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賛美奉仕者の系図(1歴代誌6:31-47)
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モーセの時代、主は礼拝における奉仕を定め、レビ族の子孫、ゲルショム、ケハテ、メラリ族それぞれに、幕屋を運んだり、設営したり、解体したりする奉仕者を定められ、幕屋の奉仕や聖所での奉仕が定められた。
しかしダビデの時代以降、レビ族の奉仕の形態は変わり、神殿において主に向かって賛美の歌を捧げる歌うたいや門衛、また、人々に律法を教える役割を担うようになった。
6:31 契約の箱を安置したのち、ダビデが主の宮で歌をうたう事をつかさどらせた人々は次のとおりである。
6:32 彼らは会見の幕屋の前で歌をもって仕えたが、ソロモンがエルサレムに主の宮を建ててからは、一定の秩序に従って務を行った。
モーセ律法では、もっぱら動物を主に捧げるいけにえについては記されていたが、賛美については記されていない。
せいぜい出エジプト記で、主がエジプトの軍勢を海に沈めた時に、モーセやミリヤム、イスラエルの会衆が主に賛美の歌を歌ったくらいであるが、規定として賛美を捧げるようには、記されていない。
しかし、主に賛美を捧げる事は、御胸にかなった事である。
ヘブル13:15 だから、わたしたちはイエスによって、さんびのいけにえ、すなわち、彼の御名をたたえるくちびるの実を、たえず神にささげようではないか。
今、この時代、イエス様がただ一度、まことの聖所に入り、真に傷のない小羊として捧げられた事により、もはや旧約のような動物のいけにえを捧げる事は不要となった事がヘブル書に記されている。
そして今、私達はそのイエス様ゆえに、このからだを、きよい、生きた供え物として捧げる事、そして、世と妥協せず、心を新たにし、主に捧げられた者として聖なる生活をして行くことが私達・神の民の生き方である。
ローマ12:1 兄弟たちよ。そういうわけで、神のあわれみによってあなたがたに勧める。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい。それが、あなたがたのなすべき霊的な礼拝である。
12:2 あなたがたは、この世と妥協してはならない。むしろ、心を新たにすることによって、造りかえられ、何が神の御旨であるか、何が善であって、神に喜ばれ、かつ全きことであるかを、わきまえ知るべきである。
天においてはもはや犠牲のいけにえは存在せず、常に、絶えず、永遠に、賛美が主に捧げられている有様が、黙示録に記されている。
だから神の宮において賛美が捧げられる事は非常に理に適った事であり、ダビデは心から主に賛美を捧げる聖歌隊を組織し、ダビデ自ら主に捧げる詩篇を記したのだろう。
神殿において賛美が捧げられていた時代、その奉仕者はレビ人と定められていた。
まずは詩篇でも登場する、賛美を中心的に導いたヘマンの系図である。
6:33 その務をしたもの、およびその子らは次のとおりである。コハテびとの子らのうちヘマンは歌をうたう者、ヘマンはヨエルの子、ヨエルはサムエルの子、
6:34 サムエルはエルカナの子、エルカナはエロハムの子、エロハムはエリエルの子、エリエルはトアの子、
6:35 トアはヅフの子、ヅフはエルカナの子、エルカナはマハテの子、マハテはアマサイの子、
6:36 アマサイはエルカナの子、エルカナはヨエルの子、ヨエルはアザリヤの子、アザリヤはゼパニヤの子、
6:37 ゼパニヤはタハテの子、タハテはアシルの子、アシルはエビアサフの子、エビアサフはコラの子、
6:38 コラはイヅハルの子、イヅハルはコハテの子、コハテはレビの子、レビはイスラエルの子である。
この中に、サムエルがおり、コラがいる。そして、ヘマンはケハテ族の一族である事が、この系図で明らかにされている。
さらに、ヘマンの右に立ってサポートするアサフと、左に立つエタンの系図とが、39節以降に記されている。
それによると、アサフはゲルション族、エタンはメラリ族である事が系図に記されており、こうして、当時の賛美奉仕者がレビの一族、ゲルショム、ケハテ、メラリ族の子孫である事がここに明記されている。
かつては何々族であるかが奉仕者として大事であったが、今や、全てイエス様にあって召し出された者すべてが、主を賛美し、主の奉仕者となり、主にあって祭司のつとめをする事が求められている。
1ペテロ2:5 この主のみもとにきて、あなたがたも、それぞれ生ける石となって、霊の家に築き上げられ、聖なる祭司となって、イエス・キリストにより、神によろこばれる霊のいけにえを、ささげなさい。
2:6 聖書にこう書いてある、/「見よ、わたしはシオンに、/選ばれた尊い石、隅のかしら石を置く。それにより頼む者は、/決して、失望に終ることがない」。
2:7 この石は、より頼んでいるあなたがたには尊いものであるが、不信仰な人々には「家造りらの捨てた石で、隅のかしら石となったもの」、
2:8 また「つまずきの石、妨げの岩」である。しかし、彼らがつまずくのは、御言に従わないからであって、彼らは、実は、そうなるように定められていたのである。
2:9 しかし、あなたがたは、選ばれた種族、祭司の国、聖なる国民、神につける民である。それによって、暗やみから驚くべきみ光に招き入れて下さったかたのみわざを、あなたがたが語り伝えるためである。
2:10 あなたがたは、以前は神の民でなかったが、いまは神の民であり、以前は、あわれみを受けたことのない者であったが、いまは、あわれみを受けた者となっている。
2:11 愛する者たちよ。あなたがたに勧める。あなたがたは、この世の旅人であり寄留者であるから、たましいに戦いをいどむ肉の欲を避けなさい。
レビの系図 - 主の奉仕者として登録される人と、登録されない者の違い(1歴代誌6:1-30)
- カテゴリ :
- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(旧約) » 1歴代誌
- 執筆 :
- pastor 2017-8-8 7:15
レビの系図 - 主の奉仕者として登録される人と、登録されない者の違い(1歴代誌6:1-30)
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第一歴代誌の系図の第一の主人公は王族であるユダ族であったが、第二の主人公は、神の御前に仕える事を主に定められたレビ族である。それが6章に詳細に記されている。
6:1 レビの子らはゲルション、コハテ、メラリ。
6:2 コハテの子らはアムラム、イヅハル、ヘブロン、ウジエル。
6:3 アムラムの子らはアロン、モーセ、ミリアム。アロンの子らはナダブ、アビウ、エレアザル、イタマル。
6:4 エレアザルはピネハスを生み、ピネハスはアビシュアを生み、
・・・
6:10 ヨナハンはアザリヤを生んだ。このアザリヤはソロモンがエルサレムに建てた宮で祭司の務をした者である。
・・・
6:15 ヨザダクは主がネブカデネザルの手によってユダとエルサレムの人を捕え移された時に捕えられて行った。
1−15節で、族長レビからモーセ・アロンの時代、ソロモン神殿の時代、そしてバビロン捕囚の時代へとつながった。
アロンやモーセに関しては、彼らが為した事からすれば他の誰よりも文面を割くべきと思うかもしれないが、ここでは、名前が列挙されているだけである。
トーラ(モーセ五書)を暗唱するユダヤ人にとって、彼らは書くまでもない存在であり、これら僅かな節の名前の列挙を見るだけで、モーセ五書に記された祭司一族が一瞬で走馬灯のように頭によぎるのである。
6:16 レビの子らはゲルション、コハテおよびメラリ。
6:17 ゲルションの子らの名はリブニとシメイ。
