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全ての闇を払拭する「有りて有られるお方」の御言葉(ヨハネ1:1-14)
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週報/メッセージ(説教)概要
神は、永遠の昔から永遠の未来で「存在」されるお方、そして私達を存在させ、存続させるお方である。
それ故、信じる私達は「自分は愛なる神に存在させられている」と自信を持ち、そう主張する事ができる。
だから、永遠の御言葉であられるお方イエス様を、私達の内に住まわせるための御言葉を暗唱する事(テフィリン)こそ、人格において、精神において、あらゆる面において安定する秘訣である事を、先週学んだ。
ヨハネ1章からも、御言葉であられるキリストがいかに素晴らしいお方であるかを、見る事が出来る。御言葉なるお方は、永遠のはじめから神とともにおられた(1-2節)。それがキリストのアイデンティティ宣言である。
全てのものは、彼によって創造された(3節)。私達が100年ほどの一生の間に目にするもの、触れる全てのもので、彼によらずして出来たものは一つもない。このお方こそ、有りて有られるお方であり、私達が目で見、手でさわれるお方、そして、死に陥った私達を、命をかけて救う、愛なるお方として、私達に現れた。
彼が、愛の意図をもって計られたタイミングにより、今、こうして私達は愛され、生かされている。息を引き取る時さえ彼の愛のタイミングの中で計られており、その息(霊)は、全能なるイエス様のところに帰って行く。
このお方を信じる人は、自分は神の子であるという、盤石の、安定した生き方が出来るが、彼を認めない人は、自分は偶然に進化した者、脳の電気信号で動く偶然の産物として、自力で生きなくてはならない。
太宰治は、自分は人間失格だ、生まれて来てすみません、と書いて、多くの人の共感を得たが、全存在の源・「有る」お方を持たない人がサタンの言葉に惑わされるなら、そのように考えてしまう。神の敵・サタンが人を破壊させる言葉の、最たるものは、おまえは存在するな、居てはならない、有ってはならないである。
それを打ち消すのは唯一、全存在の根拠なるお方・キリストの言葉である。 『この言に命があった。そしてこの命は人の光であった。光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった。』(4-5節)
光を前にした闇は、消え失せる以外に無いように、キリストが現れたなら、悪魔は消え去る以外に無いのだ。
イエス様は、人が存在する以前から人を愛し、妻として定め、共に住むための家(宇宙)を創り、たとえ人が、ご自分を裏切る選択をしたとしても、十字架上で身代わりとなって命を捨てる、という事までして人を救おうという愛の意図を、なんと、永遠の昔から持ちながらにして、人を創造されたのだ。(エペソ1:3-6)
『彼を受けいれた者、すなわち、その名を信じた人々(現在形能動態:「自ら信じ続ける人々」)には、彼は神の子となる力(権)を与えたのである。それらの人は、「血筋」によらず、「肉の欲」によらず、また、「人の(意)欲」にもよらず、ただ神によって生れたのである。』(12-13節) つまり、イエス様を信じている人は、血筋や外見、能力や社会ステータスに左右されなくなる。世の人は血筋を重んじるだろう。それは生来の能力や外見、社会ステータスも決定づけるからであるが、彼らは、そうした「血筋」の束縛から開放される。
また、「肉の欲」を根拠とする束縛からも開放される。男女が性欲に身を任せ、彼らが望まぬ命が「できてしまった」、と言う事は多々あるが、自分はそういった人の欲望の産物だという空しさもなくなる。また「人の意欲にもよらず」とある通り、親や誰か人の政略的な操作によって自分は存在する、という空しさもなくなる。
信じた人は、ただ神によって、神の子として完全なる愛に愛される存在として生まれた、と確信するのだ。
『そして言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。わたしたちはその栄光を見た。それは父のひとり子としての栄光であって、めぐみとまこととに満ちていた。』(14節) 書かれてある通り、肉体となって来られた「言」であられるお方は、神のひとり子であり、御父の栄光に満ちておられ、恵と真理に満ちておられるのだ。
御言葉なるお方を、私達という肉に住まわせる事がここで命じられている。『キリストの平和があなた方の心を支配するようにしなさい…キリストの言葉をあなた方の内に豊かに宿らせなさい。そして、知恵をつくして互に教えまた訓戒し、詩と賛美と霊の歌とによって、感謝して心から神をほめたたえなさい。』(コロ3:15)
結局、今、わたしがここに存在している理由は、わたしを存在させて下さっているお方、「有る」というお方に由来し、ここに有る。その御方は、天地創造され、わたしが知り得ない全てを、知っておられる。
この御方を豊かに住まわせるなら、もはや自分の存在のあやふやさは拭い去られる。このお方は「言」であられ、私達が目で見、耳で聞き、手で触れる「聖書の御言葉」として、今、ここに現れておられる。御言葉暗唱(テフィリン)によってこのお方を豊かに住まわせ、あらゆる自分のあやふやさ、自分の中にある闇を払拭し、神の子として大胆に、豊かに歩んでいく皆さんでありますように!イエス様の名前によって祝福します!
