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ルカによる福音書 講解説教メッセージ
敵に良くしてあげる事の多大なメリット(ルカ6:27-38)
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サルスベリならぬ「悪魔サタンすべり」になる方法(イザヤ59:12-21)
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イザヤ書59章は主語が明確に分かれている。
1−4節の主語は「あなたがた」、5-8節は「彼ら」9-15節は「私たち」、16-21節は「主」である。

なぜ、人には悲惨な事が起きるのか。そして、どうして祈っても主に聞かれないのか。
なぜ祈っても、癒やされず、必要は満たされず、悪霊は離れて行かないのか。
それは次のように書いてある通りである。
 59:1 見よ、主の手が短くて、救い得ないのではない。その耳が鈍くて聞き得ないのでもない。
 59:2 ただ、あなたがたの不義が/あなたがたと、あなたがたの神との間を隔てたのだ。またあなたがたの罪が/主の顔をおおったために、お聞きにならないのだ。

5-8節の「彼ら」はまさにサタンの申し子のような、邪悪な行いをしてなんの呵責も無いような者達であるが、そんな彼らによって被害に遭い、苦しみ、災いばかりを被っている人は、いかにして、主の救いを受けられるのか。
それはずばり、自分の罪を認める事である。

 59:12 われわれのとがは、あなたの前に多く、罪は、われわれを訴えて、あかしをなし、とがは、われわれと共にあり、不義は、われわれがこれを知る。

この、12節の言葉が、57章から続く主の叱責が、60章以降の主の憐れみと祝福へと転換点するターニングポイントとなる。
主の叱責から、主の憐れみと祝福になるターニングポイントとなる鍵は、自分の罪を認める事である。

日本語の聖書に「ごめんなさい」という言葉が一切出てこない事をご存知だろうか。
こんなにも日本語としてはメジャーな言葉は、どうして、存在しないのか。

聖書で「ごめんなさい」に相当する言葉は、「わたしは**の罪を犯しました」である。
ごめんなさいの漢字は「御免なさい」、すなわち、非礼をしてしまった自分を「免じ」る事を求める言葉である。
つまり、ごめんなさい、という言葉には、自分が犯した非を言い表す所がないし、また、非を改める意思表示も、この言葉の中に含まれていない。
「申し訳ございません」も、「言い訳のしようがない」や「弁解の余地もない」という意味で、あり、「すみません」、も、相手に非礼をしてしまった自分の気持ちが、このままでは「済まない」の意味で、自分が罪を犯したというニュアンスが抜けている。
もしかすると、「ごめんなさい」「申し訳ない」「すみません」という言葉が、日本に救いが中々もたらされない事に、大いに役立っているかもしれない。

 59:9 それゆえ、公平は遠くわれわれを離れ、正義はわれわれに追いつかない。われわれは光を望んでも、暗きを見、輝きを望んでも、やみを行く。
 59:10 われわれは盲人のように、かきを手さぐりゆき、目のない者のように手さぐりゆき、真昼でも、たそがれのようにつまずき、強壮な者の中にあっても死人のようだ。
 59:11 われわれは皆くまのようにほえ、はとのようにいたくうめき、公平を望んでも、きたらず、救を望んでも、遠くわれわれを離れ去る。

この、9節から11節は、日本の文学では多々見られる。自己憐憫、悲しい悲しいの演歌の世界である。ここにとどまっている人は多く、そして12節に至る人は少ない。
それに対し、12節から15節は、自分の罪の告白であり、これこそが、主の助けが開かれるコツである。

 59:12 われわれのとがは、あなたの前に多く、罪は、われわれを訴えて、あかしをなし、とがは、われわれと共にあり、不義は、われわれがこれを知る。
 59:13 われわれは、そむいて主をいなみ、退いて、われわれの神に従わず、しえたげと、そむきとを語り、偽りの言葉を心にはらんで、それを言いあらわす。
 59:14 公平はうしろに退けられ、正義ははるかに立つ。それは、真実は広場に倒れ、正直は、はいることができないからである。
 59:15 真実は欠けてなく、悪を離れる者はかすめ奪われる。主はこれを見て、公平がなかったことを喜ばれなかった。

ここでは、かなり具体的に、自分の罪を告白している。これこそ、16節以降の主の助けを得る手段であり、ひいては60章以降の祝福を得るコツである。
実に、悪霊や呪いが留まり続けてもらうためのコツは、自分の罪を言い表さない事である。

 59:16 主は人のないのを見られ、仲に立つ者のないのをあやしまれた。それゆえ、ご自分のかいなをもって、勝利を得、その義をもって、おのれをささえられた。
 59:17 主は義を胸当としてまとい、救のかぶとをその頭にいただき、報復の衣をまとって着物とし、熱心を外套として身を包まれた。

