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災いの日が来ない内に(伝道者の書12:1-8):右クリックで保存
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礼拝説教メッセージ音声:申命記概要(申命記1:1-4):右クリックで保存
『これはヨルダンの向こうの荒野、パランと、トペル、ラバン、ハゼロテ、デザハブとの間の、スフの前にあるアラバにおいて、モーセがイスラエルのすべての人に告げた言葉である。』(申命記1:1)
申命記は、ヘブライ語では「デヴァリーム」、「これらはことばである」という意味である。古代ユダヤでは、書物の冒頭の単語をタイトルとして使っているため、そのような名前となっている。
日本語題の「申命記」は「繰り返し命じる」という意味で、それは、イスラエルがカナンに入る直前にモーセが繰り返し律法を命じているためだ。
モーセは、申命記でよく命じている。「聞け」と。
神がいかにイスラエルを愛し、いかに導いて来たか。
また、神を愛して生きる事が、いかに幸いであるか、神に反逆して生きる事が、いかに災いであるかを、繰り返し説いている。
申命記を概略的に見ると、1章から4章までの所では、荒野での日々を振り返っており、民がいかに反逆して歩んできたか、その結果、どんな災いが与えられて来たかを、繰り返し述べている。
5章から26章の所では、主が与えられた十戒や律法を再確認しており、そして、27〜30章では、従順と不従順の二者択一、すなわち、祝福とのろいの二者択一を迫っている。
ことに、従順しなかった場合の呪いについては、とても詳細に記している。なぜそんなにも、呪いの結果を詳細に教えるか。それは、その道を歩ませないための、愛ゆえの戒めである。
31章以降は、モーセの告別のメッセージであり、後継者ヨシュアへの助言と、将来起こる事の預言的な歌、各部族への祝福、そして、モーセの死で終わる。
エジプトを出てきた民が通らされた荒野を、学校にたとえるとしたら、出エジプト記では教科書の基礎を学び、レビ記では応用的な学科を学び、民数記は卒業するための実技試験で、そして、申命記は卒業式における校長の最後のメッセージと言える。
『ホレブからセイル山の道を経て、カデシ・バルネアに達するには、十一日の道のりである。第四十年の十一月となり、その月の一日に、モーセはイスラエルの人々にむかって、主が彼らのため彼に授けられた命令を、ことごとく告げた。』(申命記1:2-3)
イスラエルの民はおよそ40年前、神の山ホレブで、律法の教科書である十戒が授けられ、そこで詳細な学科を一年学んだ。
そして第二年目の二月二十日、雲があかしの幕屋から離れて上り、イスラエルはシナイの荒野を出て旅立って行った。(民数記10:11-12)
そこからカデシュ・バルネアまでは、わずか十一日で行ける距離。
なのに、なんと、三十八年以上もかかってしまった。
なぜなら、彼らはカデシュ・バルネアでの卒業試験をかなりまずく行い、面接官である主に、度重なる無礼と反逆を繰り返したため、その反逆の世代が死に絶えるまでの、およそ三十九年もの「留年」が課せられてしまったからである。
不従順な世代が死に絶え、いよいよ荒野という学校の卒業を控えた今、四十年もの長きに渡って導いてきた校長・モーセによる卒業メッセージが、この申命記である。
卒業式では、良く語られる。これから皆さんは社会に出て、それぞれの道を歩み出す。これからは、ここで学んだ事をしっかりと握りしめて、自立した大人として歩みなさい、と。
そう、荒野での養育を受けたイスラエルは、これから信仰的に自立した歩みしていかなくてはならない。
続くヨシュア記以降が、その記録であるが、残念ながら、良い歩みをしたとはあまり言えない。
学校と社会とでは評価基準が真逆になる。学校では、いかにインプットしたかで評価されるが、社会では、いかにアウトプットしたか、すなわち、何を行ったか、どんな成果を残したかが評価される。
同じように、信仰の歩みも、インプットしたからにはアウトプットしなければならない。
御言葉が与えられたなら、それを実践し、信仰の結果を勝ち取って行く事が、要求される。御言葉をただ知っている、だけでは、ゆるされないのだ。
ヨシュア記以降、まさに、信仰を持って大胆に進み出た人達は大きな結果を残し、御心に反して自分勝手を行った者は滅んで行った。
