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礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
人が獣に勝るか勝らないかはその人次第(伝道者の書3:16-22):右クリックで保存

【概要】

本日のメッセージは、伝道者の書3章16節から22節を通して、人間の存在と神の視点について考察します。ソロモンが見た不正と正義の欠如、そして人間と獣の違いについての理解を深めます。

【聖書箇所】

伝道者の書3章16-22節

【戒めの言葉】

人は神から離れると獣のようになり、悟りを失います。神の御言葉に基づいて生きることが求められます。

【勧めの言葉】

神の聖女に入り、心と思いを神に向けることで、悟りを得て、獣の状態から脱却することができます。

【***詳細***】

今日の聖書箇所、伝道者の書3章16節から22節には、ソロモンが見たこの世の不正と正義の欠如について記されています。「さらに私は、日の下で裁きの場に不正があり、正義の場に不正があるのを見た。」(伝道者の書3:16)とあるように、ソロモンの時代も現代と同様に不正が蔓延していました。

ソロモンは、「神は正しい人も悪者も裁く。そこでは全ての営みと全ての業には時があるからだ。」(伝道者の書3:17)と述べ、神の裁きがあることを示しています。さらに、「神は彼らを試み、彼らが獣に過ぎないことを彼らが気づくようにされたのだ。」(伝道者の書3:18)と、人間の限界を指摘しています。

人間と獣の結末は同じであり、「人は何も獣に勝っていない。すべては虚しいからだ。」(伝道者の書3:19)とソロモンは言います。しかし、これは本当にそうなのでしょうか。聖書全体を通して見ると、人間は神の姿に似せて創られた特別な存在であることがわかります。

詩編49編20節には、「人はその映画の中にあっても、悟りがなければ滅び失せる獣に等しい。」とあります。悟りを得るためには、神の聖女に入り、神の御前に出ることが必要です。詩編73編では、アサフが神の聖女に入り、悪人の最後を悟ったことが記されています。「私は神の聖女に入り、ついに彼らの最後を悟った。」(詩編73:17)

神の御前に出ることで、私たちは自分の愚かさを認識し、神の導きによって栄光の地に受け入れられることができます。「あなたは私を悟して導き、後には栄光の地に受け入れてくださいましょう。」(詩編73:24)

神は人を獣と同じように創られたのではなく、神の姿に似せて創られました。創世記には、神が人を「ご自身の姿に似せて」創られたと記されています。人は神の息吹を受け、特別な存在として創られたのです。

しかし、神から離れると、人は獣のようになってしまいます。神の御言葉に基づいて生きることで、私たちは獣の状態から脱却し、神の子としての特権を享受することができます。

【結論】

私たちは神の御言葉に基づいて生きることで、獣のような状態から脱却し、神の子としての特権を享受することができます。神の導きに従い、悟りを得て、栄光の地に受け入れられることを目指しましょう。イエス・キリストの名前によって祝福を祈ります。アーメン。

礼拝説教メッセージ音声:ルベン、ユダへの祝福と、除外されたシメオン(申命記33:6-7):右クリックで保存

6節から、モーセからの各部族への祝福に入る。

「ルベンは生きる、死にはしない。しかし、その人数は少なくなるであろう。」(申命記33:6)
長男ルベンへの祝福は、たとえ人数が少なくなろうとも、生きて、死なない事である。
それがこの部族への祝福なのか、と、驚くかもしれないが、それには訳がある。

ヤコブも死ぬ前、12人の子たちを呼び寄せ、彼らが今後どのようになるかという預言的な言葉を残したが、ルベンへの言葉は以下だった。
『ルベンよ、あなたはわが長子、/わが勢い、わが力のはじめ、/威光のすぐれた者、権力のすぐれた者。しかし、沸き立つ水のようだから、/もはや、すぐれた者ではあり得ない。あなたは父の床に上って汚した。ああ、あなたはわが寝床に上った。』(創世記49:3-4)
ルベンは、沸き立つ水のように奔放で、父のそばめと寝る、という、性的な罪を犯したため、彼の長男の権利は剥奪されてしまった。
この部族は、死海東岸付近に相続地が与えられたが、その部族は後の歴史で、冴える事は無かった。

