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メッセージ - 礼拝メッセージ説教音声配信カテゴリのエントリ

礼拝説教メッセージ音声:より優れた故郷を目指して(創世記50:22-26):右クリックで保存

神はヨセフに多くの権威と力を任せたが、それは、彼は諸々の試練を通して神の民としての品性を豊かに持つ者となったからである。
ヘブル11章には、信仰の偉人達の列伝が記されているが、ヨセフが人生の中で信仰を最も顕著にあらわした時は、臨終の時だったとヘブル書の記者は記している。
「信仰によって、ヨセフはその臨終に、イスラエルの子らの出て行くことを思い、自分の骨のことについてさしずした。」(ヘブル11:22)

ヨセフの生涯を学んて来た私達は、ヨセフが信仰を現した所は他にもっとあるだろう、と思うかもしれない。
なぜヘブル書の記者は、ヨセフの臨終の時を、最も顕著に信仰が現している、と判断したのか。
それは彼は、エジプトで為した偉業や人々からの栄光などは全く眼中に無く、それより神の民に加えられる栄光の方が、遥かに優れたものだと、行動を持って示したからである。

『ヨセフは兄弟たちに言った、「わたしはやがて死にます。神は必ずあなたがたを顧みて、この国から連れ出し、アブラハム、イサク、ヤコブに誓われた地に導き上られるでしょう」。さらにヨセフは、「神は必ずあなたがたを顧みられる。その時、あなたがたはわたしの骨をここから携え上りなさい」と言ってイスラエルの子らに誓わせた。』(創世記50:24-25)

ヨセフはここで「顧みて」という言葉を二度使っている。
普通聖書で「顧みる」という言葉を使う時は、良くない惨めな状態を神様が「顧みて」、そこから救い出して下さる、というニュアンスで良く用いられる。

ヨセフが死のうとしている時のイスラエル民族は、エジプト・ゴシェンの肥沃な地に定住し、破竹の勢いで増え広がっている真っ最中で、欠ける所も顧みられる必要も、何も無かったはずである。
藤原道長が『「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば」(「この世は 自分(道長)のためにあるようなものだ 望月(満月)のように 何も足りないものはない」という意味)』(wikipedia)と詠んだ時のような状態であったはずだ。

しかしヨセフが「顧みて」と言ったのは、イスラエルの民が神の約束された地におらず、エジプトという異国の異教の地にいる事自体、救われる必要のある状態だったと知っており、いかに世の富に溢れ、自民族が強くなり、安泰であっても、神に顧みられてエジプトを脱出する必要があり、そして神は必ずそうして下さると確信していたのだ。
ヨセフはイスラエル民族繁栄の最大功労者であり、エジプトで偉大な功績を残したのに、そのようなエジプトの偉人として偉大な墓に葬られるなど、一切、眼中に無く、ただ彼の望みは、神の用意された約束の地にあったのである。
「しかし実際、彼らが望んでいたのは、もっと良い、天にあるふるさとであった。だから神は、彼らの神と呼ばれても、それを恥とはされなかった。事実、神は彼らのために、都を用意されていたのである。」(ヘブル11:16)
私達も真のふるさと、神の支配される天の王国に戻る事こそ、私達が何にも勝って求めるべきものである。

ヨセフに与えられた奉仕は”たまたま”エジプトの総理大臣だったが、便所掃除の奉仕も、ちり一つ拾うような事さえも、イエスキリストの故に為すなら、尊い奉仕である事には変わりない。
ただ、尊い事に用いられる器、卑しい事に用いられる器は、確かにある。
『神の不動の礎は堅く置かれていて、それに次のような銘が刻まれています。「主はご自分に属する者を知っておられる。」また、「主の御名を呼ぶ者は、だれでも不義を離れよ。」大きな家には、金や銀の器だけでなく、木や土の器もあります。また、ある物は尊いことに、ある物は卑しいことに用います。
ですから、だれでも自分自身をきよめて、これらのことを離れるなら、その人は尊いことに使われる器となります。すなわち、聖められたもの、主人にとって有益なもの、あらゆる良いわざに間に合うものとなるのです。』(2テモテ2:19-21)
もし神の御前に尊い事に用いられたいのであれば、不義を離れ、自分自身をきよめる事である。


いよいよ今回で、創世記の学びは最後である。
創世記の3章から黙示録までは、実に、神と人とが永遠に共に住めるまでに整えるための贖いの歴史であり、それは黙示録21章で完成する。
人が神の言葉に逆らって、罪と死の呪いを全被造物に招いてしまった所から、いかに人を贖い、救うか。それが聖書の概要であり、その最重要キーパーソンは、イエスキリストである。

イエスキリストの預言は、人が堕落した直後、創世記3章15節にて早くから為されている。
「お前と女、お前の子孫と女の子孫の間に/わたしは敵意を置く。彼はお前の頭を砕き/お前は彼のかかとを砕く。」(創世記3:15)
この「女の子孫」を世に送り出すために、一人の人すなわちアブラハムを神は選び、アブラハムから神に贖われた一つの民族を興し、その民族が、エジプトのゴシェンの地で大いに増え広がりを見せようとする所で、創世記は終わる。

人の道は、エデンの園以来、二つに一つである。
すなわち、神の言葉に従順して神主体で生きるか、それとも、神の言葉を退け、自分主体で生きるか。
神の民は、自分を退け、神の御言葉を優先させて生きる民であり、アブラハム、イサク、ヤコブ、そしてヨセフは、その性質へと整えられ、その品性に生きた。
私達も彼らのように、地上の事は思わず、天の故郷を目指しつつ、神と共にこの地上を生きるのである。

創世記修了!

