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礼拝説教メッセージ音声:主の御顔が隠されてしまう呪い(申命記31:14-18):右クリックで保存

前回の箇所で、モーセは、主から命じられた事を全て書き記して、それを民の長と祭司に託し、7年ごとに全イスラエルに読んで聞かせるよう命じたが、その次に主は、モーセとヨシュアだけを会見の幕屋に呼び寄せ、イスラエルの民が何を考えており、これから何をしようとしているかをプライベートに示された。

『主はまたモーセに言われた、「あなたの死ぬ日が近づいている。ヨシュアを召して共に会見の幕屋に立ちなさい。わたしは彼に務を命じるであろう」。モーセとヨシュアが行って会見の幕屋に立つと、主は幕屋で雲の柱のうちに現れられた。その雲の柱は幕屋の入口のかたわらにとどまった。
主はモーセに言われた、「あなたはまもなく眠って先祖たちと一緒になるであろう。そのときこの民はたちあがり、はいって行く地の異なる神々を慕って姦淫を行い、わたしを捨て、わたしが彼らと結んだ契約を破るであろう。』(申命記31:14-16)

人はうわべしか見れないが、主は、心を見られる。
イスラエルの民は、口では主の契約を守り行います、とは言ったものの、心の秘められた所では、実は、主を敬いもせず、御言葉を何とも思っていない事を、主はご存知であり、このまま行くなら、彼らはやがて主を捨て、外国の偽りの神々を慕い求めるようになる事を、知っておられたのだ。
『その日には、わたしは彼らにむかって怒りを発し、彼らを捨て、わたしの顔を彼らに隠すゆえに、彼らは滅ぼしつくされ、多くの災と悩みが彼らに臨むであろう。そこでその日、彼らは言うであろう、「これらの災がわれわれに臨むのは、われわれの神がわれわれのうちにおられないからではないか。」しかも彼らがほかの神々に帰して、もろもろの悪を行うゆえに、わたしはその日には必ずわたしの顔を隠すであろう。』(申命記31:17-18)

主の御声に聞き従わずに、そむいたとしたら、何が起きるか。
それは28章以降で、さんざん繰り返し言われていた通りである。主の御怒りを買ってしまい、必ず災いにあうと、彼らは何度も聞いていたはずだ。
それなのに彼らは、主の御言葉を軽んじ、いざ災いが降りかかった時には、「これらの災がわれわれに臨むのは、われわれの神がわれわれのうちにおられないからではないか。」と言うのだ。
自分の思いどおりに生きたい人とは、そのようなもので、主の言われる事も、人が言っている事も、心を留めないため、物事の的を射ず、労多くして功少ない人生であるばかりでなく、主からの災いが絶えないのだ。

主は、主を捨て去って、御言葉を破った者に対しては、「わたしの顔を彼らに隠す」と、2回も、「御顔をそむける」事の警告している。
主の御顔、それは、私達を照らして、いのちの祝福を与える太陽であり、また、私達の平和の源である。

以下の言葉は、有名な祝福の言葉であるが、「御顔を向ける」事を2度、言っている。
「願わくは主があなたを祝福し、/あなたを守られるように。願わくは主がみ顔をもってあなたを照し、/あなたを恵まれるように。願わくは主がみ顔をあなたに向け、/あなたに平安を賜わるように」(民数記6:24-26)
主の御顔、それは私達には太陽であり、盾である。

主は、私達の身代わりとなって神に見捨てられ、「御顔がそむけられる」呪いを十字架上で味わった。(マルコ15:33-34)
本来、私達が父なる神と断絶されるべき所を、イエス様が身代わりとなって断絶され、それで彼にあって私達は神との和解を得た。

イエス様が十字架につけられていた時、同じ刑罰を受けていた罪人が、右と左にいたように、私達も、イエス様の十字架を前に、2つの道に分かれる。
すなわち、その中の一人の罪人のように、自分の罪は一切打ち捨てたままにして、ただ「自分を十字架から降ろして救え、救えないなら救い主ではない」「これらの災がわれわれに臨むのは、われわれの神がわれわれのうちにおられないからではないか」などと言って、主を罵り続け、滅びに向かうか。
それとも、もう一人のように、自分の罪を認め、イエス様は生と死を超越した王である事を認め、個人的に彼に救いを求め、そうしてイエス様と共にパラダイスへ行くか。

パラダイスに行った罪人のように、自分の罪を認め、主に個人的に交わりを求め、主と共にパラダイスに行く皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:子々孫々に御言葉を読み聞かせよ(申命記31:9-13):右クリックで保存