『ユダについては、こう言った、/「主よ、ユダの声を聞いて、/彼をその民に導きかえしてください。み手をもって、彼のために戦ってください。彼を助けて、敵に当らせてください。」』(申命記33:7)
ユダへの祝福は、主がユダの声を聞いて下さり、主が助け、ユダのために戦って下さり、彼の元に彼の民を導き返して下さる事である。
創世記49章のヤコブの預言では、ユダは獅子の子として勝利し、支配者の杖は離れる事は無いという、素晴らしいものだったが、それに比べると、このモーセの祝福は見劣り感が否めない。
しかし、このモーセの祝福は、ソロモン王以降の時代、イスラエルの他の部族がこぞってユダから離れ、北イスラエル王国と南ユダ王国に分裂して後のユダに対しては、実に的確な執り成しの祈りであると言える。

さて、実は、この申命記33章には名が出てこない部族、モーセの祝福の祈りから除外されてしまった部族がいる。それはシメオン族である。
シメオンとレビは、創世記34章のシェケムの事件で見せた暴虐な行動の故に、ヤコブは以下のように言った。
『シメオンとレビとは兄弟。彼らのつるぎは暴虐の武器。わが魂よ、彼らの会議に臨むな。わが栄えよ、彼らのつどいに連なるな。彼らは怒りに任せて人を殺し、/ほしいままに雄牛の足の筋を切った。彼らの怒りは、激しいゆえにのろわれ、/彼らの憤りは、はなはだしいゆえにのろわれる。わたしは彼らをヤコブのうちに分け、イスラエルのうちに散らそう。』(創世記49:5-7)

また、民数記25章にて、イスラエルが異邦の女達とみだらな事をしだした時、主の罰を受けて、皆が悲しみながら、自分達の中から悪を取り除こうと、悔い改めの集会をしている最中、その目の前で、シメオン族の長の男が、異邦の女を自分の天幕に連れ込む、という事をした。
それを見たレビの子孫・祭司ピネハスが、その男女の腹を槍で一突きにして殺し、主の怒りを自分の怒りとしてあらわしたため、イスラエルへの疫病が止んだ。
シメオン族の長が、このような事を平気でしていた、という事は、一族もろとも、それに同意するような霊的状況であった事が伺える。
そのためか、シメオン族は荒野の40年で、イスラエル12部族中、最も減少率の激しい一族であった。

このように、モーセの祝福からも除外されてしまう程の、どうしようもないシメオン族だったが、新約においては、シメオンの名を持つ人には良い人物が多く、黙示録では、贖われたイスラエル12部族の一つとして、シメオンは復活している。

イエス様の十二弟子の筆頭であるシモンは、ヘブライ語読みはシメオンである。
また、イエス様が誕生した時、正しく信仰深いシメオンという人が、幼子イエス様を抱き、イエス様とその両親について、将来を預言し、祝福した。(ルカ2:25-35)
彼は、イスラエルが慰められるのを待ち望んでいた敬虔な人で、聖霊が宿っており、救い主に会うまでは死ぬことはない、という、聖霊の示しを受けていた。
また、イエス様の受難の時、イエス様の十字架を一緒に背負ったのも、クレネ人シモン(シメオン)であった。

シメオン、その名の意味は「聞く」である。
申命記でよく言われている「シェマー・イスラエル(聞けイスラエル)」の、シェマーである。
聞く姿勢があるシメオンには、イエス様の誕生にも、イエス様の働きの時にも、イエス様の十字架の時にも、そこに同席する恵みに与る事が出来、そして、黙示録においては、新しくされたイスラエル12部族の一つとして、共に栄誉に与る事が出来るのである。

モーセの祝福から漏れてしまった事で、シメオン族は、きっとあわてた事だろう。
しかし、いかにモーセの祝福から除外されたとしても、悔い改めて、主に立ち返り、主に聞く姿勢へと帰るなら、再び恵みに与ることが出来るのだ。