カテゴリ : 
礼拝メッセージ説教音声配信 » パスター日記
執筆 : 
pastor 2012-10-23 23:50

本日で創世記の学びが終わり、明日から出エジプト記に入ります。

主が本当に多くを創世記から得させて下さった事を感謝します。

今日もまたベツレヘム祈祷院に教会の皆と一緒に行き、リフレッシュして来ました。

彼らの証を聞くと、本当にどこを切ってもイエス様ばかりが出てきます。

イエス・キリスト。この御方こそ、私達の救いの力です。

ベツレヘム祈祷院: http://bethlehemchristchurch.web.fc2.com/index.html

礼拝説教メッセージ音声:どうして私が神の代わりでしょうか(創世記50:15-21):右クリックで保存

創世記50章でヨセフは、2回泣いている。
まずは父が死んだので泣いた(1節)が、17節では、兄達の「過去の事を赦して欲しい」という言葉を聞いて泣いた。
『ヨセフの兄弟たちは父の死んだのを見て言った、「ヨセフはことによるとわれわれを憎んで、われわれが彼にしたすべての悪に、仕返しするに違いない」。』(創世記50:15)
ヨセフはもはや兄達の故に負った苦労の日々は、神が忘れさせて下さったのに、兄達は、何十年も前にヨセフにしてしまった事を、未だに引きずっていたのである。

誰かから受けてしまった災いは、神が慰めて下さる事で忘れられるが、自分が誰かにしてしまった災いは、その人が目の前にいる限り、良心の呵責に悩まされ続ける事になってしまう。
キリストが十字架で裂かれた手足の傷跡は、永遠に残っている。
私達が天の御国でキリストを見、私達がつけたその手足の傷跡を見る度に、主の驚くべき赦しと恵み故、永遠に頭が上がらないのである。

『ヨセフは彼らに言った、「恐れることはいりません。わたしが神に代ることができましょうか。』(創世記50:19)

裁きは神の領域である。
そもそも、神がヨセフを総理大臣の地位に着かせた理由は、大いなる救いによって父イスラエルの全家族を救うためであった。
それなのに、どうして父が死んだ途端、その父の家族たちを滅ぼすような事ができるだろうか。
それは、神に対する大いなる反逆である。

ヨセフは、豊かに赦した。
ヨセフは、そのような品性であったからこそ、大きな権威と力が与えられたのだ。
もし赦さない者だったら、神が祝福し生かそうとしている兄達とその家族を、その権威でもって滅ぼしていたであろう。
そのような、赦さない者に、どうして神は、御心を行使するための権威を与えられるだろうか。
憐れみの無い者に、どうして神は力を与えるだろうか。

赦す事、それが御国の子の品性である。
赦す事によって、怒りや憎しみの束縛から開放され、より人生を有意義に過ごせる。
『むしろ、「もしあなたの敵が飢えるなら、彼に食わせ、かわくなら、彼に飲ませなさい。そうすることによって、あなたは彼の頭に燃えさかる炭火を積むことになるのである」。悪に負けてはいけない。かえって、善をもって悪に勝ちなさい。』(ローマ 12:20-21)

赦す事には多くのメリットはあるが、赦さない事は百害あって一利なしである。
『あわれみを行わなかった者に対しては、仮借のないさばきが下される。あわれみは、さばきにうち勝つ。』(ヤコブ2:13)

私達は、一生働いても返し切れない罪の負債を、主に赦してもらった。(マタイ18:21-35)
多くを赦されたからには、私達も、兄弟姉妹を赦してやるべきである。

霊的権威に従うなら(使徒19:11-20)
第一礼拝・礼拝全体音声(韓国語通訳有한국어예배):右クリックで保存
第二礼拝・説教音声:右クリックで保存
週報/メッセージ(説教)概要:右クリックで保存

「神はパウロの手によって、異常な力あるわざを次々になされた。 たとえば、人々が、彼の身につけている手ぬぐいや前掛けを取って病人にあてると、その病気が除かれ、悪霊が出て行くのであった。」(使19:11)
病が癒されたり悪霊が追い出されたりするのは、イエスキリストを信じる信仰が必須であり、キリスト抜きのパウロ信仰や牧師信仰、キリスト抜きの前掛け信仰やアイテム信仰には、何の力も無い。
「信仰による祈は、病んでいる人を救い、そして、主はその人を立ちあがらせて下さる。かつ、その人が罪を犯していたなら、それもゆるされる。」(ヤコブ5:15)とある通り、信仰による祈りは、人の病と罪を救う。
しかし、「癒す側」の信仰よりも、「癒される側」の信仰のほうが、もっと大事である。
12年長血を患っていた女は、 「この方の服にでも触れればいやしていただける」という信仰ひとつで、イエス様に気付かれぬまま、後ろから癒しを分捕ってしまったし(マルコ5:28)、ツロ・フェニキヤの女も、イエス様には悪霊を追い出すつもりは無いのに「主よ、お言葉どおりです。でも、食卓の下にいる小犬も、子供たちのパンくずは、いただきます」という言葉で、悪霊を出て行かせてしまった。(マルコ7:24-30)

キリストとサタンとの間には、厳然たる権威的な上下関係が存在し、主イエスキリスト、及び、キリストを信じる私達は、勝利者の側、支配者の側、権威的に遥か上にあり、サタンや悪霊、病は、遥か下なのだ。
軍隊の上官が二等兵に便所掃除を命じるなら、二等兵はそうするしか無いように、悪霊やサタンも、私達キリスト者の信仰によって命じる事には、従わなくてはならない。
しかし、警察官が制服を着ずに車を止めようとしても、車は止められないように、私達も、イエスを信じる「信仰」を帯びずには、その権威は行使できないし、おどおどしながら暴力団に警察手帳を見せても舐められてしまうように、しっかりと信仰に根ざす事なくイエスの名を持ちだしても、悪霊に舐められてしまう。
ユダヤの祭司長スケワの7人の息子達は巡回祈祷師であったが、試しに、悪霊に憑かれていた者に向って「パウロの宣べ伝えているイエスによって命じる。出て行け」と、ためしに言ってみた所「イエスなら自分は知っている。パウロもわかっている。だが、おまえたちは、いったい何者だ」と言い返され、傷を負わされ、裸にされ、七人ぞろぞろと逃げて行くはめになった。(13-16節)
ここで分かるのは、霊との戦いにおいては、その人の素性や力、人数などは一切関係無く、ただイエスを信じる信仰だけが大切であり、口先だけでイエスの名を唱えた祭司長の息子祈祷師七人よりも、子犬呼ばわりされてなお信仰告白したツロ・フェニキヤの女一人のほうが、悪霊にとっては、よほど怖いのである。