学校を卒業したら、学生時代には無い「自由さ」がある。
しかし、その自由を自堕落な事に用い続けて年月を過ごすなら、取り返しの付かない事になってしまう。
同じように、この地上での信仰者の歩みは、自由である。実に、御心を裏切る自由さえもあるが、その結果も必ず刈り取る事になる。
『まちがってはいけない、神は侮られるようなかたではない。人は自分のまいたものを、刈り取ることになる。すなわち、自分の肉にまく者は、肉から滅びを刈り取り、霊にまく者は、霊から永遠のいのちを刈り取るであろう。』(ガラテヤ6:7-8)
与えられている自由を、肉に用いて滅びを招くか、それとも霊に用いて永遠のいのちを勝ち取るかは、皆さんの選択にかかっている。
天国は、自律的に神を愛し、神に愛される行いをする者だけが居る所である。
神を愛する事とはなにか、神を愛さない事とはなにか、この申命記から、しっかり学びたい。
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殺人と等しい罪:兄弟姉妹を憎む事(マタイ5:21-26):右クリックで保存
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大淫婦と聖徒(黙示録17章):右クリックで保存
礼拝説教メッセージ音声:相続地を絶やさぬために(民数記36:1-13):右クリックで保存
いよいよ民数記最後の章である。
出エジプト記とレビ記が、主から与えられた学科であるとするなら、民数記は、実技試験の記録であった。
主の山・ホレブで律法が授けられ、礼拝から日常生活に至るまでの多岐にわたる学びを受け、いざ、これから主が約束された地に向かって編隊を組み、意気揚々と出発し始めたのが、民数記のはじめであった。
しかしイスラエルの民は、その実技試験をかなりまずく行い、面接官である主の御前に度重なる無礼なふるまいを続けた。
それで、その世代の者たちは約束の地に入る資格無しとされ、子の世代は、荒野での余計な38年の放浪生活を通らされてしまった。
信仰生活において、荒野の放浪に陥ってしまう原因は、「不信仰」である。
遡る事38年前、カデシュ・バルネアにおいて、主が与えると示された地に、いざ入ろうとしている時に、民は「その地には行けない」「そこの住民たちは我々を食いつくす民だ」「エジプトへ帰ろう」と言い出し、モーセ達に石を投げつけようとさえした。
主は、民の不信仰や御怒りを引き起こす度々の振る舞いを、幾度も赦し、憐れみを注いできたのに、民はことごとくモーセの執り成しや主の憐れみを踏みにじり、つぶやきを止めなかったため、ついにその世代は、荒野で滅ぶようにされたのである。
不信仰な世代が死に絶え、その子にあたる世代は、失敗を繰り返しながらも、着実に主に従う事を学び、良き性質へと変えられてきた。
(詳細: http://voice.of.christ.yokohama/modules/d3blog/details.php?bid=1654&cid=35 )
このような所を経て、これからいよいよカナンの地に入ろうとしているこの時期、民数記の最後の記述は、ゼロペハデの娘たちに関するマナセ族の訴えと、それに対して主が応えている場面で終わっている。
『イスラエルの人々に、その嗣業の地をくじによって与えることを主はあなたに命じられ、あなたもまた、われわれの兄弟ゼロペハデの嗣業を、その娘たちに与えるよう、主によって命じられました。その娘たちがもし、イスラエルの人々のうちの他の部族のむすこたちにとつぐならば、彼女たちの嗣業は、われわれの父祖の嗣業のうちから取り除かれて、そのとつぐ部族の嗣業に加えられるでしょう。こうしてそれはわれわれの嗣業の分から取り除かれるでしょう。
そしてイスラエルの人々のヨベルの年がきた時、彼女たちの嗣業は、そのとついだ部族の嗣業に加えられるでしょう。こうして彼女たちの嗣業は、われわれの父祖の部族の嗣業のうちから取り除かれるでしょう」。』(民数記36:2-4)
すなわち、ゼロペハデの娘達のように、父親が娘しか生まなかった場合、彼女たちが結婚して嫁いで行くとしたら、子々孫々へと受け継いでいかなくてはならない先祖代々の相続地が、嫁ぎ先の部族のものとなってしまい、そこで途絶えてしまう。
それでは不服だ、という訴えである。
主は、御言葉に沿った正当な訴えは、喜んで聞いて下さる。