礼拝説教メッセージ音声:モーセの最後の祝福の祈り(申命記33:1-5):右クリックで保存

『神の人モーセは死ぬ前にイスラエルの人々を祝福した。祝福の言葉は次のとおりである。』(申命記33:1)
モーセは、先祖の列に加えられる間際、すなわち、死を目前にして、イスラエル民族を祝福した。
彼らの祖先のヤコブ、すなわち、イスラエルも、先祖の列に加えられる間際に、彼の12人の子たちを呼び寄せて、祝福したし、主イエス様も、十字架にかかられる直前、弟子たちを御名と御言葉へと託す祈りをし(ヨハネ17章)、また、イエス様がよみがえってから、天にあげられる際にも、イエス様は祝福の姿勢のまま、挙げられて行った。(ルカ24:50-51)

祝福、それは私達聖徒が、たがいに愛する者に対して、為すべき事である。
パウロも、殉教を覚悟した時、自分がそれまで養ってきた聖徒達を集め、彼らを、主の恵みと、御言葉とに託す宣言をした。
『だから、目をさましていなさい。そして、わたしが三年の間、夜も昼も涙をもって、あなたがたひとりびとりを絶えずさとしてきたことを、忘れないでほしい。今わたしは、主とその恵みの言とに、あなたがたをゆだねる。御言には、あなたがたの徳をたて、聖別されたすべての人々と共に、御国をつがせる力がある。』(使徒20:31-32)私達聖徒が、息子や娘たち(肉的であれ霊的であれ)に残すべきは、祝福の祈りであり、そして託すべき先は、決して変わる事の無い御言葉であり、神の恵みなのだ。

『「主はシナイからこられ、/セイルからわれわれにむかってのぼられ、/パランの山から光を放たれ、/ちよろずの聖者の中からこられた。その右の手には燃える火があった。』(申命記33:2)
主は、荒野の行程におけるそれぞれの場所で、必要な御言葉を授け、時に道を示し、時には戒め、懲らしめ、そして憐れみで包んで下さった。
私達の人生においても、それぞれの場面場面において、主が御言葉を授けて下さり、導いて下さり、時には訓戒し、そして、私達弱さや罪を、憐れみによって包んで下さった事を、思い出すはずである。

『まことに主はその民を愛される。すべて主に聖別されたものは、み手のうちにある。彼らはあなたの足もとに座して、/教をうける。』(申命記33:3)
主は、主に聖別された民を愛される。それは何も、イスラエルだけに限った事ではない。
「彼らはあなたの足もとに座して、/教をうける。」とある通り、主の御言葉を慕い求める、主の足元に座して教えを受ける人なら、全て、主の民であり、そこには、国籍も血筋も関係無いのだ。

イエス様は、十字架の前夜、弟子たちのために祈られたが、その祈りは、何も、そこにいた弟子たちだけに対してのものではない。
その時代にはまだ生まれていなかった「私達」も含め、将来、キリストにあって信じる全ての者に対し、主は、祈られたのである。
『わたしは彼らのためばかりではなく、彼らの言葉を聞いてわたしを信じている人々のためにも、お願いいたします。父よ、それは、あなたがわたしのうちにおられ、わたしがあなたのうちにいるように、みんなの者が一つとなるためであります。すなわち、彼らをもわたしたちのうちにおらせるためであり、それによって、あなたがわたしをおつかわしになったことを、世が信じるようになるためであります。
わたしは、あなたからいただいた栄光を彼らにも与えました。それは、わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためであります。わたしが彼らにおり、あなたがわたしにいますのは、彼らが完全に一つとなるためであり、また、あなたがわたしをつかわし、わたしを愛されたように、彼らをお愛しになったことを、世が知るためであります。』(ヨハネ17:20-23)
ゆえに、私達は主の執り成しと、御言葉によって、聖められ、世から分離されるのである。