その事がエペソ中に知れ渡って、恐れが生じ、主イエスの御名をあがめる悔い改めが湧き起こり、多くの者が信仰に入って、自分達のしている事をさらけ出して告白した。特に、魔術を行なっていた者達が、その書物をかかえて来て皆の前で焼き捨て、その総額は3〜5億円(銀貨5万枚)に相当した。(17-20節)
魔術は悪霊の力を用いるため、それに支配され、他人や自分を不幸に陥れるが、イエスは絶対的な権威を持ついのちの君であり、人を生かし、健やかさといのちを与える。
そのいのちは、死を圧倒的に飲み、暗闇を圧倒的な光で照らし出す、圧倒的な権威の主である。
その霊的権威構造がエペソの人達に分かったから、誰かに売ったりせずに、焼き捨てたのである。
「あなたがたは、以前はやみであったが、今は主にあって光となっている。光の子らしく歩きなさい。光はあらゆる善意と正義と真実との実を結ばせるものである」(エペソ5:8-9)
こうしてエペソは、神への恐れと悔い改めによって、暗闇の力が破られ、いのちが増え広がった。
もしまだ暗闇につきまとわれたり、イエスの名を用いても悪霊に負かされるかのような日々を送っているなら、神を恐れず傲慢に生きていないだろうか。悔い改めという方向転換は、為されているだろうか。それまで頼って来た、キリスト抜きの生き方という「高価な魔術の本」を手放さずに隠し持っては、いないだろうか。
隠れた傲慢を悔い改め、自分のしている事をさらけだし、隠れた魔術本を焼き捨てるなら、エペソでいのちの言葉が力を増して増え広がったように、私達にも、いのちが増え広がるのである。
パウロはエペソの聖徒達に勧めた。悪魔の策略に対抗して立つために、神の武具で身を固めよと。(6章)
真理の帯、義の胸当をつけ、平和の福音を履き、信仰の大盾を取り、救の兜を被り、御霊の剣を取れ、と。
権威に従い、霊的武具を取って悪魔と戦い、勝利といのちを豊かにもたらす皆さんでありますように!

本日は遠くのある姉妹から、ある足の悪い聖徒にと、やさしいスニーカーを送っていただき、また、これから冷えるので、と、電気毛布も送っていただきました。

お心遣い、主イエスにあって感謝します。

他にも、ここでは公開できないような捧げものをして下さった聖徒たちにも、主イエスの祝福が豊かにありますように!

ピリピ4:17-21
あなたがたはわたしの窮乏を救おうとして、何度も物を送ってくれました。
贈り物を当てにして言うわけではありません。むしろ、あなたがたの益となる豊かな実を望んでいるのです。
わたしはあらゆるものを受けており、豊かになっています。そちらからの贈り物をエパフロディトから受け取って満ち足りています。それは香ばしい香りであり、神が喜んで受けてくださるいけにえです。
わたしの神は、御自分の栄光の富に応じて、キリスト・イエスによって、あなたがたに必要なものをすべて満たしてくださいます。
わたしたちの父である神に、栄光が世々限りなくありますように、アーメン。

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
的を外さない歩み(1ヨハネ3:6-11):右クリックで保存

礼拝説教メッセージ音声:いかに生きるかではなく、いかに死ぬか(創世記50:1-14):右クリックで保存

『ヨセフは父の顔に伏して泣き、口づけした。』(創世記50:1)
ヤコブは子供たちの後の有様を預言して祝福し、そして自分の遺体を約束の地へ戻すよう指示し、最後に足を床に入れて先祖の列に加えられた。
その地上での生涯を閉じる有り様は、あまりに尊厳に満ち溢れ、ヨセフは泣いて口づけした。

「そしてヨセフは彼のしもべである医者たちに、父に薬を塗ることを命じたので、医者たちはイスラエルに薬を塗った。」(同2節)
父の遺言では、彼の遺体はカナンで父祖アブラハムが買った墓地に葬るように、という事だったため、そこへ運ぶ上で腐敗させないように薬を塗らせた。
口語訳では「薬を塗る」だが、この言葉は「ミイラにする」、あるいは「防腐処置をする」とも訳せる。
ミイラにする時は通常、呪術的な儀式も行われていたものだが、ヨセフはそれを避けるため「医者」に防腐処置を施させたのだろう。

ヨセフはパロにねがい出た。
『わたしの父はわたしに誓わせて言いました「わたしはやがて死にます。カナンの地に、わたしが掘って置いた墓に葬ってください」。それで、どうかわたしを上って行かせ、父を葬らせてください。そうすれば、わたしはまた帰ってきます。』(同5節)

パロは喜んで送り出した。それも、宮廷の元老である重臣たち全てと、全国の長老たち全て、また、戦車も騎兵も多く共に上って行ったので、それはまことに盛大な行列となった。
その葬儀は、パロが死んだ時に行う国葬に匹敵するレベルのもので、その追悼の式は7日も続き、あまりに荘厳で、それを見ていた現地の人が驚いて「アベル・ミツライム(エジプト流の追悼の儀式)」という名前をその場所につける程だった。