6:18 コハテの子らはアムラム、イヅハル、ヘブロン、ウジエルである。
6:19 メラリの子らはマヘリとムシ。これらはレビびとのその家筋による氏族である。
16節以降は、レビの3人の子達の簡単な系図である。
この3人の子孫達は、神を礼拝する所である幕屋において、いかなる奉仕をするのか。その明確な役割分担や、その人数、また、彼らはどこに住むべきか、民数記3章において、詳細に定められている。
ゲルション族で登録された人は七千五百人で、奉仕内容は主に幕屋の布製品に関わる奉仕が割り当てられており、ケハテ族で数えられた人は八千六百人で、奉仕内容は主に幕屋内の祭具や調度品に関わる奉仕が割り当てられており、メラリ族で登録された人は六千二百人で、奉仕内容は主に、幕屋の板や土台などの骨格部分に関わる奉仕が割り当てられた。
そして、神の幕屋の正面、すなわち、東側に住まう事が出来るのは、モーセとアロン、その子たちのみである。
『また幕屋の前、その東の方、すなわち、会見の幕屋の東の方に宿営する者は、モーセとアロン、およびアロンの子たちであって、イスラエルの人々の務に代って、聖所の務を守るものである。ほかの人で近づく者は殺されるであろう。』(民数記3:38)
主の御そば近くに住まう特権が与えられている人とは、主に捧げている人である。
レビ族が神の幕屋の近くに住まう特権が与えられたのは、前回も見たように、親や兄弟姉妹、友人に逆らってでも、御言葉に従い通したからであり、それ程の主に対するコミットがあったからこそ、その栄誉にあずかったのだ。
教会に住み込みたい、という人がいるが、教会に住めば聖くなるというものではない。
聖なる所にはいたいけれど、俗なる事も手放したくない、という人が、聖なる所に居続けるなら、彼の言動によってその「聖なる空間を食いつぶす」という罪を、増し加える事になってしまう。
モーセやアロンの子達の「ほかの人で近づく者は殺される」と戒められている通りである。
主に捧げる心を育てる人でなければ、教会に何年住み込んだ所で何の変わりは無い。
しかし、「主に捧げられた心」を持つ人は、たとい牢に何年も閉じ込められ、教会通いができなくても主は共におられ、ますます聖められて行くのだ。
『モーセとアロンとが、主の言葉にしたがって数えたレビびとで、その氏族によって数えられた者、一か月以上の男子は、合わせて二万二千人であった。』(民数記3:39)
レビ族として登録された人は、合わせて22000人、と記されているが、実は、22,28,34節で示されているゲルション、コハテ、メラリの数を合計すると、22300人で、この合計数のほうが、上記で記されている数より、なぜか300人多い。
実は、「数えられる」と訳されている言葉には二種類ある。
一つは「mispar」で、ただ単に数字を数える意味、もう一つは「paqad」で、数える事の他に、登録する、コミットするという意味である。
ゲルション族、メラリ族は「paqad(登録する、コミットする)」が用いられ、39節の合計数もそれが用いられているが、ケハテ族(28節)に限ってはそれは使われておらず、ただ「mispar(数えた)」としか記されていない。
つまり、コハテ族は、8600人「数えられた」けれど、神の奉仕者として登録されたのは8300人、という事になるのだろう。
コハテ族の300人がなぜ登録されなかったのか、それは記されていないので分からない。
民数記16章でモーセに反逆したコラも、コハテ族であった。
彼らはレビの務めが与えられているのに祭司の職を要求し、イスラエル全体を扇動してモーセとアロンに逆らったため、彼は家族や天幕もろとも地に飲み込まれてしまった。
いかに神の民として数えられようと、いかに神の働き人として数えられようとも、主から「登録」されない人もあり、そして、主が立てた権威に逆らうのであれば、災いが下されてしまうという事も忘れてはならない。
歴代誌の系図の中に、知られた名前もちらほら登場するが、その名前の中に、聖書それぞれの場面のドラマがある。
6:22 コハテの子はアミナダブ、その子はコラ、その子はアシル、
・・・
6:27 その子はエリアブ、その子はエロハム、その子はエルカナ。
6:28 サムエルの子らは、長子はヨエル、次はアビヤ。
コラは、レビ族で重要な役割を担っておりながら、神が定めた指導者モーセに逆らい、神が定めた大祭司アロンの職を奪おうと、著名な有力者を大勢従えて反乱を起こした。
しかし彼らが人々の前で尋常ならざる死に方をする事によって、神の定められた指導者や祭司に逆らうとはいかなる事かを、神は示された。
しかしながら、そのコラの子孫からは、あの有名な預言者でありキングメーカーであるサムエルが生まれ、さらには、コラの子達は素晴らしい詩篇の数々を生み出した。
結局大切なのは、どのように生まれついたのかではなく、また、どこに住んでいるのかでもなく、その人がいかに主に従順し、主が定められた指導者に従順し、そしていかに心に主を住まわせているか、である。
主を礼拝すべき時、主を敬うべき場所を軽んじる者に用意されている災い(レビ記26章)
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- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(旧約) » 1歴代誌
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- pastor 2017-8-7 6:49
主を礼拝すべき時、主を敬うべき場所を軽んじる者に用意されている災い(レビ記26章)
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レビ記26章も申命記28章同様、祝福と呪いの箇所であり、祝福の明細よりも呪われる事の明細のほうがはるかに多い。
レビ記26章の特徴的な事は、主を敬わない事を続けるなら、その刑罰としての呪いがさらに7倍重くなり、それでも主を敬わない事を続けるなら、さらに7倍重くなる、と、段階的に、主を敬わない事の呪いが重くなっていく事である。
その、最も基本的な事は、次の事である。
26:1 あなたがたは自分のために、偶像を造ってはならない。また刻んだ像も石の柱も立ててはならない。またあなたがたの地に石像を立てて、それを拝んではならない。わたしはあなたがたの神、主だからである。
これは十戒の中でも最も基本的な事である。十戒のうち、第1−4戒は神との関係の戒め、第5-10戒は人との関係であるが、ことばの分量的には、神との関係のほうがはるかに多い。(出エジプト記20章)
偶像礼拝は、神以外のものを神とする事だが、礼拝よりも御言葉よりも、それ以外のものを大事にするなら、それは偶像礼拝となり、呪われるための条件となってしまう。
26:2 あなたがたはわたしの安息日を守り、またわたしの聖所を敬わなければならない。わたしは主である。
すなわち、主を覚え主を敬うべき時、場所をわきまえ、主を恐れよ、という事である。
列王記を見ると、主を礼拝するべき聖所を軽んじ、主を敬うべき時である安息日や祭りの日を軽んじた王達は、必ず衰退して来た。
しかし、主を重んじて礼拝を守り、聖所を建て直した王は、必ず栄えた。
主の御言葉を守り行う人には、時に叶った雨が与えられ、蒔いた種に対し、大地には産物が、仕事場には勤労の実が、豊かに与えられる。
『あなたがたの麦打ちは、ぶどうの取入れの時まで続き、ぶどうの取入れは、種まきの時まで続くであろう。あなたがたは飽きるほどパンを食べ、またあなたがたの地に安らかに住むであろう。』(レビ記26:5)
麦の収穫は春のイースター時期に始まり、ぶどうの取り入れは九月ごろである。つまり、麦打ちが春から秋までずっと続く程の、大収穫が与えられる、という事である。
そんなに大量に穫れてどうするのか、と思うだろうか?
