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礼拝説教メッセージ音声:執り成しの祈り(申命記9:22-29):右クリックで保存
モーセは、民はホレブばかりでなく、その他の場面においても主に逆らってきた事を、思い起こさせている。
『あなたがたはタベラ、マッサおよびキブロテ・ハッタワにおいてもまた主を怒らせた。』(申命記9:22)
タベラで、民は主の耳につぶやいたために、主の火が燃えあがって宿営の端が焼かれ(民数記11:1)、マサでは、「主はわたしたちのうちにおられるかどうか」と言って主を試み(出エジプト記17:7)、キブロテ・ハッタワでは、民がエジプトをなつかしんで肉が食べたいと泣き言を言ったために、主は圧倒的な分量のうずらを与えたが、欲望に駆られた者は、激しい疫病に打たれて死に、そこは「欲望の墓(キブロテ・ハタアワ)」と呼ばれるようになった(民数記11章)。
『また主はカデシ・バルネアから、あなたがたをつかわそうとされた時、『上って行って、わたしが与える地を占領せよ』と言われた。ところが、あなたがたはあなたがたの神、主の命令にそむき、彼を信ぜず、また彼の声に聞き従わなかった。わたしがあなたがたを知ったその日からこのかた、あなたがたはいつも主にそむいた。』(申命記9:23-24)
40年前に12人の斥候を遣わした時、民は斥候の報告に恐れをなし、主が「行け」と命じられているのに、逆らって「戻ろう」と言い出した。
自分と相手とを見比べて計算はするけれど、主がおられる事は度外視して、主に期待しない事、それは、主へのそむきである。
それで四十年の荒野の放浪が確定してしまったのだ。
『そしてわたしは、さきにひれ伏したように、四十日四十夜、主の前にひれ伏した。主があなたがたを滅ぼすと言われたからである。』(申命記9:25)
モーセには、こんな民のために、四十日断食する義務も無いだろうに、と思えるのに、それでもなお、彼は執り成した。
霊的な親という立場であるなら、そのような事もある。
いかに、面倒を見ている相手がわがままで、聞かず屋であろうとも、その人の救いのために、あえてその人から、打たれ通し・与え通しとなる事がある。
その時は辛いかもしれないが、主に喜ばれる事である。なぜなら主は、誰一人滅びる事を望んでおられず、その人が立ち直って、救われて欲しいからだ。
そして、その人が立ち直ったのなら、その人からは、それこそ永遠に感謝されるであろう。
以下のモーセの執り成しの祈りは、注目に値する。
もし、皆さんが、誰か執り成し祈りたい人がいるなら、「あなたの民」を、その人の名前に置き換えて祈ってみると良い。
『わたしは主に祈って言った、「主なる神よ、あなたが大いなる力をもってあがない、強い手をもってエジプトから導き出されたあなたの民、あなたの嗣業を滅ぼさないでください。あなたのしもべアブラハム、イサク、ヤコブを覚えてください。この民の強情と悪と罪とに目をとめないでください。
あなたがわれわれを導き出された国の人はおそらく、「主は、約束した地に彼らを導き入れることができず、また彼らを憎んだので、彼らを導き出して荒野で殺したのだ」と言うでしょう。しかし彼らは、あなたの民、あなたの嗣業であって、あなたが大いなる力と伸ばした腕とをもって導き出されたのです。』(申命記9:26-29)
モーセの祈りの中には、イスラエルの民がかわいそう、とか、彼らにはこれこれの良い点があります、など、イスラエルの何かを根拠に、イスラエルを弁護する言葉は、一切、無い。そもそも、人の側には、主に喜ばれるような根拠は、何も無いのだ。
だから彼は、イスラエル人の「何か」を元に執り成す事はせず、「主がどのようなお方であるか」という点を突いて、神にイスラエルを執り成したのである。
実際、この短い祈りの中で「あなた」という言葉が言葉が6回も出て来る。そう、あくまで主語は、主なのだ。
主は真実で、栄光をお受けになるべきお方。
だから、主ご自身が人々から嘲られるような事をするなどとんでもない。
だから、あなたのその真実にかけて、イスラエルを憐れんで下さい、アブラハムに約束されたその真実にかけて、その約束を覚えて下さい、と。
そのように、主の真実を、主の約束された御言葉を盾にして祈る祈りは、有効である。