『モーセは主の言葉にしたがって、イスラエルの人々に命じて言った、「ヨセフの子孫の部族の言うところは正しい。ゼロペハデの娘たちについて、主が命じられたことはこうである。すなわち、彼女たちはその心にかなう者にとついでもよいが、ただその父祖の部族の一族にのみ、とつがなければならない。そうすればイスラエルの人々の嗣業は、部族から部族に移るようなことはないであろう。イスラエルの人々は、おのおのその父祖の部族の嗣業をかたく保つべきだからである。」』(民数記36:5-7)
このような場合は、自分の父祖の部族としか結婚できない、という「制限」があるかもしれない。
しかし、結婚相手の選別は、自分の好みによって行ってはならない。
主の約束と御言葉を優先させるべきなのだ。
結婚相手を自分の好みで選ぶと、大体良くない事が起きる。ノアの時代はそれでネフィリムが誕生し、サムソンはそれで身を滅ぼした。
人間の「好き」という感情は、良いもののように見えて、実は当てにならないし、何より自己中心的な感情である。
結婚相手の選別において優先すべきは、主の御心であり、主からいただくべき地をしっかりと受け継いで、それを子々孫々へと相続できるかどうか、である。
それが望めない結婚は、最初からしないほうが良い。
イスラエルの民にとって、約束の地を継ぐ権利は、最優先で守られるべき権利であり、父祖の部族の相続地は、結婚などの理由によっても、決して他に譲ったりしてはならない。
神の民である私達も、同じ価値観である。
私達が死守すべきは「天の御国を受け継ぐ権利」であり、それは結婚などによって決して奪われてはならない。
もし妻が、あるいは夫が、主の御言葉にも、天の御国にも一切興味を示さず、世において罪を飲み食いし続ける事に固持するなら、その結婚は、どんなに苦々しいものであろうか。
子を霊的に健全に育てるのに、どんなに苦労するだろうか。
民数記でのイスラエルの失敗は、主の御言葉や約束よりも、自分の好む所に従って歩もうとした事にあった。
自分達の欲望を貫かんとするために、主のさとしを跳ね除け、神とモーセに逆らい続けた民は、荒野で屍をさらし、死に絶えてしまった。
見える所によらず、見えない信仰によって歩む人、主が与えて下さると約束して下さった、その約束に従って歩む人こそ幸いである。
この民数記の終わりが、相続地を絶やさぬためには、結婚相手を選びなさい、という命令で終わっているのは、実に興味深い。
荒野での余計な歩みをせず、約束にかなった結婚し、子供達に天の御国を継がせる皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!
礼拝説教メッセージ音声:土地を汚す者(民数記35:16-29):右クリックで保存
故意に、あるいは一時の激情によって人を殺した人の死刑を求刑するには、一人の証言のみでは有効ではない。二人以上の証人が必要である。(民数記35:30)
二人または三人の主の御名の集いの内に、主がおられ、そこで御名によって宣言される事は、神と人との前で宣言されるのである。
新約においても、兄弟姉妹の誰かが罪を犯したなら二人または三人でさとし、それでも言って聞かないなら教会に告げ、それでも聞かないなら、その者を交わりから断つべき事を、主は言われている。(マタイ18:15-17)
『よく言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天でも皆つながれ、あなたがたが地上で解くことは、天でもみな解かれるであろう。また、よく言っておく。もしあなたがたのうちのふたりが、どんな願い事についても地上で心を合わせるなら、天にいますわたしの父はそれをかなえて下さるであろう。ふたりまたは三人が、わたしの名によって集まっている所には、わたしもその中にいるのである。』(マタイ18:18)
また、人のいのちを故意に奪う罪については、お金を幾ら積んでも、誰であろうと、見逃してはならないと主は定めている。(民数記35:31)
もし、人のいのちを奪う事が金銀で解決するなら、お金を持つ者なら、いくら人のいのちを奪ってもお咎めなし、という事になってしまう。
主の御前には、「カネがあれば何でも許される」は通用しないのだ。
人のいのちを取ったら、その人のいのちで償うのが原則である。