主が義の胸当てをまとい、救いのかぶとをかぶって、戦って下さる。
この武具はエペソ6章にも登場するが、エペソ6章は信仰において成熟し、悪しきものと戦う事の出来る人が、身につけて戦うものであるのに対し、ここでは、そのような「人」がいない故に、主みずからが、「自分の罪を告白した人」のために立ち上がり、戦ってくださる事がしるされている。
エペソ6章には登場しない「報復の衣」「熱心の(ねたみの)外套」は、ただ主が身に付けるものであって、人が主を差し置いてまとったりしてはならないものである。

 59:18 主は彼らの行いにしたがって報いをなし、あだにむかって怒り、敵にむかって報いをなし、海沿いの国々にむかって報いをされる。

主は彼らに報復をされるが、ここの「彼ら」とは、5-8節の「彼ら」である。
 59:5 彼らはまむしの卵をかえし、くもの巣を織る。その卵を食べる者は死ぬ。卵が踏まれると破れて毒蛇を出す。
 59:6 その織る物は着物とならない。その造る物をもって身をおおうことができない。彼のわざは不義のわざであり、彼らの手には暴虐の行いがある。
 59:7 彼らの足は悪に走り、罪のない血を流すことに速い。彼らの思いは不義の思いであり、荒廃と滅亡とがその道にある。
 59:8 彼らは平和の道を知らず、その行く道には公平がない。彼らはその道を曲げた。すべてこれを歩む者は平和を知らない。

主は、このような事を好き好んでする「彼ら」に、報復をされる。
それも、自分の罪を、告白した人達を救うためにである。自分の罪を告白しない人に対しては、いつまでも「彼ら」から好き放題に蹂躙されたままである。

 59:19 こうして、人々は西の方から主の名を恐れ、日の出る方からその栄光を恐れる。主は、せき止めた川を、そのいぶきで押し流すように、こられるからである。

まことに、日出る国に主の栄光があらわれるためには、「ごめんなさい」「すみません」「申し訳ない」の領域を出て、自分の罪を言い表す必要がある。
その時、主のいぶきが吹き荒れて、たちまし主の栄光がこの東の国、日出る国を覆うだろう。

 59:20 主は言われる、「主は、あがなう者としてシオンにきたり、ヤコブのうちの、とがを離れる者に至る」と。

ここで、重要な事が示されている。
主が「あがなう者」として現れてくださるのは、「とがを離れる者に」対してである。

つまり、罪を言い表したなら、次に、自分の「とが」を「離れる(シュブ:返る、リターン、離れる)」事である。
それをするなら、主が暁のように現れてくださり、悪魔の申し子のような「彼ら」に報復し、60章以降のすばらしい祝福へと入って行けるのである。

自分の罪を言い表す事。そして、それを改める事。
これこそ、神と人との間の隔てとなっている壁を取り除く、唯一の方法である。

自分の中に住み着いている悪霊を追いだそうとする人が「イエス様の名前によって、悪霊よ、出て行け」と何度言っても出て行かない場合は、自分が習慣的に抱え持っている罪を主の御前に告白しているか、そしてそこから1ミリでも離れようという努力をしているかを今一度チェックする必要がある。
いつまでも自分の罪を手放さず、罪の自分と仲良くし、そこから離れないままでいるなら、悪魔サタンに握られてしまう「とっかかり」を与えてしまっているようなものである。
しかし、罪を言い表し、それを改めようと努力するなら、悪魔サタンがその人をつかむ「とっかかり」を失う。
ちょうど、サルスベリの木は猿がつかめるようなとっかかりが無くてすべり落ちてしまうのと同じように。
だから、「イエス様の名前によって、悪霊よ、出て行け」と何百回言うよりも、むしろ、自分の罪を明確に告白し、そこから離れる努力をして、「悪魔サタンすべり」になるべきである。
自分の罪を明確に告白し、そこから離れる努力をするなら、主が働いて、主が悪魔サタンに報復する機会を得るからだ。
 

歴代誌概要(1歴代誌1:1-4)
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講解説教は本日より歴代誌に入る。

歴代誌は、預言者の言行録や、王たちの書、また、諸々の注解など、多くの資料を基にしているが、誰がこれをまとめ、記したかを示す箇所は無い。
ユダヤ人の伝承では、著者をエズラとしている。
歴代誌の内容は、そのままエズラ記に続けるなら内容的に非常にマッチするし、そして、歴代誌の内容は、バビロン捕囚後の諸々の危機に際し、エズラがイスラエルの民を鼓舞した精神と、非常によく一致している。