『モーセはこの律法を書いて、主の契約の箱をかつぐレビの子孫である祭司およびイスラエルのすべての長老たちに授けた。』(申命記31:9)
モーセは、死を目前にして、後継者であるヨシュアへの引き継ぎをし、主から受けた事の全てを、後世に残す整えをしている。
彼は、今まで主からいただいた言葉を、ことごとく書物にしるし、それを、民の長と、祭司とに託した。

『そしてモーセは彼らに命じて言った、「七年の終りごとに、すなわち、ゆるしの年の定めの時になり、仮庵の祭に、イスラエルのすべての人があなたの神、主の前に出るため、主の選ばれる場所に来るとき、あなたはイスラエルのすべての人の前でこの律法を読んで聞かせなければならない。すなわち男、女、子供およびあなたの町のうちに寄留している他国人など民を集め、彼らにこれを聞かせ、かつ学ばせなければならない。そうすれば彼らはあなたがたの神、主を恐れてこの律法の言葉を、ことごとく守り行うであろう。』(申命記31:10-12)

モーセは、祭司と民の長に託した律法の書物を、七年ごとに、老若男女全イスラエルに読み聞かせ、学ばせるよう命じた。
そうして主の命令を子々孫々へと伝え、それを守り行う事によって、イスラエルは末永く祝福に与かるためである。

実際、そこに記されている通りに守り行っていた時は、大いに強くなり、ますます栄えて行った。
しかしやがて、その御教えはおろそかにされてゆき、イスラエルの信仰が廃れ始めた時から、栄光も同じく、廃れ始めて行った。
その廃れ始めた時期は、実に早く、モーセの後継者ヨシュアの時代のすぐ後からである。

モーセは、記された命令を、第七の年の仮庵祭で読み聞かせるよう命じていたが、仮庵祭がおろそかになりだしたのは、ヨシュアの時代のすぐ後からで、それから何百年もの長きに渡り、仮庵祭は正しく行われておらず、次に仮庵祭が正当に行われたのは、ネヘミヤの時代になるまでであった。すなわち、イスラエルが不従順に不従順を重ねてバビロンへ捕囚となり、そこから人々が帰って後の時代になってから、であった。(ネヘミヤ8章)
『捕囚から帰って来た会衆は皆仮庵を造って、仮庵に住んだ。ヌンの子ヨシュアの日からこの日まで、イスラエルの人々はこのように行ったことがなかった。それでその喜びは非常に大きかった。』(ネヘミヤ8:17)
また、第2列王記22-23章を見ると、モーセがこの時、民の長と祭司とに託した御言葉の書物は、ヨシヤ王の時代までの数百年、ずっと神殿の奥で陽の目を見る事なく、埃かぶって放置されていたようである。
ヨシヤは信仰回復の執政を行い祝福されたが、彼の前の王達も、後の王達も、災が絶えなかった。

そういう訳で、信仰を子々孫々へと継承する事は、とても大事である。
皆さんは、子供の教育において、いい塾や大学に行かせる事以上に、御言葉を伝え、信仰を継承させる事に、心砕いているだろうか。
確かに勉強も大事だが、信仰を育む事のほうが、はるかに大事である。
なぜなら主は、主を敬わない東大生より、主を敬う中卒の方を、祝福されるからだ。

主はうめきつつ、幾度も幾度も、呼びかけている。聞け、イスラエル、と。
聞かない私達にも、御言葉に聞き従え、と。
私達は断然、主の御声に聞き従い、主が与えようとして用意されている祝福に入るべきだ。

礼拝説教メッセージ音声:強く雄々しく進み行け(申命記31:1-8):右クリックで保存

前章までの所では、祝福を受ける法則と、その逆ののろいを受けてしまう法則とを、繰り返し丁寧に教えこまれて来た。
そして、祝福を受ける法則とは、何度も聞いてきた通り、、御声に聞き従い、御言葉を守り行う事だった。
この祝福の法則に立つならば、あの有名な励まし「強くあれ、雄々しくあれ」の幸いに入る事が出来る。

『そこでモーセは続いてこの言葉をイスラエルのすべての人に告げて、彼らに言った、「わたしは、きょう、すでに百二十歳になり、もはや出入りすることはできない。また主はわたしに『おまえはこのヨルダンを渡ることはできない』と言われた。あなたの神、主はみずからあなたに先立って渡り、あなたの前から、これらの国々の民を滅ぼし去って、あなたにこれを獲させられるであろう。また主がかつて言われたように、ヨシュアはあなたを率いて渡るであろう。』(申命記31:1-3)