ダビデと共に神の国を建て上げた主の軍の勇士たち(1歴代誌11:1-9)
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- pastor 2017-8-25 7:11
ダビデと共に神の国を建て上げた主の軍の勇士たち(1歴代誌11:1-9)
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11:10 ダビデの勇士のおもなものは次のとおりである。彼らはイスラエルのすべての人とともにダビデに力をそえて国を得させ、主がイスラエルについて言われた言葉にしたがって、彼を王とした人々である。
以降、記される人々は「三勇士」と呼ばれ、また「あの三十人」と呼ばれる勇士たちであり、彼らはダビデの王権を確立させ、神の国であるイスラエルのために多大な貢献をした人達である。
彼らは、単に武功を立てたとか、単に力強く武芸に秀でたという事よりも、イスラエルの主君であるダビデをいかに愛し、そしてまことの主君である「主がイスラエルについて言われた言葉にしたがって」いる事が、評価された者達である。(10節)
11:11 ダビデの勇士の数は次のとおりである。すなわち三人の長であるハクモニびとの子ヤショベアム、彼はやりをふるって三百人に向かい、一度にこれを殺した者である。
11:12 彼の次はアホアびとドドの子エレアザルで、三勇士のひとりである。
11:13 彼はダビデとともにパスダミムにいたが、ペリシテびとがそこに集まって来て戦った。そこに一面に大麦のはえた地所があった。民はペリシテびとの前から逃げた。
11:14 しかし彼は地所の中に立ってこれを防ぎ、ペリシテびとを殺した。そして主は大いなる勝利を与えて彼らを救われた。
このような武芸に秀でた様は確かに目を見張るが、大切な事は「主は大いなる勝利を与えて彼らを救われた」という事である。
彼らのような者が、ダビデ・ソロモンの時代以降にいたなら、確実にその武功と名前が載せられたであろう。
なぜダビデの時代に、このような勇士たちが現れる事が頻発したか。それは、主に従う心が熱い時代だったからであろう。それで主は、彼らに力と勝利を与えられたのだ。詩篇に記されているとおりである。
詩篇18:32 この神こそ、私に力を帯びさせて私の道を完全にされる。
18:33 彼は私の足を雌鹿のようにし、私を高い所に立たせてくださる。
18:34 戦いのために私の手を鍛え、私の腕を青銅の弓をも引けるようにされる。
そして、この三勇士は以下のいのちがけの誠実をダビデ王に示した。
11:15 三十人の長たちのうちの三人は下っていってアドラムのほらあなの岩の所にいるダビデのもとへ行った。時にペリシテびとの軍勢はレパイムの谷に陣を取っていた。
11:16 その時ダビデは要害におり、ペリシテびとの先陣はベツレヘムにあったが、
11:17 ダビデはせつに望んで、「だれかベツレヘムの門のかたわらにある井戸の水をわたしに飲ませてくれるとよいのだが」と言った。
11:18 そこでその三人はペリシテびとの陣を突き通って、ベツレヘムの門のかたわらにある井戸の水をくみ取って、ダビデのもとに携えて来た。しかしダビデはそれを飲もうとはせず、それを主の前に注いで、
11:19 言った、「わが神よ、わたしは断じてこれをいたしません。命をかけて行ったこの人たちの血をどうしてわたしは飲むことができましょう。彼らは命をかけてこの水をとって来たのです」。それゆえ、ダビデはこの水を飲もうとはしなかった。三勇士はこのことをおこなった。
ダビデ王は、いのちがけで汲んできてくれたこの水を、一滴も飲まず、主に捧げた。
いのちがけで戦う理由は、主のためであって、ダビデひとりのためではないからだ。それが、ダビデ王のみならず、この三人に徹底されていたからこそ、彼らは三勇士として栄誉を残したのだろう。
11:20 ヨアブの兄弟アビシャイは三十人の長であった。彼はやりをふるって三百人に立ち向かい、これを殺して三人のほかに名を得た。
11:21 彼は三十人のうち、最も尊ばれた者で、彼らのかしらとなった。しかし、かの三人には及ばなかった。
11:22 エホヤダの子ベナヤは、カブジエル出身の勇士であって、多くのてがらを立てた。彼はモアブのアリエルのふたりの子を撃ち殺した。彼はまた雪の日に下っていって、穴の中でししを撃ち殺した。
11:23 彼はまた身のたけ五キュビトばかりのエジプトびとを撃ち殺した。そのエジプトびとは手に機の巻棒ほどのやりを持っていたが、ベナヤはつえをとって彼の所へ下って行き、エジプトびとの手から、やりをもぎとり、そのやりをもって彼を殺した。
11:24 エホヤダの子ベナヤは、これらの事を行って三勇士のほかに名を得た。
11:25 彼は三十人のうちに有名であったが、かの三人には及ばなかった。ダビデは彼を侍衛の長とした。
ここでヨアブの兄弟アビシャイと、後にヨアブに代わる軍団長になったエホヤダの子ベナヤの名が連ねている。
ベナヤは祭司エホヤダの子で、ヨアブの元では、外国の雇用兵の長であったが、後に王権がソロモンの代になると、彼は、ソロモンの命によってヨアブを殺し、ヨアブに代わって軍団長の座に着く事になる。
ダビデの時代、軍事的な面でもっとも活躍した人といえば、間違いなく、ヨアブであろう。しかし、彼の名は、3勇士にも30勇士にも登録されていないのだ。
この「登録されていない」事は、注目すべきである。