主の御心は、誰ひとり罪の内に滅びず、救われる事である。(エゼキエル18:23,31-32、ヨハネ3:16)
それで主は、破れ口に立って、執り成して祈ってくれる人を、求めておられる。(エゼキエル22:30)
私達も、使わされた場において、執り成し祈る者として、神と人との間に立ち、日々祈るべきである。
アダム - 人 - の成り立ち (創世記2:7-9)
第一礼拝・礼拝全体音声(韓国語通訳有한국어예배):右クリックで保存
第二礼拝・礼拝説教音声:右クリックで保存
週報/メッセージ(説教)概要:右クリックで保存
「人」はヘブル語で「アダム」と発音し、人類最初の人の個人名も、そして、人類自体を言う時も、同じアダムという言葉で表す。この、アダムの成り立ちを見る時、人類全体の成り立ちをも、知る事が出来る。
『主なる神は「土(アダマ)」のちりで人を形造り、「命(カイ)」の「息(ネシャマ:霊、風)」をその鼻に吹きいれられた。そこで「人(アダム)」は「生きた(カイ)」「者(ネフェシュ:たましい)」となった。』(創世記2:7)
つまり、人間の元々の成り立ちは、陶器師の手で形作られた器のように、土を素材として神の御手によって形作られた「体」と、神の息を素材とし吹きこまれた「霊」と、神の息が吹き込まれた結果生成した「たましい」の、3要素から成っている事が分かる。体と霊と魂、それが、人間の構成要素である。
それ故、人類は、土を元に体を形作って下さった神から、そして、いのちの息を吹き込んで下さった、霊の大元であられる神から離れて生きる存在ではない。現在、神を知らない人たちが神から離れて歩んでいる有り様は、あたかも、人格の死んだゾンビが、目的もなく、ただ欲求の赴くままに破壊活動したり、互いを喰い合ったりしているようなものである。(何故そうなってしまったのかは後述)
神に由来するものは「いのち(カイ:命、生の、新鮮な、力強い)」である。土のちりを由来とする「人」に、神由来のいのちの息が吹き込まれると、それは、活発で、新鮮な、いのちの活動をするようになるのだ。
『主なる神は、見て美しく、食べるに良いすべての木を土からはえさせ、更に園の中央に「命(カイ)」の木と、善悪を知る木とをはえさせられた。・・・主なる神は人(アダム)を連れて行ってエデンの園に置き、これを耕させ、これを守らせられた。』(創世記2:9,15)
主なる神は、人が働き生活するべき領域である「園」に、アダムを置き、彼にそこを耕し、守り、管理させたのと同様に、私達も、主が置いて下さった場を、正しく守り、管理するように定められている。
そして、主が置いて下さった私達の働きの場、私達の生活ステージの中央には、2種類の木がある。
すなわち、神が由来である「命の木」と、神から離れ自立して生きる「善悪を知る木」の二つが。
人類なら誰しも必ず通らざるを得ない「二者択一」がある。すなわち、いのちの木を取るか、それとも善悪の知識の木を取るか。それは、人類創造以降、全ての人が避けて通れない究極の二択である。
究極の二択というと、「善か悪か」と思われやすいが、そうではない。聖書が提示する究極の二択とは、神由来のいのちにあって生きるか、それとも、神から独立し自分で善悪判断して生きるかだ。
神である主は、人(アダム)に、一つのルールを授けられた。
「あなたは園のどの木からでも心のままに取って食べてよろしい。しかし善悪を知る木からは取って食べてはならない。それを取って食べると、きっと死ぬであろう。」(創世記2:16-17)
神は、善悪の知識の木から食べる事を、禁じられた。それを食べるその時、必ず死ぬためだ。
結果的にアダムはそれを食べたが、その瞬間に心臓が止まって死んだわけではなく、相変わらず生き続けていた。では、神はウソの脅しをしていたのか?そうではない。人はその時、確かに、死んだのだ。
何が死んだのか?それは、神のいのちの息である「霊」が、である。
神を認知し神と交わりをする器官である「霊」が死んだ人間は、神を離れ、ちりである「体」と、霊が吹き込まれた時の名残である「魂」とをやりくりし、自分で善悪判断をしながら生きていかなくてはならなくなった。
それ故、人は、ゾンビのごとく、目的もなくただ欲求の赴くまま破壊したり、喰い合ったりしているのである。
以上のように、人(アダム)の組成は、元々土のちりであるが、人は元々、この土の器に計り知れない宝を、すなわち、神の息であるいのちの霊を入れる存在として、創られていたのである。