本日の箇所を読むと、なんだか壮大なエジプト流の葬儀を行った、という印象だけが残るが、父ヤコブは「荘厳な葬儀を行なって欲しい」などとは一言も言っておらず、単にマクペラの墓地へ先祖たちと共に葬って欲しい、と言っただけだった。(創世記49:29-32)
そこにはアブラハムと妻サラが、イサクと妻リベカが、また、自分の妻レアが葬られているから、そこに加えて欲しい、と。

七十日もの間喪に服したり、一つの遺体を運ぶ為に、大勢の群衆が500km以上もの距離を戦争さながらの行進をするのは、やりすぎとも思えるかもしれないが、古代エジプト人の「死」に対する姿勢には、他の文明では類を見ないほどのこだわりがあり、それは「死者の書」の詳細かつ膨大な資料や、ピラミッドという墓の巨大さ、ミイラ技術の発達などを見ても、エジプト人の「死」に対する強い恐れとこだわりを見て取る事が出来る。
肉体が死んだ者のために、これだけ大規模な葬儀をするなど、ナンセンスの極みだとヨセフも知っていたでろうが、エジプト人たちの自分達への好意を無駄にしないため、躓かせないために、あえて行ったのだろう。

エジプトの王族が自分の死体をミイラにするのは、神々がよみがえったように自分も将来たましいが戻ってくるための「からだ」を保存しておくためで、それは王族の特権だった。
しかし後の新たな信仰では、生前正しい行いをした者なら誰でもよみがえりの特権が与えられるようになり、死者の書も一般向けに売られ、ミイラ職人も増え、ミイラが安置される墓の壁面には、死後の審判で神々に好印象を持っていただくために、生前に成した「良いこと」がびっしりと記され、それが現在我々が見るエジプトの墓美術である。

それを考えると、私達はイエス・キリストの父なる神に感謝がこみ上げてくる。
私達キリスト者は、何も荘厳な追悼式を行わなくても、ミイラになって将来生き返る準備をしなくても、また、大勢の人を動かして、遺族やしもべを使って巨大な墓を建てさせる必要も、全く無い。
地上は執着するような所ではなく仮の住まい、地上では旅人であり寄留者である。
よみがえりは一部の特権階級のものではなく、信じる者には誰でも与えられる特権であり、信じる私達の国籍は天にあり、天の故郷に思いを寄せつつ、地上での歩みを為すのだから。

「これらの人はみな、信仰をいだいて死んだ。まだ約束のものは受けていなかったが、はるかにそれを望み見て喜び、そして、地上では旅人であり寄留者であることを、自ら言いあらわした。・・・しかし実際、彼らが望んでいたのは、もっと良い、天にあるふるさとであった。だから神は、彼らの神と呼ばれても、それを恥とはされなかった。事実、神は彼らのために、都を用意されていたのである。」(ヘブル11:13,16)

私達・信仰にあるアブラハムの子孫、すなわちキリスト者は、死に対してなんと楽観的になれる事だろう。
アブラハムが地上で買い取った土地は、墓地だけだった。同じように、私達も地上で必要なのは、墓地だけである。
どういう事かというと、私達の信仰生活は、キリストと共に十字架で死ぬ事から始まり、日々十字架を負って自分に対して死ぬ事でキリストが私達の内に生き、キリストのいのちにあって、私達は日々生きるからである。
「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」(ガラテヤ2:20)

結局、この地上では、いかに生きるかではなく、いかに死ぬかが大事なのだ。

礼拝説教メッセージ音声:信仰者の集いへと帰ったヤコブ、帰る私達(創世記49:28-33):右クリックで保存

イスラエルは12人の子達を祝福し、最後に、自分の葬りについて指示した。
『わたしはわが民に「加えられ(アゥサフ:集められ、受け入れられ)」ようとしている。あなたがたはヘテびとエフロンの畑にあるほら穴に、わたしの先祖たちと共にわたしを葬ってください。』(29節)

彼が死にあたり厳重に誓わせた事は、自分を決してエジプトに葬らせない事、エジプトから必ず運び出して、先祖たちの墓へ葬って欲しい事だった。(創世記47:29-30)
彼は、当時最も富み、最も強かったエジプトの総理大臣の父として、エジプト最高の墓に葬られようなどとは、つゆだに願っておらず、父祖たちが葬られている墓へ自分も葬られ、信仰に歩んだ先祖たちの集いに入る事をこそ望んでいた。
なぜなら、信仰に歩んだ先祖たちに加えられる事が、どれほど栄光に富んだ事か、エジプトの栄光など遥か足元にも及ばない永遠の偉大な栄光がその先に待っている事を、彼は知っていたからである。

『こうしてヤコブは子らに命じ終って、足を床に「おさめ(アゥサフ)」、息絶えて、その民に「加え(アゥサフ)」られた。』(創世記49:33)
ヤコブは遂に、罪深く苦難続きだった地上での生活から解放され、信仰の先人たちの所へ、永遠の安息へと入った。

「これらの人はみな、信仰をいだいて死んだ。まだ約束のものは受けていなかったが、はるかにそれを望み見て喜び、そして、地上では旅人であり寄留者であることを、自ら言いあらわした。・・・しかし実際、彼らが望んでいたのは、もっと良い、天にあるふるさとであった。だから神は、彼らの神と呼ばれても、それを恥とはされなかった。事実、神は彼らのために、都を用意されていたのである。」(ヘブル11:13,16)

私達・信仰者が行くべき所が、どれほど栄光に富んだ所であるのか、加えられるべき民がどれほど素晴らしいかを、はっきり思い描く事が出来るなら、私達の地上での人生は、とても有意義なものへと変わって行く。
それがはっきりすればなるほど、それを私達に用意して下さった主イエス様への感謝と賛美に溢れ、地上のどんな栄光も富もかすんでしまうからである。