また、故意にではなく不慮に人のいのちを奪ってしまった場合、その人は逃れの町に逃れる事になっているが、その場合も、お金では解決できず、その時の大祭司が死ぬまで、逃れの町から出る事は許されない。(民数記35:32)
大祭司の死以外には、幾ら支払っても自由になる術は無い、というのは、まことの大祭司キリストの十字架以外に、罪と死からの贖いはありえないのと同じである。
『あなたがたはそのおる所の地を汚してはならない。流血は地を汚すからである。地の上に流された血は、それを流した者の血によらなければあがなうことができない。あなたがたは、その住む所の地、すなわちわたしのおる地を汚してはならない。主なるわたしがイスラエルの人々のうちに住んでいるからである。』(民数記35:33-34)
不当に血が流された土地は、汚れる、と書いてある。
罪なき人が不当に流された血は、神に叫び訴えるからだ。
カインは、正しくない礼拝をして神に受け入れられなかったが、アベルは正しい礼拝をして神に受け入れられた。カインはその事を憤り、御前に顔を伏せた。
彼は、門口で彼を待ち伏せ恋い慕っている罪を支配せず、かえって罪を飲み込み、怒りと妬み、嫉妬の激情に、身も心も委ね、弟アベルを殺してしまった。
『主はカインに言われた。「お前の弟アベルは、どこにいるのか。」カインは答えた。「知りません。わたしは弟の番人でしょうか。」主は言われた。「何ということをしたのか。お前の弟の血が土の中からわたしに向かって叫んでいる。今、お前は呪われる者となった。お前が流した弟の血を、口を開けて飲み込んだ土よりもなお、呪われる。土を耕しても、土はもはやお前のために作物を産み出すことはない。お前は地上をさまよい、さすらう者となる。」』(創世記4:9-12)
主は、カインのした事をご存知だった。しかし、あえて彼の口で告白させるために、「お前の弟アベルは、どこにいるのか。」と問うた。
カインはこの主が与えて下さった機会を、罪を告白して悔い改める事に用いるべきだったのに、「知りません」と答え、そればかりでなく「わたしは弟の番人でしょうか。」と、主にたてをつく言葉さえ吐いた。
カインの特徴は、自分が手を下して死んでしまったアベルを見ても何とも思わず、また、兄弟姉妹に対し一体何をしてしまったかに、何ら心配らず、全能者の前におそれる事もなく、うそをつき、たてをつく性質である。
そのような者は、呪われ、人々からも忌み嫌われ、どこにも居場所が無くなって、さすらい人となるのだ。
全てを見ておられる神は、侮られるようなお方ではない。
自分の為した結果と、神の前で告白した言葉の報いは、きっちりと、受けるのだ。
不当に流された血は、その土地を汚す。
同じように、性的不品行もその土地を汚し、それを行った者どもは、土地から吐き出される。(レビ記16:24-30)
人殺しも、性的不品行も、「いのち」を汚す行為であり、土地に呪われ、土地から吐出される元となる行為なのだ。
私達は、主に対し、あるいは人に対して罪を犯した時は、すみやかにそれを告白し、悔い改め、兄弟姉妹に損害を与えたなら、その償いをするべきである。
そうして赦していただき、主と、兄弟姉妹との、光の交わりに速やかに戻って、楽になるべきである。
『神が光の中にいますように、わたしたちも光の中を歩くならば、わたしたちは互に交わりをもち、そして、御子イエスの血が、すべての罪からわたしたちをきよめるのである。もし、罪がないと言うなら、それは自分を欺くことであって、真理はわたしたちのうちにない。もし、わたしたちが自分の罪を告白するならば、神は真実で正しいかたであるから、その罪をゆるし、すべての不義からわたしたちをきよめて下さる。』(1ヨハネ1:7-9)
礼拝説教メッセージ音声:復讐者とのがれの町(民数記35:16-29):右クリックで保存
主から与えられた律法を見ると、現代の日本国憲法とはずいぶん違うと思う。
律法によれば、鉄や石、木製などの器物で人を打って死なせた場合は、必ず死刑である。(民数記35:16-19)
『血の復讐をする者は、自分でその故殺人を殺すことができる。すなわち彼に出会うとき、彼を殺すことができる。またもし恨みのために人を突き、あるいは故意に人に物を投げつけて死なせ、あるいは恨みによって手で人を打って死なせたならば、その打った者は必ず殺されなければならない。彼は故殺人だからである。血の復讐をする者は、その故殺人に出会うとき殺すことができる。』(民数記35:19-21)