そして、人の生活ステージには、二つの選択肢が置かれている。いのちを選ぶか、善悪判断を選ぶか。
善悪の木にしがみつき、ぶら下がって生きる生き方は、呪い以外の何物でもなく、やがてちりに帰るのみである。しかし、自分で善悪判断する事を捨て去り、いのちなる神に従って生きる時、この土の器の中に、全能なる神由来の、新鮮で力強い、永遠のいのちのともしびが灯るのである。
新鮮な、力強い、いのちの木。それは、イエス・キリストの十字架以外の何物であろうか。私達は最初のアダムとしての生き方は十字架につけ、第二のアダムであるキリストにあって生きるのである。(1コリ15:45)
礼拝説教メッセージ音声:主に逆らった罪の数々も思い起こせ(申命記9:7-21):右クリックで保存
『あなたは荒野であなたの神、主を怒らせたことを覚え、それを忘れてはならない。』(9:7a)
主がイスラエルに、カナンの良い地を得させて下さるのは、あなた方が正しいからではない、と、モーセは三回繰り返した。むしろイスラエルは、主に逆らい通しで、うなじのこわい(頑なな)民だ、と指摘し、イスラエルが今までいかに主に逆らい、主を怒らせてきたかを、詳細に思い起こさせている。
私達も、自分が主に逆らって来た数々を思い返し、その過去と正面から向き合う事は、有益である。
自分がいかに、主の御前に醜い事をして来たか、どんな迷惑を、神と人とに為して来たかを、真正面から見つめ、それを悲しみ、悔い、もう二度と神と人とを悲しませる事をすまい、と決心するのだ。
自分がして来た、悪しき事の数々にも関わらず、主は、いかに良き事をして来てくださったのか。
それを知れば知るほど、私達は、自分に与えられた冠は、全て主の御前に投げ出し、ただ、主にひれ伏す以外には無い事を、知るのである。
自分がして来た恥ずべき事を、指摘されるのを嫌がったり、そこから話題を逸そうとしたり、あるいは、指摘している人のほうを逆に訴え、攻め立てる者がいるが、そのような人は、いつまで経っても恵みの深みに入る事は出来ず、呪われた生き方から脱却出来ない。
自分の罪と向き合う事をしないから、罪は相変わらず手付かずのまま残ったままで、その罪が神との隔ての壁となり、祝福の窓は、閉じられたままだからだ。
アダムやカインが、神様から罪を指摘された時、自分の罪を認めるのではなく、逆に神を訴え、それによって呪いが確定してしまったように、罪を認めず、逆に、神や人を訴え出るのは、呪いとさすらいと拒絶を受けるべき性質である。
『あなたがたはエジプトの地を出た日からこの所に来るまで、いつも主にそむいた。またホレブにおいてさえ、あなたがたが主を怒らせたので、主は怒ってあなたがたを滅ぼそうとされた。わたしが石の板すなわち主があなたがたと結ばれた契約の板を受けるために山に登った時、わたしは四十日四十夜、山にいて、パンも食べず水も飲まなかった。』(申命記9:7-9)
モーセはまず、四十年前、イスラエルがホレブ山のふもとで、主を怒らせる事をしたのを思い起こさせた。
モーセは主から契約の板をいただくために、四十日四十夜断食し、主に求めた。
それなのに民ときたら、モーセが早く無事に山から戻ってくるのを祈るのでもなく、あのモーセという者がどうなったか分からないから、私達のために、先立っていく神々を作ってくれ、と、アロンに頼んだ。(出エジプト記32:1)
『そしてわたしが見ると、あなたがたは、あなたがたの神、主にむかって罪を犯し、自分たちのために鋳物の子牛を造って、主が命じられた道を早くも離れたので、わたしはその二枚の板をつかんで、両手から投げ出し、あなたがたの目の前でこれを砕いた。』(申命記9:16-17)
契約の石板は、あまりに「聖」であり、罪ある人間が、その前に立つなら、たちまち「聖」に打たれて死んでしまう。
サムエルの時代、多くの人が石の板を、そのまま見てしまった故に死んでしまったし(1サムエル6:19)、ウザは、契約の箱が倒れそうなのを、手で押さえただけなのに、容赦なく打たれて死んだ。(2サムエル6章)
モーセが主からいただいた石の板に、真っ先に書かれてあった事は、十戒の第一戎、「あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない。」、その次に書かれてあるのは第二戎「あなたは自分のために、刻んだ像を造ってはならない」である。