バビロン捕囚後のイスラエルには、周辺諸国の圧迫という危機があったため、イスラエルのアイデンティティを鼓舞する必要があったし、長らくバビロンにいたために神殿礼拝が軽んじられてしまっている現状に対し、礼拝の復興を鼓舞する必要があったし、また、異邦人との結婚・血筋の混濁がはびこりつつあり、せっかく主がバビロンから開放して新しい歩みだしをして行こうとしていたというのに、またしても捕囚前の堕落した時代に逆戻りしようとしていたため、捕囚前の堕落した王達がいかなる道を辿ったかを示す必要があった。

歴代誌は、まさに捕囚後のイスラエルの民が生きるべきエッセンスが詰まっている。

第一歴代誌1章から9章までは、アダム以来の系図が記されており、イスラエルのアイデンティティはどこにあるのかをまさに示している。
10章から第一歴代誌の終わりまでの所には、神殿がいかに荘厳に造られたかが記されており、神殿こそがイスラエルのアイデンティティである事を強調している。
また、第二歴代誌には、この神殿を、すなわち礼拝を軽んじた王がいかに呪われ、尊んだ王がいかに祝福されたか、その歴史が記されている。

系図はファミリーツリーであるが、歴代誌において幹となっている部族は、レビ族とユダ族である。
それは、バビロン捕囚から帰還しイスラエルに定住しに来た部族がそれだからだ。

10章から第二歴代誌に至るまでは、特にダビデとソロモンの、神殿建設に関わった事が記されている。
サムエル記におけるダビデは、サウルとの葛藤や苦悩、またバテ・シェバとの罪など、人間味溢れる所が豊かに記されているが、歴代誌におけるダビデはむしろ神殿建設のために努力したダビデが記されている。
彼がいかに神殿建設の準備をし、いかに礼拝組織や聖歌隊を編成したか、また、彼の子ソロモンがいかに神殿建設をしたか、列王記には無い詳細な内容が記されている。
そして第二歴代誌は、ソロモン以降の王達の歩みが記されているが、ここで繰り返し強調されている事は、神を畏れ神殿を重んじた王たちは祝福され、それを軽んじた王達は呪われている事である。
まさに、バビロン捕囚後の人々に必要な警告と養いが、歴代誌の中にある。

歴代誌はヘブライ語ではディブレー・ハッヤーミーム、「日々の出来事」の意味である。
ユダヤ教の聖書(タナク、私達が言う旧約聖書)は、トーラー(モーセ五書)、ネビイーム(預言者)、ケトゥビーム(諸書)に分かれており、歴代誌はケトゥビーム(諸書)の最後に位置する。すなわち、ユダヤ人の聖書では、一番最後の書である。
列王記はネビイーム(預言者)の中に入っており、ヨシュア記や士師記などの歴史と、イザヤやエレミヤなどの預言書と同じカテゴリにある。
それに対し、歴代誌は、ケトゥビーム(諸書)、すなわち詩篇や箴言、伝道書など、神様との関係の中で生まれた文学類と同じカテゴリの中にある。

歴代誌、それはユダヤ人の「日々の出来事」であり、私達にとっても「日々の出来事」である。

内容としては、ユダヤ人の系図や神殿、王達の歴史と、私達異邦人には全く関係のないものであるかのように見えがちだが、決してそんな事はない。
なぜなら系図は私達の先祖アダムに始まり、また信仰者の先祖・アブラハム以降の系図は、まさに私達の系図であるからだ。
そして私達が、現代のまことの神殿であるキリストを、いかなる態度で礼拝するべきか、彼を敬うものはいかに祝福され、また軽んじるものはいかに呪われるか、それはそのまま私達に当てはまる事だからである。

歴代誌は、私達と、神様との関係を根底に置きながら、読み進めて行くべきである。
読み進めるにつれて、私達が歩むべき日々の姿を学んでいきたい。

頑なで悔いない心がもたらしてしまう災いと滅び(2列王記25:22-30)
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いよいよ第二列王記の最後である。
第二列王記は、主に従う良い王の時代もあったが、大部分は、主に従わない悪い王の時代だった。
主は何度も預言者を遣わし、主に立ち返るよう警告して来たのもかかわらず、それを軽んじ、主に聞き従わない事を続けた結果、バビロンが攻めてきて、なお改めなかった結果、エルサレムは城壁も神殿も徹底的に破壊され、ほとんどの主だった人々は足かせに繋がれてバビロンへ引かれて行ってしまった。

