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メッセージ - 礼拝メッセージ説教音声配信カテゴリのエントリ

礼拝説教メッセージ音声:生きながらにして地の底に落とされる者の性質(民数記16:25-35):右クリックで保存
(音声データは後程アップします)

『モーセは会衆に言った、「どうぞ、あなたがたはこれらの悪い人々の天幕を離れてください。彼らのものには何にも触れてはならない。彼らのもろもろの罪によって、あなたがたも滅ぼされてはいけないから」。そこで人々はコラとダタンとアビラムのすまいの周囲を離れ去った。そして、ダタンとアビラムとは、妻、子、および幼児と一緒に出て、天幕の入口に立った。』(民数記16:26)

モーセはイスラエルの民を、分派を促して反逆させる者どもから、離れさせた。
彼らと同じさばきに遭わせないためである。
キリスト教は、赦しの宗教だとよく言われるが、聖書が教えている所は、『分派を起こす者は、一、二度戒めてから、除名しなさい。』であり(テトス3:10)、戒めても聞かず、悔い改めないような者からは「離れる」事も、その人自身にとって、そしてその周りの人にとって益である。

『モーセは言った、「あなたがたは主がこれらのすべての事をさせるために、わたしをつかわされたこと、またわたしが、これを自分の心にしたがって行うものでないことを、次のことによって知るであろう。すなわち、もしこれらの人々が、普通の死に方で死に、普通の運命に会うのであれば、主がわたしをつかわされたのではない。
しかし、主が新しい事をされ、地が口を開いて、これらの人々と、それに属する者とを、ことごとくのみつくして、生きながら陰府に下らせられるならば、あなたがたはこれらの人々が、主を侮ったのであることを知らなければならない」。』(民数記16:28-30)

あまりに悪辣な事を止めず、神を怒らせ続けて来た人が、ある日突然、普通でない死に方をした、というような事が、確かにある。
その時、人は、義なる神が確かに生きておられ、自身が介入されたのだ、と、誰もが思うのである。

『モーセが、これらのすべての言葉を述べ終ったとき、彼らの下の土地が裂け、地は口を開いて、彼らとその家族、ならびにコラに属するすべての人々と、すべての所有物をのみつくした。すなわち、彼らと、彼らに属するものは、皆生きながら陰府に下り、地はその上を閉じふさいで、彼らは会衆のうちから、断ち滅ぼされた。
この時、その周囲にいたイスラエルの人々は、みな彼らの叫びを聞いて逃げ去り、「恐らく地はわたしたちをも、のみつくすであろう」と言った。また主のもとから火が出て、薫香を供える二百五十人をも焼きつくした。』(民数記16:31-35)

地がぱっくりと口を開いて、人々を飲み込み、生きながら陰府(よみ)に降ってしまう。
実に恐ろしい出来事であるが、聖書には、生きたまま陰府に投げ落とされるような者達が他にも登場するが、そんな彼らには共通した性質がある。

『黎明の子、明けの明星よ、あなたは天から落ちてしまった。もろもろの国を倒した者よ、あなたは切られて地に倒れてしまった。あなたはさきに心のうちに言った、『わたしは天にのぼり、わたしの王座を高く神の星の上におき、北の果なる集会の山に座し、雲のいただきにのぼり、いと高き者のようになろう』。しかしあなたは陰府に落され、穴の奥底に入れられる。』(イザヤ14:12-15)

この「黎明の子、明けの明星」は、堕天使ルシファー、すなわちサタンの事である。
彼もコラ達のように、陰府に落され、穴の奥底に入れられるが、共通しているのは、自ら高みにのぼり、人々の上に立ち、神のようになろうとする「高ぶり」の性質である。
そして、暗闇で謀略を巡らし、相共に集って、神の権威に反逆する者も、生きながらに地獄に投げ落とされる。

『なお見ていると、獣と地の王たちと彼らの軍勢とが集まり、馬に乗っているかたとその軍勢とに対して、戦いをいどんだ。しかし、獣は捕えられ、また、この獣の前でしるしを行って、獣の刻印を受けた者とその像を拝む者とを惑わしたにせ預言者も、獣と共に捕えられた。そして、この両者とも、生きながら、硫黄の燃えている火の池に投げ込まれた。』(黙示録19:19-20)