民は早くも、それらを破ってしまった。
この聖なる石板が、むき出しのまま、罪を飲み食いしている彼らの前にあらわれたとしたら、彼らはたちまち打たれ、誰も残らなかった事は、容易に想像出来る。
だから、モーセが石板を割ったのは、怒りに任せてというより、民を憐れみ、主に執り成すためだったのではなかろうか。
『そしてわたしは前のように四十日四十夜、主の前にひれ伏し、パンも食べず、水も飲まなかった。これはあなたがたが主の目の前に悪をおこない、罪を犯して主を怒らせたすべての罪によるのである。主は怒りを発し、憤りを起し、あなたがたを怒って滅ぼそうとされたので、わたしは恐れたが、その時もまた主はわたしの願いを聞かれた。』(申命記9:18)
モーセは民のために執り成すために、再び四十日四十夜、主の前にひれ伏し、パンも食べず、水も飲まなかった。
イエス様も、悪魔の試みを受けるために荒野へ出て行き、四十日四十夜、パンも食べず、水も飲まなかった。
荒野の民は、誘惑されもせずに、四十日で堕落してしまったが、イエス様は、人として悪魔の誘惑を受け、人として悪魔に勝利した。
それによって、イエス様は私達に、悪魔に勝利する術を、手本として示して下さった。すなわち、御言葉の剣による勝利の方法である。(マタイ4章)
誘惑に遭った時は、歯を食いしばって誘惑を耐えても、無意味である。
その時は、私達もイエス様のように、御言葉の剣を差し出す事によって、悪魔に勝利出来るのだ。
私達は、人間的ながんばりによって誘惑に勝つのではない。御言葉を信じ、信仰をもってそれを宣言する事によって、誘惑と悪魔とに勝利するのだ。
礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
言葉の行き先と出所元(1コリント14:6-19):右クリックで保存
礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
山上の説教 - 主の祈り2(マタイ6:9-15):右クリックで保存
礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
千年の懲役と千年の支配(黙示録20:1-6):右クリックで保存
礼拝説教メッセージ音声:私達が正しいからではない(申命記9:1-6):右クリックで保存
イスラエルが、これから攻め込もうとしている地は、イスラエルよりも大きく、強い国々である。
そして、彼らの親の世代から『アナクの子孫の前に、だれが立つことができようか』と言われるのを、彼らは子供の時から聞かされていた。(申命記9:1-2)
不信仰な親によって、「できっこない」という否定的な思考パターンが刷り込まれているとしたら、それは、祝福への歩みの、大きな妨げととなってしまうものであるが、モーセの次の言葉は、その強力な刷り込みを打ち破らせる。
『それゆえ、あなたは、きょう、あなたの神、主は焼きつくす火であって、あなたの前に進まれることを知らなければならない。主は彼らを滅ぼし、彼らをあなたの前に屈伏させられるであろう。主があなたに言われたように、彼らを追い払い、すみやかに滅ぼさなければならない。』(申命記9:3)
信仰をもって進む時、戦うのは私達ではなく、主である。
主が焼きつくす火となって先んじて進み、主が戦い、主が勝利して下さるのだ。
だから私達も、いかに親から、不信仰で否定的な言葉の刷り込みがあったとしても、私達自身が主に信頼し、前進するなら、そうした、強烈に植えられたマイナスなものは、あっけない程簡単に打ち破られ、今まで勝てなかった敵に勝利し、今まで入れなかった領域に、入って行けるようになるのである。
そうなるためには、私達自身が実際、信仰によって一歩踏み出す必要がある。
契約の箱をかつぐ祭司が、水いっぱいたたえているヨルダン川へと、一歩足を踏み入れたら、川は堰き止められて行ったように(ヨシュア記3章)、主の御業は、私達の信仰と共に働くものであるからだ。
「アナクの子孫の前に、だれが立つことができようか」と言った、あの、四十年前の不信仰世代のように、恐れて退くなら、荒野の四十年の放浪が、前途に待ち構えている。
