けてください。助けてください。主が今日もこのヨブ記を通して、このように私たちを養ってくださったことを心から感謝して、イエス・キリストの御名によって祈りました。アーメン。
【結論】
沈黙そのものが尊いのではなく、その沈黙の中に主がおられるかどうかが決定的です。ヨブと3人の友人は主抜きで七日間を過ごし、比較・詮索・裁きを心の中で「発酵」させてしまいました。私たちはダビデのように何かあればすぐ主に向かい、人を見る時はじっと詮索するのではなく、主が与えてくださる愛と憐れみと赦しの目で見つめ、とりなし祈る者となりましょう。とりなしの祈りにこそ、祝福が戻ってくる道があります。