主に従順な世代のイスラエルは、それこそ、ねずみ算式に増えて行くのであるから、主は、食料をそれ程に豊かな実りをもたらして下さるのである。
だから、教会に人数が大いに増えたらどうしよう、食事や集会の場所はどうしよう、などという「嬉しい心配」さえ、無用である。主がその全てをちゃんと備えて下さるから。
主の御言葉を守り行うのであれば、全ての獣の危険から守られ、安息が与えられ、安らかに寝る事が出来るのだ。
また、敵への勝利の約束が与えられている。(7-8)
さらに、子供たちはおびただしく多くなって行く。それでいて、穀物倉から食料が尽きてしまう、という事も、一切無いのだ。(9-10)
そして、何よりの祝福は、主が共におられる事、主が私達のうちに住んで下さる事。それこそ、何にもまさる祝福である。(11-13)
14節以降は、主に聞き従わない場合に振りかかる呪いの明細である。
呪いを招いてしまうための条件が、以下の二節である。
『しかし、あなたがたがもしわたしに聞き従わず、またこのすべての戒めを守らず、わたしの定めを軽んじ、心にわたしのおきてを忌みきらって、わたしのすべての戒めを守らず、わたしの契約を破るならば』(レビ記26:14-15)
第一段階の呪いは、身も心も「病む」事である。
『わたしはあなたがたにこのようにするであろう。すなわち、あなたがたの上に恐怖を臨ませ、肺病と熱病をもって、あなたがたの目を見えなくし、命をやせ衰えさせるであろう。あなたがたが種をまいてもむだである。敵がそれを食べるであろう。わたしは顔をあなたがたにむけて攻め、あなたがたは敵の前に撃ちひしがれるであろう。またあなたがたの憎む者があなたがたを治めるであろう。あなたがたは追う者もないのに逃げるであろう。』(レビ記26:16-17)
ここの「肺病」は「憔悴」あるいは「消耗」とも訳せ、「熱病」は「激怒」「興奮」とも訳せる。
御声に聞き従わない者は、まず訳の分からない恐怖に襲われ、諸々の病を患う他、情緒が不安定になって、視力も見識も悪くなり、嫌な敵が栄えて支配するようになり、訳も分からない漠然とした恐怖感に支配され、追われてもないのに逃げるようになるのだ。
あわて者となり、物を落としてこわしたり、なくしやすくなる。
怒りっぽく成り、病がちになる。
いじめられやすくなり、常に何かから逃げる生活となる。
それが第一段階だが、それでも主に聞き従わないなら、さらに7倍罰が重くなってしまう。
「作物の不作」が来(レビ記26:18-20)、「野獣」が横行し(レビ記26:21-22)、戦争と疫病、食料不足の災いが降りかかる。(レビ記26:25-26)
この災いでも、なお懲りずに、主の御声に聞き従わないなら、食料不足は最悪の状態になり、自分の息子や娘の肉を食べるまでになる。(27-29節)
『しかし、彼らがもし、自分の罪と、先祖たちの罪、すなわち、わたしに反逆し、またわたしに逆らって歩んだことを告白するならば、たといわたしが彼らに逆らって歩み、彼らを敵の国に引いて行っても、もし彼らの無割礼の心が砕かれ、あまんじて罪の罰を受けるならば、そのときわたしはヤコブと結んだ契約を思い起し、またイサクと結んだ契約およびアブラハムと結んだ契約を思い起し、またその地を思い起すであろう。』(レビ記26:40-42)
人々はどうして、愚かにも、呪いへとまっしぐらに進む事を止めないか。それは「心に割礼が無いから」だと書いてある。
すなわち、心が「あれをやりたい」「これをやりたい」という肉の思いで覆い尽くされていて、それを取り除ける気が、一切無いからである。
その無割礼の心が砕かれ、取り除かれて、主が与えられた罰を正当とし、その罰を甘んじて受けようとする人達に、主は、彼らの先祖たち、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約を思い起こす、と言っておられる。
受けている呪いや罰を乗り越えるには、自分に罪がある事を認め、それを正直に主に告白する必要があるのだ。
そして、その向こう側で、主は、恵みと憐れみをの手を広げて待っておられるのだ。
主はなぜ、この章に記されているほどの災いを用意されるか。
それは、愛しているからであり、死のパターンに陥らないようにと、懲らしめを与えられるからだ。
『「わが子よ。主の懲らしめを軽んじてはならない。主に責められて弱り果ててはならない。主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである。」(ヘブル12:5-11)
はじめから愛しておられた神(第一ヨハネの手紙1:1-4)
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週報/メッセージ(説教)概要
神は何故、人に、神を裏切る自由さえ与えたのか。こんな罪の苦しみを味わうくらいならいっそ与えなかったほうが良かったのに、と思う方もいるかもしれない。今回、神が人に自由を与えた理由を見ていきたい。
聖書には「はじめに」で始まる箇所は3箇所ある。聖書の最初・創世記1:1と、ヨハネによる福音書1:1、そして今回の、第一ヨハネの手紙1:1であるが、それぞれの「はじめ」は、違う意味を持っている。
神は時間・空間のある宇宙を創造する前から存在された。神の名は「わたしはある(エフエ・アシェル・エフエ)」、エフエは人格的存在を表すBE動詞「ハヤー」で、それが神のアイデンティティであり、名である。
その神が、悠久永遠へ、「時間」という切り身を入れた(バラ)瞬間が、創世記1:1の「はじめ(ベレシート)」である。それに対しヨハネ1:1の「はじめ(アロケー)」は、時が創られる前、永遠という「はじめ」である。ヨハネ1:1で「あった」と訳されている語は、人格的存在をあらわすギリシア語BE動詞「エイミー」で、正確には「おられた」である。第一ヨハネの「はじめ」も、時間が存在する前の「はじめ」であるが、この箇所は「はじめから存在されたお方・キリスト」のご性質で満ち満ちている。すなわち、はじめからおられたキリストは、私達が耳で聞き、目で見、手でさわれる「いのちのことば」、愛なるお方、罪を赦すお方として、私達に現れた。
イエス様は私達を「在らせる(ハヤー、エイミー)」お方であり、人も時間も「在る」前・ベレシートの前から、父なる神は、天のあらゆる霊的祝福で私達を祝福し、御前で清く傷の無き者と「在らせる」ように、キリストにあって選び、神の子という身分を授けようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのだ。(エペソ1:3-6)
父なる神は、世界の創られる前から、私達人間を、他のどんな被造物とも違う「自由意志を持った」「神の似姿」として「人」を創造しようと、念頭に置き、創世のわざを行われた。
キリストは、人が存在する以前から人を愛し、妻として定め、共に住むための家(宇宙)を創り、たとえ人が「自由意志」を用いてご自分を裏切ったとしても、十字架上でいのちを捨てて贖うほどの完全なる愛で、人を愛しておられたのだ。先々週のコーエン講義で学んだ通り、創世記の「ベレシート(בראשׁית)」のヘブライ語の中には、「בית ベイト:家」があり、「בר バル:息子」があり、「בראバラ:創造」があり、「שי シャイ:贈り物」があり、「ת タウ:十字架」があり、「ברשיベロシュ:頭」があり、「שיתシット:いばら」があり、「ברית ベリット:誓い」があり、「אשתアシット:妻」がある。主はベレシートの前から、全てを見込んでおられたのだ。