『わたしの義人は信仰によって生きる。もし、恐れ退くなら、わたしのこころは彼を喜ばない。私たちは、恐れ退いて滅びる者ではなく、信じていのちを保つ者です。』(ヘブル10:38-39)
しかし、私達がもし信じて、主の御心に従って行くなら、主の御業は必ず為され、必ず祝福が待っている。
『あなたの神、主があなたの前から彼らを追い払われた後に、あなたは心のなかで『わたしが正しいから主はわたしをこの地に導き入れてこれを獲させられた』と言ってはならない。この国々の民が悪いから、主はこれをあなたの前から追い払われるのである。』(申命記9:4)
主がイスラエルを勝利させて下さるのは、イスラエルが正しいからではない。
その地の先住民が、邪悪なためだ。
これらの国々は、アブラハムの時代からずっと、何百年も悪を行っており(創世記15:16)、ついには、主の憐れみの期間が尽きてしまったため、主はこれらの国々を、イスラエルを用いて、滅ぼすに任されたからだ。
『あなたが行ってその地を獲るのは、あなたが正しいからではなく、またあなたの心がまっすぐだからでもない。この国々の民が悪いから、あなたの神、主は彼らをあなたの前から追い払われるのである。これは主があなたの先祖アブラハム、イサク、ヤコブに誓われた言葉を行われるためである。』(申命記9:5)
モーセは同じ事を、繰り返して言っている。
あなたがその地を得られるのは、あなたがたが正しいからではなく、心がまっすぐだからでもない、と。
むしろ、彼らがその良き地を得る事が出来る、もう一つの理由は、彼らの先祖アブラハム、イサク、ヤコブの、信仰の故である。
親の代が信仰をもって主に仕えるなら、確かに、その人自身も、その子・孫も、祝福される。
ただし、もし子や孫の世代が、主に逆らうのであれば、その世代は、確かに呪われてしまう。
『それであなたは、あなたの神、主があなたにこの良い地を与えてこれを得させられるのは、あなたが正しいからではないことを知らなければならない。あなたは強情な民である。』(申命記9:6)
モーセは、これで三度、同じ事を繰り返して言った。「あなたが正しいからではない」と。
むしろ、あなた方は強情である、本来なら、こんな良い目を見させられるには値しない者達だ、と。
私達も同じだ。
罪ある人間である私達は、本来、主の愛を受けるに値せず、主の憐れみや恩恵にあずかれるに値しない者である。
それなのに、主は私達を愛し、憐れみ、救って下さった。
それはただ、神は愛であられるからだ。
私達が正しいからでも、他より優れているからでは、決してないのだ。
主は、自分を正しいとするような傲慢な人は、放って置かれる。
むしろ、自分は救いを必要としている罪人だという自覚のある人を、救われる。
「丈夫な人には医者はいらない。いるのは病人である。『わたしが好むのは、あわれみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、学んできなさい。わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである。」(マタイ9:12-13)
礼拝説教メッセージ音声:成功した時こそ気をつけよ(申命記8:11-20):右クリックで保存
『あなたは、きょう、わたしが命じる主の命令と、おきてと、定めとを守らず、あなたの神、主を忘れることのないように慎まなければならない。あなたは食べて飽き、麗しい家を建てて住み、また牛や羊がふえ、金銀が増し、持ち物がみな増し加わるとき、おそらく心にたかぶり、あなたの神、主を忘れるであろう。』(申命記8:11-14a)
モーセがここでも再度注意しているように、私達は、成功したり、富が増し加わった時こそ、最も気をつけるべきである。
アブラハムは、主がエジプトから金銀や家畜をたくさん得させて、ベテルに帰らせて下さった時、彼はかつて祭壇を築いた場所で、主を礼拝した。(創世記13:1-4)
彼は、富が増し加わった時でも、主を恐れ敬い、礼拝する事を忘れなかったが、甥のロトは、富が増し加わった事が逆に災いとなってしまった。
ロトがアブラハムと共に、生まれ故郷を離れてアブラハムについて行ったのは、アブラハムが主から祝福されているのを見、何をしても祝福される彼について行くなら、祝福のおこぼれにあずかれる、と思っていたのかもしれない。