『モーセはわれわれに律法を授けて、/ヤコブの会衆の所有とさせた。民のかしらたちが集まり、/イスラエルの部族がみな集まった時、/主はエシュルンのうちに王となられた」。』(申命記33:4-5)
再び、「エシュルン」という言葉が用いられている。
エシュルンは、イスラエルをあらわす言葉であるが、最初に登場したエシュルンは、主に良くしていただいて肥え太った時に裏切る者として記された。(32:15)
そして、次に登場するエシュルンが、今回の箇所であり、主が王となられる様が記されており、そして、最後に登場するエシュルンは、主が共におられるさいわいな者として、記されている。(26節)
これは、私達が造り変えられていく有り様にも似ている。
最初は主を裏切っていた私達も、主が王となられ、私達を支配し、私達が主の支配の内に整えられて行く内に、とこしえに主が共におられる幸いへと入るのである。
『見よ、神の幕屋が人と共にあり、神が人と共に住み、人は神の民となり、神自ら人と共にいまして、人の目から涙を全くぬぐいとって下さる。もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない。先のものが、すでに過ぎ去ったからである。』(黙示録21:3-4)

礼拝説教メッセージ音声:御言葉は虚しい言葉ではなく、いのちである(申命記32:44-52):右クリックで保存

『モーセとヌンの子ヨシュア(原文:ホシェア)は共に行って、この歌の言葉を、ことごとく民に読み聞かせた。モーセはこの言葉を、ことごとくイスラエルのすべての人に告げ終って、彼らに言った。』(申命記32:44-46a)

ヨシュアは、以前はホシェアという名前だったが、エジプトを出たばかりの40年前、彼が12人の斥候として約束の地を探りに行く際に、モーセが彼の名前をヨシュアに変えたのだ。(民数記13:16)
モーセは、信仰のチャレンジが要求される任務に就かせるにあたって、救いの拠り所は「主」にあると、明確にしたのだろう。
ホシェアは「救い」という意味であるが、ヨシュアは「主は彼の救い」という意味であり、また、ヨシュア(イエシュア)は、イエス様と同じ名前である。
私達も、救いの拠り所が「主」であると明確にされる時、強く雄々しくなれる根拠が、はっきりとされる。

『「あなたがたはわたしが、きょう、あなたがたに命じるこのすべての言葉を心におさめ、子供たちにもこの律法のすべての言葉を守り行うことを命じなければならない。この言葉はあなたがたにとって、むなしい言葉ではない。これはあなたがたのいのちである。この言葉により、あなたがたはヨルダンを渡って行って取る地で、長く命を保つことができるであろう。」』(申命記32:46-47)

主の御言葉を「難しい」「堅い」などと言って、自分の中で「むなしい」と見做したり、捨て去ってはならない。
「これはあなたがたのいのちである」からである。

もし、御言葉をつまらない、むなしい、とするなら、いのちを捨てるようなものである。
だから、もし御言葉が難しいなら、その内容が理解できるよう、祈り求めるべきである。
御言葉は、実は自分を生かすいのちそのものである事が分かる知恵を下さい、その良き「いのち」の魅力がわかるように、もっと慕い求める事が出来るように、と、祈り求めるべきである。
求めるなら、主は、必ず与えて下さる。

『この日、主はモーセに言われた、「あなたはエリコに対するモアブの地にあるアバリム山すなわちネボ山に登り、わたしがイスラエルの人々に与えて獲させるカナンの地を見渡せ。あなたは登って行くその山で死に、あなたの民に連なるであろう。あなたの兄弟アロンがホル山で死んでその民に連なったようになるであろう。
これはあなたがたがチンの荒野にあるメリバテ・カデシの水のほとりで、イスラエルの人々のうちでわたしにそむき、イスラエルの人々のうちでわたしを聖なるものとして敬わなかったからである。それであなたはわたしがイスラエルの人々に与える地を、目の前に見るであろう。しかし、その地に、はいることはできない。」』(申命記32:48-52)
いよいよモーセの最後の時が近づいた。
イスラエルをここまで導いて来た立役者であるモーセ自身は、その地をはるかに仰ぎ見る事は出来ても、入れないのである。
律法は、せよ・するなの集大成であり、彼はその律法の象徴的な存在であるが、律法によっては、まことの約束の地である天の御国に入れないのだ。