ヨアブは、ダビデに対して度々の命令違反を犯し、ダビデを軽んじていたばかりでなく、後のダビデの後継者争いでアドニヤのほうを支持してたため、ソロモン王の指示により、エホヤダの子ベナヤの手で殺される事になってしまう。(1列王記2:29−35)
確かにダビデの時代、軍事的な面で最も功績を上げたかもしれないが、どんなに活躍しても、主君を軽んじ、不従順を重ね、主の御旨でないなら、特別な地位から降ろされ、抹殺され、王国の勇士達のリストから除外されてしまうのだ。
11:26 軍団のうちの勇士はヨアブの兄弟アサヘル。ベツレヘム出身のドドの子エルハナン。
・・・
11:41 ヘテびとウリヤ。アハライの子ザバデ。
11:42 ルベンびとシザの子アデナ。彼はルベンびとの長であって、三十人を率いた。
26節から47節までに勇士たちの名が書き記されているが、30以上の名前がある。
おそらくダビデの治世中、ヨアブの兄弟アサエルやヘテ人ウリヤのように、途中戦死してしまった所を、補充して行った人達の名前も、加えられたのだろう。
ヘテ人ウリヤは、ダビデの姦淫と殺人の罪の犠牲になってしまった。ダビデとしては、彼の名が記録されるのは恥ずかしかったであろうが、彼は30勇士のひとりとして記録されている。
もし、このリストが、ダビデの栄光のためのリストであるなら、ウリヤは除外され、ヨアブは残ったかもしれない。
しかしあいにく、このリストはダビデ王の栄誉のためではなく、主の御国を建て上げるために貢献した人達のリストである。
私達も、まことのダビデであるキリストに従順し、主が与えて下さるこの霊的武具をよく駆使し、悪しき者に対抗し、よく戦うべきなのだ。
主君を軽んじ、従順しないで、身勝手な王を立てるなら、いかに「出来る人」であったとしても、ヨアブのように立場を追われ、除外されてしまう。
次のように書かれているからである。
2テモテ2:1 そこで、わたしの子よ。あなたはキリスト・イエスにある恵みによって、強くなりなさい。
2:2 そして、あなたが多くの証人の前でわたしから聞いたことを、さらにほかの者たちにも教えることのできるような忠実な人々に、ゆだねなさい。
2:3 キリスト・イエスの良い兵卒として、わたしと苦しみを共にしてほしい。
2:4 兵役に服している者は、日常生活の事に煩わされてはいない。ただ、兵を募った司令官を喜ばせようと努める。
2:5 また、競技をするにしても、規定に従って競技をしなければ、栄冠は得られない。
2:6 労苦をする農夫が、だれよりも先に、生産物の分配にあずかるべきである。
2:7 わたしの言うことを、よく考えてみなさい。主は、それを十分に理解する力をあなたに賜わるであろう。
2:8 ダビデの子孫として生れ、死人のうちからよみがえったイエス・キリストを、いつも思っていなさい。これがわたしの福音である。
ダビデ、王となり、エルサレムを居住とする(1歴代誌11:1-9)
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前回はイスラエル初代の王サウルについてだったが、サウルは主の前に悪く歩んだゆえに、王権から退けられてしまい、主は、王権をダビデに回した。
以降、歴代誌は、ダビデ王家がいかにイスラエルを統治して行くようになったのかという内容と、彼が基礎を築いた神殿礼拝の詳細な成り立ちへと入っていく。
王の中の王として、現代も多くの人達に尊敬されているダビデ。彼はなぜ、神と人とに愛され、そこまで偉大な王となる事ができたのか。
ダビデとサウルの違いは、実は、そんなに多くない。むしろ、わずかである。
ダビデは、事あるごとに主に主に求め、罪を指摘された時は、間髪を入れず悔い改め、すぐ主に立ち返る性質だった。
それに引き換えサウルは、主のことばを守らず、主に求める事をしなかった。(1歴代誌10:13-14)
そして、罪を犯した時、言い訳をしたり、他人のせいにしたりし、結局自分は悪く無いというスタンスを変えなかった。
ダビデとサウルの違いはシンプルである。すなわち、日頃主に依り頼むか、頼まないか。そして罪を指摘された時、すぐに悔い改めるか、悔い改めないか。
それはシンプルであるが、実に、永遠の明暗を分ける。
11:1 ここにイスラエルの人は皆ヘブロンにいるダビデのもとに集まって来て言った、「われわれは、あなたの骨肉です。
11:2 先にサウルが王であった時にも、あなたはイスラエルを率いて出入りされました。そしてあなたの神、主はあなたに『あなたはわが民イスラエルを牧する者となり、わが民イスラエルの君となるであろう』と言われました」。
11:3 このようにイスラエルの長老が皆ヘブロンにいる王のもとに来たので、ダビデはヘブロンで主の前に彼らと契約を結んだ。そして彼らは、サムエルによって語られた主の言葉に従ってダビデに油を注ぎ、イスラエルの王とした。
彼が王となった成り立ちは、自分のはかりごとや力に一切依らず、ただ、主の約束を信じて待つ姿勢を貫いた結果、「半自動的に」王とされた。
「自動」ではなく「半自動」である。
ダビデが自ら積極的に行動した事といえば、サウルが死んだ時、ペリシテの地からヘブロンへと移った事くらいで、それについても主に御心を伺い、主のゴーサインがあってから行動した。
サウルが死んだ時、彼はさっさとイスラエルに入って王を名乗る事をせず、サウルの死に対して「追悼の意」を内外に表明し、哀歌をつくった。
ヤベシ・ギレアデの人々がサウル家にした忠誠の行為が伝えられた時、それに対する賞賛の見解を「表明」する事も、忘れなかった。