ともかくロトは、アブラハムについて行って、実際に多くの富を手に入れた。
しかし、富を手に入れた彼は、祝福の元であるアブラハムと、彼が恐れ敬っているアブラハムの神・主と共にいる事よりも、自分が、たくさん得た富の「オーナー」である事のほうを優先させ、アブラハムから離れて行き、そして、不品行の町ソドムが「主の園のように」潤っているのを見て、そちらの方に行ってしまった。
結局ロトは、主がソドムを滅ぼされる時、娘二人と、着の身着のまま、命からがら逃げる事となり、彼の財産は全て、ソドムと共に滅んでしまった。
ロトの妻も、滅んでいくソドムを見続けたままの姿勢で塩の柱となってしまい、ソドムと一緒に滅んでしまった。
だから私達も、富が増し加わった時にこそ、注意して、主から離れないようにすべきである。
『主はあなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出し、あなたを導いて、あの大きな恐ろしい荒野、すなわち火のへびや、さそりがいて、水のない、かわいた地を通り、あなたのために堅い岩から水を出し、先祖たちも知らなかったマナを荒野であなたに食べさせられた。それはあなたを苦しめ、あなたを試みて、ついにはあなたをさいわいにするためであった。』(申命記8:14b-16)
ここでもモーセが、主がイスラエルの民に具体的に何をして下さったのかを思い起こさせているように、私達も、主が何をして下さったかを、いつも思い返すべきである。
私達は主に対しても、主にある兄弟姉妹に対しても、恩知らずになってはいけない。
『あなたは心のうちに『自分の力と自分の手の働きで、わたしはこの富を得た』と言ってはならない。あなたはあなたの神、主を覚えなければならない。主はあなたの先祖たちに誓われた契約を今日のように行うために、あなたに富を得る力を与えられるからである。』(申命記8:17-18)
私の聖書の、この箇所には、ある聖徒の名前と日付が記されている。
その聖徒は当時、ある事業をしていて、その事業はあまりうまく行っていない時だったが、上記の言葉を宣言し、主が自分達を成功させて下さった暁には、決して自分の力で富を得たとは考えるまい、主が荒野のような状況で信仰を鍛えさせ、私達に富を得る力を与えて下さり、そしてついには自分達を幸せにして下さった主の導きを、決して忘れるまい、と、宣言したので、私はその信仰の告白を嬉しく思い、後の日に、この聖徒が幸いを得た暁には、「この御言葉の通り主は真実でしたね」と伝えたいと思ったので、そこに記したのだ。
実際に翌年、その事業は祝福された。
しかし残念ながら、祝福されて以来、その聖徒は、礼拝を捧げに来る事を、ぱったりと止めてしまった。
事業がだんだん衰退して行っても礼拝に来ることはなく、ほどなくしてその事業を畳み、どこかへ行ってしまった。
主を信頼し、信仰をもって御言葉を宣言するなら、主は必ず、100%、最善を為して報いて下さる。
しかし大切なのは、その後、私達が主を忘れず、当初の信仰をキープし続けていられるかである。
主に信頼して行った結果、主から幸いを頂いた、という所までの経験は、結構多くのキリスト者がしている。
しかし、その最初の信仰をキープし続けて、祝福を頂き続ける事も、同様にコンスタントにキープしていられるクリスチャンは、少数になってしまう。
『もしあなたの神、主を忘れて他の神々に従い、これに仕え、これを拝むならば、――わたしは、きょう、あなたがたに警告する。――あなたがたはきっと滅びるであろう。主があなたがたの前から滅ぼし去られる国々の民のように、あなたがたも滅びるであろう。あなたがたの神、主の声に従わないからである。』(申命記8:19-20)
英語の聖書KJVでは「ye shall surely perish. 」と、非常に強い表現である。
そうするなら、あなたは必ず、perish(突然または非業な死に方で死ぬ)と。
滅びるための手っ取り早い方法、それは、主を忘れて、他のものにより頼み、主よりもそちらを拝む事である。
全ての祝福の元である主を忘れ、他の神々、あるいは、皆さんにとって神以上に拠り頼む存在を見つけ、そちらの方に従い仕えるとしたら、必ず滅びてしまうのだ。
成功した時こそ、努めて主を思い出し、主に感謝するように、気をつける事。私達はこれを忘れないでいたい。