このとてつもない神の愛とご計画は、親と赤ちゃんの関係から、なんとなく理解できるかもしれない。
親は普通、自分の似姿である赤ちゃんが胎に宿ったと知った瞬間、両手放しでその存在を喜び、親や友人達に喜びを言い広め、赤ちゃんのために色々な準備をする。赤ちゃんが宿るためのベビーベッドやベビーカーを買い、赤ちゃんが社会で生きるための諸々の手続きをする。同様に神様も、私達が存在する前から私達を喜び、大切にし、もろもろの法則を定め、人が宿るための壮大なベビーベッド・「宇宙」を創った。
親は飽きもせず赤ちゃんに笑顔を向け、あやしたり、愉快に感じるようベビーカーをゆらゆら揺らしたりする。
神様も、神の子である私達に御顔を向け、宇宙や地球をゆらゆら動かし、あらゆる良いものを周りに配置し、快適に生きられるようにしておられる。 赤ちゃんは、自分をあやしている親が、どんなに自分を愛し、大切に思い、より良く生きられるようにと働いて、あらゆる努力をしてくれているとは、つゆにも思わず、ただ受けているだけだが、神と人との関係もまた、同様である。ただ神は、スケールがあまりに大きいのである。
もし赤ちゃんが機嫌を損ねるなら、親は慌てて、機嫌を損ねる原因を除こうとする。もしわがままになって意図的に悪い事をするなら、心を痛めながらもお仕置きする。そして、いつも心配する。自分の手が届かない所で、危ない事はしまいか、と。神様も、同じである。神様は私達が最善の道に歩めるように、全てを整え、もし、悪の道・滅びの道に行こうとするなら、心を痛めつつもお仕置きする。そして、心配する。ご自身の手の届かない所で、自分を滅ぼすような事はしまいか、と。神は手が短くて救えないのではない。
人の側の反逆と罪が、神との隔ての壁となって、救いを届かなくさせてしまっているのだ。(イザヤ59章)
神は人の自由意志を尊重されるお方であり、人が神に助けを求めない以上、神は助けたくても助けられない。神を求めていないのに助けられているとしたら、それは一方的な恵みであり、一時的である。
その恵みの時に、神を愛し、神と共に歩もうと続けて行くなら、神はその人を愛し、神の子としてますます建て上げ、ついにはキリストの妻として迎えて下さる。それ程までに神は、人を特別扱いしておられるのだ。
神のこよなき愛と、そのご計画の深さがいかほどであるのか、さらに知る事ができる私達でありますように!
怒りを人生の道具とする者の呪いと、その子々孫々の呪い(箴言14:29-30)
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(音声データは毎週土曜日にアップ予定です)
箴言14:29 怒りをおそくする者は大いなる悟りがあり、気の短い者は愚かさをあらわす。
14:30 穏やかな心は身の命である、しかし興奮は骨を腐らせる。
怒りを支配する人は、英知が増し加わり、怒りをおそくする者は勇士にまさり、自分の心を治める者は城を攻め取る者にまさる。(箴言16:32)
怒りや激しい感情は、周囲に本人自身が愚かである事を撒き散らし、本人自身の骨を腐らせるのみならず、本人自身から生まれた子どもたち、子々孫々を呪われた者にしてしまう。
創世記49:3 ルベンよ、あなたはわが長子、/わが勢い、わが力のはじめ、/威光のすぐれた者、権力のすぐれた者。
49:4 しかし、沸き立つ水のようだから、/もはや、すぐれた者ではあり得ない。あなたは父の床に上って汚した。ああ、あなたはわが寝床に上った。
イスラエルの長子、ルベンは、長子であるにもかかわらず、長子の権は取り上げられ、旧約においてあまりぱっとしない存在となってしまったのは、彼は、奔放で勢いのある性格ゆえに、父に呪われてしまったからである。
創世記49:5 シメオンとレビとは兄弟。彼らのつるぎは暴虐の武器。
49:6 わが魂よ、彼らの会議に臨むな。わが栄えよ、彼らのつどいに連なるな。彼らは怒りに任せて人を殺し、/ほしいままに雄牛の足の筋を切った。
49:7 彼らの怒りは、激しいゆえにのろわれ、/彼らの憤りは、はなはだしいゆえにのろわれる。わたしは彼らをヤコブのうちに分け、イスラエルのうちに散らそう。
シメオンとレビも、激しい心のゆえに呪われ、その子々孫々は、ヤコブの預言したとおり、神の民の中で散らされてしまった。
怒りに早い者は、本人の骨を腐らせるのみならず、子孫をも散らしてしまうのである。
「彼らのつるぎは暴虐の武器」とあるが、人生を切り開いていく上での道具を「怒りの剣」にしてしまうなら、散らされてしまうという呪いが降りかかってくる。
カインもそうだった。
創世記4:5 しかしカインとその供え物とは顧みられなかったので、カインは大いに憤って、顔を伏せた。
4:6 そこで主はカインに言われた、「なぜあなたは憤るのですか、なぜ顔を伏せるのですか。
4:7 正しい事をしているのでしたら、顔をあげたらよいでしょう。もし正しい事をしていないのでしたら、罪が門口に待ち伏せています。それはあなたを慕い求めますが、あなたはそれを治めなければなりません」。
彼は怒った時、主にアドバイスされた。怒りを、そして待ち伏せしている罪を、「治めなさい」と。
しかし彼は怒りに身を委ねた。
4:8 カインは弟アベルに言った、「さあ、野原へ行こう」。彼らが野にいたとき、カインは弟アベルに立ちかかって、これを殺した。
4:9 主はカインに言われた、「弟アベルは、どこにいますか」。カインは答えた、「知りません。わたしが弟の番人でしょうか」。
彼は怒りを全能者なる神にさえぶつけた。
怒っている間、ある主の爽快感と全能感に駆られるが、それは神への恐れを忘れさせ、地獄永遠の火への恐れをマヒさせるドラッグである。
4:10 主は言われた、「あなたは何をしたのです。あなたの弟の血の声が土の中からわたしに叫んでいます。
4:11 今あなたはのろわれてこの土地を離れなければなりません。この土地が口をあけて、あなたの手から弟の血を受けたからです。
4:12 あなたが土地を耕しても、土地は、もはやあなたのために実を結びません。あなたは地上の放浪者となるでしょう」。
人から流された血は、神に対して叫ぶ。
カインは具体的に血を流したが、もし、Aという人が怒りによって口汚く罵ったり理不尽な対応をするなら、それをされたBは、Aに対し何も言えないにしても心で血を流し、言葉にならないうめきが主に立ち上って行く。
そしてその「血」が、Aに対して不利な証言をし、地において呪われ、何をしても実を結ばず、放浪者となってしまう呪いが返ってしまう。
カインは、主のあわれみによって生かされ、彼が殺されないようにと、しるしが与えられたが、カインはその主の憐れみによって悔い改めるのではなく、さらに「怒り」「力」を道具とした。それでカインの子孫は、町を建て、鉄の武器を開発し、文化を発達させるという、マフィアのような暴力集団になってしまった様が4章後半に記されている。
しかし、地を受け継ぐのは、柔和な者であり、平和をつくる者は神の子と呼ばれる。
セツの子孫は主の御名を呼び求め、生きながらえたが、カインの子孫は全部、洪水で洗い流され、滅ぼされてしまった。
怒りや憤り、悪を人生を切り開く道具にする者の周りは、その人に対してどう思うのかが、詩篇109篇によく記されている。