サウル家の事実上の支配者であり将軍であるアブネルを、ダビデの部下のヨアブが卑劣な手で殺害した時、自分は一切関わりが無かった事を表明し、卑劣な手を用いたヨアブへの非難をし、アブネルのために追悼の歌を作り、人々に歌わせたばかりでなく、断食して悲しんだ。
サウル王家の生き残りであるイシュ・ボシェテが、不当な者の手によって殺害された事に対しても、『彼らを殺し、その手足を切り離し、ヘブロンの池のほとりで木に掛けた。人々はイシボセテの首を持って行って、ヘブロンにあるアブネルの墓に葬った。』(2サムエル記4:12)
ダビデは、アブネルにしたのと同じく、イシボセテをヘブロンに葬って敬意を表し、ここにおいても、神と人との前に義と平和を表明した。
このように、ダビデは王になろうとして自分から進んで行動する事は一切なく、ただ、ダビデが計り知れぬ所で、周りの状況が自動的に動いて行くのだが、その、動いた状況に対してダビデは何らかの表明をする、という事を繰り返して行く内に、「半自動的」に、彼は王となって行った。
祝福は「自動」ではない。私達も、何か物事が起きるならば、それに対し、言葉でもって、内外にいのちの立場に立った「表明」をして行かなくてはならないのだ。
ダビデがイスラエルの王になった出来事は、イスラエルの歴史でも重要な出来事、だが、もう一つの重要な出来事は、エルサレムという都にダビデが入り、そこをイスラエルの王の町とした事である。
11:4 ダビデとすべてのイスラエルはエルサレムへ行った。エルサレムはすなわちエブスであって、そこにはその地の住民であるエブスびとがいた。
ダビデが入る前、エルサレムは「エブス」という町で、エブス人が住んでいた。
ヨシュアの時代、そこはベニヤミン族のものとして割り当てられていたが(ヨシュア18:21-28)、ベニヤミン人はそこを自分のものとせず、ずっと放置してエブスが住むままにしていた。
この都の成り立ちは、私達・キリスト者の成り立ちと、よく共通している。
エルサレムが最初に聖書に登場するのはアブラハムの時代である。
『その時、「サレム(平和)」の王メルキゼデク(義の王)はパンとぶどう酒とを持ってきた。彼はいと高き神の祭司である。彼はアブラムを祝福して言った・・・。』(創世記14:18-20)
この「サレム」が、エルサレムの初期の名である。
そして、そこを支配していた王は、あのアブラハムを祝福した偉大な祭司・義の王であるメルキゼデクだった。
しかし、いつしかエブスという邪悪なカナン人が、この都を占拠し、支配するようになってしまった。
「エブス」の名の意味は「踏み潰す」、「エルサレム」の名の意味は「平和という土台」である。
元々は義の王が支配していた「平和の土台」という都は、やがて、「踏み潰す」者たちに占拠されてしまった。
人もまた、元々は神の似姿として創造され、永遠に、神と共に平和に生きるはずだったが、人はいつしか、邪悪な者に踏みにじられてしまった。
人を不当に踏みにじった者はサタンである。それ以来、人の内側は不法で満ち溢れ、罪によって占拠されてしまった。
時代が降り、ヨシュアの時代、「エブス」となっていたエルサレムの町は、ヨシュアのくじによって、ベニヤミンの地とされたが、ベニヤミン族はその町をずっと放置したままにした。
一時、ユダ族がその町を攻め取ったものの(士師記1:8)、その後もエブス人が住み続けていた、という事は、ベニヤミンはせっかく邪悪な者どもをユダ族に追い払ってもらったのに、そこを神の民で満たす事をせず、空き家のままに放置したのだろう。
それで再びエブス人が来て住むようになって、以前よりももっと攻め落としづらくなってしまった。
同じように、悪しきものが追い出されても、そこを良きもので満たしていないなら、後に、もっとたちの悪い七つの悪霊が来て住みつくようになってしまい、以前よりももっと悪い状態になってしまうのだ。(マタイ12:43-45)
この、長らく続いた邪悪な者による占拠状態から、ようやくエルサレムを救ったのが、ダビデだった。
11:5 エブスの住民はダビデに言った、「あなたはここにはいってはならない」。しかし、ダビデはシオンの要害を取った。これがすなわちダビデの町である。
11:6 この時ダビデは言った、「だれでも第一にエブスびとを撃つ者を、かしらとし、将とする」。ゼルヤの子ヨアブが第一にのぼっていったので、かしらとなった。
11:7 そしてダビデがその要害に住んだので人々はこれをダビデの町と名づけた。
11:8 ダビデはまたその町の周囲すなわちミロから四方に石がきを築き、ヨアブは町のほかの部分を繕った。
偉大な王・ダビデがエルサレムに介入して入り、邪悪な者達をなぎ払い、神の民が住む都とした。
こうしてこの都は、偉大な王・ダビデが名を置く所となり、さらに強固に建て直され、やがては、聖なる神殿がその中に構築されて行く。
私達キリスト者も、同じ事を経験している。
罪の奴隷状態として、邪悪な感情や思いの占拠状態であったこの心と身体に、まことのダビデであるイエス様が介入して入って来られ、罪や汚れをなぎ払い、神のものとして、私達を邪悪な者サタンから分捕り返して下さった。
さらには、私達を聖霊の住まわれる宮とされ、偉大な王・イエス・キリストが住まわれる「神殿」とされた。
『あなたがたは神の宮であって、神の御霊が自分のうちに宿っていることを知らないのか。』(1コリント3:16)