モーセ五書の中心人物であり、律法の代表的存在とも言えるモーセの死は、いよいよ近くなった。
彼は、多くの実績と功労を残したが、たった一つの過ちを犯したが故に、主が用意された安息の地には、入れない事が、確定してしまった。
一つでも過ちを犯してしまうと、どんな功績を残しても、安息には入れない。
その事は、律法の性質をよく表している。

律法は、たった一つの違反を犯しても、律法の全体を犯したと、みなされてしまう。(ヤコブ2:10)
そして律法の致命的欠陥は、人には違反があるという事を単に示すだけで、いのちを与える事ができない事である。(ガラテヤ2:21, 3:21)
『いったい、律法の行いによる者は、皆のろいの下にある。「律法の書に書いてあるいっさいのことを守らず、これを行わない者は、皆のろわれる」と書いてあるからである。そこで、律法によっては、神のみまえに義とされる者はひとりもないことが、明らかである。なぜなら、「信仰による義人は生きる」からである。』(ガラテヤ3:10-11)

モーセは、約束の地の手前までは導く事は出来ても、約束の地に導き入れる場面には立ち会えなかった。
人々を約束の地へと導き入れるのは、モーセではなく、ヨシュアである。
この事も、イエス・キリストを信じる信仰と、旧約律法との関係を、よくあらわしている。

ヨシュア、その名はヘブライ語読みでは「イエシュア」、すなわち、イエス様と同名である。
私達を約束の地、すなわち、永遠のいのちへと導くお方は、モーセに代表される律法ではなく、イエスキリストである。
律法は、イエス・キリストへと導く事はできても、実際に安息の地へは入れない。
永遠の安息の地・天国へと導き入れるのは、イエスである。
『律法は、信仰によって義とされるために、わたしたちをキリストに連れて行く養育掛となったのである。』(ガラテヤ3:24)

律法にあって歩む人は、確かに祝福と幸いを受けるが、律法は人を義とする事も、永遠のいのちを与える事も、出来ない。(ガラテヤ2:21, 3:21)
人を義とするのも、永遠のいのちを与えるのも、唯一、イエス・キリスト、この御方である。

『主がさきにアモリびとの王シホンとオグおよびその地にされたように、彼らにもおこなって彼らを滅ぼされるであろう。』(申命記31:4)
少し前、イスラエルは、広大な地域を支配する王たち、シホンとオグに、やすやすと勝利した。(民数記21章)
そのように、いかに広大な地に住む強敵であっても、以下の事を守るなら、カナンの町々をも勝利させ、やすやすと入る事が出来る。
『主は彼らをあなたがたに渡されるから、あなたがたはわたしが命じたすべての命令のとおりに彼らに行わなければならない。あなたがたは強く、かつ勇ましくなければならない。彼らを恐れ、おののいてはならない。あなたの神、主があなたと共に行かれるからである。主は決してあなたを見放さず、またあなたを見捨てられないであろう。』(申命記31:5-)

恐れない事こそ、肝要である。
40年前、イスラエルは、もう約束の地まであと一歩という所で、恐れをなして、進み行かなかった。それで、荒野での40年の放浪に、陥ってしまった。
私達の信仰生活でも、この、恐れの故に、信仰の「あと一歩」が踏み出せず、40年の荒野の放浪に迷っているクリスチャンは多い。

私達は、恐れて尻込みする者ではなく、進み行って勝ち取る者でありたい。信じて進み行くなら、あっさりと勝利し、祝福を勝ち得るのである。
『ですから、あなたがたの確信を投げ捨ててはなりません。それは大きな報いをもたらすものなのです。あなたがたが神のみこころを行なって、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です。「もうしばらくすれば、来るべき方が来られる。おそくなることはない。わたしの義人は信仰によって生きる。もし、恐れ退くなら、わたしのこころは彼を喜ばない。」私たちは、恐れ退いて滅びる者ではなく、信じていのちを保つ者です。』(ヘブル10:35-39)

礼拝説教メッセージ音声:いのちと死、祝福とのろい - あなたはいのちを選べ(申命記30:15-20):右クリックで保存

『見よ、わたしは、きょう、命とさいわい、および死と災をあなたの前に置いた。・・・わたしは、きょう、天と地を呼んであなたがたに対する証人とする。わたしは命と死および祝福とのろいをあなたの前に置いた。あなたは命を選ばなければならない。』(申命記30:15-19)

主は、聖書全体を通して、人に、究極の二択を提示している。
すなわち、命か、死か。幸いか、呪いか。従順か、反逆か。
そして、どちらを選んだら、どんな結果が待っているのかも、あらかじめ明示しておられる。