パウロもエペソ人への手紙の中で、祈っている。
「どうか、わたしたちの主イエス・キリストの神、栄光の父が、知恵と啓示との霊をあなたがたに賜わって神を認めさせ、あなたがたの心の目を明らかにして下さるように、そして、あなたがたが神に召されていだいている望みがどんなものであるか、聖徒たちがつぐべき神の国がいかに栄光に富んだものであるか、
また、神の力強い活動によって働く力が、わたしたち信じる者にとっていかに絶大なものであるかを、あなたがたが知るに至るように、と祈っている。」(エペソ1:17-19)

私達も、祈るべきである。
主がどれほど素晴らしいか、主が用意しておられる御国がどれほど栄光に富んだものであるのかを、もっともっと知ることが出来るように。

信仰によって歩む人の行先は、決まっている。それは、アブラハム、イサク、ヤコブの食卓である。
『あなたがたに言いますが、たくさんの人が東からも西からも来て、天の御国で、アブラハム、イサク、ヤコブといっしょに食卓に着きます。しかし、御国の子らは外の暗やみに放り出され、そこで泣いて歯ぎしりするのです。」』(マタイ8:11-12)

信じた事でアブラハムの子孫とされたと甘んじ、安逸をむさぼり、行いという実体が伴わず、信仰の実を全く結んでいない「御国の子ら」は、外の暗やみに放り出され、そこで泣いて歯ぎしりする。
歯ぎしりという行為は、くやしいからするものである。
地上で共に信仰生活をして来た人達が、アブラハムの食卓に連なっているのを眺めながら、自分だけそこに加われず、外の暗闇に放り出されてしまう事のくやしさは、一体どれほどのものだろうか。

『それから、イエスは百人隊長に言われた。「さあ行きなさい。あなたの信じたとおりになるように。」すると、ちょうどその時、そのしもべはいやされた。』(同13節)
この百人隊長は、イエスがどんな権威あるお方であるのか、すなわち、イエスは悪霊や病をも動かす遥かに高い権威者であると信じ、実際に口で告白したため、「まことに、あなたがたに告げます。わたしはイスラエルのうちのだれにも、このような信仰を見たことがありません。」と褒められた。

百人隊長のように、主イエスこそサタンや死にも勝利される救い主であると信じ、主を主として地上での日々を歩むなら、やがて私達も、ヤコブや百人隊長など信仰の先人たちが連なっている、あの天の食卓へと加えられるのである。

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
1ヨハネ2:12-14:右クリックで保存

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
建て直しを邪魔する者への対処(ネヘミヤ記2-3章):右クリックで保存

【概要】

崩された城壁のような人生の状態から、神の慰めによって再建される希望について。ネヘミヤがエルサレムの城壁を再建したように、主イエス様は私たちの人生を立て直してくださる。

【聖書箇所】

  • ネヘミヤ2:4

  • ネヘミヤ2:9-12

  • ネヘミヤ2:17-19

  • ネヘミヤ2:20

  • イザヤ62:4-5

  • マタイ4章

【慰めの言葉】

皆さんの城壁が崩されたままであっても、主は皆さんを慰めてくださいます。ネヘミヤという名前の意味は「神の慰め」です。崩されている都、それは再建されなくてはなりません。崩された皆さんの成り立ち、ぶんどられ続けてきた皆さんの人生、それはネヘミヤによって立て直しがなされなくてはなりません。皆さんを立て直すのは、神の慰めです。

【励ましの言葉】

天と地を作られた神である主は、皆さんが城壁を再建するのであれば、あらゆる援助を惜しみません。主は、皆さんのことを、花婿が花嫁を喜ぶように喜んでくださいます。なぜなら、皆さんが主を頼りとするからです。

【勧めの言葉】

唇で告白するべき時が来ております。「さあ、再建に取り掛かろう」と。城壁が崩されたままであれば、それに対して何もしないのではないでしょうか。それは10年20年と崩されたまま、火で焼かれたまま、敵に入りたい放題に入らせたままです。しかしエルサレムの住人がネヘミヤの言葉を聞いて勇気を奮い立たせ、再建に取り掛かろうと言った時から再建の業が始まるのです。

【***詳細***】

今日は、ネヘミヤ記の2章、9節から12節までです。ネヘミヤ記は、先週の水曜礼拝の時、1章やりましたね。ネヘミヤは、バビロン捕囚の後の時代、イスラエルに戻って、そして、このイスラエルの城壁を建て直した人です。

ネヘミヤは、元々、アルタシャスタ王という異国の王様の、そこの献酌官をしておりました。ネヘミヤはとても気分が沈んでいたんですけれども、しかし王様がそれを見て、あなたなんでそんなに気分が沈んでいるんだと尋ねました。

当時の王様はとても権力がありましたので、気分次第で献酌官を殺したりとか、そういったことをするほど結構身勝手な王様もおりましたし、権力もありましたので、彼はとても恐れました。そこで彼は天の神に祈ってから、この2章の4節に、「ではあなたは何を願うのか」と聞かれたとき、そこで私は天の神に祈ってから王に答えたと書いてあります。

「王様、もしよろしくてこの僕を憐れんでくださいますなら、私をユダの地、私の先祖の墓のある町へ送って、それを再建させてください」と祈りました。祈ってから王様に答えました。王様は非常に良い返事をくださるんですね。

皆さんが遣わされている職場、あるいは遣わされている家庭の場所において、本当に気分次第で人を平気で落としたり打ち叩いたり、そういった厳しいところに遣わされている兄弟姉妹もいるかもしれませんけれども、しかし天の神様に祈ってから望むとすれば、主が皆さんのそのことを必ず願いを聞いてくださり、そして皆さんにそこで悪いようにはなさらず、また例えば皆さんがそこの場所において退けられるとしても、それは神様の御手の支配のうちにあることですので、心配するに及ばないことです。