25:22 さてバビロンの王ネブカデネザルはユダの地に残してとどまらせた民の上に、シャパンの子アヒカムの子であるゲダリヤを立てて総督とした。
25:23 時に軍勢の長たちおよびその部下の人々は、バビロンの王がゲダリヤを総督としたことを聞いて、ミヅパにいるゲダリヤのもとにきた。すなわちネタニヤの子イシマエル、カレヤの子ヨハナン、ネトパびとタンホメテの子セラヤ、マアカびとの子ヤザニヤおよびその部下の人々がゲダリヤのもとにきた。
25:24 ゲダリヤは彼らとその部下の人々に誓って言った、「あなたがたはカルデヤびとのしもべとなることを恐れてはならない。この地に住んで、バビロンの王に仕えなさい。そうすればあなたがたは幸福を得るでしょう」。

エルサレムには、取るに足りないと見られている貧しい人達が残ったが、バビロンの王が総督として立てたケダルヤの元、その残されたわずかな人々の間に、ささやかな平安な時が訪れた事が、エレミヤ40章から伺える。
ところが、それでもなお身勝手な夢を見る者達の手によって、その弱く力のない人達は蹂躙されてしまう。

25:25 ところが七月になって、王の血統のエリシャマの子であるネタニヤの子イシマエルは十人の者と共にきて、ゲダリヤを撃ち殺し、また彼と共にミヅパにいたユダヤ人と、カルデヤびとを殺した。
25:26 そのため、大小の民および軍勢の長たちは、みな立ってエジプトへ行った。彼らはカルデヤびとを恐れたからである。

この、王の血統であるイシュマエルは、身勝手な夢を見てバビロンが立てたケダルヤを撃ち殺した。
カレアハの子ヨハナンはイシュマエルと戦おうとして出てきて、イシュマエルはアモン人のところに逃れたが、ヨハナンは、このままではバビロンの怒りを買って滅ぼされてしまうと恐れ、イスラエルの民を連れてエジプトへ行く心づもりをもて預言者エレミヤに伺いに行く。(エレミヤ41-42章)

エレミヤ42:1 そのとき軍勢の長たち、およびカレヤの子ヨハナンと、ホシャヤの子アザリヤ、ならびに民の最も小さい者から最も大いなる者にいたるまで、
42:2 みな預言者エレミヤの所に来て言った、「どうかあなたの前にわれわれの求めが受けいれられますように。われわれのため、この残っている者すべてのために、あなたの神、主に祈ってください、(今ごらんのとおり、われわれは多くのうち、わずかに残っている者です)
42:3 そうすれば、あなたの神、主は、われわれの行くべき道と、なすべき事をお示しになるでしょう」。
42:4 預言者エレミヤは彼らに言った、「よくわかりました。あなたがたの求めにしたがって、あなたがたの神、主に祈りましょう。主があなたがたに答えられることを、何事も隠さないであなたがたに言いましょう」。
42:5 彼らはエレミヤに言った、「もし、あなたの神、主があなたをつかわしてお告げになるすべての言葉を、われわれが行わないときは、どうか主がわれわれに対してまことの真実な証人となられるように。
42:6 われわれは良くても悪くても、われわれがあなたをつかわそうとするわれわれの神、主の声に従います。われわれの神、主の声に従うとき、われわれは幸を得るでしょう」。

このやり取りだけを聞くと、一見、主の預言者に伺い従順を見せる良き信仰者のように見える。
しかし、主は、この者達が主の御言葉に従うように見せかけて、実は自分のエジプトに行く心の決心を固く握りしめ、手放すつもりがない事をご存知であった。

42:7 十日の後、主の言葉がエレミヤに臨んだ。
42:8 エレミヤはカレヤの子ヨハナンおよび彼と共にいる軍勢の長たち、ならびに民の最も小さい者から最も大いなる者までことごとく招いて、
42:9 彼らに言った、「あなたがたがわたしをつかわして、あなたの祈願をその前にのべさせたイスラエルの神、主はこう言われます、
42:10 もしあなたがたがこの地にとどまるならば、わたしはあなたがたを建てて倒すことなく、あなたがたを植えて抜くことはしない。わたしはあなたがたに災を下したことを悔いているからである。
42:11 主は言われる、あなたが恐れているバビロンの王を恐れてはならない。彼を恐れてはならない、わたしが共にいて、あなたがたを救い、彼の手から助け出すからである。
42:12 わたしはあなたがたをあわれみ、また彼にあなたがたをあわれませ、あなたがたを自分の地にとどまらせる。