『すなわちわたしは、きょう、あなたにあなたの神、主を愛し、その道に歩み、その戒めと定めと、おきてとを守ることを命じる。それに従うならば、あなたは生きながらえ、その数は多くなるであろう。またあなたの神、主はあなたが行って取る地であなたを祝福されるであろう。
 しかし、もしあなたが心をそむけて聞き従わず、誘われて他の神々を拝み、それに仕えるならば、わたしは、きょう、あなたがたに告げる。あなたがたは必ず滅びるであろう。あなたがたはヨルダンを渡り、はいって行って取る地でながく命を保つことができないであろう。』(申命記30:16-18)

ここで人に提示されている命令は、主を愛し、その道に歩み、その戒めと定めと、おきてとを守る事、である。
それに服従した人に待ち受けている幸いは、長く生き、子孫は多くなり、主が与えて下さる地で祝福される事である。
そして、命令にそむき、主を捨てて他の神に向かう者に与えられる結果は、これから入って行こうとしている地で、長生きできない事、必ず滅びる事である。

クイズ番組では、よく、正解した場合に与えれる賞品と、間違えた場合に受けるべき罰ゲームとが予め示されるが、神が全人類に示された二択クイズには、なんと、はじめから正しい答えが公に知らされており、しかもなんと、正解した場合に与えられる賞品は、永遠のいのちの祝福、そして、間違えた場合に受けるべき罰は、永遠の火による苦しみなのだ。
ところが、最初の人アダムは、神から提示された最初のクイズ、いのちの木か、善悪の知識の木か、という二択において、神から示されていた正解を退け、悪しき者から受けたアドアイスに従ってしまい、「善悪の道」を選んでしまったために、定められていた死と呪いという罰が、科せられてしまった。

それで人は、永遠に退場し、永遠に罰を受けなくてはならなくなったのか、というと、そうではない。
神は人を、限りなく憐れまれ、敗者復活戦のチャンスを用意されたのだ。
その敗者復活クイズとは、御子キリストを信じるか、それとも、信じないか、である。

『神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世につかわされたのは、世をさばくためではなく、御子によって、この世が救われるためである。彼を信じる者は、さばかれない。信じない者は、すでにさばかれている。神のひとり子の名を信じることをしないからである。』(ヨハネ3:16-18)
この敗者復活のクイズに正しく答えた人、すなわち、御子イエス・キリストを信じ、彼を救い主とした人に与えられる賞品とは、最初のクイズで間違えた事の罰ゲーム、すなわち、永遠の火というさばきをまぬがれ、むしろ神の子とされ、永遠のいのちを受ける事である。
そこまでのチャンスが与えられているのに、それをないがしろにし、あくまで正当な答えをしない人には、もはや敗者復活は無い。
『もしわたしたちが、真理の知識を受けたのちにもなお、ことさらに罪を犯しつづけるなら、罪のためのいけにえは、もはやあり得ない。ただ、さばきと、逆らう者たちを焼きつくす激しい火とを、恐れつつ待つことだけがある。モーセの律法を無視する者が、あわれみを受けることなしに、二、三の人の証言に基いて死刑に処せられるとすれば、神の子を踏みつけ、自分がきよめられた契約の血を汚れたものとし、さらに恵みの御霊を侮る者は、どんなにか重い刑罰に価することであろう。』(ヘブル10:26-29)

主は、この永遠を左右する二択クイズに、あらかじめ正しい答えを示し、しかも、そちらを選べと命じている。
『わたしは、きょう、天と地を呼んであなたがたに対する証人とする。わたしは命と死および祝福とのろいをあなたの前に置いた。あなたは命を選ばなければならない。』(申命記30:19)
いのちを捨てる程の愛で迫り、御子の犠牲によって私達に正しい答えを用意し、いのちの道を示して下さった主に対し、私達はどうしてそれをないがしろにし、間違った答えを選択できるだろうか。

礼拝説教メッセージ音声:御言葉はあなたの遠くには無く間近にある(申命記30:11-14):右クリックで保存

『わたしが、きょう、あなたに命じるこの戒めは、むずかしいものではなく、また遠いものでもない。』(申命記30:11)
モーセが命じた”戒め”は、「**しなさい」「**してはならない」という単純明快なもので、それは本来、守る・守らないの二つに一つしかないのに、御言葉をそのままいただくという事をしない人、自己主張が大好きな人は、パリサイ人や律法学者のように、単純明快な主の戒めに身勝手な解釈を付け足したり、あるいは差し引いたりして、複雑怪奇なものにしてしまい、神の国に入ろうとしないばかりか、入ろうとしている人の邪魔さえしている。(マタイ23章)
彼らは、「解釈」という隠れ蓑に隠れて、一見、御言葉を守っているかのように見えるが、実は、守っていなかったりするのである。