109:1 わたしのほめたたえる神よ、もださないでください。
109:2 彼らは悪しき口と欺きの口をあけて、わたしにむかい、偽りの舌をもってわたしに語り、
109:3 恨みの言葉をもってわたしを囲み、ゆえなくわたしを攻めるのです。
109:4 彼らはわが愛にむくいて、わたしを非難します。しかしわたしは彼らのために祈ります。
109:5 彼らは悪をもってわが善に報い、恨みをもってわが愛に報いるのです。
109:6 彼の上に悪しき人を立て、訴える者に彼を訴えさせてください。
109:7 彼がさばかれるとき、彼を罪ある者とし、その祈を罪に変えてください。
109:8 その日を少なくし、その財産をほかの人にとらせ、
109:9 その子らをみなしごにし、その妻をやもめにしてください。
109:10 その子らを放浪者として施しをこわせ、その荒れたすまいから追い出させてください。
109:11 彼が持っているすべての物を債主に奪わせ、その勤労の実をほかの人にかすめさせてください。
109:12 彼にいつくしみを施す者はひとりもなく、またそのみなしごをあわれむ者もなく、
109:13 その子孫を絶えさせ、その名を次の代に消し去ってください。
109:14 その父たちの不義は主のみ前に覚えられ、その母の罪を消し去らないでください。
109:15 それらを常に主のみ前に置き、彼の記憶を地から断ってください。
109:16 これは彼がいつくしみを施すことを思わず、かえって貧しい者、乏しい者を責め、心の痛める者を殺そうとしたからです。
109:17 彼はのろうことを好んだ。のろいを彼に臨ませてください。彼は恵むことを喜ばなかった。恵みを彼から遠ざけてください。
109:18 彼はのろいを衣のように着た。のろいを水のようにその身にしみこませ、油のようにその骨にしみこませてください。
109:19 またそれを自分の着る着物のようにならせ、常に締める帯のようにならせてください。
109:20 これがわたしを非難する者と、わたしに逆らって悪いことを言う者の/主からうける報いとしてください。
ダビデは徹底的に呪っている。本人のみならず、その妻、その子どもたちをも、債権者に追われ、みなしごとなり、子孫が絶えるように、と。
そこまで祈る人はあまりいないであろうが、しかし大体、悪を見の飾りとし「怒り」を不利な条件を打開する道具としている人の周りの人は、これに似たり寄ったりの事を心に描くものである。
もしAという怒る人が10人にいつも怒りをぶちまけているなら、その10人は、Aを祝福するだろうか。むしろ、これに似た呪いをAに対して向けるのではなかろうか。
それは主に届かないだろうか。
こう考えるなら、いかに、怒りを人生の道具としている人が呪われてしまうのか、また、その子孫がいかに呪われてしまうかが分かる。
私達は、柔和を道具とするべきである。
どうしようもなく愚かで、人を怒らせ、諭さなくてはならない人に対しては、パウロは言っている。
2テモテ2:23 愚かで無知な論議をやめなさい。それは、あなたが知っているとおり、ただ争いに終るだけである。
2:24 主の僕たる者は争ってはならない。だれに対しても親切であって、よく教え、よく忍び、
2:25 反対する者を柔和な心で教え導くべきである。おそらく神は、彼らに悔改めの心を与えて、真理を知らせ、
2:26 一度は悪魔に捕えられてその欲するままになっていても、目ざめて彼のわなからのがれさせて下さるであろう。
また、怒り狂って槍を向けてくるサウルに平和な素晴らしい対応をして、王を受け継いだダビデは言っている。
37:1 悪をなす者のゆえに、心を悩ますな。不義を行う者のゆえに、ねたみを起すな。
37:2 彼らはやがて草のように衰え、青菜のようにしおれるからである。
37:3 主に信頼して善を行え。そうすればあなたはこの国に住んで、安きを得る。
37:4 主によって喜びをなせ。主はあなたの心の願いをかなえられる。
37:5 あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ、主はそれをなしとげ、
37:6 あなたの義を光のように明らかにし、あなたの正しいことを真昼のように明らかにされる。
37:7 主の前にもだし、耐え忍びて主を待ち望め。おのが道を歩んで栄える者のゆえに、悪いはかりごとを遂げる人のゆえに、心を悩ますな。
37:8 怒りをやめ、憤りを捨てよ。心を悩ますな、これはただ悪を行うに至るのみだ。
37:9 悪を行う者は断ち滅ぼされ、主を待ち望む者は国を継ぐからである。
37:10 悪しき者はただしばらくで、うせ去る。あなたは彼の所をつぶさに尋ねても彼はいない。
37:11 しかし柔和な者は国を継ぎ、豊かな繁栄をたのしむことができる。
神の民の系図に入れられるかどうかの鍵(1歴代誌5:1-26)
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5章はルベン、ガド、マナセの半部族の系図が記されている。
系図と言っても、必ずしも長男、次男の順ではないし、先祖とのつながりが不明なものも多い。
マタイ福音書1章の系図でもそうだが、神の民の系図は、先祖がどのような血筋であるかどうか、長男・次男の順序はどうであるかより、むしろその本人自身が「主の御前に正しく歩む」事が重要であり、そうでないなら、系図から容赦なく除外されてしまうし、また、そうであるなら、いかに先祖とのつながりが不明であろうと、系図に載せられるのである。
以下の御言葉がそれを証明している。
5:1 イスラエルの長子ルベンの子らは次のとおりである。――ルベンは長子であったが父の床を汚したので、長子の権はイスラエルの子ヨセフの子らに与えられた。それで長子の権による系図にしるされていない。
5:2 またユダは兄弟たちにまさる者となり、その中から君たる者がでたが長子の権はヨセフのものとなったのである。――
ルベンは血筋的には長男であるが、その長子の権は奪われ、歴代誌の系図も、わずか10節にも満たない。それはルベンが御前に悪を行い、親を汚すような事をしたからだ。
かといって、父が祝福したヨセフの子ら(エフライム、マナセ)が実際的に祝福されたかというと、そうでもない。
結局のところ、兄弟達の長となり王達が生まれたのは、ユダ族だった。
聖書では、長男が衰え、末っ子が栄える、というパターンが多いが、だからといって、長男は宿命的に祝福を受けられない、とは限らないし、末っ子なら自動的に祝福されるわけでもない。
かといって、父が特別えこひいきして祝福した子が必ずしも祝福されるとも限らない。
結局のところ、その人が実際に祝福されるかどうかは、神の民としてどのような信仰で歩み、どのような行いを積み重ねて行くかによりけりなのだ。
5:11 ガドの子孫はこれと相対してバシャンの地に住み、サルカまで及んでいた。
5:12 そのかしらはヨエル、次はシャパム、ヤアナイ、シャパテで、ともにバシャンに住んだ。
ここに出てくる系図は、創世記や民数記のガドの息子たちとはつながらず、むしろ彼らの居住地や有力者たちの情報について記されている。
血筋的な順序や前後関係が重要なのではなく、主の御前に正しく歩んで祝福されたかどうかが、系図に記載される上で重要であるからだ。