この「にせ預言者」は多くの人々を惑わし、神とその民に対して戦いを挑む者だが、それはまさにコラと同じ性質である。
コラに惑わされた250名の有力者達は、神の元から火が降ってきて焼き滅ぼされたが、欲望におびき寄せられて惑わされ、神の立てた権威に歯向かう者達に、主が用意されているのは、焼きつくす火である。

『そして、出て行き、地の四方にいる諸国民、すなわちゴグ、マゴグを惑わし、彼らを戦いのために召集する。その数は、海の砂のように多い。彼らは地上の広い所に上ってきて、聖徒たちの陣営と愛されていた都とを包囲した。すると、天から火が下ってきて、彼らを焼き尽した。そして、彼らを惑わした悪魔は、火と硫黄との池に投げ込まれた。そこには、獣もにせ預言者もいて、彼らは世々限りなく日夜、苦しめられるのである。』(黙示録20:8-10)

惑わされる人には、必ず、惑わされるための”とっかかり”があり、そのとっかかりには、その人の欲や怒り、ねたみ、高ぶりなど、色々な要素がある。
『人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです。欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生みます。』(ヤコブ1:14-15)
私達は、惑わされないために、そのとっかかりである「欲」や「怒り」、「ねたみ」、「高ぶり」などを、主イエスの血潮によって捨て去り、清めていただく必要がある。

地が口を開けて生きたまま飲み込まれるさばきも、火が降ってきて焼き滅ぼされるさばきも、いずれも恐ろしいものであるが、それは、主の敵に対して用意されているものであり、主に従順し服従している私達には、届かないものである。
不従順を続けて滅ぼされる者ではなく、モーセのように、そのような者どもから主に弁護される皆さんでありますように!
イエス様の名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:差し伸べられた憐れみを踏みにじる者達(民数記16:12-24):右クリックで保存

モーセはコラに穏やかに諭したように、ダタンとアビラムを呼んで、彼らも同じように諭そうとしたのであろう。
しかし彼らは、モーセの呼びかけを無視し、対話を拒絶したばかりでなく、悪辣な言葉を返して来た。

『モーセは人をやって、エリアブの子ダタンとアビラムとを呼ばせたが、彼らは言った、「わたしたちは参りません。あなたは乳と蜜の流れる地から、わたしたちを導き出して、荒野でわたしたちを殺そうとしている。これは小さいことでしょうか。その上、あなたはわたしたちに君臨しようとしている。
かつまた、あなたはわたしたちを、乳と蜜の流れる地に導いて行かず、畑と、ぶどう畑とを嗣業として与えもしない。これらの人々の目をくらまそうとするのですか。わたしたちは参りません」。』(民数記16:12-14)

彼らはなんと、エジプトを「乳と蜜の流れる地」と呼び、モーセはそこから人々を導き出して、荒野で殺そうとしている、と言っている。
おそらく、モーセがよく口にする「乳と蜜の流れる地」という言葉を嘲って言ったのだろうが、主を恐れぬ、極めて悪どい言葉である。
彼らはまた、「あなたはわたしたちを、乳と蜜の流れる地に導いて行かず、畑と、ぶどう畑とを嗣業として与えもしない。」と言っているが、そもそも、乳と蜜の流れる地に、すんなりと入れなくしてしまったのは、ダタンたちルベン族の代表をも含めた10人の斥候たちだったのではなかったか。

モーセはこの悪辣な返事に激しく怒り、「彼らの供え物を顧みないでください。わたしは彼らから、ろば一頭をも取ったことなく、また彼らのひとりをも害したことはありません。」と、主に申し立てている。(民数記16:15)
ダタンとアビラムは、自らモーセとの対話を拒否し、モーセの執り成しの心を踏みにじったのである。

モーセは、誰が主に選ばれた者であるかは、主に聞こうではないか、と、次のように申し出ている。
『あなたとあなたの仲間はみなアロンと一緒に、あす、主の前に出なさい。あなたがたは、おのおの火ざらを取って、それに薫香を盛り、おのおのその火ざらを主の前に携えて行きなさい。その火ざらは会わせて二百五十。あなたとアロンも、おのおの火ざらを携えて行きなさい。』(民数記16:16-17)