『パリサイ人とサドカイ人とが近寄ってきて、イエスを試み、天からのしるしを見せてもらいたいと言った。イエスは彼らに言われた、「あなたがたは夕方になると、『空がまっかだから、晴だ』と言い、また明け方には『空が曇ってまっかだから、きょうは荒れだ』と言う。あなたがたは空の模様を見分けることを知りながら、時のしるしを見分けることができないのか。邪悪で不義な時代は、しるしを求める。しかし、ヨナのしるしのほかには、なんのしるしも与えられないであろう」。そして、イエスは彼らをあとに残して立ち去られた。』(マタイ16:1-4)

主が私達に何を求めておられるのかを知るために、また、神のみわざを見るために、なにも、天からのしるしを求める必要はない。
それらは、空模様の見分け方と同じである。
夕焼けが真っ赤であるなら、明日は晴れると容易に予想できるように、主イエスを信じるなら、あなたもあなたの家族も救われると、容易に予想できるはずだし、空が曇っているなら天気は荒れると予想できるように、与えない者や物惜しみする者には、押入れゆすり入れして与えられる恵みにはあずかれないと、容易に予想できるはずだ。
御言葉を実践する事は、大掛かりな、非日常的な、仰々しいものではなく、空模様の見分けと同じくらいに、日常的・身近なものなのだ。

むしろ、私達が主イエスに期待するべきしるしは、ヨナのしるし、すなわち、死と復活である。
つまり、「自己主張」や「身勝手」は、十字架の死へと渡して、キリストにあるいのちの祝福に息吹かれる事を求めるべきである。

『これは天にあるのではないから、『だれがわれわれのために天に上り、それをわれわれのところへ持ってきて、われわれに聞かせ、行わせるであろうか』と言うに及ばない。またこれは海のかなたにあるのではないから、『だれがわれわれのために海を渡って行き、それをわれわれのところへ携えてきて、われわれに聞かせ、行わせるであろうか』と言うに及ばない。』(申命記30:12-13)

神の御言葉を得るために、何も、海の彼方へと船を乗り出さなくても良いし、ロケットに乗って天に行く必要も無い。
なぜなら、神ご自身が人となって、天を押し曲げて降りて来て下さり、私達の身近に来て、御言葉を示して下さったからだ。
『言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。わたしたちはその栄光を見た。それは父のひとり子としての栄光であって、めぐみとまこととに満ちていた。』(ヨハネ1:14)
肉として私達の間に宿って下さった、御言葉ご自身なるキリスト。
私達はこの御方にあって、神の栄光を見る事が出来るのだ。

『この言葉はあなたに、はなはだ近くあってあなたの口にあり、またあなたの心にあるから、あなたはこれを行うことができる。』(申命記30:14)
今やキリストにあって、神の言葉は石の板にではなく、私達の心に直接刻みつけられる。
『すなわちわたしは、わたしの律法を彼らのうちに置き、その心にしるす。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となると主は言われる。人はもはや、おのおのその隣とその兄弟に教えて、『あなたは主を知りなさい』とは言わない。それは、彼らが小より大に至るまで皆、わたしを知るようになるからであると主は言われる。わたしは彼らの不義をゆるし、もはやその罪を思わない。』(エレミヤ31:33-34)

だから私達は、御声を聞くために、大層な事をしでかす必要な無い。
いつも私達の内に生き、いつも共にいて下さるキリストに聞き、手元にある聖書にたずね、示された御言葉に従って行けば良いのである。

十字架上の七つの言葉 1 (イザヤ53:10-12)
第一礼拝・礼拝全体音声:右クリックで保存
第二礼拝・礼拝全体音声(韓国語通訳有한국어예배):右クリックで保存
週報/メッセージ(説教)概要:右クリックで保存

本日はイースター、イエス様の復活を記念する日である。
イエス様は十字架の苦しみと死を経られ、復活された。イエス様が通られた一連の十字架の経験と、十字架上で為して下さった業は、私達キリスト者には最も大切な事である。なぜなら、彼が十字架上でなされたその一つ一つの故に、私達は執り成され、全ての贖いが成され、パラダイスへの道が開かれたからである。
イエス様が十字架上で発された言葉は、7つあり、それらは、御父に、私達に、そして、全被造物のために語られた。それら7つの言葉を、今回と次回とで見て行きたい。