5:18 ルベンびとと、ガドびとと、マナセの半部族には出て戦いうる者四万四千七百六十人あり、皆勇士で、盾とつるぎをとり、弓をひき、戦いに巧みな人々であった。
5:19 彼らはハガルびとおよびエトル、ネフシ、ノダブなどと戦ったが、
5:20 助けを得てこれを攻めたので、ハガルびとおよびこれとともにいた者は皆、彼らの手にわたされた。これは彼らが戦いにあたって神に呼ばわり、神に寄り頼んだので神はその願いを聞かれたからである。
5:21 彼らはその家畜を奪い取ったが、らくだ五万、羊二十五万、ろば二千あり、また人は十万人あった。
5:22 これはその戦いが神によったので、多くの者が殺されて倒れたからである。そして彼らは捕え移される時まで、これに代ってその所に住んだ。
ここに、ルベン・ガド・マナセの半部族が信仰をもって戦いを仕掛け、勝利した記述が挿入されている。
彼らはこの時、「戦いにあたって神に呼ばわり、神に寄り頼んだので神はその願いを聞かれた」と、わざわざ記している所に、神の民の歩むべき道筋を歴代誌の記者の意図を伺う事ができる。
5:23 マナセの半部族の人々はこの地に住み、ふえ広がって、ついにバシャンからバアル・ヘルモン、セニルおよびヘルモン山にまで及んだ。
5:24 その氏族の長たちは次のとおりである。すなわち、エペル、イシ、エリエル、アズリエル、エレミヤ、ホダヤ、ヤデエル。これらは皆その氏族の長で名高い大勇士であった。
マナセの半部族の系図も、むしろ氏族の長達についての記述である。
しかし、次に記されている通り、いかに先祖たちが素晴らしい事を行ったとしても、子孫が主に悪である事を行うなら、それらを台無しにしてしまう。
5:25 彼らは先祖たちの神にむかって罪を犯し、神が、かつて彼らの前から滅ぼされた国の民の神々を慕って、これと姦淫したので、
5:26 イスラエルの神は、アッスリヤの王プルの心を奮い起し、またアッスリヤの王テルガテ・ピルネセルの心を奮い起されたので、彼はついにルベンびとと、ガドびとと、マナセの半部族を捕えて行き、ハウラとハボルとハラとゴザン川のほとりに移して今日に至っている。
結局、この章に記されていたルベン、ガド、マナセの半部族は、アッシリアに捕らえ移されてしまった。
今日に至っている、とは、何も歴代誌の時代に限らない。21世紀の現代でも、彼らがどこにいるのか、未だわかっていない。
箴言13:13 み言葉を軽んじる者は滅ぼされ、戒めを重んじる者は報いを得る。
ヨハネ 1:12 しかし、彼を受けいれた者、すなわち、その名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えたのである。
1:13 それらの人は、血すじによらず、肉の欲によらず、また、人の欲にもよらず、ただ神によって生れたのである。
主を恐れ敬い、みことばを守り行うかどうかが、結局、神の民の系図に入れられるかどうかの鍵となるのだ。
シメオン族の系図 - 御声を聞く人の幸いと、欲望の声に聞く人の災い(1歴代誌4:24-43)
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- pastor 2017-7-31 7:04
シメオン族の系図 - 御声を聞く人の幸いと、欲望の声に聞く人の災い(1歴代誌4:24-43)
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今まではユダ族の系図だったが、今回の箇所から、他の部族の系図に入るが、これら部族の系図は、バビロン捕囚後に残ったユダ族やレビ族ほど詳細には記されない。
その中で真っ先に記されたのは、シメオン族の系図であった。
4:24 シメオンの子らはネムエル、ヤミン、ヤリブ、ゼラ、シャウル。
シメオンの名の意味は「聞く(シェマー)」、申命記でよく言われている「シェマー・イスラエル(聞けイスラエル)」の、シェマーである。
彼の母レアが彼を産んだ時、「主はわたしが嫌われるのをお聞きになって、わたしにこの子をも賜わった」と言って、つけた名である。
4:27 シメイには男の子十六人、女の子六人あったが、その兄弟たちには多くの子はなかった。またその氏族の者はすべてユダの子孫ほどにはふえなかった。
4:28 彼らの住んだ所はベエルシバ、モラダ、ハザル・シュアル、
4:29 ビルハ、エゼム、トラデ、
4:30 ベトエル、ホルマ、チクラグ、
4:31 ベテ・マルカボテ、ハザル・スシム、ベテ・ビリ、およびシャライムである。これらはダビデの世に至るまで彼らの町であった。
シメオンは、旧約聖書の中ではあまりぱっとしない部族である。
シメオンは色々な地方に散って、ユダ族ほどには増えなかった事が記されているが、この事は、実は彼の父ヤコブによって預言されていた。
族長時代、シメオンとレビは、シェケムの男に妹ディナが汚された事の復讐のために”割礼”という主の聖なる契約を利用して、シェケムの男たちを欺き、彼らが割礼を受けて弱っている時に、男達を皆殺しにし、女子供や家畜を分捕るという蛮行を行った。(創世記34章)
それ故ヤコブは、彼らのその激しい怒りを呪い、その言葉の通りにシメオン族はユダ族の中へと”散らされる”形となってしまった。
『シメオンとレビとは兄弟。彼らのつるぎは暴虐の武器。わが魂よ、彼らの会議に臨むな。わが栄えよ、彼らのつどいに連なるな。彼らは怒りに任せて人を殺し、/ほしいままに雄牛の足の筋を切った。彼らの怒りは、激しいゆえにのろわれ、/彼らの憤りは、はなはだしいゆえにのろわれる。わたしは彼らをヤコブのうちに分け、イスラエルのうちに散らそう。』(創世記49:5-7)
また、エジプトを出た荒野にて、イスラエルが異邦の女達とみだらな事をしだした時、主の罰を受け、皆が自分達の中から悪を取り除こうと悲しみながら悔い改めの集会をしている真っ最中、彼らの目の前で、シメオン族の長の男が、異邦の女を自分の天幕に連れ込む事をした。(民数記25章)
それを見たレビの子孫・祭司ピネハスが、その男女の腹を槍で一突きにして殺し、主の怒りを自分の怒りとしてあらわしたため、イスラエルへの疫病が止んだが、シメオン族の長が、このような事を平気でしていた、という事は、一族もろとも、それに同意するような霊的状況であったのだろう。
事実、シメオン族は、荒野の40年で、イスラエル12部族中最も減少率の激しい一族であった。
4:34 メショバブ、ヤムレク、アマジヤの子ヨシャ、
4:35 ヨエル、アシエルのひこ、セラヤの孫、ヨシビアの子エヒウ。
4:36 エリオエナイ、ヤコバ、エショハヤ、アサヤ、アデエル、エシミエル、ベナヤ、
4:37 およびシピの子ジザ。シピはアロンの子、アロンはエダヤの子、エダヤはシムリの子、シムリはシマヤの子である。
4:38 ここに名をあげた者どもはその氏族の長であって、それらの氏族は大いにふえ広がった。
この名前を連ねた人達は、シメオン族であるものの、主流の系図との関わりは不明である。
しかし、ここに名を連ねた理由は、彼らが信仰をもってカナンの地を占領して行ったためだ。
4:39 彼らは群れのために牧場を求めてゲドルの入口に行き、谷の東の方まで進み、
4:40 ついに豊かな良い牧場を見いだした。その地は広く穏やかで、安らかであった。その地の前の住民はハムびとであったからである。