コラは、ダタンとアビラムと違い、モーセのさとしを聞いただけ、まだましだった。
この時点でモーセの言うとおりにして、主が示された結果に、素直に従順していれば、まだ穏便に済まされていたかもしれない。
しかし、彼が取った次の行動で、コラの裁きも確定してしまう。

『彼らは、おのおの火ざらを取り、火をその中に入れ、それに薫香を盛り、モーセとアロンも共に、会見の幕屋の入口に立った。そのとき、コラは会衆を、ことごとく会見の幕屋の入口に集めて、彼らふたりに逆らわせようとしたが、主の栄光は全会衆に現れた。』(民数記16:18-19)
彼らは、祈りの香を手にして、主の御前に出ているにもかかわらず、なんと、会衆のほうに向き直り、モーセとアロンに逆らわせようと扇動したのである。
こうしてコラも、モーセの親身な諭しを、踏みにじった事になる。
主に祈りの香を捧げるべき献身者が、主から顔を背け、人々の栄誉を受けようと向き直り、祈りを捧げるべき聖なる場所で、汚れた動機をもって神のしもべに争いを仕掛ける事は、とんでもない災いをもたらす行為である。

『「あなたがたはこの会衆を離れなさい。わたしはただちに彼らを滅ぼすであろう」。彼らふたりは、ひれ伏して言った、「神よ、すべての肉なる者の命の神よ、このひとりの人が、罪を犯したからといって、あなたは全会衆に対して怒られるのですか」。
主はモーセに言われた、「あなたは会衆に告げて、コラとダタンとアビラムのすまいの周囲を去れと言いなさい」。』(民数記16:21-24)

モーセは今回の反逆で、かなり面目を貶められ、今までになく怒ったが、それでもなお、執り成すためにひれ伏した。
それで会衆一同は滅ぼされずに済んだが、しかし、コラとダタン、アビラムへの裁きは、確定してしまった。
彼らは、最後まで神が立てられた権威に逆らい、主を無視して、人々からの栄誉を求めたからだ。

彼らも、出エジプト以来の長い間、主の栄光と素晴らしさ、そして恐ろしさを、幾度も見てきたであろうに。
また、そんな事をすれば恐ろしい裁きが待っている事は、今までの経緯を見て、いい加減学習していても良さそうなものだろうに、と思うかもしれない。
しかし、頭の中が、自分のやりたい事でいっぱいだと、そこまで物事が見えなくなってしまうものである。
私達は、災いに遭わないために、思いの中ではいつも自分を降ろし、主の御心に聞く「ゆとり」を、いつでも持っているべきである。

栄光の家系の女達 – ルツ3 驚くばかりの恵み(ルツ記2章)
第一礼拝・礼拝全体音声:右クリックで保存
第二礼拝・礼拝説教音声:右クリックで保存
週報/メッセージ(説教)概要:右クリックで保存

ルツが飛び込んだ畑は、はからずも、彼女の家を絶やさぬ責任のある親族の一人、ボアズの畑だった。
ボアズは、私達を買い取ってくださるイエス・キリストの雛型であり、そのボアズの畑は、主イエスキリストが支配される神の王国の特徴そのものである。私達も、イエス様を主とし、神様を中心とした新しい生き方へと飛び込むなら、神のものとされ、王族の息子や娘のように、主からの特別扱いを受けるようになるのだ。
私達は主から、どのような特別扱いを受けられるのか。それは、ボアズがルツに為した通りである。
今回、主イエスを信じ神の国に飛び込んだ私達は、どれ程の特別待遇を受けられるのか、見て行きたい。