エルサレムは今なお、不純なものが混在している状態であるが、将来、主の時に必ず完全で純粋なものへとつくり変えられる。
『また、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意をととのえて、神のもとを出て、天から下って来るのを見た。』(黙示録21:2)
その時、エルサレムは完全で清いものとなり、キリストの花嫁として、永遠にキリストのものとされる。
エルサレムがまだその途上であるように、今、私達も完成される途上にある。
私達のこの肢体には、相変わらず罪と義が混在状態になっていて、この身体を着ている間、しばし、うめかなくてはならないが、しかし私達がまことのダビデであるキリストを王として迎え入れる時、私達はこの地上の束縛から解放され、天に属するものとして、聖なる栄光の歩みをして行く事が出来、そして、来るべきキリストの花嫁として、ますます整えられて行くのである。
プネウマ(動いている空気、霊、息)という存在について(ルカ8:1-3)
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- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(新約) » ルカによる福音書
- 執筆 :
- pastor 2017-8-23 23:10
「ヘプシバー(わが喜びは彼女にあり)」かつ「ビュラー(主人に所有された者)」:(イザヤ62:1-5)
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- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(旧約) » イザヤ書
- 執筆 :
- pastor 2017-8-23 17:10
主に従わない者に振りかかる呪いのケーススタディ:サウル(1歴代誌10:1-14)
- カテゴリ :
- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(旧約) » 1歴代誌
- 執筆 :
- pastor 2017-8-23 7:30
主に従わない者に振りかかる呪いのケーススタディ:サウル(1歴代誌10:1-14)
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歴代誌は10章以降、人の名前の羅列という形での「系図」は終わり、イスラエルの歴代の王の歴史となって行く。
歴代誌だけを読む人にとっては、10章で唐突に舞台もストーリーも変わるので、驚くかもしれないが、結局、歴代誌全体の根底は「系図」である。
人が生まれ、その人生の中で主に対して何かしらの事を為し、やがて死んで、その子どもたちが主に対し何かしらの事をして行く。
10章以降も、その繰り返しである事には変わりはなく、主に対して誠実に歩んだ人は祝福を受け継ぎ、不誠実に歩んだ人は呪われる所に、例外は一切無い。
神の民の「系図」は今なお続いており、それは現代の私達も、その中に含まれている。
歴代誌はヘブライ語ではディブレー・ハッヤーミーム、「日々の出来事」ユダヤ人の「日々の出来事」であると同時に、私達にも「日々の出来事」なのだ。
この10章は、主に対して不誠実に歩んだ一人の男・サウルの、呪われた最後が記されおり、ダビデ家へと王権が移っていく事の前奏が記されている。
10:1 さてペリシテびとはイスラエルと戦ったが、イスラエルの人々がペリシテびとの前から逃げ、ギルボア山で殺されて倒れたので、
10:2 ペリシテびとはサウルとその子たちのあとを追い、サウルの子ヨナタン、アビナダブおよびマルキシュアを殺した。
9章最後に、サウルへと続くベニヤミンの系図があったが、そのサウルの子たちのうち、エシュ・バアル(サムエル記:イシュ・ボシェテ)以外は、全て殺されてしまった。
そのイシュ・ボシェテも、ダビデのご機嫌伺いをしようとする者達の手によって殺されてしまう。
それは、サウルは主を捨てて悪を行ったからである。
申命記28:20 主は、あなたのなすすべての手のわざに、のろいと恐慌と懲らしめとを送り、ついにあなたは根絶やしにされて、すみやかに滅びてしまう。これはわたしを捨てて、あなたが悪を行なったからである。
10:3 戦いは激しくサウルにおし迫り、射手の者どもがついにサウルを見つけたので、彼は射手の者どもに傷を負わされた。
10:4 そこでサウルはその武器を執る者に言った、「つるぎを抜き、それをもってわたしを刺せ。さもないと、これらの割礼なき者が来て、わたしをはずかしめるであろう」。しかしその武器を執る者がいたく恐れて聞きいれなかったので、サウルはつるぎをとってその上に伏した。
10:5 武器を執る者はサウルの死んだのを見て、自分もまたつるぎの上に伏して死んだ。
10:6 こうしてサウルと三人の子らおよびその家族は皆ともに死んだ。
サウルの最後は、矢傷を受けて敵が迫っているのに、介錯をしてもらえず、やむなく、自ら自害するというものだった。
なお、第二サムエル記1章には、サウルは最後の最後、まだ息があるのにひどいけいれんが起こったため、そばにいたアマレクの若者にとどめを刺してもらった、というアマレク人の証言がある。
自刃してもなお死にきれず、最後にアマレク人に止めを刺されたのか、それとも、アマレク人は褒美欲しさに「自分がとどめを刺した」とうそぶいたのか、定かではないが、いずれにせよ、アマレク人がサウルの死に関わったのは確かである。