4:41 これらの名をしるした者どもはユダの王ヒゼキヤの世に行って、彼らの天幕と、そこにいたメウニびとを撃ち破り、彼らをことごとく滅ぼして今日に至っている。そこには、群れのための牧場があったので、彼らはそこに住んだ。
4:42 またシメオンびとのうちの五百人はイシの子らペラテヤ、ネアリヤ、レパヤ、ウジエルをかしらとしてセイル山に行き、
4:43 アマレクびとで、のがれて残っていた者を撃ち滅ぼして、今日までそこに住んでいる。
シメオン族の中にも、それぞれの役割を正統に果たそうとする人達がおり、そしてその通り実行した結果、彼らは「今日まで」そこに住むという幸いを得ている。
今日まで、とは、歴代誌が記された時代、エズラの時代まで、という事だ。
シメオン族は、モーセの祝福からも除外されてしまう程の、どうしようもない部族だったが、新約では、シメオンの名を持つ人には良い人物が多い。
イエス様の十二弟子の筆頭であるシモンは、ヘブライ語読みはシメオンである。
また、イエス様が誕生した時、正しく信仰深いシメオンという人が、幼子イエス様を抱き、イエス様とその両親について、将来を預言し、祝福した。(ルカ2:25-35)
彼は、イスラエルが慰められるのを待ち望んでいた敬虔な人で、聖霊の言う事を聞く事が出来、救い主に会うまでは死ぬことはない、という、聖霊の示しを受けていた。
また、イエス様の受難の時、イエス様の十字架を一緒に背負ったのも、クレネ人シモン(シメオン)であった。
シメオン、その名の意味は「聞く」であった。
聞く姿勢があるシメオンには、イエス様の誕生にも、イエス様の働きの時にも、イエス様の十字架の時にも、そこに同席する恵みに与る事が出来、そして、黙示録においては、新しくされたイスラエル12部族の一つとして、共に栄誉に与る事が出来るのである。
主の御声に聞くのでなく、怒りという声、性的欲望という声に聞いた結果、呪われ、減らされ、モーセの祝福からも除外されてしまった事で、シメオン族はあわてた事だろう。
しかし、いかにモーセの祝福から除外されたとしても、悔い改めて、主に立ち返り、主に聞く姿勢へと帰るなら、再び恵みに与ることが出来るのだ。
「量」の信仰から「質」の信仰へ転換するために(ヘブル11:24-29)
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週報/メッセージ(説教)概要
先週はコーエン大学日本ラーニングセンターの学びの週であった。「大学の講義」であるのに、参加された方々は皆、喜びに溢れ、癒され、解放された。諸々の攻撃もあったが講義には何の影響も無く、むしろ私達はサタンが嫌がる事をしているのだ、しかしサタンは、キリストにある私達には何ら手出しが出来ず、むしろ、このコーエンの学びはますます日本に必要であり、それがもたらす祝福は大きいと再認識させられた。
イエス様を信じ、救われた事には、大きな喜びがある。そして救われた時以降、信仰生活が始まるのだが、この地上で信仰生活をして行く時、喜びだけとは限らず、イエス様を信じている故の様々な困難や迫害など忍耐や苦しみもあるが、その向こうには、計り知れない報いと栄光があるのだという事を今日学びたい。
ヘブル11章には信仰の偉人達が名を連ねている箇所であるが、モーセは少し特別である。
モーセは、80歳の時に主からの召命を受け、イスラエルをエジプトの奴隷生活から解放し、神が約束された土地に至るまで荒野の中を導き、荒野の中では神と人との間で契約を結び、神が人の側に要求された基準・「律法」が授けられた。彼はユダヤ人として生まれたが、40歳まで、エジプトの王子として育てられた。
しかし『信仰によって、モーセは、成人(μέγας)した時、パロの娘の子と言われることを拒み』(ヘブル11:24)
ここで「成人」と訳されたギリシア語「μέγας(メガス)」は「大きい、巨大な」の意味があり、そして数字の百万の意味もある。だからここは、「信仰によってモーセは100万倍に成長した時・・・」とも訳せる。
最近、スマホやパソコンの普及でメガやテラというギリシア語数字単位もよく耳にするが、いずれも聖書に登場する言葉で、メガ(百万)は人間が数えられるぎりぎりの数字であるが、テラス(τέρας 1兆)は一生をかけても数え切れない、という事で、どうにも説明がつかない異常な、途方もない、驚異の出来事を意味する。
人の信仰は、成長するが、限界がある。その限界がメガスであり、それ以上のテラスは、神の領域、神のみが可能な奇跡である。「あなた方は、しるしと奇跡(τέρας)とを見ない限り、決して信じない」(ヨハネ4:48)
モーセは「信仰によって」100万倍の成長をした故、彼は神に用いられる器として、神に目を留められた。
「信仰(behid)」とは「連合(be)し」「バンドする(hid)」事が元来の意味であり、私達・人間の側が、神様に対し、そして御言葉に対して為すべき分である。また、信仰をあらわすヘブライ語「エムナー」は「上昇する」という概念があり、エムナーの動詞「アーメン」には「サポートする、確認する、忠実である」の意味もある。
人の信仰は、神の元へと登って行く。その時、恵みが天から降りてきて、二つが出会う時、奇跡が起きる。
ツロの女は、イエス様から小犬と呼ばれても「その通りです(アーメン)、しかし小犬でもパン屑には与ります」と言った故、イエス様から「メガス」の信仰だと褒められ、娘の癒しという「奇跡(テラス)」を引き出した。
イエス様を信じる信仰は、最初は「ご利益信仰」かもしれない。神様は**してくれるから、信じます、と。
しかしそのままでは、信仰ゆえの困難や迫害が起きると、手のひらを返したように信仰を捨てかねない。そこで、信仰の「質」が変わる必要がある。たとえ困難や迫害があったとしても忍耐し、信仰を捨てないように。
モーセは、『罪のはかない歓楽にふけるよりは、むしろ神の民と共に虐待されることを選び、キリストの故に受けるそしりを、エジプトの宝にまさる富と「考えた(ἡγέομαι:ヘゲノマイ: 支配する、導く、判断する)」。それは、彼が報いを望み見ていたからである。』(ヘブル11:25-26) まさに質が変えられた信仰である。
そのような信仰を主は喜び、用いられる。どうすれば私達も、そのような質の変えられた信仰を持てるだろう。
それは第一に、モーセのように、罪のはかない歓楽よりも、キリストの故に受けるそしりのほうが、世の宝にまさる富であると判断(ヘゲノマイ)し、自ら支配し、導くのである。第二に、「報いを望み見る」事である。
信仰の行いには、必ず主が報いて下さる、と信じているだろうか。信仰でも、世の仕事でも、報われるという望みを持たない人は、本当は嫌だけど怒られるのも嫌だから仕方なしにする、という、非常に「楽しくない」生き方をしている。永遠にしぼまない、世の宝にまさる富が手に入る事を望みつつ、歩むべきである。
主は、種まきのたとえの中で言っている。『良い地に落ちたのは、御言を聞いたのち、これを正しい良い心でしっかりと守り、耐え忍んで実を結ぶに至る人たちのことである。』(ルカ8:15) すなわち、御言葉を受けたなら、それを正しい良い心で、しっかり守り、耐え忍ぶ事である。100倍の実りに預かれる人は、聞いて、すぐに従順する人である。忍耐とは悲痛な顔をして我慢する事ではなく、目の前にその希望を楽しく望み見て、それを目指して歩むものである。この喜びに満ちた信仰生活を送って行く皆さんでありますように!