ボアズの畑には豊かに恵みの落ち穂が落ちており、祝福の挨拶が交わされている。(4節) しかし、ボアズの畑以外に入っても、そこは落ち穂は残っていなかったり、たとい落ち穂が落ちていたとしても、そこの人にいじめられたり、刺々しい雰囲気だったりする。主を除外して渡る世間は、鬼ばかりである。
私達のボアズである主イエス様は、私達に、他の所に行ったりせず、主の元にいる娘たちと共にいなさいと語りかけられ(8節)、主の働き人たちが、いのちの刈り取りの働きをしている後について行って、そのおこぼれに与りなさい、と言われる。私達は、そのいのちの恵みと祝福のおこぼれに、十分与かれるばかりでなく、私達が恵みを拾う事の邪魔をしないよう、主は周りにきつく命じて下さり、渇いたなら、主のしもべが汲んでくれた水から、存分に飲んで良いと言って下さる。(9節、イザヤ55:1、ヨハネ7:37)
ルツはボアズの優しい言葉に驚いたが、私達が主から頂く恵みは、本当に、驚くばかりである。
主はなぜ、恵みを受けるに値しないような私達に、そこまでの恵みを注いで下さるのか。
『ボアズは答えて彼女に言った、「あなたの夫が死んでこのかた、あなたがしゅうとめにつくしたこと、また自分の父母と生れた国を離れ、かつて知らなかった民のところにきたことは皆わたしに聞えました。』(11節)
ボアズが言ったように、主は、私達が主の聖徒達にした事を、すっかり見聞きしておられる。主の弟子だという事で、たとい、小さな子どもの一人に水一杯でも与えるなら、その報いからこぼれ落ちる事は無い。
もし私達が今まで生きてきた世の価値観から離れ、主を頼り、主の元に来るなら、私達のボアズである主は次のように祝福して下さる。「どうぞ主があなたのしたことに報いられるように。どうぞイスラエルの神、主、すなわちあなたがその翼の下に身を寄せようとしてきた主からじゅうぶんの報いを得られるように。」(12節)

ルツはボアズに、実に謙虚な感謝をしたが、それでボアズは、さらなる恵みの命令を、しもべ達に命じる。
私達も、主が下さった恵みに感謝し、謙虚に喜ぶなら、主はさらなる恵みを命じて下さる。しかし、与えられた恵みを当たり前のように受け、何の感動も礼もなく、傲慢に振る舞うなら、恵みはそこでストップしてしまう。
ボアズは、ルツに炒り麦をたっぷり与え、ルツは食べ残した余りをナオミに持って帰るほどに満たしたが、主も、私達の渇いた心を満ち足らせ、飢えたたましいを良いもので満たされる。(詩篇107:9)
『ボアズは若者たちに命じて言った、「彼女には束の間でも穂を拾わせなさい。とがめてはならない。また彼女のために束からわざと抜き落しておいて拾わせなさい。しかってはならない」』(15,16節)
私達も、ルツのようにへりくだるなら、主は私達にさらなる恵みの深きへと導いて下さり、しかも、本来なら主の倉に入るべきものさえ、抜き取って、私達が拾えるように、わざと落として下さる。
主は、私達がそれを拾う事に、何の咎めも無いようにし、そうして私達は、大胆に恵みの座に近づき、折にかなった助けを、存分に得る事を許されるのだ。(ヘブル4:15-16)

ボアズの畑に入ったルツは、その日だけでも、二十三リットルもの大麦と、ボアズ自身から頂いた炒り麦を、ナオミの元に持ち帰り、主から見放されたような気持ちだったナオミに、主の恵み深さを再び気付かせた。
ナオミは、ボアズが「わたしたちの家を絶やさないようにする責任のある人の一人」であると言った。(20節)
新共同訳で「家を絶やさないようにする責任のある人」と訳された言葉はヘブル語で「ゴエル」、「買い戻す責任と権利のある人」とも「最も近い親戚」とも訳す事の出来る言葉であるが、主イエス様こそ、私達の家を絶やさぬ責任のあるお方である。主は、私達の人生を、いのちへと買い戻してくださるお方である。
ボアズの特徴こそ、私達の主の特徴であり、主は私達の仕事を祝福して下さるだけでなく、家族をも満ち足らせて下さり、「こんなに恵まれて良いのだろうか」と、逆にこわくなってしまう程に、恵んで下さるのだ。

礼拝説教メッセージ音声:主から与えられた「分」に応じて(民数記16:5-11):右クリックで保存

『やがて彼はコラと、そのすべての仲間とに言った、「あす、主は、主につくものはだれ、聖なる者はだれであるかを示して、その人をみもとに近づけられるであろう。すなわち、その選んだ人を、みもとに近づけられるであろう。それで、次のようにしなさい。コラとそのすべての仲間とは、火ざらを取り、その中に火を入れ、それに薫香を盛って、あす、主の前に出なさい。その時、主が選ばれる人は聖なる者である。レビの子たちよ、あなたがたこそ、分を越えている」。』(民数記16:5-7)