サウルの死後、彼の王冠と腕輪はアマレク人に盗まれ、ダビデへと渡されてしまった。(2サムエル記1:10)
サウルは、聖絶せよと言われたアマレクを聖絶せずにいて、そのアマレクによって王冠が奪われ、そえれはダビデへと手渡される。実に象徴的だ。
10:7 谷にいたイスラエルの人々は皆彼らの逃げるのを見、またサウルとその子らの死んだのを見て、町々をすてて逃げたので、ペリシテびとが来てそのうちに住んだ。
サウルの周りからは、人々は逃げ離れて行ったが、それは彼から主の御手が離れたからであり、そなったのは、彼自身が主と主の言葉から離れたからだ。
彼は普段から主からの「方向修正せよ」というサインを、ことごとく無視し続けた。彼は預言者を退け、祭司を虐殺し、油注がれたダビデをも殺そうと執拗に追いかけ、ついには預言者にも祭司からも、油注がれた者からもそっぽ向かれ、そして最後には、主が忌み嫌われる口寄せに頼るという、信仰とは程遠い歩みをして、それを止めなかった。
結局彼は、長い信仰生活の間、「主により頼む」という信仰を育まず、ついには、与えられていた長い憐れみの期間を使い尽くしてしまい、リミットが来て、このような悲惨な最後になってしまったのだ。
10:8 あくる日ペリシテびとは殺された者から、はぎ取るために来て、サウルとその子らのギルボア山に倒れているのを見、
10:9 サウルをはいでその首と、よろいかぶとを取り、ペリシテびとの国の四方に人をつかわして、この良き知らせをその偶像と民に告げさせた。
10:10 そしてサウルのよろいかぶとを彼らの神の家に置き、首をダゴンの神殿にくぎづけにした。
10:11 しかしヤベシ・ギレアデの人々は皆ペリシテびとがサウルにしたことを聞いたので、
10:12 勇士たちが皆立ち上がり、サウルのからだとその子らのからだをとって、これをヤベシに持って来て、ヤベシのかしの木の下にその骨を葬り、七日の間、断食した。
ヤベシ・ギレアデは、サウルがまだ若かりし頃、王になった当初、サウルに救ってもらった町である。(1サムエル記11章)
サウルは、最初の信仰の行い故に、そのささやかな報いを受ける事ができた。
10:13 こうしてサウルは主にむかって犯した(ベマーアロ アシェル マーアル)罪のために死んだ。すなわち彼は主の言葉を守らず、また口寄せに問うことをして、
主に問うことをしなかった(リドローシュ・ヴェロ・ダラシュ)。それで主は彼を殺し、その国を移してエッサイの子ダビデに与えられた。
「マアール」と「ダラシュ」がここで繰り返されているが、マーアルは不信の罪、裏切る、不誠実の意味であり、ダラシュは求める・探す・通い続ける事である。
彼は主に信頼せず、主対し不誠実を続け、すなわち、主を裏切った。
そして彼は主を求めず、探さず、通い続けず、かえって、口寄せに解決を探し求めた。
そのように、主に対して不誠実を続けに続けた故、彼は、王から退けられてしまった。
箴言17:11 悪しき者はただ、そむく事のみを求める、それゆえ、彼に向かっては残忍な使者がつかわされる。
私達はこの書から、二通りの道を見る。
優れた王となって行くダビデの道と、御声に従わずに身勝手な自分の道を貫こうとしたサウルの道を。
この章は、身勝手な道を選んだ王の、悲惨な結末で締めくくられている。私達はここから戒めを受け、失敗の道を歩まず、ダビデのように優れた「王」となるろうと務めるべきだ。
御国の系図へと入れられる事を求めつつ読むべき歴代誌の系図(1歴代誌9:1-44)
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- pastor 2017-8-22 7:13
御国の系図へと入れられる事を求めつつ読むべき歴代誌の系図(1歴代誌9:1-44)
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9章は、バビロン捕囚後の各部族、特に祭司・レビ族の主だった人々の系図が簡潔に記され、そうして10章以降のイスラエルの王族の歴史へ、すなわち、サウルから始まり、ダビデとその子孫のバビロン捕囚に至るまでの歴史へと続いていく。
9:1は、それを簡潔に記している。
9:1 このようにすべてのイスラエルびとは系図によって数えられた。これらはイスラエルの列王紀にしるされている。ユダはその不信のゆえにバビロンに捕囚となった。
バビロン捕囚後、神の定められた約束の地へ帰還した人達は、少数であった。
70年も異邦の地におり、異邦の価値観、異邦の娯楽に染まった人達はそれぞれの場所に埋まってしまうものだが、その70年の中でも、自分のアイデンティティ、すなわち、神の国の者としてのアイデンティティを保っていた人達が、なお存在した。
その人達は第一に、祭司やレビ人の、御国の奉仕をしていた人達である。
9:2 その領地の町々に最初に住んだものはイスラエルびと、祭司、レビびとおよび宮に仕えるしもべたちであった。
そして、いわゆる一般信徒もエルサレムに戻ってきた。
それは、ユダ族、ベニヤミン族、エフライム族とマナセ族である。
その主だった人の簡潔な系図が3節から9節に記されている。
また、10節から13節には、捕囚から帰ってきた、神殿奉仕をする祭司の、簡潔な系図が記されている。
14節から16節にはレビ人の奉仕者の簡潔な系図が記され、17節以降、ダビデとサムエルが定めた神殿奉仕者の職責が記されている。(9:22)