礼拝説教メッセージ音声:四十年の荒野の経験を忘れるな(申命記8:1-10):右クリックで保存
『わたしが、きょう、命じるこのすべての命令を、あなたがたは守って行わなければならない。そうすればあなたがたは生きることができ、かつふえ増し、主があなたがたの先祖に誓われた地にはいって、それを自分のものとすることができるであろう。』(申命記8:1)
これと同じ事は、既に、申命記4:1において、また、5:32-33や、6:1-3において、繰り返し命じられている。
主の命令には必ず報いがある。
それを守って行うなら、いのちを得て、いのちが増し加わり、主が誓われた地に入り、それを自分の所有とすることが出来るが、主の命令を軽んじ、守り行わないなら、主が誓われた地から吐出され、死と呪いの実を刈り取る事になるため、モーセは繰り返し命じているのである。
『あなたの神、主がこの四十年の間、荒野であなたを導かれたそのすべての道を覚えなければならない。それはあなたを苦しめて、あなたを試み、あなたの心のうちを知り、あなたがその命令を守るか、どうかを知るためであった。』(申命記8:2)
主は確かに、私達に苦しい所を通らせる事がある。
それは、私達を試み、私達の心の内にあるものを、あらわにするためである。
主は、私達の心の内を全てご存知であるから、わざわざそんな事する必要は無いのでは、と思うかもしれないが、もし、私達がまだ悪い事を「行って」いないのに、心の内で悪い事を思った、という咎で罰されるとしたら、それは不当だ、と叫ぶだろう。
しかし、もし私達が実際に行った事によって裁かれるとしたら、それは正当な裁きであり、私達は何の言い訳も出来ない。
主は、行いの実によって報いをされるお方である、と書かれてある。
『心はよろずの物よりも偽るもので、はなはだしく悪に染まっている。だれがこれを、よく知ることができようか。「主であるわたしは心を探り、思いを試みる。おのおのに、その道にしたがい、その行いの実によって報いをするためである」。 』(エレミヤ17:9)
だから私達は、口先だけでなく、行いによって良き実を結び、主イエスにあって歩み、悪い実を結ばせないよう、心構えしておくべきなのだ。
『それで主はあなたを苦しめ、あなたを飢えさせ、あなたも知らず、あなたの先祖たちも知らなかったマナをもって、あなたを養われた。人はパンだけでは生きず、人は主の口から出るすべてのことばによって生きることをあなたに知らせるためであった。』(申命記8:3)
イスラエルの民は四十年、荒野で苦しみ、試みられ、そうして主は、人はパンによって生きるのではなく、神の御口から語られる御言葉に生きるという事を、教育された。
そして、イエス様が四十日、荒野で苦しみ、試みにあわれた時、試みる者に対して主が真っ先に突きつけた御言葉の剣が、『人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きる』である。(マタイ4:4)
人間ではない獣は、パン(食物)だけで生きているであろう。しかし人には、主の息吹が宿っている。
神の口から出るすべてのことばこそ、人には必要であり、誘惑する者に対しても、この言葉を突きつける事によって、私達は獣とは違う事を宣言するのである。
『この四十年の間、あなたの着物はすり切れず、あなたの足は、はれなかった。あなたはまた人がその子を訓練するように、あなたの神、主もあなたを訓練されることを心にとめなければならない。』(申命記8:4-5)
主は、神の民が、ぼろぼろの古い服をまとって、みずぼらしくしている様を、主の敵に見せるようなお方ではない。
主は私達を敵の前で油を注ぎ、装わせて下さるお方だ。
「天はやがて煙のように消え失せ、地は衣のように古びる。しかし、主の義はとこしえに続く」と、イザヤ51:6-8に記されている通り、服は元々、古びるものである。
しかし、神の民の衣は古びなかった、という事は、神の民は、決して古びる事の無い主の義を着ている事を、あらわしている。
『あなたは食べて飽き、あなたの神、主がその良い地を賜わったことを感謝するであろう。』(申命記8:10)
私達は満ち足りた時こそ、感謝すべきである。
主の御言葉によって生きるべき事を忘れず、末永く幸いと祝福に歩む皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!