モーセは別に、人の上に立ちたくて、イスラエルの民を導いているわけではない。
神の山ホレブで主が現れ、一方的に選ばれ、「いやだ」と言っているのに、アロンに助けを得て行け、と言われたから、それに従っているだけなのだ。
コラは、人々から人望を集めて、政治的に上にのし上がろうとしたのに対し、モーセは、人を上に立てるのは主であり、人間ではない事を示した。
パウロも言っている。
『自分で自分を推薦する人ではなく、主に推薦される人こそ、確かな人なのである。』(2コリント10:18)

神の国の奉仕者は、主が選び任命して下さるものであり、人望を集める事に奔走して、奉仕者になってはならない。
私達も、神の御言葉を守るよりも、人間受けする事を追求する罠に陥りやすく、教会も、人を集めたいがために、御言葉とは関係の無いイベントを連発して、とんちんかんな方向へ行ってしまうケースも多々あるが、主と主の言葉から離れた所に、主の助けは無い。

大切なのは、自分で努力して何かをする事ではなく、神に選ばれキリストにあって清められた事を自覚し、与えられた神の子たる身分にしっかり留まり、神に愛された者として、与えられた奉仕を忠実に為す事である。
『ほむべきかな、わたしたちの主イエス・キリストの父なる神。神はキリストにあって、天上で霊のもろもろの祝福をもって、わたしたちを祝福し、みまえにきよく傷のない者となるようにと、天地の造られる前から、”キリストにあってわたしたちを選び”、わたしたちに、イエス・キリストによって神の子たる身分を授けるようにと、御旨のよしとするところに従い、愛のうちにあらかじめ定めて下さったのである。』(エペソ1:3-5)

『モーセはまたコラに言った、「レビの子たちよ、聞きなさい。』(民数記16:8)
欽定訳を見ると、モーセは「Hear, I pray you,」と呼びかけている。
自分と同族であるケハテ族のコラに対し、父親が子を諭すように諭しているのだ。
モーセは、あなた達には素晴らしい務めが任されている、せっかく主がそのような栄誉に預からせてくださったのに、それを不足だと思うとしたら、あなた達は「分」を超えているよ、と。
その尊い立場を「不足」とし、祭司の立場をさらに求めるのか、と。(民数記16:9-11)

実際、彼らは、祭司としての責任と立場を、わきまえていない。
もしわきまえていたとしたら、神の怒りを引き起こすような、こんな恐ろしい反逆など思い浮かばないはずだ。

コラ達は、イスラエルの会衆全体が聖なる者であると言ったが、祭司に要求される「聖なる者」としての基準は、一般のイスラエルの民より、はるかに高度である。(レビ記21章 http://voice.of.christ.yokohama/modules/d3blog/details.php?bid=1497 )
大祭司アロンの一族は、至聖所のつとめを少しでも誤ったら、火で焼かれてしまうし、いかに自分の肉親が死んだとしても、神のつとめのほうを優先させなくてはならないのである。(レビ記10章 http://voice.of.christ.yokohama/modules/d3blog/details.php?bid=1440 )
祭司という名誉ある職に就くからには、それなりの重大な責任も要求されるのだ。
『わたしの兄弟たちよ。あなたがたのうち多くの者は、教師にならないがよい。わたしたち教師が、他の人たちよりも、もっときびしいさばきを受けることが、よくわかっているからである。』(ヤコブ3:1)

私達は傲慢にならず、与えられた「分」を超えず、神が与えて下さったタラントに応じ、与えられている環境で、忠実に歩むべきである。

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
陶器師である主の御手の中で(エレミヤ18:1-6):右クリックで保存

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
キリストの育ての親(マタイ1:17-25):右クリックで保存

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
第七のラッパ - 永遠なるキリストの王権成就(黙示録11:14-19):右クリックで保存

 