主は既に、バビロン捕囚という災いに遭ったイスラエルを、すでにあわれみ、バビロンを恐れてはならない、主ご自身が共にいて、あなたがたを救い彼の手から助け出す、と言われた。
そして同時に主は彼らの心の中をご存知であり、警告を与えられる。

42:13 しかし、もしあなたがたが、『われわれはこの地にとどまらない』といって、あなたがたの神、主の声にしたがわず、
42:14 また、『いいえ、われわれはあの戦争を見ず、ラッパの声を聞かず、食物も乏しくないエジプトの地へ行って、あそこに住まおう』と言うならば、
42:15 あなたがた、ユダの残っている者たちよ、主の言葉を聞きなさい。万軍の主、イスラエルの神はこう言われる、もしあなたがたがむりにエジプトへ行ってそこに住むならば、
42:16 あなたがたの恐れているつるぎはエジプトの地であなたがたに追いつき、あなたがたの恐れているききんは、すぐあとを追ってエジプトまで行き、その所であなたがたは死ぬ。
42:17 すべてむりにエジプトへ行ってそこに住む者は、つるぎと、ききんと、疫病で死ぬ。わたしが彼らに下そうとしている災をのがれて残る者はそのうちにない。

エレミヤは、彼らがエジプトに行く心づもりである事を聞いていなかったはずなのに、主はエレミヤに教えられ、そうして、明確にエジプトに行ってはならない事を警告された。

43:2 ホシャヤの子アザリヤと、カレヤの子ヨハナンおよび高慢な人々はみなエレミヤに言った、「あなたは偽りを言っている。われわれの神、主が、『エジプトへ行ってそこに住むな』と言わせるためにあなたをつかわされたのではない。

彼らは自分の口で「sh油の御言葉に聞き従います」と言っておりながら、エレミヤを通して心が見透かされてしまうと、とたんに態度を翻し、エレミヤに「偽りを言っている」と言った。
結局、「高慢」が彼らの心を支配していたのだ。

43:5 そしてカレヤの子ヨハナンと軍勢の長たちは、ユダに残っている者すなわち追いやられた国々からユダの地に住むために帰ってきた者、――
43:6 男、女、子供、王の娘たち、およびすべて侍衛の長ネブザラダンがシャパンの子であるアヒカムの子ゲダリヤに渡しておいた者、ならびに預言者エレミヤとネリヤの子バルクをつれて、
43:7 エジプトの地へ行った。彼らは主の声にしたがわなかったのである。そして彼らはついにタパネスに行った。

なんと、エレミヤまでも無理矢理にエジプトへ連れて行かれてしまった。
列王記の記述は、私達に何を語って来たか。それは、主に従おうとしない「高慢」な者には災いが追いつき、主の御言葉を前にへりくだって自分の思い込みを捨て、主に従うなら豊かに祝福される、という事だった。
結局、主に従わずに、バビロンに徹底的に痛めつけられても、なお自分の考えを手放さない者達は、捕囚後も、多くの人々を災いの道へと道連れにしてしまった。


 44:15 その時、自分の妻がほかの神々に香をたいたことを知っている人々、およびその所に立っている女たちの大いなる群衆、ならびにエジプトの地のパテロスに住んでいる民はエレミヤに答えて言った、
 44:16 「あなたが主の名によってわたしたちに述べられた言葉は、わたしたちは聞くことができません。
 44:17 わたしたちは誓ったことをみな行い、わたしたちが、もと行っていたように香を天后にたき、また酒をその前に注ぎます。すなわち、ユダの町々とエルサレムのちまたで、わたしたちとわたしたちの先祖たちおよびわたしたちの王たちと、わたしたちのつかさたちが行ったようにいたします。その時には、わたしたちは糧食には飽き、しあわせで、災に会いませんでした。
 44:18 ところが、わたしたちが、天后に香をたくことをやめ、酒をその前に注がなくなった時から、すべての物に乏しくなり、つるぎとききんに滅ぼされました」。

頑なな人とは、結局、自分の望みが叶うのであれば、主であろうと、天后(天の女王)であろうと、かまわないのだ。

この「頑なさ」、それが2列王記を災いで満たしてしまった大元であった。
主の御前に自分を降ろさない事、御言葉に対し、預言者に対し、自分を降ろさず、自分の好むこと、自分の計画、自分の意志を、神よりも優先させ、それによって、災いをもたらし、ついには、国を滅ぼしてしまった。