故殺とは、故意に人を殺すこと、また、一時の激情によって殺意を生じ人を殺す事(デジタル大辞泉)であり、そのような悪意や殺意をもって故殺した人への復讐は、主が許している。
そこには、未成年者の場合はどうとか、その時の精神状態とか、責任能力が云々とかは、一切なく、意図的に人を打って死なせたなら「必ず殺されなければならない」と主は定めている。
このは、現代日本を生きる私達が見ると、随分厳しすぎるように思えるかもしれない。
しかし私達は、日本国憲法の中で育まれた現代の常識や民主主義や人権思想を基準にして、神様が定めた律法を、評価したり、批評したりする立場にはない。
私達・神を主とする者が取るべきスタンスは、その逆である。
すなわち、神様が定めた法のほうを基準とし、それを元にして、現代の常識や思想のほうを、評価すべきである。
現代日本は、ゲームやメディアの影響を受けて、ずいぶんと手軽に殺人をする傾向にあり、親が子を殺したとか、子が親を殺したとか、一昔前なら大事件にもなるような記事が、平気な顔をして毎日登場する。
それは、現代日本が、主のスタンダードから離れた所にあるからに、他ならない。
もし現代日本に、この神の法が適用されたなら、人はもっと人のいのちを大切にして、殺人は随分と減るのではなかろうか。
『しかし、もし恨みもないのに思わず人を突き、または、なにごころなく人に物を投げつけ、あるいは人のいるのも見ずに、人を殺せるほどの石を投げつけて死なせた場合、その人がその敵でもなく、また害を加えようとしたのでもない時は、会衆はこれらのおきてによって、その人を殺した者と、血の復讐をする者との間をさばかなければならない。』(民数記35:22-24)
主は、意図せずに人を殺してしまった場合の温情措置も、しっかりと定めておられる。
『すなわち会衆はその人を殺した者を血の復讐をする者の手から救い出して、逃げて行ったのがれの町に返さなければならない。その者は聖なる油を注がれた大祭司の死ぬまで、そこにいなければならない。しかし、もし人を殺した者が、その逃げて行ったのがれの町の境を出た場合、血の復讐をする者は、のがれの町の境の外で、これに出会い、血の復讐をする者が、その人を殺した者を殺しても、彼には血を流した罪はない。』(民数記35:25-27)
主は、意図せず殺してしまった人は、この「のがれの町」に逃れて保護され、復讐者から守られるよう定められた。
しかし、その町から出歩いてしまっている場合は、その限りではなく、いのちが守られる保証は無い。
この定めは、罪を犯してしまう私達と、その事を訴え追い回すサタンと、キリストという「のがれの町」を用意して下さった神様との関係に似ている。
罪のとげの刺さった肉体をまとっている私達は、どうしても罪を犯してしまう。
あのパウロでさえ、罪と死の法則に縛られている自分達は、なんとみじめな人間であろう、と嘆いた。
罪と死の法則にいる間、私達は、死とのろいという復讐者にいつも追い回されるが、しかし主が定めて下さったのがれの町、「いのちの御霊の法則」へと逃れるならば、もはや安全であり、罪と死の法則に追い回される必要は無くなる。その事を、パウロは見出したのだ。(ローマ7:14-8:2)
私達も、主がその「いのちの御霊の法則」という逃れの町に逃れるなら、サタンの責め苦から守られ、安全である。
(いのちの御霊の法則に乗る方法: http://voice.of.christ.yokohama/modules/d3blog/details.php?bid=1317 )
意図せずして殺人してしまった人は、大祭司が死ぬ日まで、のがれの町でかくまわれ、大祭司が死んだ後は、自由とされるように、私達の大祭司であるキリストは、私達のために、死んで下さった。
その事を、信仰によって自分自身に適用するなら、私達は罪の責め苦から自由なのである。
栄光の家系の女達 - マリヤ1 キリストを宿す性質(マタイ1:16)
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『ヤコブはマリヤの夫ヨセフの父であった。このマリヤからキリストといわれるイエスがお生れになった。』(マタイ1:16) 今まで、マタイ一章のイエス・キリストの系図に出てくる女性に焦点を絞り、「栄光の家系の女達」のシリーズとして見て来たが、その最後の女性は、イエスの母・マリヤである。