『いったい、律法はきたるべき良いことの影をやどすにすぎず、そのものの真のかたちをそなえているものではないから、年ごとに引きつづきささげられる同じようないけにえによっても、みまえに近づいて来る者たちを、全うすることはできないのである。もしできたとすれば、儀式にたずさわる者たちは、一度きよめられた以上、もはや罪の自覚がなくなるのであるから、ささげ物をすることがやんだはずではあるまいか。しかし実際は、年ごとに、いけにえによって罪の思い出がよみがえって来るのである。なぜなら、雄牛ややぎなどの血は、罪を除き去ることができないからである。』(ヘブル10:1-4)

律法は、来たるべき良いことの影であり、罪のきよめも、永遠のいのちの授与も、無い。
しかし人は、キリストを信じる信仰によって、新しく造り替えられる望みが与えられた。

最初の人アダムの失敗により、罪が混じって台無しになってしまった古きこの肉の体は、イエスを信じる信仰によって、死へと明け渡され、イエスの復活と共によみがえらされ、新しい、永遠のいのちが与えられる望みが開かれたのだ。
まことの約束の地へと導くのは、モーセや律法ではない。ヨシュア(イエシュア)、すなわち、私達の主・イエス様なのだ。
『ただ一度イエス・キリストのからだがささげられたことによって、わたしたちはきよめられたのである。こうして、すべての祭司は立って日ごとに儀式を行い、たびたび同じようないけにえをささげるが、それらは決して罪を除き去ることはできない。しかるに、キリストは多くの罪のために一つの永遠のいけにえをささげた後、神の右に座し、それから、敵をその足台とするときまで、待っておられる。彼は一つのささげ物によって、きよめられた者たちを永遠に全うされたのである。』(ヘブル10:10-14)

礼拝説教メッセージ音声:主は打ち、また癒やす(申命記32:36-43):右クリックで保存

『主はついにその民をさばき、/そのしもべらにあわれみを加えられるであろう。これは彼らの力がうせ去り、/つながれた者もつながれない者も、/もはやいなくなったのを、主が見られるからである。』(申命記32:36)
主は懲らしめられるが、いつまでも罰するという事はしない。主は、人を打ち叩く事を趣味とはされず、むしろ立ち返って幸いを与える事を、望まれる。

『わたしは確かに、エフライムが/こう言って嘆くの聞いた、『あなたはわたしを懲らしめられた、わたしはくびきに慣れない子牛のように/懲らしめをうけた。主よ、あなたはわたしの神、主でいらせられる、わたしを連れ帰って、もとにかえしてください。わたしはそむき去った後、悔い、教をうけた後、ももを打った。若い時のはずかしめが身にあるので、わたしは恥じ、うろたえた。』
主は言われる、エフライムはわたしの愛する子、わたしの喜ぶ子であろうか。わたしは彼について語るごとに、なお彼を忘れることができない。それゆえ、わたしの心は彼をしたっている。わたしは必ず彼をあわれむ。』(エレミヤ31:18)

人が心から悔い改め、主に立ち返るなら、主は再び憐れみの御手で包み、癒して下さる。
心から悔い改める、とは、このエフライムの嘆きのように、自分がして来た事の罪深さを知り、悲しみ、ももを打ち叩くような恥ずかしさを覚える事である。
もし自分がして来た事を理解せず、それを恥じたり悲しんだりという事が無いとするなら、再びその罪を繰り返すものだ。

『そのとき主は言われるであろう、/『彼らの神々はどこにいるか、/彼らの頼みとした岩はどこにあるか。彼らの犠牲のあぶらを食い、/灌祭の酒を飲んだ者はどこにいるか。立ちあがってあなたがたを助けさせよ、/あなたがたを守らせよ。今見よ、わたしこそは彼である。わたしのほかに神はない。わたしは殺し、また生かし、/傷つけ、またいやす。わたしの手から救い出しうるものはない。』(申命記32:37-39)