では、ちょっと前置きが長くなりましたけれども、2章の9節から読んでいきます。

ネヘミヤ2:9-12「私は川向こうの総督たちのところに行き、王の手紙を彼らに手渡した。それに王は将校たちと騎兵を私につけてくれた。ホロン人サヌバラテとアモン人で役人のトビヤはこれを聞いて非常に不機嫌になった。イスラエル人の利益を求める人がやって来たからである。こうして私はエルサレムにやって来て、そこに三日間とどまった。あるとき私は夜中に起きた。他に数人の者も一緒にいた。しかし私の神が私の心を動かして、エルサレムのためにさせようとされることを私は誰にも告げなかった。また私が乗った獣のほか、その中には一頭の獣も連れて行かなかった。」

いよいよネヘミヤがこのエルサレムに到着しました。エルサレムは非常にひどいありさまでした。城壁が崩されて、その門は火で焼き尽くされておりました。この12節の方から16節までの方を読んでいきますと、そのエルサレムは非常に凄まじく恥ずかしめられたありさまが書いてあります。

門が火で焼かれ、城壁が崩され、また乗っている動物が通れないような、そこまで崩され方がひどい瓦礫の山と化しているところもありました。

皆さんもですね、皆さんの成り立ちもある時、皆さん自身の悪い行動、皆さん自身のこの取った行動のゆえに、皆さん自身がこの崩された城壁のように徹底的に痛めつけられて崩されてしまうようなことがあるかもしれません。それどころか、まだ未だにその城壁の崩された跡という状況が皆さんの状況だという人もまたいるのかもしれません。

このネヘミヤの時代、エルサレムは廃墟と化して城壁がない状況でした。他の国が侵略しても侵略し放題、守るものがなかったんですね。皆さん自身でこの守る防護壁がない状態ですと、本当に敵は好き放題に皆さんにやって来て、皆さん盗んでいったり、好き放題してしまったりします。

先週の水曜日にお話ししましたが、もしお家でですね、コンセントが、いつの間にか見失ったコンセントがあって、それでなんだこのコンセントってたどって見ていくと、なんか上の家の方にまでコンセントが通じてて、勝手にいつの間にか電気が泥棒されていたとしたらどうしますかっていう話をしましたね。

城壁が崩されているということ、このように境界線が侵入されて、自分たちの内側にある守るべきリソースが好き放題ぶんどられて盗まれているような状態、それがこの当時のネヘミヤの時代だったんですけれども、このような状況は改善されなくてはなりません。

崩されている都、それは再建されなくてはなりません。崩された皆さんの成り立ち、ぶんどられ続けてきた皆さんの人生、それはネヘミヤによって立て直しがなされなくてはなりません。ネヘミヤという名前の意味は、神の慰めという意味でした。皆さんを立て直すのは、神の慰めです。皆さんがぐちゃぐちゃに崩されて、敵が好き放題、恥ずかしめられ放題のありさまは、まず慰められなくてはなりません。

ネヘミヤはこのエルサレムのところに来て、彼らは夜中起きて、そして他の数人の人たちと一緒にその崩されたありさまを視察しました。夜の暗闇の、月が照っていたかもしれませんけれども、その明かりの下で、おそらく彼らは秘密裏に行動したんでしょう。ですから、獣もたった一頭しか連れて行かずに、また数人のもと、夜中に行きました。

これは本当に暗闇の中に崩されている状況、エルサレムのこの状況は、なんとこれを見てネヘミヤは心を痛めたことでしょうかね。なんで彼らがこの暗闇の中で隠密に行動しなければならなかったかというと、それを面白がらない敵がいたからです。

10節の方に書いてありますが、好き放題ぶんどれる、好きなことし放題。この役人たちにとって、彼らにとって都合が良かったんですね。ぶんどれるから。

皆さん自身もですね、立て直される段になると、それを面白がらない人がおります。攻撃を受けます。皆さん自身が自分の城壁を立て直そうとアクションを起こした途端に攻撃が来るのは、これは覚悟しておいた方が良いでしょう。

敵はですね、皆さんが立て直されるのを面白がらないんです。皆さん自身、それまでの人生でサタンにぶんどられ続けてきた。悪しき者たちにぶんどられ続けてきた。としたら、その悪しき者たち、サタンがそれを嫌がるんです。皆さんが立て直されるのを。

ここにおいては、サヌバラテとかトビヤとか、それを聞いて不機嫌になりました。ネヘミヤが来た。奴はイスラエル人の利益を求める。

そういうわけで、ネヘミヤはこの敵に知られずに、隠密に行動したんですね。皆さん自身もですね、何でもかんでも正直に、あけっぴろげで皆さん自身の秘密を全部明らかにしていれば良いというものではありません。皆さんが隠すべきところはしっかり隠すべきなんです。皆さんの実情を知られてはならない敵がいるんですよ。

皆さん自身のあることを知ってしまうと、ある日、兄弟姉妹にとっても非常に厄介なことになってしまうようなことは、そういう人をですね、混乱に陥れたり、あるいは兄弟姉妹の中でそういう混乱を起こすような情報はわざわざ言わなくていいんです。いや、言うべきではないんですね。

イエス様もある人は、ある人を癒したときに、その人に対して、このことは誰にも知らせてはならないと固く口止め、ある人たちに対してはしました。不思議ですね。ある人に対しては、言って、あなたの身に起こったことをその地方の人たちに知らせなさいと言って、ある人に対しては、このことは誰にも話してはならないと。

例えば、イエス様がそういう口止めをしたケースの場合だと、だいたいその人はその約束を破るんですね。言いふらすんです。言いふらした結果、イエス様がもはやそこで行動を取れなくなってしまうほど、人々がイエス様のもとを押し寄せたり、きっとイエス様のことをある面だけ語って、ある面だけ語らなかったんですね。