9:17 門を守るものはシャルム、アックブ、タルモン、アヒマンおよびその兄弟たちで、シャルムはその長であった。
9:18 彼は今日まで東の方にある王の門を守っている。これらはレビの子孫で営の門を守る者である。
門衛や監守人は、聖なる場所を守る者である。
現在で言う警備員であるが、これが重要な奉仕として真っ先に記されているのは、私達もその価値観によって生きるためである。
私たちという生ける神の宮(2コリント6:16)もまた、門をしっかり守るべきである。すなわち、目、耳、口という門を。
世の汚れた価値観によって汚されないようにするために、出入りすることばや情報には常に注意を配るべきなのだ。
バビロン捕囚から帰ってきた彼らは、しっかりガードしてきよい価値観を保ったから、神の定められた相続地に住む幸いにあずかる事が出来た。私達も、しっかりガードするなら、御国の相続地にあずかる事が出来るのだ。
24節以降を見ると、本当に色々な奉仕があった事が分かる。
神殿の財を守る者、門の鍵をもって朝ごとの開け閉めをする者、器物の数を調べて出し入れする者、主への捧げものを管理する者、香料を調合したり、主に捧げるパンを造ったりつかさどったりする者など。
9:33 レビびとの氏族の長であるこれらの者は歌うたう者であって、宮のもろもろの室に住み、ほかの務はしなかった。彼らは日夜自分の務に従ったからである。
私達も現在、主のために諸々の奉仕があるが、それを単なる「作業」としてでなく、永遠のいのちの書に記される尊い奉仕として、日夜、主にお捧げするべきである。
9:35 ギベオンの父エヒエルはギベオンに住んでいた。その妻の名はマアカといった。
35節から44節は、ベニヤミン族の系図となり、8:29-38と重複する内容となる。
それは10章以降、列王記のように、再びイスラエルの王族の歴史となり、それは初代の王、ベニヤミン族のサウルから始まるからであろう。
歴代誌の系図と歴史、それは現代の私達には関係ないと思われがちだが、決してそうではない。
私達も御国の系図へ、いのちの書に名が書き記され、私達がイエス様にあって為したわざが書き記されるために、日々、天の御国を求め、勝ち取っていくよう努力して行くべきであり、この御国の系図の中に入れられる事を、私達も積極的に求めていくべきなのだ。
マタイ11:12 バプテスマのヨハネの時から今に至るまで、天国は激しく襲われている。そして激しく襲う者たちがそれを奪い取っている。
「生まれてきてすいません」と思わせる声に対抗する圧倒的方法(ヨハネ1:1-14)
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- pastor 2017-8-21 7:21
「生まれてきてすいません」と思わせる声に対抗する圧倒的方法(ヨハネ1:1-14)
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太宰治は人間失格で「生まれてきてすいません」と書き、それがこの国で大きな反響を呼んだ。
そして彼自身は愛人を道連れに自殺した。
主は、存在そのものなるお方であるが、サタンは、真っ向から存在を否定してくる。
生きていてはならない
存在してはならない
そのように、自らの存在そのものに、漠然とした不安を抱かせ、死へと追いやる声は、闇から来る偽りである。
1:1 初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。
1:2 この言は初めに神と共にあった。
1:3 すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。
1:4 この言に命があった。そしてこの命は人の光であった。
1:5 光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった。
「わたしはある」と自らを表明し、そして全被造物を存在させ、存続させておられる、全き「存在」されるお方は、愛なるお方であり、世の始まる以前から、既に愛をもって私達の存在を認め、御前できよく、傷の無いものにしようと、あらかじめ定めておられた「御言葉」なるキリストである。
エペソ1:3 ほむべきかな、わたしたちの主イエス・キリストの父なる神。神はキリストにあって、天上で霊のもろもろの祝福をもって、わたしたちを祝福し、
1:4 みまえにきよく傷のない者となるようにと、天地の造られる前から、キリストにあってわたしたちを選び、
1:5 わたしたちに、イエス・キリストによって神の子たる身分を授けるようにと、御旨のよしとするところに従い、愛のうちにあらかじめ定めて下さったのである。
1:6 これは、その愛する御子によって賜わった栄光ある恵みを、わたしたちがほめたたえるためである。
このお方の愛の光に輝かされる時、全て、存在を否定しようとたくらむ悪魔サタンの声をかき消される。
主は、その者共を永遠に消えない火へと投げ込まれ、そしてキリストの愛に向かって歩み寄る全ての人を、永遠のいのちへと入れられる。
1:12 しかし、彼を受けいれた者、すなわち、その名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えたのである。
1:13 それらの人は、血すじによらず、肉の欲によらず、また、人の欲にもよらず、ただ神によって生れたのである。