人が主を離れ、それぞれ好き勝手な神々により頼み、何の恩恵も無いどころか、災いばかりが降され、さんざんな目にあった時、主は、その人に思い起こされる。
あなた方が頼みとして来た神々は、一体、どこにあったのか。
結局、わたしこそが唯一の主、唯一の神ではなかったのか。思い出してみなさい、と。

ハンナも、同じ賛美をしている。
『主は殺し、また生かし、/陰府にくだし、また上げられる。主は貧しくし、また富ませ、/低くし、また高くされる。貧しい者を、ちりのなかから立ちあがらせ、/乏しい者を、あくたのなかから引き上げて、/王侯と共にすわらせ、/栄誉の位を継がせられる。
地の柱は主のものであって、/その柱の上に、世界をすえられたからである。主はその聖徒たちの足を守られる、/しかし悪いものどもは暗黒のうちに滅びる。人は力をもって勝つことができないからである。主と争うものは粉々に砕かれるであろう、/主は彼らにむかって天から雷をとどろかし、/地のはてまでもさばき、/王に力を与え、/油そそがれた者の力を強くされるであろう」。』(1サムエル2:6)

主は確かに、一時的に懲らしめられる。しかし、再び憐れんで下さる。それは、私達の中から高ぶりや罪の愚かさを取り除くためである。
主は確かに、一時的に痛めつけられるが、再び癒やして下さる。それは、主に仕える事の幸いと謙遜さを学ばせるためである。
そして、懲らしめの中から学ぶべき事を学んだ時、主は再び高くあげ、もう二度と、私達を不従順による滅びには向わせないようにされるのだ。

『わたしは天にむかい手をあげて誓う、/「わたしは永遠に生きる。わたしがきらめくつるぎをとぎ、/手にさばきを握るとき、/わたしは敵にあだを返し、/わたしを憎む者に報復するであろう。わたしの矢を血に酔わせ、/わたしのつるぎに肉を食わせるであろう。殺された者と捕えられた者の血を飲ませ、/敵の長髪の頭の肉を食わせるであろう」』。国々の民よ、主の民のために喜び歌え。主はそのしもべの血のために報復し、/その敵にあだを返し、/その民の地の汚れを清められるからである。」』(申命記32:40-43)
主は、民を懲らしめるために、敵をも用いられるが、もし彼らが、神の民に勝利した事でいい気になり、勝利させて下さった主を恐れず、主の民を打ち叩くを止めないなら、主はその者達をも必ず罰されるのだ。

以上が、イスラエルの民が約束の地に入る直前、モーセが死ぬ間際に、イスラエルに主が与えられた歌の全容であるが、この内容は、キリストにあって神の民とされた私達にも、深く関わりのある事である。
主は、主をないがしろにする者に対しては、災いをもって懲らしめるが、悔い改めるなら癒やし、再び愛の御手で包まれる。
そして主の敵に対しては、必ず復讐される。
私達は、決して、主をないがしろにしたり、主からの恩を仇で返すこと無く、初めから終わりまで、主を敬い、御言葉を守り行い、災いに遭わされる事なく、いつも祝福が注がれる者でいたい。

復活以降の主の現れ方(ルカ24:13-35)
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復活以降のイエス様は、突然現れたり、消えたり、一瞬で遠く離れた場所に現れたり、イエス様がそこにいるというのに、弟子たちは、それをイエス様だと気付かなかったりと、色々不思議な事がある。
この、復活以降のイエス様の現れ方は、現代を生きる私達への現れ方と、全く同じである。
復活以降のイエス様は、主にある兄弟姉妹が、二人でも三人でもイエスの名の元に集まっている時、そこがどんなに遠くであれ、いかに鍵を閉じた部屋に隠れていようと、主はそこに来られるのだ。
この事は、実際、現代の我々も体験している所である。復活以降のイエス様は、どんな風に我々と接されるのか。エマオへの途上の弟子達に現れて下さった場面から学びたい。