2列王記25:27 ユダの王エホヤキンが捕え移されて後三十七年の十二月二十七日、すなわちバビロンの王エビルメロダクの治世の第一年に、王はユダの王エホヤキンを獄屋から出して
25:28 ねんごろに彼を慰め、その位を彼と共にバビロンにいる王たちの位よりも高くした。
25:29 こうしてエホヤキンはその獄屋の衣を脱ぎ、一生の間、常に王の前で食事した。
25:30 彼は一生の間、たえず日々の分を王から賜わって、その食物とした。

列王記は、主が慰めを与えてくださる所で終わる。
確かに主は、悔い改めて自分を降ろし、主に立ち返る人に、憐れみ深い。
しかし、主に聞き従わない、頑なな、悔い改めない心を持ち続けるなら、そうする限りでは、災いがつきまとう。

この列王記を私達は、単に歴史書としてでなく、私達に実際に関わりのある真理であるとして戒めを受け、主に従う良い王が歩んだように、祝福の道を歩むものでありたい。

天へと嫁入りするために整えるべき花嫁衣装とは(黙示録19:5-10)
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私達が目指すべき目標の地(申命記34:1-7)
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賛美集会〜第二礼拝 Youtube動画
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週報/メッセージ(説教)概要

 一昨日の未明、私の祖母の林アイコが100歳と5ヶ月で天に召された。昨日、親類一同と天声の十数名の少数で、ささやかな葬儀を行ったが、それは、私が体験したどの葬儀よりも美しく荘厳で、清らかで、そして静かな喜びに満ちていた。祖母の顔は明らかに、真の故郷に迎え入れられ、満ち足りている表情だった。
私達が目指すべき故郷は一体どこにあるのか。今回、モーセが主にとり上げられる場面から見ていきたい。

モーセが生涯を終える直前、イスラエルがいよいよ約束の地カナンを目前にした時、彼は全イスラエルに向けて最後の説教をし、それぞれに相応しい祝福をした。それが終わると彼は、主があらかじめ「そこで死ぬ」と告げられていたピスガの山を登りはじめる。彼は120歳ではあるものの、目はかすまず、気力は衰えていなかった。皆に見つめられながら登っていく彼の足取りは、しっかりしていただろう。
山頂からは、イスラエルが継ぐべき土地が、北から南に至るまで、ヨルダン川から地中海に至るまでが全部見えるが、主は言われる。あなたはそこへは、入れない、と。そしてモーセは、そこで死んだ。(4−5節)
ここで疑問が起こる。皆はあそこに入れるのに、どうして一番の功労者のモーセだけ入れないのだろうか。
私達も、思う時があるかもしれない。あの人この人は、あの幸せの中に入っている、どうして私だけが入れないのか。そして、主から「あなたはそこに入って行くことはできない」と言われる時、本当に切なさを覚える。
モーセが最後、ピスガ山を登る時、どんな心境だったのだろうか。ああ、これで人生が終わってしまう、あれができないまま、これをしないままなのに、と思っただろうか?そうではないと思われる。その根拠は・・・。

モーセが死んだ後、イスラエルの民は確かにヨルダン川を渡り、乳と蜜の流れる地を受け継いだ。しかしその2世代後、そこは呪いの地となってしまった。なぜなら彼らは、主の御言葉を軽んじ、背いたからだ。
さて、約束の地とは一体、どこにあるのだろう?神の国は一体どこにあるのだろう?
思っていないだろうか。自分はあの領域に入ったら、あの人のようになったら、神の国が成就するのだ、と。
しかし主は言われる。 「神の国は、見られるかたちで来るものではない。また『見よ、ここにある』『あそこにある』などとも言えない。神の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ。」(ルカ17:20-21)
だからもし、結婚したら幸せになれる、と思って結婚しても、その人の中に神の国が構築されていないなら、結婚生活は苦々しい生活となるのだ。たとえあこがれの会社に入っても、あるいはあの地位を得ても、そのに神の国が構築されていないなら、すなわち、その人が神の支配を嫌がり、自分勝手なままなら、そこは乳と蜜が流れる地ではなく、呪いの地となってしまう。ちょうどイスラエルの民が、そうだったように。
だからまず、神の国を構築する事、すなわち、神の統治をそのまま受け入れる事こそ、必要である。

ヘブル書に記されている。モーセはキリストの故に受けるそしりをエジプトの宝にまさる富と考え、見えない方を見ているようにして、忍び通した事が。信仰の先輩たちは皆、地上では寄留者であると言い表し、天にあるふるさとを求め、神はそんな彼らのために、都を用意しておられたのだ、と。(ヘブル11:13-27)
モーセの時代に、キリストは人として来ていなかったが、モーセははっきりと、信仰の目で仰ぎ見ていた。
この真の指導者がやがて来られる、彼に聞け、と彼はイスラエルの民に指示したのだ。そう、キリストこそ本題である。カナンの地ではない、地上のあの地でも、あるいは富でも地位でも状態でもない、ただ望むべきは、私達の只中におられるキリストによって支配される事。それこそ、まことの神の国である。