1:14 そして言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。わたしたちはその栄光を見た。それは父のひとり子としての栄光であって、めぐみとまこととに満ちていた。
全能者の「存在」を私達の中に在らせるために(申命記6:6-8)
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賛美集会音声
第二礼拝音声
週報/メッセージ(説教)概要
神は人を、神のかたちに創造された。ところが今、人は神を離れ、各々自分勝手な善悪判断をしつつ、罪と肉欲に従って生きている。神である主の最終目標は、人を本来あるべき「神のかたち」「神の子」へと回復する事であり、私達もそれを目指すべきだ。どうすればそれが回復するのか。それを今日見ていきたい。
『神はモーセに言われた、「わたしは、有って有る者(イェヒエ・アシェル・イェヒエ)」。』(出エジプト記3:14)
ここの神の「イェヒエ」はハヤーの一人称単数未完了形で、ヘブライ語の未完了形は、動作が未だ終わっておらず、ずっと続いて行く事である。すなわち神の「ある」は、過去・今・未来に至る、永遠の「ある」だ。
神は、ご自身で存在されるお方であり、そして、私達を存在させるお方。イエス様もまた、ご自身を幾度も「わたしは有る(ギ:エゴ・エイミー)」と言われ、人を活かす者・いのちを有らせる者としてご自身を証された。
『もしわたしが「そういう者である(エゴエイミー)」事をあなたがたが信じなければ罪のうちに死ぬ事になる…よくよくあなたがたに言っておく。アブラハムの生れる前から「わたしはいる(エゴエイミー)」』(ヨハネ8:24,58)
イエス様はもとから世におられ、世はイエス様によって創られたのに、世はこのお方を知らなかった。
しかし彼を信じた人、すなわち彼の名を信じた人には、神の子とされる特権が与えられる。(ヨハネ1:12)
イエス様ははじめから、人を活かす目的で、自らが死ぬ存在として人としてこの世にお生まれになった。
そのイエス様は、世を創造されたのみならず、愛ゆえに身代わりとなり、そして命吹き込むお方として「有られる」。イエス様は「御言葉」であられ、彼は、肉の幕屋を張って私達の内に宿られた。(ヨハネ1:1,14)
この、永遠から永遠の「ハヤー(ある)」なるお方を、私達はいかにすればハヤーさせられるか。その答えが、申命記6:6である。『きょう、わたしがあなたに命じるこれらの言葉をあなたの心に「留め(ハヤー)」』
ハヤーとは、存在をあらわすBE動詞である。ハヤー。それが主の名前であり、アイデンティティである。
私達が御言葉を暗唱(テフィリン)し、心に、思いに、知性に刻みこむ事によって、この神から離れ死に陥ってしまう私達の中に、全能者なるお方が、私達の内に「存在(ハヤー)」させる事が出来るのだ。その時、全能者であり、永遠から永遠に至るまで「存在(ハヤー)」されるお方のハヤーが、その人の中に起こる。
主はテフィリンを命じておられる。『努めてこれをあなたの子らに教え(シャナン:シャープにする、研ぎ石などで鋭くする、コツコツと刺激を与える)、あなたが家に座している時も、道を歩く時も、寝る時も、起きる時も、これについて語らなければならない(ダバール:論じ合う)。またあなたはこれをあなたの手につけて(カシャール、結合、連盟、同盟する)印とし、あなたの目の間に置いて(ハヤー)覚えとし』(申命記6:7-8)
主の御胸は、神のいのちを持った神の子が、生んで増えて満ちて行く事である。だからこれらの事を命じられたのだ。こうしていつも御言葉に浸され、馴染んでいる内に、御言葉と一体化して行く事で、天地を創造した神の言葉による再創造が、その人の中に構築されて生き、神のかたちが出来上がっていくのだ。
クリスチャンはよく口にする。「イエス様は共におられます」と。しかしそう口にするものの、「本当かな」と揺らいでしまったり、あるいは全然実感なく機械的に「イエスサマハトモニオラレマス」と言っていないだろうか。
全世界を御言葉によって創造されたお方の「ハヤー」が無い人、すなわち、テフィリンしていない人は、その伝道には力は無く、また、何か不安な事が起きると、土台の無い家のように、心がぐらぐら揺らいでしまう。
しかし、その人の中に、御言葉の蓄えが増えれば増えるほどに、自分が存在(ハヤー)する根拠、生きる根拠、伝道の根拠が、くっきり土台づくりされて行くため、心も、人格も、ことばも、人生も、全て安定して行く。
御言葉の根拠が無い、自分に神の子としてのレベルが低いままであるなら、いくら祈っても、いくら主のミニストリーに励んでも、目が見えないまま闇雲に数を撃っているようなもので、たとえ祈りが「聞かれた」としても、数撃ってようやく当たったような、おこぼれの、憐れみ故の「聞かれ方」である。その生き方は、疲れる。
しかし、テフィリンして御言葉のハヤーがある人は、見えないけれど確実に「ハヤー」されるお方があるため、たとえ今、必要なものが目の前・現実に無いとしても、全能者のハヤーを根拠に、揺るがず、無駄な祈りを乱発せず、無駄な動きをせずに、本当に的を射た祈りと行動が出来、無駄をしないので、疲れない。
そういうわけで、私達はぜひとも、御言葉を蓄え、テフィリンするべきなのだ。自分で善悪判断する事を下ろし、御言葉なるキリストのハヤーを自分自身の内に構築し、全てに安定して行く皆さんでありますように!