例えば、イエスという男のところに行くと、パンがもらえるぞ、とか、イエスというところに行けば、病気が癒してもらえるぞって言って、それでイエス様は罪を許してくださるお方だとか、イエス様は永遠の王であるとか、天と地を造られた神、主のメシアだとか、そういった非常に重要なところを除いて、ある面を語って、ある面を語らずということがある。

だから人によってですね、明らかにしていい情報と隠すべき情報があるんです。そこもしっかりと見極めるべきですね。このネヘミヤは、このイスラエルの敵に対しては、隠密に行動をとりました。

そして一通り見終わった後ですね、ネヘミヤはそこのイスラエルの困難のうちにある人たちに言うんです。17節以降です。

ネヘミヤ2:17-18「それから私は彼らに言った。あなた方は私たちのことを知っている。私の当面している困難を見ている。エルサレムは廃墟となり、その門は火で焼き払われたままである。さあ、エルサレムの城壁を建て直し、もうこれ以上恥辱を受けないようにしよう。そして、私に恵みをくださった私の神の御手のこと、また、王が私に話した言葉を彼らに告げた。そこで彼らは、さあ、再建に取り掛かろうと言って、この良い仕事に着手した。」

このネヘミヤはですね、そこの困難の状況うちにある神の民、イスラエルの人たち、エルサレムの住人に対して、良い知らせを告げ知らせるんですね。アルタシャスタ王は、このエルサレムの再建に対しては意欲的だと、助けをしてくれる。

そしてまた、その王の上におられる天と地を造られた神である主が、このすべてのことをここに至るまで、一献酌官がお暇をもらってお国のために仕事をさせてくださいという言葉に本当に心よく承諾して、しかもその援助の物資も送って、また手紙を書いてくれる。

そのような状況だから、我々はこのエルサレムの城壁を建て直して、もうこれ以上、恥辱を受けないようにしようと言うんです。そしてこのエルサレムの人たちは、神の御手のこととまた王様が話してくれた言葉に励まされて言うんです。さあ、再建に取り掛かろう。

皆さん自身には、主はどのように語っておられるでしょうか。皆さんは、崩された城壁のままでしょうか。門は火で焼かれているでしょうか。敵は皆さんの内側に入りたい放題しているでしょうか。

でも、主は天と地を造られた神である主は、皆さんに良くなってほしい。そして皆さんが城壁を再建するのであれば、あらゆる援助を天地を造られた神である主は惜しみません。

皆さんもですね、唇で告白するべき時が来ております。さあ、再建に取り掛かろうと。城壁が崩されたままであれば、それに対して何もしないのではないでしょうか。それは10年20年と崩されたまま、火で焼かれたまま、敵に入りたい放題に入らせたままです。

しかしこのエルサレムの住人がネヘミヤの言葉を聞いて勇気を奮い立たせ、再建に取り掛かろうと言った時から再建の業が始まるんです。

この3章の方はですね、本当にいろんな人が出てきます。いろいろな人がここの城壁の区画をどこからどこまで取り付けて修復したというそのリストがこの3章です。結構32節までずっと続きますけれども、本当にいろんな人がいろんな区画をそこを修理している様が記されておりますけれども、でもそのままにですね、やっぱり邪魔が入るんですね。

面白く思っていない人たちは、この2章の19節の方で言っています。

ネヘミヤ2:19「ところが、ホロン人サヌバラテとアモン人で役人のトビヤ、およびアラブ人ゲシェムは、これを聞いて私たちをあざけり、私たちを侮って言った。お前たちのしているこのことは何だ。お前たちは王に反逆しようとしているのか。」

城壁というのは、外部の敵から身を守るための道具です。城壁を建てるということは、何か戦争的な、軍事的な連想をさせるから。だから、もしこのことを面白く思っていない人たちが、王に歯向かうという口実を、王に偽の情報として、それはちょっと厄介なことですね。

皆さん自身も、皆さん自身が、自分で強くなろうとしているときに、「なんで強くなって、人を傷つけたりするのか、そんな強い言葉を身につけたら、人をもっと傷つけやすくなりますよ」というような、そういう讒言に引っかかってはなりません。

ネヘミヤは、こういうとき、「お前たちは王に反逆しようとしているのか」と言われた言葉に対して、「いえいえ、滅相もない。王に反逆しようとなどしておりませんよ」なんていうふうに、そんなベタな言い訳をして、まさにドツボにハマるようなことはしません。

いちいちですね、「いや違いますよ、王に反逆しようとなんかしてませんよ」とか、「これは戦争のために使うものではなく、平和のために使うものですよ」とか、そういった、相手が言ったことに対して、こう、そのまま返すやり方は、それは下手なやり方です。

ネヘミヤはどういうふうに答えたでしょうか。20節です。

ネヘミヤ2:20「そこで私は彼らに言葉を返して言った。天の神ご自身が私たちを成功させてくださる。だから、その僕である私たちは、再建に取り掛かっているのだ。しかし、あなた方には、エルサレムの中に何の分け前も、権利も、記念もないのだ。」

アーメン。まずですね、ネヘミヤは自分の立場を宣言しました。自分は、天の神ご自身が私たちを助けてくださる。天の神、主に仕えるものだから、私たちはこの神の都であるエルサレムの再建に取り掛かっているのだと。

自分たちを僕であると告白してますね。天の神ご自身が私たちを成功させてくださる。だからその僕である私たちは再建に取り掛かっているのだと。

サタンのですね、こういう攻撃の唇の火の矢に対しては、そのまま返してはなりません。皆さんをあざけるもの、皆さんを言葉によって引き落とそうとするものは、だいたいこういうふうにですね、そのまま答えてしまったら罠に陥るタイプの質問をしてきます。