まず一つ目の言葉は、「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」(ルカ23:34)である。これはイエス様が二人の犯罪人と共に十字架につけられた時に語られた。
この言葉は、他の誰にでもない、父なる神へ語った言葉であり、父の大切な、尊いひとり子を、このようにあざけり、罵り、十字架につけた事を、子自身がなだめた言葉である。
もし皆さんが父親で、愛する独り子が、邪悪な者達にあざけられ、罵られ、十字架に釘付けにされたなら、一体どうするだろうか。すぐに飛んでいってその者達を打ち倒し、子を救い出すのではなかろうか。
しかしイエス様は、父をなだめた。彼らをお赦し下さい、何をしているのか自分で分かっていないから、と。
全人類は、自分が何をしているのか分かっていない。神に対して、御子に対して、どんなに無礼を働き、自分自身に災いを積み重ねているか。しかしイエス様は十字架上で、全ての人のため執り成して下さった。
この時、彼を十字架につけているユダヤ人も、ローマ兵も、一緒になってイエス様を罵っている強盗も、そして、後に生まれてくる世界の人々、すなわち、私達も含め、全ての人がこの時、執り成されたのである。
確かにこの時、全人類は執り成されたのだが、それで全ての人が自動的にパラダイスに入れる訳ではない。
パラダイスに入れるのは、自分の罪を悔い改めて、イエス様を主とした人である。

イエス様が十字架上で語られた言葉の二つ目は、「よく言っておくが、あなたはきょう、わたしと一緒にパラダイスにいるであろう」(ルカ23:43)である。
これは、イエス様と共に十字架につけられている強盗に語られた言葉だ。死刑執行中の重罪人である。
パラダイスという、彼のような罪人は到底入る望みの無い、いや、入ってはならない所に、入る権利が与えられる事の宣言だ。なぜそのような大逆転が彼に与えられたのか。それは悔い改めと信仰告白の故である。
彼は、自分が今受けている苦しみは、自分の罪の当然の報いで、イエス様は罪なきお方だと告白した。
そしてイエス様は、彼と同じく、死刑の真っ最中で、あと数時間で死ぬはずなのに、その先の話をしている。
なんと、十字架刑という最高の苦しみと恥辱の死の向こう側で、イエス様は栄光の御国の座に着くというのだ。つまり彼は、イエス様は、生死を越えた王であると認め、告白したのだ。
そして、「私の事を思い出してください」と言ってイエス様に個人的に関わって欲しい事を申し出た。
これが、イエス様と共にパラダイスに入れる人の特徴である。

十字架上の言葉の 三つ目は、イエスの母マリヤと、愛する弟子のヨハネへ語られた言葉、「婦人よ、ごらんなさい。これはあなたの子です。」「ごらんなさい。これはあなたの母です。」である。
イエス様は、血の繋がった母マリヤに対して「婦人よ」と声をかけている。まるで血のつながった母ではないかのように。そして、これまた血の繋がっていないヨハネに、マリヤを「あなたの母です」と定めている。
キリストの血は、血の繋がっていない聖徒同士を、主にある兄弟姉妹を、血の繋がり以上の繋がりとするものであり、隔ての壁を打ち壊す。そのようにして、キリストの血によって結ばれた者たちは、もはや異国人でも旅人でもなく、天の国籍の者であり、聖徒であり、神の家族である。(エペソ2:11-20)
『このキリストにあって、建物全体が組み合わされ、主にある聖なる宮に成長し、そしてあなたがたも、主にあって共に建てられて、霊なる神のすまいとなるのである。』(エペソ2:21-22)
イエス様は十字架上で、このように産みの苦しみをされ、そして私達は赦され、癒され、聖徒とされ、神の家族、聖なる国民とされたのだ。私達は決して、イエス様の十字架上での苦しみを軽んじてはならない。

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
十字架を負って(ルカ23:26-27):右クリックで保存

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
イエス様を先生と呼ぶか主と呼ぶか(マタイ8:18-22):右クリックで保存

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
虚しい労苦に満ちた生き方(伝道者の書2:18-26):右クリックで保存

【概要】

今日のメッセージは、伝道者の書2章18節から26節を通して、人生の労苦とその虚しさについて考えます。ソロモンの経験を通して、神様抜きの労苦がいかに虚しいかを学び、キリストにあって働くことの意義を見出します。