『この日、ふたりの弟子が、エルサレムから七マイル(十一キロメートル余り)ばかり離れたエマオという村へ行きながら、このいっさいの出来事について互に語り合っていた。』(ルカ24:13-14)
この日とは、週の初めの日、すなわち主日である。そして彼らは、イエス様に関する出来事について、話しあったり論じ合ったりしていたが、二人の目は「さえぎられて(クラテオー)」いた。そこにイエス様は現れた。
このクラテオーは、力づくで思いのままにする、握りしめる、という意味であり、つまりこの二人のその時の状態は、信仰者に望ましい「従順」や「明け渡し」とは逆の状態で、イエス様について論じ合っていたのだ。
現代の我々も、同じ経験をする。主ご自身が近づいてきているのに、思いも心もクラテオーの状態だと、イエス様が目の前におられるというのに、死と心配に満ちた思いを握りしめ、暗い顔つきで、イエス様に面と向かって、イエス様についての心配ごとや、死の話題をしてしまう。

二人は実際に起こった出来事、すなわち、墓には御体が無かった事や、女達がイエス様と出会った、と言っていた事などを、暗い顔つきで論じた時、主は「ああ、頭の悪い心の鈍い者らよ」と言って諭された。
そしてイエス様は、モーセやすべての預言者からはじめて、聖書全体にわたり、ご自身について記してある事どもを、説きあかされた。
不思議である。「私がイエスだ」と一言言えば、話は簡単に済むであろうに、そうではなく、聖書の話題へと導いたのだ。なぜ、そんな遠回りな事をされたのだろうか。ここに、私達が学ぶべき姿勢がある。
現代私達が拠りすがるべきは、目で見たり手で触れたりが可能な人間ではなく、御言葉なるイエスなのだ。
私達は、自分の思いの「握りしめ」を手放し、御言葉へと耳と心と思いを向けるべきなのだ。

弟子達は、目的地に近づいたのに、彼はさらに先へ行こうとしていたので、弟子たちは強いて一緒にいるよう押し留めた。なぜなら、このお方の語る聖書の言葉に、心が燃え出していたからである。
それまで彼らの心は、死が、心配が、支配し、主が生きていると言った女達の言う事を、たわごとだと思っていた不信仰な心に、御言葉の種が蒔かれると、死はいのちに、心配は平安へと取って変わって行くのだ。
自分の固定概念を一旦置いて、御言葉に耳を傾ける時、いかなる騒動があっても、心が燃えるのだ。

食事の席に着いた時、主ご自身がパンを裂いた。この場合、招いたホストである弟子達が「パンを裂く」という”もてなし”をするはずなのに、招かれた側の主のほうが、パンを取り、祝福して裂き、手渡して下さった。
その時、彼らはハッとしたに違いない。この経験、かつてあった、と。5千人以上の前で、4千人以上の前で、十字架の前の晩において、パンを取り、祝福して裂き、手渡してくださったのは、イエス様であった。
主は食べ物のパンだけでなく、物質的・金銭的・精神的な必要を満たすパンを取り、祝福して裂き、私達に手渡してくださる。それが私達に渡された時、確かに主がそこにおられた、と気付くのである。

この弟子達は主だと知って、夜で疲れていたにもかかわらず、歩いてきた11.5キロの道を戻って、弟子達に起きた出来事を伝えた。疲れていても夜であっても、主の良きお方である事を伝えずにはおれないのだ。
私達も、日常の内に隠れているイエス様に気付くべきである。彼に御言葉を解き明かされ、豊かに養われるべきである。そして主ご自身からパンを受け取り、主が確かにこの旅路に共におられ、御言葉を示された事を伝えずにはおれなくなる皆さんでありますように、イエス様の名前によって祝福します!

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「服従」という名の要塞を打ち破る武器(ピリピ2:1-11):右クリックで保存

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ガダラ人の地での主の働き(マタイ8:28-34):右クリックで保存

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