例えばね、パリサイ派の人たちはイエス様に「カエサルに税金を納めるのは律法にかなったことでしょうか、そうでないでしょうか」と質問したとき、もしイエス様がそれに対して「かなったことである」と答えても、「そうではない」と答えても、「お前はローマに反逆するのか」と言われます。

そういう時イエス様は何て答えたか。「カエサルのものはカエサルに、神のものは神に返しなさい」と真実を告白しました。

また、姦淫の現場で捕らえられている女を連れてきたパリサイ派の人たちがイエス様に質問しました。「この女は姦淫の現場で捕らえられた。こういう女は律法では石打ちするように命じられている。ところでイエス様、あなたは何と言うか。」

イエス様はその質問に対しても、女を許せと言ってもドツボにハマります。じゃあお前律法を無視しているんだなと、口実にされてしまいます。この女は石で打ち殺せとイエス様が言っても、お前が今まで説いてきた愛の教えは一体何なんだと、これまた訴える口実になります。

皆さん自身ですね、イエスと答えてもノーと答えてもドツボにはまる質問があります。また皆さんが、右に行っても左に行っても、どちらのルートをとってもドツボにはまる、そういう人生の選択の場面があります。そういう時皆さんどうするべきかというと、皆さん真理を告白するべきです。

私は神の子である。ここでネヘミヤは、天の神ご自身が私たちを成功させてくださると。だからその僕である私たちは、再建に取り掛かっているのだと言いました。

イエス様は、その姦淫の現場の女の時は、そのイエスの質問に答えることなく、その群衆に対して真理を突きつけました。その群衆たちの、その状況。イエス様はこう答えただけです。「あなた方のうちで、罪のない者が最初にこの女に石を投げなさい。」つまりイエス様は、群衆のイエスの質問ではなく、その群衆に対して群衆の罪の状況をあらわにしたんですね。その人自身がいかに厄介か。

このネヘミヤが答えた言葉も、この、「お前たちは王に反逆しようとしているのか」という、この世の正義において罠にはめようとした言葉に対して、「いや違う、私たちは天と地を造られた神様の僕であり、その神様に従っているだけだ」と。何の引っかかりもないですね、王に対して。このことを言っても反逆をしているような、ことを匂わせるニュアンスは一切ありません。

皆さん、相手を見たら罠に陥ります。イエスの質問、サタンが投げかけるイエスの質問に、そのままイエスと答えてはならないし、ノーと答えてもなりません。御言葉にはこう書いてあると答えるべきです。

イエス様は、荒野でサタンの誘惑を受けた時、サタンの誘惑に対して「御言葉にはこう書いてある」と3回返しました。マタイ4章でした。

皆さん自身も、人生のあらゆる場面において、サタンからの攻撃を受けた時は御言葉で返してください。

天と地を造られた神様は、皆さん自身が城壁が崩されたまま、皆さん自身の成り立ちが、この時代のエルサレムのように、ズタズタで、瓦礫に埋もれて、動物も通れないような、そのような成り立ちを主は慰めてくださいます。ネヘミヤは神の慰めという名前の意味でした。主は皆さんの城壁を建て直してくださいます。

最後に、イザヤの62章の方を、イザヤ62章の4節と5節。

イザヤ62:4-5「あなたはもう、見捨てられているとは言われず、あなたの国はもう、荒れ果てているとは言われない。かえってあなたは、私の喜びは彼女にあると呼ばれ、あなたの国は、夫のある国と呼ばれよう。主の喜びはあなたにあり、あなたの国は夫のある国となるからだ。」

5節の方ですね。「あなたの子らがあなたをめとり」とあるんですが、このあなたの子らというのは、ここは新改訳では、「あなたを再建する者があなたをめとり」と書いてあります。「そして花婿が花嫁を喜ぶように、あなたの神はあなたを喜ぶ。」

皆さんがですね、皆さんを再建されるお方である主イエス様を花婿として迎えるのであれば、花婿なるイエス様は皆さんを再建してくださいます。建て直してくださいます。そして、主は、皆さんのことを、花婿が花嫁を喜ぶように喜んでくださいます。

なぜなら、皆さんが主を頼りとするからです。旦那さんにとって、妻が皆さんのもとに保護を求めてくるのは、それは男にとってやりがいでしょう。男にとって喜びでしょう。女性を自分の手で守る。

それと同じように、イエス様も、皆さんがイエス様のもとに助けを求めてくるのを、イエス様はそれを誇りとするんです。誇りを持って皆さんを守ることを喜びとされます。

どうか皆さん自身が、主を迎えて、イエス様を主として、そしてこのお方に助けを求めて、皆さん自身に、もし、ネヘミヤの時代のような状況であるのであれば、皆さんを再建してくださる方が皆さん自身をめとって、そして皆さんの内で立て直しの業を行われることができるように皆さん自身が、どうか主をお迎えしてください。

そうすれば主は皆さんの内に入ってこられて、皆さんと共に食事をし、また皆さん自身の内で再建の業を果たしてくださいます。どうか主をお迎えして、いつでも主を主として、そしていつでもこの主から守っていただき、皆さんの城壁が完全に癒されて、そしてこのお方とその城壁の内で親しく喜ばしく主と共に生活していく皆さんでありますように。

イエス様のお名前によって祝福いたします。アーメン。

【結論】

崩された城壁のような人生の状態であっても、主イエス様を花婿として迎え、主に助けを求めるなら、主は皆さんを再建してくださいます。「さあ、再建に取り掛かろう」という告白から、立て直しの業が始まります。サタンの攻撃に対しては、御言葉で答え、真理を告白することが大切です。主は、皆さんが主を頼りとすることを誇りとし、花婿が花嫁を喜ぶように皆さんを喜んでくださいます。

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