今まで四人の女性達を見てきたが、いずれも何かしらの「訳あり」だったが、その点マリヤは、血筋においても、素養においても、申し分のない女性であった。
イエス・キリストは、どのような血筋として生まれているか。
マタイ一章の系図は、ダビデの子としてのイエスキリストの系図で、ダビデ以降バビロン捕囚までは王族が、それ以降は王族はなく一般人が連なり、最後は、イエス・キリストの(法律上の)父・ヨセフで終わっている。
しかしイエス様は、聖霊によってみごもり、処女マリヤから生まれたため、ヨセフの血は継いでいない。
継いではならない理由があるのだ。系図の中のマタイ1:11に、エコニヤの名があるが、彼と、その前の王達は、あまりに悪い事をし続けたために、主はエコニヤ以降について、以下のように仰せられている。
「この人を、子なき人として、またその一生のうち、栄えることのない人として記録せよ。その子孫のうち、ひとりも栄えて、ダビデの位にすわり、ユダを治めるものが再び起らないからである。」(エレミヤ22:30)
実際、エコニヤ以降に王は出なかった。では、イエス様は王族ではないのか?ダビデの子ではないのだろうか?いいや、ダビデの子であり王族である。
実は、ルカの福音書三章に、もう一つの系図がある。この系図は、マリヤの家系の系図であり、マタイ一章のヨセフ系図では、ダビデの子はソロモンであるが、ルカのマリヤ系図では、ダビデの子はナタン(バテ・シェバの子でソロモンの兄:1歴代3:5)となっており、それ以降のマタイとルカの系図は、分岐している。
つまり、イエスの母マリヤは、歴代の王族の家系ではないものの、れっきとしたダビデの子孫であり、そして悪に染まった王族の血を継いでもいない。つまりイエス様は、法的なヨセフの子、すなわち法的には歴代の王族の子であり、血筋としては、悪しき王達の血を継がない純粋なダビデの子孫である。
人間が王になると、必ず過ちを犯す。ダビデ王さえ、そうだった。主は元々、人間を王を立てるのは、御心ではなかった。それでも人間が王に立ったのは、人々が神を退けたからだった。(1サムエル8章)
人間の王は代々失敗し罪を重ね、エコニヤ以降、イスラエルにはもはや人間の王は立たなかった。
そこで主は、人間の王には頼らず、聖霊によって処女マリヤに宿り、生まれた神の子・キリストを真の王として立てたのだ。主に選ばれたマリヤはどのような性質であったか。主が宿られる人の性質を見てみたい。
マリヤはダビデ王の家系であるものの、ダビデはもう遠い遠い先祖であり、彼女の代にはあまり関係なかっただろう。彼女はごく普通の、どちらかと言えば貧しい家の女の子であった。そんな彼女の所に、ある日突然、御使いが現れて「おめでとう、恵まれた方」と言われた。彼女はその言葉に考え込んだ。(ルカ1:28)
彼女は、主から何かを受けた時は、それに対し口でとやかく言わず、「思い巡らす」性質の持ち主である。
御使いが羊飼いに現れ、羊飼い達が生まれたばかりの赤ちゃんイエス様に会いに来た時もそうだったし、イエス様が12歳の時、子供であるイエス様が言われた事に言い返さず、心に留め、思い巡らしていた。
御言葉に対し「でも」や「だって」を言わず、そのまま受け止め、たとえ理解できなくても、それを心に留め、思い巡らす性質は、きよい性質である。反芻する動物は、きよい(レビ記11:3)とされている。
また彼女は、主の語られた事は必ず成就すると信じ、100%受け入れる体制が整っている人である。
彼女は御使いから示された事を「わたしは主のはしためです。お言葉どおりこの身に成りますように」と言って受け止めたし、エリザベツも彼女を「主の語られた事は必ず成就すると信じ切った人」と評した。
キリストに宿られる体制が整っている人とは、御言葉を受けた時には、「でも」や「だって」は一切なく、素直に受け止め、信じ、それを思い巡らす人であって、血筋や能力、人の意欲や欲望は一切関係ない。
『言は自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。この人々は血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。』(ヨハネ1:12)
マリヤのように、素直に御言葉を受け入れ、信じ、思い巡らす、主イエスキリストが宿る性質を持つ皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!