祝福の法則を体得しているユダヤ人の秘訣(ネヘミヤ8:5-6)
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週報/メッセージ(説教)概要
今週はコーエン日本ラーニングセンターの学びが行われる。それに先立ち、本日はヘブライ思考はいかに確立して行ったのか、またユダヤ人は主に対し、御言葉に対し、いかに本気で取り組むようになったのか、そして、ユダヤ民族はなぜニ千年の離散を経ても一つになる事が出来たのか。その秘訣をを学びたい。
『エズラは全ての民の前にその書を開いた。彼は全ての民よりも高い所にいたからである。彼が書を開くと、すべての民は起立した。エズラは大いなる神、主をほめ、民は皆その手をあげて、「アァメン、アァメン」と言って答え、こうべをたれ、地にひれ伏して主を拝した。』(ネヘミヤ8:5-6) この節に秘訣が隠されている。
エズラ(עזרה :エホバが助ける)は、大祭司アロンの16代子孫の大祭司で、『モーセの律法に「精通した学者(「ソヘルマヘル סופר מהיר:巧みな書記(詩45:1)」』(エズラ7:6)であった。マヘル(書記官)は、聖書を全部丸暗記している。彼は頭に聖書を全部入れていたため、それを起こし、神学校をつくった。
バビロン捕囚から帰還した民は、神の言葉の書をエズラが開いた時、第一に「起立」した。起立という行動は、相手(開かれた御言葉)に対し尊敬を表す行為である。起立は少々の体力を使う行動だが、御言葉を「聞く」においても「朗読する」においても、「反応する」においても、「身体を使う」のが、ユダヤ式である。
御言葉は主イエス様ご自身であり、その御方に敬意を表すなら、相応の祝福と恵みを頂く事が出来る。
身体を使う2つ目の礼拝行為は、御言葉や賛美に対して「手を挙げ」「アーメンする」事である。アーメンאמן とは「それは真実です、真理です」「信じます」「そのようになりますように!」という同意の表明である。
キリスト教では口でアーメンを唱えるが、ユダヤでは起立し、両手を上げ「アーメン、アーメン」と同意する。
それによって口と耳が開き、心が開き、そして天が開いて、同席している人にも聖霊の働きが移って行く。
3番目の身体を使った行動は、ひれ伏す行為である。具体的には、正座したままひれ伏し、手の指先から腰まで真っ直ぐの姿勢で、膝の間に顔をうずめる。完全なる主に対する服従の姿勢である。
こうして彼らは「主を誉めたたえ」「手を揚げてアーメン、アーメン」し、そして「地に平伏して主を誉めたたえた」。ユダヤ人はこのように、主ご自身であられる御言葉に対し、身体全体を用いて敬意を表す事によって、御言葉なる主が、脳に、身体に、そして魂に、霊に刻み込まれ、霊魂体の全てが活性化されるのだ。
彼らがエズラの御言葉を学んで分かったのは、自分達は御言葉教育を受けておらず、御言葉を知らない、御言葉を守り行わなかった、それでこうなったのだ、と。そこで彼らは、神の言語・ヘブライ語の御言葉を子々孫々へ伝授し、体質化しようとして始めたのが、ヘブライ語の御言葉暗唱(テフィリン)教育である。
人は何か事が起きた時、それに対する考えや解釈、とっさに出る反応や対処は、幼児体験や記憶、刻まれて来た言葉に基づく。もしその人の記憶が、否定的・消極的な「ことば」で満たされていたなら、事が起きた時、消極的・否定的な考えや反応しか出ない。しかしもし、その人の中が、超・積極的な、いのちに溢れた神の言葉で満たされていたら、どうだろう。ユダヤ人は、母の胎にいる時からその教育を受けて来たのだ。
私達異邦人は、元々御言葉がない環境に生まれ、何が神に喜ばれ、創造者の御胸にかなった生き方は何か、成功法則も失敗法則も何も知らずに育った。ほしいままに御言葉に反した生き方をしようとしては呪われ、傷つき、わけも分からず、ぶつかりながら生きて来たが、そんな私達でも、御言葉暗唱して、心と記憶と唇を「御言葉」で満たすなら、主に喜ばれる、いのちの溢れた生き方が体質化されて行くわけである。
私達は意思をもって自分なりに考え、判断し、評価する。しかし世界は御言葉によって創造され、万物は御言葉法則によって成り立っている。ヘレニズム思考(ギリシア思考)に毒された私達異邦人は、その御言葉さえ評価・判断・批判の対象にしてしまうが、ユダヤ人は、その万物の法則たる御言葉が思考の根幹にあり、御言葉を通して、物事を判断し、対処し、行動するのだから、異邦人は彼らにかなうはずがないのだ。
ユダヤ人は御言葉暗唱と、子供への徹底した伝授ゆえに、世界のどこに散らされても成功し、そして2千年もの離散を経ても信仰と民族は根強く存続した。それに対しキリスト教は、伝道は熱心にしても、子供への御言葉伝授をしてこなかった故に、全世界各地で信仰復興が起きては消え、起きては消えを繰り返した。 世界5大宗教は、キリスト教以外、暗唱している。ユダヤ教、イスラム教、ヒンズー教、仏教、これらには、いのちは無いが、暗唱する故に存続している。しかし、キリスト教だけは暗唱しない故に、ただ栄枯盛衰を繰り返すだけだった。今、私達も、使徒時代に生きていたヘブライ思考に戻り、御言葉暗唱をすべき時だ。