モーセは主に言われた。「おまえはもはや足りている(rab)。この事については、重ねてわたしに言ってはならない。」(申命記3:26) ここの「足りている(rab)」は、十分に満ちている、という意味である。
主は言われた。あなたは地上で為すべき事を十分に満たした、もう地上のカナンの地を求める必要はない、むしろ、天の故郷に帰りなさい、「人の子よ、帰れ」(詩篇90:3)と。
そして最後、彼は主の「言葉(peh:口づけ)」(申命記34:5)によって、ピスガの山で死んだ。
主は、御口から出る息によって人を生かし、御口によって息をとられる。だから、生きるにしても、死ぬにしても、何の恐れもないのだ。私たちが目指べきは、モーセも、信仰の先祖達もいる、あの天の御国である。
私達は生きる限り、そこへ心を結びつけ、やがてあの信仰の先輩たちが待つ天に上げられる者でありたい。

金曜徹夜祈祷会 礼拝説教メッセージ
モーセの生涯の終わりに、ピスガの山を登り行く時(申命記34:1-7)
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先祖の列へと加えられる信仰の先輩たち(創世記49:29-33)
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はるか昔からされていた警告を破り、はるか昔から定められていた捕囚に遭ったイスラエル(2列王記25:8-21)
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25:8 バビロンの王ネブカデネザルの第十九年の五月七日に、バビロンの王の臣、侍衛の長ネブザラダンがエルサレムにきて、
25:9 主の宮と王の家とエルサレムのすべての家を焼いた。すなわち火をもってすべての大きな家を焼いた。

王宮のみならず、主の神殿さえ、異邦人の手に渡され、火で焼かれてしまった。
こうなってしまったのは、主が為されたからである。イスラエルの民が主に対し不遜な態度をとり続け、主を捨てたからであり、それで主がバビロンという器を立てて、エルサレムを徹底的に滅ぼされたのだ。
それは、神殿が建設され完成した当初から、既にソロモンに対して主は語られていた。

1列王記9:1 ソロモンが主の宮と王の宮殿およびソロモンが建てようと望んだすべてのものを建て終った時、
9:2 主はかつてギベオンでソロモンに現れられたように再び現れて、
9:3 彼に言われた、
・・・
9:6 しかし、あなたがた、またはあなたがたの子孫がそむいてわたしに従わず、わたしがあなたがたの前に置いた戒めと定めとを守らず、他の神々に行って、それに仕え、それを拝むならば、
9:7 わたしはイスラエルを、わたしが与えた地のおもてから断つであろう。またわたしの名のために聖別した宮をわたしの前から投げすてるであろう。そしてイスラエルはもろもろの民のうちにことわざとなり、笑い草となるであろう。

神殿が完成したての時、まだ新材の香りで満ちていた時、まさかこの、未だかつて無かった規模の贅沢な神殿が、異邦の民に破壊されるなど、思えなかったかもしれない。
ソロモン以降、代々の王もそう思っていたかもしれないが、しかし主は、このはじめから言われていた事を、ついに実行した。
それは、イスラエルの王が主からの恩を忘れ、主に逆らい続ける事が何代も続き、もはや、癒やしようがないまでになってしまったからだ。
それで主は、徹底的にひどい破壊を、バビロンにさせた。

1列王記9:8 かつ、この宮は荒塚となり、そのかたわらを過ぎる者は皆驚き、うそぶいて『なにゆえ、主はこの地と、この宮とにこのようにされたのか』と言うであろう。
9:9 その時人々は答えて『彼らは自分の先祖をエジプトの地から導き出した彼らの神、主を捨てて、他の神々につき従い、それを拝み、それに仕えたために、主はこのすべての災を彼らの上に下したのである』と言うであろう」。

その破壊のされる様が、あまりにひどく、また徹底的なため、人々はそれをみて驚く、と、主はあらかじめソロモンに警告しておられた。
しかし、ソロモンが早速主に逆らい、さらに逆らい続ける事が何代にもつづき、そして最後に、主は、予め警告しておられた事を実行された。

25:10 また侍衛の長と共にいたカルデヤびとのすべての軍勢はエルサレムの周囲の城壁を破壊した。
25:11 そして侍衛の長ネブザラダンは、町に残された民およびバビロン王に降服した者と残りの群衆を捕え移した。
25:12 ただし侍衛の長はその地の貧しい者を残して、ぶどうを作る者とし、農夫とした。