【聖書箇所】

伝道者の書2章18節から26節

【慰めの言葉】

イエス様が共にいるならば、どんな労苦も無駄ではなく、慰めと喜びに満ちたものとなります。

【励ましの言葉】

キリストにあって働くことは、命を育む働きであり、永遠の価値を持つものです。

【戒めの言葉】

神様抜きでの労苦は虚しいものであり、後に残るのは絶望だけです。

【勧めの言葉】

キリストを中心にして働き、後継者たちに良きものを譲り渡すことを喜びとしましょう。

【悔い改めの促しの言葉】

神様を忘れ、自己中心的に生きてきたことを悔い改め、キリストに立ち返りましょう。

【***詳細***】

今日、私たちがいただく御言葉は、伝道者の書2章18節から26節です。この箇所では、ソロモンが人生の労苦を振り返り、その虚しさを嘆いています。「私は、火の下で骨折った一切の老苦を憎んだ。後継者のために残さなければならないからである。」(伝道者の書2:18)とあります。ソロモンは、自分が知恵を尽くして得たものが、後に愚かな者に渡ることを憂いています。

ソロモンの後継者であるレハブアム王は、民の重税を軽くするように求められましたが、彼はそれを拒み、さらに重くしました。その結果、イスラエルは北と南に分裂し、争いが続きました。このように、愚かな後継者に渡ることの虚しさをソロモンは感じていたのです。

しかし、私たちはキリストにあって、労苦は無駄ではないことを知っています。「たとい私が、あなた方の信仰の備え物と、礼拝とともに、注ぎの備え物となっても、私は喜びます。」(フィリピン人への手紙2:17)とパウロは言いました。彼は、自分の労苦が他者の信仰を育むことを喜びとしました。

私たちも、キリストにあって働くことは、命を育む働きであり、永遠の価値を持つものです。ソロモンは、「人には食べたり飲んだりし、自分の老苦に満足を見出すより他に何も良いことがない。」(伝道者の書2:24)と言いましたが、キリストにあって飲み食いすることは、命の喜びに満ちたものです。

イエス様は、「私はあなた方に自分で労苦しなかったものを刈り取らせるためにあなた方を使わせました。」(ヨハネ4:38)とおっしゃいました。私たちは、イエス様が成してくださった良き業を受け継ぎ、他者に譲り渡すことができます。

【結論】

ソロモンのように、神様抜きでの労苦は虚しいものです。しかし、キリストにあって働くことは、命を育む働きであり、永遠の価値を持つものです。私たちは、キリストを中心にして働き、後継者たちに良きものを譲り渡すことを喜びとしましょう。アーメン。

礼拝説教メッセージ音声:いつでも敗者復活のある恵み(申命記30:1-10):右クリックで保存

29章では、御声に聞き従わず、御言葉を守り行わない者達が受ける呪いが、示されていた。
物を手から放したら床に落ちるよに、そのような者が呪いを受けるのは、法則である。
そして同時に、御声に聞き従い御言葉を守り行う人には、幸いな祝福が与えられる事もまた法則である。
幸いな事に、一度不従順によって呪いに陥ってしまった人であっても、悔い改めて立ち返るなら、再び幸いが与えられるというのも、また、法則である。

『わたしがあなたがたの前に述べたこのもろもろの祝福と、のろいの事があなたに臨み、あなたがあなたの神、主に追いやられたもろもろの国民のなかでこの事を心に考えて、あなたもあなたの子供も共にあなたの神、主に立ち帰り、わたしが、きょう、命じるすべてのことにおいて、心をつくし、精神をつくして、主の声に聞き従うならば、あなたの神、主はあなたを再び栄えさせ、あなたをあわれみ、あなたの神、主はあなたを散らされた国々から再び集められるであろう。』(申命記30:1-3)
ひと度罪を犯し主に反逆したら、もう未来永劫赦されない、敗者復活は無し、というものではない。
主は、人がいかに御言葉に反逆しても、立ち返って悔い改めるなら、再び憐れんで下さり、御言葉を守り行う者としての祝福を返してくださるのだ。

『たといあなたが天のはてに追いやられても、あなたの神、主はそこからあなたを集め、そこからあなたを連れ帰られるであろう。あなたの神、主はあなたの先祖が所有した地にあなたを帰らせ、あなたはそれを所有するに至るであろう。主はまたあなたを栄えさせ、数を増して先祖たちよりも多くされるであろう。』(申命記30:4-5)
自分の罪の故に、どんなに遠く最果ての地に追いやられたとしても、また、どんなに時間が経っていたとしても、万軍の主が熱心をもって憐れみを成し遂げて下さる。(イザヤ37:22)
その事は、現在のイスラエルを見れば、主は本当にそうして下さるお方である事が理解できる。

現在存続しているイスラエルは、およそ2000年前、ローマ帝国に攻撃を受け、そこの人々は、世界各地に散り散りにされてしまい、イスラエルという国家は、事実上、消滅したはずなのに、なんと、およそ2000年の時を経て、再びその土地に、イスラエルという国が復活したのだ。
そのような驚くべき国は、未だかつて無かった。
まさに、永遠なる神、万軍の主ががおられ、熱心をもってその事を成し遂げた、としか、言いようが無い。
その事を為して下さった真実な神は、今まさに生きておられ、なんと、この私達に関わって下さり、イエスキリストを信じる信仰を通して、神の民としての幸いと祝福の人生へと導いて下さるとは、なんという幸い、なんという恵みだろうか。