礼拝説教メッセージ音声:勝って兜の緒を締めよ(申命記7:17-26):右クリックで保存
『あなたは心のうちで『これらの国民はわたしよりも多いから、どうしてこれを追い払うことができようか』と言うのか。彼らを恐れてはならない。あなたの神、主がパロと、すべてのエジプトびととにされたことを、よく覚えなさい。すなわち、あなたが目で見た大いなる試みと、しるしと、不思議と、強い手と、伸ばした腕とを覚えなさい。あなたの神、主はこれらをもって、あなたを導き出されたのである。またそのように、あなたの神、主はあなたが恐れているすべての民にされるであろう。』(申命記7:17-19)
私達は、目の前に敵がいたり、実際に問題が起きてそれと戦わなくてはならない時、何かと恐れに捕われ主を忘れやすいが、その時こそ、主が今まで為して下さった良き事を、思い起こすべきである。
ダビデも「わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。」と、自らの心に言い聞かせ、信仰を奮い立たせた。
皆さんは、今までの人生で、主に信頼して失望させられた事は、あっただろうか。
もし、主に失望させられた、という思いがあるとしたら、よく思い返してみると、荒野での40年の放浪の原因を作ったあの世代のように、実は、自分が主に信頼しておらず、手前勝手な行動を取って、荒野の放浪のような実を刈り取っている事に対して、主に逆恨みしているだけだったりする。
主はいつでも、いつまでも、真実である。
モーセは今一度、民に「恐れてはならない」と言っている。
そして、主が良くして下さった事を忘れるな、主が敵に対して恐るべき御業を働かせて、救いだして下さった事を思い起こせ、と言っている。
主が良くしてくださった数々を数えるなら、「この問題も、主が必ず最善へと導いて下さる」と希望が湧いて来て、そして実際、その通りになるのだ。
『あなたの神、主はまた、くまばちを彼らのうちに送って、なお残っている者と逃げ隠れている者を滅ぼしつくされるであろう。』(申命記7:20)
私達が戦う時、主も共に戦って下さり、勝利を与えられる。
そればかりでなく、私達が取り逃がした敵さえ、主がくまばちを送って、滅ぼし尽くして下さる。
私達は思う。主がはじめからくまばちで一気に滅ぼし尽くしてくれればいいのに、と。
しかし、人生で為すべき物事の全ては、主とのコラボレーションであり、私達自身が実際に信仰を働かせ、主に命じられた通りに出て行き、主とともに勝ち取る必要があるのだ。
『あなたの神、主はこれらの国民を徐々にあなたの前から追い払われるであろう。あなたはすみやかに彼らを滅ぼしつくしてはならない。そうでなければ、野の獣が増してあなたを害するであろう。』(申命記7:22)
私達は、目の前にいる敵や、問題課題に対しても、主が今すぐ目の前から滅ぼし尽くし、なくして下さればいいのに、と思うかもしれない。
しかし、そうされないのに理由がある。
それは、滅びるべき敵が一気に滅びる事によって環境も一気に変わり、私達や周辺環境を害する「別の敵」がはびこる事の無いためだ。
主と共に歩むならば、勝利がある。しかし、勝利した場合にこそ、もっとも気をつけるべき事がある。
『あなたは彼らの神々の彫像を火に焼かなければならない。それに着せた銀または金をむさぼってはならない。これを取って自分のものにしてはならない。そうでなければ、あなたはこれによって、わなにかかるであろう。これはあなたの神が忌みきらわれるものだからである。あなたは忌むべきものを家に持ちこんで、それと同じようにあなた自身も、のろわれたものとなってはならない。あなたはそれを全く忌みきらわなければならない。それはのろわれたものだからである。』(申命記7:25-26)
私達は成功した時、勝利した時こそ、注意しなければならない。
実際、ヨシュア記において、強固な城塞都市エリコの大勝利の直後に、イスラエルの内に油断が生じ、アカンによる失敗があった。(ヨシュア記7章)
イスラエルが主に従順し、指導者であるヨシュアに言われた通りを、守り行った時、いかにエリコという城塞都市が強大であろうとも、犠牲者は一切出なかったようである。
しかし、自分達の身内にいる、アカンの「むさぼり」によって、実際に三十六名という犠牲者が出た。
私達が主に従順する時、主の敵は、敵とは言えない。
主が必ず勝利を与えて下さるからだ。
敵とはむしろ、私達の内にいる。それは、むさぼりであり、主に従順しない心である。
私達は、それまで手にした事の無かったような、富を手にした時、力や権力を手にした時、今まで知らなかった誘惑もまた存在する事を、忘れてはならない。
ダビデは羊飼いであった時、まさか自分が将来、人妻を手に入れたいがために、その夫を激戦区に行くよう命じ、敵の手で謀殺するなどとは、考えもしなかっただろう。
勝利した時、富を手にした時、力や権力を手にした時こそ、まさに、気をつけるべきである。
モーセはそのために、前もってしっかりと戒めを与えたのだ。
私達も、主から戒めを受ける時、祝福の地に入る準備が、ますます整えられて行くのだ。