ここまで徹底してエルサレムを破壊し、しかもエルサレムの住人を大量にバビロンという何百キロも離れた地に捕らえ移すなどと、多くの労力と経費を伴う「破壊の事業」は、尋常ではない。
なぜバビロンはそこまでしたか。
それは、イスラエルの王が代々、バビロンに反逆を繰り返してきたからであり(エズラ記4:15)、このイスラエルという国は、徹底的に破壊し尽くさないとだめだ、と判断したからである。

預言者エレミヤは、最初から、バビロンに降るようにと主の言葉を伝えてきた。
それにもかかわらず、王達はそれをさげすみ、偽預言者や占い師の耳障りのよい言葉に従ってバビロンに逆らい続けた。
それで主も、バビロンも、徹底的にエルサレムを破壊し、さらには人々を散り散りばらばらにしてまでして、徹底的に破壊されたのだ。

2歴代誌36:11 ゼデキヤは王となった時二十一歳で、十一年の間エルサレムで世を治めた。
36:12 彼はその神、主の前に悪を行い、主の言葉を伝える預言者エレミヤの前に、身をひくくしなかった。
36:13 彼はまた、彼に神をさして誓わせたネブカデネザル王にもそむいた。彼は強情で、その心をかたくなにして、イスラエルの神、主に立ち返らなかった。

主のことばを聞かず、バビロンに逆らったゼデキヤは、バビロンに3年包囲され、深刻な食糧難を経て、捕らえられ、目の前で彼の子達が虐殺された後、目がえぐり取られ、足かせをかけられてバビロンに引かれて行った。
主を軽んじ、預言者を軽んじ、身勝手な道に歩もうとしたからである。

25:18 侍衛の長は祭司長セラヤと次席の祭司ゼパニヤと三人の門を守る者を捕え、
25:19 また兵士をつかさどるひとりの役人と、王の前にはべる者のうち、町で見つかった者五人と、その地の民を募った軍勢の長の書記官と、町で見つかったその地の民六十人を町から捕え去った。
25:20 侍衛の長ネブザラダンは彼らを捕えて、リブラにいるバビロンの王のもとへ連れて行ったので、
25:21 バビロンの王はハマテの地のリブラで彼らを撃ち殺した。このようにしてユダはその地から捕え移された。

エルサレムで主だった人達は、このようにして、虐殺された。
それは、彼らもまた主を敬わず、主を敬うべき神殿で主を敬わないばかりか、主の怒りを引き起こす事をし、また、特権的な権力を悪用して弱い人達から絞り取り、人々を苦しめて来たからである。

2歴代誌36:14 祭司のかしらたちおよび民らもまた、すべて異邦人のもろもろの憎むべき行為にならって、はなはだしく罪を犯し、主がエルサレムに聖別しておかれた主の宮を汚した。
36:15 その先祖の神、主はその民と、すみかをあわれむがゆえに、しきりに、その使者を彼らにつかわされたが、
36:16 彼らが神の使者たちをあざけり、その言葉を軽んじ、その預言者たちをののしったので、主の怒りがその民に向かって起り、ついに救うことができないようになった。
36:17 そこで主はカルデヤびとの王を彼らに攻めこさせられたので、彼はその聖所の家でつるぎをもって若者たちを殺し、若者をも、処女をも、老人をも、しらがの者をもあわれまなかった。主は彼らをことごとく彼の手に渡された。
36:18 彼は神の宮のもろもろの大小の器物、主の宮の貨財、王とそのつかさたちの貨財など、すべてこれをバビロンに携えて行き、
36:19 神の宮を焼き、エルサレムの城壁をくずし、そのうちの宮殿をことごとく火で焼き、そのうちの尊い器物をことごとくこわした。
36:20 彼はまたつるぎをのがれた者どもを、バビロンに捕えて行って、彼とその子らの家来となし、ペルシャの国の興るまで、そうして置いた。
36:21 これはエレミヤの口によって伝えられた主の言葉の成就するためであった。こうして国はついにその安息をうけた。すなわちこれはその荒れている間、安息して、ついに七十年が満ちた。

その土地は、彼らがいなくなって、安息を得た、と記されている。
ある人がそこからいなくなって、その場所が安息を得る、という事がある。
それは、その人が邪悪な人である場合だ。

主は、主が御心を示して注目しておられる場を守るために、そのような人が、最後まで改める余地が無いなら、その者を取り除く。
心頑なにして主から取り除かれて、周囲が安息を得るような者ではなく、私たちはむしろ、主の御言葉を守り行う、祝福の子、安息の子として歩むべきだ。

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