『そしてあなたの神、主はあなたの心とあなたの子孫の心に割礼を施し、あなたをして、心をつくし、精神をつくしてあなたの神、主を愛させ、こうしてあなたに命を得させられるであろう。』(申命記30:6)
割礼とは、ユダヤ人のしるしとして生後8日目に男子の包皮の肉を削ぎ落とす事であるが、そのような肉体的な割礼よりも、むしろ心の割礼のほうが重要であり、それはユダヤ人だけでなく、現代を生きる私達にも必要な事である。
『というのは、外見上のユダヤ人がユダヤ人ではなく、また、外見上の肉における割礼が割礼でもない。かえって、隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、また、文字によらず霊による心の割礼こそ割礼であって、そのほまれは人からではなく、神から来るのである。』(ローマ2:28-29)

私達には、心の割礼こそ必要である。
というのは、心に罪や肉の覆いがかかっているなら、神の国の事柄がさっぱり理解出来ないため、聖徒たちが交わりの中で、御言葉に感動し、喜びを分かち合っていても、何が面白いのか、何をそんなに感動しているのか、さっぱり分からず、一人だけ恵みに入れずに、置いてけぼりをくらってしまうからだ。
だから、御言葉が理解できないとするなら、また、神の国の事柄が分からないとするなら、心の覆いが取りのけられるよう、主キリストに求めるべきである。
主キリストこそ、私達に、心の割礼を施して下さるお方である。

『あなたがたはまた、彼にあって、手によらない割礼、すなわち、キリストの割礼を受けて、肉のからだを脱ぎ捨てたのである。あなたがたはバプテスマを受けて彼と共に葬られ、同時に、彼を死人の中からよみがえらせた神の力を信じる信仰によって、彼と共によみがえらされたのである。
あなたがたは、先には罪の中にあり、かつ肉の割礼がないままで死んでいた者であるが、神は、あなたがたをキリストと共に生かし、わたしたちのいっさいの罪をゆるして下さった。神は、わたしたちを責めて不利におとしいれる証書を、その規定もろともぬり消し、これを取り除いて、十字架につけてしまわれた。そして、もろもろの支配と権威との武装を解除し、キリストにあって凱旋し、彼らをその行列に加えて、さらしものとされたのである。』(コロサイ2:11-15)

さて、イスラエルは確かに、奇跡的に国が再興しているが、以下のモーセの預言は、まだ完全に成就していない、と言える。
『あなたの神、主はまた、あなたを迫害する敵と、あなたを憎む者とに、このもろもろののろいをこうむらせられるであろう。しかし、あなたは再び主の声に聞き従い、わたしが、きょう、あなたに命じるすべての戒めを守るであろう。そうすればあなたの神、主はあなたのするすべてのことと、あなたの身から生れる者と、家畜の産むものと、地に産する物を豊かに与えて、あなたを栄えさせられるであろう。』(申命記30:7-8)

イスラエルは2014年現在、ここに記されている程に祝福されていないし、むしろ今、イスラエルを憎む国々に囲まれて危機的な状況にある。
それは、イエスをメシヤとして受け入れておらず、正当な信仰に立っていないからだ。
しかし、やがて、ここで示された預言が成就する時が来る。
『すなわち主はあなたの先祖たちを喜ばれたように再びあなたを喜んで、あなたを栄えさせられるであろう。これはあなたが、あなたの神、主の声に聞きしたがい、この律法の書にしるされた戒めと定めとを守り、心をつくし、精神をつくしてあなたの神、主に帰するからである。』(申命記30:9-10)

イスラエルがかたくなにされているのは、異邦人の救いの成就する時まで、であり、そうして後、全てイエスを主とする人は、イスラエルも、全世界の民族も、皆、救われるのである。(ローマ11章)
イスラエルは今、かたくなな心の故に、呪いを受けているが、彼らは私達にとって、霊的に、長男の国である。
長男が好き勝手にいたずらした所を、親に打ち叩かれ、懲らしめを受け、それを弟達が見ていて恐れおののき、正しく歩み、懲らしめを免れているかのように、イスラエルのかたくなさの故に、私達異邦人は、彼らにあって恩恵に預かっているのだ。
だから私達は、イスラエルが一日も早く、かたくなさを捨て去り、救われるよう執り成し祈るべきである。

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