礼拝説教メッセージ音声:レビ人の町と逃れの町(民数記35:1-15):右クリックで保存
この章は、レビ人が相続する町と、人が誤って人を殺してしまった場合に逃げ込む「のがれの町」についての主の指示である。
『イスラエルの人々に命じて、その獲た嗣業のうちから、レビびとに住むべき町々を与えさせなさい。また、あなたがたは、その町々の周囲の放牧地をレビびとに与えなければならない。その町々は彼らの住む所、その放牧地は彼らの家畜と群れ、およびすべての獣のためである。・・・
あなたがたがレビびとに与える町々は六つで、のがれの町とし、人を殺した者がのがれる所としなければならない。なおこのほかに四十二の町を与えなければならない。すなわちあなたがたがレビびとに与える町は合わせて四十八で、これをその放牧地と共に与えなければならない。あなたがたがイスラエルの人々の所有のうちからレビびとに町々を与えるには、大きい部族からは多く取り、小さい部族からは少なく取り、おのおの受ける嗣業にしたがって、その町々をレビびとに与えなければならない。』(民数記35:2-8)
イスラエル人は、神の働き人であるレビ人のために、十分の一を捧げるよう、主から命じられていたが、レビ人が住むための町も、それぞれの部族が提供しなくてはならない。
大きい部族も、小さい部族も、必ず主の奉仕者に捧げるべきであると主は命じており、それは、富めるも貧しきも、必ず罪のためのいけにえを捧げなくてはならないのと同じである。(詳細: http://voice.of.christ.yokohama/modules/d3blog/details.php?bid=1417 )
レビ人や祭司は、100%、一般の会衆が主に捧げる捧げ物によって、生活が成り立っている。
民が主に捧げ、レビ人達を養う事を止めないなら、彼らは主の奉仕に専念でき、神と民との関係が健全に保たれるが、民が捧げる事を止めてしまうと、レビ人達は主の宮を手放して自分達の農地に逃げるしかなくなり、神の宮はおろそかにされ、民全体が祝福を受けられなくなってしまう。(ネヘミヤ記13:10)
この事は、現代を生きる私達にとっても同じである。
捧げる人には、幸いと祝福が増し加わり、捧げない人は、わずかな刈り取りしか出来ない事は、昔も今も変わりないのだ。
また、意図せず人を殺してしまった人が逃れるための町についても、主は命じておられる。
『主はモーセに言われた、「イスラエルの人々に言いなさい。あなたがたがヨルダンを渡ってカナンの地にはいるときは、あなたがたのために町を選んで、のがれの町とし、あやまって人を殺した者を、そこにのがれさせなければならない。これはあなたがたが復讐する者を避けてのがれる町であって、人を殺した者が会衆の前に立って、さばきを受けないうちに、殺されることのないためである。』(民数記35:9-12)
この「のがれの町」は、レビ人が住む町の中から、合計六つ提供しなくてはならない。
これは、人が誤って人を殺してしまった場合の、主からの温情措置であり、自分が意図せずして人を傷つけたり、恨まれてしまったりする事への、保険的意味合いもある。
いかにキリスト者であっても、人には罪があり、弱さがあり、また無知の故に、意図せずして人を傷つけてしまう事がある。
神と人の間に立つレビ人の町の中から、逃れの町が提供されたように、キリスト者の中で、意図せずに人を傷つけてしまった人も、神の奉仕者の所へ逃れて来て、匿われる権利がある。
そして、私達がどうしても罪を犯してしまい、サタンがそれを訴え攻め立てる時、私達は、イエス・キリストという逃れの岩に逃げ込み、匿われる事が出来る。
主がのがれの町を定め、イスラエルからそのような町を提供するよう命じられたように、私達も憐れみを受けるために、常日頃、私達の内から憐れみの余地を差し出しておくべきである。