礼拝説教メッセージ音声:コラ達の反逆(民数記16:1-4):右クリックで保存

『ここに、レビの子コハテの子なるイヅハルの子コラと、ルベンの子なるエリアブの子ダタンおよびアビラムと、ルベンの子なるペレテの子オンとが相結び、イスラエルの人々のうち、会衆のうちから選ばれて、つかさとなった名のある人々二百五十人と共に立って、モーセに逆らった。』(民数記16:1-2)
今まで幾度か、主とモーセに対する反逆は、幾度かあったが、いずれも、肉が食いたいと泣き喚きちらすとか、主に示された事を「いやだ」と言って一晩中泣き明かすなど、幼稚で、直情的・原始的なものだった。
しかし今回の反逆は、知的で、計画的で、裏で手を回し有力者を味方につけるなど、組織的・政治的である。

コラは、ケハテ族のレビ人で、彼らは聖所の最も聖なる祭具を運ぶべき任を負っている。(民数記4章)
とは言っても、彼らがいつも運んでいる聖所の祭具は、彼らは一生、見ることは出来ない。
なぜなら、それらの祭具は、アロンとその子達のみが扱う事を主から許されており、ケハテ族が運搬する際には、アロンとその子らが、あらかじめ青布やじゅごんの皮で梱包してからでないと、運べないからだ。

聖所の祭具は、純金がふんだんに使われているため、とても重い。
だから、ケハテ族のレビ人は、自分達が運んでいるその中身を見ることは出来ず、ただ、じゅごんの皮で梱包された”重たい物”を、担いで運ばなくてはならない。
それだから、コラはもしかしたら、自分が担当しているの奉仕を、きつく、つまらない、日の目を見ない作業として、見ていたかもしれない。
モーセやアロンは、自分と同族のケハテ族なのに、彼らだけが、人の上に立って目立ち、聖所にも出入りする事が出来、民の捧げ物のうちから取り分もある。
それに引き換え、自分達は・・・と。

現代を生きる、神の働き人たちも、同様の罠に陥りやすい。
こんな、じゅごんの皮のような、つまらない信徒たちを、毎日霊的に背負って運ぶのは、重くてきつい。日の目を見ない奉仕だ、と。
しかし、忘れてはならない。
いかにじゅごんの皮のように、見栄えせず、つまらない人に見えても、イエス・キリストにある信徒であるからには、その中身は、イエス様をお入れする尊い神の器である事を。
そして、彼らを霊的に担うその奉仕は、主の御前に、とても尊い奉仕である事を。
コラは、自分がどれ程栄光ある奉仕を担っているのか、忘れていた。

『彼らは集まって、モーセとアロンとに逆らって言った、「あなたがたは、分を越えています。全会衆は、ことごとく聖なるものであって、主がそのうちにおられるのに、どうしてあなたがたは、主の会衆の上に立つのですか」。』(民数記16:3)
この言い分は、尤もらしく聞こえる。
「全会衆は、ことごとく聖なるものであって、主がそのうちにおられる」、民主的に聞こえるし、プライドを刺激する言葉である。
二五〇名の有力者たちも、その言葉に刺激を受けたのだろう。
神が立てた権威を引きずり下ろし、自分を高く引き上げよう、という性質は、サタンの性質と同じ「高ぶり」であり、罰されるべき反逆の罪である。

『あなたがたはみな、じゅうぶんに知っていることではあるが、主が民をエジプトの地から救い出して後、不信仰な者を滅ぼされたことを、思い起してもらいたい。主は、自分たちの地位を守ろうとはせず、そのおるべき所を捨て去った御使たちを、大いなる日のさばきのために、永久にしばりつけたまま、暗やみの中に閉じ込めておかれた。』(ユダ5-6)
自分達のおるべき地位を守ろうとはせず、そのおるべき所を捨て去った使いへの裁きは、暗闇に落とされ、そこに永遠に縛られ閉じ込められる事であったが、コラたちも反逆する事を止めなかったために、後には同じ裁きを受ける事になってしまう。

モーセはコラの反抗に対し、知力や雄弁さで対抗するでもなく、それまで培ってきた政治的な手腕を用いるでもなく、真っ先に、主の御前にひれ伏した。(民数記16:4)
ひれ伏す。それは人の目には愚かで、弱々しく、みっともなく見える。
しかし、主にひれ伏す姿勢こそ、人には愚かでも、主の御前には最も偉大な態度である。
彼は、反逆の民と面と向かって反論せず、真っ先に主に向かい、主に訴えた。
それが、全ての解決の近道であり、主は結局彼を守り、彼の側について下さる。

『わたしは、あなたのわざを知っている。見よ、わたしは、あなたの前に、だれも閉じることのできない門を開いておいた。なぜなら、あなたには少ししか力がなかったにもかかわらず、わたしの言葉を守り、わたしの名を否まなかったからである。見よ、サタンの会堂に属する者、すなわち、ユダヤ人と自称してはいるが、その実ユダヤ人でなくて、偽る者たちに、こうしよう。見よ、彼らがあなたの足もとにきて平伏するようにし、そして、わたしがあなたを愛していることを、彼らに知らせよう。』(黙示録3:8-9)

礼拝説教メッセージ音声:天に属する事のしるし(民数記15:31-41):右クリックで保存

『イスラエルの人々が荒野におるとき、安息日にひとりの人が、たきぎを集めるのを見た。そのたきぎを集めるのを見た人々は、その人をモーセとアロン、および全会衆のもとに連れてきたが、どう取り扱うべきか、まだ示しを受けていなかったので、彼を閉じ込めておいた。
そのとき、主はモーセに言われた、「その人は必ず殺されなければならない。全会衆は宿営の外で、彼を石で撃ち殺さなければならない」。そこで、全会衆は彼を宿営の外に連れ出し、彼を石で撃ち殺し、主がモーセに命じられたようにした。』(民数記15:32-36)

行為だけ見ると、彼が行ったのは「たきぎ集め」である。
人は思う。たかが、***しただけで、主がそこまでされるのは、ひどいのではないか、と。
しかし、人は例外なく、真理の法則に支配されるものであり、それに反した行為をするならば、破滅を身に招くものだ。

彼がいた環境は、神の民の中である。
安息日を覚えて聖とすべき事、その日は一切働いてはならぬ事を、彼は幾度も聞いていたはずであるし、二百万ほどのイスラエルの全会衆が、安息日には一斉に休んでいるのを長らく見続けている状況で、それでも彼は安息日に「たきぎ集め」という労働をした。
彼の罪過は、明白である。
そんな彼を、敢えて野放しにして置くとしたら、会衆全体の中に、すぐに主を侮る心が蔓延してしまう。
主は、約束の地を継ぐべき新しい世代を、そのような呪いのパターンに陥らぬようにと、敢えて厳しい措置を取られたのだろう。

「たきぎ集め」が労働に値するかどうか。クリスチャンが「酒を飲む」「パチンコに行く」事が、罪に値するかどうか。私達は良く議論する。
そうした事がグレーな場合は、しないに限る。そして、神と人との前でそれらの事が出来るかどうかを、自身に問うて見ると良い。
もし、神と人の前で、それをする事に呵責を覚えるとしたら、それはしない方が良いのだ。

主は、民が滅びを招くような行動に出る事を防ぐために、次の事を命じられた。
『イスラエルの人々に命じて、代々その衣服のすその四すみにふさをつけ、そのふさを青ひもで、すその四すみにつけさせなさい。あなたがたが、そのふさを見て、主のもろもろの戒めを思い起して、それを行い、あなたがたが自分の心と、目の欲に従って、みだらな行いをしないためである。』(民数記15:37-40)

青は、天の色である。
つまり、互いの衣服についている青いしるしを見る度に、自分達は天に属する者、神の民である事を思い起こさせ、親の世代が滅んだような誘惑に陥って堕落させないために、この事を定められた。
私達にとって、救いのしるしは十字架であり、私達が日常を過ごす時、自分が天に属する者であると思い起こさせて下さるお方は、聖霊である。

イエス様の時代、パリサイ人は、この”しるし”を形骸化させてしまったようである。(マタイ23:5-7)
彼らは、衣のふさの青いしるしを、自分を戒めるためではなく、人にアピールして飾るためのものとしてしまった。

同じように現代、十字架というと、ネックレスなどのアクセサリーとして思い出す人は多くいても、イエス様の痛みを覚えるしるしとして思い出す人は、ほとんどいない。
私達は、そうあってはならない。
十字架は、背負うものであり、自分を飾り付けたりアピールしたりするものではない。
私達はいつでも自分の十字架を背負って歩み、自分達が天に属する者である事を、いつも思い起こすべきである。

礼拝説教メッセージ音声:罪が示された時は(民数記15:22-30):右クリックで保存

『あなたがたが、もしあやまって、主がモーセに告げられたこのすべての戒めを行わず、主がモーセによって戒めを与えられた日からこのかた、代々にわたり、あなたがたに命じられたすべての事を行わないとき、すなわち、会衆が知らずに、あやまって犯した時は、全会衆は若い雄牛一頭を、燔祭としてささげ、主に香ばしいかおりとし、これに素祭と灌祭とを定めのように加え、また雄やぎ一頭を、罪祭としてささげなければならない。』(民数記15:22-25)

ここは、故意にではなく、知らない間に罪を犯した場合の教えであり、御言葉の光に照らされ、それが明らかになった際には、罪のためのいけにえを捧げる事が、定められている。
罪が人目に隠れていて、自分達は実は罪を犯していた、という事に、たとい気付いていなくとも、御言葉で定められた事に違反していたのであれば、それは、主の御前に悔い改める必要がある「罪」である。

罪の意識が無いのに「それは罪だ、悔い改めよ」と言われても、実感が沸かず、悔い改める気がさらさら無い人もいるが、自分が罪を犯したかどうかという判定は、御言葉が示すものであって、自分の実感に拠るものではない。
そして、自分が罪を犯した事を、悲しみ、悔やみ、恥ずかしく思う気持ちなどは、聖霊によって与えられる。

私達の内にある罪が、明らかにされたなら、私達は、真正面からその罪に向き合って、対処しなくてはならない。
なぜなら、罪がある状態では、神との隔てがそのまま残る状態であり、サタンに訴えられる口実を、そのまま持ち続ける事だからである。
対処せずにそのまま放置する時間が長ければ長い程、神様との間の隔ての壁はますます厚くなり、主の声を聞く感受性がますます鈍くなっていき、ますます祝福されない体質となってしまう。

『もし、罪がないと言うなら、それは自分を欺くことであって、真理はわたしたちのうちにない。もし、わたしたちが自分の罪を告白するならば、神は真実で正しいかたであるから、その罪をゆるし、すべての不義からわたしたちをきよめて下さる。もし、罪を犯したことがないと言うなら、それは神を偽り者とするのであって、神の言はわたしたちのうちにない。』(1ヨハネ1:8-10)
それだから、一刻も早く主との健全な関係を取り戻すために、一刻も早くラクになるために、罪の告白と悔い改めは、すみやかに為すべきだ。

次に、故意に罪を犯す場合についての教えである。
『国に生れた者でも、他国の人でも、故意に罪を犯す者は主を汚すもので、その人は民のうちから断たれなければならない。彼は主の言葉を侮り、その戒めを破ったのであるから、必ず断たれ、その罪を負わなければならない。』(民数記15:30)

故意に、すなわち、それが罪であり主が忌み嫌われる事を知らされつつも、平気で、好き好んでその罪を犯し続ける場合は、民の中から「断たれ」、その罪を負わなくてはならない。
たとえば、御言葉の光に照らされ、自分の中の罪が明らかになった場合、罪祭のいけにえを捧げる事を億劫がったり、あるいは「だって、しょうがないじゃないか!」「そんなこと知らない!」と逆ギレしたり、といった場合も、そうである。

その教えは、他国人であろうとイスラエル人であろうと、同じであり、現代を生きるキリスト者に対しても、同じである。
『もしわたしたちが、真理の知識を受けたのちにもなお、ことさらに罪を犯しつづけるなら、罪のためのいけにえは、もはやあり得ない。ただ、さばきと、逆らう者たちを焼きつくす激しい火とを、恐れつつ待つことだけがある。モーセの律法を無視する者が、あわれみを受けることなしに、二、三の人の証言に基いて死刑に処せられるとすれば、神の子を踏みつけ、自分がきよめられた契約の血を汚れたものとし、さらに恵みの御霊を侮る者は、どんなにか重い刑罰に価することであろう。』(ヘブル10:26-29)

「絶たれる」の言葉の意味は「捨て去る」「追放される」という意味もあるし、「抹殺される」という意味もある。
私達は、主の民から追放されていない今の内に、恵みと憐れみが示されている今の内に、すみやかに悔い改めるべきである。

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